藤村『異鄉人』中的繪畫 ─夏凡諾的〈貧窮的漁夫〉所發揮之機制─
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(2) 28 台大日本語文研究 30. A Study on the Pictures in Toson Shimazaki’s Étranger : Focusing on the Machenism of. Chevannes’s The Poor. Fisherman. Fan, Shu-wen *. Abstract As most people knows, Toson Shimazaki committed adultery with his niece( the second daughter of his second brother ) , Komako, who helped him with housework after his wife passed away.. To escape from. confrontations, he left Komako and his children behind, and fled to France along in April 1913.. His life abroad ended in April 1916 , when. Toson went back to Japan, and tried to figure out a solution for the relationship.. Afterwards, Toson decided to publish the episode in his. new novel, and told publics about his incestuous affair, which is called “the Sinsei event”. After the Sinsei event went public, Toson started another new work called É tranger, which is regarding his thoughts and 3-year life in France.. In other words, the contents of É tranger could be deemed as. his escape from the incestuous affair, and therefore, bought him some time and space to figure out the final solution. In Toson’s time, France is a promised land for all artists. spirits of art could be felt all over the count ry.. The. The main character of. É tranger, Kishimoto( who actually implies Toson himself ) , kept close *. P ro fessor, Dep ar t men t o f Japanese Languag e and Literature, Natio nal Tai wan University.
(3) 藤村の『エトランゼエ』に眠る絵画 29. relationships with many artists.. Among those descriptions, the artist. Chevannes and the scenes that Kishimoto appreciated his art works are with certain implications.. This study focused on the implications of. this artist, and expected to figure out how Chevannes’s most famous work, The Poor Fisherman, helped Kishimoto solve the Sinsei event , and eventually find his way home.. Keywords: Toson Shimazaki, É tranger, Shinsei Event, Chevannes, The Poor Fisherman, Machenism.
(4) 30 台大日本語文研究 30. 藤村の『エトランゼエ』に眠る絵画 ―シャヴァンヌ作「貧しき漁夫」のメカニズム― 范淑文*. 要旨 周知のとおりに、島崎藤村は妻の死後、家事の手伝いに来た次兄 広助の次女こま子と不倫関係を持ち、その不倫がもたらした苦悩か ら 逃 れ よ う と 、 大 正 2 ( 1913) 年 4 月 に こ ま 子 及 び 子 供 た ち を 残 し て フ ラ ン ス へ 渡 っ た の で あ る 。 そ の 後 、 大 正 5( 1916) 年 4 月 に 帰 朝した藤村は、一つの生きる道を開こうとし、こま子との関係を清 算するつもりで書くことを通して世間に公開した。 この「新生事件」の公表後、執筆した『エトランゼエ』は、旅立 ちから、その後の三年間のフランスでの生活振りや心境が描かれて い る 。言 い か え れ ば 、 『 エ ト ラ ン ゼ エ 』は 不 倫 の 苦 悩 か ら 逃 れ 、洋 行 し、そこで次の生きる道を藤村が見出そうとしていた時間と空間の 物語と見なすことができる。 さて、藤村の旅先であるフランスといえば、当時画家たちの憧れ の地であり、芸術の雰囲気が漂う国であることは言うまでもない。 『エトランゼエ』には、藤村自身がモデルとなった岸本の色々な画 家との交流などが多く描写されている。その中でも、シャヴァンヌ の名や彼の作品を見に行ったことへの言及が目だつ。このように画 家シャヴァンヌへの言及や彼の最も有名な絵画「貧しき漁夫」は藤 村にのしかかる「新生事件」の解決にどのような役割を果たしてい るか、などを明らかにし、それを通して岸本の心境、また生きる道 にどのようにつながっていったのか、などの問題点の解明を本稿の 主旨とする。 *. 台湾大学日本語文学系教授.
(5) 藤村の『エトランゼエ』に眠る絵画 31. キ ー ワ ー ド:島 崎 藤 村 、 「 新 生 事 件 」、シ ャ ヴ ァ ン ヌ 、 「 貧 し き 漁 夫 」、 メカニズム.
(6) 32 台大日本語文研究 30. 藤村の『エトランゼエ』に眠る絵画 ―シャヴァンヌ作「貧しき漁夫」のメカニズム― 范淑文. 一、はじめに 周知のとおり、島崎藤村は妻の死後、家事の手伝いに来ていた次 兄広助の次女こま子と不倫関係を持ち、その不倫がもたらした苦悩 か ら 逃 れ よ う と 、 大 正 2 ( 1913) 年 4 月 に こ ま 子 及 び 子 供 た ち を 残 し て フ ラ ン ス へ 渡 っ た の で あ る 1 。所 謂「 新 生 事 件 」の 処 理 の 一 環 だ と 思 わ れ る 。 そ の 後 、 大 正 5( 1916) 年 4 月 に 漸 く 三 年 の 海 外 生 活 に ピ リ オ ド を 打 ち 、帰 朝 し た 藤 村 は 、一 つ の 生 き る 道 を 開 こ う と し 、 こま子との関係を清算するつもりで書くことを通して世間に公開し た 。 大 正 7 ( 1918)年 、 5 月 1 日 よ り 10 月 5 日 ま で 『 新 生 』第 一 部 を『朝日新聞』に連載し、更にフランス滞在期間中の体験を題材に した作品を次々と発表した。 『 エ ト ラ ン ゼ エ 』は 、後 の 大 正 11( 1921) 年 9 月 に 春 陽 堂 か ら 出 版 さ れ た 。つ ま り 、 『 エ ト ラ ン ゼ エ 』の 執 筆 は 「 新 生 事 件 」が 公 表 さ れ た の ち に 、取 り 組 ん だ こ と に な る 。こ の『 エ トランゼエ』は、日本を旅立った時点から後の三年間のフランスで の 生 活 振 り や 心 境 な ど が 描 か れ て い る 。ま た 、一 部 の 内 容 が『 新 生 』 と重なっている点から鑑み、 『 エ ト ラ ン ゼ エ 』に 描 か れ て い る 作 者 藤 村 を モ デ ル と す る 主 人 公 岸 本 2 に と っ て 、フ ラ ン ス で の 三 年 の 生 活 は 、 文字通り彼が次の生きる道を見出そうとする時間であり、空間でも あ っ た 。と な れ ば 、 『 エ ト ラ ン ゼ エ 』に は 主 人 公 岸 本 が 自 己 救 済 の た めに生きる道を見出そうとするそのプロセス、或いはそのストラテ ジーを考えていた状況が語られていることは言うまでもないであろ. 1. 瀬 沼 茂 樹 『 評 伝 島 崎 藤 村 』( 1 981 .1 0.15 筑 摩 書 房 ) を 参 照 。. 2. 第 一 人 称 で は な く 、第 三 人 称 と い う 手 法 で 主 人 公 を 新 た に 岸 本 と 定 め た の は 、. 自己をより客観的に見つめるため物語の外部の視点より眺めるという便宜を図 った可能性が考えられるのであろう。.
(7) 藤村の『エトランゼエ』に眠る絵画 33. う。 さて、藤村の旅したフランスといえば、当時画家たちにとっての 憧れの地であり、芸術の雰囲気が漂う国であることはよく知られて いる。 『 エ ト ラ ン ゼ エ 』に は 、主 人 公 岸 本 が 泊 ま っ て い た 下 宿 に 日 本 人画家が住んでいたり「 、国から来て巴里に集つて居る美術家仲間に は い ろ / \ な 人 が あ つ た 。そ の 中 で も 私 は 山 本 君 を 一 番 早 く 知 つ た 。」 ( 33 章 P187) や 、「 さ う し た 場 所 に 集 ま つ て 見 る と 、 些 細 な 事 に 慰 められるのは私一人でも無いことが思はれた。若い美術家仲間は一 杯 の 珈 琲 や ビ ー ル な ど に 旅 の 憂 さ を 忘 れ て 居 た 。」( 37 章 P191) な どの描写があるように、色々な画家との交流のようすが多く描かれ て い る 。特 に 、19 世 紀 の フ ラ ン ス の 著 名 な 画 家 シ ャ ヴ ァ ン ヌ( 一 般 にはシャヴァンヌ、藤村の「水彩画家」にもシャヴァンヌとされて い る が 、『 エ ト ラ ン ゼ エ 』 に は 「 シ ャ ヷ ン ヌ 」 と 表 記 さ れ て い る 。) の名や彼の作品を見に行ったことへの言及は目を引く。シャヴァン ヌ の 名 は こ の 他「 水 彩 画 家 」 3 な ど の 作 品 に も 盛 り 込 ま れ て い る 。で は、画家シャヴァンヌのこのような言及を始め、彼の最も有名な絵 画「 貧 し き 漁 夫 」は 、 『 エ ト ラ ン ゼ エ 』に 、ま た「 新 生 事 件 」の 処 理 にどのような意義をもっているのか、また如何なる役割を果たして いるのか、本論ではこのような問題点を探ってみる。さらにそれら は『エトランゼエ』の主人公、岸本の心境にどのように現れている のか、言い換えれば、所謂生きる道として岸本は如何なる身辺のも のを有効に使ったのか、などの問題点の解明にもつながるものでも あ る 。な お 、考 察 の 便 を 図 る た め に 、 『 エ ト ラ ン ゼ エ 』と 内 容 が か な り重なり、主要登場人物の名も共通している『新生』を考察の対象 とする。. 3. ヨーロッパから帰朝した主人公画家伝吉が新しい住居へ昔懇意していた女性. 清 乃 を 案 内 し 、建 築 の 設 計 を 話 し て 聞 か せ る 場 面 に 、 「欧羅巴から持つて帰つた 名画の写真、それを見せるのが、第一の目的で、斯うして伝吉は清乃を誘つて 来たのであるが、さて其を取出した頃は妙に手が震へて来た。そのなかには、 シ ャ ヴ ァ ン ヌ の 新 し い 壁 画 も あ つ た 。」 と 、 シ ャ ヴ ァ ン ヌ の 画 に 言 及 し て い る 。 「 水 彩 画 家 」『 島 崎 藤 村 全 集 第 二 巻 』 19 81 .1 .20 筑 摩 書 房 P 21 7.
(8) 34 台大日本語文研究 30. 二、偶然に(?)岸本の旅先となったフランス 先 ず 、藤 村( 岸 本 ) 4 の 外 遊 の き っ か け に つ い て 、作 品 か ら 探 っ て みよう。行き先がフランスに決まったのは果して偶然と言い切れる だろうか。不倫事件やその苦悩など旅立つ前のことから語り始めた 作品『新生』には次のように描かれている。 「ねえ、君、岸本君なぞも一度欧羅巴を廻つて来ると可いね… …」客はこうした酒の上の話も肴の一つといふ様子で、盃を重 ね て 居 た 。( 中 略 )「 も し 君 が 奮 発 し て 出 掛 け ら れ る や う な ら 、 僕はどんなにでも骨を折ります……一度は欧羅巴といふものを 見て置く必要がありますよ……」 岸本は黙し勝ちに、友人の話を聞いて居た。どうかして生きたい と 思 ふ 彼 の 心 は 、情 愛 の 籠 つ た 友 人 の 言 葉 か ら 引 き 出 さ れ て 行 つ た 。 (『 新 生. 第 一 巻 』『 島 崎 藤 村 全 集 第 六 巻 』 27 章 P43) 時 々 酒 に 誘 っ. て く れ る「 元 園 町 の 友 人 」に 招 か れ た 席 上 で 、「岸 本 先 生 は 何 を 其 様 に 考 へ て 被 入 つ し や る ん で す か 。」「 奈 何 か な す つ た ん ぢ や な い か と 思ふほど蒼い顔をして被入つしやることがある……」と、店の女中 たちが言っているほど岸本は元気がなかった。数日後、その友人は そうした岸本を元気づけようとでも思ったのか再び誘い出し、上掲 のようにヨーロッパに出掛けて来い、と軽い気持ちで提案したので あ る 。し か し 「 、 私 の 様 子 は 、叔 父 さ ん に は 最 早 よ く お 解 か り で せ う 。」 「 節 子 は 極 く 小 さ な 声 で 、 彼 女 が 母 に な つ た こ と を 岸 本 に 告 げ た 。」 ( 13 章 P26) と い う 、 避 け よ う と し て い た 事 態 が ― ― 恐 れ て い た 結 果が――到頭岸本の身に訪れた。そのような、途方に暮れた――こ れ以上姪である節子と一緒にそこに住むことができない――岸本に とっては、友人のその助言が恐怖の深淵から自分を救ってくれる絶 好 な 提 案 だ と 思 え た の だ ろ う か 、そ の 宴 の 席 か ら 帰 っ て 来 た 岸 本 は 、. 4. 『 エ ト ラ ン ゼ エ 』 の み な ら ず 、『 新 生 』 に も 「 岸 本 」 と い う 名 を 用 い 、 更 に 、. 他の作品をめくってみれば、作家の自伝と思われる『春』など初期作品にも同 じく、藤村をモデルとする登場人物の名を「岸本」で統一している。.
(9) 藤村の『エトランゼエ』に眠る絵画 35. 大層明るくなっている。 何事も知らずに居る姪にまで自分の心持を分けずに居られなか つた。 「 可 哀 さ う な 娘 だ な あ 。」 思はずそれを言つて、彼ゆゑに傷ついた小鳥のやうな節子を堅 く抱きしめた。 「 好 い 事 が あ る 。 ま あ 明 日 話 し て 聞 か せ る 。」( 中 略 ) と め ど も 無く流れて来るやうな彼女の暗い涙は酔つて居る岸本の耳にも 聞 え た 。( 28 章 P44) このように、岸本は自分一人で決めた洋行が、不倫の相手である 姪にとっても「好い事」だと決めつけた。翌日、岸本は「元園町の 友 人 」に「 欧 羅 巴 」行 き を 決 心 し た 内 容 の 手 紙 を 寄 こ し た が 、 「酒の 上で言つたやうなことを、左様岸本君のやうに真面目に取られても 困 る 。」( 30 章 P45) と い う 友 人 か ら の 思 い が け な い 冷 た い 返 事 が 返 っ て き た 。更 に 、そ の 後 、そ の 友 人 が 訪 れ て 来 た 時 に 、 「何もそんな にお急ぎに成る必要は無いでせう――ゆつくりお出掛けになつても 可 い で せ う 。」( 30 章 P46) と 、 あ た か も 先 日 の 話 は 本 気 で は な か っ た か の よ う な 言 い 方 を し た 。に も か か わ ら ず そ れ を 受 け た 岸 本 は「 思 ひ立つた時に出掛けて行きませんとね、愚図々々してるうちには私 も 年 を 取 つ て し ま ひ ま す か ら 。」( 30 章 P46) と 、 一 向 に 決 心 を 変 え る様子を見せなかった。 「 こ の 旅 の 思 立 ち が 、い か に 兄 を 欺 き 、友 を 欺き、世をも欺く悲しき虚偽の行ひであるかを思はずに居られなか つ た 」( 31 章 P47) 岸 本 で は あ る が 、 節 子 の お 腹 が 目 立 つ 前 に 、 一 刻も早くそうした状況から逃れようとする強い気持ちが先走り、渡 航という目的の邪魔になるようなことや考えを一切跳ね除け、心に 決めた洋行の準備をどんどんと進めていったのであった。 洋行と「新生事件」との関連性については既に十分な研究がなさ れていることであり、それ以上新たな論考を挙げる考えはないが、 冒頭でも触れたように、物語と絵画との関わり、物語と絵画の役割 を明らかにすることが本稿の主旨であることを改めて断っておく。.
(10) 36 台大日本語文研究 30. そ の 洋 行 は こ こ ま で は「 元 園 町 の 友 人 」と の 相 談 で 、 「 欧 羅 巴 」と い う大まかな方向しか定まらなかった。しかし、いよいよ出発が迫っ て来た時、何も知らなかった二人の子供に、岸本は次のように語っ た。 「二人ともおとなしくして聞いて居なくちや不可。お前達は父 さんの行くところをよく覚えて置いてお呉れ。父さんは仏蘭西 といふ国の方へ行つて来る――」 「 父 さ ん 、 仏 蘭 西 は 遠 い ? 」 と 弟 の 方 が 訊 い た 。( 32 章 P48) ここにきて初めて「仏蘭西」とはっきり旅先が明らかになった。作 品には語られてはいないが、岸本が色々と情報を集め、また「元園 町 の 友 人 」な ど 周 り の 友 達 と 相 談 し た 上 で 、 「 仏 蘭 西 」に 決 め た 可 能 性 が 十 分 に 考 え ら れ る 。勿 論 、 「 一 切 か ら 離 れ よ う 」と す る 、彼 の 心 の底にある意図から考えれば、基本的には外国であればどの国でも 都合がよかった筈である。が、敢えて「仏蘭西」に決めたのは、当 時洋行する画家たちにとっては「仏蘭西」が憧れの地であったこと は言うまでもない。 のみならず、藤村の随筆『新片町より』には「有島君が洋画の研 究に志して遠く伊太利を指して出発せられたのは、自分が西大久保 に 居 た 頃 の こ と で あ つ た 。」 ( P36)、ま た『 後 の 新 片 町 よ り 』に は「 此 間有島壬生馬君が訪ねて来られて、絵の話にセザンのことが出た。 其 の 話 の 中 に セ ザ ン は 、草 や 木 を 描 く と 同 じ 心 持 で 人 間 を 描 い ゐ る 、 と 或 る 人 が 評 し た と 云 ふ 話 が あ つ た 。」 5 と 、 当 時 の 有 名 な 画 家 と の 交流が述べられていることから、作者藤村は何人もの画家と交流を していたのは明らかである。そのような藤村の随筆や談話では、し ばしば絵画に触れている。次の引用文はその一つである。 絵画のことは自分によく解らないが、ミレエの素材、シャヴァ ンヌの瞑想は、彷彿として自分の眼前にある。今又、セザンヌ の新しき感覚を加へた。自分は斯の画を眺めてから、日頃読ん. 5. 『 後 の 新 片 町 よ り 』『 島 崎 藤 村 全 集 第 十 巻 』 198 1.11.30 筑 摩 書 房 P1 36 、 13 7.
(11) 藤村の『エトランゼエ』に眠る絵画 37. で居る仏蘭西の小説に特別の香気を覚えた。6 藤村は絵画についてはよく解らないと述べてはいるが、これらの 随筆や「水彩画家」などの絵画を題材とする小説を見る限りでは、 少なくとも洋画についてある程度の見識があり、自分なりの嗜好を 持っていたに違いない。また随筆や「水彩画家」などの作品にシャ ヴァンヌの名がよく登場している点からみると、シャヴァンヌは藤 村 が か な り 心 を 傾 け て い た 画 家 で あ る と 言 え よ う 7。 さらに、ここで「水彩画家」を加えて論を進めてみよう。妻子が いながら、音楽家である独身の女性清乃と自由に交際している主人 公である伝吉は、母親に叱られ妻に不快を買われてもなお、次のよ うに反発をしている。 「今の世の中はをかしな癖で、男と女が交際すれば直に妙な意 味に汲る。そんな世間で言ふやうなことを、貴方が信ずるんで す か 。( 後 略 )」 「私の絵を観て呉れる人は――彼女です。言はゞ吾儕は知己な んで、男だの、女だの、そんなことは最早忘れて交際つてる。 女房があるから、女の友達に交際つては不可――家庭といふも の が 左 様 な 狭 苦 し い も の で せ う か 。」(「 水 彩 画 家 」 8 章 P222、 223) 主人公伝吉の母親に対する反発は、ヨーロッパにおける男女の交 際への一般的な世間の目――「知己」のつもりであれば性別は問わ れない――つまり、本人同士の気持ちを尊重するという自由な風潮. 6 7. 『 新 片 町 よ り 』『 島 崎 藤 村 全 集 第 十 巻 』 198 1.11.30 筑 摩 書 房 P37 沖野厚太郎は「つまり藤村は、シャヴァンヌに対し《種蒔く人》や《晩鐘》. の ミ レ ー だ と か セ ザ ン ヌ と 同 等 、あ る い は そ れ 以 上 の 高 評 価 を あ た え る 、 「シャ ヴ ァ ン ヌ 熱 」の 」 「 最 も 重 症 の 患 者 」の ど う や ら ひ と り ら し い の で あ る 。第 二 感 想集『後の新片町より』の「労働の世界」を読むと、パリのパンテオンをかざ るシャヴァンヌの壁画《聖ジュヌヴィエーヴの幼少期》を、藤村が「写真版」 で す で に 知 っ て い た こ と は ま ち が い な い 。」 と 、 藤 村 の 芸 術 評 価 を 語 っ て い る 。 沖 野 厚 太 郎「 フ ラ ン ス 第 三 共 和 制 下 の 芸 術 宗 教 ――島 崎 藤 村 と ピ ュ ヴ ィ ス・ド ・ シ ャ ヴ ァ ン ヌ ――」『 文 芸 と 批 評 』 第 11 巻 第 10 号 2 01 4.11.25 文 芸 と 批 評 の 会 P40.
(12) 38 台大日本語文研究 30. へ の 憧 れ の 現 わ れ で あ ろ う 。そ の よ う な ヨ ー ロ ッ パ の 風 潮 8 に 藤 村 が 惹かれていたことは初期の『春』などの自伝小説にも十分にうかが えよう。 すなわち、男女の交際の自由なヨーロッパ、そして画家――その 男女の交際において更に自由に振る舞う人――が集中しているフラ ンスが、不倫事件で苦悩している岸本(藤村)にとっては猶更好都 合な国とされたのではなかろうか。となれば、旅先をフランスにし たのは完全な偶然とは言い切れなくなる。. 三 、『 エ ト ラ ン ゼ エ 』 に 織 り 込 ま れ て い る シ ャ ヴ ァ ン ヌ の 絵 さて、 『 新 生 』の 主 人 公 で あ り 、ま た『 エ ト ラ ン ゼ エ 』の 主 人 公 で もある岸本の旅先がフランスになったのはその必然性からである。 言い換えれば岸本にとってのメリットはどこにあるのだろうか、そ れを考える必要がある。上述した自由な空気、画家の自由なライフ ス タ イ ル 以 外 に 、岸 本 が 画 家 た ち と よ く 付 き 合 っ た り 9 、絵 画 を 見 に 行ったりすることはどんな意識の現れなのか、次に考察してみる。 絵画の視座より考察する前に、先ず従来の『エトランゼエ』研究 を幾つか掲げておこう。 ( 1)か つ て 表 現 さ れ た 呵 責 と 罪 の 意 識 、遠 心 力 と 求 心 力 の 緊 張 関係は、ここに戦乱の異国を漂泊する不安と旅情に置き換えら. 8. 時間が少し前後をしているが、 『 新 生 』に な る と 、さ ら に そ の よ う な 自 由 な 風. 潮 が 赤 裸 々 と な る 。よ く 岸 本 の 下 宿 に 訪 ね て 来 る 岡 と い う 画 家 が 、 「二人の間に はモデルと同棲する美術家達の噂が引出されて行つた。旅に来ては仏蘭西の女 と 一 緒 に 住 む 同 胞 も 少 な く な か つ た 。」(『 新 生. 第 一 巻 』 70 章 、 P 8 8 ) と 、 自. 分の国では批判されるような乱れている生活をしている画家が少なくないこと を時々岸本に聞かせる。 9. 「小杉君が帰国の日も近づいた頃、私は地下電車でエトワアルの広場まで行. つて、凱旋門の附近に集る五人の美術家と一緒に成つた。それは巴里の郊外に あるペルラン氏の住宅にセザンヌの遺画を見るためであつた。 五 人 の 美 術 家 と は 小 杉 君 の 外 に 、満 谷 君 、小 林 君 、山 本 君 、桑 重 君 で あ つ た 。」 という一節から、岸本がフランスにいる画家とよく交流していることがよくう かがえる。 ( 42 章 、P 19 7) 『エトランゼエ』 『島崎藤村全集 筑摩書房. 第 1 0 巻 』198 1.11.30.
(13) 藤村の『エトランゼエ』に眠る絵画 39. れて、比類のない旅愁の深さの流露となり、この作品の基調を か た ち 造 る の で あ る 。 10( 下 線 筆 者 、 以 下 同 ) ( 2) 藤 村 は 一 個 の エ ト ラ ン ゼ エ と し て 、「 東 洋 人 」 と い ふ 自 覚 を抱かしめられた。巴里へ来てみてよくシナ人にまちがはれる が、東洋人としてどんな待遇をうけたか。そこから彼は自国に お け る シ ナ 人 の 位 置 を 反 省 し て ゐ る 。 11 ( 3)要 す る に 、 「 エ ト ラ ン ゼ エ 」と の 会 話 に は 、 「 私 」が フ ラ ン スに行つて掴んだ変換の兆しが集約されているのである。その 一つが内面の病気を治すための「心の革命」である。そしても う一つが、異国の学習と省察による、伝統の見直し、愛国心と 同 時 に 冷 静 に 自 分 の 国 を 見 つ め 得 る 眼 目 の 獲 得 で あ る 。 12 ( 1)に 挙 げ て い る の は 、戦 乱 の 環 境 に 身 を 置 か れ た 岸 本 が 戦 よ り 齎 された不安に囚われ、 「 新 生 事 件 」の 不 安 が そ れ に 置 き 換 え ら れ た と い う 、 山 田 晃 の 見 解 で あ る 。( 2) は 、 フ ラ ン ス で 喰 わ さ れ た 「 エ ト ランゼエ」扱いから、主人公が改めて国にいた時の自分を省察して い る と 、フ ラ ン ス 生 活 の 意 義 に つ い て の 亀 井 勝 一 郎 の 捉 え 方 で あ る 。 ( 3)は 、岸 本( 藤 村 )に と っ て の フ ラ ン ス で の 生 活 の 意 義 に つ い て 、 個人の面及び、国(伝統)というスケールの面との二つの省察だと いう、姜政均の捉え方である。姜政均が語った「愛国心」にまで果 たして至っているかは些か考える余地があるとは思うが、それ以外 の論点は主人公(或は藤村とも言える)の内面に対する省察で、戦 争からの不安によって都合よく置き換えられたという見解である。 いずれも内面を見詰める主人公の姿勢が多かれ少なかれ感じ取れる。 (一)シャヴァンヌに惹かれる岸本. 10. 山 田 晃 「 海 へ ・ エ ト ラ ン ゼ エ 」『 国 文 学. 解釈と教材の研究. 特集島崎藤村. と 日 本 の 近 代 』 4 月 号 197 1.4 學 燈 社 P 124 11. 亀 井 勝 一 郎 「 島 崎 藤 村 論 」『 亀 井 勝 一 郎 全 集 』 第 五 巻 19 74 .2 .2 0 ( 第 一 刷 り. 197 2.9.2 0 ) 講 談 社 P9 0 12. 姜 政 均 「 島 崎 藤 村 『 海 へ 』 ―「 私 」 の 内 な る 「 エ ト ラ ン ゼ エ 」 ―」『 国 文 学 解. 釈と鑑賞 月 号 P 15 5. 特 集 = 続 ・ 日 本 人 の 見 た 異 国 ・ 異 国 人 ―明 治 ・ 大 正 期 』 1999 年 1 2.
(14) 40 台大日本語文研究 30. 先行研究に言及されている内面の省察や自己への眼差しには全く 賛同する。では、それが『エトランゼエ』に語られている絵画とど のように関わっているのか、探ってみよう。 ( 1)私 は す で に パ ン テ オ ン の 中 に あ る ピ ュ ウ ヸ ス・ド・シ ャ ヴ ァ ン ヌ の 壁 画 の 前 に 立 つ て 見 た 。( 中 略 )( A) 私 は 一 人 の 少 女 の 図 の 掛 つた壁の前に行つて立つた。シャヷンヌの筆だ。同じ人の筆で、か ね て 複 製 を 見 た 時 か ら 心 を 引 か れ た (B)『 漁 夫 』の 図 が そ の 近 く に 私 を 待 つ て 居 た 。(『 エ ト ラ ン ゼ エ 』 1 3 以 下 同 。 18 章 、 P170、 171) ( 2)私 が そ こ( パ ン テ オ ン ― 筆 者 注 )へ 小 山 内 君 を 誘 つ た の は 、も とよりシャヷンヌの壁画を見るためであつたが、 ( 中 略 )パ ン テ オ ン 詣でとも言ひたい人達の中に混つて、私達はあの尼さんの生立ちを 描いた幼時の伝説の図から見て廻つた。その廻廊に上ることは私と してはもう初めてゞもなかつた。しかし私は見る度に深い静寂な心 持を経験した。 ( 中 略 )そ こ の 壁 に は 鶏 を 飼 ふ 子 供 が 居 た 。羊 の 乳 を 搾 る 女 が 居 た 。 帆 柱 に 倚 り か ゝ る 漁 夫 が 居 た 。( 中 略 ) (C)淡 い 黄 ば んだ月に対つて立つて居る晩年の尼さんの壁画の前で、しばらく私 は 旅 の 身 を 忘 れ て 居 た ( 25 章 、 P178、 179) ほかにも例えば、セザンヌなど他の画家やその作品などに触れた も の も 見 ら れ る が 14、 そ れ ら も 岸 本 の 内 省 と 最 も 深 く 関 わ っ て い る シャヴァンヌやその作品の部分に絞って以上のように関連描写を掲 げている。 ( 1)の 波 線 の 引 い て あ る 部 分 、 「私はすでにパンテオンの 中 に あ る ピ ュ ウ ヸ ス ・ ド ・ シ ャ ヴ ァ ン ヌ の 壁 画 の 前 に 立 つ て 見 た 。」 というのは、十八章の冒頭にあるパリの下宿に到着早々のころのも のである。他の画家や絵画の叙述に比べ、かなり詳らかに語られ、 13. 『島崎藤村全集. 14. 41 章 に あ る 「 私 は 山 本 君 と 一 緒 に 君 が 手 摺 に し た 小 品 を 眺 め た 。 其 中 に は 、. 第 1 0 巻 』 19 81 .11 .30 筑 摩 書 房. 船 の 欄 に 倚 り な が ら 海 を 見 る 女 の 図 な ぞ も あ つ た 。」( P 19 6) と い う 、 下 線 部 の 「海を見る女の図」という書き方からでは、シャヴァンヌの「眠るパリの街を 見おろす聖ジュヌヴィエーヴ」の画ではないかと早合点し勝ちだが、その前に ある「自分で描き自分で彫り又自分で手摺にしたといふものを私に取り出して 見 せ た 。」 と い う 説 明 で は 、 山 本 の 作 品 で あ る こ と は 明 か で あ る 。.
(15) 藤村の『エトランゼエ』に眠る絵画 41. 極めて鮮明な書き出しである点に目を向けると、語り手が抑えきれ ない、何かを読者に或は自分に強く訴えようとしている姿勢を感ぜ ずにはいられない。そのユニークな書き出し及びその次の「斯うし た黙し勝ちな旅行者の境涯から言つても、私はルュキサンブウル公 園の美術館にあるものを独りで探りに行きたかつた。そこで出掛け た 。」 ( 18 章 、P171)と い う 一 節 を 合 わ せ て 読 ん で 見 れ ば 、ま る で ず っと前から期待していた、あるいは行かざるを得ない予定が到頭、 実 現 さ れ = 現 実 に な っ て い る 語 り の よ う に 思 え る 。ま た( 2)の「 私 がそこへ小山内君を誘つたのは、もとよりシャヷンヌの壁画を見る た め で あ つ た 」 と い う 描 写 を 合 わ せ て 読 ん で い れ ば 、( 1) は 一 回 目 で 一 人 で 、( 2) は 二 回 目 で 友 人 小 山 内 と 一 緒 に 、 い ず れ も シ ャ ヴ ァ ンヌの絵を見に行ったことは明かである。 ( A) の 「 一 人 の 少 女 の 図 」 に つ い て は 、 中 島 国 彦 は 「 希 望 」 と 題したシャヴァンヌの少女図と見做し、姪節子(現実はこま子)に 擬 え ら れ て い る と 解 い て い る 15。 確 か に そ の 可 能 性 は 十 分 に 考 え ら れる。紙幅の制限で、小論では岸本の方に焦点を絞り、その内面の 省察との関連性を考察していくため、 「 一 人 の 少 女 図 」の 方 の 論 考 は 割愛する。 そ の 次 の (B)「『 漁 夫 』 の 図 が そ の 近 く に 私 を 待 つ て 居 た 。」 と い うのは、 「貧しき漁夫」 (「 貧 し き 漁 師 」と 名 付 け ら れ る の も 見 ら れ る 。) と 題 し た 絵 で あ る の は 言 う ま で も な い 。 こ の 「 貧 し き 漁 夫 」( 図 1 、 2)と題する絵は、船に漁師と赤ん坊が描かれる作品のほか、船に 漁師一人だけでその岸辺の野原には赤ん坊と花を摘んでいる女性の 姿が描かれているものなど、幾つかのバージョンが残っている。岸. 15. 「 実 は 、それ が こ こ で「一 人 の 少 女の 図 」と され て い る作 品 で あ る 。一 人 の. 裸体の少女が石垣に坐り、手に芽ぶき始めた小枝を持っているのを描いた作品 はシャヴァンヌ作品の中心系列からはずれたものと言えるが、 ( 中 略 )藤 村 の 眼 には、それは日本に残して来た姪こま子の裸体と重なって、見えたのではない か 。」と 、中 島 国 彦 が こ こ に 言 及 さ れ て い る「 一 人 の 少 女 図 」を 「 希 望 」 と 題 し た シ ャ ヴ ァ ン ヌ の 絵 だ と 見 な し 、藤 村 の 姪 こ ま 子 に 謎 得 ら れ て い る と 解 い て い る 。 中 島 国 彦 『 近 代 文 学 に み る 感 受 性 』 19 94 .1 0.2 0 筑 摩 書 房 P6 91 、 6 92.
(16) 42 台大日本語文研究 30. 本(藤村)はどのバージョンの作品を見たか知る由はないが、子供 や花を摘んでいる女性に背を向け船に茫然と立ちつくしている漁師 ――前 途 に 暮 れ て い る よ う に 見 え る 、 元 気 の な い 父 親 ――の 様 子 は どれも共通している。 そ し て 、(C)「 淡 い 黄 ば ん だ 月 に 対 つ て 立 つ て 居 る 晩 年 の 尼 さ ん の 壁 画 」と は 、 「 眠 る 街 を 見 守 る 聖 ジ ュ ヌ ヴ ィ エ ー ヴ 」と 題 し た 作 品 で あるのは明白であろう。つまり、そのようなシャヴァンヌの「壁画 の 前 で 、し ば ら く 私 は 旅 の 身 を 忘 れ て 居 た 」と い う 描 写 や 、 「あの尼 さんの生立ちを描いた幼時の伝説の図から見て廻つた」 「私は見る度 に 深 い 静 寂 な 心 持 を 経 験 し た 。」と い う さ り げ な い 、岸 本 の 心 境 の 語 り、またパリに到着早々、シャヴァンヌの絵を見に行った、などを 合わせて考えてみれば、岸本(藤村)が如何にシャヴァンヌに惹か れていたか、その絵が彼に如何に重要だったのかが、自然と浮き彫 りになってくる。 (二)我が身を「貧しき漁夫」に重ねて絵を眺める岸本 数あるシャヴァンヌの作品の中では、 「 貧 し き 漁 夫 」が 最 も 代 表 的 な絵だと思われる。パリ滞在中の岸本(藤村)にとってもこのシャ ヴァンヌの代表作「貧しき漁夫」は特別な意義があることは上掲の 引 用 文 か ら も う か が え よ う 。さ て 、こ の 絵 は 如 何 に 解 か れ て い る か 、 幾つか研究者の見解を掲げておこう。 ( a)雨 上 が り の 川 水 は 金 色 に 満 ち 溢 れ て 居 る 。野 に は 色 々 の 草 花 が 暖 い 光 を 受 け て 咲 い て 居 る 。身 に は 襤 褸 を 纏 ひ 髪 鬚 共 に 茫 々 と し た 、 然も一種の気品を備へた、見るからに原始人たる男が四ツ手網を下 して黙然とそれを注視して居る。野育ちの彼の娘は余念なく花を摘 んで居る。其の傍には裸の子が腹部に陽炎を受けて眠って居る。遥 か 水 平 線 の 彼 方 に は 暖 灰 色 の 雲 が 垂 れ て 居 る 。そ れ が『 貧 し き 漁 夫 』 の 光 景 だ 。 16 ( b)主 題 と な っ た「 貧 し き 漁 師 」に し て も 、彼 が 乗 っ て い る 粗 末 な 16. 紅 野 敏 郎 「 有 島 生 馬 の 『 セ ザ ン ヌ 』 と 斉 藤 與 里 の 『 シ ャ ヴ ァ ン ヌ 』 ―― ア ル. ス 美 術 叢 書 ――」 『 国 文 学 解 釈 と 鑑 賞 』 第 66 巻 2 号 2 00 1.2 至 文 堂 P 209.
(17) 藤村の『エトランゼエ』に眠る絵画 43. 小舟にしても、ことごとしく貧しさをあらわにしてはいない。漁師 は、子供たちに背を向け、綱籠をぶらさげた棒のそばで、眼を伏せ て何か考え込んでいるが、彼は、貧しさという衣裳を着ているので はなく、ただ貧しいのである。彼が乗っている小舟にしても、櫓と か綱とか棒にぶらさげた綱籠とかいった必要最小限のものしか描か れ て い な い が 、 こ の 舟 の 存 在 そ の も の が 貧 し い の で あ る 。 17 (c)漁 夫 や 船 、 幼 子 な ど 、 伝 統 的 に キ リ ス ト 教 美 術 に お い て 象 徴 的 な意味を担わされるモチーフが描き込まれている上、手前に描かれ た 漁 夫 が 茨 の 冠 を か ば っ た キ リ ス ト の よ う だ と い う 指 摘 や 、( 中 略 ) つまりこの作品は、既存の物語やある特定の状況を描くより、人間 が普遍的に抱く情感や観念そのものが主題ともなっているのである。 18. (a)に お い て は 、紅 野 敏 郎 が 絵 に 描 か れ て い る 光 景 を 客 観 的 に 語 ろ う と す る 姿 勢 が 感 じ ら れ る 。と は い え 、 「野育ちの彼の娘は余念なく花 を 摘 ん で 居 る 。」と 、漁 師 と 女 性 を 親 子 関 係 と す る 捉 え 方 に は ま だ 意 見の余地はあるが、貧しい漁師の姿に「然も一種の気品を備へた」 と、その精神を見出した点は深い意味のある解き方だと言えよう。 (b)は 、 主 人 公 漁 師 の 生 活 に 焦 点 を 合 わ せ 、「 こ の 舟 の 存 在 そ の も の が貧しい」とみなし、貧困が漁師の基本的な苦境だと捉える、栗津 則 雄 の 見 解 で あ る 。(c)に 挙 げ て い る の は 江 澤 菜 櫻 子 の 説 で 、キ リ ス ト教との関連性以外に、 「 人 間 が 普 遍 的 に 抱 く 情 感 や 観 念 」だ と 絵 の 主題を見出している。 当然のことであろうが、以上の研究者らはいずれもキャンパスの 最も手前に位置している主体の漁師に焦点を合わせて絵を解いてい るのは言うまでもない。これは岸本(藤村)にとっては大変重要な ことである。 17. 栗津則雄「私の空想美術館. の 窓 』 No.333 18. 第 88 回. ジ ャ ヴ ァ ン ヌ 『 貧 し き 漁 師 』」『 美 術. 2 0 11.5.20 生 活 の 友 社 P 93. 江 澤 菜 櫻 子 「 ピ エ ー ル ・ピ ュ ヴ ィ ・ ド ・ シ ャ ヴ ァ ン ヌ 作 《 眠 る 街 を 見 守 る 聖. ジ ュ ヌ ヴ ィ エ ー ヴ 》再 考 ――パ ン テ オ ン 壁 画 の 連 関 を 通 し て ――」 『 美 学 』第 2 44 号 20 14 .6 .30 美 学 会 P 8 9.
(18) 44 台大日本語文研究 30. その絵には、長い川が広々とした海に流れていく風景が絵の三分 の二ほどの広いスペースを占めている。そして、下のやや右に偏っ たスペースには舟と花が咲いている岸辺が描かれている。繰り返し になるが、岸辺には熟睡している赤ん坊と花を摘んでいる女性とい うバージョンの作品と、人物が描かれていないバージョンとの二種 類 の 作 品 が あ る 。い ず れ の 作 品 も 、主 役 で あ る 漁 師 の( 1)身 に 纏 っ て い る 衣 も ( 2) 船 に 立 ち つ く し て い る 姿 勢 も ( 3) 顔 の 表 情 も 一 致 しているのは興味深い。つまり、その三点はシャヴァンヌがこだわ っていたテーマであるとともに、岸本(藤村)が渡仏する前に見た 複 製 も 、パ ン テ オ ン で 目 に し た 本 物 の「『 漁 夫 』の 図 」も そ の ポ イ ン トにおいては変わっていない筈である。まずは、身に纏っている服 と は い え な い 程 ボ ロ ボ ロ の 布 は 、勿 論 生 活 に 苦 し ん で い る 印 で あ り 、 草臥れているその布はまた自分の憂鬱な人生をも意味していると捉 えることが出来る。次に船に立っている漁師の姿勢についてである が、赤ん坊が一緒に船に乗っている作品にしても、或は赤ん坊が女 性と同じく岸辺に配置される作品にしても、漁師は背を向けている のが作者シャヴァンヌが訴えたかった点であろう。女性との関係は 親子か或は夫婦か、いずれにしても、子供や女性に背を向けた漁師 の姿勢は、その関係に置かれる自分の担わされた責任が重すぎるか ら正面きって向かうだけの勇気もなく、敢えて拒否していると看做 せよう。更に弱そうに組んでいる両手も、担わされたその責任を到 底果す見込みもなさそうな、途方に暮れた証のポーズであり、絵に 描かれている小さな「社会」における漁師の孤独、孤立が一層鮮明 に見えて来る箇所である。そして、その表情に至ると、項を垂れ、 下向いた顔によって、社会とのリンクの可能性が薄らいでいき、そ の孤立の雰囲気が一層高まっていくのである。そのような堪えられ ない状況に置かれている漁師の苦境、それは江澤菜櫻子の所謂「人 間が普遍的に抱く情感や観念」に通じるところがあるととらえても よかろう。 そのような含意を持つ「貧しき漁夫」を、かつて複製で見た岸本.
(19) 藤村の『エトランゼエ』に眠る絵画 45. はルュキサンブウル公園の美術館へ、 「 独 り で 探 り に 行 き た か つ た 」。 二度と日本に帰るまいと決心してすべてを棄ててフランスに渡っ た岸本は、その本物の「貧しき漁夫」の前で、孤独な自分を漁師に 重ねながら、漁師と自分を見詰めていたのである。節子にも彼女と の不倫で生れて来る自分の血を引いた子供にも背を向けている岸本 は、絵に描かれている漁師のその姿に自分が重なり、己の苦境を改 めて味わうのである。慌てて国を出て来た岸本は、それまで直視し な か っ た 己 の 心 の 苦 悶 19を 「 貧 し き 漁 夫 」 を 通 し て 、 真 正 面 よ り 正 視し、恐れていたものを見詰めることができたのである。. 四、シャヴァンヌの絵から救済された岸本 「貧しき漁夫」に自分の境遇を重ねながら絵を見詰めることによ って、岸本(藤村)はそれまで混沌していた不安の内質を明らかに し、問題の核を正視することができるようになった。それゆえであ ろ う か 、『 エ ト ラ ン ゼ エ 』 の 中 で は 、「 私 は 八 箇 月 ば か り も 眺 め 暮 し た自分の部屋の窓へ行つて、両側に並木の続いたポオル・ロワイア ルの町を眺めた。古い寺院にしても見たいやうな産科病院の門の上 に は 、三 色 旗 の 雨 に 濡 れ た の が 望 ま れ る 。」 ( 45 章 、P201)と い う よ うな形で、節子との不倫やその結果である妊娠を「産科病院」とい う 記 号 で 岸 本 の 不 安 の 内 質 を 仄 め か し て い る 。 20そ の よ う な 「 産 科 病 院 」が し ば し ば 岸 本 の 目 に 入 る 設 定 に つ い て 、山 田 晃 は 、 「たとえ 19. 『 エ ト ラ ン ゼ エ 』 53 章 に は 、「 一 切 の も の を 忘 れ よ う と し て 遠 い 旅 に 来 た 私. のところへもやがて一年近い月日がめぐつて来るやうに成つた。私は自分の国 から離れるために斯の知らない土地へ来たのか、自分の国を見つけるために来 た の か 、そ の 差 別 も つ け か ね る や う に 思 つ て 来 た 。」と 、国 か ら 離 れ た 当 時 の こ と に つ い て 語 っ て い る 。 ( 『 島 崎 藤 村 全 集 第 1 0 巻 』、 P 213 ) 20. 瀬 沼 茂 樹 は「 他 に 日 本 人 の 下 宿 し て い る も の が あ っ た の で 、僅 か に エ ト ラ ン. ゼの不安と好奇心を鎮めることができた。ここで、藤村は、窓から産院を臨み ながら、故国から背負ってきた悖徳の心の傷手を、見知らぬ人の間に「身を隠 す 」よ う に し て 、癒 そ う と し て い た 。」と フ ラ ン ス 滞 在 の「 私 」の 内 面 に つ い て 「身を隠」し、心の傷手を「癒そうと」すると見做しているが、作品における この産科病院の意義については、それ以上には言及していない。瀬沼茂樹『評 伝 島 崎 藤 村 』 1 98 1.10 .15 筑 摩 書 房 P 21 9.
(20) 46 台大日本語文研究 30. ば、同じ人間たちの生活が展開されている異国の地には、当然彼の 葬り去りたい記憶を刺戟するものがないわけはない。執拗に彼の視 界 に 立 ち は だ か る 産 科 病 院 も そ れ で あ る 。」 2 1 と 、如 何 に も 岸 本 の 記 憶からその苦悩を喚起しているような働きがあるとみなしている。 その記憶の喚起によって岸本は問題の核を正視せざるを得なかった のである。 し か し 、 「貧 し き 漁 夫 」の 凝 視 、 繰 り 返 し 目 に 入 る 「 産 科 病 院 」 の 設定だけでは、岸本は問題の正視に留まるだけで、更なる進展は望 めないのではなかろうか。シャヴァンヌの壁画を見るためにパンテ オ ン へ 小 山 内 君 を 誘 っ た 。 そ こ で 、「「 淡 い 黄 ば ん だ 月 に 対 つ て 立 つ て居る晩年の尼さんの壁画の前で、しばらく私は旅の身を忘れて居 た 。」( 25 章 、 P179) と 、 シ ャ ヴ ァ ン ヌ の 最 も 有 名 な 「眠 る 街 を 見 守 る 聖 ジ ュ ヌ ヴ ィ エ ー ヴ 」( 図 3 )と い う 作 品 を 眺 め た と 、叙 述 さ れ て い る 。人 々 を 救 う 聖 ジ ュ ヌ ヴ ィ エ ー ヴ の こ と に 熟 知 し て い る 岸 本( 藤 村 ) は こ こ で 、 こ の 壁 画 22に 筆 を 費 や し た 彼 女 の 広 く て 優 し い 心 に 惹 か れ た に 違 い な い 。そ の よ う な 背 景 の あ る 「眠 る 街 を 見 守 る 聖 ジ ュ ヌ ヴ ィ エ ー ヴ 」だ か ら こ そ 岸 本( 藤 村 )は「 見 る 度 に 深 い 静 寂 な 心 持 を 経 験 し た 。」 と 語 る こ と が で き る の で あ ろ う 2 3 。 つ ま り 、 混 沌 と し た 不 安 か ら 自 分 の 国 ――不 安 の 元 で あ る 罪 を 招 く 火 の よ う な 場 所 ――を 離 れ 、 そ の 罪 を 誰 も 知 ら な い 土 地 で あ る フ ラ ン ス に 渡 っ た 。 そ の よ う な 岸 本 ( 藤 村 ) は そ こ を 一 つ の 場 ――時 21. 山 田 晃 「 海 へ ・ エ ト ラ ン ゼ エ 」『 国 文 学. 解釈と教材の研究. 特集島崎藤村. と 日 本 の 近 代 』 4 月 号 197 1.4 學 燈 社 P 119 22. 江澤菜櫻子は、従来の研究にあまり注目されなかった蝋燭などに目を向け、. 「あるいは、聖女が用心深く街を見守っていることを思えば、ランプを持った 姿 で 表 さ れ る「 用 心 」の 擬 人 像 と も 関 連 付 け ら れ る か も し れ な い 。」と 、描 か れ て い る ポ ー ズ を 解 い て い る 。( 江 澤 菜 櫻 子 「 ピ エ ー ル ・ ピ ュ ヴ ィ ・ ド ・ シ ャ ヴ ァ ン ヌ 作 《 眠 る 街 を 見 守 る 聖 ジ ュ ヌ ヴ ィ エ ー ヴ 》 再 考 ――パ ン テ オ ン 壁 画 の 連 関 を 通 し て ――」『 美 学 』 第 244 号 2 014 .6 .30 美 学 会 P 9 23. 中 島 国 彦 は「 あ る 沈 潜 し た 心 情 、一 人 静 か に 周 囲 を 見 つ め る 人 間 の 情 感 、そ. して何よりも、孤立した場において再発見された「静寂」を、示したのではあ る ま い か 。」 と そ の 「 静 寂 」 を 捉 え て い る 。 中 島 国 彦 『 近 代 文 学 に み る 感 受 性 』 199 4.10.20 筑 摩 書 房 P6 87.
(21) 藤村の『エトランゼエ』に眠る絵画 47. 間 と 空 間 が 融 合 し た 場 ――と し 、 「貧 し き 漁 夫 」と い う 絵 に 描 か れ て いる主人公に自分を重ねながら漁師及び自分の内面を観照し、その 不安の内質を正視し、更に「眠る街を見守る聖ジュヌヴィエーヴ」 にある聖女の「守る」という姿勢に助の光を見出し、自己救済に可 能性を仕組んだのである。そうした意味でも外遊先であるフランス ――ジ ャ ヴ ァ ン ヌ の 絵 の 所 在 地 ――は 一 つ の 救 済 の メ カ ニ ズ ム と し て十分に発揮されていると言えよう。. テクスト 『 島 崎 藤 村 全 集 』 全 13 巻. 1981.1.20―1983.1.30、 筑 摩 書 ). 参考文献 江 澤 菜 櫻 子「 ピ エ ー ル ・ピ ュ ヴ ィ・ド・シ ャ ヴ ァ ン ヌ 作《 眠 る 街 を 見 守る聖ジュヌヴィエーヴ》再考――パンテオン壁画の連関を通して ― ― 」『 美 学 』 第 244 号 2014.6.30 美 学 会 沖野厚太郎「フランス第三共和制下の芸術宗教――島崎藤村とピュ ヴ ィ ス ・ ド ・ シ ャ ヴ ァ ン ヌ ― ― 」『 文 芸 と 批 評 』 第 11 巻 第 10 号 2014.11.25 文 芸 と 批 評 の 会 亀 井 勝 一 郎 「 島 崎 藤 村 論 」『 亀 井 勝 一 郎 全 集 』 第 五 巻 1974.2.20( 第 一 刷 り 1972.9.20) 講 談 社 姜政均「島崎藤村『海へ』―「私」の内なる「エトランゼエ」―」 『国文学解釈と鑑賞. 特集=続・日本人の見た異国・異国人―明. 治 ・ 大 正 期 』 1999 年 12 月 号 栗 津 則 雄「 私 の 空 想 美 術 館. 第 88 回. ジ ャ ヴ ァ ン ヌ『 貧 し き 漁 師 』」. 『 美 術 の 窓 』 No.333、 2011.5.20 生 活 の 友 社 紅 野 敏 郎 「有 島 生 馬 の『 セ ザ ン ヌ 』と 斉 藤 與 里 の『 シ ャ ヴ ァ ン ヌ 』― ― ア ル ス 美 術 叢 書 ― ― 」『 国 文 学 解 釈 と 鑑 賞 』第 66 巻 2 号 2001.2 至 文堂 瀬 沼 茂 樹 『 評 伝 島 崎 藤 村 』 1981.10.15 筑 摩 書 房 中 島 国 彦 『 近 代 文 学 に み る 感 受 性 』 1994.10.20 筑 摩 書 房.
(22) 48 台大日本語文研究 30. 松 本 鶴 雄「 デ カ ダ ン ス と ル ネ ッ サ ン ス ― ― 続・ 『 新 生 』論 ― ― 松 本 鶴 雄 『 春 回 生 の 世 界 ― ― 島 崎 藤 村 の 文 学 』 2010.05.10 勉 誠 出 版 山 田 晃「 海 へ・エ ト ラ ン ゼ エ 」 『国文学. 解釈と教材の研究. 特集島. 崎 藤 村 と 日 本 の 近 代 』 4 月 号 1971.4 學 燈 社. 『 国 立 西 洋 美 術 館 名 作 選 』 2006 東 京 国 立 西 洋 美 術 館 Pierre Puvis de Chavannes 『 Aimée Brown Price with contributions by Jon Whiteley and Genevi ève Lacambre 』 Amsterdam : Van Gogh museum ; Zwolle : Waanders, 1994.. 図録 図 1. 図 2.
(23) 藤村の『エトランゼエ』に眠る絵画 49. 図 3.
(24)
(25) 台大日本語文研究第 30 期 2015 年 12 月,頁 51-69 2015-09-30 收稿,2015-11-11 通過刊登 DOI: 10.6183/NTUJP.2015.30.51. 佐藤春夫〈霧社〉論 ー對於台灣原住民的雙重凝視ー 橫路啟子*. 摘要 本論文以佐藤春夫的短篇〈霧社〉為對象,探討此作品中所呈現 的 凝 視 到 底 為 何。作 者 佐 藤 春 夫 對 於〈 霧 社 〉的 主 要 創 作 契 機 是 在 1920 年夏天,作者本人來台旅行的實際體驗,然而作者卻在時隔五年之後 才實際著手執筆創作。故此,即便作品屬於一種旅行文學,其內容憑 藉的竟是作者五年前的記憶。換言之,本作是利用作者以往的親身經 驗重新建構的。相較於原本的經驗,筆者相信重建的記憶更為強烈地 反應作者本身的意識形態、思維以及觀點。 基於以上內容,本論文將觀察敘述者用何種視線來描寫台灣的霧 社,以 及 在 此 地 遇 到 的 在 台 日 本 人、「 蕃 人 」 ( 原 住 民 )。而 經 過 觀 察 , 筆 者 發 現 敘 述 者 用 兩 種 截 然 不 同 的 態 度 來 呈 現「 蕃 人 」 。當 強 烈 意 識 到 在台日本人時,敘述者描寫「蕃人」的論述語調變得富有人本主義; 但是當敘述者本身直接接觸到「蕃人」時,其態度卻急遽變化。敘述 者以「旅人」自居,視他們為珍奇異獸,凝視的雙重性便就此生成, 而其來有自皆發於敘述者潛在所擁有的統治者姿態。. 關 鍵 詞 : 佐 藤 春 夫 、〈 霧 社 〉、 凝 視 、 台 灣 原 住 民. *. 輔仁大學日本語文學系副教授.
(26) 52 台大日本語文研究 30. A Study of Haruo Sato’s Work MUSHA : The Gaze to Native Taiwanese by Double Standards Yokoji, Keiko. *. Abstract This paper aims to analyze the main target text Haruo Sato’s work Musha for revealing his gaze on native Taiwanese. A Japanese novelist Haruo Sato traveled Taiwan in 1920 summer. That was the catalyst to write this work. But the time when he wrote this novel is five years later from the travel. This means this work made by not only his experiences in Taiwan, but also was rebuilt by his memories. Of course the rebuilt memories is different from the real experiences ev idently. It may reflect his ideology unconsciously. In this regard, this paper gives light on how the narrator gazes Musha, the Japanese in Taiwan who met there, and native Taiwanese. As a result, we know that the narrator has double standards to describe native Taiwanese. The first is humanistic attitude in situation of being conscious the another Japanese in Taiwan. But his attitude changes totally when he meets native Taiwanese accutually, he describes them like a curiosity. These double standards is mad e by his conscience as a ruler.. Keywords: Haruo Sato, Musha, gaze, native Taiwanese u. *. Asso ciate P ro fesso r o f the Dep art ment o f Jap anese Language and Literature, Fu J en Catho lic Univer sit y.
(27) 佐藤春夫「霧社」論 53. 佐藤春夫「霧社」論 ―台湾原住民を見つめる二重のまなざし―. 横路啓子*. 要旨 本稿は、佐藤春夫の作品「霧社」を主な対象とし、そこに見ら れるまなざしがどのようなものなのか考察することを目的としてい る 。「 霧 社 」 が 書 か れ た き っ か け は 佐 藤 春 夫 自 身 が 1920 年 夏 、 台 湾 を旅行した実体験によるものであるが、 「 霧 社 」が 書 か れ た の は そ の 5 年後である。このため、作品に書かれているのは作者の 5 年前の 記憶によるもの、つまり実体験を記憶によって再構成したものだと いうことである。再構成された記憶は、本来の体験そのものとは異 なり、より強く書き手の意識的な或いは無意識のイデオロギーを浮 かび上がらせる。 こうした点から、本稿ではこの作品がどのようなまなざしで語 り手が台湾の霧社やそこで出会った在台内地人、 「 蕃 人 」を 語 っ て い るかを考察する。結論として、語り手は 2 つのまったく異なる態度 によって「蕃人」を語っていることが明らかとなる。語り手が在台 内地人を強く意識した時には、実にヒューマニスティックなまなざ しで「蕃人」を語る一方、語り手が実際に「蕃人」と接触した際に は珍奇なものを探し出そうとする旅人のまなざしになっているので ある。こうしたまなざしの二重性は実際にはいずれも統治者として 「蕃人」を見つめたことによるものなのであった。. *. 輔仁大学日本語文学科副教授.
(28) 54 台大日本語文研究 30. キ ー ワ ー ド : 佐 藤 春 夫 、「 霧 社 」、 ま な ざ し 、 台 湾 原 住 民.
(29) 佐藤春夫「霧社」論 55. 佐藤春夫「霧社」論 ―台湾原住民を見つめる二重のまなざし― 横路啓子. 一、はじめに 戦後から半世紀以上が経ち、ポストコロニアル、ポストモダニズ ムといった思想の流れの中、戦前の作家、作品の読み直しが進んで いる。佐藤春夫もそうしたコンテクストの中で研究が進んでいる作 家 の 一 人 で あ る 。そ の 春 夫 の 諸 作 品 の 中 で も 、 「 霧 社 」は 扱 わ れ る こ とが比較的増えてきた作品の一つであると言ってよいだろう。 「 霧 社 」 の 作 品 論 と し て は 、 蜂 矢 宣 朗 1、 邱 若 山 2と い っ た 在 台 の 研究者が実際の歴史と突き合わせた実証的研究と深い分析で優れた 研究成果を挙げている。また石崎等は日本文学の流れから佐藤春夫 の台湾の旅を取り上げ、 「 霧 社 」に こ め ら れ た 佐 藤 春 夫 の 日 本 の 植 民 政 策 の 現 実 に 対 す る「 鋭 い 批 判 的 精 神 」を 指 摘 し て い る 3 。秋 吉 収 は 、 この作品を頼和の「南国哀歌」と比較し、そこに佐藤春夫の持つ統 治 者 と し て の ま な ざ し を 明 か に し て い る 4 。だ が 、こ れ ら の 論 は 、い ずれも佐藤春夫の一面しかとらえておらず、 「 霧 社 」と い う 作 品 が 持 つ、知識人であり統治者である佐藤春夫の多面的な面を論じ切れて はいない。こうした点から見れば、この興味深いテクストにはまだ 論じるべき点が残されているように思われる。 「 霧 社 」が 書 か れ た き っ か け に な る の は 、1920 年 の 夏 、佐 藤 春 夫 が台湾を旅したことによる。春夫の来台は、たまたま出会った旧友 に誘われたことと、春夫が当時抱えていた「鬱屈に堪えへぬ事情」 1. 蜂 矢 宣 朗 「 霧 社 」 覚 書 」『 南 方 憧 憬 ――佐 藤 春 夫 と 中 村 地 平 ――』 台 北 : 鴻 儒 出 版 社 、 1991 年 5 月 、 pp.9 -32 。 2 邱 若 山 「「 霧 社 」 に つ い て ――文 学 作 品 と 歴 史 記 述 の 間 ――」(『 佐 藤 春 夫 台 湾 旅 行 関 係 作 品 研 究 』 台 北 : 致 良 出 版 社 、 200 2 年 、 pp .1 27 -16 0 3 石 崎 等 「〈 I LH A FORM OSA〉 の 誘 惑 ――佐 藤 春 夫 と 植 民 地 台 湾 (2 )」『 立 教 大 学 日 本 文 学 』( 90)、 200 3 年 7 月 、 pp.56 -7 0。 4 秋 吉 収 「 植 民 地 台 湾 を 描 く 視 点 ―佐 藤 春 夫 『 霧 社 』 と 頼 和 「 南 国 哀 歌 」」『 佐 賀 大 学 文 化 教 育 学 部 研 究 論 文 集 』 8 (2 )、 20 04 年 3 月 、 pp.77 -9 4。.
(30) 56 台大日本語文研究 30. を癒すためであった。春夫と「支那趣味」についてはすでに多くの 論 文 で 論 じ ら れ て い る が 5 、こ の 時 す で に 日 本 の 植 民 地 で あ っ た 台 湾 は、春夫の「支那趣味」に応えるには充分な場所であった。春夫は 台湾で 3 ヶ月以上もの時間を過ごすことになるのである。 先 行 研 究 に よ る と 6 、 春 夫 の 台 湾 中 部 へ の 旅 程 は 、『 台 湾 蕃 族 志 』 の作者であり当時台北博物館の館長代理の職にあった森丙牛が作成 し た と い う 。そ の 予 定 で は 、9 月 8 日 に 高 雄 を 出 発 し 、同 月 14 に 日 月 潭 を 出 発 、 埔 里 社 に 宿 泊 し 、 翌 日 15 日 に は 霧 社 に 到 着 、「 霧 ヶ 岡 倶 楽 部 」に 宿 泊 、16 日 に は 霧 社 か ら 能 高 山 へ 向 か い 、能 高 の 駐 在 所 宿 舎 に 宿 泊 、 17 日 に は 能 高 山 か ら 埔 里 に 戻 る 、 と い う も の だ っ た 。 しかし、台風の来襲などによって予定どおりには行かなかった。実 際 の 足 取 り を 追 え ば 、 9 月 18 日 に 集 集 街 、 19~ 20 日 に 日 月 潭 、 21 日 に は 埔 里 社 、 22 日 に 霧 社 、 23 日 に 能 高 、 24~ 25 日 に 霧 社 、 26 日 に 山 中 小 駅 、 そ し て 27 日 に 台 中 、 10 月 2 日 に 台 北 と い う 旅 と な っ たのである。 しかし、この旅に関する作品を春夫は内地日本に戻った後すぐに 書 い た わ け で は な か っ た 。本 稿 が 扱 う「 霧 社 」に 関 し て 言 え ば 、1925 年 3 月号の『改造』に発表されており、なおかつ作品の「附記」な どから見れば、台湾の旅から戻った 5 年後に書かれたと見られる。 こ の 作 品 は 、そ の 翌 年 に は 改 造 社 か ら 出 版 さ れ た 佐 藤 春 夫 短 編 集『 窓 展 く 』 7 に 収 録 さ れ 、 さ ら に 1936 年 7 月 に は こ の 短 編 の 題 名 が 書 名 として用いられた『霧社』が発行される。出版社は昭森社である。 さ ら に 、 ま さ に 戦 時 下 に あ っ た 1943 年 11 月 に は 若 干 の 作 品 が 差 し 替 え ら れ 再 版 さ れ て い る 8 。こ の よ う に「 霧 社 」が 春 夫 の 作 品 集 に 何 5. 例 え ば 渡 邊 晴 夫「 佐 藤 春 夫 の「 支 那 」趣 味 に つ い て 」 『東アジア比較文化研究』 7( 2008 年 6 月 )、 p p.1 30 -147 。 6 邱 若 山 「「 霧 社 」 に つ い て ――文 学 作 品 と 歴 史 記 述 の 間 ――」、 p.13 0。 7 な お 『 窓 展 く 』 に 収 録 さ れ て い る 作 品 は 、「 売 笑 婦 マ リ 」、「 窓 展 く 」、「 時 計 の い た づ ら 」、「 砧 ( 田 舎 の た よ り )」「 ア ダ ム ・ ル ツ ク ス が 遺 書 」「 哀 れ 」「 霧 社 」 「 秋 立 つ 」「 F・ O・ U( 一 名 「 お れ も さ う 思 ふ 」)」 で あ る 。 8 19 43 年 版 の 『 霧 社 』 で は 「 殖 民 地 の 旅 」 が 削 除 さ れ 「 鷹 爪 花 」「 蝗 の 大 旅 行 」 「 社 寮 島 旅 情 記 」に 差 し 替 え ら れ て い る 。 「 殖 民 地 の 旅 」が 差 し 替 え ら れ た 点 に つ い て は 、 河 原 功 「 佐 藤 春 夫 「 殖 民 地 の 旅 」 の 真 相 」(『 台 湾 新 文 学 運 動 の 展 開.
(31) 佐藤春夫「霧社」論 57. 度も収録されてきた経緯を見れば、作者自身のこの作品への思い入 れが伺える。 「霧社」が収録されたこの 3 つの作品集のうち、作者の台湾への 思 い を よ り 完 全 な 形 で 伝 え て い る の が 1936 年 版 の『 霧 社 』で あ ろ う 。 それは最初に収録された『窓展く』が台湾もの以外のものを含んだ 作 品 集 で あ る こ と 、 そ し て 1943 年 版 『 霧 社 』 が 時 局 の 影 響 を 受 け 、 「殖民地の旅」という重要な作品が別の作品に差し替えられている こ と に よ る 9 。 春 夫 自 身 、 1936 年 版 『 霧 社 』 に つ い て 、 この時の旅行記を必然的に地方によつて各体々ママを変へた短 編小説集を以てしたいといふ計画は旅行中に思ひ浮んだが、そ の後、懶惰な自分は十年余を費やして、やつとこれを遂行し得 た。かの旅は放浪自適、実にわが青年時代のなごりであり、こ の 集 は 能 く 曾 遊 を 記 し て わ が 壮 年 期 の 記 念 と 成 つ た 。 10( 下 線 強調引用者、以下同様) と自ら「壮年期の記念」としている。また作品配置は執筆の年代で はなく、 「 旅 程 に 従 つ て 南 方 か ら 北 部 に 及 」 1 1 ぶ 、以 下 の よ う な 順 番 になっており、 「 日 章 旗 の 下 に 」( 初 出 :『 女 性 』 1928 年 1 月 号 ) 「 女 誡 扇 綺 譚 」(『 女 性 』 1925 年 5 月 号 ) 「 旅 び と 」(『 新 潮 』 1924 年 6 月 号 ) 「霧社」 (『 改 造 』1925 年 3 月 号 ). 恒春. 安平. 日月潭. 埔 里 社 、霧 社 、能 高 山. (*. 最後に台中、台北) 「 殖 民 地 の 旅 」(『 中 央 公 論 』 1932 年 1,2 月 号 ). 台中、鹿港、. ―日 本 文 学 と の 接 点 』 研 文 社 、 1997 年 、 p p.3 -23 ) や 、 邱 若 山 「「 霧 社 」 に つ い て ――文 学 作 品 と 歴 史 記 述 の 間 ――」 (『 佐 藤 春 夫 台 湾 旅 行 関 係 作 品 研 究 』台 北 : 致 良 出 版 社 、 20 02 年 、 pp.12 7 -1 60 ) な ど で 詳 細 に 述 べ ら れ て い る 。 9 こ の た め 本 稿 で は テ ク ス ト と し て 復 刻 さ れ た 19 36 年 版 『 霧 社 』 の 「 霧 社 」 を 用いる。また同書より引用した場合には、本文中に括弧にてページ数を示すこ とを了承されたい。 10 佐 藤 春 夫 「 か の 一 夏 の 記 ――と ぢ め が き に 代 へ て ――」『 霧 社 』、 復 刻 版 『 霧 社 日 本 植 民 地 文 学 精 選 集 01 7 台 湾 編 5 』東 京:ゆ ま に 書 房 、20 00 年 9 月 、p.260 。 11 佐 藤 春 夫 「 か の 一 夏 の 記 ――と ぢ め が き に 代 へ て ――」、 p .26 0 。.
(32) 58 台大日本語文研究 30. 胡 蘆 屯 ( 現 豊 原 )、 阿 罩 霧 ( 現 霧 峰 ) 1 2 読者はまさに春夫の足跡とともに台湾を見ていくことができるしか けなのである。そして青春の思い出である台湾行きを「地方によつ て各体々を変へた短編小説集を以て」表したいとし、それぞれの作 品 に テ ー マ や タ ッ チ を 変 え る よ う に 意 識 し た も の で あ る と す る 13。 「霧社」はその中で、作者自身によって「これは小説ではなく、 紀 行 に 反 乱 実 録 を 加 へ た も の 」1 4 と い う 位 置 付 け を 与 え ら れ て い る 。 ま た 、復 刻 版 の「 解 説 」で は「「 霧 社 」は こ の 事 件 を め ぐ る 植 民 地 当 局の対応や内地人の反応、そして先住民教化の現状などをルポルタ ー ジ ュ し た 作 品 」で あ り 、 「佐藤は冷静な観察を通して教化される先 住民の不幸を示唆し、総督府の強圧的な政策を遠回しながら批判し て い る 」 15と 述 べ ら れ て い る 。 本 稿 が 興 味 を 持 っ て い る の は 、 作 者 が 果 し て「 冷 静 な 観 察 」を し て い る の か ど う か と い う 点 で あ る 。 「霧 社」は『霧社』の諸作品の中でも特に写実性の強い、紀行文的な作 品ではある。作者は作品の最後に、 附記。予は五年前の旅行を追想してこの記録をつくつた。だが 予の見聞を日記的の順序で羅列したにしか過ぎない。しかも現 に予は田舎にゐて何の参考書もなく、また不幸にも当時の予の 懐中雑記帳も亦身辺にない。予の記憶は特に数字などに於て錯 誤があるやうに思へるし、また予の不敏は引用した人人の言葉 を正しく解してゐないやうなことがありさうにも案ぜられる。 月 日 さ へ 定 か で は な い 。 (178) と 述 べ て い る 。こ こ か ら わ か る の は 、 「 霧 社 」に 書 か れ た も の が 、 「見 聞を日記的の順列で羅列」したものではあるが、それが作者の 5 年 12. こ れ に つ い て は 、森 崎 光 子「 佐 藤 春 夫 と 台 湾 ・ 福 建 省 の 旅 -『 南 方 紀 行 』 『霧 社 』 の 旅 ―」( 芦 屋 信 和 ・ 上 田 博 ・ 木 村 一 信 『 作 家 の ア ジ ア 体 験 ―近 代 日 本 文 学 の 陰 画 ―』 東 京 : 世 界 思 想 社 、 1 9 9 2 年 ) p .7 7 を 参 照 し 、 い く ぶ ん 手 を 加 え た 。 13 こ の 記 述 を 押 さ え た 上 で 、 本 全 体 の 主 題 と し て 「 恋 の 基 調 、 異 国 情 趣 ――か らもの趣味及び社会、政治、民族問題に対する関心」の 3 つが交錯したものと し て い る 先 行 研 究 も あ る 。 邱 若 山 『 佐 藤 春 夫 台 湾 旅 行 関 係 作 品 研 究 』、 p.61 。 14 佐 藤 春 夫 「 詩 文 半 世 紀 」、『 定 本 佐 藤 春 夫 全 集 第 十 八 巻 』 臨 川 書 店 、 2 00 0 年 12 月 、 p .1 08 。 15 藤 井 省 三 「 解 説 」『 霧 社 』、 復 刻 版 『 霧 社 日 本 植 民 地 文 学 精 選 集 017 台 湾 編 5』 東 京 : ゆ ま に 書 房 、 2 000 年 9 月 、 p.5。.
(33) 佐藤春夫「霧社」論 59. 前 の 記 憶 に よ る も の ――つ ま り 実 体 験 を 記 憶 に よ っ て 再 構 成 し た も のだということである。再構成された記憶は、本来の体験そのもの とは異なり、より強く書き手の意識的な或いは無意識のイデオロギ ーを浮かび上がらせるものである。そう考えた時、旅から一定の時 間を経た後に描かれた「擬ルポルタージュ」としての「霧社」に作 者のどのような意識が反映されているのかを改めて考察することは 決して無駄なことではないだろう。. 二 、 作 家 が 描 き 出 す も の ――そ の 二 重 性 か ら (一 ) 知 識 人 と し て の ヒ ュ ー マ ニ ス テ ィ ッ ク な ま な ざ し 「 霧 社 」 は 、「 霧 社 の 日 本 人 は 蕃 人 の 蜂 起 の た め に 皆 殺 し さ れ た ――と い ふ 噂 を 初 め て 耳 に し た の は 集 々 街 に 於 て で あ る 。」 ( 135、強 調原文)という一文から始まる。これによって読者は「予」の視点 を通して、 「 蕃 人 の 蜂 起 」と い う 事 件 を め ぐ る 主 軸 と と も に 霧 社 、能 高山を探検することになる。この事件は、実際に発生したサラマオ 事件をモチーフにしたもので、 「 霧 社 」と 実 際 の 事 件 と の 関 連 性 や 虚 実 に つ い て は 、 す で に 先 行 研 究 に 詳 し い 16。 この事件をめぐって「予」が描くのは、在台内地人の「蕃人」に 対する態度である。事件の情報は、まず集集街で耳にし、そしてさ らなる詳細をその 3 日後の埔里社で手に入れる。それまでは「噂」 として伝聞の形で「予」によって語られるが、霧社の麓の掛茶屋の おかみの言葉は直接、テクストの中に登場することになる。 サラマオの日本人は鏖殺しだ。合せて七人。警察の人人とその 家族、悉く首をとられた。気の毒なのは署長のおかみさんだ。 憎い蕃人どもはその腹を割いて子供まで引き出した。おかみさ んは懐妊してゐたのだ。八ヶ月の胎児である。最も惨いのはそ の胎児の首さえ毮いで行つた。何しろ実に突然の暴動で援助を 求める隙はなかつた。尤もその両三日前から多少の兆はなかつ た 事 は な い 。蕃 人 達 は 何 か 望 外 な 要 求 を し た 。 ( 略 )署 長 は 一 た 16. 邱 若 山 「「 霧 社 」 に つ い て ――文 学 作 品 と 歴 史 記 述 の 間 ――」、 pp .1 29 -135 。.
(34) 60 台大日本語文研究 30. ん刎ねつけた。併し彼等はその次の日もまた同じ要求を繰返し に来た。 ( そ の 要 求 と は 何 か 、予 は 具 体 的 に 知 り た か つ た か ら 尋 ねたけれども、彼女も知らなかつた。ただ「何しろ、そいつら は 難 題 を そ れ と 知 つ て 持 ち 掛 け や が つ た の で す よ 」) (139) 「予」の語りによって語られる掛茶屋の女房は、まさに「蕃人」 を 蔑 み 、敵 対 視 す る 姿 勢 で あ る 。 「鎮まるも何も!あいつらが鎮まつ た つ て 、今 度 は 、こ ち ら が 鎮 ま り や う は あ り や し ま せ ん や ね 」 ( 140) と い う 女 の 言 葉 に 、「 予 」は「 敵 愾 心 」( 141)を 感 じ る 。そ し て 、在 台内地人から聞くこの事件の顛末に使われる「日本人」という言葉 に 、「 予 」 は 敏 感 に 反 応 す る 。「 理 智 的 に 厳 密 に 言 へ ば 「 内 地 人 が 皆 殺」でなければならない。さう呼ぶやうに統治者も教へてはゐるの で あ る 。」 ( 141)と し て 、植 民 地 台 湾 に 住 む「 蕃 人 」も「 日 本 人 」で あることを暗に示し、在台内地人、ひいては台湾総督府の理蕃政策 を暗に批判しているような態度を見せる。それはあくまでヒューマ ニスティックな態度だ。 同じ態度は、これまでの先行研究がほとんどすべてと言っていい ほど取り上げている「蕃人の小学校」を訪れた場面についても言う ことができる。内地日本から台湾を訪れた作家としての語り手は、 「蕃人」の子供たちが日本帝国のもたらした近代的教育システムの 中で、彼らの日常とはまったく無縁の概念を刷り込まれる姿をアイ ロニカルに描く。この場面については、その問答から天皇制を遠回 し に 批 判 し た も の で あ る と い う 指 摘 17、 「このような生き生きとした 教育現場のスケッチは無論、いかなる歴史的叙述にも見ることがで き ず 、文 学 作 品 の 独 壇 場 」で あ る と い う 考 察 1 8 、 「台湾総督府の理蕃 政 策 に 対 す る 批 判 」を 意 味 し た も の だ と い う 分 析 1 9 な ど が 見 ら れ る 。 確かに、この描写からは書き手が、日本帝国や台湾総督府がもたら す「文明」に対し不信感を持っていることは明らかである。だが、 17. 尾 崎 秀 樹 「 霧 社 事 件 と 文 学 」『 旧 植 民 地 文 学 の 研 究 』 東 京 : 勁 草 書 房 、 19 71 年 6 月 、 pp.22 1 -237 。 18 邱 若 山 「「 霧 社 」 に つ い て ――文 学 作 品 と 歴 史 記 述 の 間 ――」、 p.14 0。 19 森 崎 光 子「 佐 藤 春 夫 と 台 湾・福 建 省 の 旅 -『 南 方 紀 行 』 『 霧 社 』の 旅 ―」、p .82 。.
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