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「無」という文明の架け橋:満州に見られる西田幾多郎の「場所」

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「無」という文明の架け橋:

満州に見られる西田幾多郎の「場所」

石 之 瑜

(台湾大学政治学部教授)

周 奇 弘

(中山大学政治学研究所)

黄 欣 婷

(中山大学政治学研究所)

張 芝 瑾

(台湾大学政治学研究所)

陳 鼎 尹

(中山大学中山学術研究所)

【要約】

文明の架け橋という自己比喩は、弱者が自尊心を高めるための一 種の方法であり、個人化した修養により東西文明を融合することを 意味し、またタゴールが西洋に直面して表現した自信のルートでも あった。タゴールのモデルと比較して、西田幾多郎のモデルは、日 本全体に代わって一つの無の場所、同時に包含しないものはない場 所を探し出したといえよう。このような場所は、到達したものが未 だおらず、従ってどのように行動したらよいかの指針も存在せず、

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むしろ沈黙を評価する静態である。個体能動性に思想のための準備 を提供しないため、個体行動者が不動から動へ移る過程においては 動員が唯一の方法で、したがってそれは依存的なものである。この ように見るものが働くものに回帰し、無の場所から有の場所に進入 するのは、一見すると一種の堕落に見えるが、満州はこれに救済の 機会を提供したのであった。白鳥理論において、満蒙は東洋・西洋 が共有する起源の地であり、西田哲学の無の場所に符合している。 無の場所が八紘一宇の神道の場とされてからは、満州が文明の架け 橋という自己比喩を実現したのであった。このように、弱者が自信 を 構 築 す る 過 程 に お い て 、 文 明 の 架 け 橋 を 自 身 で あ る と す る こ と は、重要な展開である。つまり、架け橋が未来の理想郷についての 描写であるだけでなく、過去に遡って文明の起源でもあるという一 種の身分の主張ともなり得るからである。

【キーワード】

満州、西田幾多郎、タゴール、文明の架け橋

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一 はじめに

中国は一貫して東洋の代表と見なされている。ポスト植民地主義 からは東洋という概念自体が批判されているものの、いわゆる東洋 とは、欧州中心の普遍主義を顕著にするための概念であると認識さ れており、したがって後進的・集団的で、解放されるべき対象とし て作られた概念である1。東洋主義への批判から、西洋を身分概念と することへの疑念が呈され、これがいわゆる西洋主義という表現で 認識されている。後者はそれまで実際には一度も一体となったこと のなかったいわゆる西洋を邪悪化させたもので、当然ながら一種神 聖化した西洋を構築した西洋主義者も存在したが、それは一種の想 像 上 の 西 洋 に 過 ぎ な か っ た2。 こ う し た 批 判 に 根 拠 が あ っ た と し て も、東西が対立して形成される文明の架け橋論は古くて新しい論点 である。 文明の架け橋という説は、東西が分立しているという本体論に対 応したものであるため、融合にその意を置いていても、依然として 衝突対立が発生しうるという存在の基礎が引き続き潜在する。周期 的に現れる衝突は、融和の推進が意に沿わぬものであるからだとい う理由のみではなく、反発が東西双方の対立となり、また東洋を整 合するために形成された内部征服を理由としているからである。本 稿は、日本とインドの近代史における 2 つの文明の架け橋論を対比 し、東洋を論述の起点とした文面を引用しており、周知の文明の架 け橋論とは異なっている。中でも最も重要なのは、文明の架け橋が

1 Said, Edward

Orientalism. New York: Random House; 1991 Cultural Imperialism New York:

Vintage, (1978).

2 Chen, Xiaomei

Occidentalism. A Theory of Counter-Discourse in Post-Mao China. Oxford:

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未来の理想郷へ続く経路である必要はなく、文明の起源に遡ること で自身を再構築する一種の身分論であることを説明している点であ る。起源に遡るのであれば、学習と融合だけに重点が置かれるので なく、同時に認可を求めることが更に重要になる。このように、認 可を追求する自己定義方法は、文明の架け橋論が平和との関連付け から放たれるに十分な理由を提供するであろう。 日本とインドは、いずれも植民地主義や帝国主義の侵略を受けた アジアの国家であり、ヘーゲルが東洋的専制主義に関する著述を展 開した際に網羅しようとした対象であった3。しかし、日本は植民地 とならず、インドは 100 年以上にわたり英国の植民地となった。19 ~20 世紀にかけて、両国の思想家は揃って文明の架け橋を提唱して おり、直接的または間接的に互いを東洋の範疇に含め、自身を架け 橋だとしている4。いずれにせよ中国を東洋の主要国とすることは共 通していたが、案の定、中国では文明の架け橋論は広まらなかった。 即ち、中国近代思想家は自身の民族文化が自信と自尊を失うことに 関心を持たなかったわけではないが、依然として中国を本質的に西 洋とは当然切り離された存在であると見なしていたのであった。つ まり、近代の日本・インドと中国の思想家にとって、中国は架け橋 ではなく、東洋の代表であった。日本の近代思想家で、インドの改 造を自己の責任と見なすものはほとんどいなかったが、中国と日本 の 間 に あ る べ き 関 係 を 概 念 的 に 処 理 す る こ と に 力 を 注 ぐ も の は 多 く、論議に暇のないほどであった。 ここで注目されるのは、近代日本の思想家の間で起こったこうし

3 子安宣邦著、趙京華訳編『東亜論:日本現代思想批判』吉林人民出版社(長春:2004 年)。

4 Panikkar, K. M. Asia and Western Dominance New York: The John Day Co., Inc, (1954)、王

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た論争は、各論者が日本軍の満州国建設に揃って支持を表明するこ との妨げにならなかったことである。理由は様々であろうが、結論 から言えば、思想家達が満州に王道楽土を建設することに対して揃 って示した支持には、満州が日本の近代思想においてある種のタブ ーでありながら重要な地位を有することを如実に示している5。本稿 では、日本・インドの文明の架け橋の著述から、タゴールと西田幾 多郎を選び、比較することで、後者が東西の整合とした特殊な思想 努力、すなわちその表現戦略やその実践における含意について考察 するものである。これにより、日本の思想家がこうした努力の中で 満州から感じ取った誘惑とは何であったのかを推測することを試み る。満州は一貫して東洋学学者の活動範囲であり、東京学派との関 係が密接であり、証拠も各種多数あるが、京都学派の西田哲学と満 州が思想という深層でどのように結びつくのかについては、これを 論じた文献は存在せず、実際にも証拠はない。本稿は、推測と反省 を通じて京都学派と満州の思想という深層におけるつながりについ て分析するもので、歴史的責任を問うものではない。むしろ、現代 の文明の架け橋論者が今後、中国を定義する際、自己の願望につい て意識的に警戒し、実践後の結果に責任を持てるよう促そうとする ものである。

二 双方向の文明の架け橋における 2 つのモデル

グローバル化時代の精神において、文明の融合の重要性は顕著で ある。しかし、文明の融合はどこで発生するのかという問題につい

5 野村浩一(1998)が整理した中国学の系譜では、満州国への期待は、立場と価値観の 違いを超越していたようである。伝統主義派の内藤湖南、国家主義派の北一輝、自由 主義派の吉野作造らを含む各派の作家も例外ではなかった。

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て、理論的に考えるのであれば、文明の架け橋が存在するところで 文明が融合するといえよう。しかし、歴史上、行動者全てが文明の 架け橋という思想を持っていたわけではなかった。ここで言う文明 の架け橋は、特に双方向の文明の架け橋を指し、買弁・伝道師・留 学生など一方通行の文明の架け橋を指すものではない。近代の台湾 では、蔡培火などが双方向の文明の架け橋を思考したが6、明治維新 後の日本にも各種の文明の架け橋に関する主張があった。英国の統 治を100 年受けたインドも、遠く離れたもう 1 箇所の双方向の架け 橋であり、これら 2 つの架け橋はいずれも自己を東西の間に置こう とした。反面、中国大陸では、文明の架け橋は広く受け入れられた 自己比喩ではなかった。文明の架け橋の発展の歴史とそれから得ら れる教訓を理解することを通じ、グローバル化精神の下、文明の架 け橋が盛んに語られる趨勢に対して、より真剣な警告と反省が得ら れるのではないだろうか。 西洋の帝国主義に侵略された社会では、自己の固有の文化に対す る自己検討が遅かれ早かれ発生する。その場合、往々にして精神文 明を自任し、いわゆる西洋の物質文明に対処する事が多い。物質文 明の勢力が盛んであることから、精神文明に立脚する思想家は、通 常、無力感に襲われ、いわゆる進歩勢力から頑固で国を誤らせる守 旧派だと謗られる。上なるものは「中学為体、西学為用(中国の学 問を「体」とし、西洋の学問を「用」とする)」のように物事の両極 端の間を取って採用するという考え方でこれを調節し、下なるもの は西洋の潮流に淘汰されても決して屈服しようとしない。両者は一 見異なるようであるが、西洋化派・保守派・兼用派の共通点は、自

6 石之瑜・顔欣怡「作為東亜的台湾:従植民地収編国家?」『政治與社会哲学評論』18 期、61-92 ページ。

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己の歴史文化を批評の対象としたことで、その結果ある種の基準か ら見て成績-即ち西洋化派にとっては急速な現代化、革命派にとっ ては反帝国主義による建国、兼用派にとっては文明の調和達成など -を上げても、西洋を代表するように見える勢力に依然として直面 することになり、自身が到達した精神を証明する必要に迫られた。 その際に自尊または自信が欠如せずに済むことは少なかったのであ る。 西洋を師または悪とする 2 種類の信仰方式を超越するため、即ち 一段下にあるという卑下感情を超越するためには、自己改造の必要 と同時に、西洋を点検すべきもう一つの改造対象として捉える必要 がある。それによってのみ、文化上の自己改造が、西洋の代わりに 自身で自己改造を行い、結局、西洋は永遠に定義できない普遍的存 在として高みに置くような状態に陥らずにすむのである。西洋の分 析を自身の分析と同様に重視すれば、西洋に対して批評できるよう になり、西洋に対して彼らが胸襟を開き、東洋の精神遺産を学習す るよう要求することが出来るようになる。これは、文化心理的な需 要からの推察であるが、東洋各国の思想家の一部には、どういうわ けか文明の架け橋またはその他関連の比喩をもって自己を表現する 思想家が必ずいる。 但し、いわゆる架け橋とは、異なる文明が同じ地点に足を下ろす 場所であるものの、自身がスタート地点で植民地に近い位置に属し ていることを恐らく曝露してしまっている。なぜなら、帝国主義者 とは侵入し、改造する者であるため、自らを文明の架け橋とは決し て位置付けないからである。しかしながら、文明の架け橋という比 喩は、植民地の思想家をこれほどにも惹きつけるものである。一見、 万民は屈辱を強いられる地位に甘んじるようであるが、ここにおけ るもう一つの重要な前提とは、先進的な西洋が必ずしも全てにおい

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て先進的ではなく、後進的な東洋も必ずしも徹底的に落伍者ではな いということである。だからこそ、互いに融合し、相互に学習し、 相互補完を通じて、共に開放的で包容力のある自己改造を行う必要 性が生じるのである。これによって平等の達成と自尊の向上という 効果が発揮されるのであり、文明の架け橋論が西洋の潮流による衝 撃を受ける社会集団から注目を得ることが可能になる。 つまり、自身が所属する社会集団を念頭に置く場合、文明の架け 橋となるという意欲を示すことは、西洋に「西学為体、中学為用」 に類似した意識を持つべきだと促すことを容認することであり、そ れにより自身は厳然として東洋を固守し、単に西洋に隷属するだけ でなく、双方に精通し、同時に東洋・西洋の模範となる態度を示し、 東洋が西洋から学習することを是認するだけでなく、更に重要なこ ととして、西洋も東洋から学習する必要があってしかるべきである から、東洋が自暴自棄にならぬよう奨励しているのである。彼らが よく用いる描写としては、このような東洋は中国でなければ、アジ アであるというものがある。向上を実現した自身とは、日本、イン ド、台湾を問わず、中国またはアジアという概念の範疇に帰属させ ることもできない。すなわち、既に東洋には属していない状態にあ る。 しかし、どの国でも標準とされるような文明の架け橋の設計など 存在しない。一人ひとりの思想家による文明の架け橋は、その思想 家独自の知識や社会背景を有するものである。したがって、異なる 文明の架け橋観が異なる行動準則を触発し、また異なる需要を形成 し、結果として西洋に直面する時に借用する思想ツールに特色が生 まれる結果となっている。西田幾多郎のように、自身が既に架け橋 となっていることを哲学概念上から証明する思想家もおり、その場 合、いかなる行動も実践的な意義を持つことが可能になる。またも

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う一方で、タゴールのように自己が架け橋であることを直ぐに表現 しようとする思想家は、特定の方向性を持つ行動を積極的に奨励す る。西田哲学は、論理的に行動にある種超越した意義を与えている が、具体的な時空に指針を示してはおらず、個体の能動性を触発す ることに力点は置かれていない。但し、行動者は既に超越を完成さ せた基体に依存し、それぞれ異なる場に入り、無限に通ずるに足る 行動を可能とする。ただ、個体行動者は常に動員の需要を受け入れ るため、自我の創始を必要としないのである。タゴール哲学は、各 個体が絶えざる向上を進めることから、それが止まることのない布 教への鼓動を促すことが可能になると主張している。したがって、 集団が殖民により発生する卑下を経験しているため、発露により慰 撫が可能になる。 また、自身が所属するコミュニティ全体が文明の架け橋になると する思想家もいる。日本ではこの主張が極めて広く唱えられ、最初 にこれを主張した白鳥庫吉から戦前の京都学派、戦後には竹内好7が 提唱した。一方で個人化した文明の架け橋論も出現しており、戦前 の 岡 倉 天 心 (1903) や 戦 後 か ら 現 在 ま で 活 躍 を 続 け て い る 入 江 昭 (1997)などがその一例である。しかし、個人化した文明架け橋の 最も著名な例は、西洋世界がその影響を受けもし、尊敬を捧げもし たタゴール(Rabindranath Tagore)および彼が Shantiniketan に創設し た国際大学(Vishva Bharati)である8。実践において、集団的な文明

の架け橋とは、対内的に整合と動員を、対外的には認可と表現を行

7 Takeuchi, Yoshimi “Asia as Method,” in What Is Modernity, trans. by Richard F. Calichman.

New York: Columbia University Press, (2004), pp.164-165.

8 Nayak, Arttatrana “Rabindranath Tagore and Visva-Bharati Cheena Bhavan: A Centre

Civilizational Dialogue,” in M. Thampi (ed.), Review of China Studies in India: A colloquium,

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なわなければならず、空間として固定的な場所を持つ必要を避けて 通れない。さもなければ、哲学レベルで阿Q 的状態に停滞せざるを 得なくなり、個体化した文明の架け橋とは、人間の体により文明の 融合を表現することであり、主に実際に対面して行なう意思疎通に 依存するため、空間的には流動的なものである。 本稿は、戦前の西田が代表する日本思想界における一種の文明の 架け橋思想を、タゴールが代表するインドにおける一種の文明の架 け 橋 思 想 と 比 較 し 、 両 者 が 中 国 と ア ジ ア を 東 洋 の 共 同 前 提 と し つ つ、タゴールのモデルは個体化・未完成のものであり、西田のモデ ルは集団化・完成されたものであることを論じるものである。この 対比を通じ、本稿では、西田が提唱した「無の場所」論理が日本の 文明の架け橋の位置をどのように表現したか、行動感に欠ける認識 状態をもたらした過程を追求する。空間における実際行動感につい ては、日本が満州に王道楽土を建設するという想像から実践を得な ければならず、その結果、日本の哲学の地位が更に空間化されると いう効果を上げた。近代の日本人の潜在意識では、満蒙の地に特殊 な感情が付与されており、この点については、白鳥の東洋学派がか つて満蒙に与えた意義に更に遡ることができる。なぜ満州を日本が 当然のごとく文明の架け橋の科学的証拠としたのかや、なぜ満州を 所有できるという鼓動に抵抗し難かったのかに対する分析が、日本 の各界に現在も残存する満州への憧憬を間接的に説明している。

三 未完成の個体と完成された集団

タゴールがノーベル文学賞を受賞してから、中国と日本ではタゴ ールの名声が高まったが、彼の西洋物質文明解放という理想を共同 で完成するよう多数の東洋人を説得することはかなわなかった。む しろ、植民地の投降した哲学家と評価された。タゴールの主張した

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人間性の解放とは、正に西洋物質文明がもたらす堕落に着目したも ので、東洋の豊かな精神文明がこれを救済する最適の道としたが、 西洋の現代文明に早期に追いつこうとする中国・日本の近代思想家 および行動家は、揃って伝統放棄を志向した9。それでも、一部には タ ゴ ー ル へ の 共 鳴 者 が 現 れ た 。 日 本 で 最 も 有 名 な タ ゴ ー ル 共 鳴 者 は、岡倉天心であり10、中国で最も真剣だったのは譚雲山以外にはい ないだろう11。実践全体から見れば、日本の名により行われた改造計 画も非常に多く見られたが、インドは植民地であったため、反抗と いう手段しか取れなかった。しかも、思想的には、日本の各界が西 洋を超越することに力を尽くし、一心に西洋を学習するものもあっ たのに対し、タゴールは伝統的価値観への回帰を奨励したのであっ た。但し、個人の行動力という観点から見れば、当時、日本の思想 家個人として欧州またはアジア隣国に介入し、影響を与えようとい う心のある思想家は限定的であった。実際には個人の自己実現を動 機 と は し て お ら ず 、 日 本 の 民 族 全 体 の 去 就 を 憂 い て い た の で あ っ た。これに対し、タゴールが代表するモデルの大きな相違点は、能 動的な個体の行動プランに満ちていることと言える。 タゴールにとって、東西文明が融合するところとは、個別の人の 精神であり、しかも意識的な培養がなければ、個人の実践において 東西文明の融合は成立しないというものであった。このような期待 は必ずしもインド特有のものではない。21 世紀に突入し、米国ハー

9 Hay, Stephen N. Asian Ideas of East and West: Tagore and His Critics in Japan, China, and

India. Cambridge: Harvard University Press, (1970).

10 Bharucha, Rustom Another Asia: Rabindranath Tagore and Okakura Tenshin. Oxford:

Oxford University Press, (2006).

11 Tan, Chung In the Footstep of Xuanzang: Tan Yun-shan and India. New Delhi: Gyan

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バード大学退職後、帰国して日本で教鞭をとっている入江昭も、こ う し た 個 人 の 役 割 を 強 調 す る 理 論 家 ・ 実 践 家 の 一 人 で あ る 。 こ れ は、入江が若い時に渡米したという経験にも関係があるかもしれな いが、学問を探求し、学術で身を立てようとする際、費正清など重 要な学術界における指導者から無私の支援を受け、事業を達成し、 長じてから後、個人レベルのたゆまぬ意思疎通努力で文明間の誤解 を解き、互いに互いを評価するよう促し、延いては戦争を止めるこ とが出来ると深く信じるようになったのである。よって、入江は自 身の学術スタイルを中道派(centrist)と称しており、日本政府が戦 間期の中国政策を積極的に反省・検討することを提唱、文化外交と 個人外交の国際関係理論を打ち出し、現代における第 2 トラック外 交の雛形を提唱したのであった。 タゴールの行動力は、タゴールの理論と密接な関係がある。なぜ なら、文明の融合は個人に属すると信じていたからである。したが って、個人に端を発する積極行動は不可欠であり、タゴールは2 度、 中国と日本を訪れ、各界に対して東洋文明への信頼を取り戻すよう 訴えた。日本の軍国主義や中国の知識人、中でも左翼青年層から批 判は浴びたものの、信じる心を捨てることはなかった。なぜなら、 タゴールにとって民族集団の解放は重要で、これにより平等且つ相 互尊重に到達するとしたが、もし、個人レベルの文明の融合が普遍 化し、世間には精神文明が横溢するならば、民族の解放と平等が自 然と達成されざるを得ず、そうすれば革命または戦争という手段に よる解放は必要ではなくなり、延いてはそれが反対の効果を発揮す るのではないだろうか。タゴールとインドの革命勢力を分かつ境界 線はここにあり、非暴力不服従運動を打ち出したガンディーとタゴ

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ールは哲学的に相通ずるとしても、ガンディーは民族解放などの政 治過程に固執したため、衝突した12。ガンディーはインドの地方氏族 出身で、タゴールが成長したカルカッタの植民地的雰囲気とは異な っていたこと、またタゴールは南アフリカで政府への抗議行動に参 加し、投獄された経験があったことなどから、両者とも英国で教育 を受けてはいたものの、戦略上の選択に影響を与えるような違いが 両者の間には存在した。 タゴールは自身の文明の架け橋理論を積極的に実践し、その間、 譚雲山からの助力をかなり得ている。また、現在も人口に膾炙して いるのは、タゴールの故郷 Santiniketan に設立されたタゴール大学 (正式名称は国際大学、Visiva Bharati)である。所在地は田舎であ るため、自然・郷土に直接触れることができる。タゴールは、郷里 の子供達を幼年期から大学卒業まで育成することを理想とした。21 世紀の今に至っても、博士の学位までをここで取得することができ る。しかも、学生は自然に囲まれた中で講義を受け、大自然を身を もって体験することができるだけでなく、国際大学は世界各地の思 想家を受け入れているため、多数の思想家が世界各地からはるばる 国際大学を訪れ、大学が文明の融合を身をもって実践している。国 際大学には中国研究所(Cheena Bhavan)が設置されているが、これ は譚雲山の努力によるもので、経費および蔵書面でインド随一の中 国 研 究 機 関 と し て 創 設 さ れ 、 今 に 至 っ て も そ の 地 位 を 維 持 し て い る。その仏教経典と古典書籍の豊富さは名高い。中国学院の集会場 所は地上に座る形式の吹き抜け講堂で、周囲の壁は古色蒼然として

12 Hart, James G. “Recent Works in Gandhi Studies,” Philosophy East and West 44(1): 1994,

pp.162-163, Torres, José Arsenio “The Ideological Component of Indian Development,” Ethics 72 (2): 1962, pp.82-83.

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おり、講演者はあぐらをかくか、敷物に座ったり、または演壇に立 ち、聴衆も時には声を和して反応し、講演終了後はタゴールの詩歌 をもって答礼としており、至るところに人文の雰囲気が横溢してい るという13 タゴールによる文明の融合の実践がいかに比類無きほど積極的だ ったとしても、その含意は非常に含蓄のあるもので、改造という要 素はほとんどなかった。むしろ東洋の社会が既存の伝承に基づき、 西洋物質文明と相互交流を行なうことを奨励するものであり、物質 文明に反対していなかっただけでなく、精神文明が物質文明に対し て救いを与えられると信じていた。タゴールは様々な美しい詩や賦 により儒教文化を称揚しており、中でも古代インド仏教が中国に伝 わったことと、現代になってそれがインドに再度伝えられた貢献を 重視した。タゴールにとって、融合とは必然的に平等なものである ことから、誰が誰を改造するという問題は元来存在しない。タゴー ルにとっては東西文明が互いに互いを必要とする状況にあるため、2 つの文明にとって互いに有益であることをを重視した。これは第一 に東洋文明の伝承者およびその社会の自信と自尊にかかっている。 したがって、タゴールの積極的な伝播と個人レベルに対する育成努 力は、固有文化と結合したものであった。 タゴールに比較すると、西田幾多郎の双方向の文明の架け橋が指 したものは、まず日本であり、しかも一つの単位としての日本であ るため、レベルは群体である。タゴールと共通しているのは、西田 幾多郎も文明改造論は展開しなかったことである。西田の関心は、 日本が一つの歴史・哲学基体として東西文明の間でいかに並存する

13 郁龍余「中国学在印度」『学術研究』1 期、2000 年、120-123 ページ。

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かにあった14。西田の問題意識は、明治維新以降の日本の思想家が心 底、脱却を夢見た東洋専制主義の怨念を逃れきれていなかった。白 鳥庫吉以来、日本は東洋と西洋の間に位置する広大な思想家の群体 であると説明され続けてきたが、これは、西洋は東洋を理解しない という前提に立つもので、ゆえに日本は一つの文明的使命を背負っ ているとし、東洋が近代化に向かうことに日本が手を差し伸べるべ きであるだけでなく、西洋が東洋を理解する手助けをするべきであ ると捉えていた。なぜなら日本だけが東洋・西洋両方を兼ね備える 真の普遍性を具えた国であり、西洋の普遍性はつまり、偏った欧州 性であると考えられていたからである。 白鳥庫吉は、満蒙の地で調査を行った上で、言語学・考古学によ り提唱された革命的な理論を引用し、東洋と西洋はいずれも敬天思 想を有しており、これが満蒙から東西方向に展開され、後に西洋は キリスト教を発展させ、東洋は儒教を作り出したという主張を提唱 した。日本を万世一系の神道思想に基づき、世界唯一の神国と位置 付けたのも、白鳥庫吉の天皇主義への絶対的な信仰を反映したもの である15。したがって、白鳥は、主体意識が明晰かつ不明瞭な点が一 切ない自己認識の下、大和民族は積極的に各種外来文化を吸収する ことができ、特に北方蛮族の挑戦により尚武精神が形成され、当代 の主体に融合され続けてきたとした。そして、まず王朝交代の度に 文化保守主義に陥り、停滞の様相を呈した中国を超越し、次に東洋 を理解しようとしない西洋を超越し、その後、当然の成り行きとし

14 Heisig, James W.Philosophers of Nothingness. Honolulu: University of Hawai’i Press,

(2001), pp8-9、呉汝鈞『絶対無的哲学:京都学派哲学導論』商務(台北:1998 年)、 1-24 ページ。

15 Tanaka, Stefan Japan’s Orient: Reading Pasts into History. Berkeley: University of

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て、世界で最も先進的な民族となったという体得を得ることができ たという。 文明の架け橋 群体として 個体の精神として 養成が待たれるもの 蔡培火の台湾 タゴールのインド 最初から存在したもの 西田幾多郎の神国 岡倉天心のアジア 欧州大陸思想を深く研究した西田幾多郎が次に直面したのは、日 本民族の主体をいかに表現するか、中でも一見相互矛盾する東洋と 西洋をどのように包含しうるのかを説明することであった。合理的 に聞こえる自我哲学を提唱できなければ、日本が内在する分裂に影 響を受けつつも主体性を失わずにはいられないのではないかと考え たのである。そこで、西田哲学または西田哲学から発展した京都学 派が表現または解釈を試みた相手は、あたかも個体の自由を認識の 前提とする西洋の勢力であったように考えられる。西田幾多郎の哲 学の使命の一つとして、神道集団に帰属する日本民族の自我が、東 洋と西洋の間にあっても混乱しないのは何故か、を西洋の自我の観 点から説明することにあった。西田幾多郎は、大正・昭和の移り変 わりの時期において、漸次的に「無の場所」理論、すなわちこの問 題に対する最終的な解答を完成させつつあった。無の場所とは、あ る言語で表現できないものであり、言語の前且つ意識が及ばざる深 層、すなわち論述する客体のある基体とは決して成りえず、それぞ れの具体的な場を見たうえでの日本民族の自我である。場の中の日 本については、直面する場の中の対象、この場の中の自我が場から 退去して、別の場に再度進入することができると、更に根本的な基 体の存在を証明したことになる。もし、基体の作動を経なければ、

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場を換える意識は存在するわけがない16 このように意識され得ないゆえに、無の場所に存在する基体によ って、東洋と西洋の間の双方向の文明の架け橋が大和民族と自然に 共生することになった。西田が大量に文明の架け橋の描写を用いて いなかったとしても、神道から派生した神国は、既に固定の文化内 容を自己認識の基礎とする必要がなくなっており、いかなる文明へ 赴くこともできる。また神国の本質に至っては、神国の名を以って、 または無の場所に引き下がって、または歴史の基体と称したり、世 界史の立場と称したり、または文化古層を作るなど様々に語られ、 文明改造の責任は存在せぬかのように、タゴールが汲々として育成 した個体化の文明融合の能動とは全く異なっていた。したがって、 一種の包括しないものはない静態の観念の中にありつつも、行く手 を阻まぬ動態の可能性が開かれている。これを推論すれば、このよ うな文明の架け橋という自然存在は、既に存在し、且つ必然的に存 在し続け、その中で明晰に説明せずとも見て取れるものは、このよ う な 文 明 の 架 け 橋 は 神 国 日 本 に し か 存 在 し な い と い う こ と で あ っ た。西田の文明の架け橋は、したがって集団的・静態的な性質を持 つが、純粋経験の下で発生した行為を過度に強調しているため、い ずれの具体的行動案の内容も批評のための基準が欠乏していた。ま たしたがってどのような案の進出も哲学上、可能とされた。 しかし、積極的行動の欲望の中に置かれた日本思想界・政界にお い て 、 こ の よ う に 既 に 融 合 的 ・ 静 態 的 と な っ て い る 自 我 画 定 の 結 果、発生した対比効果は例えようもないものであった。彼らは焦慮 しながらタゴールを受け入れまた反駁し、彼らはいかに無の場所で

16 中村雄二郎著、卞崇道・劉文柱ら訳『西田幾多郎』三聯(北京:1993 年)、141 ペー ジ。

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想像上の文明の架け橋に安住できるであろうか。京都学派の思想家 達はその後、戦後、酷評されるようになった座談会「近代の超克」 に出席しており、その場で「世界史の立場」から軍国主義が米国に 対して発動した太平洋戦争を支持し、古事記の神国「八紘一宇」を 引用した。その結果、一瞬にして無の場所は、全有の場所に変わっ たのであった17。実際、太平洋戦争勃発前、日本は既に中国を侵略し ており、太平洋戦争の初期 4 年間は盧溝橋事変、更にその前には冀 東防共自治政府が崩壊、更にその前には1931 年満州事変およびいわ ゆる満州国の王道楽土建設への参加が発生しており、それは無の場 所を世に問うて5 年ほど経過した 1926 年よりも後のことであった。 満州と無の場所がどのように相互に照らしあったかを分析すれば、 文明の架け橋論が事前には予想できなかった発展を展開したことが 明らかに示されている。

四 無の満州への進入

満州は、日本軍国主義が理想とした王道楽土であり、またタゴー ルと日本の間で決裂が始まった箇所であった。タゴールは暴力に反 対し、戦争には更に強い反対を示した。タゴールは欧州の歴史発展 過程を反省・検討の重要なスタート地点の一つとしたが、これは欧 州が発動した世界大戦が正に人類文明に対する破壊だったからであ る。日本軍が、1931 年に正式に満州に進入して直ぐ、かつて中国滞 在中に不都合に遭ったタゴールは、中国のために奔走した。タゴー ルの中国に対する思いは想像に難くない。中印両国が同じく帝国主 義の蹂躙を受けた古代文明である反面、物質文明を救うに足る豊富 な精神遺産を有しており、更には歴史上、中国はインド文明からの

17 林鎮国「京都学派跨越戦争與世紀末」『中央日報』1999 年 2 月 8 日、23 ページ。

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伝来を受け入れたこともあり、両者が同盟を想定することに何の困 難もなかった。したがって、中国のマルクス主義者はタゴールと対 立していたものの、タゴールの中国に対する関心と期待は尽きるこ とがなかった。これも、インド初の中国研究の高等教育機関が、タ ゴールが設立した国際大学であったことを説明しているだろう。そ して、タゴールが熱い期待を寄せた中国は、タゴールが二度も訪れ、 自説を説いて回った日本に侵略された。タゴールが日本と決裂する 気持ちを抱いたとしても、それは意外なことではない。 日本軍の手段は暴力的であったが、後世になってから思想的とい える要素があったことは無視できないとも解釈されているため、日 本帝国主義が西洋物質文明を模倣した結果であったとは断言できな い。その背景にはむしろ、タゴールとの対話も可能ではあったが、 タゴールが必然的に同意し難かったある種の文明の架け橋に関する 要素が潜んでいた。「満蒙生命線」という言い方を信奉し、満州事変 発動を画策した関東軍参謀石原莞爾(1963)は、事変後、満州占領 論を主張する立場から、満州建国支持へと転換したが、その実、石 原は、満州国の独立による自主的な五族協和・王道楽土精神の実現 に期待を寄せ、満州国を日本が中国および近隣アジア民族、延いて は世界に向けて示す典範とし、日本こそが普遍性の代表であること を 証 明 し よ う と し て い た の で あ っ た 。 こ の こ と か ら も 分 か る と お り、満州を日本の生命線とすることに見られるような、西洋との対 抗、つまり暴力を以って暴力を制す思想は、日本の満州戦略思想に 満ち溢れており、このような物質的な観点も後に大東亜戦争を発動 した背景的要素であったが、これだけには留まるものではなかった のである。完全に西洋を模倣するのであれば、満州に政権を構築さ せる必要などなく、西洋が真っ向から対立してきた時、揺るがぬ感 情と意志を持ち、意思を貫徹し、最後は国際連盟を脱退する決裂姿

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勢で志を明らかにすることなどなかったであろう。日本軍は溥儀皇 帝の公室との婚姻を成立させた結果、大量の日本人が満州への移民 という呼びかけに呼応し、荒野を開拓しようとしたが、その苦しみ の歴史に脈々と息づくのが、日本の近代思想において曖昧模糊とし た自己認識である。曖昧模糊としている理由は、古事記・日本書紀 に神話として記載されているもの以外に、適切な言語で内容的に十 分 に 表 現 さ れ て い る 神 国 の 記 述 が 存 在 し て い な い こ と が 指 摘 で き る。神道は、肉体を隷属させるなどの儀礼によって表現せざるを得 ないが、肉体の隷属は静止状態でなければならないことから、神道 の感情は拠所がないことも一つの理由であろう。 現代文明が象徴する進歩の力が、東洋専制主義の怨念から中国を 救えるかについてであるが、救えるのであれば、日本の神道の普遍 性を実証したことになり、また同時に何も包含しない無の場所を実 証したことと同義である。神聖な理想を携えて満州に渡った日本臣 民は、全く私利私欲の計算ずくで満州へ動員されてきたわけではな く、彼らの必死の共同奮闘は個人を遥かに超越した更に偉大な意義 を持っている。日本軍の暴力統治と腐敗政治の下、言語では表せな い移民達の王道楽土に対する期待は確かに存在し、王道楽土建設へ 参加できることへの誇りがあった。満州国の建設は、静態の神国に 行動力を満たし、行動者に自身が無の場所の終極に立ち会う者であ ると想像せしめたのであった。しかし、なぜ満州で、朝鮮や台湾で はなかったのかといえば、日本の殖民統治者が朝鮮や台湾では満州 ほどの強烈な王道への想像を掻き立てられなかったからであろう。 また、日清戦争で台湾を争奪した時代は、日本が世を挙げて西洋化 を目指す学習志向状態にあった時代で、成熟した文明の架け橋や覇 を争おうという十分な思想的準備もなかった。朝鮮と台湾が中国の ように東洋を象徴または代表する要素を持たなかったのに対し、満

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州が大陸政策の踏み台であり、大東亜共栄圏の実現を隠喩したもの だったことも指摘できる。しかし、その他にも、満州が思想的に特 殊な位置にあり、一部の論者の注意を引いたに過ぎない。 満蒙は、近代日本社会の自己認識において、常にある種の神秘性 を有し、満蒙に達した人は、人々から一定の尊敬を受けていた。Li Narangoa は出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう、1871~1948)による モンゴルへの密航事件の経過を記録しているが、この経緯は満蒙が 有していた無形の誘惑を説明している18。出口王仁三郎は、元々日本 で宗教性の高い神道結社大本(教)を運営しており、欧州各国で平 和理念を宣伝し、アジアでは団結して殖民主義に対抗することを奨 励していた。また、世界文明の架け橋を自負し、世界平和達成を終 極目標としていた。軍国主義の台頭に伴い、出口は人道主義を説き、 国家神道を疑問視し、民俗信仰回帰を提唱したため、嫌疑をかけら れた。出口は同時に領土拡張も主張したが、1921 年には日本軍に軟 禁され、叛逆罪を糾弾された。1920 年代には、大本教が満蒙占領で 東亜統一世論を鼓舞し、石原莞爾ら関東軍将校と意気投合し19、精神 の東洋で物質の西洋が圧制する満州を開放すると主張した。 しかし、1924 年にモンゴルをアジア文明の発祥地であると見なし た出口は、機会を得てモンゴルに潜入し、ラマに扮し、後には千人 規模の一部隊を率いてモンゴル独立運動を支持、馬賊同様に身をや つし、張作霖と対峙もした20。出口の動きが報道により明らかになる

18 Li, Narangoa “Universal Values and Pan-Asianism: The Vision of Ōmotokyō,” in Sven

Saaler and J. Victor Koschmann eds., Pan-Asianism in Modern Japanese History:

Colonialism, Regionalism and Borders. London: Routledge. pp. 52-66, (2007), pp. 52-66.

19 石原莞爾(1889-1973)は、山形県出身で、陸軍士官学校・陸軍大学を卒業した陸軍中

将。満州事変の主謀者の一人。

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と、満州浪人および大アジア主義者は大きく力づけられ、本土でも 大きく世論を動かした。一瞬にして出口は英雄視され、ひいては仙 境における国王にも例えられた。半年後、出口が日本に帰国すると、 本人は満蒙の農業発展促進と日本の人口過剰問題解決のためにわた ったと語り、各界から競って来賓としての招聘を受けるようになっ た。これにより、モンゴルと満州は日本の冒険家・理想主義者たち が思いを馳せる聖地となった。これも出口が満蒙へ向かう上での自 身に課した使命の中心となる精神を代表していた。帰国後は、出口 は自身の日本に対する忠誠を証明したことになり、元々出口が背負 っていた法律問題がほぼ雲散霧消し21、叛逆罪が洗い流されたのであ った。 満蒙について日本が追求しようとした歴史過程における日本の役 割については、白鳥庫吉の説に遡る必要がある。白鳥庫吉は、絶対 的な天皇主義者であり、科学主義者・東洋学派の創始者であった。 白鳥は、伝統的な漢学の研究方法を排斥したほか、言語学・考古学 など各種の西洋の科学的方法を中国研究に対して具体的に運用し、 普遍性のある抽象理論を提唱し、自身の研究設計のガイドラインと した。Stefan Tanaka は、白鳥庫吉をアジアの東洋主義者であると位 置付け22Edward Said が欧州作家が書いたイスラムに対して提起し た東洋主義批判を引き合いに出して論じた。これにより白鳥は時代

るモンゴル独立運動支持を開始して後、張に警戒され、最終的にはバヤンタラで壊 滅した。 21 裁判所は出口の判決で、最終的には第 1 次大本事件が引き起こした社会不安の責任 だけを問い、1924 年に軟禁状態を脱走して満蒙に潜入して活動したことについては 法律上の責任は問わなかった。

22 Tanaka, Stefan Japan’s Orient: Reading Pasts into History. Berkeley: University of

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の寵児となったが、実際には白鳥が覇権を論じる上での地位を高め たのである。故に白鳥が西洋の圧力に対応するため、日本自身の地 位を模索した時、欧州の東洋主義者の心の中に神という基盤があっ たのとは違っていたということも認識していた。白鳥は、漢学の訓 練という豊かな素養を有しつつ、西洋の学問にも同時に精通してお り、強い動機をもって、いわゆる西洋に対面していたのであり、日 本自身に帰属するイメージを構築し、東洋専制主義の怨念を既に脱 却して、西洋と平行した地位を取得していた23。Tanaka は白鳥がどの ようにして中国の構築を通じて、また日本が東西の間の文明の架け 橋の位置を取得することで満蒙に重要な位置を与えたかを実に詳細 に理解したのであった。 Tanaka の考察によると、白鳥は津田左右吉を含む一団の学生を率 い、1906 年に始まった後藤新平主導による南満鉄道調査局に参加、 東洋学を基礎に、1908 年から 1914 年にかけて「満州朝鮮歴史地理調 査」を完成させた。白鳥らは客観的な中国農村理解を通じ、大陸地 区に対する誤解を解消しようとした。調査局は学術・軍事・政治・ 経済など異なる需要により発展した実証研究の知識があったが、政 策に合わないことから最終的には閉鎖された。いずれにせよ、日本 が主導した南満鉄道の管理は日露戦争後の趨勢であり、日本の大陸 政策および大東亜共栄圏の前触れであり、したがって帝国主義の活 動とも密接な関連を持っていたのであった。白鳥が元々企てた満州 の政治的中立維持は、日本の過度の野望が列強の干渉を呼ばないよ うにするためであったが、後に米国世論が中国傾倒を強めていった ことから、満州を日本の領土とし、防衛することを支持していくよ

23 石之瑜・葉紘麟「東京学派的漢学脈絡:白鳥庫吉的科学主張及思想基礎」問題與研 究』45 巻 5 期、1-1 ページ。

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うになった。満州国成立後、日本の中国通は派を問わず全て、程度 こそ異なれ全て満州国建設支持を表明し、満州国は日本が中国に範 を示す重要な舞台であると認識するようになった。一見、白鳥の研 究と政策は極端なようであるが、改めて満蒙に重要な文明起源とし ての地位を付与したため、太平洋戦争発動時には、京都学派は世界 史の立場に立つという一つの思想的基礎を提唱することになった。 Tanaka は、日本が西洋文明と地位の平等を勝ち取り、西洋を超越 したという白鳥学説の中心的な問題意識を理解していた24。白鳥が考 察後、指摘したのは、満蒙は東西文明の共同の起源であり、それが 西洋に伝わりキリスト教が形成され、東洋に伝わった後は敬天の儒 教が形成されたのであり、天のレベルにおいて、東洋と西洋は平等 な位置にあるというもので、後に儒教が中国と日本の間でそれぞれ 別々に発展していく中、中日間にも文明上の平等が促成されていっ たということである25。白鳥はここから一歩踏み込んで、中国の歴代 王朝による統治と日本の万世一系の違いから、中国がなぜ文化保守 に陥り、日本は絶えず学習と進歩が可能になったかを解説した。そ の結果、日本は西洋に比べて、東洋を把握しやすく、加えて、日本 は西洋からも学習できたため、日本は西洋に比べて更に普遍だとし た26。白鳥は、西洋科学の言語という言い回しで東洋を表現・理解し たが、それは西田が西洋哲学言語によって無の場所哲学を形成した のと同様、どちらも日本を西洋より普遍的な文明の架け橋という位 置においているという点で共通している。東京学派と京都学派の間

24 白鳥を日和見主義だとした(Tanaka 前掲書、59 ページ)。 25 作者不詳「中国古伝説之研究」『東洋時報』(東京都:1909, 1/31)、出典:劉俊文編、 黄約瑟訳『日本学者研究中国史論著選訳第一巻通論』中華書局(北京:1992 年)1-8 ページを参照。 26 Tanaka 前掲書、134-141 ページ。

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では議論が絶えなかったが、前者は全面的に軍国主義を支持したの に対し、後者の参与は限定的だった。前者は親陸軍的で、後者は親 海軍的であった。但し、白鳥と西田の間には、満州が無形の形で両 者が相互補完できるものとして存在しており、満蒙を人類文明の共 通の起源として見なすにしろ、或いは満蒙を行動者が見るものに行 動を表現して見せる場所として存在するものとしたにせよ、いずれ にしろ日本が東洋・西洋の間に存在し、なおかつ西洋の文明の架け 橋よりも高い地位にあることを象徴するものとして存在していた。 満州への移民と開拓は、王道楽土建設の呼びかけに呼応し、静態で ある無の場所哲学に行動のエネルギーを注入したに等しかった。 静態である無の場所と動態である満州王道楽土の間に緊張が発生 するのは不可避であった。このような関係は長い間解決を見ていな い。戦後の日本思想界は、満州介入の歴史を回顧するに当たり、依 然として、王道楽土の意義を問い続け、満州への神秘的な期待を放 棄していない27。日露戦争100 年かつ世紀の変わり目にあたり、有名 女優常盤貴子が主演する満州国に関する映画とドラマが相次いで世 に問われた。映画は「赤い月」(2003)で、ドラマはミニシリーズの 「流転の王妃・最後の皇弟」(2004)であった28。監督達は、同様の 問題意識で独創的な方法で、静態の場所と動態の王道楽土の間の緊 張を解消していた。映画とドラマでは、軍部の粗暴が暴露され、批

27 教科書が満州国を未だ「満州国の五族調和は、王道楽土建設の呼びかけで、日本の重 工業が進入したことにより、急速な経済成長を実現し、中国人などの人口流動が明 らかに増加し、満州国建国が既成事実がしていった…」と解説している。 28 「赤い月」は、直木賞受賞人気作家なかにし礼が 2001 年に出版した同名の人気小説を 改変したもので、作家の母親が満州で過ごした生活をモデルにして創作した長編小 説。「流転の王妃・最後の皇弟」は、満州国皇帝弟の溥傑の王妃、愛新覚羅浩(嵯峨 浩)著の自伝式史実書である。

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判されたが、批判するものの目は満州の住民とは関連がなく、移民 の女性または政治的策略で満州に連れてこられた日本の王妃を通し たものであった。背景に撮影された満州住民は単に背景に過ぎず、 抗日運動のエピソードに至っても、主に一人の日本人の革命女性を 通したもので、溥儀にいたっては、怒りやすく脆弱で依存的で女性 的な通俗的な印象が繰り返し描写されている。 平和な日本と満州の間の連携も、女性によって完成されていた。 例えば、生育と新生活を創り出すのは日本女性であり、日本と満州 王室の間をつないだのも日本女性で、革命に参加し、軍国統治に抵 抗したものですら日本女性であった。このように女性化された王道 楽土は、生活の瑣末事の中、または全く警告のない危機においては 表 現 で き ず 、 む し ろ エ ネ ル ギ ー と 熱 意 が 満 ち て い る ほ う が 望 ま し い。不幸なことに、男性化された王道楽土の実践者の手中で、最終 的に理想は雲散霧消した。一種、受動的な動態が劇中、現れ、満州 または中国の無言の中から、および女性が軍部や戦争の無言に直面 する中、受動的な見るものは目立たなかった。神国の精髄は、女性 による王道楽土への母性的加護において溢れており、満州を離れる 刹那には、常盤貴子の目に映った赤い月が、依然として暖かく誘惑 を発散していたのであった。 西田が提唱した無の場所理論は、神国の感情に代わって、一種表 現できる言語を探し出したものであり、かつアリストテレスの基体 概念に遡るゆえに、西洋思想伝統の深淵から出た言語でもある。こ れによって、日本の深層の自己認識は言語が存在する必要がなぜな いのかを説明し、ある種更に遡れない終極に存在する「見るもの」 は、認識を加えられ得る「働くもの」の根源であり、したがってそ

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れは無でしかありえない29。行動者ではありえないため、言語はもち ろん存在せず、また形体も存在しない。思想上の動態はほとんどゼ ロに近く、これは西田の無の思想で個体の能動性が培養できない理 由である。30それは、神国の性質が不動の荘厳の中だけで間接的に体 得できるものだからであるが、零一体の反面は無限大で、すなわち 具体的行動案の提示がない状態においては、信仰者はどのような場 に入って行動しても良いということになる。 したがって、能動性のない個体は天皇の名による動員に抵抗する 必要はない。動員されることを賞賛する機会に遭遇することは、あ る種、それにより自身の存在意義の無限性を感じ取れるのである。 動員を受け入れて遍在する世界に進入する、または具体的なアジア に進入することは、西田思想が実践において得られた一種の出口と な っ た の で あ っ た 。 西 田 思 想 は 後 に 京 都 学 派 の 後 進 に よ り 誤 用 さ れ、軍国主義者から流用されたことで、大東亜共栄圏の類の極端な 願望を強化するために流用され、思想的には、一見する限りは合理 的な終局を迎えることができた。しかし、西田幾多郎が軍国主義の 動員力を促成したということはできない。歴史のタイミングから言 っても、西田哲学の形成は、満州事変や満州国建設よりそれほど早 かったわけでなく、南満鉄道研究部の設立後の華北農村研究とほぼ 同時代である。つまり、無の場所が依存する禅学の基礎とこれが投 射する神国の深淵は、いずれも西田と同時代の思想が共同で基礎を 提供しており、新しく創出された歴史的発展ではない。いずれにせ よ、無の場所という理論は、その他の言説に比べ、より効果的に日

29 藤田正勝「『場所』-根底からの思惟」、出典:成中英編『本体的解構重建-対日本 思想史的新詮釈』上海社会科学院出版社(上海:2005 年)340-342 ページ。 30 この行動者が表現する行為は、主客観意識の操作により発生する行為の意識ではな いため、西田は純粋経験と称し、具体的な行為、言語、思想で解釈できないとした。

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本の軍国主義が自身でもはっきりと説明できない行為の動力を説明 し、または表現できている。場所哲学の誕生によって、西田は神道 の 2 つの行為傾向、即ち個体レベルの寂静と集団レベルの追随、ま たは思想の絶対静態と実践の無限動能を外界に対して解説できたの であった。

五 結論

文明の架け橋という自己比喩は、弱者が自尊心を高めるための一 種の方法であり、個人化した修養により東西文明を融合することを 意味し、またタゴールが西洋に直面して表現した自信のルートでも あった。タゴールのモデルに比較して、西田幾多郎のモデルは、日 本全体に代わって一つの無の場所、同時に包含しないものはない場 所を探し出したといえよう。これは、可も不可もない場所であり、 どんな文明も発生しうることを前提としている。したがって、東西 の二大文明よりも基本的であり、更に原初であり、また後世の東西 文明間のギャップを超越するものである。このような場所に遡るに 際し、タゴールは前向きに文明の融合を追求し、相互学習による文 明融合のパラダイム展開を奨励したが、西田は全く異なり、全てを 日本の位置がなぜ哲学上東西文明の源にあるかにより説明した。し たがって融合は未完成の文明の架け橋者ではない。西田のモデルの 場合、源にはどのように行動したらよいかへの指針も存在せず、む しろ沈黙の静態を評価している。このように個体の能動性に思想の 準備を提供しない状況は、なぜ個体行動者が不動から動に至る過程 が完全に依存的であり得るかを解釈するのに役立つ。最初から文明 の源として存在するという哲学の位置付けによって、満蒙で王道楽 土を目撃したいという強烈な動機を解釈できるのである。このよう に見るものが働くものに回帰し、無の場所から有の場所に進入する

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のは、一見すると一種の堕落に見えるが、満州はこれに救済の機会 を提供したのであった。白鳥理論において、満蒙は東洋・西洋が共 有する起源の地であり、西田哲学の無の場所に符合している。京都 学派が後に無の場所論に基づき、八紘一宇の神道の場を取り入れて か ら は 、 満 州 が 文 明 の 架 け 橋 と い う 自 己 比 喩 を 実 現 し た の で あ っ た。このような自己比喩は、満州国の終局に伴って消滅してはいな い。母性化した見るものの懐で保存され続けている。 〈参考文献〉

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參考文獻

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