八∼十一世紀における花鳥画の変
著者
陳 韻如, 都甲 さやか
雑誌名
美術研究
号
417
ページ
1-42
発行年
2016-01-21
URL
http://id.nii.ac.jp/1440/00006070/
八~十一世紀における花鳥画の変 一
八~十一世紀における花鳥画の変
陳
韻
如
はじめに (一)問題提起 (二)研究の現況 一、花鳥画の語法―「造形」の観点から 二、花鳥画成立への胎動期 (一)花卉人物が並存する絵画表現 (二)庭園景の描写 三、花鳥画発展の基礎的条件 (一)瑞祥性の消去 (二) 「六鶴」図様の成立 四、花鳥画の成立 (一)黄氏父子 (二) 「随物造景」の完成 (三)徐氏体、黄氏体の相異について 五、花鳥画の発展 (一) 「景物交融」の結実 (二)造景と立意 結論はじめに
(一)問題提起 唐宋間に、絵画の成果において時代を分かつような改変はあったのだろう か。今日の学界は、唐宋両代における様々な結実の比較に関心を寄せている が、これは研究者の歴史分期に関する研究を発端としている。この考察は、 内 藤 湖 南、 宮 崎 市 定 が 唐 宋 の 発 展 段 階 を 区 分 し、 「 唐 宋 変 革 論 」 を さ ら に 発 展させて以来、重要な論点となってい る )( ( 。この論題に対する学界の反響は甚 だしく、絵画史方面でもそれに関連した進展が見られ る )( ( 。本論はこうした考 察の動向を踏まえつつ、唐から宋までの花鳥を題材とした絵画の発展と変化 を探り、花鳥画というジャンルの成立、画風に見られる表現とその変化、そ してそれがいかに用いられたか等について見解を提示する。 なぜ我々は、花鳥題材の成熟に着目すべきなのか。いわゆる「花鳥」とい う語は、唐代の絵画史文献に早くも見出され、それには作品と画家について も記載されてい る )( ( 。しかし絵画史文献の記述を詳細に見ていくと、記録と重 視のされ方において 「山水」 題材と大きな差がある。張彦遠の 『歴代名画記』都
甲
さ
や
か
訳
美 術 研 究 四 一 七 号 二 (大中七年 〈八五三〉 頃) 「論画山水樹石」 は 「山水の変は、 吳 (道玄。六八五? ~ 七 五 八 頃 ) に 始 ま り、 二 李 ( 李 思 訓〈 六 五 三 ~ 七 一 八 〉 と 李 昭 道〈 八 世 紀 前 半 に 活 躍 〉) に 成 る 」 と 述 べ )( ( 、 唐 代 中 期 に は す で に 山 水 画 に 重 大 な 変 化 が 起 こ っていたことを示している。しかし張彦遠は、これに比して花鳥画の発展に ついては多くを記しておらず、花鳥画と山水画を同等視してはいなかったよ うである。こうした状況は、 北宋中期に至ってようやく一変する。郭若虚 『図 画 見 聞 誌 』 ( 熙 寧 七 年〈 一 〇 七 四 〉 序 ) 「 論 古 今 優 劣 」 に「 若 し 山 水 林 石、 花 竹禽魚を論ずれば、則ち古は近に及ばず」とあるよう に )( ( 、絵画史における花 鳥の地位評価が向上して山水画に並ぶものとなり、花鳥画と山水画は、古人 に勝る近代人の達成とされている。北宋中期の絵画史論者にとって、花鳥画 はもはや軽視されるものでなく、山水画と同等の地位に昇り、すでに古人が 成しとげたものを超えたのである。こうした張彦遠から郭若虚に至るまで、 八世紀から十一世紀中葉までの異なる画題に対する評価は、まさに花鳥題材 が絵画史の中で高い地位を得たことを窺わせる。 唐宋間における花鳥画の発展と変化は、絵画史が評価する系統の変化に明 示されるのみならず、絵画題材の系統の発展変化からも見て取れる。その進 展 は、 ま さ に「 山 水 」「 花 鳥 」 と い っ た ジ ャ ン ル の 概 念 が 次 第 に 発 展 し、 整 っ た 系 統 と な る ま で の 過 程 で あ る )( ( 。 十 二 世 紀 初 頭 に 編 纂 さ れ た 徽 宗 ( 在 位 一 一〇〇 ~ 一一二五) の宣和内府における所蔵絵画目録 『宣和画譜』 には、 「花鳥」 一部門が録されているが、その点数は二七〇〇点余りと最も多く、その他の 部門をはるかに超えている。これはその過程の最も良い証左となるだろ う )( ( 。 しかし、北宋末の宮廷コレクションでは花鳥画の点数が首位であったとし ても、今日現存する作品は非常に限られ、特に北宋以前の作例は少ない。以 前であればこの時期の唐宋花鳥画史に関しては、きわめて少数の伝承作をも とに肉付けするしかなく、さらに一歩進んで論じることのできる絵画史の状 況も非常に限られていた。しかしここ十年間、唐五代の葬墓壁画が次々に出 土したことで、我々の視野が広がっただけでなく、同時に我々のこれまでの 花鳥画史に対する把握の見直しが試みられた。実際、以下の二つの要素につ いて、花鳥画史の論述に変化が表われた。一つは現存作品の欠如、いま一つ は「写実」の枠組みで花鳥画の発展を語ることである。前者は出土資料によ り進展を促され、後者すなわち「写実に近づくことを花鳥画の発展とする従 来の基準」 は、 考古資料の増加によりさらなる挑戦がなされることとなった。 こ れ ら の 挑 戦 は、 「 写 実 」 に 対 す る 判 断 が 主 観 的 意 見 に 左 右 さ れ が ち で、 前後の序列を整然と揃える一個の規範を容易に打ち立てられないことに一部 起 因 し て い る。 そ れ ゆ え、 出 土 資 料 の 増 加 が、 相 対 応 す る 時 間 の 序 列、 「 写 実様式」の判別に基づく表現の序列において、矛盾や難解な問題、諸説紛々 の混乱した状況を生むことは避けられな い )( ( 。こうした、写実に基づく論述が 美術史研究に与えた制限についてはさらなる研究の深化が待たれ、本論の主 旨とするところではな い )( ( 。しかし花鳥画史の発展を考慮すれば、画中の題材 が 自 然 景 観 に 依 拠 す る も の で あ る 以 上、 「 写 実 」 の 追 及 は、 自 然 の 模 倣 と 参 照という問題と、いくらか切り離すことのできない関係を持っている。これ もまた、時代を跨いで共通に目標とされたものの一つと言える。しかしなが ら、花鳥題材が最も急速に発展した八~十一世紀の四〇〇年間において、た だ「写実」傾向という解釈の枠組みだけから、注目に値する段階的な差異が あるかを確認するのは実のところ難しい。さらに言えば八~十一世紀におけ る花鳥題材の興隆は、この時期がまさに「絵画」という分野の確立期であっ たことを意味しており、それはまた花鳥画が絵画になっていく発展過程でも あった。ただどれだけ自然物を正確に写し取れているかに依拠するならば、
八~十一世紀における花鳥画の変 三 それが目に見えて明確な指標であっても、花鳥画がいつ頃確立し、またいつ 新 た な 段 階 へ の 発 展 変 化 が あ っ た か を 指 摘 す る の は 難 し い。 従 っ て 本 論 で は、 「 造 景 」 を 分 析 す る 手 段 を 提 示 す る。 こ れ は 画 面 表 現 に 基 づ く 考 察 方 法 であり、花鳥題材がいかにして絵画作品となるかを重要な論点とするもので ある。こうした観察分析は、あらゆる花鳥題材における発展の収集整理を目 標とするものではない。それは花鳥題材が、いかにして文様装飾に配される 一要素から絵画作品へと発展変化したか、特にその過程に注目するものであ り、また画面構成に着目した分析方法でもある。 本論はこの「造景」の考察を通して、八~十一世紀花鳥画史の発展の重要 な 成 果 を 明 ら か に す る こ と を 目 的 と し、 「 花 鳥 画 」 の 成 立 過 程 と、 そ の 中 の 各 段 階 で 生 じ る 発 展 変 化 を 見 て い く。 「 花 鳥 画 」 の 成 立 時 期 に つ い て は 学 界 でも意見の一致を見ないが、原因は実のところその判断基準にある。本論で は か な り 厳 格 な 定 義 を 採 用 し、 画 の 題 材 と な る モ チ ー フ の 出 現 を 指 標 と せ ず、 「画面の単元」 、つまり画面を成り立たせる個々のモチーフを意識した構 成 で あ る か ど う か、 言 い 換 え れ ば、 画 面 構 想 の 際 に、 「 画 面 」 を 一 つ の「 枠 組み」のある平面として意識的に捉え、その平面上の各々の「単元」が、い かに共同で一つの要求に応えうる「画面」を構成しているかに着目する。そ のためには、本論における「造景」に着目した分析が有益な助けとなるだろ う。 「画面」という観点から言えば、 「造景」もまた、画家が意識的に画面上 に「画面の単元」を配置したものだからである。 この他、本論は花鳥画の発展過程におけるいくつかの重要な成果を、以下 の要項を含めて分析する。まず一つ目、八~九世紀までの間に、花鳥題材が いかにして人物画、装飾文様等の異なる範疇の中から発展していったかを述 べ る。 そ し て 二 つ 目、 九 ~ 十 世 紀 前 後 に お け る「 随 物 造 景 」 ( 物 に 随 い て 景 を 造 る ) 手 法 の 成 熟 に つ い て は、 モ チ ー フ を そ の 生 物 的 特 性 に 従 っ て、 画 中 の 景観に配置できるようになり、花鳥画が独立して絵画の一ジャンルとなる基 礎となったことを述べる。三つ目には、 十世紀後半の黄筌 (? ~ 九六五) 、 黄 居 寀 ( 九 三 三 ~ 九 九 三 ) 父 子 と い っ た 画 家 の 達 成 に よ っ て、 元 々 の「 随 物 造 景 」 の 成 果 が 一 世 紀 を 経 て 発 展 し、 後 の 十 一 世 紀 に 至 っ て 崔 白 ( 一 〇 六 一 ~ 一 〇 八 八 頃 に 活 躍 ) の 筆 の も と、 さ ら に「 情 景 交 融 」、 つ ま り 情 趣 と 画 中 景 観の交融の追求へと発展していったことを述べる。 このいわゆる 「情景交融」 については、文学の分析を一部用いているが、画に内包された意趣を語るこ と に 限 定 せ ず、 「 画 面 」 上 の 構 成 が「 随 物 造 景 」 の 時 と 異 な る こ と を 強 調 し たい。すなわち、各々のモチーフが、その特性に従い「画面の単元」となっ ているだけでなく、各々の「単元」間の交流、それが一つの「交融」する全 体を成しており、それによって自然景観から離れた意趣や寓意を表すことが で き て い る と 指 摘 す る。 本 論 で は こ う し た 異 な る 段 階 を 見 て い き つ つ、 「 造 景」が目標とするところの修正と発展に従って、花鳥画が唐宋間に育まれて 成立し、そして発展する過程を見ていく。本論ではこうした一連の発展を探 ることで、唐宋時代における「花鳥画の変」とその揺籃の流れ、影響と絵画 史における意義を明らかにする。 (二)研究の現況 唐 か ら 北 宋 ま で の 絵 画 史 に 見 ら れ る 花 鳥 題 材 の 研 究 は、 二 十 世 紀 中 葉 以 降、膨大な考古資料によって次々に増補され、その研究成果はすでに相当の 蓄積がある。考古資料を通して、研究者は多くの唐墓壁画に人物行列、出猟 といった題材が見られることの他、花鳥題材が唐代にはすでに盛んに用いら れ、発展を見せていたことを指摘してい る )(( ( 。そのうち本論で考察する八~十
美 術 研 究 四 一 七 号 四 一世紀における花鳥画の発展に関連する研究、すなわち唐の中・晩期、五代 から北宋に至るまでの研究においても、多くの研究者が現存する絵画史文献 と出土資料を総合的に考察し、異なる面から花鳥画史の重要な課題を整理し ようとしてい る )(( ( 。まず、これまで学界が関心を向けてきた課題の一つである 「花鳥画」の起源と、その成立時期の問題について述べたい。 前述の通り、花鳥画の起源と成立時期については諸説あり、その判断基準 も異なっている。花鳥のモチーフ 禽鳥・植物といった題材 が描か れる時期について、金維諾氏、宮崎法子氏らは、各種工芸品に見られる古代 初 期 の 例 を 挙 げ て い る )(( ( 。 し か し こ う し た 工 芸 品 の 表 現 と、 唐 以 後 に 見 ら れ る 花 鳥 題 材 に は 差 異 が あ る。 エ レ ン・ ジ ョ ン ス ト ン・ レ イ ン ( Ellen Johnston Laing ) 氏 は、 十 世 紀 以 前 の 考 古 資 料 に 基 づ き、 唐 代 の 敦 煌 壁 画 と 葬 墓 壁 画、 各種の器物に見られる花鳥題材を、互いに交錯し連なる発展の一つの流れと 見て考察した。レイン氏は、この花鳥画発展の流れの起源について、商周、 秦漢時代の器物文様装飾との関係は比較的少なく、南北朝以来の仏教美術か らの影響によるものとし た )(( ( 。この見解は非常に重要で、 レイン氏は明らかに、 花鳥モチーフの有無だけでなく、花鳥モチーフの表現形態の観察に重きを置 いている。こうした見解は、秦代以前の美術に表われた花鳥モチーフの重要 性を否定するものではなく、花鳥モチーフの出現と花鳥画の成立は同じでな いことについて、我々にさらに一歩進んだ考察を促す。花鳥題材は装飾文様 の一種として、花鳥画史の発展と相互に影響し合ったものの、両者は必ずし も同じ流れから生まれたものではない。花鳥題材と装飾文様、この両者の関 係は交錯し合う複雑なもので、時代的な発展の序列の問題、地域間の文化交 流の影響など、その他の方面にも視野を広げてのさらなる研究の深化が期待 され る )(( ( 。 花鳥画の起源をめぐる思索は、研究者達が、花鳥文様装飾と花鳥画の間の 複雑な関係について論じ考察する契機となった。レイン氏は、花鳥画様式の 成 立 問 題 に つ い て、 ジ ェ シ カ・ ロ ー ソ ン ( Jessica Rawson ) 氏 に よ る 唐 代 金 銀 器の文様の研究成果を参考に、何家村で発見された金銀杯に見られる花鳥文 様を例とする、花鳥題材が人物イメージから離れ独立した表現となっている ものに注目し た )(( ( 。レイン氏は、八世紀初期に、もとは画面構成の中心軸であ った人物像が花卉禽鳥に取って代わられ始め、新たな花鳥の構成パターンが 育まれたと推察している。しかもこうした表現は、次第に花卉禽鳥の自然な 様態の描写を重んじるようになり、八世紀には花鳥画の態が形作られ始め、 さらには金銀器や染織品、壁画など、異なる媒体に現われてくるのであ る )(( ( 。 実際、八世紀に徐々に現われ始めた、しばしば画面中央に主要モチーフを置 く花鳥構図モデル「中軸対称構図」は、この後たびたび踏襲される表現技法 となる。レイン氏は遼墓壁画に見られる花鳥題材の分析を通して、この技法 が遼墓においても引き続き用いられていると指摘し た )(( ( 。 起源の問題の他に、日に日に増加する考古資料の発見に刺激され、研究者 達は絵画史文献をめぐる課題に取り組み始めている。例えば唐代における花 鳥題材の結実について議論した研究は非常に豊富であり、多数の研究者が、 絵 画 史 文 献 と 出 土 品 の 関 係 を 明 確 に し よ う と し、 そ の 中 で 薛 稷 ( 六 四 九 ~ 七 一 三 ) の 六 鶴 様 式、 花 鳥 画 の 大 家 で あ っ た 辺 鸞 ( 八 世 紀 後 半 ~ 九 世 紀 初 頭 に 活 躍 ) の 画 風 な ど が 注 目 さ れ て き た )(( ( 。 小 川 裕 充 氏 は、 自 ら の 慶 陵 遼 墓 壁 画 に 関 する研究と関連付け、唐の薛稷の六鶴様式と、四季を時系列に配する表現が 関係する可能性を指摘し、花鳥画の表現を時間と空間の構成システムにおい て考察、唐宋花鳥画における画面構成の系譜の変化について論じ た )(( ( 。小川氏 は、花鳥の様式に注目する中で、造形形式に限らず、その様式の内包する意
八~十一世紀における花鳥画の変 五 味について指摘を試みたが、成功か否かにかかわらず、唐宋花鳥画研究に新 しい視野を開いた。言うまでもなく、花鳥題材の内包する意味についての研 究は重要で、レイン氏は二〇〇三年、考古資料をもとに晩唐、宋、遼代の花 鳥題材の発展についてさらなる見解を加えた。その中で氏は、九世紀より花 鳥題材が葬墓壁画に多く見られるようになるが、これには一族繁栄の祈願が 込められており、花鳥草虫といった題材の象徴的意味や同音の言葉合わせな どは、子孫の安寧、富貴利禄への期待が重ねられていたと指摘している )(( ( 。ロ ーソン氏も同様に、花鳥画の内包する意味を考察したが、氏は器物文様装飾 の 発 展 に 着 目 す る 中 で「 相 関 的 宇 宙 観 」 ( correlative cosmology ) を 提 唱 し、 早期中国の祭器、墓葬、山水、花鳥などの伝統をこの哲学的観念の中に統合 することで、さらなる考察を加えた )(( ( 。レイン氏とローソン氏は相次いで、異 なる観点から花鳥題材と内包される意味について考察を行なったが、こうし た研究は、花鳥画史に関する議論が、形式表現の考察から内包される意味を 考察するものになったことを明示している )(( ( 。 画風様式や画の内包する意味についての論考は、言うまでもなく、みな新 しい出土資料に基づいている。その中でも、一九九五年に公表された北京市 海淀区八里荘出土の王公淑夫人呉氏合葬墓壁画 《牡丹蘆雁図》 (大中六年 〈八 五 二 〉、 北 京 市 海 淀 区 博 物 館 蔵 )( 挿 図 ( (()~ (()) は、 重 要 な 鍵 と な る 作 品 の 一つである )(( ( 。 )( (訳者註 《牡丹蘆雁図》は、 明らかに中軸対称構図に属する作であるが、 花や枝葉の描写は細部に至るまできわめて豊かなものである。本資料の出現 は、研究者に本図と唐代の辺鸞の画風を繫げ考察することを促した )(( ( 。考古資 料を絵画史文献と関連付けることは確かに意義がある。劉婕氏は、多数の研 究者による成果を総合し、唐代花鳥画研究に対する葬墓壁画資料の功績を明 らかにしようとした。氏は、辺鸞の画風や装堂花、金盆花鳥、薛稷の画鶴様 挿図 ( -(() 《牡丹蘆雁図》全体 挿図 ( -(() 線描図 挿図 ( 唐 王公淑夫人呉氏合葬墓墓室北壁《牡丹蘆雁図》部分(大中六年〈(((〉、北京市海淀区八里荘出土) 挿図 ( -(() 《牡丹蘆雁図》部分
美 術 研 究 四 一 七 号 六 式 な ど の 例 を 挙 げ、 墓 葬 資 料 が「 空 有 其 名 」、 つ ま り 実 作 品 は 現 存 せ ず、 そ の名のみが残っている、というこれまでの絵画史の限界を修正し、絵画史文 献の記述を、実在のモチーフによって補充することができると指摘し た )(( ( 。こ うした研究の視野は非常に重要で、特に慎重に文献解釈とモチーフの分析に 向 き 合 わ な く て は な ら な い。 「 装 堂 花 」 と い う 語 が、 真 に 北 宋 の 絵 画 史 に し か見出せない語であるかといった問題についてはひとまず論じないこととし て、唐代の文献にある薛稷の画鶴の記載を例にしても、文字から図像の形状 をつかむことはかなり困難であるとわか る )(( ( 。考古資料を通してこうした諸絵 画史の語彙を明らかにすることは、絵画史の様相を把握する上での一助とな るが、これにより絵画史の変化の動向をいかに構築するかについては、今な お補う余地があ る )(( ( 。 現段階での唐宋時代における花鳥題材資料を通して、多くの研究者は、中 軸対称構図が八世紀以降も引き続き用いられることに注目しているようであ る。 レイン氏は、 葉茂台七号遼墓から出土した 《竹雀双兎図》 (遼寧省博物館蔵) が、古風な中軸対称構図に、新しい自然主義的な手法を加えることで、より 「真実」に近いものになっていると述べ た )(( ( 。加えて氏は、王公淑墓や王処直 墓などといった花鳥題材壁画の出土後、この二つの花鳥壁画を、中軸対称構 図を発展させた新様式と見なし、左・中・右の三幅に分け、中幅が比較的大 きく画面を占めることで、花卉禽鳥の描写がさらに細かなものになっている ことを指摘し た )(( ( 。こうした「写実」に関する諸々の論考は、いずれも九、十 世紀の花鳥壁画に見られる花卉禽鳥の自然な生態表現が、さらに細部の描写 に及んだことを強調しているが、一方ではそれらが八世紀の中軸対称構図を 引き継ぐものであると指摘する。それにより三〇〇年間を一つのまとまりの ある段階と見なし、 いわゆる「新意」 (新しい意向) とはその途中に表われた 表象の変化に過ぎず、構成上の差異は認められないとした。言い換えれば、 こうした中軸対称構図モデルを八~十世紀を貫く基本概念とした考えは、き わめて容易に、花鳥画の基本構成が変わることなく維持されてきた印象を持 たせる。これは我々が、絵画史の発展過程における変化の段階を考察する上 で利にはならない。 こうしたことから、本論では花鳥題材がいかにして一幅の「画」となった かに着目することで、一つの画面から構成される「花鳥画」と、その中で用 いられる語法について考察し、花鳥画を構成するモデルを熟考することで、 唐宋間における花鳥画発展の歴史的意義を明らかにする。文章の語法を解析 するがごとく花鳥画を分析することで、禽鳥や植物といったモチーフが、ど のように花鳥画の「画面の単元」となっているかを見ていき、さらにこれら 表現の単元が、いかにして互いに関係を生み出しているかを考察する。この ような交流関係の発展過程は、個々の表現の単位間の一方的な関係から、複 雑に交錯し合う関係に発展していく。すなわちそれは、語法が簡単なものか ら複雑なものまで、単語の連結によって句を形成し、さらに句がまとまった 章を形成するのと同様である。こうした花鳥画の構成語法について、 「造景」 という観点から論を組んでいくが、考察の過程で、それら運用モデルの差異 から、花鳥画の一様ではない発展段階を明らかにできるだろう。本論では、 内 容 を 以 下 の よ う に 分 け て 考 察 を 進 め る。 ま ず 花 鳥 画 の 構 成 語 法 を 説 明 し、 「造景」という枠組みの分析モデルを解説する。そして花鳥画の成立に至る 胎動期を、人物や花卉、花園の景など、花鳥画成立以前の花鳥題材の表現に よって明らかにする。また、花鳥が独立して描かれる対象となったことの前 提を説明するため、 花鳥画成立の基礎について述べる。例として、 「去瑞物 (瑞 祥 性 を 消 去 し た ) 」 後 の 新 し い 造 形 手 段 お よ び 絵 画 様 式 の 成 立 を 挙 げ る。 さ ら
八~十一世紀における花鳥画の変 七 に 花 鳥 画 の 成 立 に 関 し て は、 黄 筌 父 子 の 達 成 を 例 に、 「 随 物 造 景 」 の 完 成 に ついて述べ、この成果が十世紀中期の段階における成果であることを指摘す る。 そ し て 花 鳥 画 成 立 後、 北 宋 の 段 階 で の 発 展 は、 「 景 物 交 融 」 に よ っ て 理 解されることを述べる。
一、花鳥画の語法
「造形」の観点から
本論では、絵画が画面上にモチーフを配する際の考慮を、画面の構成語法 と し て 捉 え る。 こ の よ う な 考 察 は、 「 造 形 」 と い う 観 点 に 基 づ く 論 述 方 法 で ある。つまり語法が、言語を使用する中で明確になっていくように、花鳥画 の構成語法というものもまた、花鳥題材の表現過程で整理されていく。本論 では、花鳥題材が花鳥画として独立するまでの過程を考察するために、花鳥 画成立後の画面構成の主要原則を推察する。この一考察は、すべての花鳥画 の画面を構成する要素あるいは題材を収集するのではなく、個々の題材にお ける表現描写の抽出を試み、その中での組み合わせの論理に注目する。以上 のことから、唐代における花鳥画の結実を示す代表作とされる王公淑墓壁画 《牡丹蘆雁図》 を重要な起点とし、 本作品を例として考察を進めていきたい。 王公淑墓《牡丹蘆雁図》は、墓室の北壁にあり、高さ一・五六メートル、 横幅二・九メートルである。壁面周囲を紅色で縁取り、画面中央に一株の枝 葉を茂らせた牡丹が描かれる。二羽の形態を異にする雁が、それぞれ左右に 配 さ れ、 そ の 外 側 に、 そ れ ぞ れ 一 株 の 比 較 的 小 さ な 植 物 ( 右 は 秋 葵、 左 は 百 合 に 似 た 植 物 ) が 表 わ さ れ て い る。 画 中 の 牡 丹 の 枝 葉 は 多 方 向 に 翻 り、 花 々 もまた異なる角度から描かれ、細部の説明に十分な配慮がなされている。景 観の構成意図から言えば、この画面が中軸対称構図を用いていることの他、 二羽の雁が画面上に配される位置には注意を払うべきである。画面両側の雁 の形態は、一羽は正面から前方を向き、もう一羽は首を斜めに伸ばし、横向 きに花の叢の下に立っており、その形態の角度の転換と外見の細かな描写に ついてはすでに注目されてきた。ここでさらに言えるのは、二羽の雁がいず れも画面下方に配され、正面から前方を向く雁は、秋葵と牡丹の根元と水平 の位置に両足を置いていることである。両側の植物の枝葉は、雁の上方のそ う高くないところにあり、また雁の頭と首が正面前方に向きを変え、両側の 植物の間を行き来する景を描き出している。本壁画は、花卉植物を主体とし て、画面上に一個の地上空間を表わすことのできる花園の景を出現させ、そ の中に禽鳥を自由に行き来させているのである。 花卉と禽鳥の関係は、花鳥画を構成する重要な部分である。しかし両者の 関係を定めるためには、さらに地面にいる両者の全体での配置を見ていかね ば な ら な い。 《 牡 丹 蘆 雁 図 》 と 比 較 す る と、 ア ス タ ー ナ 第 二 一 七 号 墓 ( 八 世 紀 頃 作 )( 挿 図 () の 六 扇 花 鳥 壁 画 が、 そ の 処 理 に お い て 似 通 っ て い る と 言 え る。本壁画の禽鳥は、簡略に描かれた草が茂る地面に立つ姿で表わされてい る。しかしこの六扇屛風壁画における植物と禽鳥の関係はかなり簡素なもの で、六扇に表わされた花卉植物は各々異なる形態だが、一様に禽鳥の頭部か ら長く伸びてきたように表わされ、定型化された手法で禽鳥と花卉の前後関 係を表出している。こうした点を比較すると、王公淑墓《牡丹蘆雁図》にお ける花卉植物と禽鳥ならびにそれらのいる地面の配置関係はさらに細やかな ものとなっており、それによって互いの関係が効果的に明示されている。こ のように、花卉植物と禽鳥、そして地面の交錯的関係によって、その表現語 法の積極的利用が明らかにされるのである。 花鳥画の画面を構成する語法、すなわち花卉禽鳥などの各種モチーフは、 画面上に配置され、さらに一つの合理性を有した画面のまとまりを構成する美 術 研 究 四 一 七 号 八 ことができる。画中のモチーフは互いに理に適った関係を持ち、その場や景 観の中で一つのまとまりある画面を構成するが、それは野外景観の一角であ ったり、宮廷花園の景であったりするかもしれない。花鳥画の発展と表現を 考察する上で、景観が野外か花園かは重要でなく、またモチーフの表現が細 緻か簡略かで、モチーフの構図上の配置を考えることはできない。より重要 なのは、モチーフの互いの関係性に意識を向けて考察すること、すなわち花 卉植物、禽鳥、蜂、蝶の生態、生物としての習性等が、関係を構築する重要 な要素となっている点に着目することである。現存作例から鑑みれば、唐宋 花鳥画の発展の流れとは、実はこうしたモチーフの特性に従って景観を組み 立てていく過程であり、それこそがこの段階で目指された目標と言えるかも しれない。 以上の考察は、器物文様装飾によって花鳥画史を把握することの機能と限 界を明らかにする一助となる。 花鳥画を構成する語法の始まりを 「随物造景」 とすると、器物の文様構成は、それとはまた別の、異なる流れの産物と見な せる。時に絵画様式と発展を共にし、時に関連を持たないというように、両 者の関係は互いの目標とするところが同じか否かによっている。もし、文様 装飾の目指すものが「絵画画面」のような効果であったとすれば、両者が影 響し合った可能性はある。以下、まず花鳥画発展の前段階を見ていき、人物 と花卉の題材を共に描く表現方法に従って、花鳥題材が独立する以前の状況 について考察を加える。さらに、晩唐から北宋に至るまでの発展成果を見て いく。 挿図 ( 唐 アスターナ第二一七号墓(新疆ウイグル自治区トルファン アスターナ出土)
八~十一世紀における花鳥画の変 九
二、花鳥画成立への胎動期
(一)花卉人物が並存する絵画表現 六世紀にはすでに見られた、花を持つ菩薩や供養人、あるいは七世紀の唐 墓に見られる持花人物の図像、またあるいは八世紀に多く表わされた樹下人 物、花卉人物などの図像、それらはみな大量の花鳥題材が人物描写に付随す ることで表わされた絵画表現である。エレン・ジョンストン・レイン氏は、 かつてこのような作例の共通点に注目したものの、これら図様間の差異を分 けるまでには考察が及ばなかった。実際、こうした花卉と人物の並存する絵 画表現は、そのほとんどが「樹下人物」の伝統の継続的発展と見なされてき た。しかしこの見解は、人物と花卉が同時に表わされる「花卉人物」の図様 の中に、いくらか「樹下人物」とは異なる特色と意義があることを見落とし ている。 いわゆる 「樹下人物」 は、 六朝時代まで遡ることができる伝統様式であり、 そのうち比較的早期の作例として南京市西善橋宮山墓出土《竹林七賢・栄啓 期図》 画像磚 (南朝時代 〈五~六世紀〉 、南京博物院蔵) (挿図 () が挙げられる。 本図は樹木と人物を組み合わせることで構成され、全体の画面において、樹 木は人物を囲む枠となり、その他の人物との間を区分している。この他にも 花卉人物を描いたものとして、 人物が供物である花卉を手にした 「持花人物」 の題材があり、これも相当に長い時間をかけて発展した。その影響力はさら に早く、仏教と共に中原に伝来したと見られる。例としては、河南省鄧県出 土 の 彩 色 画 像 磚 墓 ( 南 朝 晩 期〈 六 世 紀 〉、 河 南 博 物 館 蔵 ) 、 洛 陽 市 邙 山 出 土 の 寧 懋 石 室 に 見 ら れ る 線 刻 人 物 像 ( 北 魏 時 代〈 六 世 紀 前 半 〉、 ボ ス ト ン 美 術 館 蔵 ) が ある。さらに花卉を手にする人物像の他に、人物と人物の間を花卉植物で区 分する図様もあり、このような花卉と人物を組み合わせる図様を以下「花卉 人物」と称する。こうした花卉人物の表現も外からの影響によると考えられ るが、前述した樹下人物図や持花人物図よりも後になって表われた図様であ ることは明らかである。 こうした花卉人物を一同に表わした作例として、陝西省咸陽市出土の李凰 墓 ( 上 元 二 年〈 六 七 五 〉) が あ る ( 挿 図 (― (()~ (())。 李 凰 は 唐 の 高 祖 李 淵 ( 在 位 六 一 六 ~ 六 二 六 ) の 第 十 五 子 で、 そ の 墓 は 高 祖 の 葬 ら れ た 獻 陵 の 陪 葬 墓 の 挿図 ( 南朝《竹林七賢・栄啓期図》画像磚(( ~ ( 世紀、南京市西善橋宮山墓出土)美 術 研 究 四 一 七 号 一〇 一 つ で あ る )(( ( 。 本 壁 画 に お け る、 植 物 や 石 塊 に よ っ て 人 物 間 を 区 分 す る 表 現 は、 敦 煌 に も 同 様 に 見 ら れ る。 甘 粛 省 敦 煌 市 敦 煌 莫 高 窟 第 三 三 二 窟 初 唐 様 式 の 壁 画 で、 《 李 克 譲 碑 》 ( 聖 暦 元 年〈 六 九 八 〉) を 有 す る の 東 壁 の 南、北側にはそれぞれ三名の僧侶が描かれるが、各人物間を花卉禽鳥および 怪石が隔てている )(( ( (挿図 (― (()・ (())。この「花卉人物」の図様は、 かつて「樹 下人物」の伝統と関連があると見られていたが、構図の意図から明らかにそ れが「樹下人物」の伝統図様の追求を超えているとわかる。例えば敦煌第三 三二窟壁画において、花卉は明らかに、描かれた供養僧の間を分ける独立し たモチーフとなっており、花卉と怪石はそれそのものが一個の画面の区切り であり、供養僧とは何の相互関係も見出せない。李凰墓甬道の壁画にも同様 に、人物間を分ける花卉が独立したモチーフとして人物の前後に配されてい るが、人物との間に特別な関係は窺えない。 こ の よ う な 作 例 に 対 し て、 「 樹 下 人 物 」 の 図 様 に お け る 人 物 と 植 物 の 関 係 はかなり緊密なものである。南京西善橋《竹林七賢図・栄啓期図》の例が示 すように、早期の図様において、植物は人物間を区分するものとして作用し ている。しかし後期の発展を過ぎると、多くの植物は、人物のいる空間描写 を引き立てるために表わされ、もはや画面を区切るためのモチーフではなく な る。 最 も ふ さ わ し い 例 と し て、 北 斉 の 崔 芬 墓 ( 天 正 元 年〈 五 五 一 〉) 北 壁 壁 画 (挿図 () が挙げられよう。本壁画の画中には、 樹木と人物が配されるが、 各画面を線で方形に縁取りし区分する屛風形式となっており、各々の画面の 分割が、樹木によらず行なわれている。さらにこれらの樹木は、必ずしも人 物の左右に配されず、画面の中央、あるいは画中に二本の樹木が同時に配さ れる時もある。このような画面配置における差異の他に、趙超氏は「樹下人 物」が内包する意味の多様性についても指摘している。氏は太原地域の葬墓 壁画に多く見られる「樹下老人」の題材に着目し、その内容の一部は竹林七 賢図を継承するものの、部分的には孝子図、あるいは高士の姿を表わしてい るとした。これら「樹下老人」の画において、樹木は明らかに画面中央に縦 線 を 引 く か た ち で 配 さ れ て い る。 さ ら に 趙 氏 は、 そ の う ち「 哭 竹 老 人 」「 泣 挿図 ( -(() 東壁 挿図 ( -(() 西壁 挿図 ( -(() 西壁 線描図 挿図 ( 唐 李凰墓甬道東壁(上元二〈(((〉、陝西省咸 陽市富平県出土)
八~十一世紀における花鳥画の変 一一 墓老人」等の画において、植物はもはや画中人物の営みを生み出す主要モチ ーフになっているとの見解を述べた )(( ( 。 言 い 換 え れ ば、 「 樹 下 人 物 」 の 人 物 は 依 然 と し て 画 面 の 主 体 で あ り、 樹 石 植物は多くの場合、画中人物の活動を引き立てるために用いられている。一 方「花卉人物」においては、画中の花石は一見まだ画面の主体ではないもの の、人物の活動の外へとさらに独立した。このように独立して存在する性質 を さ ら に 備 え 、人 物 の 活 動 に 表 現 を 限 定 さ れ な い も の に な っ て い る の で あ る 。 李鳳墓甬道壁画、敦煌莫高窟第三三二窟壁画の供養する人物に見える花卉人 物画の図様は、一般に知られている「樹下人物」の伝統に包括されるもので は な い。 陝 西 省 乾 県 乾 陵 の 陪 葬 墓 で あ る 懿 徳 太 子 墓 過 洞 壁 画 ( 神 竜 二 年〈 七 〇 六 〉) 、 章 懷 太 子 墓 甬 道 壁 画 ( 神 竜 二 年〈 七 〇 六 〉) な ど、 樹 石 と 花 卉 人 物 が 入り混じって描かれる画は、花卉と人物を共に表わす表現としてまとめるこ と が で き る。 懿 徳 太 子 墓 第 一 過 洞 に 描 か れ た《 馴 豹 図 》、 第 二 過 洞 の《 架 鷹 馴 鷂 図 》、 第 三 過 洞 の《 持 扇 宮 女 図 》 ( 挿 図 () は、 い ず れ も 人 物 間 の 区 切 り として樹石が配されている )(( ( 。このような部分は、主に従者の数の多さを際立 たせ、それと交互に配される樹石は、従者らのいる自然景の現実感を表わす 挿図 ( -(() 東壁北側 挿図 ( -(() 東壁南側 挿図 ( 北斉 崔芬墓北壁龕西側壁画 (天正元年〈(((〉、山東省臨胊県出土) 挿図 ( 初唐 敦煌莫高窟第三三二窟壁画(甘粛省敦煌市)
美 術 研 究 四 一 七 号 一二 ためのものであろう。すなわち自然の園林のようでありながら、段落的に分 けられ整然とした印象も合わせ持っている。 これらの中では 《架鷂戯犬図》 (挿 図 () の み が、 元 々 人 物 を 区 分 す る た め 配 さ れ た 樹 石 の 前 方 に、 一 匹 の 猟 犬 を描くことで、画面を段落ごとに分けた印象を軽減している。しかしそのた めにかえって、突出して自然な環境描写となっている。 本来、整然と並ぶ段落的な印象が強調されていた従者像は、次第に環境を より自然に表わすための処理と調整が強められた。章懷太子墓では、こうし た作例をさらに多く見ることができる。章懷太子墓の前後甬道両壁面に描か れ る 従 者 は、 そ の 間 隔 に 樹 石 が 用 い ら れ て お り ( 挿 図 ()、 前 室 東 西 壁 面 の 仕女図にも同様に樹石が表わされる。そのうち西壁面南鋪の《観鳥捕蟬図》 ( 挿 図 (0) は、 唐 代 の 葬 墓 壁 画 の 中 で も 重 要 な 花 鳥 題 材 の 作 例 と 見 な さ れ て いる )(( ( 。同墓前甬道西壁面の仕女図にも、樹石モチーフが見られるが、それは 依然として人物間を区分する作用を担っている。しかし前室壁画に描かれた 樹石は、明らかに画面を区分するためのものではなく、その独立性が大きく 増したことで、画中の庭園描写の一部分となっている。 人 物 と 花 卉 を 共 に 表 わ す 絵 画 の 処 理 方 法 は、 八 世 紀 初 期 に 最 高 峰 に 達 し た。こうした題材は、情景における人物花鳥の並存を強調することで、一方 では、庭園描写の需要と連動し、植物禽鳥の描写を増加させた。また一方で は、花鳥題材の流行によって花鳥が独立した絵画となることをさらに促した のである。 (二)庭園景の描写 花卉題材が絵画として独立していく過程で、それを構成する語法の発展も また多様な試みを経てきた。一例として、人物と花卉題材を共に表わす「花 卉人物」様式があるが、こうした花卉植物により人物間を区分する手段が、 ど の よ う に し て 植 物 や 禽 鳥 が 独 立 し 単 独 の 表 現 題 材 と な る こ と を 促 し た の か、その発展過程について明らかにすることは未だに難しい。しかし、前述 した章懷太子墓甬道と前室の、仕女と花鳥の描かれた壁画を例にすれば、こ 挿図 ( 唐 懿徳太子墓第三過洞東壁《持扇宮女図》(神 竜二年〈(0(〉、陝西省乾県出土) 挿図 ( 唐 懿徳太子墓第二過洞西壁《架鷂戯犬図》(神 竜二年〈(0(〉、陝西省乾県出土) 挿図 ( 唐 章懷太子墓前甬道西壁(神竜二年〈(0(〉、 陝西省乾県出土)
八~十一世紀における花鳥画の変 一三 うした人物像に花卉を伴う表現手法と同時に、花園の描写も増加、発展した と見ることができよう。 章懷太子墓墓室の《観鳥捕蟬図》は、花卉人物図と庭園描写が重なった代 表的作例と見なすことができる。もちろん、これ以前に花卉と庭園の場面を 表わす実例がないわけではない。しかし本墓室壁画の仕女図は、明らかに人 物と樹石、花卉などの植物モチーフの配置を重視している。画中の「観鳥」 と「捕蟬」は、人物と鳥虫の関係を示し、かなり明確にこの活動空間がとあ る「庭園」であることが示唆され、これにより宮女の庭園内での生活が表わ される。こうした配置において、仕女と鳥虫はもはや単なる並列ではなく、 互 い に 姿 態 を 呼 応 さ せ、 鳥 を「 観 」、 蟬 を「 捕 ま え る 」 と い う、 花 園 で 実 際 によく見られる動作で表わされている。言い換えれば、このような鑑賞的動 作によって明示されるモチーフ間の関係が、庭園描写における重要な要素と なったのである。 もちろん、こうした花鳥題材を積極的に強調する発展の流れの中には、そ れとは相対した保守的なもの、従来のモデルの延長と捉えられる作例も少な くない。それは今日「中軸対称構図 )( (訳者註 」と呼ばれる、モチーフを画面のちょう ど真中に置くモデルである。例として、 陜棉十廠墓 (開元二十八年〈七四〇〉 前 後 ) 墓 室 西 壁 面、 花 卉 と 石 頭 を 描 い た 屛 風 壁 画 の 残 欠 が あ る )(( ( ( 挿 図 (()。 画 面は中軸対称構図を採用し、アスターナ第二一七号墓の六扇花鳥壁画におけ る花鳥の構図と近似している。この類例は、十世紀に至るまで継続して見ら れる。こうした例を見ていくと、個別の絵画作品の画風には差異があるが、 この種の中軸対称式花鳥屛風は、継続性の強い構図類型であったとわかる。 ここで、これまで提示した従来のモデルとは異なる作例を挙げ、発展の状況 を対比させたい。 挿図 (0 唐 章懷太子墓前室西壁南舗《観鳥捕蟬図》(神竜二年 〈(0(〉、陝西省乾県出土) 挿図 (( 唐 陜棉十廠墓 M( 墓室西壁 線描図(陝西省西安市出土) 挿図 (( 唐 唐安公主墓墓室西壁(興元元年〈(((〉、陝西省西安 市出土)
美 術 研 究 四 一 七 号 一四 陝西省で出土した唐安公主墓 (興元元年 〈七八四〉 ) 墓室西壁面の花鳥画 (挿 図 (() は、 縦 一・ 八 メ ー ト ル、 横 三・ 八 メ ー ト ル で、 画 面 の 両 側 に そ れ ぞ れ 一本の樹木が配されている。木の梢は画面頂上部にまで接し、その両脇には それぞれ野鴨が舞い、画面中央には円形の水盆が一つ描かれている。盆の縁 に数羽の鳥が見えるが、それぞれ姿態は異なっている )(( ( 。唐安公主墓壁画の両 側の樹木は、伝統的な樹下人物図に見られる植物とは異なり、花卉人物図で 採用される丈の低い花卉植物に比較的近い。画中の両側に配された植物は、 画面上方で互いの梢が接するように表わされるが、これは敦煌莫高窟第三二 一窟壁画の、十一面観音像の両側に配される樹木の梢が、上方で互いに重な り 合 う の に 似 る 工 夫 さ れ た 表 現 で あ る ( 挿 図 (()。 こ れ も ま た、 こ れ ら の 壁 画が、中原に伝わってかなりの歳月を経た「樹下人物図」の伝統との間に、 あまり大きな関連が見られないことを示している。これらと敦煌壁画との関 係もまた、必ずしも成立するとは言えないが、こうした水盆の描写は、中原 とは異なる図像を源泉とするのではないかという新たな推察を我々にもたら す )(( ( 。その源泉が何であれ、唐安公主墓の水盆花鳥画において、もはや人物は 共に表わされておらず、中の水盆をもって庭園イメージの代表とし、その盆 の縁に立つ鳥を描き、両側には鴨の飛ぶ姿を配することで、この庭園内で鑑 賞される対象を表わしているのである。ここで章懷太子墓の《観鳥捕蟬図》 と比較すると、本図は花鳥画が独立し発展していく段階がすでに始まってい たことを示している。またこの画が表わされるのは墓室の西壁面、すなわち 棺に近接した位置の壁面であるから、人物像の伴わない花鳥画が、墓室にお いて重要な壁面に表わされるようになったことがわかる。 植物と禽鳥、水盆の題材としては、やや時代が下った河南省安陽趙逸公夫 婦 墓 ( 太 和 三 年〈 八 二 九 〉) に も 近 似 し た 処 理 が 見 受 け ら れ る。 趙 逸 公 墓 墓 室 の 西 壁 面 画 は、 高 さ 一・ 八 メ ー ト ル、 幅 二・ 三 五 メ ー ト ル で、 中 央 に 大 画 面、両側に三つの小画面と区分けされ、上方はすでに欠失している )(( ( 。両側に 挿図 (( 初唐 敦煌莫高窟第三二一窟東壁北側《十一面観音 像》 挿図 (( -(() 西壁墓室 全体 挿図 (( 唐 趙逸公夫婦墓壁画(太和三年〈(((〉、河南省安 陽市出土) 挿図 (( -(() 西壁墓室 部分
八~十一世紀における花鳥画の変 一五 はそれぞれ奇石と植物が配され、中央には一つの大きな円形の水盆が表わさ れ る。 そ の 上 を 鳥 が 飛 び、 盆 の 前 方 に は、 三 羽 の 大 雁 が 描 か れ る ( 挿 図 ((― (()・ (())。 こ の 三 つ の 画 面 は、 紅 色 の 線 に よ っ て 区 分 さ れ て い る よ う だ が、 画面ははっきりと分断されていない。 例えば中央、 大画面左方の線の下には、 草花が左と中央の画面を跨いで表わされている。また、その上方には、左画 面と中央画面の線を通り越し、その間を往来する禽鳥の姿も描かれている。 左、 中央、 右と分割された画面は各々が中軸対称構図であるように見えるが、 画家はあえてこれらの境界を跨ぐ草花、禽鳥を配置することで、画面をより 一個の完成した花園の景に近いものとして表わしている。また本壁画の庭園 における水盆と飛鳥、大雁は、唐安公主墓のそれと同様、画面の中央に配置 され、庭園描写の重点となっている。 再び画面の配置に目を向けると、趙逸公墓西壁の花鳥図は、屛風壁面の線 による区分を跨ぎ、より完成された大画面表現となっている。前述した王公 淑墓の絵画表現もまた、こうした発展を引き継いで生まれたものと見ること ができよう。花卉を人物に付随して表わす配置方法が、単独で配す表現の流 れを始動させた。このような水盆と大型の禽鳥を配する庭園表現の出現は、 独立した花鳥表現が定型化していくことを物語っている。 こうした定型化は、河北省曲陽王処直墓においても同様に現われている )(( ( 。 王処直墓は、墓室北壁面の山水図以外にも、花鳥を題材とした壁画を多く残 している。墓室の東西両壁面には、花鳥奇石を配した屛風壁画があり、西側 耳室の西壁面には、卓と用具が描かれている他、卓上には一幅の花鳥屛風が 描 か れ て い る。 ま た 墓 室 後 室 の 北 壁 面 に も 花 鳥 が 描 か れ ( 挿 図 (()、 そ の 構 図は王公淑墓《牡丹蘆雁図》と非常に似通っている。すなわち画面中央には 大きく茂る牡丹、その両脇には比較的小さな花卉植物が表わされ、地面の上 には四羽の、姿態を異にする鳩が描かれている。後室の東西両壁北側の壁画 は欠失が激しいが、怪石、植物、花鳥、胡蝶などの描かれていた痕が見受け られ、おそらく現存する北壁面の画面と近似する構成を有していたと考えら れる。王処直墓のいくつかの花鳥壁画のうち、花と枝葉の表現については、 王 公 淑 墓 壁 画 の 花 卉 表 現 の 変 化 と 細 密 さ に は 及 ば な い も の の、 「 造 形 」 の 意 図から言えば、王処直墓は怪石のモチーフを多用することで、王公淑墓以上 に複雑な構造を生み出している。王処直墓壁画に描かれた鳩などの禽鳥に至 っては、植物の根部分と平行する水平位置に配置されるが、異なる姿勢をと ることによって、一方では禽鳥の互いの位置上の区別が明示され、禽鳥と植 物の間の一様でない関係が明示されている。 挿図 (( 五代 王処直墓墓室後室北壁《牡丹図壁画》(同光二年〈(((〉、河北 省曲陽県出土)
美 術 研 究 四 一 七 号 一六 唐安公主墓壁画の禽鳥、趙逸公墓壁画の大雁、そして王処直墓壁画の鳩な どといった作例では、個別の禽鳥がかなり大きく画面に描かれており、これ は禽鳥とその他のモチーフの関係が次第に強調され、明示されるようになっ たためと言える。禽鳥の細部描写がさらに強調されたことを除けば、花鳥画 は依然として植物を最も重要な構成の主題としていたが、禽鳥にも多様な姿 態表現の兆しが見え始めており、まさに花卉植物の表現力に近づいていって いる。一部の研究者は、こうした発展を、庭園描写への関心の高まりと関連 付け、また多くの文献史料をもとに、唐人の庭園に対する興味についても指 摘し、それが晩唐期における花鳥画の成熟を促した主な背景であったと推察 している。しかしながら、庭園の造営は唐代に始まったことではなく、禽鳥 の飼育もまた唐人によって始められたのではない。それゆえ唐安公主墓壁画 の花鳥表現に関しては、ただ庭園の造営といった文脈的背景からのみ論じる ことは難しい。この他に、唐安公主墓壁画を花鳥画が発展、完成したことを 示す作例と見る研究者もいるが、画面の配置から言って、唐安公主墓および 趙逸公墓の水盆花鳥の描写は、整合性のある画面配置という点では未だ完成 されていると言えず、画中の各モチーフの配置関係の多くが、モチーフ間の 繫ぎ合わせである。画面全体がまとまった融合的表現の完成は、北宋の段階 まで待たねばならない。 次章からは、その他の要素に着目し、花鳥題材発展の新しい動向について 述べてみたい。加えて、花鳥題材がどのようにして、異なる題材から一つの 関係性を有する画面を作り上げるようになったかを見ていき、これが「随物 造景」と称すべき新たな結実であったという見解を提示する。もちろん、こ うした新たな動向を形成する原動力となるものは非常に複雑である。それら の一側面として、禽鳥の表現の動向にさらに着目することで、禽鳥の瑞祥性 の消去との関係と、その消去と同時に禽鳥の豊富な姿態表現にさらなる注意 が向けられていった可能性を述べ、こうした要素が花鳥画成立の基礎となっ たことを述べる。そこでまずは、瑞祥性が失われた後の状況について見てい きたい。
三、花鳥画発展の基礎的条件
(一)瑞祥性の消去 「 花 鳥 」 と い う 題 材 は、 そ の 最 初 期 は、 瑞 物 と し て の 性 質 を も っ て 描 く 対 象 と な っ た。 「 花 鳥 」 の 内 包 す る 瑞 祥 性 が い か に 変 化 し た か は、 ま た 別 の 課 題として考察に値する。このような課題は、すでに文様装飾の発展と関連付 けられているが、異なる作品間の機能の違いについても無視することはでき な い )(( ( 。石守謙氏は、絵画史の発展という観点から関連する課題を論じ、唐代 の中 ・ 晩期の士人が 「感神通霊」 、すなわち優れた画は神霊と通じる力があり、 人知を超えた霊異を引き起こすという考え、をもって画を論じることをやめ た後に、花鳥題材は、画論における「絵画形式」重視への回帰によってさら なる発展の余地を得たと指摘し た )(( ( 。これもまた、花卉禽鳥から瑞祥性が失わ れた後、花鳥のモチーフが定型化された象徴符号から解放され、花鳥題材が 取り上げる様々な姿態変化の対象となったことを示唆する。 瑞祥性の消去とは、この後の花鳥がそうした文脈から完全に脱却したとい うことではなく、当時の人々が、もはや「瑞祥」というシステムを重視しな かったという意味でもない。いわゆる瑞祥のシステムは、異なる時代、地域 ないし拠り所となる信仰に自然に従い、それに応じた系統を有しているので ある。従って本論における瑞祥性の消去とは、花鳥題材が瑞祥のシステム以 外の、それに制限されない別の題材となったことを指す。八~十一世紀における花鳥画の変 一七 唐代の中・後期、花鳥題材は人物画に付随するものから画面の主体へと発 展変化していった。モチーフの発展という観点から言えば、花園の景を描く 中には、常に比較的大きな禽鳥が見られる。このように独立した禽鳥の表現 について、ジェシカ・ローソン氏は、鳳凰の文様装飾が中国で長く用いられ ていたことを指摘しているが、唐代に出現した建築装飾における鳳凰文は、 濃密な葉と雲文によって取り囲まれており、こうした早期の鳳凰文とは特に 似ていないと言える。また唐代中期に始まった動物文様装飾には、単独で金 銀器の中央に表わす「単体動物文様」が見られ、その一例として何家村出土 の 《鳳鳥葵花形銀盤》 (七~八世紀) (挿図 (() が挙げられる。ローソン氏は、 こうした文様装飾を「現存する中国伝統装飾との分離を示すもの」とされ、 外 来 器 物 の 文 様 装 飾 が、 こ の よ う な 新 し い 作 風 を 生 み 出 し た と 推 察 し て い る )(( ( 。 禽鳥イメージの独立に着目する他に、さらに重要な問題は、瑞祥性が失わ れた後に、いかにして新しい造形手段が現われたかということである。この 新たな造形手段については、主に以下の二つの観点から考察する。まず一つ 目に、禽鳥の姿態を多角的に捉えた描写の把握について、王公淑墓壁画《牡 丹蘆雁図》の蘆雁を最適な例として考察する。そして二つ目に、禽鳥を主題 とした表現の配置方法の変化について見ていく。 まずは一つ目の問題を明らかにしたい。例として、唐代中期のアスターナ 第二一七号墓壁画に、花鳥を主題とする画の始まりを見ることができるが、 画中の禽鳥の姿態はかなり素朴な手法で描かれ、あまり多くの変化はなく、 側面から捉えた姿を主とする。わずかに頸部の動きを通して、限られた姿態 の変化が表わされている。しかし十世紀以後になると、王処直墓壁画の鳩に おいてすでに、様々な角度から捉えた姿態が見られ、正面あるいは側面とい う固定化されたパターンからの脱却が明らかに見て取れる。従って禽鳥の表 現様式は、九世紀の前半から新たな発展が始まり、新しい角度からの姿態の 追求が積極的に行なわれたと見ることができよう。 瑞祥性が失われた後の禽鳥題材の表現構成上の変化については、鶴という 題材が葬墓壁画において描かれた位置から明らかにすることができる。七、 八世紀唐代の葬墓壁画には、 壁の頂部にしばしば 「雲鶴」 の表現が見られる。 例 え ば 永 泰 公 主 墓、 懿 徳 太 子 墓 後 方 の 甬 道 頂 部 に は い ず れ も 雲 鶴 図 が 描 か れ、 韋 泂 墓 (景竜二年 〈七〇八〉 ) 後室頂部の人字栱の間にも鶴の描写がある。 こうした雲気と鶴を共に描く壁画の表現は、描かれる位置から見ても、鶴に 瑞物としての意味が備わることが明らかである )(( ( 。李憲墓 (天宝元年 〈七四二〉 ) 墓室頂部に見られる雲鶴の形態はさらに多くの変化が見られるが、それもま た瑞物としての利用の範疇にあると言える。 九世紀以後には、 西安の梁元翰墓 (会昌四年 〈八四四〉 ) 、楊玄略墓 (咸通五年 〈八 六 四 〉) 壁 画 に お い て 六 鶴 の 屛 風 が 見 ら れ る )(( ( 。 こ れ ら の 壁 画 で 明 ら か に、 屛 挿図 (( 唐《鳳鳥葵花形銀盤》(( ~ ( 世紀、陝西省 西安市何家村出土)
美 術 研 究 四 一 七 号 一八 風壁画における鶴を重要な主題とした表現はさらに発展をとげたとわかる。 このように、鶴を主題とした屛風は九世紀中葉には出現しているが、それら に至る前段階や発展の状況は、富平朱家道墓、墓道北壁東側に描かれた「双 鶴 図 」 に 見 る こ と が で き る。 朱 家 道 墓 壁 画 の 双 鶴 図 ( 挿 図 (() は、 実 際 に は 屛風壁画の一部であり、画中の双鶴の姿態は概ね同じではなく、植物と湖石 の両側に分かれて配されている )(( ( 。朱家道墓の成立年を示す資料は未だなく、 学界でもその年代については様々な意見があり、一部の学者は山水屛風壁画 の表現から、盛唐ないし中・晩唐期のものと推察している )(( ( 。屛風壁画中の双 鶴のうち、一羽は二枚の羽を平らに起こし、足を手前に出すが、それとは逆 に頭部を回して後方に向ける姿勢をとっている。これは、明らかに鶴の歩く 姿を表わすことに意識を向けたものであり、飛翔する際の動きを追求する雲 鶴の題材との関係はあまりなく、鶴が園林の地上で活動する様子を表わした と言えるだろう。 こうした、鶴を明確に主要モチーフとした作例として、近年新たに陝西省 西 安 安 鳳 栖 原 で 発 見 さ れ た 唐 代 郭 仲 文 墓 ( 会 昌 二 年〈 八 四 二 〉) が あ る。 そ の 墓室には鶴が描かれた十扇屛風壁画が見られる )(( ( 。この 《十扇鶴図屛風壁画》 (挿 図 (() は、 七 扇 に 鶴 を 描 く が、 そ の う ち 五 扇 の 鶴 の 描 写 は 近 似 し て お り、 頭 部を向かって左側に向け、 両足を並べて立つ姿で表わされる。 他一扇の鶴も、 身部を向かって左側にして立つが、頭部は転じて右側に向けている。また別 の一扇の鶴は、他の鶴とは反対に、頭部や脚といった全身を右側に向けて立 っている。この郭仲文墓壁画の画風はかなり簡略なもので、鶴の形態描写の 多くが粗放な筆致でなされている。しかし鶴の様態について言えば、そのう 挿図 (( 唐 富平朱家道墓墓室北壁(陝西省咸陽市富平県出土) 挿図 (( 唐 郭仲文墓墓室《十扇鶴図屛風壁画》(会昌二年〈(((〉、陝 西省西安市出土) 挿図 (( 唐 敦煌文書《瑞応図》残巻(パリ国立図書館蔵)
八~十一世紀における花鳥画の変 一九 ちの一扇は前述の朱家道墓壁画における、首を転じて歩く鶴の姿に近く、郭 仲文墓成立の時期にはすでに、歩く鶴の図様が現われていたと見ることがで きよう。 九世紀中期における画鶴の壁画資料をいくつか見ていくと、画風について は細緻と簡略の両方が見受けられるが、鶴の姿態の把握についてはすでにあ る一定の共通認識があったとわかる。もともと八世紀以前に多く見られた墓 室頂部の鶴は、未だに瑞物としての意味を明確に備えていたが、九世紀以後 になると葬墓壁画屛風の鶴は、瑞物の意味を保有するか否かにかかわらず、 雲気のまつわる天上界の範疇をすでに超え、樹石の組み合わされた園林の中 へ 進 入 し て い る の で あ る )(( ( 。「 瑞 物 」 の 系 統 の 中 で は、 モ チ ー フ の 生 態 と 個 別 性は特に重視されない。唐代敦煌文書の 《瑞応図》 残巻 (パリ国立図書館蔵) (挿 図 (() を例にすれ ば )(( ( 、 この残巻は、 巻の上部に画、 下部に文字を配しており、 画の主旨は「瑞物がいつ、どのような場所に出現するか」という下部の記述 と符合することで、それを瑞物と見なすためのポイントを提示することにあ り、モチーフそのものの外見には特に着目せず、当然その生態にも関心は払 われていない。こうした作例から推察されるのは、ある時期に「瑞物」系統 の枠組みが緩やかになり始めたこと、あるいはモチーフがもはや「瑞物」の 系統の中だけに属さなくなったことを契機に、モチーフの生態の細かな点に 対し、より多くの注意が払われるようになったということであ る )(( ( 。 花鳥題材と「瑞物」というシステムの分離は、まさに唐人の禽鳥に対する 捉え方の変化と関連付けられ、現在はただ鶴を描く屛風壁画とその進展変化 の問題からのみ考察されてい る )(( ( 。しかし唐人の、ある種の禽鳥に対する関心 は、実際にはすでに吉祥の意味に限られたものではなかったと言わざるを得 ない。以下、唐代の画鶴の名家である薜稷とそれに関連する記述をもとに、 一方では鶴の図様がどのように発展し、定型化した絵画様式となっていくか を見ていき、また一方では、薜稷の鶴に対する唐人の評価を精査し、それが 必ずしも吉祥の象徴的意味に限るものでなかったことを明らかにする。 (二) 「六鶴」図様の成立 七~八世紀に活躍した薜稷の描く鶴は、中・晩唐期にはすでに高い名声を 得てい た )(( ( とわかる。張彦遠『歴代名画記』は、薜稷について「鶴を画して名 を知られ、屛風の六扇鶴様は、稷より始まる」と記 す )(( ( 。しかし結局、薜稷の 鶴 の 容 貌 が い か な る も の で あ っ た か を 確 認 す る こ と は 難 し い の が 現 状 で あ る。小川裕充氏は、正倉院に伝わる漆櫃に描かれた草木鶴図と遼墓壁画の鶴 図をもとに、薜稷の「六鶴様」復元を試み た )(( ( 。しかし唐人の詩文から、薜稷 の鶴の描写を確認するとわかるように、杜甫が「十一鶴」と称したもの以外 に、彼の鶴が「六鶴」の定型を備えるものであったことを窺わせる記録は見 出せない。実際、薜稷の「六鶴」についての明確な描写は、唐人の詩文には 見 ら れ ず、 北 宋 に 至 っ て か ら の 梅 堯 臣 ( 一 〇 〇 二 ~ 一 〇 六 〇 ) の 詩 文 が そ の 比 較 的 早 い 例 と な る )(( ( 。 言 い 換 え れ ば、 「 六 鶴 」 様 式 の 確 立 と 薜 稷 の 間 に 直 接 的な関係を見出すのは難しく、張彦遠のいう「六扇鶴様」が「六鶴」様式を 指すのかどうかについても断言はできない。例えば、前述した郭仲文墓の鶴 図壁画は、鶴の図様が六種の姿態に限定されるものではないことを示してい る。 薜 稷 の 画 鶴 の 達 成 は、 生 き た 鶴 の 詳 細 な 観 察 と 少 な か ら ず 関 係 し て い る が、さらに重要なのは、その多様な姿態を把握したことにある。薜稷にやや 遅 れ て 登 場 し た 李 白 ( 七 〇 一 ~ 七 六 二 ) や 杜 甫 ( 七 一 二 ~ 七 七 〇 ) な ど は、 み な薜稷の鶴を見、それについての題詩を残している。李白詩に言う。
美 術 研 究 四 一 七 号 二〇 昂昂欲飛、霍若驚矯。形留座隅、勢出天表。謂長唳於風霄、終寂立於露 曉 )(( ( 。 また杜甫詩に言う。 薛公十一鶴、皆写青田真。画色久欲尽、蒼然猶出塵。低昂各有意、磊落 如長人 )(( ( 。 こうした詩文から推察されるのは、唐人の眼から見て、薜稷の鶴の重要な 達成とは、鶴の多様な活動の姿態を表わした点にあったということである。 杜甫詩の「低昂すること各 おのおの 意有り、磊落たること人に長たるが如し」という 一文に着目するならば、鶴の姿態の俯く、仰ぎ見るといった変化を表わす一 方で、 こうした姿態に各々意味があるとし、 また磊落な様は人の長のようだ、 として、鶴の姿態と人物の挙動を関連付け称賛しているのである。 薜稷の鶴様式は、未だ「六鶴」様式としては定型化していなかったかもし れないが、その姿態描写に見られる工夫は、詩人にあたかも人間のようなふ るまいを連想させるものであった。 このような形式から筆者は、 薜稷は当時、 必ずしも小川氏の指摘されるような系統だった「六鶴」様式を確立していた とは言えないが、おそらく鶴の新たな姿態表現を開拓したのだと考える。一 例 と し て、 洛 陽 で 出 土 し た 唐 代 の《 螺 鈿 高 士 宴 楽 文 鏡 》 ( 中 国 国 家 博 物 館 蔵 ) ( 挿 図 (0) の 鏡 面 下 方 に 表 わ さ れ た 鶴 は、 わ ず か に 両 翼 を 広 げ、 頭 部 を 回 し て後方に向け、片足で立つ姿勢で表わされている。おそらくこれは、首を回 し て 毛 繕 い を す る 姿 に 関 わ る と 解 せ る。 ま た あ る い は、 伝・ 周 昉 (? ~ 七 八 〇 頃 ) 筆《 簪 花 仕 女 図 巻 )(( ( 》 ( 遼 寧 省 博 物 館 蔵 )( 挿 図 (() に 描 か れ た 鶴 は、 両 翼 をわずかに広げ、ちょうど片足を前に出し歩みを前に進めているような姿で 表わされる。こうした人物の周りで活動する鶴の描写と、その姿態表現につ いては、いずれも薜稷の画鶴が流行していた時期の共通現象と見ることがで きよう。 こうした画鶴の成果を、本格的に「六鶴」様式と見なした最も早い文献は 北 宋 の 黄 休 復『 益 州 名 画 録 』 ( 景 徳 三 年〈 一 〇 〇 六 〉) で あ る が、 本 書 で は 後 蜀の画家、黄筌によって確立されたとある。その中で次のように言う。 広 政 甲 辰 歲 ( 七 年〈 九 四 四 〉) 、 淮 南、 聘 を 通 ず る に、 信 幣 の 中 に 生 鶴 の 数隻有り。蜀主、筌に命じて鶴を偏らの殿の壁に写さしむ。露に警 そな ふる 者、 苔を啄む者、 毛を理 つくろ ふ者、 羽を整ふ者、 天に唳 な く者、 足を翹 あ ぐる者、 精彩なる態度、さらに生けるに愈 まさ れり。往往にして生鶴を致し、画の側 に立つ。蜀主歎賞し、遂に目して六鶴殿と為すなり )(( ( 。 挿図 (0 唐 《螺鈿高士宴楽文鏡》(中国国家博物館蔵)