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ごん狐

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(1)

ごん狐

新美南吉

これは、 私わたし

が小さいときに、村の 茂平もへい

というおじいさんからきいたお 話です。

むかしは、私たちの村のちかくの、 中山なかやま

というところに小さなお城があ って、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。

その中山から、少しはなれた山の中に、「ごんぎつね

」という狐がいました。

ごんは、 一人ひとり

ぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住 んでいました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばか

りしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、 菜種なたね

がらの、ほしてある

のへ火をつけたり、ひゃくしょうや百姓家

の裏手につるしてあるとんがらしをむしり とって、いったり、いろんなことをしました。

ある あき

のことでした。二、三日雨がふりつづいたそのあいだ

、ごんは、外 へも出られなくて穴の中にしゃがんでいました。

雨があがると、ごんは、ほっとして穴からはい出ました。空はからっと晴れ

ていて、百舌鳥もず

の声がきんきん、ひびいていました。

ごんは、村の 小川おがわ

つつみ

まで出て来ました。あたりの、すすきの穂には、

まだ雨のしずくが光っていました。川は、いつもは水がすくな

いのですが、三

(2)

日もの雨で、水が、どっとましていました。ただのときは水につかることのな

い、川べりのすすきや、萩はぎ

の株が、黄いろくにごった水に横だおしになって、

もまれています。ごんはかわしも川下

の方へと、ぬかるみみちを歩いていきました。

ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっています。ごんは、見つからない ように、そうっと草の深いところへ歩きよって、そこからじっとのぞいてみま した。

ひょうじゅう兵十

だな」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの黒いきものを まくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきりという、

網をゆすぶっていました。はちまきをした顔の横っちょうに、まるい萩の葉が

一まい、大きな 黒子ほくろ

みたいにへばりついていました。

しばらくすると、兵十は、はりきり網の一ばんうしろの、袋のようになった ところを、水の中からもちあげました。その中には、芝の根や、草の葉や、く さった木ぎれなどが、ごちゃごちゃはいっていましたが、でもところどころ、

白いものがきらきら光っています。それは、ふというなぎの腹や、大きなきす の腹でした。兵十は、びくの中へ、そのうなぎやきすを、ごみと一しょにぶち こみました。そして、また、袋の口をしばって、水の中へ入れました。

兵十はそれから、びくをもって川から 上あが

りびくを土手どて

においといて、何を

さがしにか、かわかみ川上

の方へかけていきました。

兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそば へかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの

中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより 下手しもて

の川の 中を目がけて、ぽんぽんなげこみました。どの魚も、「とぼん」と音を立てな がら、にごった水の中へもぐりこみました。

(3)

一ばんしまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬると すべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびく の中につッこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッと言っ てごんの首へまきつきました。そのとたんに兵十が、向うから、

「うわアぬすと狐め」と、どなりたてました。ごんは、びっくりしてとびあが りました。うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首に まきついたままはなれません。ごんはそのまま横っとびにとび出して一しょう けんめいに、にげていきました。

ほら穴の近くの、はんの木の下でふりかえって見ましたが、兵十は追っかけ ては来ませんでした。

ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはずして穴のそとの、

草の葉の上にのせておきました。

とおか十日

ほどたって、ごんが、 弥助やすけ

というお百姓の家の裏を通りかかります

と、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の 家内かない

が、おはぐろをつけていま

した。鍛冶屋かじや

の 新兵衛しんべえ

の家のうらを通ると、新兵衛の家内が髪をすいていま した。ごんは、

「ふふん、村に何かあるんだな」と、思いました。

「 何なん

だろう、秋祭かな。祭なら、太鼓や笛の音がしそうなものだ。それに第 一、お宮にのぼりが立つはずだが」

こんなことを考えながらやって来ますと、いつの間

にか、表に赤い井戸のあ

る、兵十の家の前へ来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、 大勢おおぜい

(4)

の人があつまっていました。よそいきの着物を着て、腰にてぬぐい手拭

をさげたり

した女たちが、表のかまどで火をたいています。大きな 鍋なべ

の中では、何かぐ ずぐず煮えていました。

「ああ、葬式だ」と、ごんは思いました。

「兵十の家のだれが死んだんだろう」

お 午ひる

がすぎると、ごんは、村の墓地へ行って、 六地蔵ろくじぞう

さんのかげにか

くれていました。いいお天気で、遠く向うには、お城のやねがわら屋根瓦

が光ってい

ます。墓地には、ひがん 花ばな

が、赤い 布きれ

のようにさきつづいていました。と、

村の方から、カーン、カーン、と、 鐘かね

が鳴って来ました。葬式の出る 合図あいず です。

やがて、白い着物を着た葬列のものたちがやって来るのがちらちら見えはじ

めました。はなしごえ話声

も近くなりました。葬列は墓地へはいって来ました。人々 が通ったあとには、ひがん花が、ふみおられていました。

ごんはのびあがって見ました。兵十が、白いかみしもをつけて、 位牌いはい をさ

さげています。いつもは、赤いさつま 芋いも

みたいな元気のいい顔が、きょうは 何だかしおれていました。

「ははん、死んだのは兵十のおっ 母かあ だ」

ごんはそう思いながら、頭をひっこめました。

その晩、ごんは、穴の中で考えました。

「兵十のおっ母は、 床とこ

についていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいな い。それで兵十がはりきり網をもち出したんだ。ところが、わしがいたずらを して、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさ

(5)

せることができなかった。そのままおっ母は、死んじゃったにちがいない。あ あ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいとおもいながら、死んだんだろう。

ちょッ、あんないたずらをしなけりゃよかった。」

兵十が、赤い井戸のところで、麦をといでいました。

兵十は今まで、おっ母と 二人ふたり

きりで、貧しいくらしをしていたもので、お っ母が死んでしまっては、もう一人ぼっちでした。

「おれと同じ一人ぼっちの兵十か」

こちらのものおき物置

うしろ

から見ていたごんは、そう思いました。

ごんは物置のそばをはなれて、向うへいきかけますと、どこかで、いわしを 売る声がします。

「いわしのやすうりだアい。いきのいいいわしだアい」

ごんは、その、いせいのいい声のする方へ走っていきました。と、 弥助やすけ おかみさんが、裏戸口から、

「いわしをおくれ。」と言いました。いわし 売うり

は、いわしのかごをつんだ車 を、道ばたにおいて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助の家の中へ もってはいりました。ごんはそのすきまに、かごの中から、五、六ぴきのいわ しをつかみ出して、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の裏口か

ら、家の中へいわしを投げこんで、穴へ 向むか

ってかけもどりました。途中の坂 の上でふりかえって見ますと、兵十がまだ、井戸のところで麦をといでいるの が小さく見えました。

ごんは、うなぎのつぐないに、まず一つ、いいことをしたと思いました。

(6)

つぎの日には、ごんは山で 栗くり

をどっさりひろって、それをかかえて、兵十

の家へいきました。裏口からのぞいて見ますと、兵十は、 午飯ひるめし

をたべかけ

て、 茶椀ちゃわん

をもったまま、ぼんやりと考えこんでいました。へんなことには

兵十の 頬ほっ

ぺたに、かすり傷がついています。どうしたんだろうと、ごんが思 っていますと、兵十がひとりごとをいいました。

「一たいだれが、いわしなんかをおれの家へほうりこんでいったんだろう。お

かげでおれは、 盗人ぬすびと

と思われて、いわし屋のやつに、ひどい目にあわされ た」と、ぶつぶつ言っています。

ごんは、これはしまったと思いました。かわいそうに兵十は、いわし屋にぶ んなぐられて、あんな傷までつけられたのか。

ごんはこうおもいながら、そっと物置の方へまわってその入口に、栗をおい てかえりました。

つぎの日も、そのつぎの日もごんは、栗をひろっては、兵十の家へもって来 てやりました。そのつぎの日には、栗ばかりでなく、まつたけも二、三ぼんも っていきました。

月のいい晩でした。ごんは、ぶらぶらあそびに出かけました。中山さまのお 城の下を通ってすこしいくと、細い道の向うから、だれか来るようです。話声 が聞えます。チンチロリン、チンチロリンと松虫が鳴いています。

ごんは、道の片がわにかくれて、じっとしていました。話声はだんだん近く

なりました。それは、兵十と 加助かすけ

というお百姓でした。

「そうそう、なあ加助」と、兵十がいいました。

(7)

「ああん?」

「おれあ、このごろ、とてもふしぎなことがあるんだ」

「何が?」

「おっ母が死んでからは、だれだか知らんが、おれに栗やまつたけなんかを、

まいにちまいにちくれるんだよ」

「ふうん、だれが?」

「それがわからんのだよ。おれの知らんうちに、おいていくんだ」

ごんは、ふたりのあとをつけていきました。

「ほんとかい?」

「ほんとだとも。うそと思うなら、あした見に来

いよ。その栗を見せてやるよ」

「へえ、へんなこともあるもんだなア」

それなり、二人はだまって歩いていきました。

加助がひょいと、 後うしろ

を見ました。ごんはびくっとして、小さくなってた ちどまりました。加助は、ごんには気がつかないで、そのままさっさとあるき

ました。 吉兵衛きちべえ

というお百姓の家まで来ると、二人はそこへはいっていきま

した。ポンポンポンポンともくぎょ木魚

の音がしています。窓のしょうじ障子

にあかり

がさしていて、大きなぼうずあたま坊主頭

がうつって動いていました。ごんは、

「おねんぶつがあるんだな」と思いながら井戸のそばにしゃがんでいました。

しばらくすると、また三人ほど、人がつれだって吉兵衛の家へはいっていきま した。お経を読む声がきこえて来ました。

ごんは、おねんぶつがすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。兵十と

(8)

加助は、また一しょにかえっていきます。ごんは、二人の話をきこうと思って、

ついていきました。兵十のかげぼうし影法師

をふみふみいきました。

お城の前まで来たとき、加助が言い出しました。

「さっきの話は、きっと、そりゃあ、神さまのしわざだぞ」

「えっ?」と、兵十はびっくりして、加助の顔を見ました。

「おれは、あれからずっと考えていたが、どうも、そりゃ、人間じゃない、神 さまだ、神さまが、お前がたった一人になったのをあわれに思わっしゃって、

いろんなものをめぐんで下さるんだよ」

「そうかなあ」

「そうだとも。だから、まいにち神さまにお礼を言うがいいよ」

「うん」

ごんは、へえ、こいつはつまらないなと思いました。おれが、栗や松たけを 持っていってやるのに、そのおれにはお礼をいわないで、神さまにお礼をいう んじゃア、おれは、引き合わないなあ。

そのあくる日もごんは、栗をもって、兵十の家へ出かけました。兵十は物置

で 縄なわ

をなっていました。それでごんは家の裏口から、こっそり中へはいりま した。

そのとき兵十は、ふと顔をあげました。と狐が家の中へはいったではありま せんか。こないだうなぎをぬすみやがったあのごん狐めが、またいたずらをし に来たな。

「ようし。」

兵十は立ちあがって、納屋なや

にかけてあるひなわじゅう火縄銃

をとって、火薬をつめ

(9)

ました。

そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとするごんを、ドンと、

うちました。ごんは、ばたりとたおれました。兵十はかけよって来ました。家

の中を見ると、土間どま

に栗が、かためておいてあるのが目につきました。

「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。

「ごん、お 前まい

だったのか。いつも栗をくれたのは」

ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。

兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだつつぐち筒口

から細 く出ていました。

本文は、日本青空文庫より引用したものです。詳しいことは、青空文庫のサ イトをご参照ください。

底本:「新美南吉童話集」岩波文庫、岩波書店 1996(平成 8)年 7 月 16 日発行第 1 刷 1997(平成 9)年 7 月 15 日発行第 2 刷

※入力時に使われた底本が不明とのことなので、表記は岩波文庫版に合わせた。

入力:林裕司 校正:浜野智

1998 年 10 月 23 日公開 2004 年 2 月 22 日修正 青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)

で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんで

(10)

す。

●表記について

このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されていま す。

傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。

(11)

杜子春

芥川龍之介

或春の日暮です。

唐の都らくやう洛陽

の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでゐる、一人の若者があ りました。

若者は名はとししゆん杜子春

といつて、元は金持の息子でしたが、今は財産を 費つか

ひ 尽つく

して、その日の暮しにも困る位、あはれ

な身分になつてゐるのです。

何しろその頃洛陽といへば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですか

ら、 往来わうらい

にはまだしつきりなく、人や車が通つてゐました。門一ぱいに当

つてゐる、油のやうな夕日の光の中に、老人のかぶつた 紗しや

の帽子や、土耳古トルコ

の女の金の耳環や、白馬に飾つた色糸の 手綱たづな

が、絶えず流れて行く 容子ようす は、

まるで画のやうな美しさです。

しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を 凭もた

せて、ぼんやり空ばかり眺めて

ゐました。空には、もう細い月が、うらうらと 靡なび

いた霞の中に、まるで爪の

あと

かと思ふ程、かすかに白く浮んでゐるのです。

「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行つても、泊めてくれる所は なささうだし──こんな思ひをして生きてゐる位なら、一そ川へでも身を投げ て、死んでしまつた方がましかも知れない。」

杜子春はひとりさつきから、こんな取りとめもないことを思ひめぐらしてゐ

(12)

たのです。

するとどこからやつて来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目すがめ

の老人 があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、ぢつと杜子春 の顔を見ながら、

「お前は何を考へてゐるのだ。」と、わうへい横柄

に言葉をかけました。

「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考へてゐるので す。」

老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思はず正直な 答をしました。

「さうか。それは可哀さうだな。」

老人はしばら

く何事か考へてゐるやうでしたが、やがて、往来にさしてゐる 夕日の光を指さしながら、

「ではおれが好いことを一つ教へてやらう。今この夕日の中に立つて、お前の 影が地に映つたら、その頭に当る所を夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一 ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから。」

「ほんたうですか。」

杜子春は驚いて、伏せてゐた眼を挙げました。所が更に不思議なことには、

あの老人はどこへ行つたか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りませ

ん。その代り空の月の色は前よりも 猶なほ

白くなつて、休みない往来の人通りの

上には、もう気の早いかうもり蝙蝠

が二三匹ひらひら舞つてゐました。

とししゆん杜子春

は一日の内に、洛陽の都でも唯一人といふ大金持になりました。

(13)

あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそつ と掘つて見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。

大金持になつた杜子春は、すぐに立派な家を買つて、 玄宗げんそう

皇帝にも負け

ない位、 贅沢ぜいたく

な暮しをし始めました。らんりよう蘭陵

の酒を買はせるやら、桂

州のりゆうがんにく竜眼肉

をとりよせるやら、日に四度色の変る 牡丹ぼたん

を庭に植ゑさ

せるやら、しろくじやく白孔雀

を何羽も放し飼ひにするやら、玉を集めるやら、錦を

縫はせるやら、かうぼく香木

の車を造らせるやら、象牙の椅子をあつら

へるやら、

その贅沢を一々書いてゐては、いつになつてもこの話がおしまひにならない位 です。

するとかういふうはさ

を聞いて、今までは路で行き合つても、挨拶さへしな かつた友だちなどが、朝夕遊びにやつて来ました。それも一日毎に数が増して、

半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子 春の家へ来ないものは、一人もない位になつてしまつたのです。杜子春はこの 御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りの又盛なことは、中々

口には尽されません。 極ごく

かいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の杯に

西洋から来た葡萄酒を汲んで、 天竺てんぢく

生れの魔法使が刀を呑んで見せる芸に

見とれてゐると、そのまはりには二十人の女たちが、十人は 翡翠ひすゐ

の蓮の花を、

十人は 瑪瑙めなう

の牡丹の花を、いづれも髪に飾りながら、笛や琴を節面白く奏し てゐるといふ景色なのです。

しかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがに

ぜいたくや贅沢家

の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しまし た。さうすると人間は薄情なもので、昨日までは毎日来た友だちも、今日は門

(14)

の前を通つてさへ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、又 杜子春が以前の通り、一文無しになつて見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に 宿を貸さうといふ家は、一軒もなくなつてしまひました。いや、宿を貸す所か、

今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。

そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行つて、ぼんやり 空を眺めながら、途方に暮れて立つてゐました。するとやはり昔のやうに、片

すがめ

の老人が、どこからか姿を現して、

「お前は何を考へてゐるのだ。」と、声をかけるではありませんか。

杜子春は老人の顔を見ると、恥しさうに下を向いた 儘まま

、 暫しばら

くは返事も しませんでした。が、老人はその日も親切さうに、同じ言葉を繰返しますから、

こちらも前と同じやうに、

「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考へてゐるのです。」と、恐 る恐る返事をしました。

「さうか。それは可哀さうだな、ではおれが好いことを一つ教へてやらう。今 この夕日の中へ立つて、お前の影が地に映つたら、その胸に当る所を、夜中に 掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから。」

老人はかう言つたと思ふと、今度も 亦また

人ごみの中へ、掻き消すやうに隠れ てしまひました。

杜子春はその翌日から、 忽たちま

ち天下第一の大金持に返りました。と同時に

相変らず、 仕放題しはうだい

な贅沢をし始めました。庭に咲いてゐる牡丹の花、その 中に眠つてゐる白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使──

すべてが昔の通りなのです。

ですから車に一ぱいあつた、あのおびただ

しい黄金も、又三年ばかり経 つ内 には、すつかりなくなつてしまひました。

(15)

「お前は何を考へてゐるのだ。」

片目眇の老人は、三度杜子春の前へ来て、同じことを問ひかけました。勿論 彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破つてゐる三日月の光を

眺めながら、ぼんやりたたず

んでゐたのです。

「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思つてゐるのです。」

「さうか。それは可哀さうだな。ではおれが好いことを教へてやらう。今この 夕日の中へ立つて、お前の影が地に映つたら、その腹に当る所を、夜中に掘つ て見るが好い。きつと車に一ぱいの──」

老人がここまで言ひかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉をさへぎ りました。

「いや、お金はもう入らないのです。」

「金はもう入らない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまつた と見えるな。」

老人はいぶか

しさうな眼つきをしながら、ぢつと杜子春の顔を見つめました。

「何、贅沢に飽きたのぢやありません。人間といふものに愛想がつきたので す。」

杜子春は不平さうな顔をしながら、つつけんどん突慳貪

にかう言ひました。

「それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ?」

「人間は皆薄情です。私が大金持になつた時には、世辞もつゐしよう追従

もします

けれど、一旦貧乏になつて御覧なさい。柔やさ

しい顔さへもして見せはしません。

そんなことを考へると、たとひもう一度大金持になつた所が、何にもならない

(16)

やうな気がするのです。」

老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑ひ出しました。

「さうか。いや、お前は若い者に似合はず、感心に物のわかる男だ。ではこれ からは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか。」

杜子春はちよいとためらひました。が、すぐに思ひ切つた眼を挙げると、訴 へるやうに老人の顔を見ながら、

「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になつて、仙術の 修業をしたいと思ふのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高 い仙人でせう。仙人でなければ、一夜の内に私を天下第一の大金持にすること は出来ない筈です。どうか私の先生になつて、不思議な仙術を教へて下さい。」

老人は眉をひそめた儘、暫くは黙つて、何事か考へてゐるやうでしたが、や がて又につこり笑ひながら、

「いかにもおれは 峨眉山がびさん に棲

んでゐる、てつくわんし鉄冠子

といふ仙人だ。始めお 前の顔を見た時、どこか物わかりが好ささうだつたから、二度まで大金持にし てやつたのだが、それ程仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやら

う。」と、快く願を容

れてくれました。

杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない

内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に御時宜おじぎ

をしました。

「いや、さう御礼などは言つて貰ふまい。いくらおれの弟子にした所で、立派 な仙人になれるかなれないかは、お前次第できまることだからな。──が、兎

も角もまづおれと一しよに、峨眉山の奥へ来て見るが好い。おお、さいはひ

ここに竹杖が一本落ちてゐる。では早速これへ乗つて、一飛びに空を渡るとし よう。」

鉄冠子はそこにあつた青竹を一本拾ひ上げると、口の中にじゆもん呪文

を唱へな

(17)

がら、杜子春と一しよにその竹へ、馬にでも乗るやうにまたが

りました。する

と不思議ではありませんか。竹杖はたちま

ち竜のやうに、勢よく大空へ舞ひ上 つて、晴れ渡つた春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。

杜子春は 胆きも

をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下には唯青 い山々が夕明りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、(とうに霞

に 紛まぎ

れたのでせう。)どこを探しても見当りません。その内に鉄冠子は、白

い 鬢びん

の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱ひ出しました。

あした

に北海に遊び、暮には 蒼梧さうご

しうり袖裏

の 青蛇せいだ

、 胆気たんき

なり。

三たびがくやう嶽陽

に入れども、人識らず。

朗吟して、 飛過ひくわ

す洞庭湖。

二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞ひ下りました。

そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと 見えて、中空に垂れた北斗の星が、茶碗程の大きさに光つてゐました。元より 人跡の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返つて、やつと耳にはひるも のは、後の絶壁に生えてゐる、曲りくねつた一株の松が、こうこうと夜風に鳴 る音だけです。

二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に坐らせて、

「おれはこれから天上へ行つて、 西王母せいわうぼ

に御眼にかかつて来るから、お前

(18)

はその間ここに坐つて、おれの帰るのを待つてゐるが好い。多分おれがゐなく

なると、いろいろなましやう魔性

が現れて、お前をたぶらかさうとするだらうが、

たとひどんなことが起らうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも 口を利いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。天 地が裂けても、黙つてゐるのだぞ。」と言ひました。

「大丈夫です。決して声なぞは出しはしません。命がなくなつても、黙つてゐ ます。」

「さうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行つて来るから。」

老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖にまたが

つて、夜目にも削つた やうな山々の空へ、一文字に消えてしまひました。

杜子春はたつた一人、岩の上に坐つた儘、静に星を眺めてゐました。すると

かれこれ彼是

半時ばかり経つて、深山の夜気が肌寒く薄い着物に 透とほ

り出した頃、

突然空中に声があつて、

「そこにゐるのは何者だ。」と叱りつけるではありませんか。

しかし杜子春は仙人の教通り、何とも返事をしずにゐました。

所が又暫くすると、やはり同じ声が響いて、

「返事をしないと立ち所に、命はないものと覚悟しろ。」と、いかめしく 嚇おど しつけるのです。

杜子春は勿論黙つてゐました。

と、どこから登つて来たか、 爛々らんらん

と眼を光らせた虎が一匹、 忽然こつぜん

岩の上に躍り上つて、杜子春の姿を睨みながら、一声高く 哮たけ

りました。のみ ならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈しくざわざわ揺れたと思ふと、後

の絶壁の頂からは、四斗樽程の 白蛇はくだ

が一匹、炎のやうな舌を吐いて、見る見

(19)

る近くへ下りて来るのです。

杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに坐つてゐました。

虎と蛇とは、一つ餌食を狙つて、互に隙でもうかが

ふのか、暫くは睨合ひの 体でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。

が、虎の牙に噛まれるか、蛇の舌に呑まれるか、杜子春の命はまたた

く内に、

なくなつてしまふと思つた時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え失せて、

後には唯、絶壁の松が、さつきの通りこうこうと枝を鳴らしてゐるばかりなの です。杜子春はほつと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに 待つてゐました。

すると一陣の風が吹き起つて、墨のやうな黒雲が一面にあたりをとざすや否

や、うす紫の稲妻がやにはに闇を二つに裂いて、凄じく 雷らい

が鳴り出しました。

いや、雷ばかりではありません。それと一しよに 瀑たき

のやうな雨も、いきなり どうどうと降り出したのです。杜子春はこの天変の中に、恐れ気もなく坐つて ゐました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、──暫くはさ

すがの 峨眉山がびさん

も、くつがへ

るかと思ふ位でしたが、その内に耳をもつんざく

程、大きな雷鳴がとどろ

いたと思ふと、空に渦巻いた黒雲の中から、まつ赤な 一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。

杜子春は思はず耳を抑へて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を

開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡つて、向うに 聳そび

えた山山の上にも、茶 碗程の北斗の星が、やはりきらきら輝いてゐます。して見れば今の大あらしも、

あの虎や白蛇と同じやうに、てつくわんし鉄冠子

の留守をつけこんだ、魔性の

いたづら悪戯

に違ひありません。杜子春はやうや

く安心して、額の冷汗を拭ひなが ら、又岩の上に坐り直しました。

(20)

が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐つてゐる前へ、金の 鎧よろひ

を 着下きくだ

した、身の丈三丈もあらうといふ、厳かな神将が現れました。神将は

手にみつまた三叉

の 戟ほこ

を持つてゐましたが、いきなりその戟の切先を杜子春の胸

もとへ向けながら、眼を 嗔いか

らせて叱りつけるのを聞けば、

「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山といふ山は、天地かいびやく開闢

の昔か

ら、おれが 住居すまひ

をしてゐる所だぞ。それもはばか

らずたつた一人、ここへ足 を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかつたら、一 刻も早く返答しろ。」と言ふのです。

しかし杜子春は老人の言葉通り、もくねん黙然

と口を 噤つぐ

んでゐました。

「返事をしないか。──しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。

その代りおれのけんぞく眷属

たちが、その方をずたずたに斬つてしまふぞ。」

神将は 戟ほこ

を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさつ

と裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に 充満みちみ

ちて、それが 皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしてゐ るのです。

この景色を見た杜子春は、思はずあつと叫びさうにしましたが、すぐに又鉄 冠子の言葉を思ひ出して、一生懸命に黙つてゐました。神将は彼が恐れないの を見ると、怒つたの怒らないのではありません。

「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとつてやるぞ。」

神将はかう 喚わめ

くが早いか、 三叉みつまた

の 戟ほこ

ひらめ

かせて、一突きに杜子 春を突き殺しました。さうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑ひながら、

どこともなく消えてしまひました。勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る

(21)

夜風の音と一しよに、夢のやうに消え失せた後だつたのです。

北斗の星は又寒さうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変

らず、こうこうと枝を鳴らせてゐます。が、杜子春はとうに息が絶えて、 仰向あふむ けにそこへ倒れてゐました。

杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れてゐましたが、杜子春の魂は、静に体 から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。

この世と地獄との間には、あんけつだう闇穴道

といふ道があつて、そこは年中暗い

空に、氷のやうな冷たい風がぴゆうぴゆう吹き 荒すさ

んでゐるのです。杜子春は

その風に吹かれながら、暫くは 唯ただ

木の葉のやうに、空を漂つて行きましたが、

やがてしんらでん森羅殿

といふ額の懸つた立派な御殿の前へ出ました。

御殿の前にゐた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまはりを

取り捲いて、きざはし

の前へ引き据ゑました。階の上には一人の王様が、まつ

黒なきもの

に金のかんむり

をかぶつて、いかめしくあたりを睨んでゐます。こ

れは兼ねてうはさ

に聞いた、 閻魔えんま

大王に違ひありません。杜子春はどうなる

ことかと思ひながら、恐る恐るそこへひざまづ

いてゐました。

「こら、その方は何の為に、峨眉山の上へ坐つてゐた?」

閻魔大王の声は雷のやうに、階の上から響きました。杜子春は早速その問に 答へようとしましたが、ふと又思ひ出したのは、「決して口を利くな。」とい

ふ鉄冠子の戒めの言葉です。そこで唯頭を垂れた儘、 唖おし

のやうに黙つてゐま

(22)

した。すると閻魔大王は、持つてゐた鉄のしやく

を挙げて、顔中の 鬚ひげ

を逆立 てながら、

「その方はここをどこだと思ふ? すみやか

に返答をすれば好し、さもなけれ

ば時を移さず、地獄のかしやく呵責 に遇

はせてくれるぞ。」と、 威丈高ゐたけだか

ののし りました。

が、杜子春は相変らずくちびる

一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、

すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言ひつけると、鬼どもは一度に

かしこま

つて、忽ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞ひ上りました。

地獄には誰でも知つてゐる通り、 剣つるぎ

の山や血の池の外にも、 焦熱せうねつ

獄といふ焔の谷やごくかん極寒

地獄といふ氷の海が、真暗な空の下に並んでゐます。

鬼どもはさういふ地獄の中へ、代る代る杜子春を 抛はふ

りこみました。ですから 杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜か

れるやら、皮を剥がれるやら、鉄の 杵きね に撞

かれるやら、油の鍋に煮られるや ら、毒蛇に脳味噌を吸はれるやら、熊鷹に眼を食はれるやら、──その苦しみ

を数へ立ててゐては、到底際限がない位、あらゆる 責苦せめく

に遇はされたのです。

それでも杜子春は我慢強く、ぢつと歯を食ひしばつた儘、一言も口を利きませ んでした。

これにはさすがの鬼どもも、呆れ返つてしまつたのでせう。もう一度夜のや

うな空を飛んで、森羅殿の前へ帰つて来ると、さつきの通り杜子春をきざはし の下に引き据ゑながら、御殿の上の閻魔大王に、

「この罪人はどうしても、ものを言ふ 気色けしき

がございません。」と、口を揃へ

(23)

ごんじやう言上

しました。

閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れてゐましたが、やがて何か思ひつ いたと見えて、

「この男のちちはは父母

は、畜生道に落ちてゐる筈だから、早速ここへ引き立てて 来い。」と、一匹の鬼に云ひつけました。

鬼は忽ち風に乗つて、地獄の空へ舞ひ上りました。と思ふと、又星が流れる やうに、二匹の獣を駆り立てながら、さつと森羅殿の前へ下りて来ました。そ の獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといへばそ れは二匹とも、形は見すぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死ん だ父母の通りでしたから。

「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐つてゐたか、まつすぐに白状し なければ、今度はその方の父母に痛い思ひをさせてやるぞ。」

杜子春はかう 嚇おど

されても、やはり返答をしずにゐました。

「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さへ都合が好ければ、

好いと思つてゐるのだな。」

閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。

「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまへ。」

鬼どもは一斉に「はつ」と答へながら、鉄の 鞭むち

をとつて立ち上ると、四方

八方から二匹の馬を、みれんみしやく未練未釈

なく打ちのめしました。鞭はりうりうと 風を切つて、所嫌はず雨のやうに、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、──畜

生になつた父母は、苦しさうに身を 悶もだ

えて、眼には血の涙を浮べた儘、見て

もゐられない程いなな

き立てました。

「どうだ。まだその方は白状しないか。」

(24)

閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促し ました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに

きざはし

の前へ、倒れ伏してゐたのです。

杜子春は必死になつて、鉄冠子の言葉を思ひ出しながら、 緊かた

く眼をつぶつ

てゐました。するとその時彼の耳には、ほとんど

声とはいへない位、かすかな 声が伝はつて来ました。

「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、

それより結構なことはないのだからね。大王が何とおつしや

つても、言ひたく

ないことは黙つて御出おい

で。」

それは確に懐しい、母親の声に違ひありません。杜子春は思はず、眼をあき ました。さうして馬の一匹が、力なく地上に倒れた儘、悲しさうに彼の顔へ、

ぢつと眼をやつてゐるのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心

を思ひやつて、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む 気色けしき

さへも見せないので す。大金持になれば御世辞を言ひ、貧乏人になれば口も利かない世間の人たち に比べると、何といふ有難い志でせう。何といふ健気な決心でせう。杜子春は

老人の戒めも忘れて、 転まろ

ぶやうにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸 を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました。

……

その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の 下に、ぼんやり佇んでゐるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や

(25)

車の波、──すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。

「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」

片目すがめ

の老人は微笑を含みながら言ひました。

「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、 反かへ

つて嬉し い気がするのです。」

杜子春はまだ眼に涙を浮べた儘、思はず老人の手を握りました。

「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けてゐる父 母を見ては、黙つてゐる訳には行きません。」

「もしお前が黙つてゐたら──」と鉄冠子は急におごそか

な顔になつて、ぢつ と杜子春を見つめました。

「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つて ゐたのだ。──お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持に なることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら 好いと思ふな。」

「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」

杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が 罩こも

つてゐました。

「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇はないか ら。」

鉄冠子はかう言ふ内に、もう歩き出してゐましたが、急に又足を止めて、杜 子春の方を振り返ると、

「おお、さいはひ

、今思ひ出したが、おれは泰山の南のふもと

に一軒の家を持 つてゐる。その家を畑ごとお前にやるから、早速行つて住まふが好い。今頃は 丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう。」と、さも愉快さうに つけ加へました。

(26)

(大正九年六月)

本文は、日本青空文庫より引用したものです。詳しいことは、青空文庫のサ イトをご参照ください。

底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房 1968(昭和 43)年 8 月 25 日初版第 1 刷発行

入力:j.utiyama 校正:野口英司 1998 年 5 月 20 日公開 2004 年 3 月 12 日修正 青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)

で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんで す。

●表記について

このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されていま す。

(27)

一房の葡萄

有島武郎

僕は小さい時に絵を描

くことが好きでした。僕の 通かよ

っていた学校は

よこはま横浜

の 山やま の手

という所にありましたが、そこいらは西洋人ばかり住んで いる町で、僕の学校も教師は西洋人ばかりでした。そしてその学校の行きかえ りにはいつでもホテルや西洋人の会社などがならんでいる海岸の通りを通る

のでした。通りの海添いに立って見ると、 真青まっさお

な海の上に軍艦だの商船だ

のが一ぱいならんでいて、煙突から煙の出ているのや、ほばしら

から檣へ万国

旗をかけわたしたのやがあって、眼がいたいように 綺麗きれい

でした。僕はよく岸

に立ってその 景色けしき

を見渡して、 家いえ

に帰ると、覚えているだけを出来るだけ

美しく絵に描

いて見ようとしました。けれどもあの透きとおるような海の

あいいろ藍色

と、白い帆前船などのみずぎわ水際

近くに塗ってあるようこうしょく洋紅色

とは、

僕の持っている 絵具えのぐ

ではどうしてもうまく出せませんでした。いくら描いて も描いても本当の景色で見るような色には描けませんでした。

ふと僕は学校の友達の持っている西洋絵具を思い出しました。その友達は

やはり矢張

西洋人で、しかも僕より二つ位齢とし

が上でしたから、身長せい

は見上げるよう に大きい子でした。ジムというその子の持っている絵具は舶来の上等のもので、

軽い木の箱の中に、十二 種いろ

の絵具が小さな墨のように四角な形にかためられ て、二列にならんでいました。どの色も美しかったが、とりわけて藍と洋紅と

參考文獻

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一番 竺和山靈山寺一乘院 德島縣鳴門市大麻町板東京塚鼻 126 二番 日照山極樂寺無量寿院 德島縣鳴門市大麻町字桧の上 12 三番 龜光山金泉寺釋迦院

第 36 號(1959 年),頁 53-56;高崎直道, 〈如來藏思想の歷史と文獻〉 ,收入平川彰等編, 《講 座大乘佛教 6:如來藏思想》(東京:春秋社,1982 年),頁

Schopen 著,平岡聰譯<《大般涅 槃經》における比丘と遺骨に関する儀礼>;(4) 此 Schopen 之意見,美國學者 Silk Jonathan 及日本學者下田正弘均表同意。Silk, Jonathan, The