日治時代臺灣海峽の海賊
松浦章 ( 関西大学亞洲文化交流研究中心主任、関西大学文学部教授 )
壹、緒言
古来より東アジア海域は船舶の航行にとって重要な海域であり、商船の航行のみ ならず非合法行為を行う海賊・海盗にとっても活動の主要な舞台であった。明代に は倭寇や海賊が、清代にも海盗が横行していたことに関しては、近年研究対象とし て注目されている。1特に台湾海峡は海賊の重要な舞台であった。2
西元1895年以降50年にわたって日本が台湾を統治するが、その時代にあっても海 賊の討伐は官憲側にとって重要な問題であった。3
西元1895年以降半世紀にわたって台湾を統治した台湾総督府の民政部警察本署 が、大正6年(西元1917年)にまとめた「台湾ト南支那トノ関係」に「台湾ノ対岸ハ 諸種陰謀ノ根拠地タルノミナラス悪疫ノ根源地トシテ又海賊ノ巣窟タリ而シテ支那 警察ハ無力ニシテ頼ムニ足ラス故ニ福建広東上海地方沿岸ヲ我勢力範囲トナシ台湾 統治ノ害悪ノ源泉ヲ一掃スルヲ要ス」4とあるように、台湾海峡を中心とする海域に おいて出没する海賊は、台湾を統治する台湾総督府にとってその鎮圧は重要な懸案 事項であった。同報告の中で「南支那沿岸ニ蟠起スル海賊ハ、今尚ホ海峡ヲ渡リテ 屡々臺灣沿岸ニ出没シ、或ハ船舶ヲ襲ヒ、或ハ住民ヲ脅カシ、以テ暴戻ノ行為ヲ逞ウ セントス。彼等ハ夏時季節風ノ時機ニ乗シ、毎年六月ヨリ九月ニ至ルノ候ニ於テ、
臺灣ノ沿岸ニ航行スル船舶、及臺灣ト支那トヲ往来スル船舶ニ對シ、劫掠ヲ恣ニ
松浦章,《中国の海賊》(東方書店,1995 年 12 月)。 松浦章,《中国の海商と海賊》(山川書店,2003 年 12 月)。
張中訓,《清嘉慶年間閩浙海盗組織研究》《中国海洋發展史論文集(二)》(臺北市:中央研究院三民 主義研究所,1986 年 12 月),161-198 頁。松浦章,《清代中国琉球貿易史の研究》(榕樹書林,2003 年 10 月),頁 82-291。
松浦章著,卞鳳奎譯《日冶時期臺灣海運發展史》(博揚文化,2004 年 7 月),頁 126-152。
台灣総督府民生部警察本署,《臺灣ト南支那トノ関係及現在ノ施設並将来ノ方針》(大正 6 年(1917 年))。
シ、變現出没殆ント極マリナキノ状アリ」5と述べるように、台湾対岸の福建や広東 省沿海部からの海賊が夏季から初秋にかけて台湾にも襲来するとして注視していた のである。
そこで本報告は、日本の台湾統治時代の海賊問題について述べてみたい。
貳、臺灣海々々海賊
臺灣海峡における海賊の出没に関しては、先に指摘した大正6年(西元1917)の台 灣総督府民生部警察本署『臺灣ト南支那トノ関係及現在ノ施設並将来ノ方針』にお いて、明治31年(西元1905)より大正5年(西元1916)までの間に台灣海峡における 商船特に帆船であるが、海賊から襲撃された事例は42例が見られる。6…
また臺灣海峡において海賊の襲撃を受けた具体的な事例は、日本の臺灣統治時代 の有力新聞であった『臺灣日日新報』にも記事が掲載されている。『臺湾日日新 報』第4695号、大正2年(西元1913)7月1日付の「海賊現はる」には、「舊港沖合の 被害」として「二十九日午後二時三十分頃、新竹廳下舊港の沖合」と、舊港の沖合 に「支那形船一隻現はれ沿岸交通の一戎克船」と、中国式帆船が見られた。ところ がこの船は「支那形船こそ同地沿海を横行せる海賊船に相違なく新竹廳にては沿岸 を警戒中也と」とあるように、海賊船と見なされ新竹廳の沿海に警戒するよう喚起 された。さらに翌日の『臺湾日日新報』第4696号、大正2年(西元1913)7月2日付け の「新竹沖の海賊船被害者淡水に來る」の記事には、
船長董郡外五名乗組める戎克船順泰號は、鹽三萬九千斤を搭載し、去る二十八 日午前六時臺南廳下北門嶼を發し淡水へ向ひ航行の途中、翌二十九日午後一時 頃、新竹廳下新埔支廳紅毛港の沖合約二海里の點來かかりし折から遙か陸地の 方に現はれたる一隻の支那形船あり、約八百五十石位いと覚しき船體白色の怪 しきものなれば、船員等は萬一を警戒しつつありしが、彼の支那形船は眞一文 字に順泰號目がけて疾走し來り、忽ちにしてその舷側に來るや、素早く綱を以 て順泰號に船體を繋ぐと見る間も無く、大刀を携へたる壮漢三名と小銃を携へ たる者三名ヒラリと計り順泰號に飛び移り船員を脅迫して船底に押籠めたる…
同書。
松浦章著,卞鳳奎譯,《日冶時代臺灣海運發展史》(博揚文化,2004 年 7 月),頁 129-134。
上、船内を捜索し現金三十八圓と玄米一石五斗、食鹽二百斤の外、船員等の衣 類二十著、木製鍋二箇、同銅製一箇、麻綱三筋に臼一箇を掠奪して、何処とも なく逃げ去りたるが、賊船の乗組員は少なくとも十名位いは居たる模様なりと 云ふ。斯くて順泰號は三十日午後五時淡水へ入港の上、委細を訴へ出でたる が、思ふにこの賊船は前號紙上に報道せしものと多分同一なるべしと。
とあるように、台南から淡水に塩を積載し輸送していた順泰号が、新埔支廳の紅毛 港付近において襲撃され、同船に積んでいた現金三十八圓と玄米一石五斗、食鹽 二百斤の外、船員等の衣類二十著、木製鍋二箇、同銅製一箇、麻綱三筋に臼一箇な どを掠奪して去っていたのである。
さらに『臺湾日日新報』第4703号、大正2年(西元1913)7月9日付けには、海賊被 害の記事が掲載されている。襲撃されたのは「一は臺南廳の金義龍號と云ひ、一は 清國船福連順と云ふ」とあるように、臺灣の台南廳籍の金義龍号と清國籍の福連順 号であった。その被害の状況は同書に、
▲金義龍號 は臺南廳大竹里旗後街三百二十一番地潘石社の所有船(八十石 積)にして船長を解明と云ひ本月一日北門嶼にて食鹽四萬五千斤を積込み、同 日午後二時同地を發し淡水へ向ひたるが、翌二日午前八時頃、新竹廳下舊港と 香山との中間なる沖合を航行中突如として海賊船一隻現れたり。然るに海賊船 は金義龍號目がけ先つ三發の銃火を送りたる後、海賊共は喚声を揚げつつ船を 進め來り金義龍號の舷側に接するや逸早く小銃或は長刀を携へたる六名の海賊 闇入し來り船長以下を威脅して船倉内に追込み、この者等を監禁したる上、彼 等は自ら同船を操縦して對岸福州附近に至りて同船を停め、七月三日午前六時 頃、食鹽全部と錨其の他の船具を始め船員等の衣類百四點雜品數點等合計價格 五百四十圓餘の品を掠奪して漸く船員等を解放して何處とも無く立去りたる が、解放されたる船長以下は航海四昼夜にして一昨六日、辛ふじて淡水へ入港 し、その始末を訴へ出でたり、而して船員の語る處に依れば賊船は約二百石積 位いの三本檣を有せるものにて船體の上部は黒と赤との色彩を施し、下部は白 色に塗り居り海賊等の語音は泉州訛りなりしと云へり。又た、
▲福連順號 は支那戎克にして去る六月二十五日午前六時、厦門を出帆し基隆 へ向ひ航行中、同日午後六時頃厦門を去る清里三十海里の沖合に於て小形の
海賊船に襲はれたり。當時賊船には十數名の支那人乗組み居り、孰れも年齢は 二十四五歳より三十四五歳に至る屈強の壮漢にして、各各銃器、或は刀を携へ 中には拳銃を持てる者等ありて、福連順號へ漕ぎ付くるや、忽ちにして船内に 飛び移り凶器を擬して船長以下十名の船員を船底に押し込み、その自由を拘束 したる上、彼等は自か舵を操して航行し、翌翌二十七日午後六時頃、厦門を距 る北方清里約四百海里なる南日と稱する地の海岸に到りて船を停め、同所に於 て積載の貨物銀紙四百括、材木六百五十本、木製椀七十箇、苧油、其の他船具 類等價格七百五六十圓の品を掠奪したる上、本月四日午後十時に至り船員等を 解放したりと云ふ。而して被害船福連順號は一昨日七日午後一時、漸く基隆に 入港するや前記の始末を其筋へ訴へ出でたるなり。以上の次第にて其筋にては 船員等に對し尚ほ被害状況の取調べを為しつつあるが、毎度ながら憎つくき海 賊共の振舞と云ふべし。
とある。台南廳籍の金義龍號80石積は、船長が解明であり、北門嶼から食鹽45,000 斤を積載して淡水へ向けて航行中の7月2日午前8時頃に新竹廳下舊港と香山との間の 沖合において海賊船一隻の襲撃を受けたのであった。清國籍の福連順號は、厦門か ら基隆へ向けて航行中、厦門から清里30海里の沖合において海賊船に襲われた。そ して積載していた貨物の銀紙400括、材木650本、木製椀70箇、苧油等、さらに船具 類等まで略奪された。その價格750~760圓にのぼったのであった。
海賊行為はさらに続いていた。『臺湾日日新報』第4714号、大正2年(西元1913)
7月20日付の「海賊又現る」によれば、
戎克船金福號(三百五十石積)は十五日午後二時頃新竹廳下中港沖に於て海賊 船に襲はれ船體を大洋に誘引されたる上、ロップ衣類現金等百七十餘圓を掠奪 され,翌十六日午後六時に至り漸く解放されたりと。
とあり、350石積みのジャンク金福号が新竹沖で襲われ現金など170余円を強奪され ている。その後も海賊船が出没していた。
『臺湾日日新報』第4746号、大正2年(西元1913)8月22日付には「横暴の海賊船 員殺害と貨物掠奪」との記事を掲げ、海賊が物品の強奪だけではなく乗員をも殺害 したことを伝えている。
二十日午後十一時淡水へ入港したる船籍清國戎克船金萬益號は左の驚くべき海
賊の暴虐事実を語れり。同船は今月十二日午前六時厦門石媽港より淡水向ひ出 帆したるに、翌十三日午後四時頃、清國南日港附近の沖合にて突然海賊船に出 會し多少抵抗を試たる為め船員一名は殺害され二名の重傷者、三名の軽傷者を 出し、同日午後八時頃迄、同船は抑留され多数の貨物及船具等を掠奪し何方へ か立去りたるが、同船は十四日本島観音澳に寄港し、一應死者を埋葬し重傷者 三名は上陸せしめ、軽傷者三名と無難者十名とを乗せ入港したる次第なりと。
とあり、清国船籍のジャンク金萬益号は厦門から淡水に向けて航行中に海賊に襲撃 され船員1名が殺害、さらに重傷者が2名、軽傷者3名の人的被害を受けたのであっ た。
その後も8月下旬まで『臺灣日日新報』は、海賊の記事を断続的に掲載している。
極めつけは『臺湾日日新報』第4759号、大正2年(西元1913)9月5日付に疑惑の海賊 船として既に紹介したように写真「海賊の疑ある支那戎克淡水碇泊中の蘭重興號」
を掲載している。7…
このように、臺灣海峡における海賊行為は、台灣総督府にとっても看過できるこ とではなかった。
參、台灣總督府文書に見られる海賊
台灣総督府文書の中で海賊に関する初期のものとして、海賊の処刑に関する文 書が存在する。明治33年(西元1900)に死刑に処せられた臺北縣基隆の「頼海賊 三十三歳」8、明治35年(西元1902)に死刑に処せられた嘉義廳大槺榔西堡の「黄海 賊三十八歳」及び何柳雷、黄見である。9彼等が死刑に処せられた犯罪の具体的内容 等、詳細は不明である。
台灣総督府文書の中に海賊の襲撃を受けて殺害され、貨物を奪取されたことを具 体的に記した明治34年(西元1901)2月の記録が残されている。
台南縣住民陳炳如雇人二名并陳培年、呉方等福建省南日島ニ於テ海賊ノ為ニ殺 害、又ハ掠奪ヲ受ケタル件ニ付、福州領事ヨリ別紙ノ通通報有此候。10…
松浦章著,卞鳳奎譯,《日冶時代臺灣海運發展史》(博揚文化,2004 年 7 月),頁 146。
8 國史館台灣文献館所蔵,5100570277~282 文書。
國史館台灣文献館所蔵,7570570243~247 文書。
0 國史館台灣文献館所蔵,46450170175 文書。
台南縣民等が海賊被害を受けた内容である。さらに明治34年2月4日付にて在福州 領事豊島捨松から民政長官後藤新平に宛てられた詳細な報告が知られる。
台灣台南縣大西門外北勢街二十七番戸、砂糖及ヒ什貨商陳炳如ナル者、一昨 三十二年十一月雇人黄朝莽及ヒ趙営(両人共清国籍)ノ両人ヲ寧波ニ派シ、同 地ニ於テ雑貨壹万九千四百五拾円ヲ買入レ、清國民船金成発ニテ運搬中、同年 十二月五日、福州管下福清縣南日島ノ洋中ニテ海賊ニ掠奪セラレ、其雇人両人 共殺害セラレ、又タ台南縣人陳培年及呉方両人モ亦タ三十二年九月同処ニ於テ 海賊ノ襲撃ヲ受ケ台灣籍民船金合益ハ焼燬セラレ、其貨物壹万貳千四百三拾六 円ハ焼燬セラレタルノミナラズ、其乗組水夫三名モ亦タ殺害セラレタル旨、客 年四月當館ヘ訴出候ニ付キ、當館ヨリハ館員一名ヲ福清縣ヘ出張セシメテ調査 セシメ、洋務局ヘ照會ノ上福清知縣及ヒ莆田知縣ヲ以テ捕盗委員ニ任セシメ、
小砲艦三隻ヲ當地ヨリ廻航シ、厦門ヨリ楚勇貳百名ヲ派シテ右両知縣ノ指揮下 ニ属シテ六月下旬南日島ヘ捕盗ノ為メ出発爲致候。爾来右知縣ハ小砲艦三隻兵 船四隻又並ニ楚勇貳百名ヲ率イテ専ラ南日・小日両島ノ盗賊捕獲ニ従事シ、同 島ニ留ルコト約一ヶ月半余ニシテ、同島海盗ノ頭目郭鳥漲、余手尾、陳怡生、
王旺吓、郭蕃薯潘、郭大目生、施八、郭生茂生、郭炮生等ヲ捕獲シテ斬首シ、
其他ノ部下七名モ亦刑ニ處シ、當時尚ホ拾余名ハ他ノ犯罪ニ関聯スルヲ以テ監 禁中ニ有之候。先是當館ヨリ台湾人ノ掠奪セラレタル貨物ノ賠償並ニ死傷者ニ 對スル手當ニ就キ総督ヘ及要求置候ニ付キ、右両知縣ハ両島内於ケル贓品ハ已 ニ興化府管内ニ於テ大抵賣却シ尽シタルヲ以テ思ハシク回収スルコト能ハズ。
一應南日島盗賊ノ捕獲ヲ終リテ両知縣共同島ヲ引揚ケ、今回ハ更ニ興化府ノ贓 品買入者ヲ捕獲シテ賠償セシムルノ方法ヲ採リ、客年十二月ニ至リ漸ク陳培 年・呉方ノ貨物代價千八百弗、陳炳如ノ貨物代價貳千貳百弗合計四千弗ヲ回収 致候。又タ人命ニ関スル遺族扶助料ニ就キテハ本部籍ニ在ル者三名ニ對シ各一 人五百弗計壱壱千五百弗、又タ支那籍ニ在ル陳炳如ノ雇人二名ニ對シテハ五百 弗ヲ賠償セシメ、總計六千弗ノ賠償ヲ得、又タ将来南日島海盗豫防ニ就キテ ハ、総督ハ福清縣ニ命シテ新ニ同島ニ保甲制度ヲ實施セシメ、全島ヲ舉テ海賊 等ノ豫防ニ就キ聯帯責任ヲ負ハシメ将来海盗ノ患勿ラシムル旨、洋務局ヨリ申 來候ニ付キ、之レヲ以テ終結ト爲シ、當港ニ滞在中ナリシ被害者陳炳如等ヲ當
館ニ呼出シ賠償金ヲ夫々交付シ帰台爲致候。11…
右台湾人海賊遭難ニ関スル前後ノ始末及通知候。敬具。
とある。台灣台南縣大西門外北勢街二十七番戸の砂糖や什貨を扱う商人陳炳如が、
明治32年(西元1899)11月に清国籍の黄朝莽と趙営を雇用して寧波に使わし、寧波 で雑貨を金額にして19,450円を購入し、清国船籍の民船金成発にそれらを積載して 台南に帰帆中の同年12月5日において、福建省福州府の管轄下にある福清縣南日島の 海上で海賊の襲撃を受け、清国籍の黄朝莽と趙営両人が殺害せられたのであった。
さらに台南縣人の陳培年と呉方の二人も明治32年9月に同海域で海賊の襲撃を受けて 台灣籍の民船金合益は焼燬され、積荷12,436円も焼燬された上に、乗組の水夫3名も 殺害された。日本領事からの訴えによって清国官憲が海賊を捕縛し、被害者に賠償 金を支払うことで決着した海賊事件である。これらの海賊行為を行ったのは福清縣 治下の南日・小日両島の海賊であり、頭目郭鳥漲、余手尾、陳怡生、王旺吓、郭蕃 薯潘、郭大目生、施八、郭生茂生、郭炮生等を捕獲して斬首刑に付し、その部下7名 も刑に処され、残余の10余名は監禁されたのであった。このような海賊行為はしば しば見られたのである。12…
台灣総督府文書の大正2年(西元1913)7月21日付「海賊船取締ニ関スル件」13によ れば、台灣総督府民政長官から総督府海軍参謀長に海賊の取締を要請している。
昨年度頻々ナル海賊船遭遇ノ情況ニ鑑ミ、本年ハ六月下旬ヨリ馬公要港部ニ協議 シ、駆逐艦ヲシテ巡航警戒セシムルコト已ニ三回ニ及ブモ、尚ホ海賊襲来ノ報 ニ接スルハ遺憾至極ニ有之。・・・14…
とあり、大正2年6月下旬に台灣総督府の海軍が駆逐艦を使って台灣海峡の巡航を行 ったのである。その巡航の結果は吉井副官によって次のようにまとめられた。その 報告である「自大正二年七月十五日至同七月十七日駆逐艦東雲海賊取締行動中便乗 視察報告」によれば次のようにある。
本行動中、北淡水港ヨリ南鹿港ニ至ル沿岸ニ沿ヒ警戒航行、其ノ間、凡ソ視界 ニ入リレ総テノ帆船ハ、優秀ナル快速ヲ利用シテ之ヲ追跡、一ツモ漏サス臨
國史館台灣文献館所蔵,46450170178~179 文書。
松浦章著,卞鳳奎譯,《日冶時期臺灣海運發展史》(博揚文化,2004 年 7 月),頁 129-134。
國史館台灣文献館所蔵,55930250226 文書。
國史館台灣文献館所蔵,55930250233 文書。
検セリ。此期間多少海上風浪アリシモ、天気晴朗、駆逐艦ノ視界直径二十浬ニ 達セルニ不係、通航船舶ニ往来甚タ少ナク、日ヲ異ニシ同シ船ヲ繰返シ臨検セ ルコト等モアリ。三日間ニ亘リ遭遇セルモノ僅カニ六隻ノミナリシモ、右船型 乗員ノ素質、搭載兵器ノ状態等異ニシ沿岸港視察ノ結果ト相俟ツテ海賊取締ニ 付、好箇ノ資料ヲ與ヘタリ。
[一]本島沿岸通航帆船ヲ先ツ左ノ三大別スルヲ得可シ。
第一、單檣ヲ備ヘ船舷平底小型ニシテ陸岸ニ接近シ漁業ニ従事スルモノ。
第二、二本又ハ三本檣ヲ有シ船体大ニシテ舷高ク積載カ大ニシテ、遅重ナル モノ此種帆船ニハ年少ノ男子或ハ老翁ノ乗員ヲ見ルコト多シ。武器ヲ有スルコト アルモ火縄銃位ナリ。
第三、二本又ハ三本檣ヲ有シ比較的大ナル丈ケ高キ帆ヲ挙ゲ、往々「バルーン ヂブ」ヲ用ユルモノモアリ。積載力大ナラス、淺喫水ニシテ軽快ナルモノ殊ニ屈 強ナル多数ノ壮丁乗員火縄銃、鎗ノ外、往々一二ノ新式小銃ヲ武装セリ。
[二]右ノ船舶中海賊ノ疑アルモノ
第一、第二ノ場合ハ海賊ヲナスニ不適当ナリ。第三ハ従来ノ情報ニ一致スル モノニシテ海賊ヲナシ得ルモノト推定シ得可シ。15…
とあり、台灣総督府海軍の巡航の結果、航行する帆船を三種に分類し、第一に、一 本マストの平底船で漁業を行うもの。第二に、二本三本のマストで舷が高く積載量 が多いが、乗員が年少者や老年者がいるものの、時には小型武器を有するもの。第 三は、船の形状は第二に類似する二本三本のマストであるが、乗員が屈強の者で構 成されている帆船は最も注意する必要がある。そして調査されたのは次の六隻であ った。便宜上番号を付す。
➀々 十五日午前九時五五分観音山ノ西北西九浬 船籍 恵安縣 獺窟港
船名 金淙利 船長 陳君英 船主 呉 却
出港地 淡水 七月十四日午后四時
國史館台灣文献館所蔵,55930250236,237 文書。
着地 厦門 船員 十三人 積荷 石炭五百担 武器 ナシ
➁々 十五日午前十時五五分白砂岬燈台ノ北東五浬 船籍 恵安縣 獺窟港
船名 金淙吉 船長 張看記 船主 張五梅
出港地 淡水 七月十四日午后五時 着地 厦門
船員 十人
積荷 石炭七百担 武器 ナシ
➂々 十五日午后一時一五分白砂岬燈台西方五浬 船籍 漳州府漳浦縣旧鎮保港
船名 陳振發 船長 陳江河 船主 同 人
出港地 基隆 七月十五日正午 着地 厦門
船員 九人
積荷 石炭三百担、マッチ百三十箱、硫黄百三担 武器 銃七挺、火薬十五斤位
➃ 十六日午前九時五一分担崎ノ西方五浬 船籍 台南廳大竹里旗後街一四八番地 船名 金城利
船長 黄項任 船主 許規矩
出港地 淡水 七月十四日午后三時 着地 媽宮
船員 七人
積荷 瓦二万枚、石炭一万五千斤 武器 ナシ
➄々 十六日午后々時四々分大肚渓河口ノ西北西四浬 船籍 媽宮
船名 東和美 船長 鄭防爪 船主 同 人
出港地 澎湖島通洋港 七月十五日正午 着地 通霄港
船員 八人
積荷 光古石二百担、豚二十五頭 武器 ナシ
➅々 十六日午后四時五五分、中港ノ西方五浬 船籍 漳州府漳浦縣
船名 金合順 船長 陳金春
船主 同 人 アヤシキ船
出港地 基隆 七月十一日午后十一時(旧五月二十四日)
七月十五日四港寄港、七月十六日午前十時出港 着地 厦門
船員 九人
積荷 硫黄二百六十担、麻十三把
武器 銃四挺、モービル一挺、火薬十八斤位 火縄銃二挺16…
とある6件である。
國史館台灣文献館所蔵,55930250236,237 文書。
駆逐艦東雲が臨検した6隻のジャンクの船籍は、➀➁々々が恵安縣獺窟港籍、➂々漳州府 漳浦縣旧鎮保港籍、々➃が台南廳大竹里旗後街一四八番地籍、々➄が媽宮、即ち澎湖島 馬公籍17、々➅が漳州府漳浦縣籍であった。々々々々➀➁➂➅々々が清国福建省籍の帆船であり、々々➃々
➄が台湾籍であった。6隻の乗員数は7名から13名で、いずれも10名前後で航行可能 な規模の船舶であり、積載数は不明であるが、積荷の量から見て、数百担の貨物を 積載可能であったと考えられる。18
特に最後の々➅は、別筆によって「アヤシキ船」と記されており、先の海軍の報告 にも見られる他の船以上に過分なる武器を積載していたことから、海賊船との疑い をもたれていたようである。
さらに台灣総督府の文書「福建省沿岸海賊取締ニ関スル件」から、大正6年(西元 1917)当時の台灣海峡における海賊の状況について見てみたい。同文書は、大正6年 9月27日付で在福州日本帝国領事館の領事代理森浩から外務大臣本野一郎に宛てられ た機密文書である。さらに台灣総督府民政長官下村宏にもその写しが送付された。19…
福建省沿岸海賊取締ニ関スル件
本件ニ関シテハ客月一日附通機密送第八號以テ御申越之次第有之。尚在厦門矢 田部領事ヨリ閣下宛八月二十八日附機密第三八號信寫送附旁々本件ニ関シ相當尽 力方照會ニ接シ居候處、本官本日他用ヲ帯ヒ李督軍ヲ訪問シタルニ同督軍ハ本 問題ニ言及シテ左ノ通制陳致候。
厦門交渉員ヨリ海賊取締問題ニ関スル在厦門日本領事ノ照會文ヲ廻附シ來リ タルガ、右ニ依レバ南日島附近ヲ根拠トスル海賊ノ跋扈甚シク、両国商船ノ 之ニ脅カサルルモノ少カラサルニ付、之レカ撲滅策ヲ講セラレタシトノコト ナリ。海賊掃蕩ノコトニ関シテハ貴方ノ警告ヲ受クルマデモナク當方ニ於 テ充分警戒ヲ加ヘツツアルモ廣キ海面ノコトニシテ、而シカモ彼等ハ普通 漁民ヲ装ヒ変幻出没殆ンド捕捉スガラサルモノアリテ、水上警察ニ於テモ
陳正祥,《臺灣地名辞典》(南天書局,2002 年 11 月二版二刷)によれば,馬公は「爲澎湖島縣治所 在、・・・原名媽宮」,223 頁とある。
8 松浦章,<日本の臺灣統治初期の臺灣帆船について>(関西大学史学・地理学会,《史泉》第 101 号)
,2005 年 1 月,参照頁 1-19。
國史館台灣文献館所蔵,2647b030280 文書。
少カラズ苦心シ居ル次第ナルガ今回予ハ従来ノ水警ニ更ニ百隻余ノ巡邏船及 三百名ノ丁兵ヲ増加シ、該地方ノ海面ヲ警戒セシムルト同時ニ南日島ニ独立 セル水上警察署ヲ設クルコトトシ、更ニ陸上ニ於テハ出入船舶ヲ臨検シ該島 漁民ノ所有船ニハ全部番號ヲ打チテ取締ニ使セントスル計画ヲ立テタリ。而 シテ之レカ實行ハ豫算等ノ関係ニアリ。且ツ百隻余ノ巡邏船ヲ増加スルモノ ナルヲ以テ相當時日ヲ要スベク、今年未ダアラザレバ準備整頓致シ難シ。
巡邏船ハ初メ汽船ヲ用ヒシカト思ヒシモ、汽船ニシテハ海賊ノ目ニ着キ易 ク、且ツ海岸浅クシテ近寄難キ等ノ不便モアリ。其實効少カルベク、且ツ 二、三隻ノ汽船ヲ巡邏セシムルヨリハ、却テ多数ノ戎克ヲ用ユル方得策ナルベ シトノ意見ヨリ戎克ヲ使用スルコトトシ、且ツ各巡邏船ニハ皆一、二門ノ小経 口大砲ヲ備ヘ附クルコトトセリ。
尚ホ従来ノ陸上及水上警察ノ権限不分明ニシテ事ヲ行フ上ニ於テ支障少カラ ズ、且ツ警察権ハ文官タル省長ニ皈シ居リシヲ以テ各警察署長ノ如キモ多クハ 文官ヨリ登用シ居リシガ、警察其者ノ性質上予ハ軍人ヲ以テ之ニ充ツルヲ得策 ナリト信ジ、今回登用セントスル巡警モ全部軍人中ヨリ採用スル方針ナリ。
南日島ヲ根拠トスル海賊ハ何等根底的勢力ヲ有スルモノニアラス。僅カノ旧式 不完全ナル銃器ヲ所持スルニ過ギスシテ、支那側ノ被害者ハ殆ンド漢民ニ限ラ レ居ル次第ナレバ、今回予ノ立テタル計画ノ実行セラルルニ至ラバ、或ハ満足 ノ効果ヲ得ルコト期シ得ベシト信ズ。厦門領事ニモ亦予ノ計画ヲ御序ノ節御通 知置アリタシ。尚ホ一言茲ニ申上ゲタキ在厦門日本領事ノ照會文ヲ見ルニ稍カ 妥當ヲ欠ク嫌ヒアル点少カラス。例ヘバ海賊絶滅ノ保障ヲ要求スルガ如キ、或 ハ実行方法蓋シ之ニ對シ如何ナル準備ヲナシツツアルヤノ質問ノ如キ之レナ リ。當方ニ於テモ内地ニ於テハ土匪海上ニ在テハ海賊ノ如キ之ガ絶滅ヲ希望ス ルハ勿論ニシテ、是等警戒ニハ充分注意シ居ルモ、如何セン彼等ハ神出鬼没 殆ド極リナク用意ニ之ヲ捕捉スル能ハズ、且掃蕩実行ノ如ミモ警察事項ニ属 シ、相當秘密ヲ守ラサルベカラス。殊ニ海賊絶滅ノ保障ノ如キハ殆ンド不可能 ノコトニ属ス。日本ハ警察ノ設備極メテ完全ナリト聞クモ、尚ホ且ツ盗賊ヲ絶 滅シ能ハザルニアラスヤ。況ンヤ支那人ノ今日ニ於テ海賊全滅ノ如キ到底爲シ 能フモノニアラズ。海賊ガ台湾及福建ノ商民危害ヲ加ヘ、引イテ両地通商上ニ
少ナカラザル不安ヲ與フル以上、吾々ハ當然ノ責務トシテ、之レガ根本的一掃ヲ 計ルニ躊躇スルモノニアラスシテ、最全ノ努力ヲ傾注スベキハ勿論ナリト雖 モ、果シテ絶滅シ得ルヤ否ヤハ前ニ述ベタル如ク到底保障スルヲ得サルハ、切 ニ貴官ノ御了解同情トヲ希望セサルヲ得ス云々。
以上ハ督軍談話ノ要領ニ有之候處、右ニ就テハ直チニ首肯シ得サル点モ不尠。
殊ニ賊徒剿滅ノ保証ヲ与フルコト到底不可能ナリト云フカ如キハ今回新タニ採 用セントスル取締方法ノ効果ノ有無ニ付、督軍自身モ疑問ヲ挿シ居ルガ爲メニ 外ナラザルヤニ考ラルルヲ以テ、右ニ対シ相當警告ヲ加ヘ注意ヲ喚起シ置ク要 アリト認メ候ヘ共、本問題ニ関シ此ノ際、督軍ト直接折衝ヲ重ヌルハ反テ種々面 白カラサル結果ヲ来スノ恐レナキヲ保セスト思料致候ニ付、本官ハ只概括的ニ 臺灣海峡地方ニ於ケル海賊横行ノ現状及ビ、航路不安通商妨害ノ実況ハ全ク在 厦門領事照會文ノ通ニ有之。而シテ右ニ対シ厳重ナル取締ヲ加フルノ必要ニ付 テモ日支官憲ノ全ク所感ヲ同フスルモノナル以上、福建省政府ニ於テハ彼等賊 徒ノ根拠地方ニ向ツテ速ニ有効ナル取締ヲ励行セサレ、正実ニ賊徒剿滅ノ實効 ヲ擧クルニ力ヲ尽サレンコトヲ希望シテ止マサル旨申述フルニ止メ置候。尚ホ 本件ニ就テハ、閣下ヨリ在厦門領事宛ノ八月一日附用機密送第一四號貴信御趣 旨ヲ超ヘサル範囲内ニ於テ、追テ時機ヲ見計ヒ交渉員ヲ経テ、省政府ヘ相當申 入ルコトニ取計フベク候条、右様御含キ置相成度此段報告旁申進候。 敬具…20 とある。
臺灣総督府側も清国福建省政府においても台湾海峡を中心に横行する海賊の跋扈 に苦慮していたことがわかる。その対策の第一として監視船の増隻が考えられた。
最初その監視船のために汽船を用いようとしたが、海賊に察知されやすいため中国 船式の戎克・ジャンク船を100隻余りと兵士300名を徴用して、海賊鎮圧の対策と考 えられていた。
この時期に横行していた海賊の根拠地は、福建省東北沿海の島嶼部の南日島であ ったと見られた。しかしこれらの海賊の武器は旧式の銃器のみであったようで、そ れにはジャンク船に小型の大砲を積載すれば十分に対抗できると考えられていたこ とがわかる。
0 國史館台灣文献館所蔵,2647b030281~284 文書。
台湾海峡を航行する海賊が狙った物は勿論金品であったろう。台湾海峡は物流の 重要な海路であった。そこで行われていた密貿易の一端を記した台灣総督府文書と して現存する明治34年(西元1908)9月5日付の在厦門領事上野専一から台湾総督府 民政長官後藤新平に宛てられた「台湾福建間ノ密貿易ニ従事セル「ジャンク」ニ関 スル調査」21が貴重である。この調査が、その実情を具体的に述べているので次に掲 げてみたい。
従来福建沿岸ト台湾トノ間ヲ往来セル「ジャンク」ニ就テ以テ其密貿易ヲ行ヒ ツツアル内情ヲ探査スルニ、此等「ジャンク」ハ大抵台灣人ト福建省若シク ハ浙江省人トノ合資ニ依リテ製作セラレ、毎々其合同者双方ヨリ各自信頼セル親 近若シクハ隷属ヲ之ニ乗組マシメ以テ台灣清國間貿易ノ消長、其他一切之景情 ヲ偵視セシメ以テ営業上ノ利便ヲ得ルト障碍ヲ回避スルトニ資スルナリ。此等
「ジャンク」ノ常慣トシテ船中必ス二張ノ國旗ト両個ノ船鑑札トヲ有スルナ リ。二張ノ國旗トハ、一ハ日本旗ニシテ、台灣沿岸ヲ航行スル際ニ用ヒラレ、
一ハ即チ黄龍旗ニシテ船カ尚ホ福建沿海ヲ航走スル間ハ之ヲ艫頭ニ樹ツルナ リ。即チ彼等ハ此両様ノ國旗ヲ自由ニ起臥撤立スルコトニ依リテ巧ミニ両沿岸 海関ノ巡邏船ヲ瞞過スルナリ。且ツ清國沿岸ヲ航進スル時ト雖モ、尚旭旗ヲ撤 セサルコトアリ。是レ彼海賊ガ看テ以テ怖レ近ザルヲ知リ之ヲ防避スルノ用ニ 供スルナリ。二個ノ船鑑札ハ一枚ハ台灣ナル合資者ノ名義ニテ台灣官署ヨリ交 付セラレ、今一枚ハ清國ニアル合資者之名義ニテ船ガ福建沿岸ニ到達ノ後、清 國官衙ヨリ之ヲ受クルナリ。清國官衙ノ鑑札ノ使用期限ハ満一年ニシテ之ヲ過 クレハ之カ書換ヲ要スレトモ其手数料トシテ一定セルモノナシトイフ、彼等ハ 此二枚鑑札ヲ利用シテ台灣ヘ阿片其他ヲ密輸出スルニ、就テ多大ノ狡利ヲ得ル ノミナラス。之ガ利便ヲシテ益々彼等ノ実地感得セシメタルハ一昨年以来塩ノ密 輸出ニアリトス。福建沿岸ヨリ台灣ヘ航行スルニハ期節ノ一定セルモノナク、
唯タ風向ノ如何ヲ観レハ足レリ。其風向ハ西南、東南、正南ノ三風位ナリ。彼 等ガ台灣福建ノ間ニ翼張シテ盛ンニ貿易上ノ奇利ヲ罔取セルニ拘ハラス、常ニ 退避シテ厦門ニ入港セサル所由ハ如何他ナシ。海関税ノ負担ニアリ。故ニ彼等 ハ毎ニ不開港場ニ入リ秘密貿易ヲ行ヒ以テ奇利ヲ壟断スルナリ。而シテ如斯此
國史館台灣文献館所蔵,46650150159~162 文書。
等密航船ノ意外ニ旺盛ナルガ爲メ両沿岸ノ到ル處ニ彼等ノ宿泊其他需要ヲ充タ ス宿店アリ。モッテテ彼等ノ利便ヲ助長スルノ機関亦備ハレリト云フ。又浮浪 無頼ノ徒ガ福建台灣間ヲ往来スルノ機関モ亦此等「ジャンク」ニアリ。今試之 ニ厦門沿岸ナル崇武、瀬窟、澳頭、洋下、冂頭、蛤江、五保等ノ各小津ヲ巡航 スルハ浮戈セル小舟ノ乗組水手中往々日本兵ノ戴用セル軍帽、馬乗外套等本邦巡 査ノ古洋服、両外套等ヲ被リテ船艌ノ間ニ起臥スルヲ見ン。是レ咄々奇怪ナル現 象ニアラスヤ。則チ此輩ニ就テ其那辺ヨリ得束リタルヤヲ糺問スレハ、彼等ハ 乃チ答ヘテ曰ク、此等被服ハ其何人ガ着用セルモノニ属スルヲ識ラス。但タ 吾等ノ友輩ガ毎ニ台灣ニ赴キ帰來、其土産トシテ吾輩ニ贈ルモノナルノミト以 テ、台灣福建間密貿易ノ旺盛ナル一班ヲ窺ヒ知ルニ足ラン。尚昨年以来日本領 事館ニ於テ清國人ニシテ台灣ヘ赴クモノニ與ヘ來リタル上陸証明書ノ発給ヲ厳 ニシタルガ爲メ、却テ此等「ジャンク」ノ被土ニ密航スル清國人ヲ搭載シ、彼 等ニ多大ノ利便ヲ與ヘツツアルハ事實ナリ。而シテ此等上陸者一名ニ對シ徴収 スル賃金ハ旅客ノ貴賤ニヨリ一定セスト雖モ平均十元ヲ下ラス。此等ハ大抵船 員ト称シテ上陸スルナリ。其荷物ノ運賃及ヒ上陸保険料ハ汎テ前徴セラルルト イフ。
福建沿岸ト台灣間密貿易ニ従事セル「ジャンク」ノ行動ノ一班ハ略ホ前述ノ如 シ。彼等ガ漸次厦門地方ニ於テ原査緊察ニ依リテ侵逐セラルルノ日ハ、即チ汕 頭以南寧波以北ノ不開港場ニ此等蓬船ノ帆影ノ逐次繁蔟ニ赴クノ時ナリ云々。22… と報告している。
この報告の情報源について、上野領事は厦門港の「内河航行小蒸気船乗組ノ一本 邦人ヨリ別紙記載ノ如キ報告ヲ得候處、中ニハ事實ト難信廉モ有之候ニ付、目下取 調中ニ有之候得共差當リ御参考之一端ニモ可相成ト存候ニ付、右茲ニ差進候」23と記 しているように、厦門港を基点とする小型汽船の日本人乗員から入手した情報であ るとし、幾つかの疑義もあるが参考事情として報告したものであったことが知られ る。そのような若干の問題点があるものの他に類を見ない資料である。この報告で 述べられた点について整理すれば次の項が揚げられるであろう。
國史館台灣文献館所蔵,46650150159~162 文書。
國史館台灣文献館所蔵,46650150159 文書。
密航に従事していたジャンク経営者は、台湾人と福建人または浙江人等の合資に より構成されていた。つまり台灣海峡両岸の関係者が必ず船舶運航、交易取引に必 要であったことがわかる。そしてこれらのジャンクには必ず船中に清国の黄龍旗と 日本旗との二張の国旗と、台湾側合資者が取得した船鑑札と、清国側合資者が入手 した船鑑札の両国の船鑑札とを所持していた。密貿易船は、この両国の国旗と船鑑 札を時機に応じて上手く使い分けていたことがわかる。
さらに厦門沿岸から泉州府近海の崇武、瀬窟、澳頭、洋下、冂頭、蛤江、五保等 の沿海地域における船舶の乗員の中には、日本兵の軍帽や馬乗外套さらには巡査の 古洋服や外套等を着用しているものが居ることが指摘されている。時にはこれらの 服装が、不案内の船舶乗員に威圧感を与えたであろうから、海賊行為のために悪用 された可能性もあったと考えられることから、密貿易と海賊行為とも一切無関係で はなかったと思慮される。
肆、小結
台灣海峡は古来より物流の盛んな海域であった。24そのためこの海域を航行する 船舶を襲撃して積荷等を奪取する海賊が頻繁に出没した。25… その獲物を狙う海賊は
「沿海盗賊、最爲商民之害」26とされ、海域を航行する船舶や人々にとって甚大なる被 害を与えるものとして嫌われていたのである。
大正8年(西元1919)の「海賊根拠地捜査状況復命書」27の「海賊ノ根拠地」に、
臺灣ニ関係ヲ有スル海賊ニ二種類アリ。一ハ直接臺灣近海ニ出没シテ沿海航行 ノ船舶(臺灣籍)ヲ脅威掠奪スルモノニシテ、一ハ南支那沿岸ニ割拠シテ沿岸 航行船舶及南支臺灣間ヲツウコウスル船舶(主ニ支那籍)ヲ脅迫スルモノ之ナ リ。
松浦章著,卞鳳奎譯,《清代臺灣海運發展史》(博揚文化,00 年 10 月)。 松浦章著,卞鳳奎譯,《日冶時期臺灣海運發展史》(博揚文化,2004 年 7 月)。
松浦章著,卞鳳奎譯,《清代臺灣海運發展史》(博揚文化,2002 年 10 月),頁 195-212。
松浦章著,卞鳳奎譯,《日冶時期臺灣海運發展史》(博揚文化,2004 年 7 月),頁 125-152 頁。
《高宗實録》,巻 1278(乾隆五十二年四月上)。
《海賊根拠地捜査状況復命書》によれば大正 8 年 3 月 10 日付の復命書に、「南支那沿岸ニ於ケル海 賊船占拠地捜査ノ為出張ヲ命セラレ、二月十二日出發、馬公ヨリ軍艦秋津洲ニ便乗シ、南日島以北 石浦ニ至ル間ノ捜査ニ従事シ、二月二十四日帰府仕候捜査の状況」とある。
前者ハ主トシテ十八日群島(即チ南日島及附近群島)及烏坵嶼ヲ根拠地トシ、
後者ハ浙江福建両省ノ各方面島嶼及沿海大陸ニ根拠地ヲ有シ、浙江省ニ於テ戎 克船数隻ヲ有オモニシテ横行掠奪ヲ恣ニスル海賊主魁以下多ク沿海ノ大陸ニ根 拠地ヲ有シ、島嶼ハ単ニ行動上ノ拠点ナルカ如シ。
従来臺灣近海ニ出没シタル海賊ハ南日島及其附近群島ニ占拠セルモノト思料セ ラル。抑モ南日島ハ淡水ト殆ント同緯度ニ在リ夏季順風ノ際ハ戎克船ヲ以テ約 十時間ニシテ桃園新竹ノ沿岸ニ達スト云フ。而シテ南日島ハ周囲約四十哩ノ一 大島ニシテ、農産物比較的多ク、住家ノ壮麗ナルハ他ニ比類ヲ見サル所ナリ。
且政令ノ行ハレサルト良港ヲ有スルトハ海賊ノ根拠地トシテ、最モ適當ナリ。
之ニ反シ浙江省管内ノ島嶼ニハ大ナルモノナク、産物亦少キヲ以テ、海賊巨魁 ノ住地トシテ適セス。従テ根拠地ヲ大陸ニ置ケルモノノ如シ。28…
とある。台湾海峡を舞台に活動する海賊には福建省莆田の沿海にある南日群島を根 拠地とするものや浙江省や福建省沿海の島嶼部を根拠地にする者が多いと見られて いたのである。特に南日島は台湾の淡水と同緯度に位置し夏季の順風が吹く時期に は、中国式帆船で十時間足らずで台湾西北沿海の桃園や新竹沿海に到着できる航行 距離にあった。
南日島は莆田縣の治下にあり、民国『莆田縣志』巻六、島嶼によれば、
南日島週迴七十里、寛十里、長三十里、横亘興化灣之外起数峯、其中燕岩爲莆 福交界、東北属福清、西南属莆田、有大寨、明水師参将駐紮於此、有寨墩臺、
居民約三萬餘人、村落九十、今存者不及半、以捕魚爲業、土産惟蕃茹・花生二 種、柴米布匹採涵江、近日教會在該島、設立小學、商船自涵江放洋、一潮可 至、民俗蠻悍、海盗甚多、安得福唐尉林孝子攅、爲之講學、化俗哉。29
とあり、南日島は周囲約35kmの島であり、居住民は三萬余りで村落数は90ほどあっ たが、民国時期にはいずれも半数に減少していた。その最大の理由は漁業か産物が 少ない農業しかなかったためと思われる。そのためか風俗は乱れ、海盗が多いとさ れる地であった。
8 国立公文書館,内閣文庫,《公文雑纂》大正八年,第十八巻,《海外視察復命》(纂 01466100)に拠 る。
《中国地方志集成・福建府縣志輯 、民國莆田縣志 》(上海書店出版社,2000 年 10 月),頁 209。
この民國『莆田縣志』の記述に「近日教會在該島」と南日島に協會があったこと を記しているが、「海賊根拠地捜査状況復命書」にも、南日島に教會があったこと が見られる。
當所ニ美以教會派ノ傳道師アリ。福清縣仁和郷ノ人ニシテ林青雲ト呼ヒ。昨年 夏著任セリト云フ。年歯約五十ニシテ真摯ノ風アリ。此者能ク臺灣語ニ通ス。
就テ聞知シタル所左ノ如シ。
一、海賊ハ各部落ニ一人乃至数人住ス。平常ハ漁農ニ従事シテ良民ヲ装フ。海賊 相互間ハ確實ニ連絡シ、秘密ヲ厳守ス。若シ秘密ヲ洩ス者アルトキハ之ニ対 シ残酷ナル復讐ヲ爲スト云フ。南日島北方ノ離島、赤山、羅盤、鰲山ノ諸島 ニ海賊多シ。鰲山島(十八日群島ノ一ナラン)ハ興化縣涵江ニ近ク、人口約 三百住民全部海賊ニシテ、最獰猛ナリ。昨年十二月支那人二十餘人ヲ虐殺シ タルヲ以テ討伐セシモ、却テ撃退セラレ上陸スル能ハサリシト、近日更ニ兵 二三百ヲ派シ討伐スルノ噂アリ。
二、白沙洋ノ東約七町ニシテ浮斗ナル地アリ。戸数百餘南日島中繁華ノ地ニシテ 戎克船碇泊場トシテ良港ナリ。同地ニ約二百名積ノ戎克二隻ツツ有スル周邏 之航ト称スル者アリ。海賊主魁ノ疑アリ。
三、二月十日支那官憲汽船汽船及戎克ニテ南日島西南ノ坑口後藤島ニ來リ、海賊 ノ捜査ヲ爲シ嫌疑者トシテ十二名(内一名ハ女)ヲ引致シ行キタリト。
四、南日島ノ中央部西塞汛ト称スル地ニ縣佐劉氏警官約二十餘名ト共ニ駐在セシ モ、昨年初メ福州ニ引揚ケ、其移住トシテ王氏來ル筈ナルモ未タ著任セス。
警官モ亦劉氏ト共ニ引揚ケタリト。
五、租税ハ一郷ヨリ一年ニ十圓宛ヲ徴収セシカ一昨年來徴収者來ラスト。
六、交通ハ主ニ涵江ニ依リ、又時々福州、厦門ヘノ便アリト。
大略以上ノ如クニシテ、右傳道師ハ附近住民ノ集團ヲ憚リ多ク語ルヲ欲セサル モノノ如シ。且南日島ハ交通不便ニシテ悪人多キニ依リ永ク駐在スルヲ欲セス、目 下轉勤ヲ出願シ居レリト云フ。30…
とある。民国『莆田縣志』に記された教會とは「美以教會派」の教会のものであっ たと思われる。基督教新教の一宗派であった。この教会に駐在していた伝道師から
0 国立公文書館,内閣文庫,《公文雜纂》大正八年,図書番号:纂 01466100。
の聞き取りから海賊の存在が指摘されるものの、伝道師が住民に何らかの被害が及 ぶことをおそれて詳細を調査することが出来なかったとされる。しかし、その聞き 取りから、普段は半農半漁の生活をしている一見良民に見えるものも海賊であった 可能性があることなど、日常の具体的姿の一端が知られる。
西元1985年以降半世紀にわたって日本によって台灣が統治され、その統治の中心 となった台灣総督府も海賊の跋扈は看過することが出来なかった。大正2年(西元 1913)7月19日付にて臺北廳長井村大吉より臺灣総督に宛てられた「海賊船取締ニ関 スル件」によれば、「近來海賊船ノ被害頻々有之。之カ取締ニ関シ巡査ヲ派遣シ左記 方法ニテ取締ヲ励行致度候」31として海賊による頻繁な被害の続発に苦慮していた。
その防御策として掲げられたのは次の点であった。一、警戒地点、二、警戒人員、
三、警戒員ノ服装及携帯品、四、警戒員ノ乗船セル記號、五、警戒日数、六、警戒 員心得32の六項目を掲げている。特に海賊が横行する警戒地点は「淡水基隆ヲ起点ト シ新竹廳下旧港マデノ沿海」33として、この海域が最重要域として注目されていた。
さらに大正3年(西元1914)5月1日付の新竹廳家永泰吉郎による「海賊船取締ニ関ス ル件」34によれば、警戒地点は拡大し「舊港ヲ基点トシ臺中廳下大安港及州北二堡紅 毛港迠ノ沿海」35をあげているように、警戒が厳しくなると海賊は当然のこと警戒の 手薄な海域で海賊行為を行ったのであった。
台灣総督府は対岸福建省との関係をも重視していたため、海賊の取締を厳重に行 うことは総督府の存亡にも係わることであったが、その後も海賊行為が終息したわ けではなかった。
國史館台灣文献館所蔵,55930250228 文書。
國史館台灣文献館所蔵,55930250238, 文書。
國史館台灣文献館所蔵,55930250228 文書。
國史館台灣文献館所蔵,57410020010 文書。
國史館台灣文献館所蔵,57410020010 文書。