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―林芙美子『浮雲』―

黃錦容 政治大學日本語文學系

【要旨】

『浮雲』(1950年)は放浪の小説家で知られている林芙美子の晩年の傑作である。『浮 雲』の完成後、三か月足らずして芙美子はこの世を去った。第二次大戦下、主人公ゆき 子は、義弟との不倫を逃れて仏領インドシナに渡った。ベトナム南部の高原都市ダラッ トでゆき子は既婚の農林省技師の富岡に会い、愛し合ったがやがて敗戦となりそれぞれ が日本に帰ってきた。女は仏印の夢が忘れられず、妻と別れきれないでいる男の後を追 いまわす。ダメ男と分かっていても、別れようにも別れられない、腐れ縁でズルズルと 関係を続けていった男女の情痴の物語である。

ゆき子の恋愛幻想は表面的に男に依存して、何人かの男との性的交渉を通して、屈辱 的に堕落していくように見受けられるが、実は生活の面で、その性的体験はかなり娼婦 らしい奔放的で自由な生き方をしている。だが、家庭外の異類の女はどんな恋愛感情を 噛み締めていくものであろうか。本論文は病死するまで生涯情婦と娼婦のレッテルを刻 印されたゆき子の家庭外の女の、転々と居場所の日本と植民地を経験した彼女の恋愛感 情に潜んでいる他者性――無自覚に自立と依存を入れ替わる心的習慣、ないしその拭い がたい郷愁となる対幻想――の内実を解明したいものである。

キーワード:『浮雲』、富岡、ゆき子、恋愛幻想、他者性

放浪する女の恋愛幻想

―林芙美子『浮雲』―

黃錦容

政治大学日本語文学系 教授

一、放浪女の越境――共存と背反の両義性

『浮雲』13は放浪の小説家で知られている林芙美子の晩年の傑作である。『浮雲』完成 後、三か月足らずして芙美子はこの世を去った。芙美子は、残り少ない自らの命をけず り、渾身の力をこめて『浮雲』を書いたのである。第二次大戦下、主人公ゆき子は、義 弟伊庭との不倫を逃れて仏領インドシナに渡った。ベトナム南部の高原都市ダラットで ゆき子は既婚の農林省技師の富岡に会い、愛し合ったが、やがて敗戦となりそれぞれが 日本に帰ってきた。女は仏印のロマンスが忘れられず、妻と別れきれないでいる男の後 を追いまわす。ダメ男と分かっていても、別れようにも別れられない、腐れ縁でズルズ ルと関係を続けていった。富岡と縁が切れず、途方にくれたゆき子は或る外国人の囲い 者になったし、妊娠したゆき子は中絶し、再び伊庭の囲い者となった。屋久島の新任地 へ行く富岡にゆき子はついて行き、富岡が山に入っている留守の間にゆき子が呆気なく 血を吐いて死んだ。まず芙美子自身の自作解説からこの作品の創作意図について踏まえ ておきたい。

<この作品は、或る時代の私の現象でもあるのだ。よいものか、悪いものかは、読 者がきめてくれるものであらうが、私は、この「浮雲」のあと、非常に疲れた。め まぐるしく私の周囲の速度は早い。こんな地味な仕事をこつこつやってゐるうちに、

歴史はぐるぐる変化してゆく。だが、私は、この作品は、私にとって、最も困難な 仕事でもあった。四囲のこともかまわずに、この仕事にむきあってゐた。いはゆる、

誰の眼にも見逃されてゐる、空間を流れてゐる、人間の運命を書きたかったのだ。

筋のない世界。説明の出来ない、小説の外側の小説。誰の影響もうけてゐない、私 の考へた一つのモラル。さうしたものを意図してゐた。(略)神は近くにありながら、

その神を手さぐりでいる、私自身の生きのもどかしさを、この作品に描きたかった のだ。(略)一切の幻滅の底に行きついてしまって、そこから、再び萌え出るもの、

それが、この作品の題目であり、「浮雲」といふ題が生まれた。……>(林芙美子『浮 雲』あとがき、1951.3.3下落合にて)

ゆき子の造型にはあくまでも家庭外の女として設定され、悪女というよりもむしろ無

13昭 24.11~昭 25.8雑誌「風説」に、引続き昭 25.9~昭 26.4雑誌「文学界」に連載され、完結し、昭 26.4

(1951)六興出版社から出版された。

判断で腐れ縁に身を流されていくだらしのない女として造形される。従来の研究視点に は、主に主人公ゆき子の形象性に集中され、<富岡の気持ひとつによって幸不幸がゆれ ている他動的な女性>14として把握されている。<女は経済力をもたないので、男性に依 存して生きなければならない。そこで、相手の男しだいで女の幸不幸が定まる>15、いわ ゆる<惚れやすい女>16である。これまでの諸研究には作家の生涯の生き方まで言及され、

ゆき子の形象性には芙美子自身の普遍的な人生感情が付与されるところが大きい、とい う言説はほぼ定着している。作家芙美子の獲得した人生観――<男に苦労をしつくした 女>、すぐ惚れてしまう女には、男性は見えないということは、平林たい子氏は<信念 とか思想性のない「情とみれんが深く情熱的で淫蕩で多少破廉恥な」林文学の女の「典 型の集大成」>として厳しい指摘をしている。このような芙美子批判に対して、渡辺澄 子氏は、<実行する女を歓迎し賞賛するようにはこの国の土壌は耕されていない。どち らかというと保守的なゆき子のような女を男は愛し、多くの女たちも面白く思う。芙美 子は制度に囲繞されて振り回されながら、男に依拠して生きるしかない庶民の女を描い た>17と、むしろ日本の土壌に根付いた庶民の女の生き方として把握してみた。

このように、先行研究において、自立と依存の両義性、中途半端な目覚め方をしてい るゆき子の無自覚の他者性がしばしば指摘されるものである。果たしてゆき子のこうし た旧い心的習慣、こうした拭きがたい対幻想はそのまま<時代を超えるもの>18として考 えられるのだろうか。そして、水田宗子氏の説には、現代フェミニズムの観点から、ゆ き子の堕落と愛欲生活をむしろ「破滅と新生」の両義的なものとして見た。日本内部の 家庭という従来の女のカテゴリーをはみ出した放浪女の自立問題、男性という他者との 係わり合いの経験を通して、そこには常に<「厄病神」という異邦人の私に出会うこと からくる、自己蘇生>の<近代の女性たちの内的な旅>であった。さらに、場所の経験 という視点から見て、福田珠己氏が<長篇『浮雲』においても、人間の一生を太空に流 れ、また消えていく浮雲のようにはかなく虚無的なものとして描いている。林芙美子の 作品の中には常に insidenessと outsidenessが共存しているということができる。>19と、

ゆき子には<insidenessと outsidenessの同時共存>、背反が生成し、反復されていっ たと指摘している。

しかし、家庭外の異類の女の恋愛像には、場所における内部(内地、家庭というカテ ゴリーで限定され、保護される女の居場所)と、外部(海外、放浪という形で自由女の 生き方)の共存と背反だけで捉えられるものではない。ゆき子の恋愛幻想は表面的に男 に依存して、何人かの男との性的交渉を通して、屈辱的に堕落していくように見受けら れるが、その性的体験はかなり娼婦らしい奔放的で自由な生き方をしている。だが、そ の内面の恋愛感情においては実はかなり他動的に愛に渇いている女性として造形される。

14 熊坂敦子「浮雲<林芙美子>」、「国文学」巻号:13-5、1968.4、P5~

15 板垣直子「近代女流作家の肖像 林芙美子―作風の向上と発展」、「解釈と鑑賞」1972.3

16 渡邊澄子「林芙美子と平林たい子」「国文学解釈と鑑賞 特集林芙美子の世界」63号―2至文堂、1998.2、

17 渡邊澄子「林芙美子と平林たい子」「国文学解釈と鑑賞 特集林芙美子の世界 63号-2至文堂、1998.2、

18 今川英子「林芙美子『浮雲』試論」昭和学院短期大学「昭和大学院短期大学紀要」29巻、1993.3

19 福田珠己「場所の経験:林芙美子『放浪記』を中心として」、「人文地理 43-4」人文地理学会、1991.8

文学のテクストの「空間」で開示された主人公の生の「空間」がロトマンの現象学の空 間論によれば、組織され、構造を持つ<内部>と、未組織で構造をもたない<外部>と いう対立項が考えられ、文化と野蛮、インテリと民衆、コスモスとカオス、というよう に様々な文化テクストにおいて可変体として読み替えられるという。ロトマンは「境界 は、内部空間か外部空間のどちらかのみに属し、一度に両方に所属することはない」20と いい、意味論的場としての境界を一義的に決定する。その代わり、前田愛氏は山口昌男 氏の多義的な境界の特性21から考えて、<文学テクストに描き出された登場人物の越境も また彼の行為の中に隠されている両義性を開示し、もうひとつの生の可能性を垣間見さ せる契機である>22と、更に厳密に定義づけようとする。生涯情婦と娼婦のレッテルを刻

文学のテクストの「空間」で開示された主人公の生の「空間」がロトマンの現象学の空 間論によれば、組織され、構造を持つ<内部>と、未組織で構造をもたない<外部>と いう対立項が考えられ、文化と野蛮、インテリと民衆、コスモスとカオス、というよう に様々な文化テクストにおいて可変体として読み替えられるという。ロトマンは「境界 は、内部空間か外部空間のどちらかのみに属し、一度に両方に所属することはない」20と いい、意味論的場としての境界を一義的に決定する。その代わり、前田愛氏は山口昌男 氏の多義的な境界の特性21から考えて、<文学テクストに描き出された登場人物の越境も また彼の行為の中に隠されている両義性を開示し、もうひとつの生の可能性を垣間見さ せる契機である>22と、更に厳密に定義づけようとする。生涯情婦と娼婦のレッテルを刻