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2-1.女性語に見るジェンダー意識

『放浪記』の原題は、第一部・第二部の初出によれば、「秋が来たんだ―放浪記―」の ように、本題が「秋が来たんだ」であり、「放浪記」は副題であった。この形式は、『放 浪記』の第三部を戦後に執筆再開する際にも継承され、初出は「肺が歌ふ―放浪記第三 部―」の原題が使われた。林芙美子が一生こだわった原点を究明するため、作家・林芙 美子の資質を考察する。林芙美子が女給をしていた頃、さのさをうたい、啄木を吟じて、

その声に定評があったことや、自作の詩を朗読する投げやりの調子に、ある強い印象を 刻みつけられたことなど、平林たい子や壺井繁治が証言するところであった。

『放浪記』の挿入詩と本文の関係から考えれば、三十四編の詩編のうち、はじめに考 察したいのは、『放浪記』に挿入された自作詩と重複する詩である。詩集の中における詩 と、『放浪記』の中の挿入詩では、同じ詩であっても、詩の評価は全く変わってくる。詩 集の中で詩をみるよりも、『放浪記』で挿入詩としてみた方が生彩を放つのは、詩の背景 を『放浪記』の本文が説明していて、作詩された状況が想像できるからである。詩の背 景の説明は、詩がそれだけで自立していないため必要であった。『放浪記』の挿入詩と本 文の関係は、挿入詩のみならず、石川啄木の短歌や「古詩源」の漢詩、チェーホフの「桜 の園」など小説の一節のほか、両親と交わした書簡、といった数々の挿入文にもあては まった。小説の中に挿入文を入れる方法は、『放浪記』以降、最晩年の『浮雲』まで続い た、林芙美子の独特のものであった。32このような挿入詩と本文の関係性を石田忠彦は「伊

31馬場重行『「文学教育」再入門の方へ―「読むことの倫理」に向き合うために』

32原田美紀子「林芙美子「放浪記」論―昭和五年版(初版)を中心として―」

勢物語」などの歌物語の影響としてみている。

また、原子朗氏は「林芙美子」(『国文学』昭44・1臨増)で、『放浪記』の文章形式 の特徴として、句切れが短い、改行が多い、直喩の多用、女性語の多用、文末「だ」止 めの多いこと、文末「なり」「候」止め、俗語、卑語の多用、カタカナ表現、オノマトペ 頻要などを挙げ、ユーモア、平易などの効果に言及し、それらの全体によって「一回的 な表現」として誰にも真似できない独自性を認め、「主観が客観となって読者の胸に鳴り ひびく」点を評価している。また、草部和子氏が「宮本百合子・林芙美子の文体――そ の散文性と抒情性――」(『国文学』昭35・5)で、『放浪記』の文体の特色は「個性的 な現象描写と、そこから引き出される詩的感受性の深化、それによる次の現象への飛躍

――といった、リズミカルな連鎖反応のなかにある」としたように、詩精神に支えられ た散文の長所がいかんなく発揮された文体である。33投げやりの調子で語られる自己、他 者、世界を語っていくものである。私の自己語りは挿入詩に見る女性語によって表現さ れているものである。

<空に拡がつた桜の枝に うつすらと血の色が染まると

ほら枝の先から花色の糸がさがつて 情熱のくじびき

食へなくてボードビルへ飛び込んで 裸で踊つた踊り子があつたとしても それは桜の罪ではない

ひとすぢの情 ふたすぢの義理

ランマンと咲いた青空の桜に 生きとし生ける

あらゆる女の 裸の唇を

するすると奇妙な糸がたぐつて行きます

貧しい娘さん達は

「昭和女子大学大学院日本文学紀要第5集」昭和女子大学、平成6.3.5

33木谷喜美枝「林芙美子『放浪記』」「解釈と鑑賞」1993.4 巻号:58-4

(原子朗「林芙美子」「国文学」1969.1 巻号:14-2)

夜になると

果物のやうに唇を

大空へ投げるのですつてさ

青空を色どる桃色桜は かうしたカレンな女の

仕方のないくちづけなのですよ

そつぽをむいた唇の跡なのですよ>(第一部 P279)34

<一度はきやすめ二度は嘘 三度のよもやにひかされて……

憎らしい私の煩悩よ、私は女でございました。やつぱり切ない涙にくれまする

鶏の生胆に

花火が散つて夜が来た 東西!東西!

そろそろ男との大詰が近づいて来た 一刀両断に切りつけた男の腸に メダカがぴんぴん泳いでゐる

臭い臭い夜で

誰も居なけりや泥棒にはいりますぞ!

私は貧乏故男も逃げて行きました

あゝ真暗い頬かぶりの夜だよ>(第一部 P291)

<私はお釈迦様に恋をしました 仄かに冷たい唇に接吻すれば おゝもつたいない程の

痺れ心になりまする もつたいなさに

なだらかな血潮が逆流しまする

心憎いまでに落ちつきはらつた その男振りに

すつかり私の魂はつられてしまひました

34 引用文は『林芙美子全集第一卷』「放浪記」,文泉堂出版,昭和 52.4(1977)によるものである。

お釈迦様!

あんまりつれないではござりませぬか 蜂の巣のやうにこはれた

私の心臓の中に お釈迦様

ナムアミダブツの無常を悟すのが 能でもあるますまいに

その男振りで

炎のやうな私の胸に 飛び込んで下さいませ 俗世に汚れた

この女の首を

死ぬ程抱きしめて下さりませ

ナムアミダブツのお釈迦様>(第一部 P296)

本文にみる女性語

<私はもうあなたにはあいそがつきてしまひました。あなたのその黒い鞄には、二千円 の貯金帳と、恋文が出たがつて、両手を差し出していましたよ。

「俺はもうぢき食へなくなる。誰かの一座にでもはいればいいけれど……俺には俺の節 操があるし。」

私は男にはとても甘い女です。

そんな言葉を聞くと、さめざめと涙をこぼして、では街に出て働いてみませうかと云つ てみるのだ。そして私はこの四五日、働く家をみつけに出掛けては、魚の腸のやうに疲 れて帰つて来ていたのに……この嘘つき男メ!>(第一部 P290)

<紙一重の昨夜のつかれに、腫れぼつたい瞼を風に吹かせて、久し振りに私は晴々と郊 外の路を歩いていた。――私はケイベツすべき女でございます! 荒みきつた私だと 思ふ。走つて櫟林を抜けると、ふと松さんがいぢらしく気の毒に思へてくる。疲れて 子供のやうに自動車に寝ている松さんの事を考へると、走つて帰つておこしてあげよ うかとも思ふ。でも恥かしがるかもしれない。私は松さんが落ちついて、運転台で煙 草を吸つていた事を考へると、やつぱり厭な男に思へ、ああよかつたと晴々するなり。

誰か、私をいとしがつてくれる人はないものかしら……遠くへ去つた男が思ひ出され たけれども、ああ七月の空に流離の雲が流れている。あれは私の姿だ。野花を摘み摘 み、プロヴアンスの唄でもうたひませう。>(第一部 P312)

<誰も彼も憎らしい奴ばかりなり。ああ私は貞操のない女でございます。一ツ裸踊りで

もしてお目にかけませうか、お上品なお方達よ、眉をひそめて、星よ月よ花よか!私 は野そだち、誰にも世話にならないで生きて行かうと思へば、オイオイ泣いてはいら れない。男から食はしてもらはうと思へば、私はその何十倍か働かねばならないぢや ないの。>(第一部 P324)

<浅草はいつ来てもよいところだ……。テンポの早い灯の中をグルリ、グルリ、私は放 浪のカチウシヤです。長いことクリームを塗らない顔は瀬戸物のやうに固くなつて、

安酒に酔つた私は誰にもおそろしいものがない。ああ一人の酔ひどれ女でございます。

酒に酔へば泣きじやうご、痺れて手も足もばらばらになつてしまひさうなこの気持ち のすさまじさ……酒でも呑まなければあんまり世間は馬鹿らしくて、まともな顔をし ては通れない。あの人が外に女が出来たと云つて、それがいつたい何でせう。真実は 悲しいのだけれど、酒は広い世間を知らんと云ふ。>(第一部 P326)

<からつぽの女は私でございます。……生きてゆく才もなければ、生きてゆく富もなけ れば、生きてゆく美しさもない。さて残つたものは血の気の多い体ばかりだ。私は退 屈すると、片方の足を曲げて、鶴のやうにキリキリと座敷の中をまはつてみる。長い 事文字に親しまない目には、御一泊一円よりと壁に張られた文句をひろひ読みするば からだつた。>(第一部 P332)

私の自己認識としては<血の気の多い体>。生々しい生存欲。

<私はしみじみと白粉の匂ひをかいだ。眉もひき、唇紅も濃くぬつて、私は柱鏡のなかの 姿にあどけない笑顔をこしらへてみる。青貝色の櫛もさして、桃色のてがらもかけて 髷も結んでみたい。弱きものよ汝の名は女なり、しょせんは世に汚れた私でㄙございます。

美しい男はないものか……。なつかしのプロヴアンスの歌でもうたひませうか、胸の 燃えるやうな思ひで私は風呂桶の中に魚のやうにやはらかくくねつてみた。>(第一

美しい男はないものか……。なつかしのプロヴアンスの歌でもうたひませうか、胸の 燃えるやうな思ひで私は風呂桶の中に魚のやうにやはらかくくねつてみた。>(第一