• 沒有找到結果。

針對日本語教育中<文學課程>可能性之探究-以川端康成《伊豆的舞孃》為例-

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

Share "針對日本語教育中<文學課程>可能性之探究-以川端康成《伊豆的舞孃》為例-"

Copied!
22
0
0

加載中.... (立即查看全文)

全文

(1)針對日本語教育中「文學課程」可能性之探究—以川端康成《伊豆的舞孃》為例. 一、始めに-日本語教育における「文学の授業」の位置 日本語教育の場における「文学の授業」の可能性とは何か、外国人学習者の日本文 学の「読み」がどこに位置付けられ、どれだけ教育実践の場で、いかにそれを具体化 できるのか、ということを問題提起にして、きっちりその定義と原点なるものを踏ま えておきたいものである。つまり以下のようなことがまず配慮されなければならない。 (一) 学習の目標と効用から考え、実用的な言語能力の育成を主とする「言語教 育」と、普遍的な人間理解を目指そうとする「文学教育」との連続性と断 絶性について。 (二) 日本人の中高生向けの「文学教育」とはどう区別を設けるべきか、について。 (三) 上級レベルにおける読解教育として、 「文学の授業」を位置すべきかどうか、 について。 (四) 以上の三点が考慮された上での教材の選定及びその指導方法の問題について。 まず、始めに文学教育の意義と効用という問題提起について、言語教育との区分及 び言語と文学との連続性と断絶性から考えたいものである。高木市之助氏がそれにつ いて、時枝氏の『国語学原論続編』(1)第三章言語と文学、<三ノ一>における見解に 反論して、日本の王朝文学の以上のような観照的態度や眺める姿勢を文学の本質とし て限定することは必ずしも全面的代表的な文学観ではない、とする(2)。つまり、教育 の現場において、文学は言語から遊離して、すなわち単に美とか感動とかいったもの として教えてはならないものである。こうした視点と基準に支えられた言語と文学と の連続性と断絶性という本質問題を考えると、塚原鉄雄氏がより文学の本質から原点 として踏まえて、「文学の教育機能とは、何か。結論的にいえば、読者の生活におい て、蓄積されている『問題意識』を喚起し、作品を媒介として、これを、主観的な真 (3) 、 実性から、客観的な真実性に高めることによって、更に、発展させる機能である。」. という見解を示している。 塚原鉄雄氏の説は、まず文学教育と言語教育との同一性と差異性から出発したもの であるが、今度は「言語表現」を一つの不可欠の手段として考えられた教育現場にお いては、果たして以上の一で提起された「読解教育と文学教育」の区別はさらにどう. 75.

(2) 淡江人文社會學刊【第十二期】. いう箇所で、厳しく限定しなければならないのか、という疑問が出てくる。これにつ いて、倉沢栄吉氏は特に日本の中等教育の中における読解と鑑賞の指導方法について、 作品の「主題」に即して、学生に読後の感想とかイメージといった「問題意識」の喚 起の重要性を強調している。 「読解指導が理解だけであるのに対して、文学教育は表現にも及ぶ。(略) 作品の場合は、段落を子供たちに意識させるよりも事件の背景や場面を捉 えさせ、人物の動きや心情の変化を意識させるべきである。」(4) それでは、次から外国人学習者の日本文学の「読み」と、日本人の中高生向けの「文 学教育」のそれと、どう区別を設けるべきか、という問題に移ることにする。つまり、 日本語教育の場における「文学の授業」の可能性とは何か、外国人学習者の日本文学 の<読み>を考える場合、次の二点が問われることになる。 (一) 実用的な言語能力の育成が問題の焦点か。 (二) それとも人間理解としての「読み」を問題の焦点とすべきか。それは日本 人学生の場合とはどう違うべきか。 というふうに、最初から学習対象の語学力と教材の選定及び指導方法とは大きく係わ りのあるものだと思われる。ただでさえ日本の中学生と高校生との間にもきちんと区 別を設けて違った指導方法が考案されているが、日本語学科の四年生程度の学習者の 場合は、日本人学生並のものとして考えていいだろうか。筆者はむしろ「異文化理解」 という視点から、日本文化教育の一環としての文学教育の意義と効用を強調したいも のである。つまり、人間理解としての「読み」を主眼として、感動と共感を呼び起こ す点から出発し、その上年齢のことも含めて考慮した場合は、作品の研究史の論説を 一部取り入れた形を採った、日本の短期大学並の中間的な教材を使用するのが妥当だ と思うのである。. 二、『伊豆の踊子』の学習構成-人間理解としての「読み」 本論文は以上のような問題提起をここ台湾の大学日本語系の専攻四年生(いわゆる 上級レベルの日本語学習者を対象にし、川端康成《伊豆の踊り子》を例にし、その教. 76.

(3) 針對日本語教育中「文學課程」可能性之探究—以川端康成《伊豆的舞孃》為例. 材化への試みと教室での実践を具現しようと試みたものである。学習指導の方法とし て、特に以下の諸点を心掛け、その学習の展開に主題の把握と追求に力を入れ、学習 効果を上げ、人間理解としての作品の深い理解を狙うものである。実践授業の展開に ついては、主に「何が問題か」という主題(キーワード)の捉え方を促す点に重点を 置くものである。そして、教室での実践においては、主題追求までの経過としては以 下の学習構成及び段取りを踏まえていくによって、鑑賞を深めて、まとめていく。 (一) 導入-背景の説明: 「生涯と文学」、 「作品鑑賞」という予備知識を与えるこ とによって、作品の成立及び主題の把握を促す。 (二) 筋の把握。 (三)「本文」に対して、理論的な、批判的な「読み」を前提とし、主題となるキ ーワードの把握と吟味をする。感性と理性の融合した形で、人間理解とし ての「読み」を通して、 「自己の中の他者」という視点を養成しようとする。 (四) 登場人物と主人公を自他の関係において検討し、そのイメージ及び性格を 把握する。 1.他の人物に対する「私」の気持ちと行動、その理由について考えさせ、 話し合う。最後に各人物像を一言で要約して、それから作品の引用箇所 を引き出しながら実証し、話し合いによって、形作っていく。 2.「人物」 「場所」 「状況」 (私の気持ちの応対)といった三つの事項で纏め させる。 (五) 問題提示:主題の把握が妥当であるかどうかを確認する。それも教師によ る設問に基づいて、整理・発展の形で、主題を中心に、話し合いによって 鑑賞を深めて、まとめていく。 (六) 結びの問題性について、注目を促し、主人公の救済と解決方法の可否に、 賛否両論に分け、討論する。 (七)「共感」を覚えた部分に関して、作家論まで言及し、作家の思想に触れていく。 (八) 疑問点として気づかれた「本文」の「表現」に即して、中国語訳された作 品と対照させ、さらに異文化体験・個人体験の意味合いとして問題意識を 喚起し、感動的な「文学の授業」として一篇を締めくくる。. 77.

(4) 淡江人文社會學刊【第十二期】. こうした学習形態を採る時も、指導者が進行、司会の中心となることが原則である。 その発表をさらに文章で報告させた。さて、『伊豆の踊子』を読むことにする。まず 導入の作業にかかり、作品の背景の説明をする。「生涯と文学」としては、川端の生 涯を文学の特質と結び付いていると考えられる孤児体験、同性愛体験、初恋体験、敗 戦体験を中心にその特質を紹介しておく。川端の孤児体験といえば、次のような事実 が数えられる。父母の死後は祖父母に養育され、たった一人の姉は伯母の家に預けら れた。祖母が明治三十九年、七歳の時に、姉が明治四十二年に亡くなった。白内障の 祖父と二人の生活が八年程続いたが、茨木中学三年、十五歳の時、祖父もこの世を去 り、天涯孤独の身となった。こうした肉親との死別が幼少期の川端の人格形成に大き く係わるものであり、その後の彼の生涯や文学に深く影響を及ぼした要因となったの である。または、同性愛体験としては、中学校の寄宿舎生活の中に体験された小笠原 義人に対する同性愛である。その中に秘められた少年の孤独感、悲哀感などは間もな く川端文学の美少女趣味、少女憧憬へと変移していくことである。そして、初恋体験 は大正十年、二十二歳の時、初恋の相手・伊藤初代から不可解の心変わりで婚約破棄 された体験のことである。このように、戦前の川端は孤児意識や美少女趣味を創作活 動の核としていたが、敗戦後四十六歳以後の川端は「魔界」を新しい創作活動の中心 をなしていったのである。昭和四十七年四月十六日自らの仕事部屋で七十三歳の年を もって自殺した。 それから、 「作品鑑賞」という予備知識を与えることによって、 『伊豆の踊り子』と いう作品の成立及びその主題の把握を促す。伊藤初代との初恋体験で味わわされた失 恋という事件のことが、この作品の執筆動機及び成立に関して、いくつかの論を踏ま えて、提示しておく。そういう「人の不可解な裏切り」 ( 「少年」昭和 23.5~24.3)が 大正七年二十歳の秋に伊豆に旅し、旅芸人の一行と出会った事実と照応し、伊豆の湯 ケ島温泉で書いた「湯ヶ島での思い出」 (大正 11 年)から「踊子の思い出の部分だけ を大正十五年、二十八歳の時に書き直したものである。」 (『川端康成全集』第一巻「あ とがき」)と、川端自身が『伊豆の踊り子』の執筆に関して語っている。また、川端 自身の個人的な現実以外に、この作品の美的存在としての踊子のイメージに関して、 つまり川端文学の本質に係わるものとして、その間に介入された「私」の心情変化と. 78.

(5) 針對日本語教育中「文學課程」可能性之探究—以川端康成《伊豆的舞孃》為例. 推移から『伊豆の踊り子』の美的世界の構築方法の鍵を引き合いに出される部分を、 定説のいくつかのパタンと照り合わせて、問題提示を施しておく。 (一) 川端の美意識の構築方法として、 「私」は作者から切り離され、 「美」を見 出す存在となっているという説₍⁽5⁾ 。 (二) 踊子の清純な姿-「私」に対する恋情が詩的にさりげなく表現されている⁽6⁾。 (三) 川端文学の基底となる「孤児意識」と「孤児根性」⁽7⁾。 (四) 「孤児根性」とそれへの「厳しい反省」。 「私」の「いい人ね」という言葉 によって人間的真実への開眼⁽8⁾。 そして、「主題」の検討に際しては、例えば、以下のようなポイントを押さえて、 物語の筋の把握を促し、登場人物と主人公の性格を自他の関係において検討し、把握 させる。勿論、教師の一方的な提示という形に止まらず、学習者の「読み」を基本と した自由な討論に委ねて、生徒の「読み」の意識を刺激し、多様な「読み」のへ視野 を広げつつ、それぞれの「読み」の根拠を作品の上に求め、整合性のある「読み」の 成立を図ろうとするものである。授業の狙いと目標はその利点といえば、研究史を踏 まえた上で、研究的な試行とは言えるような指導方法となるわけである。素直に作品 と向かい合い、想像を広げつつ、そこで人間と出会い、人間への理解を深めていく、 そんな「読み」の原点に戻るのである。つまり、登場人物の言動の変容過程から、何 らかの意味を見つけだそうとする<読み>こそ、文学の「読み」の原点とされなけれ ばならないものである。その方法としては、まず感性によって主人公と出会い、それ に支えられた人間理解から始まり、一方において又、論理的に作品の世界の主題とな る一つ一つのキーワードをたどりながら噛み締めて読んでいくことにする、という物 語の展開と理解の作業となるものでもある。肝心の主題となる一つ一つのキーワード の把握と吟味及びその解釈問題などは次のような問題提示を施すことによって、作品 をより重く支えている登場人物の性格の部分を特に取り上げ、形象分析と主題との連 帯を促していく。 以下の設問(設問1~設問14)をして、「主人公」-「私」と「他者」との交渉 がどういう過程を経て、行われていったか、導入作業を試みたのである。踊子のイメ ージが描かれている箇所の引用をして、まず下線の引いてある言葉を中国語で説明し. 79.

(6) 淡江人文社會學刊【第十二期】. てもらい、それから前後として踊子のイメージの変化をまとめて、自分の感想をつけ 加えさせる。. 1.「卵形の凛々しい顔」と「稗史的な娘」 「踊子は十七くらゐに見えた。私には分からない古風の不思議な形に大きく 髪を結つてゐた。それが卵形の凛々しい顔を非常に小さく見せながらも、 美しく調和してゐた。髪を豊かに誇張して描いた、稗史的な娘の絵姿のや うな感じだつた。」(一) いわゆる登場人物の形象として、まずこの踊子の「旅」という空間的な異質性が顕 著に取り上げられ部分である。それから、 「稗史的な娘」の訳には、 「野史/稗官野史 /小説/民間故事/歴史小説中所描繪的女子」というふうに、明らかに「稗史的な娘」 の具体的なイメージなどは実感として現れてこないことが分かる。それでも、いわゆ る登場人物の形象として、まずこの踊子の「旅」という空間的な異質性には学習者が 気づかないわけでもなかったのである。それは以下のような代表的な意見の一例から 窺えるものである(下線の部分は表現の誤りか、説明のキーポイントとなる部分であ る)。 感想. 凛々しい顔と古風の大きく髪、最初から見るとちょっと不自然で、似合 わない感じだけれども、意外に美しく調和して、しかも稗史的な娘の絵姿 のように思って、もしかして、この「私」の心の中に、もう踊り子に好意 を抱いて、慣れない姿でも、奇麗なあと思っているではないでしょうか。. 2.「太鼓」と「旅情」 「踊子は太鼓を提げてゐた。私は振り返り振り返り眺めて、旅情が自分の身 についたと思つた。 」(一) この「太鼓」と「旅情」とは何か、説明してもらったところで、次のような四つの パタンの見解が出てきた。各パタンはここで僅かの一例を引き出し、説明しておく。 説明 1[伊豆という場の設定と係わる「旅」のイメージ] 太鼓はよく雰囲気を盛り上がる時や興を助ける時に使われる。だから、主 人公は太鼓を提げていた踊子を見ると、まるで伊豆(田舎)の風物を見るよう に、日常生活を脱却していて、一層旅の雰囲気になれたと思った。. 80.

(7) 針對日本語教育中「文學課程」可能性之探究—以川端康成《伊豆的舞孃》為例. 説明 2[日本の伝統的な古風のものとして見なされるもの] 踊子の外見が稗史的な娘と主人公に感じられて、日本の伝統的な物とも言 える。そのため、主人公は伊豆の旅情を抱くようになった。 説明 3[旅芸人のイメージと繋がるものとして] 太鼓というのは“旅芸人”の象徴だと思う。そして、世間から逃げようと する旅を始まった「自分」にとって、“旅芸人”が別の世界のようだ。旅を始 まる原因を思い出されて、だから旅情も一層強くなった。 説明 4[踊子個人に向ける「私」の想い] 主人公は太鼓を踊子のイメージにして、振り返り眺めている間に旅情がで きた。もともと一人で寂しい旅だが、踊子にめぐりあってから、ある一つの期 待が胸にできた。これから太鼓と一緒に道連れになる。. 3.「大島」と「詩」 「大島を聞くと私は一層詩を感じて、また踊子の美しい髪を眺めた。」(二) ここの「詩」とは何か、その美的感覚の享受に関して、説明してもらい、次のよう な日常とは違った異空間へ連れていく表現効果をほぼ全員に認めてもらっている。こ れは冒頭部分の「つづら折り」の表現と同じく、ある古典的な響きを含んだ非日常性 をもっているものである。「大島」と「詩」の関連性については、上述の踊子という 「人物」の異質性と同じように、ここでは「場」としての異質なものとして読み取れ る。学習者の説明には「旅情と係わるイメージとして捉えるもの」、 「旅芸人の浮浪の 生活と連帯し、想起されるもの」というようなものが大体一致しているが、その中に はやはり、 「詩」という言葉の一般的な解釈をし、 「昔の人が旅行をしているうちに何 か感動することを書く旅行紀行文を指しているだろう」、といった誤りとなるものも 出ていた。. 4.「不自然な程」の「美しい黒髪」 踊子と一緒に五目を並べている箇所。 「二人きりだから、初めのうち彼女は遠くの方から手を伸ばして石を下して ゐたが、だんだん我を忘れて一心に碁盤の上へ覆ひかぶさつて来た。不自 然な程美しい黒髪が私の胸に触れさうになつた。」(四). 81.

(8) 淡江人文社會學刊【第十二期】. 踊子の「黒髪」がなぜ「不自然な程」の美しいものと言うのか、その理由を説明し てもらう。いよいよ接近してくる踊子の存在に対して、清純な姿は勿論、ひいては「私」 の性的な欲望を感じさせる二面性をもった少女として、次々と私の欲念と絡み合い、 描かれていくのである。それは「黒髪→大きい眼→前髪に挿した櫛→脣と眦の紅→『踊 子を今夜は私の部屋に泊らせるのだ』→『踊子の今夜が汚れるのだあらうかと悩まし かつた』」という過程を経て、だんだんと私の「空想」が高ぶっていき、いよいよ山 場の共同湯のシーンで、「若桐」と「子供」という言葉で結晶された踊子の無邪気な 裸身によって、その美的化身の踊子像が昇華されていくのである。こうした踊子の年 齢の食い違いによる錯覚、又は主人公の彼女への性的意識の目覚めと喚起の部分とし て、ほぼ正確に読めている箇所でもある。. 5.「美しく光る黒眼がちの大きい眼」 踊子が「水戸黄門漫遊記」を朗読している箇所。 「この美しく光る黒眼がちの大きい眼は踊子の一番美しい持ちものだつた。 二重瞼の線が言ひようなく綺麗だつた。 」 (四). 6.踊子の「濃い化粧」と「情緒的な寝姿」 第四章湯ケ野出立の約束をした早朝に見出した踊子のイメージ。 「昨夜の濃い化粧が残つてゐた。脣と眦の紅が少し滲んでゐた。この情緒的 (四) な寝姿が私の胸を染めた。」 なぜ踊子の「濃い化粧」の「唇と眦の紅」がこうにも彼に「情緒的な寝姿」とな るか、その「情緒的な」彼の踊子への思いを考え、説明してもらう。ここでは、明 らかにこの「情緒的」な用語にはそのエロスチックな感覚が次の「説明1」の説明 が当を得ている以外のものは、かなり認識の相違を見せた学習者が多く出てきてい る。その誤まりといえば、要するにその後の「説明2」と「説明3」のようなもの である。 説明 1[主人公の踊子への欲念の現れ] その濃い化粧は主人公が踊子への憧れを指すと思います。ですから、主人公 は踊子に対する憧れも残っています。それに、踊子の寝姿は主人公にとって、 誘惑的なもので、煽り立てられたものです。. 82.

(9) 針對日本語教育中「文學課程」可能性之探究—以川端康成《伊豆的舞孃》為例. 説明 2[踊子の「子供」という清純なイメージとして把握されたもの] 踊子は主人公にとって、野の匂いを失わない無邪気で純粋な少女である。 そのため、踊子の濃い化粧が残っていても、踊子の寝姿が子供のような寝姿 と主人公に思われる。こうした「情緒的な寝姿」が可憐で自然なのではない だろうか。 説明 3[主人公の不快な気持ちとして読み取れたもの] 彼は踊子に対しての欲望から来たのである。自分の女と思っているのに、 他人に弄ぶことは自然にマイナスの気分となって情緒的な思いとなった。 それから、下田港での別れの際の箇所では、「昨夜のままの化粧が私を一層感情的 にした。眦の紅が怒つてゐるかのやうな顔に幼い凛々しさを与へてゐた。」 (七)とな っているが、なぜ踊子の「化粧」の「眦の紅」がここにも二度と彼をして、「一層感 情的にした」のか、その「感情的な」彼の踊子への思いを考えさせ、説明してもらう。 ここは私と踊子との関係性がますます激化してくる部分である。私の踊子をセックス の対象として見ようとする意識の顕在化として見受けられる部分でもある。ここの 「私を一層感情的にした」という言葉の意味合いは「第四章」の引用箇所にある「情 緒的な」彼の踊子への思いとほぼ同質のものであり、ひたすらに「私」の踊子への想 念が強化されていく作品の展開でもある。しかし、残念ながら学習者にはやはり前述 の「情緒的」という表現と同じく、「感情的」という言葉を「女」としてではなく、 以下のような清純な姿としての「子供」のイメージとして誤読をしてしまうものが多 く見られた。しかも、そういう解釈の中には一部は踊子と別れていく主人公の「別れ の悲しみ」として、人物の心情変化をとんでもない意味合いで読み取ったのだから、 むしろ面白い現象の一つである。 説明 1. 踊子が昨夜の化粧がまだ残っていて、前回と違うのは、ここは分離の場面 である。彼はそれを見ると「一層感情的にした」のは別れる感情だ。でも、 ある一つの考えは、彼が離れても、彼女は普段のまま夜遅くまで化粧が残っ ていて、それは現実的な問題だろうか。踊子という仕事はこのような状況が よく見られる。だから、彼を一層感情的にしたのかも知れないと思う。. 説明 2. 今は別れの時、踊子の「昨夜のままの化粧」は、その情緒的な感じはもとよ. 83.

(10) 淡江人文社會學刊【第十二期】. り、別れの悲しみも含まれて、主人公はその複雑な感情が出て来た。踊り子 への愛憐と別れの悲しみと、その踊り子への愛はここに「一層感情的にした」 というわけだ。. 7.「前髪に挿した櫛」 「湯ケ野にゐる時から私は、この前髪に挿した櫛を貰つて行くつもりだつた ので、犬の毛を梳くのはいけないと思つた。」(五) なぜ「この前髪に挿した櫛」を踊子が「犬の毛を梳くのはいけないと」彼は思った のか、その理由について、 「櫛」のイメージと関連して説明してもらう。そして、 「美」 の化身として美化され、純化されている踊子像には微塵にも「醜」の部分の付着が許 されない部分の描写でもある。ここの「櫛」のイメージはどう解釈していいかは、又 様々な見解を示しているのである。ここの部分の描写はさすがに学習者には「私」が 踊子を上から下を見下ろす形の特権的な異質性には気づかないでいるのである。記念 品としてもらっていこうとする「私」の欲望の内面には、「犬の毛を梳くのはいけな い」、とその美への執拗な愛着を示している箇所である。これは「踊子を今夜私の部 屋に泊まらせる」欲念のそれと同じように、どこに彼は踊子に「髪に挿した櫛を貰つ て行く」と求める権利が許されていたのか、という「他者」不在の愛の飢餓感の存在 という二元的な内面性が孕んでいるのである。自分と踊子との社会的位置の不一致に よる男性的なエゴと解釈するよりも、「私」の一方的な思い入れによるこの恋愛感情 の不毛性を同時に物語っているのである。 説明 1 別れた以後、彼女のことを思い出す記念品としてもらうつもりだったのに、 踊子がそれを犬の毛を梳くと、彼はたぶん何だか櫛もその感情もその思い出 まで全部汚されてしまった感じがしただろう。. 8.「私」の「空想」 (1)「踊子を今夜私の部屋に泊まらせるのだ」という「私」の「空想」 「あの芸人は今夜どこで泊るでせう。」 「あんな者、どこで泊るやら分かるものでございますか、旦那様。お客が あればあり次第、どこにだつて泊るんでございますよ。今夜の宿のあて なんぞございますものか。」. 84.

(11) 針對日本語教育中「文學課程」可能性之探究—以川端康成《伊豆的舞孃》為例. 甚だしい軽蔑を含んだ婆さんの言葉が、そうならば、踊子を今夜は私の 部屋に泊らせるのだ、と思つた程私を煽り立てた。」(一) なぜ「甚だしい軽蔑を含んだ婆さんの言葉が」、こうにも私の空想を、 「そうな らば、踊子を今夜は私の部屋に泊らせるのだ、と思つた程」彼を「煽り立てた」 のだろうか。その理由と経緯を説明してもらったところ、ここでは、その前に「甚 だしい軽蔑を含んだ婆さんの言葉」が踊子に集約されている「旅芸人」という身 分と職業の人間に対する社会的位置の上下関係がある程度暗示を与えているた めか、ほぼそれを性格に読めているものである。勿論、一部には「説明二」のよ うな誤りも出てきているのである。 説明 1 ここには主人公は踊子のことを気にすることになったのだ。美しく古風の不 思議な形で髪を結っていた踊子に一目惚れになり、それで主人公にとって踊 子は大切だ。彼女に軽蔑の意味を含む言葉は許されないのだ。だから、彼を 煽り立てた。 (2)「折れた」「私」の「空想」 「まあ!厭らしい。この子は色気づいたんだよ。あれあれ……。」と、 四十女が呆れ果てたといふ風に眉をひそめて手拭を投げた。踊り子はそ れを拾つて、窮屈さうに畳を拭いた。 この意外な言葉で、私はふと自分を省みた。峠の婆さんに煽り立てられ た空想がぽきんと折れるのを感じた。(二) なぜこの場面において、私は「この意外な言葉で、私はふと自分を省みた。 峠の婆さんに煽り立てられた空想がぽきんと折れるのを感じた」のだろうか。彼 の「空想」は何物だったのか、この時「省みられた自分」とは、どんな「自分」 だったのか、説明してもらった。ここは第一章の私の「空想」のとてつもない発 展による独りよがりが情けなく「折れる」部分の描写である。それでは、なぜこ この「色気づいた」という四十女の一言がこうもこれまで婆さんに煽り立てられ ていた「私」の踊子という「女」に対する欲念を断念させるほどの威力を持つも のか、という問題が問われることになる。 「色気づいた」という言葉が「意外」 なものであるだけに、主人公にはっと踊子を「女」として興味をもっていた我を. 85.

(12) 淡江人文社會學刊【第十二期】. 省みる契機となるものである。そういう微妙な主人公の心理面の転折がほぼ正確 に読み取られているのである。以下は僅か一例を引き出してみよう。 説明 1 ここの「空想」は、踊子を自分の部屋に泊まらせることだ。この時「省みら れた自分」とは、踊子はまだまだ若くて、純真な少女だと感じた「自分」で ある。. 9.「踊子の今夜が汚れるのだらうと悩ましかつた」こと 湯ケ野の晩、踊子が座敷にでる太鼓の音を聞く箇所。 「私は眼を光らせた。この静けさが何であるかを闇を通して見ようとした。 」 (二) 踊子の今夜が汚れるのだあらうかと悩ましかつた。 なぜここでは彼は依然として踊子のことを懸念して、「踊子の今夜が汚れるのだあ らうかと悩ましかつた」のだろうか。彼の踊子への思いはどういう内容のものかを考 えて、説明してもらった。ここでは、「私」は踊子への想念が一時的に「折れた」と は言いながら、まだ性的対象として踊子を見ようとする主人公の矛盾した心的態度が 窺われるものである。ただ、興味深い問題としては、この「悩ましい」主人公の想念 がここまで現してきた彼の「空想」とは、内実の部分ではどういう相違を見せている か、ひいてはど!れほど思春期にある少年的・男性的な意味合いのものがその中に含 まれているか、という二次元的な問題も含まれているのである。ここは二通りの読み 方をしているから、 「説明1」はむしろ正しい人間理解としての読み方となっており、 「説明2」はそのまま思春期にある少年的・男性的な性的欲望を正しく読めていない 人間への無理解として認定していいものであろう。 説明 1 彼の踊子への思いは、むしろ他人に寝させるよりも、私の部屋に来て、私た ち一緒に、静かな夜を暮らす方がいいということだろう。つまり、禁じられ ない性幻想と、踊子が汚れるだろうという悩みを混じっている。 説明 2 彼はもう踊子がまだ子供みたいということを分かっているのがやはり踊子の 仕事は客さんに楽しませることだ。またいつか仕事の関係で汚れることがあ ると思っている。考えれば考えるほど心配する。これはこの主人公の不安で、 或いは彼の正義感だろう。こんないい子と思って、誰も大切にするはずであ る。. 86.

(13) 針對日本語教育中「文學課程」可能性之探究—以川端康成《伊豆的舞孃》為例. 10.「若桐」と「子供」 朝の共同湯のシーン 「それが踊子だつた。若桐のやうに足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私 は心に. 清水を感じ、ほうと深い息を吐いてから、ことこと笑つた。子供. なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま光の中に飛び出し、爪先きで背 一ぱいに伸び上る程に子供なんだ。私は朗らかな喜びでことことと笑ひ続 けた。頭が拭はれたやうに澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかつた。 踊子の髪が豊か過ぎるので、十七八に見えてゐたのだ。その上娘盛りのや 」(三) うに装はせてあるので、私はとんでもない思ひ違ひをしてゐたのだ。 踊子のイメージの実体がより一層明確になってくる描写となるが、ここの踊子の イメージはどういうものであろうか。ここの「若桐」と「子供」の表現がどういう 意味なのか説明してもらった。又、ここの「私はとんでもない思ひ違ひをしてゐた のだ」という自己反省はどういう意味合いの言葉として作者が言っているのか、同 時に二百字以内で分析してもらった。まず、ここでは、踊子への性的関心はいきな り逆転しているように見える箇所の描写である。ここの「若桐」という一語に集約 されている主人公の「子供なんだ」という嘆きの感情と自問自答は果たして学習者 にはどういう意味合いのものとして感じられたのだろう。そこには作家川端の少女 趣味のもの、字面どおりに踊子を「女」から「子供」へと自分の見方を修正する部 分のもの、私の心が洗われ純化されていく踊子像のもの、といった三種類の見方が 成立しているのである。 それから、以上の「設問1~設問 10」で把握されたキーワードと引用箇所を通して、 引き続きまとめた踊子のイメージの変化を具体的な言葉で統合させ、説明してもらっ た。又、そうした「私」の踊子に寄せる感情の変化の裏には、「私」自身にはどうい う内部の感情が潜んでいたかという問題を以下の「私」の問題性への発展の暗示とし て一緒に考えさせ、分析してもらった。そして、二百字以内で発表された意見はほぼ 「女」から「子供」への踊子像の変化の裏には、「孤児根性」で歪んでいる主人公が その純粋さに触れることによって、自分が純化され、浄化されていく過程として認め られているのが分かる。. 87.

(14) 淡江人文社會學刊【第十二期】. 三、作家の美意識への吟味-「自己」の問題性 ここまで美的対象として捉えられつつある踊子像の完結と共に、いよいよ顕在化し てくる「私」という自己の問題性も、今度は見逃されてはならない中心的視点となる。 勿論、『伊豆の踊り子』の山場は終末部の第七章における別れの場面である。ここで は指導方法としては、 「私」の受けた感銘、私の感傷的態度の介入した箇所を通して、 そこに作家の美意識の問題を吟味させ、一篇の主題の総合を浮き彫りにしてみるので ある。そして、同時にこの終末部の「私」の味わった解放感と救済の意味を考えさせ て、肯定か否定か、学生の意見を求めるように試みた。それもまず以下の第五章に出 てくる前触れとしての「いい人」と「孤児根性」という最初の自己言及、それを一気 にクライマックスへもって行かれた第七章の「私」の「涙」と「清々しい満足」とい ったようなキーワードによって把握された作者の自己の問題性を促し、意識させるも のである。. 11.「いい人」 12.「孤児根性」 暫く低い声が続いてから踊り子の言ふのが聞えた。「いい人ね」 「それはさう、いい人らしい。」「ほんとにいい人ね。いい人はいいね。」 この物言ひは単純で明けつ放しな響きを持つてゐた。感情の傾きをぽい と幼く投げ出して見せただつた。私は自身にも自分をいい人だと素直に感 じることが出来た。晴れ晴れと眼を上げて明るい山々を眺めた。瞼の裏が 微かに痛んだ。二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでゐると厳しい 反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪へ切れないで伊豆の旅に出て来てゐる のだつた。だから世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、言ひよ 」(五) うなく有難いのだつた。 ここは「私」の噂が聞こえてくる箇所であり、「私」の性格に関したものがより明 確に姿を現してくるものでもある。踊子から噂にすぎないこの「いい人」という言葉 の意味は何だろうか。以上の引用文を全部中国語に訳してから、「いい人」という言 葉の意味を学習者に二百字以内で自分なりに説明してもらった。そして、これまで差 別され、疎外されてきた主人公の歪んだ「孤児根性」が旅芸人の「いい人」という一 88.

(15) 針對日本語教育中「文學課程」可能性之探究—以川端康成《伊豆的舞孃》為例. 言によって、その不安と鬱屈から解放され、自分を癒されていく一節でもある。だが、 問題はここの「私」と「旅芸人」との間に成立された共感・同類意識の内実は果たし て最も深い意味での、ナイーブな型の人間信頼と言えるかどうか、という疑問も生ま れてくる。つまり、お互いは差別された者同士であるという現実に対して、両者にも 同次元の段階において、完全に一つに融け合った状態のものかどうか。ここの主人公 の解放感及び救済の意味はどこか彼自身の勝手な思い入れが存在していなかったの か。いわゆる「世間尋常の意味」としての「いい人」は恐らく単に「他者」によって 発動された「私」の内部感情の精神浄化作用をもたらしてきている段階に止まるに過 ぎないだろう。たとえ、社会的地位が違い、踊子への「私」の思いが別次元のもので あっても、相変わらずそうした感情移入の働きが発動され、一つのカタルシスに達し ていくのである。ここの「いい人ね」と言われた「私」の感動はやはりこの作品の癒 し・浄化作用という作品の主題が把握されても頷くべきのものであろう。そのため、 ここの「私」の感動は一方的なものであろうが、やはりその同類意識という共感の内 面感情を肯定の意味として学習者に分析して理解させるべきのものだと思う。 説明 1 彼は踊子たちに好奇心もなく、軽蔑も含まない、尋常な好意を寄せたからこ そ、踊子たちも素直に彼を受け入れた。「いい人」という言葉は、踊子たちの 主人公に真心の打算のない感想なのではないだろうか。その裸の人間対人間 の感情は珍しいと思う。その心からの言葉で、孤独の主人公が人間の社会へ 帰ることができると自分で考える。. 13.「私」の「清々しい満足」 14.「美しい空虚な気持ち」 次から以上の「いい人」という言葉によって解放された「私」は終末部の私の涙の 意味と関連させ、 「私」の精神浄化がいよいよ私なりの救済が遂げられ、 「私」の「清々 しい満足」という用語によって一つの完結を示していく。 「何かご不幸でもおありになつたのですか。 」 「いいえ、今人に別れて来たんです。」 私は非常に素直に言つた。泣いてゐるのを見られても平気だつた。私は何 も考えてゐなかつた。ただ清々しい満足の中に静かに眠つてゐるやうだつ た。 (略)私はどんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられる. 89.

(16) 淡江人文社會學刊【第十二期】. やうな美しい空虚な気持ちだつた。 (略)何もかもが一つに融け合つて感じ られた。 この「私」の「清々しい満足」と「何もかもが一つに融け合つて感じられた」「何 も残らないやうな甘い快さ」は、何ものであったのか、前の「いい人ね」という評価 と関連させ、二百字以内で学習者の意見を求め、分析してもらった。そして、大体想 像されたように、ここでは、ほぼ全員がこの終末部から「私」と「他者」との間にお ける人間信頼の交流の成立を認めており、クライマックスとしての主人公の精神浄化 の完結として、作品の主題の総合的な把握ができているのである。 しかし、「いい人ね」とさりげなく褒められ、その癒しを受けて、最後に「涙」を こぼした「私」は、一方においては、「美しい空虚な気持ち」であった。ここの「美 しい空虚な気持ち」という表現は矛盾したものだと思われるか、その理由について、 もう一度学習者に再確認の作業を施した。ここでは、文面通りの作家の美意識の問題 と、一時的な「他者」との融合の瞬間として読み取れているのがほとんどである(説 明1)。しかし、それよりもここには「私」という自己の問題性を乗り越えて、「私」 が無意識のうちに「他者」不在の人間信頼・感情交流である事実をも同時に暴露され ているという事実を僅かの一例(説明2)だけ指摘されているから、教師側からその 問題性に結び付け、吟味と批評の練習をさせたのである。 説明 1 主人公にとって、旅芸人との知り合いはいい思い出です。いろんな人と知り 合って、人の親切さを感じました。旅芸人と別れた場面はまるで家族と別れ るように、気持ちが空虚になりました。気持ちが空虚ですが、自分の孤児根 性が洗われて、浄化されたのはありがたいと感じました。それで、旅芸人と 別れる時、「美しい空虚な気持ち」を感じました。 説明 2 美しい気持ちというのは、やはり人間と人間の間の尋常の好意を認識し、主 人公が打算もない人間の好意と信頼を得たからのだと思う。自分の孤児根性 が洗われたからこそ、自己が平常の社会へ帰ることができる。そのため、美 しい感情が記される。空虚という気持ちは、たぶん主人公が人間の間の尋常 な好意を分かっても、自分がやはり孤児だという孤独な気持ちを持ったのだ と思う。. 90.

(17) 針對日本語教育中「文學課程」可能性之探究—以川端康成《伊豆的舞孃》為例. 四、「自己の中の他者」-人間理解の<読み>への到達 踊り子と旅芸人との出会いを通して、「旅芸人」とは何か、つまり作家の普遍的な 人間理解の内実を考えさせるために、以上の「設問1~設問14」によって提示され た登場人物と主人公の自他の関係における性格の把握を促すのであるが、指導作業の 一番最後には「設問 15」を設けて、人間理解としての「読み」を図るため、「自己の 中の他者」という視点からもう一度作品全体の問題性を吟味・批評の練習をさせる。 例えば、以下のような二つの設問のものである。 なぜこれだけ旅芸人から親切されただけで「私」はこうも感動し、涙をこぼすのか、 「私」の孤児根性と合わせて、前の「世間尋常」の意味の「いい人」と「親切さ」の 意味合いを二百字の感想文章で考えさせ、検討してもらった。また、この作品の終末 部の「私」の味わった解放感と救済の意味を考えて、肯定か否定か、どちらでもいい から、学習者の意見を求めたのである。その結果、予想通り全員が肯定の意見で見受 けられたのである。「私」と「他者」との間の社会的位置の上下関係が見取れるもの でありながら、この作品における「自己」と「他者」との間に意外と並ならぬ違和感 と心的距離が存在しているのに気づかず、川端氏にとっては相互作用としての自分の 一方的な解放と救済がそこにある意味の閉鎖性をもっているのに学習者が気づかな いのである。もう少し整合性のある人間理解の「読み」への到達を図るため、教師側 からここの「自己」と「他者」の問題性を提示し、その「読み」を刺激したのである。 説明 1 旅芸人は貧しくて、社会に差別されても、「野の匂いを失わない呑気なもの」 であって、旅の連れに過ぎない「私」に誠意を尽くして、 「親切」してくれた。 そういう「親切」は人間的な真の「善」である。僻んだ目で世間を見る「私」 がそういうおとなしい人達に「世間尋常」の「いい人」と認めたのはすごく 私の心の底にある感情を激発させて、「私」の涙を流させたのだ。 ここまで述べてきたように、指導方法としては、作品の「主題」に即して、主にキ ーワードを提示し、より普遍的な人間理解としての「読み」を通して、学生の読後感 とかイメージといった「問題意識」の喚起の実践例を見てきた。だが、一方において は、日本語教育の上級段階の文学教育には、当然にそれなりの読解能力が必要として. 91.

(18) 淡江人文社會學刊【第十二期】. いるものである。以上の学習者の説明とか、意見の中には誤まりの表現が多く現れて いることも指導の上で無視できない現象の一つであろう。 確かに石田敏子氏⁽9⁾の指摘にあるように、作品の「読み」に際して、学習者が困難 に感じるのは、特に「(6)文化的事項を欠く事項」及び「(7)思考方法、発想の相 違」といった文化的障害による種類のものである。こうした異文化としての作品の理 解の問題性については、筆者は次のような設問を施し、作家と作品との関係から考慮 し、学習者に「作品の中の感動した『表現』(言葉)」と「作品の中に特に日本文化、 ないし川端康成の独自の『表現』として、美しく思われる『表現』 (言葉)」を、それ ぞれ10個の例を挙げてもらうことにした。これには川端の文体にほぼ定説になって いる旅情及び詩情というもの、ないし美意識・叙情性のものが多く引き合いに出され るのに気づく。しかも、導入方法として注意を促したキーワードの提示がどこかで作 用したらしく、ほぼ踊子像に集中される美的対象の「表現」が学習者の目を引くので ある。それから、川端の文体によく出てくる比喩表現と擬人法が多く使われる自然描 写の捉え方も学習者の関心が寄せられる部分である。「特異性としての異文化」より もむしろ「普遍性の持った人間理解」との二点から考えて、できるだけ「文化を教え ること」という日本人の深層の考え方として解明分析の指導を行うのである。. 92.

(19) 針對日本語教育中「文學課程」可能性之探究—以川端康成《伊豆的舞孃》為例. 注: (1) 時枝誠記(1941、1955)。『国語学原論』、『同続編』。東京:岩波書店。 (2) 高木市之助(1958)。 「国語学と国文学」, 『国語教育のための国語講座第 8 巻 文 学教育』,熊沢龍、倉沢栄吉、阪倉篤義、永野賢、滑川道夫、増淵恒吉編集,東 京:朝倉書店。 (3) 塚原鉄雄(1958)。 「文学教育と国語学」, 『国語教育のための国語講座第 8 巻. 文. 学教育』,熊沢龍、倉沢栄吉、阪倉篤義、永野賢、滑川道夫、増淵恒吉編集,東京: 朝倉書店。 (4) 倉沢栄吉(1964)。 「読解教育と文学教育」, 『講座現代語第三巻. 読解と鑑賞』 ,森. 岡健二、永野賢、宮地裕、市川孝編集,東京:明治書院。 (5) 中村光夫(1938)。 「川端康成」 ,『中央公論』。東京:中央公論新社。 (6) 山本健吉(1959)。 『川端康成 近代文学鑑賞講座第十三巻』。東京:角川書店。 (7) 羽島徹哉(1979)。 「研究選書二十一」 , 『作家川端の基底』。東京:教育出版センタ ー。 (8) 高田瑞穂(1976)。 「『伊豆の踊子』の文学史的意義」,川端康成研究会編「川端康 成研究双書1」,『傷痕の青春』。東京:教育出版センター。 (9) 石田敏子(1988)。 「読解の指導」,『日本語教授法』。東京:大修館書店。. 参考文献 山本健吉(1959)。『川端康成. 近代文学鑑賞講座第十三巻』 ,東京:角川書店。. 日本文学協会編・府川源一郎・他著(1988)。 『日本文学講座 12 文学教育』,東京: 大修館書店。 日本語教育学会編・小川芳男・林大・他編集(1982)。『日本語教育事典』,東京:大 修館書店。 中村光夫(1938)。「川端康成論」,『中央公論』,東京:中央公論新社。. 93.

(20) 淡江人文社會學刊【第十二期】. 木幡瑞枝(1992)。『川端康成. 作品論』,東京:勁草書房。. 石田敏子(1988)。「読解の指導」,『日本語教授法』,東京:大修館書店。 羽島徹哉(1979)。「研究選書 21」,『作家川端の基底』,東京:教育出版センター。 高木市之助(1958)。 「国語学と国文学」, 『国語教育のための国語講座第8巻. 文学教. 育』,熊沢龍・倉沢栄吉・阪倉篤義・永野賢・滑川道夫・増淵恒吉編集,東 京:朝倉書店。 高田瑞穂(1976)。「『伊豆の踊子』の文学史的意義」,川端康成研究会編「川端康成研 究双書1」, 『傷痕の青春』,東京:教育出版センター。 倉沢栄吉(1964)。「読解教育と文学教育」,『講座現代語第三巻. 読解と鑑賞』,森岡. 健二・永野賢・宮地裕・市川孝編集,東京:明治書院。 時枝誠記(1941)。『国語学原論』,東京:岩波書店。 時枝誠記(1955)。『国語学原論続編』 ,東京:岩波書店。 宮崎典男(1980)。『文学作品の読み方指導』,東京:むぎ書房。 宮崎健三(1976)。『小説の教え方』,東京:右文書院。 望月久貴・長谷川孝士編著(1975)。『中学校. 文学の授業-全国実践例-』,東京:. 右文書院。 塚原鉄雄(1958)。 「文学教育と国語学」, 『国語教育のための国語講座第8巻. 文学教. 育』,熊沢龍・倉沢栄吉・阪倉篤義・永野賢・滑川道夫・増淵恒吉編集,東 京:朝倉書店。. 94.

(21) 針對日本語教育中「文學課程」可能性之探究—以川端康成《伊豆的舞孃》為例. 95.

(22) 淡江人文社會學刊【第十二期】. 96.

(23)

參考文獻

相關文件

為了能帶回最多的資訊,我們一團六人於行前便針對每人要參加的會 前會課程做好了分配,包含:醫學教育核心技能課程( Essential skills in

大きく違う点は、従来の BASIC ではプログラムの実行順序はプログラム作成時に予め決 めたとおりに実行する定義型であるの対し、Visual

Schopen 著,平岡聰譯<《大般涅 槃經》における比丘と遺骨に関する儀礼>;(4) 此 Schopen 之意見,美國學者 Silk Jonathan 及日本學者下田正弘均表同意。Silk, Jonathan, The

二、本案中等師資類科學生(特教系以外之學生)修習之「教育專業課程版本」應為106年11月17日教育部臺教師(二)字第

教育局的課程文件《為智障學生而設的中國 語文建議學習重點(小一至中三)》 (香 港課程發展議會,

分項計畫「海上絲路之探索」之設計與推行,基本上針對本校通

為配合中學中國語 文課程的實施,教育局課 程發展處邀請教師、學者 推薦適合中學生學習的材

附属災害制御研究センター 真野 明・有働恵子 土木工学専攻