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改革開放以降における中国の人権ガバナンスの変遷--権威主義体制の優美なお飾り

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改革開放以降における中国の

人権ガバナンスの変遷

-権威主義体制の優美なお飾り-

陳 至 潔

(台湾・国立政治大学国際関係研究センター アシスタントリサーチフェロー)

【要約】

一 国の人 権政 策と人 権の 発展に は連 続性が あり 、これ は中 国共産 党 が政権を運 営し続けて いる中国に おいても同 様である。 現在の 中 国 の人権政策 と習近平時 代に起こり 得る人権問 題の発展を 理解す る た め、本論で は、改革開 放以降の中 国の人権理 念・政策に かかる 三 つの主要な期間-1980 年代、江沢民時代、胡錦濤時代-につき、ま た 、これらの 政治・外交 遺産に基づ きながら、 習近平時代 におけ る 中 国の人権問 題の行方を 判断する。 中国の人権 政策変遷の 分析に あ た り、本論で は、中国の 指導者の人 権理念に対 する認識、 及び中 国 で制定された人権問題に関連する国内政策・制度に着目し、過去30 年 の中国の国 内政治体制 及び外交関 係における 人権問題の 位置づ け を描き出す。更に、習近平時代の中国では、法治の促進が期待でき、 こ れにより間 接的に経済 権、社会権 、ある種の 公民権が保 障され る が 、政治にお ける人権の 促進には明 らかな効果 はなく、進 歩的な 政 策 の主要目的 は人権問題 そのもので はなく、中 国共産党政 権の永 続 性 の確保にあ ると論じ、 結論として 、突発事件 に左右され る中国 人 権 研究のアプ ローチ方法 を越えるべ く、その制 度化具合や 長期的 な 改善の有無を観察する八つの指標を示す。 キーワード:人権、法治、国内の安全保障、習近平、国際規範

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一 はじめに

政 治スキ ャン ダルの 影と 国力上 昇が 相まっ た中 で、習 近平 時代を 迎 えた。中国 の政治学者 は、習近平 時代の中国 の人権政策 が如何 な る特色を示し、どのような方向に歩んでいくかに関心を寄せている。 一 国の人権政 策と人権の 発展には連 続性があり 、これは中 国共産 党 が 政権を運営 し続けてい る中国にお いても同様 である。現 在の中 国 の 人権政策と 習近平時代 に起こり得 る人権の発 展を理解す るため 、 本 論では、改 革開放以降 の中国の人 権理念・政 策にかかる 三つの 主 要な期間-1980 年代、江沢民時代、胡錦濤時代-につき、また、こ れ らの政治・ 外交遺産に 基づきなが ら、習近平 時代におけ る中国 の 人権の行方を判断する。 中 国の人 権政 策の変 遷の 分析に あた り、本 論で は、中 国指 導者の 人 権理念に対 する認識、 及び中国で 制定された 人権に関連 する国 内 政策・制度に着目し、過去30 年の中国の国内政治体制及び外交関係 に おける人権 問題の位置 づけを描き 出す。習近 平が「中国 の夢」 の スローガンを掲げる中国共産党政権下では、法治の促進が期待でき、 こ れにより間 接的に経済 権、社会権 、ある種の 公民権が保 障され る が 、政治権の 促進には明 らかな効果 はなく、進 歩的な政策 の主要 目 的 は人権その ものにはな く、中国共 産党政権の 永続性の確 保にあ る と 論じ、結論 として、突 発事件に左 右される中 国人権研究 のアプ ロ ー チ方法を越 えるべく、 その制度化 具合や長期 的な改善の 有無を 観 察する八つの指標を示す。

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1980 年代における中国の人権政策:内政的には軽

視、外交的には利用

1 人権理念に対する中国共産党の認識 1989 年の天安門事件発生以前、中国政府には明確な人権政策がな く、国内の人権政策や人権問題に責任を負う党や政府の機関もなく、 中 国の学術界 における人 権の研究・ 議論も依然 萌芽段階に あった 。 中 国政府が正 当なイデオ ロギーとし て崇めるマ ルクス・レ ーニン 主 義 及び毛沢東 思想は、い ずれも古典 的自由主義 を基礎とす る普遍 的 人権については極端なマイナス評価を与えており、また、マルクス・ レ ーニン主義 及び毛沢東 思想では普 遍的人権は 存在せず、 権利は 神 や 天から与え られるもの ではなく、 階級的な社 会制度を具 えるも の であると認識される1。社会主義の段階では、公民権に対し制度的な ア レンジを加 える必要が あるが、国 家のみが公 民権を与え ること が で きるため、 当然ながら 階級に反対 する者や反 動派には国 家から か かる権利は与えられない2。しかし、公民権は過渡的な制度にすぎず、 社 会が共産主 義の段階に 進み、搾取 的な制度が なくなって 、階級 、 国家、政府、国民を含むあらゆるものが一つの完全なものとなれば、 権 利は一つの 社会制度と して廃止す ることがで き、自ずと 公民権 の 保障を強調する必要がなくなる。

1 Robert Weatherley, The Discourse of Human Rights in China: Historical and Ideological

Perspectives (New York: Palgrave, 1999), pp. 84~86.

2 Louis Henkin, “The Human Rights Idea in China: A Comparative Perspective,” in R. Randle

Edwards, Louis Henkin, and Andrew J. Nathan eds., Human Rights in Contemporary China (New York: Columbia University Press, 1986), pp. 27~29; Marina Svensson, Debating

Human Rights in China: A Conceptual and Political History (Lanham, M.D.: Rowman &

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2 中国が制定した国内の人権関連政策及び制度 1980 年代の中国における人権の政治的位置づけは、その国内政治 と 外交関係に おいて明ら かな落差が あり、国内 政治おいて は軽視 さ れ 、対外関係 においては 徐々に重視 されたが、 実質的には 中国共 産 党政権の政治的合法性のための暫定的措置であった3。1980 年代の中 国 政府は、中 国は既に階 級のない社 会主義国家 であり、そ の政治 的 本 質において もすでに資 産階級が主 導する国家 よりも公民 権を保 障 し ていること から、公民 権の保障を 取り立てて 強調する必 要はな い と 考えていた 。加えて、 中国政府は 自国が公民 権を保障す る国際 社 会 の模範国家 であると信 じていたた め、中国に は人権政策 や人権 保 障 の責任を負 う専門機関 がなく、ま た人権問題 を議論・検 討する よ う研究者を奨励することもなかった4 人 権保障 と最 も関係 して いる党 ・政 府部門 は、 法律と 司法 制度で あ る。文化大 革命の深刻 な法律制度 の破壊によ って国家の 社会的 運 営 が麻痺した ことに鑑み 、鄧小平や その他中国 の指導者は 、中国 の 法 律・司法制 度の回復を 決意した。 公民権の保 障に関する 中国刑 法 及び刑事訴訟法は1979 年に施行され、1982 年には公民の権利と義務 を 具体的 に規 定した 中華 人民共 和国 憲法第 二章 が発効 した が、1980 年 代に中国政 府が公民権 の概念やそ の貢献を強 調すること はなか っ た 。中国はこ うした党・ 政府部門( 政法委員会 、公安部、 検察院 、 裁判所、司法部を含む)を「専政部門」(Dictatorial Bodies)と総称 し ており、こ こからも中 国共産党体 制における 司法関係部 門の役 割 は 明らかであ る。独裁政 治の手段は 、階級に反 対する者や 反動派 に

3 Louis Henkin, “The Human Rights Idea in China,” p. 23.

4 Marina Svensson, Debating Human Rights in China: A Conceptual and Political History, pp.

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対 してのみ実 施され、こ うした部門 の主要な役 割は、社会 主義政 権 を 維持し、中 国が認める 政治・社会 秩序を維持 し、党・政 府機関 の 効 率的な政令 の推進を保 障すること にあり、公 民権の保障 の重要 性 は右三つの役割をはるかに下回るものであった。 加 えて、 中国 の司法 関連 部門は 、手 続き的 正義 よりも 実質 的正義 を はるかに重 視している 他、実質的 正義の構成 条件は全て 中国共 産 党 が決定する 。民主主義 体制におい ては、司法 関連部門は 相互に 抑 制 ・監督し合 うことで、 国家の権力 乱用、違法 行為、人権 侵害を 防 ぐ が、中国で は司法関連 部門は有機 的な全体の 一部にすぎ ず、党 の 意 志及び政策 を徹底的に 実施するよ う、政法委 員会が協調 を指導 す る。簡潔に言えば、社会秩序と手段的合理性に対する中国の要求は、 公 民権や手続 き的正義の 保障を大き く上回るも ので、党の 政策は 常 に 国家の法律 よりも重要 で、権威を 持つ。こう した権威主 義的な 法 観念は、1983 年の全国的な「厳打」5においても如何なく発揮された。 公 安、検察官 、裁判官は 政法委員会 の直接指導 の下で一体 化し、 連 鎖的な処理方式で、「重く、速く」との原則によって処理され、軽罪 で も死刑判決 が下され、 執行猶予付 き死刑判決 も激増した が、他 方 こ れ に よ り 治 安 が 改 善 さ れ る こ と は な か っ た6。 法 律 と 司 法 制 度 は 、

5 中国で、80 年代初め、文化大革命(66 年~76 年)で農村に下放された大量の若者ら が都市部に一挙に戻り、就職難もあって、治安が悪化し、当時の最高実力者、鄧小 平の「穏健な手法で問題は解決しない」との一声で、83 年、大掛かりな治安強化運 動「厳打」が始まり、多くの人々が逮捕、死刑とされた。 6 執行猶予付き死刑判決は、中華人民共和国刑法第 48 条第 1 款の規定に基づくもので、 その適応条件は、(1)死刑判決に処すべき犯罪、(2)直ちに刑を執行する必要がな いこと。中華人民共和国刑法第50 条の規定に基づき、執行猶予付き死刑判決が出さ れた犯罪者については、執行猶予期間中、或いは期間終了後、以下三通りの方法で 対処する-(1)死刑執行猶予期間中、故意に犯罪を起こさず、2 年が経過すれば、 無期懲役に減刑する。(2)素行がきわめて良好な場合、2 年後に 25 年の有期懲役に

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政 治・社会秩 序を維持す る道具、法 律行為は政 権を安定さ せる道 具 で あって、公 民権を保障 する役割と しての法律 行為の意味 合いを は るかに超えていた。 3 国際的な人権保障制度に対する中国の政策 1980 年代の中国は、軍事・経済・文化的なパワー面において、人 権を提唱する西洋諸国(主に米国と EU 加盟国)とは比較できない レ ベルにあっ たが、中国 が人権問題 において西 側諸国の要 求を受 け 入れていたというわけではなく、西側諸国は改革開放初期の10 年間、 中 国に対し関 連の要求を 示さなかっ た。その上 、中国が国 際的な 孤 立 状態から抜 け出して久 しくなく、 また中国と 国際経済貿 易のネ ッ ト ワークは緊 密と言える レベルでも なかったた め、人権問 題を理 由 に 中国に対し て経済制裁 を実施した り、外交的 に非難して も、中 国 国内の政治経済発展に与える影響は限られていた。 実際、1980 年初期の西側諸国は、改革開放政策を進める中国に対 し熱い期待を寄せ、「比較的良好」な社会主義政権であると見なして いたため、1980 年代は中国と西側諸国政府間の戦略及び経済貿易関 係 上の蜜月期 であった。 共通の敵で あるソ連に 対抗すると いう戦 略 的 利益が一致 していたた め、中国は 西側から先 進的工業科 学技術 ・ 知 識を導入し 、西側諸国 の政治家や 政治学者の 多くも、中 国に経 済 発 展の猶予を 与えるため にも、中国 内部の政治 的発展、人 権や法 治 に かかる問題 を取り上げ るべきでは ないと考え ていた。し かし、 非 政府の国際的な人権組織は1980 年代中頃から、中国の人権状況に関 心を払い始め、1987 年には米国議会でチベット問題五項目平和案が

減刑する。(3)故意に犯罪を起こし、これが実証された場合、最高人民法院の審査 後、死刑を執行する。

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可 決された。 これに対し 、中国政府 と学者は天 安門事件発 生まで 強 烈 に反発した が、中国の 人権問題に 対する西側 社会の非政 府人権 組 織 の認識は不 十分で、ま た西側諸国 も比較的寛 容で、中国 の人権 問 題 を軽視する 態度すら見 せていたた め、中国は 国内的には 軽視、 外 交的には利用するという二重の姿勢で臨んだ7。 中 国は、 自国 の政治 経済 体制を 、人 権を保 障し 実践し てい る最も 模範的な国家であると考えていたため、1970 年代の後期には、人権 問 題を外交政 策の思想的 道具として 用いること を強化し始 めた。 中 国 政府と国営 メディアは 人権を理由 に、その敵 国の軍事や 外交的 行 動 を攻撃する ようになり 、その顕著 足る例はベ トナムのカ ンボジ ア 侵 攻、ソ連の アフガン侵 攻である。 中国はその 他メンバー 国と協 力 し 、国連総会 や人権委員 会において 、ベトナム とソ連に対 する非 難 決 議を可決し た。中国代 表団は、そ の発言・声 明において 、二国 は 侵 略された国 の国民の基 本的人権、 即ち民族自 決権を深刻 に侵害 し た と明確に指 摘した(こ れは中国が 普遍的人権 を明らかに 認めた 数 少ない例)。中国は、ベトナムを非難し、圧力を加えるため、カンボ ジアのクメール・ルージュ政権の要請を受け、1979 年 2 月にオブザ ーバーの身分で国連人権委員会に参加した8。これは中国の人権外交 における顕著な政治的成果であり、中国は1982 年に国連人権委員会 の正式な加盟国となった。 中国は1984 年から国連人権委員会差別防止と少数者保護小委員会 に参与しており、1980-1988 年の間には八つの国際人権保障規約や議

7 Andrew J. Nathan, “China and International Human Rights: Tiananmen’s Paradoxical

Impact,” in Jean-Philippe Beja ed., The Impact of China’s 1989 Tiananmen Massacre, (New York: Routledge, 2011), pp. 210~211.

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定書を採択し、同規約・宣言の制定プロセスにかかわった9。中国は 1988 年 11 月、その他 11 カ国のアジア諸国と国連総会第三委員会に、 国 連がアジア 太平洋地域 において、 人権を提唱 ・保障する 地域メ カ ニズムを構築することを支持するとの決議草案を提起した10。中国駐 ジュネーブ国連大使であった錢嘉東は1989 年 2 月に国連人権委員会 の副主席に選任され、中国外交部国際司第三処(即ち、社会処。元々 は国連経済社会理事会に関する業務を担当)は1988 年末から、その 業務の一つとして国際的な人権問題を明記した11。皮肉なことに、天 安門事件直前は中国と国際人権システムの蜜月のピークであった。

三 天安門事件後の中国の人権政策:強烈な反発から

「都合よく活用」へ

1 人権理念に対する中国の認識 中国政府が真剣に人権問題に取り組み始めたのは、1989 年 6 月の 天 安門事件以 降である。 国際社会の メンバーで ある中国が 天安門 で 民主運動を鎮圧すると、中国政府には様々な非難や制裁が科せられ、 天 安門事件は 深刻な人権 侵害と位置 づけられた (特に国際 規約で 保 障される政治権、公民権について)。中国は国際社会の非難や制裁に 激 しく反発し 、天安門の 軍民衝突は 、国内の公 共安全保障 の問題 で あ り、他国に は管轄する 権利はなく 、軍事的鎮 圧はやむを 得ず、 暴 動 鎮圧部隊は できる限り 衝突を避け るようコン トロールし 、一般 市 民 に死傷者が 出ないよう 努めたと訴 えた。中国 政府は天安 門事件 発

9 Kent, Ann., China, the United Nations, and Human Rights (Philadelphia: University of

Pennsylvania Press, 1999), p. 44.

10 UN Doc. A/C.3/43/L.63.

11 Kent, Ann., China, the United Nations, and Human Rights, p. 45. 退職中国駐国連大使へ

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生 後、民主化 運動に参加 した学生や 労働者の大 捜索を展開 し、彼 ら を 民主主義や 人権のため に戦う勇士 ではなく、 反革命分子 、危険 分 子 と非難した 。西側諸国 が主導する 国際社会が 中国の言い 分を受 け 入 れず、他方 、中国政府 も天安門事 件に対する 主要国や国 際組織 の 認識を受け入れなかった。 中 国政府 から すれば 、天 安門事 件に 起因す る国 際的な 非難 や制裁 が 代表するの は、正義や 公理の実践 ではなく、 西側陣営の 覇権主 義 と 道徳的ダブ ルスタンダ ードの現れ であった。 冷戦が終結 し、ユ ー ラシア大陸の社会主義政権が徐々に瓦解され、ソ連までもが崩壊し、 米 国を主とす る西側陣営 の戦略的囲 い込みや攻 撃の対象は 中国に 移 り 、国際政治 やイデオロ ギーにおけ る西側諸国 の最大の仮 想敵は ソ 連 ではなく、 中国共産党 政権となっ た。中国の 指導者から すれば 、 中国と西側の関係は1980 年代の戦略的盟友から、1990 年代には戦略 的 敵となり、 人権は、西 側陣営が中 国の総合国 力発展を阻 止する た め の理由の一 つにすぎな かった。こ うした考え のため、中 国の軍 事 力 や経済力が 西側陣営に はるか及ば なくとも、 中国の指導 者は人 権 問 題において 西側諸国の 道徳的非難 や政治的要 求を受け入 れるこ と はなかった。 し かし、 中国 政府も 、国 際社会 の指 摘や避 難に 反発す るだ けでは 不 十分なこと を理解して おり、外野 の批判を受 動的に阻止 するだ け で なく、主体 的に国際世 論を中国の 政治的合法 性の発展に とって 有 利 な方向にも っていこう とした。経 済改革と社 会発展のた めには 、 中 国は依然と して国際社 会に頼らな ければなら ず、人権問 題をめ ぐ る 西側の主要 諸国との論 争が長引け ば、中国は 二国間関係 やマル チ 外 交を展開で きず、中国 の経済現代 化プロセス の進展に影 響を及 ぼ すことになるからである。 国 際人権 規範 の違反 を理 由に国 際社 会が中 国の 政治制 度・ 施政を

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非 難したこと に鑑み、中 国の指導者 と学者は天 安門事件発 生後の 数 ヶ 月間、人権 をテーマと した部門の 枠を越えた 政策会議、 全国規 模 の 政策会議を 集中して開 催し、また 、外交に関 するほぼ全 ての政 府 会議の焦点も国際社会からの人権非難にかかる対応策の研究とした12 中 国の指導者 やエリート 外交官は、 人権をめぐ る国際社会 の挑戦 に 対 し、中国独 自の説明を 行う必要が あり、単に マルクス主 義を基 礎 と する政治経 済の発展観 によって、 自由主義の 国際人権規 範に反 発 す るのでなく 、真の政治 目標によっ て、効果的 に人権問題 が中国 の 外交政策や経済現代化プロセスに干渉しないようすべきと考えた13 中国の指導者は、1990 年代初期には、人権はポスト冷戦時代におい て 避けて通れ ない国際問 題であり、 中国の人権 に対する各 国・国 際 組 織の非難を 完全に打ち 消すことは できず、人 権をめぐる 国際的 な 非 難によって 生じる政治 的、経済的 損失を効果 的にコント ロール す るために様々な方法を模索するしかないと身を以って認識していた14 中 国共 産党中 央の 政策指 導の 下、中 国国 務院新 聞弁 公室は 、1991 年11 月に中国建国以来初となる人権白書「中国の人権状況」を発表 し た。これは 、マルクス 主義を理論 とした白書 で、独尊的 な人権 の 階 級性や段階 性が引き継 がれている が、人権が 一つの政治 概念と し て 時代的な価 値を持つこ とは否定し ておらず、 各国の文化 ・歴史 、 そ の経済発展 の段階を人 権の進展を 評価する最 高基準とす るよう 主

12 陳佑武「中國人權意識三十年發展回顧」『廣州大學學報』第 7 卷第 7 期(2008 年 7 月)、頁3~7。 13 退職中国外交官への筆者インタビュー(2010 年 10 月、北京);中国共産党中央党校 人権研究者への筆者インタビュー(2012 年 9 月、北京);中国外交部国際司官員への 筆者インタビュー(2012 年 9 月、北京)。 14 朱穆之『朱穆之論人權』(北京:五洲傳播出版社、1998 年)、頁 1~2、9~16。

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張している15。こうした唯物主義や文化相対論を具えた人権観は、リ ベ ラリストの 期待を満足 させること はできなか ったが、共 産党の 対 外 宣伝部を人 権外交の一 つの可能な 共通の立場 として、西 側に多 角 的 な人権の価 値を認めて もらうとの 条件の下、 人権の対話 と交流 を 展 開し、人権 をめぐる論 争をコント ロールでき る範囲に収 めよう と した。 中国は、1991 年にポスト冷戦期の基本的人権理念、基本的人権政 策 及び目標、 人権政策決 定モデルを 確立し、こ うした政治 概念と 政 策 決定モデル は今日まで 引き継がれ ている。ま ず、中国は 、政治 的 概 念、政治的 目標の価値 としての人 権を否定し ておらず、 少なく と も 、中国の政 府関係者や 党営メディ アが「人権 」の二文字 の使用 を 避 けることは なく、これ は人権にマ イナスの意 味合いを持 たせて い な いことを意 味する。次 に、中国の メディアが 人権の概念 を討論 す る 目的は、国 家主権に対 抗するため や、政府の 権力や機能 を弱め る た めではない 。逆に中国 政府の宣伝 文書は人権 の総体性や 有機性 を 強調し続けているほか、集団的人権(及び民族自決権と経済自主権) の ない実践に は、個人の 人権(例え ば公民権や 政治権)の 実現は な く 、更には、 個人の人権 を満足させ る過程にお いて国家や 政府は 必 要不可欠な役割を担っているということを述べるためにある。 2 中国が制定した国内の人権関連政策及び制度 最 近出版 され た中国 の内 部資料 によ ると、 中国 の指導 者は 、天安 門 事件をめぐ っては過度 に受動的で 即座に世論 を誘導でき なかっ た た め、最終的 に国際的な 広報合戦に 敗れたと認 めている。 中国宣 伝

15 「中國的人權狀況」中華人民共和國國務院新聞辦公室、http://www.china.com.cn/ ch-book/crenquna/icrenquan.htm。

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部門の責任者は、積極性を具えるには、1988 年に撤退した対外宣伝 シ ステムを回 復させ、中 国の発展に 有利な人権 観を打ちだ して、 ポ ス ト冷戦期に おける中国 共産党政権 の国際政治 的な合法性 を守る べ きだと強く主張した16。中央は、天安門事件時における対外広報失敗 の教訓から学ぶべく、1990 年初めに中共中央対外宣伝指導小組を復 活 させ、同時 に、中国共 産党中央対 外宣伝弁公 室(略称: 外宣弁 ) を新設し、1991 年 6 月には国務院の中に新聞弁公室(略称:国新弁) を設け、対外宣伝システムを実体化させた17。外宣弁と国新弁の実質 的な職員は同じで、また同じ場所で勤務しており、この標準的な「一 つ のグループ が、二つの 看板を掲げ る」運営モ デルは、一 つのレ ー ルに交差し合う中国の政治運営モデルを体現している18。再スタート し た対外宣伝 システムの 最も重要な 任務は、現 在の中国の 特色を 具 え た様々な政 治・経済的 観点を国際 社会に紹介 し、中国の 施政に 対 す る国際社会 の理解と認 識を勝ち取 ることにあ り、中国の 人権理 念 や政策に関係する問題は1990 年代を通じ一貫してその重点任務であ った。 この通り1991 年以降、中国の政権内部では、イデオロギーをコン ト ロールする 宣伝システ ム、より正 確に言うと 、宣伝シス テムに お け る対外宣伝 部門に、人 権をめぐる 論述のトー ンや描写の 責任を 負 わ せるように なり、人権 は徐々にイ デオロギー や国家安全 保障に 密 接に 関係するガ バナンスの 一つとして 位置づけら れるように なった 。 し かし、人権 保障に真に 影響を与え る機構、即 ち立法、法 の執行 、 司 法部門は、 人権論述の 研究や制定 プロセスの 蚊帳の外に おかれ た

16 朱穆之『朱穆之論對外宣傳』(北京:五洲傳播出版社、1995 年)、頁 232~233、252。 17 朱穆之、前揭『朱穆之論對外宣傳』、頁 266~267。 18 例えば、蔡明照・現国務院新聞弁公室主任はまた、中国共産党中央対外宣伝弁公室 主任、中国共産党中央宣伝部副部長でもある。

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た め、人権理 念の部門と 実際の人権 状況に影響 を与える部 門間の 制 度化された組織横断的な連絡・調整制度を欠く状況が生まれた。(図 1 を参照)。こうした構造的な問題は今も尚解決されておらず、中国 の行政システムは「分裂した権威主義」(fragmented authoritarianism) の特色を呈している19。 図1 江沢民から習近平時代における水平の人権ガバナンス枠組 (出典)筆者作成。

19 Kenneth Lieberthal, “Introduction: The Fragmented Authoritarianism Model and Its

Limitations,” in Kenneth Lieberthal and David M. Lampton eds., Bureaucracy, Politics and

Decision Making in Post-Mao China (Berkeley: University of California Press, 1992), pp.

1~30. 人権政策制定 レベル 人権政策の実施 /研究レベル 人権ガバナンス の産物

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人 権理念 をさ らに理 解し 、中国 の指 導者の 理念 に合致 する 人権概 念を発展させ続け、国際社会で人権問題を「都合よく用いる」ため、 中 国 共 産 党 が コ ン ト ロ ー ル す る イ デ オ ロ ギ ー の 宣 伝 シ ス テ ム は 、 1990 年代に数十の各大学や党校に人権研究機構を成立させる案を批 准 し、中央党 校、北京大 学、中国人 民大学、中 国政法大学 、山東 大 学 、吉林大学 等に異なる 規模の人権 研究センタ ーが開設さ れた。 こ の 他、国新弁 は中国人権 研究会及び 中国人権発 展基金会等 、政府 の コ ン ト ロ ー ル を 受 け る 非 政 府 組 織 (Government-organized NGO 、 GONGO)を発足させ、非政府の身分で海外との学術交流や政策交流 を 推進できる 環境をつく ったが、人 権問題は中 国外交の主 要問題 で は なくなり、 指導者も以 前ほど人権 研究に関心 を示さなく なった た め 、いくつか の大学の人 権研究部門 は徐々に空 洞化し、看 板だけ が 残り実際には運営されなくなった。 3 国際的な人権保障制度に対する中国の政策 長 年、中 国と その盟 友国 は、国 際的 な場面 で人 権問題 をめ ぐって 西側陣営と対峙し、その攻防戦は 1990 年代中頃にピークに達した。 国 連人権委員 会は例年双 方が攻防戦 を展開する 重要な場と なり、 同 委 員会はあま りにも政治 化したため 、成果をあ げることが できな く な った。しか し、中国も 人権問題を 避けられな いことは理 解して い た ため、徐々 に場に応じ た戦術で国 際的な人権 圧力に対処 するこ と を決めた。外交部は1990 年代初期、中国には、各国と個別に非公開 の対話を行う用意があると表明したが、国際組織において、集団的、 或 いは公な道 徳的非難を 受けること は決して受 け入れなか った。 つ ま り、中国は 二国間の人 権・政治対 話や学術交 流は受け入 れたが 、 多 国的メカニ ズムによる 人権の論争 や審査は拒 否した。逆 に、西 側 諸国とその盟友国は、中国との二国間人権対話に反対しなかったが、

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国 連人権委員 会の年次総 会や小委員 会において 、中国の人 権状況 を 非 難したり、 調査するこ とを堅持し たため、ほ ぼ毎年、熾 烈で長 い 論 争を展開し た。中国と その盟友国 による強烈 な阻止のた め、中 国 の 人権問題は 一向に人権 委員会の実 質的な議論 プロセスに 進むこ と ができず、双方は加盟国を取り合い続けた。1995 年の国連人権委員 会年次総会では、中国の人権決議案は引き分け(共に22 票を獲得)、 1997 年の表決結果では(27 票が中国の「決議案を取り上げない申請」 案を支持、僅か 17 票が西側諸国の提案を支持)、ポスト冷戦期に築 か れた中国の 人権政策を めぐる西側 の連盟が崩 れたことが 明らか に な り、戦術レ ベルからす れば、中国 が人権外交 の攻防にお いて決 定 的な勝利を収めたと言える。 西 側諸国 から すれば 、こ うした 外交 の挫折 は、 実質的 には 、各国 の国内政治・外交政策の選択の結果であった。西側諸国が1989 年以 降 、中国に対 して行った 非難、孤立 化、制裁措 置は短期的 にはそ の 経 済成長を鈍 化させたが 、中国に国 際的な人権 保障規範を 受け入 れ さ せ、人権状 況を明らか に改善する ことはでき なかったこ とから 、 西側諸国は1990 年代中頃から中国の人権状況を効果的に改善する方 法 を見直し、 模索し始め た。経済貿 易政策につ いてみると 、中国 が 1992 年に改革開放の経済戦略路線を回復し、急速な成長を遂げてい た ため、各国 がその巨大 な潜在的市 場や廉価な 労働力とい った利 益 の 獲得を考慮 したことも あって、中 国は国際貿 易ネットワ ークと の リ ンケージを 急ピッチで 進めた。グ ローバル企 業やその政 治的ス ポ ー クスマンは 、西側諸国 の政府に対 し、中国に 対する経済 制裁を 解 除 するよう求 めて圧力を かけ、また 、中国政府 は経済貿易 利益と 引 き 換えに、温 厚な外交政 策を採った 。ビジネス 界の強大な 政治圧 力 の下、米国政府は1994 年に人権問題と切り離して、中国に最恵国待 遇 を与えると 発表した。 中国は、西 側諸国の政 府・企業と の日増 し

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に 深まる立場 の相違を心 の底ではは っきりと理 解していた ため、 多 国 間の対抗モ デルではな く、二国間 の非公式対 話モデルを 採るよ う 国際的な場で積極的に訴えた。 効 果のな い制 裁や経 済貿 易の誘 因と いう二 重の 影響に よっ て、カ ナダ、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア等の西側主要国は1997 年 、同年の国 連人権委員 会で中国の 人権問題を 提起するこ とを支 持 せ ず、中国政 府と二国間 の人権対話 を行うと相 次いで表明 した。 西 側陣営の対中制裁は崩れ、同年10 月には米国政府も中国と制度化さ れ た二国間人 権対話を開 催すると表 明せざるを えなくなっ た。中 国 の 人権外交は 国際的な人 権圧力を解 消し、弱化 させたのみ ならず 、 そ のモデル( 多国間のオ ープン方式 から、二国 間のクロー ズ方式 へ の転換)を変えることに成功した。20 世紀終了前に中国との二国間 人 権対話を維 持していた 国・地域に は、米国、 カナダ、オ ースト ラ リ ア、日本、 EU、ノル ウェー、ブ ラジル等が あり、二国 間人権 対 話はその後の10 年間、国際社会のメンバー国が中国に対し人権問題 へ の関心を表 明する重要 なチャンネ ルとなった 。西側諸国 は二国 間 人権対話の機会に、中国政府や関係者に政治犯や良心の囚人20のリス ト を手渡して 彼らの早期 釈放を求め 、また中国 政府は同機 会に乗 じ て 中国の人権 保障におけ る成果を西 側の政府関 係者や研究 者に披 露 した。 人 権対話 は双 方が不 満を 抱きな がら も、何 とか 受け入 れら れる交 流 モデルであ る。経済発 展上の必要 や国際社会 との融合の ため、 中 国 はかつて内 政干渉と見 なしていた 便宜的な措 置を受け入 れざる を

20 国際的民間人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルが提唱している概念で、 非暴力であるが言論や思想、宗教、人種、性などを理由に不当に逮捕された人をい う。

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え なくなった 。西側の民 主主義国家 からすれば 、二国間対 話に参 与 す ることで中 国に圧力を かけ続け( グローバル に人権問題 を提唱 す るグループの政治圧力を収めるため)、また西側の中国ビジネス上の 利益に影響が出ないようにすることができる21。こうして二国間人権 対 話は、多国 的な場にお ける対抗に とって代わ り、その後 数十年 の 対 外的な人権 交流の主要 モデルとな って、今日 まで続いて いる。 簡 潔 に言えば、 中国は二国 間人権対話 モデルを和 平を保つた めのフ ァ イ ヤーウォー ル、西側諸 国政府は国 際社会が中 国の人権状 況を変 え られないことを隠す目隠しとみなすようになった。 二 国間人 権対 話と同 時に 展開さ れた もう一 つの 時代の 産物 は、人 権 と法治をめ ぐる中国と 西側諸国の 学術交流で ある。西側 の法学 教 育機構は、1970 年代後半から、中国の法学機構や立法機構との交流 を 始め、中国 の法学教育 の回復と法 学交流は同 時に始まっ たが、 西 側諸国と国際組織は1990 年代後半になってようやく、かかる交流を 大 々的にサポ ートできる ようになっ た。人権問 題があまり にも政 治 化 されていた ことを踏ま え、西側の 法学者、非 政府組織、 政府関 係 者 は、法治を めぐる交流 は中国政府 の政治的敏 感度が低く 、また 人 権 保障と法治 は切り離す ことができ ないと考え 、中国政府 の立法 の 質 、司法改革 、中国の法 学教育に協 力した。そ して、これ は中国 の 人 権状況の間 接的な改善 を試みる西 側諸国と法 曹界の主要 なアプ ロ ーチ方法となった。 他方、中国は1990 年代の中頃から、法治意識と法整備の強化によ っ て、地方や 部門の保護 主義を抑制 でき、中央 の政治権力 と執行 の 効果を新たに確立できると考え始めた。江沢民総書記は、1997 年の

21 中国外交部国際司と美大司の人権担当事務官員への筆者インタビュー(2012 年 9 月、 北京)。

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中国共産党第15 回全国代表大会で発表した政治報告の中で、法に基 づく統治の理念を明確に支持し、1998 年の中国人民代表大会では、 こ れを憲法に 盛り込んだ 。中央は、 中国共産党 の政治体制 に挑戦 し な いという条 件の下で、 中国の各政 府レベルや 法学院に対 し、資 金 提 供、人的交 流、情報伝 送等の制度 整備にかか る協力を申 し出た 国 際組織、西側諸国、非政府組織、法学者と喜んで面会した。この他、 中 国の指導者 は、比較的 専門的で効 果的な司法 制度は、経 済改革 ・ 体 制転換・政 治汚職に起 因する官民 の衝突にか かる政府対 応をサ ポ ー トし、権威 的な政治・ 社会秩序が 挑戦を受け ないことを 確保で き ると考えた。1998 年に始まった法治をめぐる西側との交流は徐々に 拡大し、米国、EU、カナダ、オーストラリア、日本、国連、世界銀 行 、アジア開 発銀行等の 政府や国際 機関にも広 がり、これ らはい ず れ も中国の法 制度や法治 教育をめぐ る人的、専 門知識、資 金・設 備 において大いに貢献した22 人 権外交 の勝 利は、 中国 政府に 明ら かな外 交・ 経済成 果を もたら した。10 年に及ぶ取り組み後、中国は終に 2001 年に 2008 年の北京 オ リ ン ピ ッ ク 開 催 を 勝 ち 取 り 、 そ の 2 ヶ 月 後 に は 、 世 界 貿 易 機 関 (WTO)に正式に加盟した。オリンピック開催及び WTO 加盟にか か る申請プロ セスにおい て、中国は 国民の権利 の保障を強 化し、 国 際 規範に符合 するよう国 内の法治状 況を改善す ることを明 確にコ ミ ッ トした。時 代に残る外 交・経済貿 易上の成果 は、中国政 府に自 信 と 安心感を与 え、国際的 な人権のコ ミットとし て反映され た。江 沢 民総書記は、1998 年に国連が開催した世界人権宣言発効 40 周年記念

22 Titus C. Chen, “Recalibrating the Measure of Justice: Beijing’s Effort to Recentralize the

Judiciary and Its Mixed Results,” Journal of Contemporary China, Vol. 21, No. 75 (May 2012), pp. 499~518.

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大 会において 、人権の普 遍的価値を 公に認めた 。対抗で緊 張して い た1990 年代には、中国政府は二つの国際的な人権規約にしか署名し なかったが、2001~2005 年の 5 年間には六つもの国際人権規約に署 名 したことか ら、西側諸 国や国際組 織は、改革 開放政策に よって 中 国 の人権や法 治が確かに 改善されつ つあると楽 観視してい た。中 国 がWTO 加盟に当たってコミットした人権・法治の履行状況を監督す るため、米国は2000 年 10 月、上院・下院議員 5 名、大統領が指名 する行政関係者 5 名から成る中国問題に関する連邦議会・行政府委

員会(Congressional-Executive Commission on the People’s Republic of China、CECC)の設立を決議した。同委員会は、毎年発表される中 国 の人権・法 治報告を含 む中国の人 権・法治に かかる研究 資料を 議 会 に提供し、 中国の政治 犯や良心の 囚人のデー タベースを 構築・ 維 持 し、不定期 に公聴会を 開催するこ との権利と 責任を負う もので あ る。 し かし、 国際 人権規 範に 対する 中国 のコミ ット 、法治 理念 に対す る 政治的同意 は、国内の 政治権・公 民権の状況 を具体的に 改善で き て いない。共 産党政権の 本質は依然 として変わ っておらず 、レー ニ ン スタイルの 政党のまま で、人権・ 法治理念の ために「強 い政権 、 弱 い社会」と いう政治的 関係を改め る用意はな い。中国は 、江沢 民 時 代に、自由 主義を思想 的基礎とす る国際社会 の人権・法 治規範 を 認 めたが、同 時に国を挙 げて国民の 政治権・公 民権を犯す 大規模 な 事件を起こしており、その最も顕著な例は1999 年の中国民主党事件、 同 年に始まっ た法輪功運 動の鎮圧で ある。こう した続く内 外の矛 盾 は、中国の人権ガバナンスの一つの大きな特色となった。

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四 「世界に転換させられるのを阻止する」から「世

界を転換する」へ

1 人権理念に対する中国の認識 2002 年に政権を引き継いだ胡錦濤政権は、江沢民時代の経済の急 速な発展、国際貿易の拡張という経済貿易政策を踏襲した。2009 年 に世界金融危機が発生するまで、中国のGDP 成長率は毎年二桁の勢 いで成長し、中国は世界各地へ投資し、天然資源の獲得に乗り出し、 中 国と西側の 経済貿易及 び安全保障 問題におけ る信頼度は 急速に 高 ま り、中国の 経済貿易に 対する如何 なる制裁や 外交的孤立 も、西 側 に とって極め て不利な政 治的・経済 的結果とな った。また 、言う ま でもないが、2009 年の世界金融危機以降、世界経済の回復を牽引し たのは中国である。 胡 錦濤と 温家 宝政権 につ いては 、当 初いず れも 高い期 待が 寄せら れた。西側諸国や非政府組織は、胡錦濤が1997 年(即ち中国共産党 第15 回全国代表大会以降)から続く江沢民の思想面での開放的姿勢、 制 度改革の歩 みを引き継 ぎ、中国の 人権・法治 を引き続き 改善す る こ とを期待し たほか、胡 錦濤政権一 年目の政策 には、確か に期待 さ せるものがあった。2003 年、中国の公民社会組織や法学者が、広州 で 発 生 し た 孫 志 剛 事 件23を 発 端 に 政 府 に 対 し 公 民 権 の 侵 害 を 訴 え て 抗 議した際、 胡錦濤と温 家宝政権は 孫志剛を致 死させた収 容所の 関 係 者や職員を 断固として 逮捕し、長 年に渡り都 市で実施さ れてき た 浮浪者や乞食を収容・送還する制度を廃止した。

23 2003 年に広州市で臨時居住証明書を持たない地方の青年、孫志剛が収容所に連行さ れ、持病の心臓病が発症したにもかかわらず、職員らに暴行を加えられ死亡した。 この事件を発端に、世論が収容法を廃止させた事件。

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時 を同じ くし て、広 東省 政府と 中国 共産党 中央 公共衛 生部 門は、 SARS の大規模拡散の事実を故意に隠し、引き延ばし、粉飾したため、 死 傷者が増加 し、アジア 太平洋地域 を恐怖に至 らせたとし て、国 際 社 会から非難 された。中 国政府は、 国際社会の 巨大な圧力 の下、 対 応 が不適切だ ったことを 認め、衛生 部長と北京 市長を解任 した。 胡 錦 濤政権の政 治運営は透 明で、政府 関係者の問 責、法治、 世論開 放 等 の各レベル において、 国際社会や 国内の公民 社会に譲歩 したり 、 変化を示したりしたため、中国の知識人は2003-2004 年上半期を「小 春日(中国語:小陽春)」と名付けた。これは、同時期の公民権及び 世 論コン トロ ールが 相対 的に緩 和さ れてい たこ とを意 味す る。2004 年3 月の第 10 回中国人民代表大会第 2 回会議では憲法修正案が可決 され、「国家は人権を尊重し保障する」との文言が前言に盛り込まれ た。 し かし、「小春 日」は浮か んで消える 雲のように 瞬く間に消 えた 。 2004 年の中国共産党第 16 期 4 中全会で胡錦濤が中央軍事委員会主席 に 任命される と、党・政 ・軍の権力 は一身に集 中し、その 政治的 地 位 が安定する と、温厚で 進歩的だっ た政治の形 相は、権威 的・保 守 的 な政治にと って代わら れ、人権の 実践や法治 の進展に強 い圧力 を か ける様々な 措置が採ら れた。胡錦 濤執政下の 中国政府は 、依然 と し て江沢民時 代の人権理 念の認識を 踏襲してい た。これは 即ち、 人 権 の普遍的価 値は認める が、人権が 国家主権を 制約すべき でなく 、 ま た人権によ って政府の 職能や公権 力の根拠を 制約しては なない こ と を堅持し、 逆に国家に 主権がなけ れば、人権 もなく、政 府が人 権 の 保障や推進 において欠 かすことの できない役 割を担うこ とを強 調 す るものであ る。経済建 設が成果を 上げ、国民 所得も明ら かに向 上 し 、社会保障 制度も徐々 に改善され たため、胡 錦濤時代の 中国政 府 は 江沢民時代 よりも自信 を持ち、国 民の権利は 、中国が西 側の自 由

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民 主主義とは 異なる政治 経済体制の 実施を堅持 することで ようや く 保 障・改善さ れると考え 、彼らはこ うした党が 国を主導し 、社会 の 自主 的な人権保 障を抑圧す る優越性に より自信を 持つように なった 。 2 中国が制定した国内の人権関連政策及び制度 2004-2005 年、胡錦濤が指導する中国は、共産党の権威主義体制に 潜 在的に挑戦 しようとす る国内の社 会運動や法 律擁護運動 に気づ い て いながら、 他方では、 かつてのソ ビエト連邦 で急速に広 まった 色 の革命(Color Revolutions)が国内の反政治運動を刺激することを懸 念した24。中国共産党員の政治的忠誠と思想的な純粋さを確保するた め、中国の中央組織と宣伝部は2005 年 1 月に党員の先進性保持教育 を全国規模で展開し、同運動は18 カ月間も継続され、同期間、党員 に対し、中国国内で色の革命が発生しないよう強調し続けた。 ほ ぼ同時 期、 中央政 府の ニュー ス及 び宣伝 管理 部門は 一連 の新た な 法規を公布 し、新聞記 者の職業権 益、新聞報 道の内容と 放映の 方 法を厳格に制限し、新聞出版業やインターネット業界の協会を通じ、 出 版物やネッ トコンテン ツに対して 細かく自己 審査するよ う要求 し たため、言論空間は2005 年末から全面的に縮小した。2005 年 12 月、 中国宣伝部は突如、自由な色彩が強い新京報の総編集者及び 2 名の アシスタント編集者の解任、また2006 年 1 月には、中国青年報傘下

24 かつてソ連に属していたグルジア、ウクライナ、キルギスでも 2003-2005 年に相次 いで類似する動きが発生し、お互いに大規模な街頭デモを学習し合い、各大都市に 影響が及び、首相の辞任や中央政府の改組を招いた。国際メディアはこうした政治 的動乱を「色の革命」と呼んでいる。これにかかる中国の指導者の認識と防衛措置 については以下を参照のこと。Titus C. Chen, “China’s Reaction to the Color Revolutions: Adaptive Authoritarianism in Full Swing,” Asian Perspective, Vol. 34, No. 2 (June 2010), pp. 5~51.

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の氷点週刊の総編集者の解任を要求した。 他方、中国民政部は2005 年 3 月、非政府組織管理条例を新たに発 布 し、民間組 織、特に中 国国内の民 間組織と海 外のスポン サーグ ル ー プとの関係 のコントロ ール強化に 乗り出した 。中国司法 部に管 轄 されている中華全国弁護士協会も政治的圧力の中で、2006 年 3 月、 大 規模衝突事 件の代理弁 護士に地方 政府と緊密 に連絡を保 つよう 要 求 し、また各 地の弁護士 会に対して は大規模事 件の訴訟プ ロセス を フォローするよう求めた。 色の革命の 発生阻止及 び国内の自 主的な公民 社会発展に 対する 制 約 に成功する と、胡錦濤 政府は政権 運営の重点 を北京オリ ンピッ ク の 準備へと移 した。中国 政府はオリ ンピック開 催期間中の 政治・ 社 会 秩序を非常 に重視して いたため、 国内安全保 障の政治法 律シス テ ムに責任を負う部署は、2007 年から大幅にその権力を拡大した。財 政 面では、国 内の安全( 公安部、検 察院、裁判 所、武警を 含む) に 関する予算の年増加幅は、2007 年以降、政府総予算の増加幅を大幅 に 上回ってお り、国内安 全保障予算 の総額は国 防予算の総 額に急 速 に追いつき、2011 年にはついに国防予算を超え、現在までこれを維 持 している。 人事政策に ついてみる と、中共中 央政法委員 会書記 兼 公安部部長だった周永康が2007 年の中共第十七会全国大会で破格の 抜 擢により、 中央委員会 政治局常務 委員となっ た。これは 胡錦濤 政 権第二期の 5 年間が、国内安全保障問題を非常に重視していること の 現れであり 、各省レベ ルの法政委 員会書記も 例外なく省 常務委 員 会のメンバーとなった。 中国におけ る人権・法 治に大きな 影響を与え たもう一つ の胡錦 濤 の人事決定は、2008 年に、政治的に保守的な中国共産党中央政法委 員 会秘書長で あった王勝 俊を中国最 高人民法院 院長に任命 し、改 革 派 だった蕭揚 ・同院長を 退任させた 件である。 安徽省公安 庁長だ っ

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た 王勝俊には 法学のバッ クグラウン ドは全くな く、任期中 には所 謂 「 三つの至上 」と呼ばれ る審判基準 を大々的に 提唱したが 、これ は 中 国の長期政 権が中国司 法業務の最 高の政治目 標であるこ とを示 し ている25。王勝俊が指導する最高人民法院は、審判と社会的安定を維 持する政治任務を「有機的に結合」することを提唱し、「人民司法」 の 理念を改め てアピール し、各レベ ルの裁判所 に「調停( 中国語 : 大調解)」の審判政策を推進するよう要求した。こうした保守的にし て 大衆主義的 な司法政策 は、明らか に司法改革 がもともと 強調し て い た専門家・ 法治化路線 とはかけ離 れたもので 、裁判官の 法に依 拠 した独立審判のレベルを制約するものである。 組織機能の 拡大につい てみると、 周永康が中 央維護穩定 工作指 導 小組組長も兼任していたことから、1998 年に発足した同小組(中央 政法委員と合同)は2007 年に定員・予算・設備を充実させ始め、下 に も拡大して 、各レベル の党委員会 においても 安定維持弁 公室が 設 置 され、急速 に中央法政 システムが 管轄する重 要な副次的 システ ム と なった。オ リンピック 開催準備の プレッシャ ー、政治法 律部門 の 権 利拡大、安 定維持の広 がりのせい で、国家安 全保障が脅 かされ る との理由による逮捕者数・起訴件数は2006 年以降大幅に跳ね上がり、 2008-2009 年には、チベット暴動、オリンピック開催、新疆・ウイ グルの暴動もあって、国家安全危害罪による逮捕者・起訴件数は年々 大幅に増加し、高止まっている。とりわけ、2003-2004 年において

25 「三つの至上」の政治指導は、司法と法の施行者に「党事業の至上、人民の利益の 至上、憲法法律の至上」の原則に基づき事件を処理するよう要求するもの。「三つの 至上」の政治指導は、胡錦濤・中国共産党総書記が2007 年 12 月 26 日に開催された 全国政法工作会議代表及び全国大法官、大検察官座談会で提起したもので、2008 年 3 月に王勝俊が最高人民法院院長に就任すると、裁判所システムにおいて大々的に推 進された。

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は 、社会的に 肯定され、 政府も容認 していた公 益弁護士や 法律関 係 者 についても 、その組織 力が地域・ 階級を越え ており、法 律を武 器 に 集団的政治 行動を起こ す能力があ るとみなさ れたため、 徐々に 国 内安全保障部門の攻撃の対象となった。 2007 年の中国共産党第 17 回全国代表大会では、胡錦濤の後継者と して政治局常務委員の習近平体制が確立され、2008 年 1 月には、中 央 オリンピッ ク工作指導 小組組長の 重任を任さ れ、副組長 には中 央 政 法委員書記 の周永康が 任命された 。習近平と 周永康の協 力体制 は 所 謂「オリン ピックの無 事」を任務 としており 、その重点 は国全 体 の 安全保障リ ソースをオ リンピック 開催予定地 の北京に投 入し、 空 前 の人材と財 力を大規模 投入して、 北京及び周 辺に対し複 合的に 動 員し、準軍事コントロールを敷くことにおかれた26。同モデルは、オ リンピック期間における北京の安全を確保したが、中国は2001 年に 国 際社会に対 しコミット した人権を めぐるコミ ットメント を履行 し な かった。実 際、北京市 政府は三つ の公園を国 民のデモ活 動の場 と する計画を発表したが、デモ申請は一件も承認されなかった。 政治法律システムをめぐる権力の維持・安定は、2011 年末にピー ク を迎えたが 、これは即 ち同時期は 中国の人権 と法治が最 も悪い 状 態 にあったこ とを意味す る。しかし 、人権宣伝 機構が活動 をやめ た と か、解散さ せられたと いうわけで はなく、反 対に胡錦濤 政権第 二 期の 5 年間が、中国の人権宣伝部門が極めて活発に活動し、以前よ り 多くの予算 を獲得して いたことを 意味する。 中国人権研 究会( 即 ち国新弁第七局)は、2008 年から、毎年北京人権フォーラムを開催 し て、世界各 国、国際組 織から広く 人権学者や 専門家を招 聘し、 同

26 楊中美『習近平-站在歷史十字路口的中共新領導人』(台北:時報文化出版社、2011 年)、頁193~7。

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フ ォーラムを 通じて中国 の調和のと れた人権観 を宣伝して いる。 国 務 院新聞弁公 室は、中国 が初めて国 連人権理事 会の第一回 普遍的 定

期審査(Universal Periodic Review、UPR)を受ける前夜、第一回年

度国家人権行動計画を発表し、2012 年にも 3 年計画の第二回国家人 権 行動計画を 再び発表し た。しかし 、同計画の 内容は主に 、中国 の 各 部門が間も なく実施す る国民の権 利に影響を 与える法案 や措置 の と りまとめで あり、人権 をめぐる政 府の大幅な 改革推進と いった 類 のものではない。 国務院新聞 弁公室と教 育部は協力 して、重点 大学におけ る人権 コ ースの開講、人権問題にかかる教員の育成を推進し、2012 年には、 中 国政法大学 、天津大学 、広州大学 に人権研究 院を設立し 、教員 と 教 学設備が拡 充され、政 府関係者に も在職コー ス進学の機 会が開 か れ た。また、 北欧の人権 研究機構は 、人権関連 の学位プロ グラム や コ ースが、半 年毎に全国 規模で開催 している大 学人権教育 法シン ポ ジ ウムのスポ ンサーとな っており、 最近では成 都の四川大 学でシ ン ポジウムが2 回開催されている。 し かし、 人権 を宣伝 する 機関と 実際 に人権 に影 響を与 える システ ム が乖離して いるため、 人権政策制 定の影響力 や人権政策 実施の 監 督機能は欠けている。1990 年代の人権宣伝機構の開設に始まったこ う した構造的 な問題は、 これまで解 決されてお らず、中国 政府は 自 国 の人権観を 一方的に宣 伝し、シス テム的に国 民の人権を 迫害し て い る。中国の 人権宣伝と 研究に関す る機構は、 各レベルの 政府が ひ っ きりなしに 起こす人権 侵害事件に 口を挟むこ とができず 、劉曉 波 の拘 束や陳光誠 の迫害とい った重大事 件について も全く声を 上げず 、 中 国共産党権 威主義政治 において、 あってもな くてもいい 優美な お 飾 りとなって いる。中国 の人権の宣 伝と実践の 落差は、胡 錦濤第 二 期政権の5 年間に明らかに拡大した。

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安 定の維 持に 対する 中国 の重視 は、 重慶の 指導 者にマ フィ アを一 掃 するとの大 義名分の下 、大規模な 人権侵害を 許した。当 時、重 慶 市党委員会書記だった薄熙来は2009 年 7 月に「マフィア撲滅運動」 を 展開し、猖 獗なマフィ ア社会を西 南の大都市 から追い払 うと宣 伝 し た。しかし 、薄熙来は マフィア社 会を撲滅し たのみなら ず、民 間 の 中・大企業 のオーナー や、マフィ アと関係が あったり、 政敵で あ る と薄熙来が みなした政 府関係者も 監視・迫害 の対象とし た。重 慶 市公安局は、2009 年に 200 余りの秘密プロジェクトグループを立ち 上げ、2010 年 5 月までに合計 4800 人近くを逮捕し、「早く、重く、 厳 しく」の原 則により、 様々な違法 な方法、反 人道的な聴 取方法 を 常套手段として、マフィア撲滅行動を展開した27。重慶市法政委員は、 検 察院及び裁 判所に対す る指導とコ ントロール を強化し、 マフィ ア 訴 訟案の結果 が薄熙来の 要求と合致 するよう努 めた。マフ ィア撲 滅 行 動は、犯罪 容疑者を弁 護する法律 関係者にも 及び、例え ば、北 京 か ら重 慶に移 り鞏 剛模事 件を 担当し た弁 護士・ 李庄 は、2009 年 12 月に重慶市検察院より証拠隠滅、証拠捏造、証言妨害等の罪で1 年 6 ヶ月の判決を受けた。 2012 年、中国の安定維持体制には劇的な変化が生じた。王立軍・ 重 慶市副市長 (当時)が 米駐成都領 事館に駆け 込み、谷開 来(薄 熙 来 夫人)が英 国人実業家 ニール・ヘ イウッド氏 殺害事件に 関与し た ことを受け、中央は2012 年 3 月 15 日、薄熙来を重慶市委員会書記・ 常務委員から解任し、4 月 10 日には薄熙来の中央政治局員・中央委 員の職を免職し、中央紀律調査委員会に本件を調査させた。同年、9

27 「童之偉:重慶逆流及其教訓-在『依法治國與重慶教訓』研討會上的發言」『陳有西 學術網』2012 年 12 月 4 日、http://wq.zfwlxt.com/newLawyersite/BlogShow.aspx?itemid= a9afa340-fd53-4f42-b9a1-a11d01496e9f&user=10420。

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月28 日、党中央は薄熙来の党籍を剥奪し、一切の政府職務を免職し、 司 法部に移送 し、調査・ 起訴させた 。同時に、 中国社会の 各界は よ う やく薄熙来 時代の重慶 市政府の人 権侵害を暴 露し、批判 した。 法 学 者や法曹界 は、安定維 持体制によ る行き過ぎ た権力の拡 大や操 作 が 、かえって 社会の不調 和を引き起 こし、政治 的により不 安定な 局 面が生じたとの見方を相次いで公に表明した。 社 会的安 定の 名の下 、薄 熙来が 人権 侵害を 行っ て法治 プロ セスを 踏 みにじった 事実、これ に対する社 会運動家の 反発は、中 央の指 導 者 に、政治法 律システム の安定・維 持にかかる 権力が過度 に拡張 し て おり、節制 が必要であ ることを認 識させた。 そして、中 国共産 党 第18 回全国代表大会では、中央政法委員書記から政治局常務委員を 外し、中央政法委員会の政治的影響力が今後 2 年においては過去ほ ど強くならないようにしたため、2012-2013 年は 2003-2004 年を彷 彿 させる年と なった。中 国法治の発 展に対する ウォッチャ ーは、 薄 熙 来が解任さ れる前後か ら、すでに 大勢の人権 擁護派弁護 士が労 働 教 養制度の冤 罪案件に公 に介入し、 彼らと政府 とのやりと りをネ ッ ト 通じて世界 に広げ、政 府に大きな 圧力をかけ 始めたこと に気づ い ていた28。その結果、公安部の権力は縮小され、「不法行為矯正法(中 国語名:違法行為矯治法)」といった重要な立法業務にも進展が見ら れた。

28 中国人権擁護派の弁護士らは 2010 年から結束し始め、国家に迫害された刑事弁護士 や不公正な仕打ちを受けた刑事、労働教養案件の当事者を支援し、法的弁護を行っ ている。例えば、2010 年 5 月に河南省商丘市で発生した趙作海案、2011 年 3 月に重 慶で漏えい罪に問われた李庄案、2011 年 6 月に広西省北海市で発生した行政裁判聴 取における自白強要、偽証罪による弁護士の告訴、2011 年 11 月に貴州貴陽で発生し た小河案等がある。こうした労働教養制度及び弁護士偽証罪等の冤罪事件の経過に ついては、陳宥任「中國大陸刑事訴訟制度的改革邏輯(1997-2012):『國家-社會』 關係理論的視角」國立清華大學社會所碩士論文(2013 年)、第四章を参照のこと。

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3 国際人権保障制度に対する中国の政策 21 世紀の中国はもはや 1980 年代、1990 年代の中国ではなく、国 際 社会からの 非難に怒り を抑えて我 慢すること はなくなっ た。西 側 諸 国は中国と の定期的な 人権対話を 何とか維持 したが、そ の政治 的 影 響力はかつ てほどでは なくなり、 中国は西側 諸国が人権 対話に 乗 じ て政治犯の 待遇を議論 することを 受け入れな くなったほ か、中 国 の 政府関係者 はより積極 的に、より 具体的に、 特に反テロ 戦争に お け る戦争俘虜 への虐待や 無差別殺人 といった西 側諸国の人 権侵害 案 を議論しようとするようになった29 総合国力の向上により、中国は胡錦濤政権以降(特に2007 年以降)、 人 権問題で守 りに入るの ではなく主 導的に攻撃 するように なった た め、西側諸国は逆に受け身に入った。中国は、2009 年以降、人権対 話 の政府レベ ルを落とし 、人権対話 開催の頻度 を少なくす るよう 要 求 し始めた。 中国の関係 者筋による と、現在、 西側諸国の ほうが 同 人 権対話チャ ンネルの維 持を必要と しており、 中国は、西 側諸国 が 国 際的な人権 保護団体か ら非難され ないよう、 渋々人権対 話の開 催 に付き合っていると指摘した30。そればかりか、中国と第三世界の各 国 は密接に協 力し、国際 人権規範・ 制度を変え ることに成 功し、 人 権 における経 済権・社会 権の相対的 位置づけを 向上させ、 新たに 設 立 された国連 人権理事会 をこうした 人権状況が 芳しくない 国家に よ り有利となるようにした31。

29 作者訪談 EU 駐中国代表部政治部官員への筆者インタビュー(2007 年 9 月、北京)。 30 中国外交部国際司官員への筆者インタビュー(2012 年 9 月、北京)。

31 Rana S. Inboden and Titus C. Chen, “China’s Response to International Normative Pressure:

The Case of Human Rights,” The International Spectator, Vol. 47, No. 2 (June 2012), pp. 45~57.

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五 習近平時代の中国の人権ガバナンス

習近平は、2012 年 11 月の中共第 18 回全国人民代表大会で中国共 産 党総書記に 就任すると 同時に、最 も重職であ る中国共産 党中央 軍 事委員会主席にも就任し、続く2013 年 3 月の中国全国人民代表大会 で は中国国家 主席に選出 され、三位 一体の最高 指導者とな る後継 プ ロ セスを完了 させた。習 近平が継承 する中国は 、国際的影 響力が ま す ます向上す る世界第二 の経済体で あるが、国 内の経済発 展はボ ト ル ネックに直 面し、社会 改革エネル ギーが日増 しに強くな り、周 辺 諸 国との関係 が芳しくな い脆弱な大 国である。 習近平と李 克強は い ず れも文化大 革命の洗礼 を受けてお り、党内で は人々の気 持ちを 結 束 さ せ る の に 長 け て い る と 言 わ れ 、 そ の 過 去 の 言 動 は い ず れ も 公 平 ・正義や公 民権の保障 を訴える社 会に関心を 示すもので ある。 中 国 政治の一部 のウォッチ ャーは、人 権保障や法 治における 「習李 体 制 」に対して 期待を寄せ ており、中 国政府のこ こ半年の政 策から し ても、比較的楽観的な印象を与えているようである。 例 えば、 習近 平就任 後、 演説の 中で 「中国 の夢 」を実 現さ せると 述べている。「中国の夢」の中身ははっきりしないが、比較的柔軟温 和 で侵略的な 意味合いを 持たない言 い方には、 確かに社会 を共鳴 さ せるものがある。そのうえ、習近平は 12 月 4 日の憲法公布 30 周年 記 念会議にお いて法に基 づく統治、 法に基づく 行政を強調 し、特 に 以 下を 強く訴 えた―「我々は法に基づき、全国民が広範な権利を享 受 できること 、国民の人 身権、財産 権、基本的 政治権等の 各権利 が 侵 害されない こと、国民 の経済・文 化・社会等 各方面の権 利が着 実 な ものとなる ことを保障 し、国民の 根本的利益 が最大限に 維持・ 保 護 されるよう 努力し、国 民が豊かな 生活に対し 憧れ、これ を追及 す ることを保障する」。習近平が強調したこの法に基づく統治及び国民

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の 権利の保障 は、メディ アから習近 平の「憲政 の夢」と呼 ばれて い る32。 さ らに、 中国 共産党 中央 政法委 員書 記、国 務院 政務委 員の 孟建柱 は、2013 年 1 月、違憲の恐れがある労働教養制度(略称:労教)の 廃止を公に宣言し、国内及び国際社会から高い評価を得た33。新たに 最 高人民裁判 法院長に任 命された周 強は、司法 に携わった 経験は な い が、大学や 研究所では 法学を専攻 し、党内で も制度改革 寄りの 人 物 であるとみ られている 。周強の就 任以降、最 高人民法院 が王勝 俊 の 強 く 主 張 し た 三 つ の 至 上 を 強 調 す る こ と は な く な り 、「 公 正 な 司 法の強化、法に基づく統治の推進」をスローガンとした34。中国共産 党中央政治局委員、国務院副総理の職にある李源潮は、1990 年代初 期 には国新弁 第一局長を 担当し、中 国初の人権 白書の全編 纂過程 に 参 与しており 、中国のハ イレベル指 導者の中で は、人権の 理念を 最 も 熟知してい る人物であ る。もう一 人、政治局 委員及び国 務院副 総 理 の職にある 汪洋は、広 東省省委書 記を務めて いた期間に 、制度 改

32 「習近平:在首都各界紀念現行憲法公佈施行 30 周年大會上的講話」『新華網』2012 年12 月 4 日、http://news.xinhuanet.com/politics/2012-12/04/c_113907206_2.htm。 33 中国の労働教養制度は一種の行政処罰制度であり、1955-1956 年にあった反革命分子 に対する労働改造制度に起因する。現行の労働教養制度の法的根拠は主に公安部が 1982 年に発布した『労働教養試行方法』と、同部が 2002 年に発布した『公安機関の 労働教養案件処理規定』である。労働教養期間は1~3 年で、必要な場合は 1 年の延 長が可能。労働教養管理機構は「労働教養管理委員会」で、各地の公安、民政等の 部門が共同管理する。中国の法学者、人権擁護派弁護士、国際人権組織は、労働教 養制度が警察に掌握され、効果的な人権救済のチャンネルやバランス均衡のメカニ ズムがなく、反対意見を唱える者に対する政府の報復措置手段となっているとして 批判している。 34 「周強在最高法院黨組學習貫徹兩會和中央政法委第三次全體會議精神時、強調積極 順應人民群眾新要求新期待、不斷把人民法院工作推向前進」『中國法院網』2013 年 3 月23 日、http://www.chinacourt.org/article/detail/2013/03/id/930324.shtml。

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革 派前衛のイ メージを作 った。国民 の法に基づ く抗争、公 民社会 の 管 理、非政府 組織の発展 等の問題を めぐる進歩 的な対処方 法は、 い ずれも他の省に先駆けたものであったし、李克強がかつて1980 年代 初 期に後に民 主運動家と なった学生 と交流して いたことは 言うま で も ない。少な くとも、習 近平の政権 運営グルー プにおいて は、制 度 改 革の傾向が あったり、 憲法を尊重 する人物が 重要なポジ ション に あ ることから 、人権の推 進や法治面 で、確かに 期待できる ところ が ある。 し かし、 中国 の政策 決定 はいず れも 民主主 義的 中央集 権制 ・集団 的指導の産物であり、今政治局常務委員 7 名のうち少なくとも 3 名 ( 張高麗、張 德江、劉雲 山)は比較 的保守的で あることを 忘れて は な らない。現 に、一方で は人権侵害 の懸念があ る労働教養 制度の 廃 止 を宣言しな がらも、他 方では、全 国規模のメ ディアに対 し、全 面 的で細かく複雑な世論コントロールを行っている。例えば、『南方周 末 』新年特別 号差し替え 事件をめぐ っては、中 国のメディ アコン ト ロ ール、出版 の自由、言 論の自由に 対する抑圧 に、国内外 からの 批 判が高まった。政治的に相対的に保守的な宣伝システムは、2013 年 5 月から大掛かりな反撃を開始し、何社かの中央メディアは、「憲政」 と いう表現は 資産階級の 政治理念で あり、中国 社会主義政 治体制 に は 不適当で、 中国人は西 側の思想に 惑わされる べきでない と警告 し た35。同月、中国共産党中央宣伝部は、教育部に対し、若い大学教授

35 孫臨平「我們信仰的主義 乃是宇宙的真理」『解放軍報』2013 年 5 月 22 日、 http://www.chinamil.com.cn/jfjbmap/content/2013-05/22/content_36307.htm;鄭志學「認清 『憲政』的本質」『黨建』2013 年 5 月 29 日、http://theory.people.com.cn/BIG5/n/2013/ 0529/c83855-21652535.html;中國社會科學院中國特色社會主義理論體系研究中心「堅 定『三個自信』:堅定不移走中國道路」『人民日報』2013 年 5 月 31 日、http://theory. people.com.cn/n/2013/0531/c49150-21684041.html;中國社會科學院中國特色社會主義理

參考文獻

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大きく違う点は、従来の BASIC ではプログラムの実行順序はプログラム作成時に予め決 めたとおりに実行する定義型であるの対し、Visual

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Ambedkar and Untouchability: Fighting the Indian Caste System, New York: Columbia University Press, 2005 , p.121.. Christopher Jaffrelot,

Asia, and the History of Philosophy: Racism in the Formation of the Philosophical Canon, 1780–1830, New York: State University of New York Press, 2013) 等人 的 研 究。Garfield

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15 Pierce Salguero ed., Buddhism and Medicine: an anthology of Premodern sources, New York: Columbia University Press, 2017.. Pierce Salguero ed., Buddhism and Medicine: