附錄(一)
賴明弘之作品目錄與主要文化活動
編 號
發表作品篇名 發表之刊物 時間 註
1915(大正 4)年 9 月 5 日生於豐原,本名賴銘煌。
1931(昭和 6)年 12 月 24 日於《台灣新聞》發表〈做個鄉土人的感想〉(包括此篇文章在內,
1932 年發表的部分討論鄉土文學之篇章,目前散佚未見)後,開始加入鄉土文學•台灣話文論 爭,支持中國白話文與普羅文學。
1 俺達の文学の誕生について--一 つの提議
台灣文學 2 卷 1 號
1932 昭和 7 年
2 月 1 日 18 歲
2 兩個駁論 台灣文學
2 卷 3 號
1932 昭和 7 年
6 月 25 日 18 歲 3 對最近文壇上的感想(一) 新高新報
337 號
1932 昭和 7 年
8 月 26 日 18 歲 4 對最近文壇上的感想(二) 新高新報
340 號
1932 昭和 7 年
9 月 16 日 18 歲 1933(昭和 8)年 7 月,與賴慶獲聘《新高新報》特約記者。
5 「文藝春秋」專欄 新高新報 390 號
1933 昭和 8 年
9 月 8 日 19 歲 6 「文藝春秋」專欄 新高新報
391 號
1933 昭和 8 年
9 月 15 日 19 歲 7 「文藝春秋」專欄 新高新報
392 號
1933 昭和 8 年
9 月 22 日 19 歲 8 對 鄉 土 文 學 台 灣 話 文 徹 底 的 反 對
(一)
台灣新民報 954 號
1933 昭和 8 年
10 月 16 日 19 歲 9 對 鄉 土 文 學 台 灣 話 文 徹 底 的 反 對
(二)
台灣新民報 956 號
1933 昭和 8 年
10 月 18 日 19 歲 10 對 鄉 土 文 學 台 灣 話 文 徹 底 的 反 對
(三)
台灣新民報 957 號
1933 昭和 8 年
10 月 19 日 19 歲 11 對 鄉 土 文 學 台 灣 話 文 徹 底 的 反 對
(四)
台灣新民報 958 號
1933 昭和 8 年
10 月 20 日 19 歲 12 對 鄉 土 文 學 台 灣 話 文 徹 底 的 反 對
(五)
台灣新民報 959 號
1933 昭和 8 年
10 月 21 日 19 歲 1934(昭和 9)年 2 月 2 日,《新高新報》第 410 號「漢文總支社啟事」刊載,漢文欄為期與和 文並駕齊驅而做出人事更動,賴明弘名列編輯擔當者。
13 論戰 絕對反對建設台灣話文推翻一 切邪說(一)
新高新報 410 號
1934 昭和 9 年 2 月 2 日
20 歲
14 論戰 絕對反對建設台灣話文推翻一 切邪說(二)
新高新報 411 號
1934 昭和 9 年
2 月 9 日 20 歲 15 論戰 絕對反對建設台灣話文推翻一
切邪說(三)
新高新報 412 號
1934 昭和 9 年
2 月 16 日 20 歲 16 「新高評論」專欄 新高新報
412 號
1934 昭和 9 年
2 月 16 日 20 歲 17 論戰 絕對反對建設台灣話文推翻一
切邪說(四)
新高新報 414 號
1934 昭和 9 年
3 月 2 日 20 歲 18 論戰 絕對反對建設台灣話文推翻一
切邪說(五)
新高新報 415 號
1934 昭和 9 年
3 月 9 日 20 歲 19 論戰 絕對反對建設台灣話文推翻一
切邪說(六)
新高新報 416 號
1934 昭和 9 年
3 月 16 日 20 歲 20 論戰 絕對反對建設台灣話文推翻一
切邪說(七)
新高新報 417 號
1934 昭和 9 年
3 月 23 日 20 歲
【備註】《新高新報》418 號刊載〈領臺以來の大思想犯 臺共公判開始──果して全被告がマ ルキスト?辯護人の意見を聽く〉,之後在新高新報上大幅報導一系列被審判人的相關介紹。賴 明弘的連載有此號開始便暫停刊出,到一個月後再刊,422 號同時刊出〈吾島空前未有之全島文 藝大會──訂來五月六日之佳日,各地文星將集於臺中〉。之後陸續有關於台灣文藝的報導。
21 論戰 絕對反對建設台灣話文推翻一 切邪說(完)
新高新報 422 號
1934 昭和 9 年
4 月 29 日 20 歲 1934(昭和 9)年 5 月 6 日,參加第一次台灣文藝聯盟大會。
22 哀春榮先生 台灣新民報 1934 昭和 9 年 4 月
缺 20 歲 23 敬呈全島文藝同志書 台灣新民報 1934 昭和 9 年
5 月 20 歲 1934(昭和 9)年 5 月 6 日,和張深切與林越峰等糾和召開第一回全島文藝大會,結成台灣文藝 聯盟。11 月發刊《台灣文藝》。
1934(昭和 9)年 5 月 15 日,《新高新報》「編輯餘墨」刊登「本報漢文欄編輯主任賴明弘氏,
邇來身體漱弱,有害健康,是故乃辭厥職,欲渡內地,轉地靜養,本報諸同人,莫不為之惋惜 也。」
1934(昭和 9)年 10 月 5 日,《新高新報》「編輯餘墨」刊登「本社前漢水編輯主任賴明弘因健 康上辭退後上京靜養,現住在東京市本鄉區本鄉一丁目十三之二、定兼方。」
1934(昭和 9)年 10 月,楊逵〈新聞配達夫〉登上日本文壇,發表在《文學評論》。
24 讀者評壇——殖民地文學指導せよ 東京:文學評論 1 卷 9 號
1934 昭和 9 年
11 月 1 日 20 歲 1934(昭和 9)年 11 月 5 日,台灣文藝聯盟的機關誌《台灣文藝》創刊號發行。
1934(昭和 9 年)12 月 2 日,與蔡嵩林訪問郭沫若於東京。
25 郭沫若先生的信 台灣文藝 2 卷 2 號
1935 昭和 10 年
2 月 1 日 21 歲
26 訪問郭沫若先生 台灣文藝 2 卷 2 號
1935 昭和 10 年
2 月 1 日 21 歲 1935(昭和 10)年 3 月 30 日,《新高新報》「編輯餘墨」刊登「元本報漢文部編輯賴明弘君自 去年九月初旬,抱遠志而負笈東都,在京研究文藝,稗益斯途不尠,此回歸來,仍在本報編輯部 活躍,幸祈讀者諸彥,倍舊愛顧,是荷。」
1935(昭和 10)年 4 月 20 日,《新高新報》第 470 號「編輯餘墨」刊載「前般所聲明本報漢文 欄編輯係賴明弘君『自東都歸台後,仍在編輯部活躍之事』奈因同氏依然身體軟弱,現在自宅靜 養中,數日前曾寄郵到社,聲明辭退云。」
1935(昭和 10)年 4 月 21 日發生大地震,中部受災嚴重,賴明弘和文聯同人一起投入救災。
27 漢譯:森次勳〈中國文壇的近況〉 台灣文藝 2 卷 5 號
1935 昭和 10 年
5 月 5 日 21 歲 28 感想•書信——我們目前的任務
(與此同時,也刊載了台灣文藝與在京台灣 人刊物『フオルモサ』合流的消息)
台灣文藝 2 卷 5 號
1935 昭和 10 年
5 月 5 日 21 歲
1935(昭和 10)年 5 月到 6 月,圍繞文聯的編輯論爭先由惡龍之助點燃,後因 6 月 1 日楊逵回應 贊成惡龍之助而擴大,論爭延燒整個 6 月。
1935(昭和 10)年 6 月 8 日,《新高新報》刊登【社告 漢文總支社記者 賴明弘 右記今般依 願退社,特此社告】,正式宣布賴明弘退職。
1935(昭和 10)年 6 月 10 日,《台灣文藝》「編輯後記」刊登「編輯のことは次號から楊逵 氏、賴明弘氏、陳瑞榮氏に援兵して貰ひます」,賴明弘加入台灣文藝雜誌編輯群。
29 編輯後記 台灣文藝
2 卷 7 號
1935 昭和 10 年
7 月 1 日 21 歲
30 編輯後記 台灣文藝
2 卷 8、9 號
1935 昭和 10 年
8 月 4 日 21 歲 1935(昭和 10)年 8 月 11 日,參加第二次台灣文藝聯盟大會。
31 詩〈病褥吟之一〉、〈病褥吟之 二〉、〈病褥吟之三〉
台灣新聞之原文未 見,引自月中泉漢譯
1935 昭和 10 年
10 月 21 歲 1935(昭和 10)年 12 月,協力台灣新文學社,與鄭定國、林快青、賴明弘、江燦林四人提倡殖 民地文學理論,並開始創作之路。
32 反省と志向 台灣新文學
1 卷 1 號
1935 昭和 10 年
12 月 28 日 21 歲 33 台灣新文學社第二回檢討會 台灣新文學之新文學
月報(第一號)
1936 昭和 11 年
2 月 6 日 22 歲
34 明信片 台灣新文學之新文學
月報(第一號)
1936 昭和 11 年 2 月 6 日
22 歲
35 小說〈夏〉 台灣新文學
1 卷 2 號
1936 昭和 11 年 3 月 3 日
22 歲
36 小說〈魔の力——或ひは一時期〉 台灣新文學 1 卷7號
1936 昭和 11 年 3 月 3 日
22 歲
37 小說〈結婚した男〉 台灣新文學 1937 昭和 12 年 23 歲
2 卷 2 號 1 月 31 日
1937 年(詳細日期不明)大阪朝日新聞的「南島文藝欄」刊登賴明弘〈臺灣作家の行くべき 途〉。
38 《台灣日日新報》刊載賴明弘小說
〈 秋 風 立 つ 〉 入 選 佳 作 , 小 說 未 見。
台灣日日新報 第 13435 號,頁 8
1937 昭和 12 年 8 月 18 日
23 歲
39 〈 隨 感 — — 新 し き 年 を 迎 へ て 〉
(二回連載)
台灣新民報 1938 昭和 13 年 1 月 1、3 日
缺 24 歲 40 詩〈或る少女の墓前を捧げる〉 台灣新聞 1938 昭和 13 年
5 月 27 日
缺 24 歲 41 小說〈曇花〉
(三回連載)
台灣新民報 1938 昭和 13 年 12 月 8∼10 日
缺 24 歲 1939(昭和 14)年 12 月,前進中國戰區,任記者一職。
42 鄉土隨筆集〈行雲片片〉 台灣新民報 1939 昭和 14 年 5 月 7 日
缺 25 歲 43 〈或旅行者の手記〉
(三回連載)
台灣新聞 1940 昭和 15 年
1 月 24、27、31 日 26 歲 44 劇作〈或る夜の出來事〉 台灣新聞 1940 昭和 15 年
3 月 23 日 26 歲 1941(昭和 16)年 5 月 4 日,回台結婚。
45 〈公餘漫記〉 台灣藝術 1943 昭和 18 年 9 月 1 日
缺 29 歲 46 〈重見祖國之日——台灣文學今後
的前進目標〉
上海 新文學(半月刊)
1946 民國 35 年
2 月 32 歲 47 〈六•一七有感〉 和平日報「新世紀」
副刊,第 18 期
1946 民國 35 年
6 月 17 日 32 歲
49 〈光復雜感〉 新知識
第 1 期
1946 民國 35 年
8 月 15 日 32 歲 1948(民國 37)年 8 月 1 日,與廖毓文任台灣省通志館協纂。
1954(民國 43)年,台北市文獻委員會發行的《台北文物》,計畫出刊「新文學、新劇運動專 號」,邀請到日治時期從事這些運動的工作者會聚一堂。
50 〈台灣文藝聯盟創立的斷片回憶〉 台北文物 3 卷 3 號
1954 民國 43 年
12 月 10 日 40 歲 51 〈豐原志初稿〉 中縣文獻
第 1 期
1955 民國 44 年
6 月 41 歲 1956(民國 45)年,台語片「薛平貴與王寶釧」的熱賣,帶動了往後數年間台語片的熱潮,賴明 弘、林越峰等人加入豐原臺灣影業公司的班底,賴明弘在當時曾任電影〈血戰噍吧哖〉編劇。
1958(民國 47)年 3 月 29 號逝世於豐原,享年 44 歲。
附錄(二)
賴煌〈或旅行者の手記〉
(一)
一月六日 快晴
旅を好まない性分ではあるが氣分の轉換と人生再出發の意味で明治温泉ゆきを決行 した。自分に取つて此の新しい年頭真劍に再出發を誓つた事はなかつた。
向ふべき道は判然と解つてゐながら確かに自分は岐路にさ迷ふてゐる。
何故さ迷ふか!それは云ふ迄もなく非知性の結果であつた。
今年はその岐路を決然と自己の知性に向つて前進したい。
「宿命」私の常用語であるがそれは諦められない諦めの世界に沈淪してゐるのでは なからふかそして自分はやつぱり唯の人間でしかなかつたと強く深く知つて來たやうに 思ふ。又今年程、今年と去年とをはつきり感じた年もなかつた。社の庭で祈りながら深 夜の鐘を聞く心、餘音惻惻として胸に迫まるその哀調を生れて始めて體驗した時胸をし めつけられるやうに苦しかつた。
無限を包むエタイの知れない空氣を透して鐘の音が私の心を抉ぐるそして何人の假 借もなく我れに再出發を促す。
空は秘中の秘をひめてゐる樣に見える。
星のささやき、石燈籠のにぶい光り。
境內の樹木の葉ずれ、參道の砂利を物靜かに踏んで來る人のかげ、どれを見ても寂 寞感を唆らないものはない。
無限に擴がつて行つては無限に響いて來る鐘の音、私は靜かに頭を下げた「元旦」。
私の心はあの大きな撞木で胸を撞がれるやうにたへがたい。
わがきみの御代やすかれとわが 祈るやしろの庭に除夜の鐘きく
✕ ✕
十時二十七分の汽車に乘り込む車內にも春の氣配が見えられた。
豊原驛で汽車を捨てゝ乘合自動車に乘り替へた。見た所路は坦々として廣がつた。しか し動搖がはげしいやつぱり目に見えない所に苦悶の種があると思つた。自動車は何んの 苦もなく一心に走る。
蕃地境界標幟を過ぐれば深山らしくなる。一面の青山に點綴する紅葉が目にさやか に映つて珍らしかつた。
こゝ數年來こんな暖かな正月を迎へた事はなかつた乘合がとある蕃社に入つて靜か に止る。入蕃許可書を提示する必要があるらしい。
その間僅か十數分しかない短い時間ではあつたが、私は確かに心の中で春をはつき
りと感じた蕃社から酒盛のうたひ聲がなどやかな春の暖かい光りをふるはして耳に入る。
私は自動車をおりて太陽を萬遍なく受けてゐる。赤ちやけた大地を踏みしめたかたわら の畑に白菜やしゆんぎくが威勢よく育つてゐるスイートピーが二、三本花をつけて靜か な蕃社の温和な空氣の中で自分の運命を何の悲しみも何の苦しみもなく、生のありがた さを滿喫してゐる樣にさへ見えた。
(二)
自動車は久良栖社を左に見て走る久良栖の駐在所に E と云ふ友人がゐる。
今度も御正月に遊びに來ないかと云つて來たから早速二日久良栖で逢ふと云つた簡 單な手紙を返事として書いた事を思ひ出した。
彼は十四、五の時内地から唯ひとり何んの身寄りもなく遙る遙る職を得んが為めに 臺灣にやつて來た浮過の人であつた、何かの緣か短い間ではあつたが同じ一つの屋根の 下で仕事をした事があつた。二年も居たであらふか。
何か不満あつてこの番地に警丁を勤める事になつたがやつぱり淋しいと見えて時々 手紙をよこして呉れた。
友を餘り澤山持たない自分に取つて、淋しい時に思ひ出して吳れる此の E と云ふ青 年をありがたく思つた。
自動車を路ばたによけて血色のよい蕃童が温相な目なざしで見送つて呉れた。
有り難い御時世だと思つた
道が狹くて通れないので温泉の半里手前で自動車を下つて山墅をけづつてこしらへ た、幅一間半あるなしの道を杖を頼りに歩く。
上を仰げば壁立千仞の剛い岩石、下は深い溪谷だ。谷にはとうとうと清洌そのもの の水が流れてゐる自分の居る所からもはつきりと川底の砂が見える程だ。こゝに棲んで ゐる魚も美味しいだらう。水もうまからうと思つた。
✕ ✕
水に無限に流れてゐる。たゝ運命に従つて流れてゐるだけだ。
岩にぶつつかり「どう」とうなつた水もそこを通れば白泡は直ちに消え靜かな水に 立ち返り今ぬけて來た岩の事もたつた今の白い泡の自分と云ふ感情をもかなぐり捨てゝ 本然の姿に立ち返る水がたまらなく私の心を打つた。
深い空、その空にうつらう白雲、顔を撫でゝ通る微風、路傍に生葉なくつゝ立つて ゐる芒の穗、珍らしくはあつたが偶々頭上をかすめて過ぐる小鳥の鳴き聲、總べて私の 感受性を彌が上にも猛烈と湧かしめるに充分な情景であつた。
ひとり淋しく思索しながら歩いてゐる内に温泉に著く三年前來た温泉とは一棟新築 した外餘り目新しいものは見あたらなかつたがその時自分の氣持と現在の自分とはかな り隔りを覺えた。
山から引いて來た筧の水は旅の疲れをいやすに快よく冷い。
湯に浸つて夕飯をとる。元旦でも興亞奉公日、酒はいけないオオミキはよいと云ふ。
そんな馬鹿な事があつてたまるものかと思つた。又興亞奉公日だと云つて酒は絕對
いけないと云ふ法もないと思ふ一ケ月三十日間の内、そのどの日でもよい。靜かに考へ る日が皆んなにあつたらそれでよいではないたらうか私は形を忘卻しやうとは思はない。
寬容な心で見れば形の上に案外魂が發見されるからだ宿の後一町の所に湯元がある。鐵 管に沿ふて生ひ茂つてゐる雜草を踏みしだいて歩く。
やつぱり路になつてゐる處を歩いた方が樂だとつくづく思つた。松葉杖と檜笠を唯 一の誇りに山から山へ跋渉して悲、苦、惡、恨、怨を解脫して生を生として生きぬいた 芭蕉の事を偲び寂しみながら夕日の美を落葉にこたまさせてひとり暮行く光りを追ふて 歩く。
床につく。
晝間から間斷なくとうとうと流れてゐる水の音がぢかにあたりの靜寂を破つて耳に 入つて來る。
唯でさへ淋しきものを旅にねて よもすがらきく谷川の水。
(終)
一月二日、一山越えて佳保臺へけはしい山を攀ぢ登ると心臟の鼓動の早さに驚く。
全身に汗がにじん來る。
折角著込んで來た毛の下着とすりツばがにくらしく思はれた併しこんな時の人間の 心情が恐じく危險だ運材車の鐵道線路に出る。
これから佳保臺迄こんな平らかな道ばかりだときくと俄然力が出て來るのを感じる。
この時食べた卵大の蜜柑の甘味さは忘れられない。
✕ ✕
佳保臺の營林所
俱樂部に投宿す、温泉から待つて來た辨當がものすごく冷たい赤く 燃え立つ火鉢に手をかざして熱い蕃茶をすゝる。
ゆつたりした氣持でツボン一杯に山でひつついて來た雜草の刺みたいな種を一つ一 つ拔き取つて火鉢に投げ込んだ最初は氣がつかなかつたが、燃え上がる煙と一緒に「ぶ すう」とかすかに聞える音に我れながらびつくりしてあわてて手を止めた。
さうだこれは生物だ。これから土と水と光りさへ恵んでやれば何時でも萌え上がる 力を持つてゐる殺生したと思つた。
親の雜草は何人の為めにこんなにもたやすく人樣のヅボタに自分の後代を託したで あらうか、ひよつとしたらこの私がその一部でもよい何處が肥えてゐる適當な個所に拂 ひ落して
吳れるものと思つてゐるかも知れない。
もうこれ以上考へるにたへ難い氣持で一杯になつて部屋の窓をあけた猩猩木の赤が 強い陽光に燃え上がる樣に目に痛々しい。
私はこんな高慢な花は嫌いだ。
✕ ✕
八仙山神社に參拝した。
高い所なので展望がきいてよかつた。
新八仙山の頂上にとゞくインフラの鐵線が一條はつきりとそこから眺められた。
山の中の落日は早い。
歸りに晴衣を着けた年七つか八つかの女の子が一人荒れ果てた野つ原にぽつねんと つつ立つてゐるのが見える。何と云ふ無邪氣な子供であらう。黑い髮、小さい口もと、
奧にひそんでゐる淋しいまなざしそして不思議さうにこの未知の旅人を眺めてゐる。何 んだか懷かしみのこもつた表情に見えた。
「オチヤントローカ?」
手に持つたローライを向けたが返答がない。口元に笑みを含めてかすかにうなづい て見せた。その顔が一再は私に寂しみを與へる。
「何といふの嬢ちやん」
「コクレ」
「コクレ」と一度口でくり返してどう書くのかときこうと思つたが知る筈がないと 思つてやめた。
「そして名前は」
「トシコトイフウ」
「ほーとしこちやん!いゝ名前だね」と云つてもつと立ち入つてきゝ度かつたが、
そのまゝ別れた。私も寂しくなつて了つた。靜かに歩きながらトシチヤンがじツと私を 見送つてゐる樣に感じられて仕方がなかつた。
✕ ✕
宿にかへつてから早速手紙に「小暮登志子」とつけ込んだ。
晚がた教へられた家に立寄つて表札をたしかめやうとしたが薄ぐらくて見えなかつ た。
家の中はしんかんとして音一つなく電燈のかけもなかつた。
晚は八時半頃床についた。
しかし目が冴え寝づかれなかつた両親が居るたらうか。あんな淋しい顏を見るとひ よつとしたら、いい母ちやんを失つてゐるのかも知れない。そして兄弟もないのかも知 らない。
友達はあるかしら?
もしお友達でもあつたら御正月だから一緒に出て遊ぶ事もあらうに?と今一度ひ獨 り寂しく立つてゐる幼子の顏を思ひ偲べた。
歸つたら寫真を送つてやらう、きつと喜んで呉れるかも知れない。いや或は旅行人 が澤山通る所だから一日何日も撮つて貰つてゐるかも知れない。こんなとりとめのない 事を夜更け迄考へつゞけた。
✕ ✕ 三日(快晴)
山を下りる時もう一度少女の家に立ち寄つて表札を見たら「木暮」とかいてあつた
運材車に乗つてからポヶツトに入れてある手帳を取り出して小暮登志子手の小を木にな
ほして手帳を手にしたまゝ邁進する。丸太の上で目をとぢて少女の運命を 自分のそれと見くらべてひとりで悲しんだ久良栖の驛で E が迎へて呉れた。
「お變り御座いませんか」
「しつかりおやりなさい」
言葉少なながら青年の元氣な體を見て安心を通り過ぎて心強くさへ思はれた。
間もなく汽車が山の中を再び動き出す。
汽車の中でもぢやもぢゃとした青年の髪と
何時も寂しさうにつつ立つてゐる木暮登志子の顔が目にこびりついて仕方がなかつ た。再出發何んて云ふ力強い言葉であらうか。
生きてゐる事それが愛の具現ではないか生について餘りに考へ過ぎはしないか、そ うだ。
強く正しく生きて行かう理智と情熱との摩擦をさけてその中庸をと
いや、これが私の情熱の狂つてゐる一瞬間かも知れない。それなら私の宿命と思つ て諦めも出来やう
○あな馴しやまひたみればわれ思ふ
慾の少なき人もかくやとこの部屋だつたと思ふが、電燈がついてゐない、スイツチ を捻つてみたすると自分の机の椅子に腰かけてゐた女の子は心から嬉しさうに微笑んで わたくしを迎へるのである。をぢさんにいゝものを見せてあげると云ひながら、抽出の 中からボール紙の箱を出した。
蓋を開けると人形の寢室が現はた。
ヨーロツパの女と、東洋の女たちがきれいに並んでゐる。和服を着た一つの人形を 取り上げると、女の子はそれを後向きにした。そして結ばれてゐる襦子のお太皷を指さ
して、女の子は言ふのであるきゆーつと斜めに結んだこれい
、き
、でせうねえ。をぢさん、
誰に教へて貰つたかたづねるとお母さんがいつも結ぶときに見てゐるから分るのと言ふ。
女の媚態といはれるものが、もうこの頃から潜んでゐるのをわたくしはおどろいた のであつた。
(註:以 表示不確定的字)
附錄(三)
賴煌〈劇作 〝或夜の出來事〟〉
晚秋のある風の強い夕方でした。宏は夕飯もそこそこにして靴を穿いてゐると母が
「宏、毎日毎日そんなに遊びに熱中しないで一寸は母ちやんの言ふ事もきいて呉れ なければいけないよ」と弱々しい物腰で言つて呉れた。宏は母の言ふ事をてんで耳に入 れてゐなかつたが、またかと思ふと淋しかつた。
時には骨ぱつたお臀をぶたれた事もあつたしきつく叱られた事もあつたが、彼は一 寸も怖くなかつた。その方がむしろ気が楽だつた。一年に幾度か今日みたいにやさしい 言葉でさとして呉れるのがたまらなくつらかつた
といふのはこんな時に限つて母に三年前に死んだ父の事を口にするからでした。
彼は靴紐を解いては結び解いては結びして母の次の言葉を待つてゐた。
「ねえ宏!あんたはこう思はない?」母の語尾を上げて言つた言葉が一層弱々しい 感じを彼にもたせた。
「母ちやんは誰の為めにそして何の為めに生きてゐるのかわかつて呉れる筈ですわ ね」
宏は靴先の破れた穴から顏を出してゐる親指の小さい爪をじつと見ながら、微かに ふるへてゐる母の聲をきくともなくきいてゐたが確に母の眼の中に光つてゐる涙を感じ た。
小さい妹が母の手をひつぱつて、「ネンネシタイ」とせがんだが母はそれにかまは ず。
「わかつてゐるわね!宏、父ちやんはならずものではあつたが悪い人間ではなかつ たよ。外の人の目から見れば父ちやんが死んだ方があなたの為みに幸ひだつたといふか も知れないが妾は決してさうではないと思ふの!」
それは酒と云ふ魔物に一時とりつかれただけなのよ。だから宏はうんと勉強して偉 い人になるのよそして……「あんな呑んだくれの子だからやつぱり」と云はれ度くない の「あの子を見ると父親もさう悪い奴でもあるまい」といはれ度いのよ、わかつて呉れ て?」
とうとうと母はわつと泣き出して了つた。母の泣くのを見て妹もわいわいなき出し た。
宏の母ははんかちを出して顔をおさへながら妹と一緒に居間に入つた。
彼はぼんやりと母の姿を見送つてどうしたらよいものかと思つた。こんな事は幾遍 も聞いた言葉ではあるし彼の頭にびんと来なかつたがそれでも母がいぢらしく思はれて 仕方がなかつた。しかし彼は何うしても出なければならねい用があつた。彼は一生のプ ランを滅茶苦茶に壊されたやうに淋しかつた彼はヂツとして居られなかつた。彼はそつ と裏門から出て、川向ふの森に向つて走つた。風は小やみにはなつたがそれでも時々冷 たく頬をたゝいた。もうとつくに日は落ちてあたりはまつくら闇だつた。西の空だけが 一本の帯状を為して黄色く光つてゐるだけだつた。
✕ ✕
彼は晝頃學校から歸つて、一人川向ふの森に遊びに行ったが、夏時分よく泳ぎの場 所としてゐた淵のそぽの欅木の下迄來た時、けたゝましい聲と一緒に葉つばを音させて 飛び出した小鳥を見た。びつくりしてあたりを見たら普通なら葉の茂みが或は高い枝の 小暗い所でなければ見られない鳥の巣を何んでもない低いそしてたわゝになつてゐる細 い枝で見つけた。
「シメタ」と思つて彼はその枝を引きよせて見たら、中に卵が三つ入つてゐた彼の頭に はさつきちらと見たしつぼの長い紫色の小鳥が焼きつけられた。
「卵があるから今晩きつと歸つて來るに違ひない」と思つた。
彼は歸つてからも誰にも言はなかつた。そして綺麗な鳥が鳥籠の中で飛び廻つてゐ る有様を頭に描いて見たりしてゐるのだつた。
「うまく行く。といゝがなー―」
彼はさう考へながら川の飛石を飛んで渡つた。誰一人通らない森に入ると彼の胸は さわがしくなつた彼は怖くはなかつた。欅木のあたり迄來ると彼はしのぴ足で近寄つた。
間を置いては吹きすさむ風を彼は利用した。一風毎に彼は前進した。晝間見た鳥の巣が 手にとゞく迄近寄つて来た。彼は息を殺した。その瞬間彼の兩手は巣の小さい口をおほ ひかぶさつた。
「キヤツ」飛び立つ柏子に鳥は彼の掌の中に入つてゐた。彼は無我無中に走つた。
✕ ✕
「母さん鳥籠は?」
さつき叱られた事はとつくに忘れて了つたかのやうに陽氣な聲で言つて母に鳥を小 さい指の隙からのぞかした。
「まあ!この子は!こんな風のひどい晩に風邪でも引いたらどうするの」
子供可愛さに鳥籠を出して鳥を入れてやつて、
「宏、下にスエーターを着て早くお休み」
母は宏に晩のお復習を強ひなかつた。早く冷えた身體を休ませたかつからでした。
「鳥にお米をやつてから」スエーターを着込むと、彼は米の櫃の所迄来たが、
「母ちやん、糠餅こしらへた方がよいかも知れないね」とひとりごとのやうにつぶ やいた。
「明日にしなさい、今日やつても喰はないから」彼は母にそう言はれると成程とも 思つた。彼は床についた。月が冴えて寝られなかつた。彼はパツとはね起きて
「母さん」
「なによ、吃驚するぢゃないの」
「卵が三つ巢に殘つてゐるから取つて來ていゝ?」
「いやな、宏さん、今頃行つたら鬼に喰はれるよ」
「怖くないわ」と言つて見たが行つて来る元気はなかつた。
「だから母ちやんが何時も言ふでせう鳥の巣を突つゝいたらいけないつて、籠の中
の鳥は淋しさうだつたわ、子を巣に残してゐるのですもの。この儘にして置けば鳥も死
んで了ふし、卵も鳥にならないで腐つ了ふでせう明日になつたら放しておやりね!いゝ
子だから」
「さうね!」
彼は返事して布團にもぐり込んだ併し彼は益々目が冴えて寝れなかつた。彼は彼が 寝つかれないと同様にあの紫色の鳥も寝られないだらうと思つて見た。
「わるかつた。明日はなしてやらう親鳥の為にそして卵の為に」
「そうだ卵は未だ孵つてゐないからよいものゝ小鳥だとすればきつと今時分親を待 ちあぐんで泣いてゐるであらう」
その夜夢が彼と襲つた。彼は妹と泣きながら父と母が喧嘩してゐるのを見てゐた。
母も泣いてゐた父は母の髪を掴んで投げ倒し、足で蹴つて大きな聲で「勝手にしろ」と 言つたなり出て了つた。
母はわいわい泣いてゐる子供達を床に連れて行つて「もう泣くのをおよし母ちゃん が惡いの!」と言つて一緒に寢て
吳れた。彼は夢の中で妹の泣き聲を聞いた。そして目 が覺めた彼ははね起きた。
「どうしたの宏」針仕事をしてゐる母の聲を聞くと安心して布團を引きあげた。
「何かいい。夢でも見てたんだね!」といつて母がのぞき込んだが彼は五年前に起つた 事を夢の中で再現された恐ろしさにふるへながらその出來事を反芻するのでした。五年 前と云へば彼が七つ妹が三つの時で宏の父が酒を呑み出した頃であつた。父と母との争 の始まりもこの頃であつたであらうし、彼の頭には幾多の事件がほのかに残つてゐたが 特に彼の一生を通じてかつてない感銘を受けたのは忘れもしない月のよい八月十五夜の 事でした。
今でこそ中秋だ。觀月だと云つてさわぐのですが、その時分は村全體そんな事はな かつた。誰でもさうだが氣分の落著いた時でない限り靜かに月を眺める心も起らないや
うに生活に追はれてゐる農夫の多い彼の村では觀月などイキ
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