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第一章 序論

第三節 研究方法

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り、なき声が小児や鹿のなき声に似ていて、その出現は大事件が発生す ることから凶兆とみなされている。また効能については、人魚の油が燈 油として用いられることである。以上のことから判断すると、江戸時代 以前の「人魚」像と江戸時代の「人魚」像の間にはそれほど大きな相違 は認められない。23

九頭見氏は江戸時代の人魚像が西欧からの影響を受けたが、江戸時代以前 に刊行された文献が江戸時代の人魚像の形成に大きな影響があると論じてい る。九頭見氏も人魚の出現が凶兆とみなされていると述べているが、詳しく は論じていない。

本研究では先行研究を踏まえて、琉球についての史料をはじめ、日本と琉 球の誕生伝説、及び人魚の伝説を分析しながら、『弓張月』における王位継承 の問題を明らかにしたい。

第三節 研究方法

以下、研究方法について述べる。

第一章では、研究動機と目的および先行研究、研究方法について述べる。

第二章ではまず江戸時代の国学者と政治家の琉球認識について考察し、当時 の人が琉球についてどのようなイメージを持っているのかを検討したい。さら に『弓張月』の中の琉球について分析し、馬琴は琉球に対してどんな認識を持 っているのか、また江戸時代の国学者と政治家の琉球認識が馬琴にどのような 影響を与えたのか、改めて分析したい。

第三章においては、日本と中国古来の人魚伝説を収集・分析し、人魚の出現 と吉凶との関係を考証し、人魚のもたらす影響およびその位置づけについても 検討していきたい。また『弓張月』に論点を戻し、人魚の出現がどのような影 響を与えているのか解明してみる。

第四章においては、王位継承者候補である為朝、寧王女、舜天丸三人の王位 継承の資格、また三人それぞれ王位を断る理由を分析し、及び最後に舜天丸が

23 九頭見和夫『日本の人魚像』(和泉書院、2012.03)56-57 頁

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王位を継承することについて検討したい。

第五章では、これまで取り上げた史料と伝説をまとめ、互いの関連を分析す る。また上述の人魚伝説の考証に基づき、馬琴が鮮魚を人魚に変えた真意を検 討し、『弓張月』における琉球の王位継承の問題を解明したい。

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第二章 江戸時代の人々の目から見た琉球

第一節 江戸時代の政治家と国学者から見た琉球

旧石器時代に琉球の各地にもうすでに人が生活していたが、実際に統一の王 権が確立されたのは十五世紀に入ってからである。その前に琉球各地は「按司」

と呼ばれる首長に支配され、十四世紀に入ると、三人の力の強い按司が現われ、

琉球本島を北山、中山と南山に分けた。1372 年に中山王察度をはじめ、中国 の明と朝貢関係を結んだ。明にとってはこの関係の構築は対外秩序の確立で、

琉球側にとって、これは自分の政権が認められることと思われる。この朝貢関 係は十五世紀に入って、統一した王朝が樹立された後も続けていた。

しかしこの関係は江戸時代に入った後少しずつ変わっていた。1609 年、薩 摩島津氏は琉球王国を侵攻し、琉球は日本に支配され、日本と琉球は従属関係 になった。また、当時の琉球国王である尚寧王は、島津氏への起請文を書かさ れた。起請文の第一条目は、

一 琉球之儀、自往古、為薩州島津氏之附庸、依之、太守被譲其位之時者、

厳艤船、以奉祝焉、或時々以使者・使僧、献陋邦之方物、其礼義終無 怠矣、就中大閤秀吉公之御時所被定置者、相附薩州徭役諸式可相勤旨、

雖無其疑、遠国之故不能相達、右之御法度多罪々々、因茲、球国被破 却、且復、寄身於貴国上者、永止帰郷之思、宛如鳥之在籠中、然処、

家久公有御哀憐、匪啻遂帰郷之志、割諸島、以錫我、其履、如此之御 厚恩、何以可奉謝之哉、永々代々対薩州々君、毛頭不可存疎意事24

とあるように、琉球は昔から薩摩の付属であることを認め、薩摩の侵攻につい ての原因はすべて琉球の問題であり、薩摩の侵攻は正当なことと認めて、さら に今後も薩摩に忠誠することも誓った。上述の請起文について、波平恒男氏は

「往古よりの附庸」が侵攻を正当化するだけでなく、結論としても琉球側の将 来に続く忠実義務を導出する、つまりは支配関係を正統化する論理構成となっ

24 東京大学史料編纂所「琉球国中山王尚寧起請文」https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/conference-seminar/science/(2015.06.07)

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ている25と指摘している。その以降の琉球は日本に支配されながら、中国との 朝貢関係も続けていて、こうした関係は明治時代まで続いた。

羽地朝秀は琉球の王族で、島津氏による琉球王国の侵攻後、1665 年に羽地 は琉球王国の改革を進行していた。羽地も琉球の最初の正史『中山世鑑』(以 下、『世鑑』と略す)を編纂者である。『世鑑』の巻一に琉球の開闢伝説が記さ れている。琉球の開闢の祖は阿摩美久という神で、阿摩美久は琉球を創造した 後、女神と結婚し、三男二女が産れた。その長男は琉球国の祖で、天孫と号す る。しかし、『中山世鑑』によると、

天孫氏世衰微政廃シテ諸侯叛者多シ依テ逆臣利勇弑君奪位事アリ尊敦其 此ハ浦添按司タリ修徳治民給事昔ノ有熊氏ノ如シ是以諸侯尊敦ニソ帰服 致シケル終ニ獨夫利勇ヲ討テ寶位ニ登リ給是為舜天王26

とあるように、琉球王国の開国先祖は天孫であるが、天孫氏の子孫が政治を荒 廃して、臣下の利勇に殺され、王位を奪われた。その後、利勇は尊敦という按 司に討伐され、尊敦は琉球王国の王になり、舜天王と呼ばれる。『世鑑』で舜 天王について、

舜天尊敦ト申奉ルハ大日本人皇五十六代清和天皇ノ孫六孫王ヨリ七世ノ 後胤六條判官為義ノ八男鎮西八郎為朝公ノ男子也(『国家図書館蔵琉球資 料續編』、863 頁)

とあるように、舜天王は源為朝の子であることを示している。さらに、

大日本人王五十六代清和天皇之孫六孫王八世孫為朝公為鎮西将軍之日掛 千鈞強弩扶桑而其威武偃塞垣草木後逢保元之乱而客於豆州有年当斯時舟 随潮流始至此因以更流虬曰琉求也国人従之如草加風於茲為朝公通一女生 一男子名尊敦(『国家図書館蔵琉球資料續編』、841-842 頁)

25 波平恒男「近世東アジアのなかの琉球王国―琉球処分の歴史的与件という視角から

―」(『政策科学・国際関係論集』14、琉球大学法文学部、2012.03)20 頁

26 北京図書館出版社編『国家図書館蔵琉球資料続編』(北京:北京図書館、2002.10)

862-863 頁

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と記され、為朝の渡琉伝説は史実として記録されている。為朝は保元の乱の後 琉球に渡って、琉球人の女子と結婚してから、尊敦(舜天王)をもうけた。つ まり舜天王は琉球の人でありながら、日本人の後胤でもある。これは羽地の「日 琉同祖論」という信条を反映していると思われる。もう一つ羽地の「日琉同祖 論」の立場を明確に示しているのは、羽地が琉球王国の摂政している時に、

1673 年 3 月の仕置書であり、琉球についての認識を以下のように示している。

此国人生初は、日本より為レ渡儀疑無二御座一候。然れば末世の今に、天 地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖レ然言葉の余相違は 遠国の上久敷融通為レ絶故也27

羽地は琉球の人の先祖は日本から渡ったのであり、使っている名詞とか日本 とは大体同じだが、言葉は違うのは琉球と日本との距離が遠いで、長年の間に 交流していなかったからだと主張している。

こうした羽地の「日琉同祖論」について、田名真之氏は、

島津侵入から半世紀を経て政治的には薩摩藩の支配圧力を強くうけるな か、世相は頽廃の度を強めていた。進貢でも薩摩藩の委託貿易をおろそか にし、故意ともみえるサボタージュをくりかえしていた。羽地は薩摩支配 という厳然たる事実を前に、現実を認識し、それに対応して国家を立て直 す必要を痛切に感じていた。そのために王国内にはびこる古琉球的なるも のを排除し、近世的論理(儒教的論理)による国家経営、官僚の意識の改 革を志向したのである。/羽地は強烈な個性と自らの合理性を前面に押し 立てながら改革を断行する。神聖な国家行事たる国王の久高・知念・玉城 参詣を冬季の海上の不安を理由に、弁ヶ嶽への勧請・遙拝への変更を提案 し、廃止においこむ。さらには元来琉球と日本と同根ということまで持ち 出して、暗に不合理な国家行事への疑問さえ投げかけていた。28

27 真境名安興『真境名安興全集 第一巻』(琉球新報社、1993.02)19 頁

28 高良倉吉ほか編『図説琉球王国』(河出書房新社、1993.02)91 頁

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と述べ、羽地は薩摩の支配下で改革を行って、その改革に伴って「日琉同祖論」

と述べ、羽地は薩摩の支配下で改革を行って、その改革に伴って「日琉同祖論」