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第四章 『椿説弓張月』における王位継承

第二節 源為朝

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に、ずっと自分が白縫であることを強調している。

上述の引用からでもわかるように、続篇巻之六第四十五回で禍獣が滅びた 後、白縫の魂が寧王女の体を支配しており、寧王女の意識はまったく見られ なくなったと思われる。また、残篇巻之四第六十六回では、為朝・王女・舜 天丸が互いに王位を譲り合って琉球王国の新しい王が一向に決まらないと き、寧王女の体についている白縫はほかの人たちに「わらはは舊の王女に侍 らず、白縫姫の貞魂が、この身に憑るよしは人もしれり」(『弓張月(下)』)

と告げ、自分がもうもとの寧王女ではないということを理由に即位を辞退し た。さらに人魚の事件があったあと、王位が空いているままではいけないと 強く意識している為朝一行は、もう一度王女に即位を勧めようとするが、

襟を左右へかきわき給へば、目今刺たるごとき太刀痍、乳の下より背へ かけて、さと濆る鮮血とともに、一道の白氣立のぼりて、空中へ入ると 見えし、王女は撲地と輾轉て、朽木の花とちり給ふ、身のなる果こそ怪 しけれ。(『弓張月(下)』)

とあるように、白縫の魂が寧王女の体から離れ、あとは寧王女の死骸しか残 っていない。身も魂も朽ち果てた寧王女は王位を継承することが不可能にな ってしまった。また、王女のもう一つの主張することは、「丈夫に踰て王位に 即かば天地反覆する」(『弓張月(下)』)ようなことは必ずしてはいけないで ある。例え王女でも、自分の夫を踰えることはもちろん許されないことであ る。血筋上から見ても、倫理上から見ても、寧王女に王位継承するのはもう 無理なことであると思われる。

第二節 源為朝

王女は王位を拒否して、自ら白縫の魂が寧王女の肉体に憑いているという 自分の正体を暴く。寧王女の即位がもはや不可能なことになった以上、次に 王位継承を勧められるのは当然為朝である。

『弓張月』残篇巻之四第六十六回で、琉球王国の忠臣である陶松寿は琉球

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王国に昔から伝えた天孫氏の遺言を為朝に伝えて、以下のように述べてい る。

天孫氏の遺言を思ひあはするに、「東方に日輪あり、朝に出てわが国の為 に照さん」とは、今日の事なるべし。八郎按司は大東の皇孫、日の神の 後裔なり。「朝に出てわが国の為に照らす」の一句に、即為朝の二字こも れり。しかれば天孫氏の子孫に代りて、この国を治め給ふべき君は、大 将軍父子にこそ。(『弓張月(下)』)

というように、昔から伝わる天孫氏の遺言を為朝に告げている。天孫氏の遺 言によると、日の神の後裔が琉球王国を治めるのは必然的であるという。為 朝は清和源氏の出身であり、馬琴も『弓張月』において為朝の家系を何度も 繰り返し強調している(表4 参照)。つまり、馬琴は為朝と舜天丸の貴種性を 強調していると思われる。天孫氏の遺言に則るならば、清和天皇の後胤であ る為朝、あるいは舜天丸が琉球王国を治めるのもおかしくないことであろ う。

馬琴はさらに琉球王国の天孫氏の系図を日本神話に組み入れようとし、残 篇巻之五第六十七回で次のように語っている。為朝一行はある仙人に出会う が、仙人は自分こそ琉球王国の始祖天孫氏の父であると告げ、

この國開けそめしとき、一男一女化出たる、その男の神はわれなれば、

われに三男二女ありけり。彦火火出見尊、鈎を求めて、この國へ來ませ しとき、長女君々は、尊におもはれたてまつり、豊玉姫と召れつゝ、遂 に孕ることありて、鸕鷀艸葺不合尊を産奉るとき、ふかく羞ることあり て、日本より脱て歸りしかば二女祝ゝを進らして、皇子を養育奉れば、

玉依姫と召れたり。この因縁にわが嫡男に、天孫の姓を賜り、世に天孫 氏と稱せらる。さればわが流求は、神の御代より大八洲の属國として種 嶋と、唱るよしは彦火火出見の尊の胤をわが女児の、腹に宿せし故に名 とす(『弓張月(下)』)

というように、自分と日本の神々との関係を明かした。仙人の娘である君々

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たいと表明し、武士としての忠義の精神を貫こうとするのである。

実際に、為朝は琉球に渡る前に一度讃岐に行って、崇徳院の墓の前で切腹 を試みたことがあった。その時、崇徳院と為朝の父為義の亡霊が現われ、院 は「しかる為朝、世を恨み身をはかなみ、自殺して失せんといたす事、究て しかるべからず。今茲冬の半に至て、肥後國に赴かば、はからずして故にあ ひ」(『弓張月(上)』)などと予言していた。そこで為朝は暫く自害すること をあきらめ、肥後国に行くと、そこで白縫や紀平治と再会した。為朝は主君 である崇徳院や父親に逆らうことなく、ずっと「忠」に基づいて行動してい ると考えられる。また、為朝が琉球に渡る理由の一つは「寧王女の舊恩を、

報んとおもふ」(『弓張月(下)』)からであり、これは「義」に基づいた行動 と言えよう。

なお、当初為朝は新院の墓に行く前に、兄義朝の舅である熱田大宮司藤季 範に「元を喪ふ事を忘れざるは勇士の本意なり。われ誰が為に命を惜て、其 許を煩すべき。(中略)この処に自殺して、わが平生の志をしらし給ひな ん。」(『弓張月(上)』)と言っている。『葉隠』は江戸時代に、山本常朝の武 士としての武士道思想を記録した書物である。その『葉隠』には「武士道と 云は、死ぬ事と見付たり」76という思想があって、為朝の武士道思想は『葉 隠』の武士道思想とは共通点があろう。死の覚悟をしている武士は、主君の ため殉死するのもおかしくないことである。奉公すべき主君はもう亡くなっ て、また寧王女の恩にも報いて琉球の内乱を治めた今、もし王位を継承して 生きながらえたら、武士にとってこれは主君を裏切る行為に違いない。武士 の道義に背くまいと考える為朝は、琉球王国の王位を継承しようとしないの も当然であろう。