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『椿說弓張月』論―以琉球王權論為中心― - 政大學術集成

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Academic year: 2021

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(1)國立政治大學日本語文學系研究所 碩士論文. 指導教授:黄智暉. 博士. 政 治 大 『椿説弓張月』論 立. ‧. ‧ 國. 學. ―琉球王権論を中心に―. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. 研究生:頼宥羽. i n U. v. 撰. 中華民國一〇四年七月.

(2) 『椿説弓張月』論 ―以琉球王權論為中心― 中文摘要 『椿說弓張月』(以下簡稱『弓張月』)為曲亭馬琴從文化四年(1807)開始 耗時四年所完成的作品。故事中源為朝一行人雖然打敗妖仙人曚雲,但之後彼 此卻互相推讓琉球王國的王位,而王位就一直空著沒有人繼承。在這之後打破 僵局的契機終於出現。琉球的漁夫捕獲到稀有的人魚想要獻給為朝,但為朝沒 有接受,之後讓給寧王女,寧王女也同樣沒有接受而轉讓給舜天丸。在彼此推. 政 治 大. 讓的過程中時間一直流逝,最後人魚就因此而腐爛。. 立. 在『日本書紀』中也有和上述相似的內容。『弓張月』中的內容可以推論是. ‧ 國. 學. 參考『日本書紀』而作成的,但『日本書紀』中漁夫所捕獲到的是鮮魚而並非 人魚。因此,本論文以『弓張月』為對象,分析馬琴將鮮魚更改成人魚的理. ‧. 由,並檢討人魚與琉球王位繼承的關連,進而考察分析作中琉球的王權問題。 本論文共有五章,第一章論述研究動機、目的與先行研究及研究方法。第. y. Nat. sit. 二章分析當時江戶時代的國學者及政治家的琉球觀,進而探討當時人們對於琉. al. er. io. 球所抱持的看法。接著在第三章則先分析中國和日本的人魚傳說,再回歸『弓. v i n Ch 三人的王權繼承問題。最後在第五章的結論整理上述的論點,探討馬琴使用人 engchi U 魚的理由以及琉球的王權繼承問題。 n. 張月』探討人魚的出現所帶來的影響。第四章則是分析為朝、寧王女、舜天丸.

(3) 『椿説弓張月』論 ―琉球王権論を中心に― 日本語要旨 『椿説弓張月』(以下、『弓張月』と略す)は曲亭馬琴が文化四年(1807) ~同八年(1811)にかけて刊行された作品である。『弓張月』では、為朝一 行は妖仙人曚雲を討ち取ったが、互いに琉球王国の王位を譲り合い、琉球の 王位は空位のままになっている。その後この状況を破る要因が現われた。琉 球の漁師は珍しい人魚を獲って為朝に献上した。しかし為朝は受け入れず、. 政 治 大. 寧王女に譲ったが、寧王女はまた舜天丸に譲った。結局時間が経って、その. 立. 人魚は腐ってしまった。. ‧ 國. 學. この人魚が腐敗することは、『日本書紀』にも似たようなパターンがあ る。 『弓張月』における譲い合いのパターンは『日本書紀』によるものと思わ. ‧. れるが、『日本書紀』で漁師が獲ったのは人魚ではなく鮮魚であった。從っ て、本論文では馬琴が鮮魚を人魚に変えた真意、また人魚と琉球の王位継承. y. Nat. sit. の関連について論じ、さらに琉球王国の王権問題について検討してみた。. al. er. io. 本論文は五章からなるが、第一章では研究動機と目的及び先行研究、研究方. v i n Ch 当時の人は琉球に対してのイメージを検討した。第三章においては、日本と中 engchi U 国古来の人魚伝説を分析して、また『弓張月』に論点を戻し、人魚の出現がど n. 法を論じた。また、第二章では江戸時代の国学者と政治家の琉球認識を分析し、. のような影響を与えているのか解明してみた。続いて第四章では、為朝、寧王 女、舜天丸三人の王位継承の問題について検討した。最後に、第五章の結論に おいて、馬琴が人魚を使う真意と琉球の王権継承の問題について考えてみた。.

(4) 目次 第一章 序論.................................................... 1 第一節 研究動機及び目的...................................... 1 第二節 先行研究.............................................. 2 第三節 研究方法.............................................. 11 第二章 史料の中の琉球.......................................... 13 第一節 江戸時代の政治家と国学者から見た琉球.................. 13 第二節 『椿説弓張月』における琉球王国........................ 19. 政 治 大. 第三節 まとめ................................................ 23. 立. 第三章 和漢の典籍に見られる人魚................................ 24. ‧ 國. 學. 第一節 中国の文献の中の人魚.................................. 24 第二節 日本の文献の中の人魚.................................. 29. ‧. 第三節 『椿説弓張月』における献上品としての人魚.............. 38. sit. y. Nat. 第四節 まとめ................................................ 42. n. al. er. io. 第四章 『椿説弓張月』における王位継承.......................... 44. i n U. v. 第一節 寧王女................................................ 44. Ch. engchi. 第二節 源為朝................................................ 46 第三節 舜天丸................................................ 50 第四節 まとめ................................................ 53 第五章 結論.................................................... 54 付表............................................................ 58 参考文献 ....................................................... 64.

(5) 第一章. 第一節. 序論. 研究動機及び目的. 曲亭馬琴『椿説弓張月』(以下、『弓張月』と略す)は、文化四年(1807) ~同八年(1811)にかけて刊行された。物語の概略は以下の通りである。保 元の乱に敗れて、伊豆大島に流される源為朝が史実の通りに切腹せず、大島 から離れて、最後は琉球に渡って内乱を収め、息子である舜天丸が琉球王国 の王になる。ただし、『弓張月』残篇巻之四第六十六回では、為朝たちは妖仙 人曚雲を討ち取ったが、互いに琉球王国の王位を譲り合い、琉球の王位は空. 治 政 大 現われた。琉球の漁師は珍しい人魚を獲って、その人魚を「苞苴 」として、 立 為朝に献上する。しかし為朝は受け入れず、寧王女に譲ったが、寧王女はま 位のままになっている。残篇巻之五第六十七回では、この状況を破る要因が あらまき. ‧ 國. 學. た舜天丸に譲った。結局時間が経って、その「苞苴」は腐ってしまった。 『弓張月』では、『山海経』、『臨海異物志』、『集異記』、『徂異記』、『稽神. ‧. 録』などに人魚の記述があることにふれ、また「今更信ずべからずといへど. y. Nat. も、但心もとなきは今故なくして海濱に、異形の魚を出すこと、吉凶思ひ定. sit. めがたし。 」1と述べ、この人魚の出現は何かの予兆を示している。また、こ. n. al. er. io. の人魚が腐敗することは、『日本書紀』巻十一「仁徳天皇」の条に似たような. i n U. v. パターンが見える。応神天皇が崩じたあと、太子の菟道稚郎子と大鷦鷯尊が. Ch. engchi. 王位を譲り合っている。三年後、以下の出来事があった。. 時有二海人一、齎二鮮魚之苞苴一、献二于菟道宮一也。太子令二海人一曰、我非 天皇一、乃返之令レ進二難波一。大鷦鷯尊亦返以令レ献二菟道一。於レ是海人. 二. 之苞苴鯘二於往還一。更返之、取二他鮮魚一而献焉。譲如二前日一。鮮魚亦 鯘。海人苦二於屢還一、乃棄二鮮魚一而哭。2. この『弓張月』におけるこの譲い合いのパターンは『日本書紀』によるも 後藤丹治校注『椿説弓張月下』 (日本古典文学大系 61、岩波書店、1962.01)401- 402 頁 2 坂本太郎ほか校注『日本書紀上』(日本古典文学大系 67、岩波書店、1967.03)387 頁 1 1.

(6) のと思われるが、『日本書紀』で漁師が獲ったのは人魚ではなく鮮魚であっ た。なぜ馬琴は鮮魚を人魚に変えたのか、また、人魚の出現と譲り合いのパ ターンは琉球の王位継承において、どのような関連があるのか。また、なぜ 最終的に琉球国の王位を継承するのは琉球王朝の正統な血筋をひく寧王女で はなく、血統的にはまったく関係がない舜天丸であるか。本研究では以上の 問題について検討していきたい。. 第二節. 先行研究. 治 政 大 じている。 徳田武氏は馬琴が『狄青演義』の趣向を『弓張月』にどのように 立 組み入れたのかを検討している。 また、井上泰至氏は『雨月物語』の「白. 早くも中村幸彦氏は、『弓張月』は為朝の一生の事績を記録した一代記と論 3. 4. ‧ 國. 學. 峯」が『弓張月』に影響があると論じ、「骨肉の論理」が「白峯」の核心で、 馬琴がそれを学んだと述べている。5大高洋司氏は謡曲「海人」が『椿説弓張. ‧. 月』の読本的枠組みとして機能していると検証し、また「海人」は本来『弓. y. Nat. 張月』のクライマックス部分に置かれるはずであったものと論じている。6. sit. 三宅宏幸氏は馬琴が『保元平治闘図会』と『前太平記』を典拠として利用し. n. al. er. io. たと検証している。7. i n U. v. 糸川武志氏は「孝」という問題を着眼し、「「孝」は父と子の問題として. Ch. engchi. 『弓張月』全篇を貫く作品モラルである。(中略)『弓張月』は一代記の形を とりながら、忠義の対象を失った者がその後いかに生きていくかを描く。次 第に拡大しになっていく忠義を支えた、孝をめぐる作品である」8と語ってい る。黒田政広氏も同じところに着目し、. 中村幸彦「椿説弓張月の史的の位置」(『文学』36(3) 、岩波書店、1968.03) 徳田武「 『椿説弓張月』と『狄青演義』」 (『国語と国文学』55(11) 、東京大学国語国文 学会、1978.11) 5 井上泰至「 『雨月物語』 「白峯」と『椿説弓張月』」 (『防衛大学校紀要人文科学分冊』 60、防衛大学校、1990.03) 6 大高洋司「 『椿説弓張月』の構想と謡曲「海人」」 (『近世文藝』79、日本近世文学会、 2004.01) 7 三宅宏幸「 『椿説弓張月』典拠小考」(『同志社国文学』74、同志社大学、2011.03) 8 糸川武志「為朝の生存理由・父の孤忠と孝―『椿説弓張月』前後篇を中心に―」 (『日 本文学』53(7)、日本文学協会、2004.07)66-67 頁 2 3 4.

(7) 『椿説弓張月』の背景には一貫した忠孝論がある。(中略)忠と孝の関係 について、表面的な政治判断としては妥当かもしれないが誠実性を欠く 忠よりも、より原初的な関係性において求められる孝を重んじているよ うな表現がある。これは封建道徳の単純な理解では把握され得ず、次代 の親子関係へと繫がる観念がこの時期に次第に想起されつつあるという 理解ができるのではないだろうか。また、一般的には忠と孝は矛盾する 概念であるかのように捉えられがちであるが、本作においては、そのよ うな孝が根本的な水準において忠に繋がっているのであり、孝によって 忠が全うされるものとして表現されており、ここで両者は矛盾しない。9. 治 政 大 とあるように論じ、その後黒田氏はさらに『弓張月』の後半の物語を分析 立 し、以下のように示している。 ‧ 國. 學. 新院も父為義も亡くなった後であるため、確かに為朝にとって表面的に. ‧. は忠の対象も存在しなくなっている。しかし、為朝の忠義は決して希薄. y. Nat. にはならない。むしろ一層強く「孤忠」として意識するようになってい. sit. る。それが時に孝とぶつかって、為朝は事ある毎に自らの死をもってす. n. al. er. io. るしか解決し得ないと考えているように描かれている。しかし、為朝の. i n U. v. 周りに配置された人物が常に為朝に適切な行動を促し、困難ではある. Ch. engchi. が、忠義と孝の並び立ちそうにない二者を何とか融合し、共存させつつ 生きる道を見付けられるよう導いているのである。10. つまり黒田氏は『弓張月』の物語は「忠と孝」をめぐっているという点に 賛同し、また、忠と孝は時に衝突があっても、馬琴はこの両者をうまく融合 し、決してこの「忠」と「孝」に背くことはないと主張している。 徳田氏はさらに徳のある人が王となるという、儒教の易姓革命論が『弓張 黒田政広「馬琴の「孝―『椿説弓張月(前篇)』の父子像―」」 (『くらしき作陽大学・ 作陽音楽短期大学研究紀要』41(2)、くらしき作陽大学・作陽音楽短期大学、2008.12) 128-129 頁 10 黒田政広「滝沢馬琴『椿説弓張月』の父子像二( 「後篇」を中心に)」 ( 『くらしき作陽 大学・作陽音楽短期大学研究紀要』42(2)、くらしき作陽大学・作陽音楽短期大学、 2009.12)238 頁 3 9.

(8) 月』に反映されていると指摘し、以下のように述べている。. 曚雲討伐から三人の譲り合いという筋の展開には、無道の君の場合には 武力革命もやむなく許されるが、一旦有道の士が統治権を得た時には禅 譲が望ましい、とする政治思想が盛りこまれている。(中略)最終回では 「琉求は、神御代より大八州の属国として」という琉球日本領土論が再 三述べられ(中略)こうした論をも含めた儒教的政治論が『弓張月』を 一本の太い線として貫いていることを見落としてはならない。11. つまり徳田氏は馬琴が儒教の易姓革命の思想を認めていると指摘してい. 治 政 大 葉が使われている。後藤丹治氏は「南倭」について、 立. る。また、日本と琉球の関係について、『弓張月』本文では「南倭」という言. ‧ 國. 學. 琉球を南倭と唱えた点、中国の史籍に倭と称することが国史に一致しな いのは実は南倭のことである点は、南島志総序に同説があり、馬琴はそ. ‧. れによって、こう書いた。(『弓張月(下)』). y. Nat. sit. と述べ、馬琴が琉球を「南倭」と称しているのは新井白石の『南島志』の影. n. al. er. io. 響を受けたからだと指摘している。横山學氏も同じく、琉球を日本の属国と. i n U. v. するのは白石の「南倭構想」の影響であると論じている。12. Ch. engchi. 『弓張月』本文には琉球の始原の物語についての記述が三箇所あるが、詳 しくは以下に示す。. 続篇巻之一「拾遺考證」には、. 本朝怪談故事に云、「琉球神道記に云、琉球國の王宮に榜するに、龍宮城 と書。袋中の曰、是を見るときは、琉球とは龍宮の義なり。音通ずるゆ ゑ歟。この國東南に在て、水府の内の極深の底なれば、龍宮となすも故 ある哉。天龍地龍の社あり。是を天妃といふ。今異國人の菩薩と稱ふる は是也」といへり。今試に、これを据するときは、神代紀に、所謂海宮. 11 12. 水野稔ほか編『図説日本の古典 19 曲亭馬琴』(集英社、1980.10) 横山學『琉球国使節渡来の研究』 (吉川弘文館、1987.02) 4.

(9) は、琉球の事也、といはんも、亦誣たりとせず。彦火火出見尊、海神の 女、豊玉姫を娶て、海宮に留り住給ふこと三年、そのゝち豊玉姫、女弟 玉依姫を將、風波を冒して海邊に来到、方産に、化して龍となる條下を 考合するに、傳信録に、中山世鑑を引て、琉球開闢の祖を、阿摩美久と いふ。三男二女を生む。長女を君々、二女を祝ゝといふ。一人は天神と なり、一人は海神となる、といふを脗合するときは、神代紀にいふ海神 は、阿摩美久、豊玉姫は君々、玉依姫は祝ゝなりといはんも、その義遠 からず。且豊玉姫は龍と化し、海途を閉で去り、玉依姫は留りて、児、 鸕鷀草葺不合尊を養育まゐらせし事、一人は天神 (玉依姫歟)となり、一 人は海神(豊玉姫歟)となるとある、中山世鑑の趣によくあへり。13. 治 政 大 とあるように、琉球開闢の祖の阿摩美久は『日本書紀』の神代の巻に出た海 立 神で、阿摩美久の娘である君々と祝々は豊玉姫と玉依姫とされている。 ‧ 國. 學. また続篇巻之二第三十三回には、. ‧. 琉球國そのはじめをたづぬるに、天地開そめし時、一男一女化生して. y. Nat. (化生は父母なくて生れ出たるなり)夫婦となる。これを阿摩美久とい. n. al. Ch. engchi. er. io. へ、二女を祝ゝと稱ふ。(『弓張月(上)』). sit. ふ。(中略)件の夫婦遂に三男二女を生む。(中略)また長女を君々と稱. i n U. v. とある。琉球の開闢の祖は阿摩美久で、その娘は君々と祝々である。 残篇巻之五第六十七回で、自ら自分の正体を明かした福禄寿仙翁はさらに 自分の二女について、. この國開けそめしとき、一男一女化出たる、その男の神はわれなれば、 われに三男二女ありけり。彦火火出見尊、鈎を求めて、この國へ來ませ しとき、長女君々は、尊におもはれたてまつり、豊玉姫と召れつゝ、遂 に孕ることありて、鸕鷀艸葺不合尊を産奉るとき、ふかく羞ることあり て、日本より脱て歸りしかば二女祝ゝを進らして、皇子を養育奉れば、. 後藤丹治校注『椿説弓張月上』 (日本古典文学大系 60、岩波書店、1958.08) 、416- 417 頁 5 13.

(10) 玉依姫と召れたり。この因縁にわが嫡男に、天孫の姓を賜り、世に天孫 氏と稱せらる。さればわが流求は、神の御代より大八洲の属國として種 嶋と、唱るよしは彦火火出見の尊の胤をわが女児の、腹に宿せし故に名 とす。(『弓張月(下)』). と語っている。 『日本書紀』で彦火火出見尊がたどり着いた海宮は琉球で、彦 火火出見尊と結婚した豊玉姫は君々で、豊玉姫の妹である玉依姫は祝々とさ れている。 以上の琉球の始原の物語について、播本眞一氏が以下のように指摘してい る。. 治 政 大 筆者は、『弓張月』が日本神話と琉球の始原と結びつきを強調するのは、 立 舜天丸の琉球王継承の正統性を儒教とは異なる原理によって説明しよう ‧ 國. 學. としたからだと考えている。14. ‧. つまり徳田氏の言う易姓革命論を認めるのではなく、馬琴は血統的正統性. io. n. al. y. er. 妻白縫の魂が寧王女の体に乗り移ったことに注目し、. sit. Nat. を重要視しているという。また琉球王位継承について、久岡明穂氏は為朝の. i n U. v. これは、「ある時は王女たり、又ある時は、白縫たらん」といっていたと. Ch. engchi. おりの様相であるが、しかしこれは、別々の人格がまったく無自覚に一 つの「身體」に共存して、時間的にそれが交互に表面に出る、というの ではない。王女も白縫もお互い双方の過去の記憶を共有しているし、互 いが「合體」していることを自覚していて、完全に融合した一人格たり えているのである。/だからこそ、白縫の子である舜天丸が、そのまま 王女の子であると自覚されたのである。(中略)このようにして舜天丸 は、完全に王女の子となり、そのことによって、琉球の王統の上に位置 をしめ、その資格において正式に即位したのである。15. 14. 播本眞一「 『椿説弓張月』論」 ( 『日本文学研究』4746、大東文化大学、2007.02)59. 頁 久岡明穂「舜天丸と琉球王位―『椿説弓張月』―試論」 (『光華日本文学』7、京都光 華女子大学、1999.08)47 頁 6 15.

(11) と指摘している。つまり寧王女と白縫姫が一人格になって、白縫姫の子であ る舜天丸も寧王女の子であるという寧王女と白縫姫の「合体」の特殊性を述 べているのである。 しかし、寧王女と白縫姫との「合体」だけで、舜天丸が王位の正統な継承 者になるにはまだ不十分と思われる。久岡氏はひきつづき、. 馬琴は、日本と琉球とが支配被支配の関係にある国と国とではなく、「天 神の孫」である彦火火出見尊と、いわば「国神」である「海神」の娘、 豊玉姫すなわち君々との、婚姻によって結ばれる関係の国である、とし. 政 治 大. ていたと考えられる。16. 立. と指摘し、日本と琉球の関係が支配と被支配の関係ではなく、彦火火出見尊. ‧ 國. 學. と豊玉姫が婚姻によって結ばれたから、日本と琉球が血縁関係もあると論じ ている。つまり久岡氏は血統から見れば、舜天丸が王位の正統な継承者であ. ‧. ると認めている。同論文ではさらに、馬琴が単に福禄寿仙を海神に仕立てた. y. Nat. だけではなく、『弓張月』の物語の展開にも彦火火出見尊神話を結び付けてい. n. er. io. al. sit. ると指摘し、以下のように分析している。. i n U. v. (ア)山で狩りをして暮らしていたこと、弓矢を道具とすること. Ch. engchi. (イ)極めて困難な探し物をしなければならない難題にあうこと (ウ)探し物を求めて案内者に海の国へ導かれること (エ)「海宮」(=琉球)にて「海宮」の王(=琉球王)の娘と出会うこと (オ)海の国にて海の国の娘を介して探し物を見つけること(為朝は鶴、 彦火火出見尊は釣針) (カ)尊もしくは王となる物が「鰐魚」もしくは「沙魚」に乗って海を渡 り、国に帰ることも一致している (キ)『弓張月』における琉球国の「玉璽にひとしい」「琉球二顆の珠」 と、『日本書紀』における「海宮」の宝「潮満瓊」「潮涸瓊」とは、. 久岡明穂「 『椿説弓張月』と彦火火出見尊神話―福禄寿仙の<種明かし>の意味―」 ( 『叙説』36、奈良女子大学、2009.03)52 頁 7 16.

(12) 「洪波」および「洪濤」と、ともに水に関わり、数も一致している こと (ク)海の国王の娘から誕生した子は尊もしくは王となることも一致して いる. しかし、(ク)の点について、はたして舜天丸は寧王女の子と言えるのか、 まだ検討の余地がある。黄智暉氏も琉球王位継承について、上述の残篇巻之 五第六十七回に、福禄寿仙翁が語ることを持ち上げ、. 昔も今も日本の「恩沢」こそ琉球がその属国にならなければならない理. 治 政 大 が、考え方によっては馬琴が非難し続けてきた「簒位」と本質的に通じ 立 ているとも捉えられよう。 由だと主張しているところに「皇国意識」のようなものが働いている. 17. ‧ 國. 學. と論じ、この王位継承の問題に対する馬琴の処理方法にはやはり「簒位」の. ‧. イメージが含まれていると説く。また三宅氏は王位継承について、. y. Nat. トシ. シバシバアリ. キ ヒト. ナツテナル. sit. 史実に記される舜天は、『弓張月』後篇巻之一に『中山伝信録』を引用し ウラソヘノアンスト. n. al. er. io. て、「年十―五。 屡 有二奇徴一 長 為二浦 添 按司一。」と書かれ、「按司」の. i n U. v. 役職に就くこととある。だが、『弓張月』においては、島で紀平治に育ま. Ch. engchi. れるため、舜天丸は役職に就くことはない。これも馬琴独自の変容とい える。/なぜ舜天丸を役職に就けなかったのか。(中略)舜天丸が役職に 就いた上での決戦は謀反となってしまう。偽王子を擁した利勇に「按 司」という役職に就けられた為朝が、松寿に諭されながらも利勇を討た なかった様からは、馬琴が舜天丸の琉球統治を簒奪として受け取られな いよう配慮したことがわかる。18. と指摘し、もし舜天丸が役職に就いたら、たとえ王である人は暴君だとして 黄智暉「曲亭馬琴における「翻案」と「続編」の問題――『水滸伝』と『水滸後伝』 の受容をめぐって」 ( 『アジア遊学』131、勉誠出版、2010.03)191 頁 18 三宅宏幸「 『椿説弓張月』と聖徳太子伝承―琉球争乱を中心に―」 ( 『近世文芸』94、 日本近世文学会、2011.07)71 頁 8 17.

(13) も、舜天丸は謀反人となってしまうと論じている。同論文ではさらに、舜天 丸と聖徳太子とを比べ、以下のように述べる。. 舜天丸の人物像は、i 源氏の貴種である、ii 役職に就かない、iii 人々に尊 敬される「美少年」であり、曚雲を討伐する役割を担う、とまとめるこ とができる。(中略)すなわち。i 皇族である、ii 天皇に最も近い存在だ が、天皇にならない、iii 民衆に敬われ、十六歳で「逆臣」守屋を討つと いう神聖な存在である太子は、琉球王としてふさわしい資格を舜天丸に 与えるために、そのモチーフとして適したのではないか。/如上、琉球 争乱を収める舜天丸には、太子が持つ神聖性が賦与されている。琉球争. 治 政 大 神話をも絡めたものであり、そしてその要素は物語構成・登場人物の属 立 性を描き出す役割において重要な機能を果たしている。 乱の構想は中国白話小説『水滸後伝』だけでなく、太子伝承という日本. 19. ‧ 國. 學. 三宅氏は舜天丸と聖徳太子との間に共通点があり、太子伝承が『弓張月』. ‧. の構想に影響を与えたと論じている。しかし、残篇巻之四第六十六回には. y. Nat. 「王女を中城の世子殿にをらして、鶴を傅とし、為朝は大里へ退きて、舊の. sit. ごとく按司と稱し、舜天丸を浦添の按司として、源尊敦と名告らし給ふべき. n. al. er. io. よしを仰する」(『弓張月(下)』)という記述があり、戦いが終わったあとと. i n U. v. は言え、舜天丸はたしかに役職に就いた。舜天丸の立場についてまだ議論の 余地があると思われる。. Ch. engchi. また、『弓張月』残篇巻之五第六十七回の人魚について、三宅氏も『弓張 月』と『日本書紀』の違いを問題として提起したが、詳しくは検討していな い。その代わりに太子伝承にも人魚が現れることに注目し、人魚の出現は国 の禍を意味すると指摘している。 人魚伝説について、笹間良彦氏は日本古来の人魚伝説と人魚のミイラの資 料を分析し、. 日本の内陸部で見られた人魚も山椒魚もしくは大鯰であったかも知らな い。/日本沿海部での人魚は、潜水して魚貝類を採集する漁人の誤認さ 19. 同前掲注 18、71 頁 9.

(14) れた可能性もあるのではなかろうか。/人体に酷似する部分を持った海 魚もしくは海獣が美化され、人の願望するままに裸形の美しい女性の上 半身と魚の下半身を幻想したままイメージが定着した例もあろう。20. とあるように、人魚の存在自体を否定し、人魚は人の勘違いあるいは幻想の 産物であると論じている。田辺悟氏も人魚伝説について、「その内容は人魚に かかわる正の部分と、邪の部分に分かれ、両極において伝承されてきた。(中 略)人魚は生誕以来、正と邪の両面的性格を宿命として背負っている」21 と、伝説に出る人魚は正と邪のイメージ、両方も持っていると述べている。 また、九頭見和夫氏は江戸時代の文学作品に登場する「人魚」を取り上げ 分析し、. 立. 政 治 大. まず人魚の姿についてであるが、西鶴や静山が詳細に描写しており、そ. ‧ 國. 學. れによれば、上半身が美女で下半身が魚の姿をしている。しかし美女の 姿をしていても当時の人々にとっては、彼らの理解を越えた恐怖の対象. ‧. であった。そしてこの人魚像は、例えば甘い歌声で舟人を誘惑し溺死さ. y. Nat. せたという「ローレライ」等西欧の人魚を想起させ、興味深い。(中略). sit. つぎに『南総里見八犬伝』等多くの文献にみられたのが人魚の肉や油に. n. al. er. io. 関する効能についての記述で、例えば肉を食べると長生きをし、油を身. i n U. v. 体に塗ると寒中でも寒さを感じないなどである。肉については八百比丘. Ch. engchi. 尼伝説の影響が有力であるが、油については伝説の他に西欧から伝わっ た博物学の影響も排除できないと思われる。22. と述べ、当時西欧から伝来した博物学の文献が江戸時代の人魚像の形成に大 きな影響があると論じている。九頭見氏はさらに江戸時代前の人魚に関する 文献を分析し、江戸時代以前においての人魚像の形成は中国との関係が深い と述べ、また江戸時代の人魚像と比べ、以下のように述べる。. 江戸時代以前の「人魚」像の特徴としては、容姿は人面魚身で四足があ 20 21 22. 笹間良彦『ロマンの怪談―海と山の裸女―』 (雄山閣、1995.11)119 頁 田辺悟『人魚』 (ものと人間の文化史 143、法政大学出版局、2008.07)123 頁 九頭見和夫『日本の人魚像』 (和泉書院、2012.03)18-19 頁 10.

(15) り、なき声が小児や鹿のなき声に似ていて、その出現は大事件が発生す ることから凶兆とみなされている。また効能については、人魚の油が燈 油として用いられることである。以上のことから判断すると、江戸時代 以前の「人魚」像と江戸時代の「人魚」像の間にはそれほど大きな相違 は認められない。23. 九頭見氏は江戸時代の人魚像が西欧からの影響を受けたが、江戸時代以前 に刊行された文献が江戸時代の人魚像の形成に大きな影響があると論じてい る。九頭見氏も人魚の出現が凶兆とみなされていると述べているが、詳しく は論じていない。. 治 政 大 球の誕生伝説、及び人魚の伝説を分析しながら、『弓張月』における王位継承 立 の問題を明らかにしたい。 本研究では先行研究を踏まえて、琉球についての史料をはじめ、日本と琉. ‧. ‧ 國. 學. 第三節 研究方法. y. Nat. sit. 以下、研究方法について述べる。. n. al. er. io. 第一章では、研究動機と目的および先行研究、研究方法について述べる。. i n U. v. 第二章ではまず江戸時代の国学者と政治家の琉球認識について考察し、当時. Ch. engchi. の人が琉球についてどのようなイメージを持っているのかを検討したい。さら に『弓張月』の中の琉球について分析し、馬琴は琉球に対してどんな認識を持 っているのか、また江戸時代の国学者と政治家の琉球認識が馬琴にどのような 影響を与えたのか、改めて分析したい。 第三章においては、日本と中国古来の人魚伝説を収集・分析し、人魚の出現 と吉凶との関係を考証し、人魚のもたらす影響およびその位置づけについても 検討していきたい。また『弓張月』に論点を戻し、人魚の出現がどのような影 響を与えているのか解明してみる。 第四章においては、王位継承者候補である為朝、寧王女、舜天丸三人の王位 継承の資格、また三人それぞれ王位を断る理由を分析し、及び最後に舜天丸が 23. 九頭見和夫『日本の人魚像』 (和泉書院、2012.03)56-57 頁 11.

(16) 王位を継承することについて検討したい。 第五章では、これまで取り上げた史料と伝説をまとめ、互いの関連を分析す る。また上述の人魚伝説の考証に基づき、馬琴が鮮魚を人魚に変えた真意を検 討し、『弓張月』における琉球の王位継承の問題を解明したい。. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. 12. i n U. v.

(17) 第二章. 江戸時代の人々の目から見た琉球. 第一節 江戸時代の政治家と国学者から見た琉球. 旧石器時代に琉球の各地にもうすでに人が生活していたが、実際に統一の王 権が確立されたのは十五世紀に入ってからである。その前に琉球各地は「按司」 と呼ばれる首長に支配され、十四世紀に入ると、三人の力の強い按司が現われ、 琉球本島を北山、中山と南山に分けた。1372 年に中山王察度をはじめ、中国 の明と朝貢関係を結んだ。明にとってはこの関係の構築は対外秩序の確立で、 琉球側にとって、これは自分の政権が認められることと思われる。この朝貢関. 治 政 大 しかしこの関係は江戸時代に入った後少しずつ変わっていた。1609 年、薩 立 摩島津氏は琉球王国を侵攻し、琉球は日本に支配され、日本と琉球は従属関係. 係は十五世紀に入って、統一した王朝が樹立された後も続けていた。. ‧ 國. 學. になった。また、当時の琉球国王である尚寧王は、島津氏への起請文を書かさ れた。起請文の第一条目は、. ‧. y. Nat. 一 琉球之儀、自往古、為薩州島津氏之附庸、依之、太守被譲其位之時者、. sit. 厳艤船、以奉祝焉、或時々以使者・使僧、献陋邦之方物、其礼義終無. n. al. er. io. 怠矣、就中大閤秀吉公之御時所被定置者、相附薩州徭役諸式可相勤旨、. i n U. v. 雖無其疑、遠国之故不能相達、右之御法度多罪々々、因茲、球国被破. Ch. engchi. 却、且復、寄身於貴国上者、永止帰郷之思、宛如鳥之在籠中、然処、 家久公有御哀憐、匪啻遂帰郷之志、割諸島、以錫我、其履、如此之御 厚恩、何以可奉謝之哉、永々代々対薩州々君、毛頭不可存疎意事24. とあるように、琉球は昔から薩摩の付属であることを認め、薩摩の侵攻につい ての原因はすべて琉球の問題であり、薩摩の侵攻は正当なことと認めて、さら に今後も薩摩に忠誠することも誓った。上述の請起文について、波平恒男氏は 「往古よりの附庸」が侵攻を正当化するだけでなく、結論としても琉球側の将 来に続く忠実義務を導出する、つまりは支配関係を正統化する論理構成となっ. 東京大学史料編纂所「琉球国中山王尚寧起請文」https://www.hi.utokyo.ac.jp/conference-seminar/science/(2015.06.07) 13. 24.

(18) ている25と指摘している。その以降の琉球は日本に支配されながら、中国との 朝貢関係も続けていて、こうした関係は明治時代まで続いた。 羽地朝秀は琉球の王族で、島津氏による琉球王国の侵攻後、1665 年に羽地 は琉球王国の改革を進行していた。羽地も琉球の最初の正史『中山世鑑』(以 下、 『世鑑』と略す)を編纂者である。 『世鑑』の巻一に琉球の開闢伝説が記さ れている。琉球の開闢の祖は阿摩美久という神で、阿摩美久は琉球を創造した 後、女神と結婚し、三男二女が産れた。その長男は琉球国の祖で、天孫と号す る。しかし、『中山世鑑』によると、. 天孫氏世衰微政廃シテ諸侯叛者多シ依テ逆臣利勇弑君奪位事アリ尊敦其. 治 政 大 致シケル終ニ獨夫利勇ヲ討テ寶位ニ登リ給是為舜天王 立. 此ハ浦添按司タリ修徳治民給事昔ノ有熊氏ノ如シ是以諸侯尊敦ニソ帰服 26. ‧ 國. 學. とあるように、琉球王国の開国先祖は天孫であるが、天孫氏の子孫が政治を荒 廃して、臣下の利勇に殺され、王位を奪われた。その後、利勇は尊敦という按. ‧. 司に討伐され、尊敦は琉球王国の王になり、舜天王と呼ばれる。『世鑑』で舜. sit. y. Nat. 天王について、. n. al. er. io. 舜天尊敦ト申奉ルハ大日本人皇五十六代清和天皇ノ孫六孫王ヨリ七世ノ. i n U. v. 後胤六條判官為義ノ八男鎮西八郎為朝公ノ男子也(『国家図書館蔵琉球資 料續編』、863 頁). Ch. engchi. とあるように、舜天王は源為朝の子であることを示している。さらに、. 大日本人王五十六代清和天皇之孫六孫王八世孫為朝公為鎮西将軍之日掛 千鈞強弩扶桑而其威武偃塞垣草木後逢保元之乱而客於豆州有年当斯時舟 随潮流始至此因以更流虬曰琉求也国人従之如草加風於茲為朝公通一女生 一男子名尊敦(『国家図書館蔵琉球資料續編』、841-842 頁) 波平恒男「近世東アジアのなかの琉球王国―琉球処分の歴史的与件という視角から ―」 ( 『政策科学・国際関係論集』14、琉球大学法文学部、2012.03)20 頁 26 北京図書館出版社編『国家図書館蔵琉球資料続編』 (北京:北京図書館、2002.10) 862-863 頁 14 25.

(19) と記され、為朝の渡琉伝説は史実として記録されている。為朝は保元の乱の後 琉球に渡って、琉球人の女子と結婚してから、尊敦(舜天王)をもうけた。つ まり舜天王は琉球の人でありながら、日本人の後胤でもある。これは羽地の「日 琉同祖論」という信条を反映していると思われる。もう一つ羽地の「日琉同祖 論」の立場を明確に示しているのは、羽地が琉球王国の摂政している時に、 1673 年 3 月の仕置書であり、琉球についての認識を以下のように示している。. 此国人生初は、日本より為レ渡儀疑無二御座一候。然れば末世の今に、天 地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖レ然言葉の余相違は. 政 治 大. 遠国の上久敷融通為レ絶故也27. 立. 羽地は琉球の人の先祖は日本から渡ったのであり、使っている名詞とか日本. ‧ 國. 學. とは大体同じだが、言葉は違うのは琉球と日本との距離が遠いで、長年の間に 交流していなかったからだと主張している。. ‧. こうした羽地の「日琉同祖論」について、田名真之氏は、. y. Nat. sit. 島津侵入から半世紀を経て政治的には薩摩藩の支配圧力を強くうけるな. n. al. er. io. か、世相は頽廃の度を強めていた。進貢でも薩摩藩の委託貿易をおろそか. i n U. v. にし、故意ともみえるサボタージュをくりかえしていた。羽地は薩摩支配. Ch. engchi. という厳然たる事実を前に、現実を認識し、それに対応して国家を立て直 す必要を痛切に感じていた。そのために王国内にはびこる古琉球的なるも のを排除し、近世的論理(儒教的論理)による国家経営、官僚の意識の改 革を志向したのである。/羽地は強烈な個性と自らの合理性を前面に押し 立てながら改革を断行する。神聖な国家行事たる国王の久高・知念・玉城 参詣を冬季の海上の不安を理由に、弁ヶ嶽への勧請・遙拝への変更を提案 し、廃止においこむ。さらには元来琉球と日本と同根ということまで持ち 出して、暗に不合理な国家行事への疑問さえ投げかけていた。28. 27 28. 真境名安興『真境名安興全集 第一巻』 (琉球新報社、1993.02)19 頁 高良倉吉ほか編『図説琉球王国』(河出書房新社、1993.02)91 頁 15.

(20) と述べ、羽地は薩摩の支配下で改革を行って、その改革に伴って「日琉同祖論」 の観点も持ち出したと指摘している。仲村清司氏も同じことろに注目し、. 羽地は薩摩の属国となった琉球の現実をいったん認め、琉球人と日本人と はもとは同じ祖先であるとした方がいらぬ軋轢を起こさず、政治改革もス ムーズに進むと考えたに相違ない。あるいは深読みすると、異民族に支配 されていると思うより、同民族に支配されていると認識を変える方が、琉 球の民は心理的な屈辱感も軽減できるのではないかと考えたのかもしれ ない。29. 治 政 大 こうしたら琉球の政 支配される琉球人民の抵抗感が軽減するかも知れないし、 立 治改革がもっとスムーズに進めると、羽地の視点からその改革の動機を論じて とあるように、日本人は実は琉球人の先祖であることを主張すれば、日本人に. ‧ 國. 學. いる。. 羽地が「日琉同祖論」を主張するのは田名氏と仲村氏の論じているように、. ‧. 琉球王国の改革のためであると思われるが、そのほかには上述した尚寧王の起. y. sit. と考えられる。. Nat. 請文のように、「日琉同祖論」を主張するのも、日本に忠誠を示す手段の一つ. n. al. er. io. ほかに琉球に関心を示す人物は新井白石である。白石は江戸時代の学者で、. i n U. v. 『南島志』は白石が琉球から来た使節らと会談して、会談から得た情報をまと. Ch. engchi. めて、また多くの文献を参考して整理した著書である。白石は『南島志』を書 く動機について、宮崎道生は、. 清朝シナと我国とが此地を夫々隷属国と見なしていたことから、分争を惹 起し得るといふ危倶の念があり、アジアとこれ動かすヨーロッパの一般情 勢が次第に明かになるに伴はれ、琉球についての認識を深めようとして書 きまとめられたものではないかと思はれる30. と論じ、琉球についての認識を深めようとするのは白石の動機と論じている。. 29 30. 仲村清司『本音で語る沖縄史』 (新潮社、2011.06)146 頁 宮崎道生『新井白石の研究』 (吉川弘文館、1969)375 頁 16.

(21) では白石の琉球認識はどのような認識であろう。『南島志』の總序に、. 流求古南倭也(中略)且如二後漢倭國列傳所一レ載光武中元二年倭奴國奉レ貢 朝以為二倭國之極南界一也魏晋以前天朝未レ有下通二中國一者上所レ謂我極南界 即是古南倭也31. と述べ、倭国(日本)の南界は南倭(琉球)で、つまり琉球は倭文化の一部で あると示している。白石も為朝の渡琉伝説に触れ、. 而王舜天當二其國一先レ是保元之乱、故将軍源朝臣義家孫廷尉為義子為朝竄. 治 政 大 地 遂至 南島 為朝為 人魁岸絶力猨臂善 射南島人皆以為 神莫 不 服者 立 乃狥 其地 而還居未 幾官兵襲 攻之 竟自殺有 遺孤在 南中 母大里按 伊豆州一及平氏擅一レ權朝政日衰當憤憤欲レ復二祖業一因浮二海上一略二諸島之. 二. 一. 二. 一. レ. 一. レ. レ. 二. レ. 一. 三. 二. 二. レ. 一. 學. ‧ 國. 一. 二. 司姝育レ于二母氏一幼而岐嶷有二乃父之風一乃レ長衆推為二浦添按司一方二是時一 島兵起戦闘不レ息按司年二十二乃率 二其衆 一 一匡清レ亂擧國尊稱以為 レ王舜. ‧. 天王是已是歳文治三年也(『新井白石全集 3』、698 頁). y. Nat. sit. と記し、『世鑑』と同様、舜天王は為朝の子であると述べている。江戸時代の. n. al. er. io. 国学者である伴信友は『南島志』を検討し、この為朝の渡琉伝説について、. Ch. engchi. i n U. v. 琉球国の事は、はやく新井君美ぬしの、南島志といふ書になむ、めでたく かき著はされたりける、然あるける中に、源為朝の子舜天と云けるが、其 国の王となりて、初国しりて治けるより、漸に皇国風に化りて、遂にきは やかなる臣国となりぬる本末の趣、また其国の始の古事、そのほかすべて 皇国に関係れる事どもを記されたれど(後略)32. というように、渡琉伝説が史実であることに同意する。白石はさらに日本と琉 球との文化の関連を見出し、以下の表のように示している。. 31 32. 新井白石『新井白石全集 3』 (国書刋行会、1988.10)690 頁 伴信友『伴信友全集 3』 (国書刊行会、1907.10)252 頁 17.

(22) 宮室第四. 使人曰正殿及門墻庭階皆傚 二 漢制 一 其餘一皆如 二 本朝制 一而有 二 廣閒書院玄關等所 一皆鋪 レ地用 レ板坐設 二畳席一所レ謂席 レ地而坐 也按正殿之制為 二冊使 一 而設也如 二 其便殿一 則蓋古制也但其所 レ 謂廣閒書院等所我有二此制一亦始レ自二近時一耳(『新井白石全集 3』、706 頁). 禮刑第六. 凡燕會備 レ 楽楽有 二 國中中国二部 一 國楽其唱曲則如 二 我里謡 一 (『新井白石全集 3』、707 頁). 食貨第九. 造醸之方酒醪醋醤及乾醤之属亦皆所我制(『新井白石全集 3』、 712 頁) 茶茗之品此間所レ産尤為二珍惜一茶室茶具之式候湯立レ茶之法一. 政 治 大. 皆傚二我制一(『新井白石全集 3』、712 頁). 立. 上述の内容によると、琉球の文化は日本の文化に似たところがあり、これも. ‧ 國. 學. 「倭文化」の影響であると思われる。白石は単に琉球についての認識を深める だけではなく、日本と琉球との結びつきを固くしようとした、と考えられる。. ‧. 横山學氏は白石と信友の琉球認識について、. y. Nat. io. sit. 新井白石が「琉球古南倭」として論じた倭文化の構想は、国学の盛隆と共. n. al. er. に発展し、琉球は皇国意識をもって捉えられるようになった。 『南島志』に. i n U. v. おいては日本と琉球との繋りを示す要素としてほんの数行用いられたに. Ch. engchi. すぎない為朝渡琉の記事が、伴信友にとっては琉球と皇国日本との関係を 示す絶好の題材であったのである。新井白石は、基本的には琉球と日本と は「倭文化」で連なっているとしながらも、琉球独自の文化を認めようと している。これに対し信友の場合は、その皇国意識が徹底しており、言語・ 王統ばかりでなく「沖縄」 (オキナワ)という国号まで皇国(日本人)の付 した名であるとするのである。33. と述べ、白石と信友の琉球認識に大きな違いがあると論じている。しかし、為 朝の渡琉伝説を『南島志』に記した白石はこの伝説を認めたからこそ、『南島. 横山學「江戸時代の「琉球」認識―新井白石・白尾国柱・伴信友―」 (『南島史学』 20、南島史学会、1982.09) 18. 33.

(23) 志』にこの伝説を載せたと考えられる。例え白石が琉球独自の文化を認めよう としても、皇統の血筋上から考えれば、白石は日本と琉球とは深い関係がある と認めていると思われる。 羽地は琉球の政治家で、立場上では白石と信友とは違うが、琉球に対する認 識はほぼ同じで、琉球の先祖は日本であると認識している。また、こうした認 識を形成する原因はやはり当時の琉球は日本に支配されながらも中国との朝 貢関係も続けている微妙な立場に置かれていたことにあると考えられる。日本 側にとって、血の繋がりにより自分の支配が正当化できる。一方、日本に敗れ、 さらに支配された琉球側にとって、この繋がりは日本との不必要な争いから避 けることができると考えられる。. 立. 政 治 大. 第二節 『椿説弓張月』における琉球王国. ‧ 國. 學. 『弓張月』の前篇巻之二で、為朝は琉球に渡った鶴を捜すため、琉球に渡ろ. ‧. うとする。琉球について、為朝は「琉球は薩摩潟を去こと大洋三百七十里を隔. y. Nat. たるに、いかにして渡ゆかん。殊に地理をしらず、言葉を觧せず。」(『弓張月. sit. (上)』 )と言う。琉球の言葉について、馬琴は『弓張月』續篇巻之一の「拾遺. n. al. er. io. 考證」に『千載集』、『和漢三才図会』、『中山伝信録』を参考し、. Ch. engchi. i n U. v. 千載集に、おぼつかなうるまの嶋の人なれやわが言の葉をしらずかほなる /いにしへは言語も通ぜざりしにや。和漢三才図會に、琉球語を些許載た り。所謂、日をおでた、月をおつきかなし、火をおまつ、水をおへい、と いふ類、注釋なくては通じがたし。亦中山傳信録に載たる、琉球語を閲れ ば、天は町、日は飛、月は子急と注して、およそは此方の言語に違ず。お もふに、和漢三才図會に載たる琉球語は彼国の古言なるべし。彼処の土人、 下郷に居るものは、今もわが邦の古言を稱るもあるにや。中山傳信録云、 「琉球土人、居下郷者、不自稱琉球國、自呼其地曰屋其惹、葢其舊土名也。」 といへり。屋其惹はこの方の古言にて、いにしへ琉球を呼て、於幾乃志麻 ともいへり。(『弓張月(上)』). 19.

(24) と述べ、琉球の古来の言葉は日本と違うが、現在使う言葉は日本のと似ている。 これに先んじて、前篇巻之二で為朝の従者である紀平治は、. それがしが祖父は元琉球國の人なるをもて、彼國の事をば、父もをさをさ しりて、生平にかたり聞せ候ひき。まづその槩略を申候べし。 (中略)この 國東北はこれ日本、西南は福建の梅花所にして、大洋七日にして到るべし といふ。徃昔神功皇后、三韓征伐のとき、琉虬怕れて夥の貢を献る。しか りしより以降、彼洲人、我白石硫黄島に来り、白石硫黄嶋人も、又をりを り彼國に到りて交易せり。今はその事絶たりといへどもなほ十二の嶋人は をりをり渡海するもありとぞ。君もし琉球へ到らんとならば、それがし御. 政 治 大. 案内いたすべし。(『弓張月(上)』). 立. と言って、彼らにとって琉球は昔から日本との交易があったが見知らぬ異国で. ‧ 國. 學. あろう。日本と琉球は別々の国に見えるが、馬琴は琉球について考察し、『弓 張月』續篇巻之一の「拾遺考證」に、. ‧. y. Nat. 神代紀に、 「海宮、海郷」とあるは、琉球の事なるべきよし(中略)愚按ず. sit. るに、龍宮は琉球也。本朝怪談故事に云、 「琉球神道記に云、琉球國の王宮. n. al. er. io. に榜するに、龍宮城と書。袋中の曰、是を見るときは、琉球とは龍宮の義. i n U. v. なり。音通ずるゆゑ歟。この國東南に在て、水府の内の極深の底なれば、. Ch. engchi. 龍宮となすも故ある哉。天龍地龍の社あり。是を天妃といふ。今異國人の 菩薩と稱ふるは是也」といへり。今試に、これを据するときは、神代紀に、 所謂海宮は、琉球の事也、といはんも、亦誣たりとせず。 (『弓張月(上)』). と述べ、 『日本書紀』の中の「海宮(龍宮)」は琉球であると主張している。 『日 本書紀』に、彦火火出見尊と豊玉姫の伝説について、以下のように示している。. 彦火火出見尊因娶二海神女豊玉姫一。(中略)豊玉姫謂天孫曰、妾已娠矣。 当レ産不レ久。妾必以二風濤急峻之日一、出二到海浜一。請為レ我作二産室一相待 矣。 (中略)後豊玉姫、果如二前期一、将二其女弟玉依姫一、直冒二風波一来二到 海辺一。逮二臨産時一、請曰、妾産時、幸勿二以看一之。天孫猶不レ能レ忍、窃 20.

(25) 往覘之。豊玉姫方産化二為竜一。而甚慙之曰、如有レ不レ辱レ我者、則使二海陸 相通一、永無二隔絶一。今既辱之。将何以結二親昵之情一乎、乃以レ草裏レ児棄 二 一. 之海辺一、閉二海途一而径去矣。故因以名レ児、曰二彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊. 。(『日本書紀(上)』、167-169 頁). 馬琴は引き続き、上述した『日本書紀』の彦火火出見尊と豊玉姫の伝説と琉 球の開闢伝説を結び付け、以下のように示している。. この國開けそめしとき、一男一女化出たる、その男の神はわれなれば、わ れに三男二女ありけり。彦火火出見尊、鈎を求めて、この國へ來ませしと. 治 政 大 ことありて、鸕鷀艸葺不合尊を産奉るとき、ふかく羞ることありて、日本 立 より脱て歸りしかば二女祝ゝを進らして、皇子を養育奉れば、玉依姫と召 き、長女君々は、尊におもはれたてまつり、豊玉姫と召れつゝ、遂に孕る. ‧ 國. 學. れたり。この因縁にわが嫡男に、天孫の姓を賜り、世に天孫氏と稱せらる。 さればわが流求は、神の御代より大八洲の属國として種嶋と、唱るよしは. ‧. 彦火火出見の尊の胤をわが女児の、腹に宿せし故に名とす。 (『弓張月(下)』). y. Nat. sit. 馬琴は日本書紀で彦火火出見尊がたどり着いた海宮は琉球で、彦火火出見尊. al. n. に、. er. io. と結婚した豊玉姫は君々で、豊玉姫の妹である玉依姫は祝々としている。さら. Ch. engchi. i n U. v. 彦火火出見尊、海神の女、豊玉姫を娶て、海宮に留り住給ふこと三年、そ のゝち豊玉姫、女弟玉依姫を將、風波を冒して海邊に来到、方産に、化し て龍となる條下を考合するに、傳信録に、中山世鑑を引て、琉球開闢の祖 を、阿摩美久といふ。三男二女を生む。長女を君々、二女を祝〃といふ。 一人は天神となり、一人は海神となる、といふを脗合するときは、神代紀 にいふ海神は阿摩美久、豊玉姫は君〃、玉依姫は祝〃なりといはんも、そ の義遠からず。且豊玉姫は、龍と化し、海途を閉で去り、玉依姫は留りて、 児、鸕鷀草葺不合尊を養育まゐらせし事、一人は天神玉依姫歟となり、一 人は海神豊玉姫歟となるとある、中山世鑑の趣によくあへり。(『弓張月 (上)』) 21.

(26) とあるように、馬琴は『中山世鑑』に記される伝説に基づいて、さらに日本の 伝説と結び付けているのである。琉球の開闢伝説と日本の伝説を結び付けるこ とにより、馬琴は日本と琉球の関係を深めようとしていると考えられる。『弓 張月』で、馬琴も「南倭」という言葉を使っている。拾遺巻の目録に、「琉球 開闢南倭と稱して、原来日本の部内たりし舊説、舜天丸その名を尊敦と称して、 文治三年、終に琉球王となり給ふ」 (『弓張月(下)』)と記し、また残篇巻之五 第六十七回に、. さてもわが琉求は、神代に海宮と唱へ、人の世となりての後は、これを南. 治 政 大 あはざることあるは、みなこれ南倭のことにして、わが琉求を斥れいふの 立 み。又多褹國とも、多尼島とも、掖玖とも奇界とも唱し也。奇界乃奇怪に 倭と唱へたり。されば唐山の史などに、倭と稱すれども大日本の、國史に. ‧ 國. 學. て、この國奇怪の事多かり。後に鬼界と書によりて、鬼が嶋とも唱ふめり。 みな南嶋の総名にて、今なべていふ琉球なり。(『弓張月(下)』). ‧. y. Nat. とあるように述べている。後藤氏は大系の頭注に、「琉球を南倭と唱えた点、. sit. 中国の史籍に倭と称することが国史に一致しないのは実は南倭のことである. n. al. er. io. 点は、南島志総序に同説があり、馬琴はそれによって、こう書いた。」(『弓張. i n U. v. 月(下)』 )と述べ、馬琴が「南倭」という言葉を使うのは白石の『南島志』に. Ch. engchi. よる影響と指摘している。ここは後藤説に從ってよいだろう。また、 琉球の 別名について、同じ『南島志』総序に、. 推古天皇二十四年掖玖人来南嶋朝獻蓋自 レ此始是歳實隋大業十二年也曰 二 邪久一曰二掖玖一曰二益久一曰二夜句一曰二益救一東方古音皆通此云二掖玖一隋書 以為二邪久一即是琉求也又曰天武天皇二十一年秋所 レ遣多禰嶋使人等貢二多 禰國圖一其國去レ京五千餘里居二筑紫南海中一所レ謂多禰國亦是琉求也當二是 之時一南海諸夷地名未レ詳故因二其路所一レ由而名二多禰嶋一即路之所レ由而後 隷二大隅國一一作二多褹一唐書亦作二多尼一(『新井白石全集 3』、690 頁). と示しているように、琉球は「邪久」、 「掖玖」、 「益久」、 「夜句」、 「益救」、 「多 22.

(27) 禰」、 「多褹」など多様な別名を持っている。馬琴は南倭だけではなく、琉球の 別名の概念についても『南島志』に影響されたと考えられる。 上述の考察により、『弓張月』で馬琴の琉球認識は少なくとも羽地の『中山 世鑑』と白石の『南島志』の影響を受けていると言えよう。また、馬琴は『世 鑑』、 『南島志』などの書籍を参考した上で、さらに琉球の開闢伝説を『日本書 紀』の伝説を結び付けて、神話の時代から日本の神と琉球の神は親類である説 くことにより、「日琉同祖」という概念をさらに合理化していったと考えられ る。. 第三節 まとめ. 立. 政 治 大. 以上、江戸時代の国学者と政治家の琉球認識を考察した結果、薩摩侵攻の後、. ‧ 國. 學. 日本側の人間は日本の侵攻を合理化しようとして、日本人は琉球人の先祖であ ることを主張しているが、一方、薩摩の支配下の琉球側の人間は、不必要な争. ‧. いを避けるため、同じことを主張していると考えられる。. y. Nat. 『弓張月』の全体の構想は、為朝の渡琉伝説に基づいたものである。琉球に. sit. ついて、馬琴は多くな資料を参考し、その中に『南島志』、 『中山世鑑』などの. n. al. er. io. 影響を受け、当時の国学者と政治家たちが主張している日琉同祖という概念受. i n U. v. け入れ、さらに琉球の開闢伝説を操作し、『日本書紀』の彦火火出見尊と豊玉. Ch. engchi. 姫の伝説と結び付けて、同祖の概念を深めようとしていると思われる。『弓張 月』での馬琴の琉球認識は「日琉同祖」の概念が多く含まれると言えよう。. 23.

(28) 第三章. 和漢の典籍に見られる人魚. 第一節 中国の文献の中の人魚. 中国では、 「人魚」という言葉は紀元前もう出て来た。 『山海経』は中国の戦 国時代から漢代初期(紀元前 476 年頃-紀元前 202 年頃)にかけて成立した 地理書で、中には地理の知識だけ載されただけではなく、さまざまユニークな 生き物も記載されている。その中には人魚についていくつも記載している。 『山 海経』の中に人魚に関わる記述は以下のように示している。. 治 政 「其中多赤鱬、其狀如魚而人面、其音如鴛鴦」大 立 ②「西山経」の竹山. ①「南山経」の青丘山. ‧ 國. 學. 「其中多水玉、多人魚」 ③「北山経」の龍侯山、. ‧. 「其中多人魚、其狀如䱱魚、四足、其音如嬰兒、食之無癡疾」. y. Nat. ④「中山経」の熊耳山、. al. n. 「其中多人魚」. er. io. ⑤「中山経」の傅山. sit. 「其中多水玉、多人魚」. ⑥「中山経」の陽華山 「其中多人魚」. Ch. engchi. i n U. v. ⑦「中山経」の朝歌山 「其中多人魚」 ⑧「中山経」の葴山 「其中多人魚」 ⑨「海内南経」 「氏人國在建木西、其為人人面而魚身、無足」 ⑩「海内北経」 「陵魚人面、手足、魚身、在海中」34 34. 袁珂校注『山海経校注』 (成都:巴蜀書社、1993.04)7、29、103、158、167、 24.

(29) 『山海経』のいくつの地域の説明には人魚の出現の記述があるが、 「人魚」 という生き物について詳しく記載されていない。また、 「人魚」のほかに、 「赤 鱬」、 「氏人」、 「陵魚」などの言葉が記されているが、それらの共通点も人面魚 身で、「人魚」に類するものであると思われる。 中国前漢(紀元前 206 年-紀元前 8 年)の司馬遷によって編纂された歴史 書である『史記』の秦始皇本紀第六にも「人魚の膏を以て燭と為す。滅えざる 者之を久しうするを度ればなり。」35という記述があり、人魚の油で作る蝋燭は 長い時間を経ても火が消えないということで、人魚の油に不思議な力があるこ とを示している。. 治 政 大 また、中国の南朝(420 年-589 年)の志怪小説集『述異記』に、 立 ‧ 國. 學. 南海中有鮫人室水居如魚不廢機織其眼能泣則出珠36. ‧. とある。鮫人は南海に住み、その涙は真珠であることを示している。『日本国. y. Nat. 語大辞典』には鮫人について、「中国で、水中にすみ、魚に似ているという、. sit. 想像上の人。人魚に類する。南海にすみ、いつも機を織っていて、しばしば泣. n. al. er. io. き、その涙は落ちて珠玉になるという。」37という解釈がある。機を織れること. i n U. v. から考えると、鮫人に人の手があることを想定していて、鮫人も「人魚」に属. Ch. engchi. すると思われる。また、昔の中国では布を織る仕事はほぼ女性に任せており、 『述異記』の鮫人は布を織るという点から推測すると、恐らく女性であろう。 中国唐代(618-907 年)に成書した『兼名苑』に、 「人魚、一名鯪魚。魚身 人面者也」38と記されている。この人魚の別名は鯪魚と言い、体は魚で、顔は 人の顔である。『兼名苑』に記載された人魚のイメージはほぼ『山海経』に記 載されたのと同じである。 宋代(960 年-1279 年)の『稽神録』は「波中婦人」という箇所があり、. 35 36 37. 38. 169、199-200、206、330、376 頁 吉田賢抗『史記一』 (新訳漢文大系 38、明治書院、1973.02)366 頁 任昉『述異記』 (景印摛藻堂欽定四庫全書薈要 v.278、台北:世界書局、1998)79 頁 日本国語大辞典第二版編集委員会編『日本国語大辞典第二版第五巻』 (小学館、 2001.05)332 頁 李増杰ほか輯注『兼名苑輯注』 (北京:中華書局、2001.05)21 頁 25.

(30) 謝仲宣泛舟西江、見一婦人没波中、腰以下乃魚也。竟不知人化魚、魚化人。 39. と述べている。謝仲宣という人が見た婦人は、腰の以下は魚の模様であり、こ の婦人はもとは魚なのか人なのか分からないということだけが記され、他に何 も記載されていない。 同じ宋代に編纂された『太平広記』 (977 年-978 年)に「海人魚」について の記述があり、以下のように述べている。. 治 政 大 無不具足。皮肉白如玉。無鱗、有細毛。五色輕軟。長一二寸。髪如馬尾。 立 長五六尺。陰形與丈夫女子。無異。臨海鰥寡多取得。養之於池沼。交合之. 海人魚。東海有之。大者長五六尺。状如人。眉目口鼻手爪頭皆為美麗女子。. ‧ 國. 學. 際。與人無異。亦不傷人。40. ‧. 「海人魚」はほぼ人と同様で、人間に害を与えないと述べている。宋代以前. y. Nat. の文献と違うのは、『稽神録』と『太平広記』は「人魚」について、明確に女. sit. 性に描かれることが見える。また、宋代の文献の中では、人魚についてのイメ. n. al. er. io. ージも『山海経』に描かれた人の顔をしている魚というイメージではなく、人. i n U. v. の体を持ち、体の一部分は魚の模様をしているイメージになった。宋代に入っ. Ch. engchi. て、人魚のイメージはだんだん「人間」に近くなってきたと思われる。 中国の明代になると、李時珍(1518 年-1593 年)が中国の植物を中心にし て編集した薬物学の集大成である『本草綱目』に「䱱魚」と「鯢魚」の記述が り、この二つの生き物の別名は同じ人魚であると記されている。41 陳耀文(1573 年―1619 年)が編纂した『天中記』にも二つの人魚の記述が あって、ひとつは上述した『太平広記』の「海人魚」そのもので、もうひとつ の記述は以下のように示している。. 人魚 39 40 41. 白化文點校『稽神録』 (北京:中華書局、1996.11)139 頁 李昉編『太平広記』 (北京:中華書局、2003.06)3819 頁 李時珍編『新校注本草綱目』 (北京:華夏出版社、2013.01)1634 頁 26.

(31) 隆安中丹徒民陳性於江邊作魚簄潮去簄中得一女長六尺有容色無衣裳水去 不動臥沙中與語不應中一人就奸之性夜夢云我江黄也昨失路落君簄中小人 辱我今當殺之性不敢歸待潮來自逐水而去奸者尋病死42. 「江黄」は水に住んでいる怪物のひとつと言われるが、詳しい記録はない。 陳という人は人魚を捕って、その人魚はほかの人におかされた。その後人魚は 陳の夢の中に現れ、自分の正体は「江黄」であることを陳に知らせた。人魚は 自分が侮辱されたから、彼女を侮辱した人を殺すと告げた。その後人魚は水に 帰って、人魚をおかした人も病に罹って死んでしまった。 これまでの文献には、人魚の出現は吉凶とはまったく関係なく、 『太平広記』. 治 政 大 かけた報いで命を落すという点では、ここで初めて人魚の出現が不幸なことに 立 関わることになった。しかし、中国清代の屈大均(1630 年-1695 年)が撰し の「海人魚」にも人間に害を与えないと記されていたが、人魚(怪物)を恥を. ‧ 國. 學. た『広東新語』 (1678 年)はまた違ったことが記述され、以下のように示して いる。. ‧. y. Nat. 大風雨時、有海怪被髪紅面、乗魚而往来。乗魚者亦魚也、謂之“人魚”;人. sit. 魚雄者為海和尚、雌者為海女、能為船祟。(中略)人魚之種族有盧亭者、. n. al. er. io. 新安(今宝安)大魚山與南亭竹没老萬山多有之、其長如人、有牝牡、毛髪. i n U. v. 焦黄而短、眼晴亦黄、面黧黒、尾長寸許、見人則驚怖入水、往往随波飄至。. Ch. engchi. 人以為怪、競逐之、有得其牝者、與之淫、不能言語、惟笑而已、久之能着 衣食五穀、携至大魚山、仍没入水。 (中略)人魚長六七尺、体髪牝牡亦人、 惟背有短鬣微紅、知其為魚。間出沙汭能媚人、舶行遇者、必作法禳厭。海 和尚多人首鱉身、足差長無甲。43. ここに出た人魚の顔は赤色で、また嵐のときに魚を乗って現れる。雄の人魚 は海和尚で、雌の人魚は海女と言う。この人魚は善な存在ではなく、船に会う と船上の人を誘惑し、祟りも起こし、忌まれる存在に見られる。この人魚の出 現はイコール不幸とも言えるだろう。そのほかには「盧亭」という人魚がいて、 42. 陳耀文編『天中記』 (景印文淵閣四庫全書 v.967、台北:臺灣商務印書館、1986)692. 頁 43. 屈大均『廣東新語注』 (廣州:廣東人民出版社、1991.05)487-488 頁 27.

(32) この種類の人魚も雌雄があり、顔が真っ黒で、髪も目も黄色である。「盧亭」 は前述した「海和尚」と「海女」とは違って、人を怖がって会うとすぐ水の中 に逃げる。また雌の盧亭を捕獲した人もいて、その人は盧亭と交合して、その 盧亭ただ笑うだけで、不幸なことは何も起こらなかった。 「海女」について、南懐仁(1623 年-1698 年)が撰した地理本『坤輿図説』 (1674 年)に、 「上體是女下體為魚形其骨為念珠等物可止下血」44という記述 があって、海女の上半身は女の体で、下半身は魚の模様である。さらに海女の 骨は血を止める不思議な効果がある。 『坤輿図説』の海女の形象に対して、 『広 東新語』に出た同じ「海女」という人魚の姿は「体髪牝牡亦人、惟背有短鬣微 紅、知其為魚」(体も髪も人の模様で、ただ背中に短い鬣があって、それで魚. 治 政 『坤輿図説』には他に「西愣魚」について、 大 立. であることを知る)、同じ「海女」と呼ばれても違う種類の人魚と思われる。. ‧ 國. 學. 大東洋海産魚名西愣上半身如男女形下半身則魚尾其骨能止血病女魚更効 45. ‧. y. Nat. と述べている。西愣魚は雌雄があり、この魚の上半身は人で、下半身は魚であ. sit. る。また、西愣魚の骨も血を止める効果があり、雌の骨は雄のより効果がある。. n. al. er. io. 「海女」も「西愣魚」も薬的効果があると示している。. i n U. v. 中国古来の人魚についての記述を整理してみると、中国の人魚は単なる一種. Ch. engchi. 類の生き物ではなく、さまざまな種類があることが分かる。最初の人魚は魚の イメージに近かったが、近代に至ってだんだん人のイメージが強くなってきた。 さらに人魚は雌雄があるが、ほぼ女性であるイメージも強くなってきたことも 窺われる。また、人魚は祟りを起こすが、当時の人々が人魚の出現は必ずしも 凶兆であると見なされていないと思われる。人魚の油や骨などは不思議な効果 があり、むしろ人魚は当時の人々にとって貴重なものだと思われる。続いて日 本の文献の中の人魚についての記述を分析してみたい。. 南懐仁編『坤輿図説』 (景印文淵閣四庫全書 v.594、台北:臺灣商務印書館、1986) 774 頁 45 同前掲注 44、787 頁 28 44.

(33) 第二節 日本の文献の中の人魚. 人魚に関する記述については、 『日本書紀』 (720 年)巻第二十二の推古天皇 二十七年の条に以下の記述がある。. 二十七年夏四月己亥朔壬寅、近江国言、於二蒲生河一有レ物。其形如レ人。 秋七月、摂津国有漁父、沈罟於堀江。有物入罟。其形如児。非魚非人、不 知所名。46. 推古天皇二十七年の夏に、摂津国の蒲生河に人に似たようなものが出て、同. 政 治 大. じ年の秋に、摂津国の漁師が堀江から名前も知らないものを捕らえて、そのも のの形が稚児に似ているが、人でも魚でもない。この人でも魚でもない生き物. 立. は人魚であろう。. ‧ 國. 學. 『聖徳太子伝暦』 (917 年)にも見える。聖徳太子は蒲生 この記述に関して、 河にいるものについて、「夫人魚は瑞物に非す、今飛兎なくして人魚の出るは. ‧. 「人魚」という名詞がここに使われている。しかし、 是国の禍ひたり」47と述べ、 西宮一民氏と小島憲之氏はこれは造作の可能性がある48と提示し、九頭見氏も. y. Nat. sit. 「人魚が蒲生河に出現した当時摂政であった聖徳太子が実際に「人魚」という. al. er. io. 言葉を用いていたならば、勅命で編纂された『日本書紀』の記述にも当然反映. v i n Ch も日本においては「人魚」という言葉はまだ使用されてはいなかったのではな engchi U n. していたはずだからである。『日本書紀』が完成した七二〇年頃には少なくと. いのか。 」49と指摘している。確かに九頭見氏が指摘するように、もし聖徳太子 がこの生き物の名前が分かれば、『日本書紀』にも記載があったはずと考えら れる。 同じ平安時代に源順が作られた『倭名類聚抄』 (931-938 年)にも人魚とい う言葉が記載され、. 坂本太郎ほか校注『日本書紀下』 (日本古典文学大系 68、岩波書店、1993.09)203. 46. 頁 47 48. 49. 岡田諦賢編『聖徳太子伝暦訳解』 (哲学書院、1894.07)79 頁 小島憲之ほか校注・訳『日本書紀 2』(新編日本古典文学全集、小学館、1996.10) 574 頁 九頭見和夫『日本の「人魚」像 『日本書紀』からヨーロッパの「人魚」像の受容ま で』 (和泉書院、2012.03)43 頁 29.

參考文獻

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