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第三章 和漢の典籍に見られる人魚

第二節 日本の文献の中の人魚

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第二節 日本の文献の中の人魚

人魚に関する記述については、『日本書紀』(720 年)巻第二十二の推古天皇 二十七年の条に以下の記述がある。

二十七年夏四月己亥朔壬寅、近江国言、於蒲生河物。其形如人。

秋七月、摂津国有漁父、沈罟於堀江。有物入罟。其形如児。非魚非人、不 知所名。46

推古天皇二十七年の夏に、摂津国の蒲生河に人に似たようなものが出て、同 じ年の秋に、摂津国の漁師が堀江から名前も知らないものを捕らえて、そのも のの形が稚児に似ているが、人でも魚でもない。この人でも魚でもない生き物 は人魚であろう。

この記述に関して、『聖徳太子伝暦』(917 年)にも見える。聖徳太子は蒲生 河にいるものについて、「夫人魚は瑞物に非す、今飛兎なくして人魚の出るは 是国の禍ひたり」47と述べ、「人魚」という名詞がここに使われている。しかし、

西宮一民氏と小島憲之氏はこれは造作の可能性がある48と提示し、九頭見氏も

「人魚が蒲生河に出現した当時摂政であった聖徳太子が実際に「人魚」という 言葉を用いていたならば、勅命で編纂された『日本書紀』の記述にも当然反映 していたはずだからである。『日本書紀』が完成した七二〇年頃には少なくと も日本においては「人魚」という言葉はまだ使用されてはいなかったのではな いのか。」49と指摘している。確かに九頭見氏が指摘するように、もし聖徳太子 がこの生き物の名前が分かれば、『日本書紀』にも記載があったはずと考えら れる。

同じ平安時代に源順が作られた『倭名類聚抄』(931-938 年)にも人魚とい う言葉が記載され、

46 坂本太郎ほか校注『日本書紀下』(日本古典文学大系 68、岩波書店、1993.09)203 頁

47 岡田諦賢編『聖徳太子伝暦訳解』(哲学書院、1894.07)79 頁

48 小島憲之ほか校注・訳『日本書紀 2』(新編日本古典文学全集、小学館、1996.10)

574 頁

49 九頭見和夫『日本の「人魚」像 『日本書紀』からヨーロッパの「人魚」像の受容ま で』(和泉書院、2012.03)43 頁

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人魚 兼名苑云人魚一名鯪魚上音陵魚身人面者也山海経注云聲如小兒啼故 名之50

とあるように、ここで源順は中国の『兼名苑』と『山海経』を参考したと明記 している。前節にすでに『兼名苑』と『山海経』を紹介したが、『兼名苑』で は人魚について魚の体で、人の顔である生き物と記し、『山海経』の注では人 魚の声は小児の泣き声に似たからこの名前を付けたと記している。『日本書紀』

では人魚(人でも魚でもないの生き物)の声について記されてないが、『日本 書紀』と『山海経』の記述から見ると、人魚に対する当時の人のイメージは「小 児」に似るものと考えられる。

前述のように『聖徳太子伝暦』では人魚の出現を国禍(不吉な象徴や凶兆)

としているが、人魚に似た生き物を国禍の兆しと見なす記述は鎌倉時代の『吾 妻鏡』(1300 年頃)の宝治元年五月の条にも見られ、以下のように示している。

廿九日辛巳。三浦五郎左衛門衛參左親衛御方。申云。去十一日。陸奧國 津輕海邊大魚流寄。其形偏如死人。先日由比海水赤色㕝。若此魚死故歟。

随而同比。奧州海浦波濤。赤而如云云。此㕝則被古老之處。先規 不快之由申之。所謂文治五年夏有此魚。同秋泰衡誅戮。建仁三年夏又 流來。同秋「田」左 金 吾〔頼家〕御㕝。建保元年四月出現。同五月義盛大軍。

殆為世御大㕝一云云51

『吾妻鏡』の記述によると、文治五年の夏にこの大魚が現われ、秋に奥州藤 原氏は源頼朝によりほろぼされた。建仁三年の夏にはまた現れ、同じ年の秋に 源頼家の将軍職は剥奪され、頼家は出家のうえで伊豆国修禅寺に幽閉され、最 後北条氏により暗殺された。建保元年四月の時この大魚も出現し、五月の時和 田義盛は兵を挙げて北条氏を襲撃するが、翌日に討たれて和田氏一族は滅亡さ れた。この大魚の出現は何かの大事件が起きる前兆と見られる。ここでは『日 本書紀』の記述と同様、「人魚」という言葉を使っていないが、当時の人にと

50 源順『倭名類聚抄 和名巻十九』(風間書房、1977.10)2 頁

51 黒板勝美編『吾妻鏡 後篇』(新訂増補国史大系第三十三巻、吉川弘文館、1933.02)

378 頁

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って、『日本書紀』と『吾妻鏡』の記述に見られる、人に似ている不思議な生 き物の出現は大事件が起こる予兆と思われる可能性があると推測できる。

同じ鎌倉時代で、『吾妻鏡』の成立時期より少し前、橘成季によって編纂さ れた『古今著聞集』(1254 年)の巻第二十「魚蟲禽獣第三十」のところにも人 魚に関する説話があり、以下のように示している。

七一二 伊勢國別保の浦人人魚を獲て前刑部少輔忠盛に獻上の事

伊勢國別保といふ所へ、前形部少輔忠盛朝臣くだりたりけるに、浦人日ご とに網をひきけるに、或日大なる魚の、かしらは人のやうにてありながら、

齒はこまかにて魚にたがはず、口さしいでゝ猿ににたりけり。身はよのつ ねの魚にてありけるを、三喉ひきいだしたりけるを、二人してにないたり けるが、尾猶つちにおほくひかれてけり。人のちかくよりければ、たかく をめくこゑ人のごとし。又涙をながすも人にかはらず。おどろきあさみて、

二喉をば忠盛朝臣のもとへもてゆき、一喉をば浦人とりてけり。忠盛朝臣 おそれ思けるにや、すなはち浦人にかへしてければ、うら人みなきりくひ てけり。されどもあへてことなし。そのあぢはひことによかりけるとぞ。

人魚といふなるは、これていの物なるにや。52

ここでまず注目したいのは、「人魚」という言葉である。この人魚の記述の 題名に「人魚」という言葉が使われており、話の最後にも「人魚といふなるは、

これていの物なるにや」と記されているが、文章の中ではこの生き物を人のよ うな頭を持つ大きな魚として描いている。文章の最後にこの大魚の形から人魚 という生き物であると推測したことから見れば、当時の時代では人魚に対する 認識があるが、「人魚」という名詞はまだ普及していないと考えられる。

また、「人魚」という言葉は当時まだ普及していない点を念頭に入れて考え ると、『吾妻鏡』の編纂者も同じ、異形の大魚についての認識があるが、この 異形の大魚の名前についてまだ認識していないであろう。

ほかにもうひとつ注目したいのは、浦人たちが人魚を喰うところである。あ えて人魚を食べた浦人たちには祟りや不吉なことも何も起こっていないと記

52 永積安明ほか校注『古今著聞集』(日本古典文学大系 84、岩波書店、1966.03)533-

534 頁

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述しているのは、逆に当時の人たちにとって、人魚を食べると何か恐ろしいこ とが起きる可能性があることをも意味していると思われる。すなわち、人魚は 不吉なイメージを持っていると考えられる。

南北朝時代の戦乱を描いた軍記物語『太平記』(1318-1368 年頃)にも人魚 についての記述があり、巻第二十七の「諸卿意見綸旨を下さるる事」の条に、

秦の始皇帝の墓について、以下のように記述がある。

天には金銀を以て日月う十丈に鋳させて懸け、地には江海を形取つて銀水 を百里に流せり。人魚の油十万石、銀の御器に入れて長時に灯を挑げたれ ば、石壁暗しと雖も、青天白日の如し。53

人魚の油を灯油として使って、その火を照らすところは昼のように明るくな る。前節が述べた中国の『史記』にも「人魚の膏を以て燭と為す。滅えざる者 之を久しうするを度ればなり。」(『史記一』、366 頁)という記述がある。人魚 の油に不思議な力があることを示している。

江戸時代以前の人魚についての記述を整理してみると、「人魚」という言葉 を使うのは中国からの影響と考えられるが、少なくとも、鎌倉時代までまだ普 及していないと思われ、また、当時の人々にとって人魚の出現は常に大事件を 伴うと見なされていると思われる。続いて江戸時代の人魚についての記述を分 析してみたい。

江戸時代に入ると、三浦浄心の『北条五代記』(1641 年)の「東海にて魚貝 取尽す事付人魚の事」にも人魚の記述があって、その記述によると人魚の出現 はよく不吉を伴うという。『北条五代記』の記述は以下のように示している。

① 文治五年の夏そとの浜へ人魚なかれよる。人あやしみこそつて是を見 る。おなしき年の秋秀衡子息ことごとく滅亡す。

② 建保元年の夏秋田の浦へ人魚なかれよる。此よし鎌倉殿への注進す。

此義をはかせにうらなはせ給へは兵かくのもとひと申に付て御祈祷あ り。同年五月二日和田義盛大いくさあり。

53 長谷川端校注・訳『太平記 3』(新編日本古典文学全集 56、小学館、1997.04)391 頁

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③ 建仁三年四月津軽の浦へ人魚なかれよる。将軍実朝公悪禅師に害せら

③ 建仁三年四月津軽の浦へ人魚なかれよる。将軍実朝公悪禅師に害せら