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『椿説弓張月』における献上品としての人魚

第三章 和漢の典籍に見られる人魚

第三節 『椿説弓張月』における献上品としての人魚

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る。江戸時代後期から人魚は西洋からの影響も受けていたが、中国からの影響 がまだ強いと考えられる。さらに人魚についてのイメージもすでに定着してい ると思われ、過去の文献では人魚の外見についてはさまざまな記録があったが、

江戸時代の資料における人魚はほぼ女性で、上半身は人の様子で、下半身は魚 の模様と記されている。

また、人魚の出現の後に常に大事件があるというイメージが残る一方、人魚 の肉を食べれば不老不死を得る、または人魚の骨は薬的効果があるなど、人魚 の体についてさまざま不思議な効能があるイメージも強くなってきたと思わ れる。

第三節 『椿説弓張月』における献上品としての人魚

『弓張月』の第六十七回の冒頭の段落では、人魚を献上する前に琉球王国の 浦人が「わが浦人は、世ゝの國王へ、供御の赤目魚を獻らしたるに、今に于は これを召ず。」(『弓張月(下)』)と言うように、もと琉球王国の国王に献上す るのは赤目魚である。赤目魚は鯛のことで、「鯛」という言葉を調べてみると、

「姿の立派さと美味とをもって海魚の王とされ、「めでたい」に通ずる縁起物 として慶事に用いられ、また「えびす」の像には付き物となっている」68とい う意味が含まれていることが分かる。

鯛は縁起のいいものと視され、国王に献上するのは当たり前のことである。

しかし、当時の琉球王国には国王がいない。もし鯛を為朝に献上したら、それ は為朝を新しい琉球王国の国王として認めることになる。それほど重要なもの を決して軽率に献上するわけにはいかない。また、乱を平定した為朝は各地か らの貢ぎ物を「みな龍宮城69の宝庫へ収さし、一ッもとり給ふことなかりしか ば」(『弓張月(下)』)というように、王族への献上品を一切自分のものとしな い。琉球王国の内乱を平定しても、為朝は琉球王国の王族ではないことを自覚 している。こうした為朝は決して鯛を受け取るはずがない。浦人たちもこのこ とを承知している上で、鯛のかわりに人魚を献上しようとしたと思われる。

68 中村幸彦ほか編『角川古語大辞典第四巻』角川書店、1994.10、192 頁

69 ここでは琉球王国の城を指す。

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また、前にも指摘した通り、この人魚を献上するパターンは『日本書紀』巻 十一「仁徳天皇」の条に似たようなパターンがある。しかし『日本書紀』では 浦人が献上するものは鮮魚であった。ところで、馬琴は人魚を献上品とする真 意は何だろうか。人魚のほかにも献上品とする別の海産物があるが、なぜ人魚 なのかが新たな疑問として浮上してこよう。平安中期に編纂された『延喜式』

によれば、アワビが献上品として用いられていたことが分かる。矢野憲一氏は アワビについて、

古くからアワビは海人部(海部)や安曇部(阿曇・阿豆美・渥美)の漁獲 物の中で最も珍重され、宮中の内膳司の供御や大膳職で百官の食膳に供さ れるために、各地の御厨から供進され、その供進に当る者を贄人とよび、

調庸課役に代わって供進の義務を負わされている民もいた。『延喜式』の 主計には十九国の多くからアワビが貢進されていることから、いかに大切 な物納税の一品であったかが知られよう。70

と述べ、アワビが貴重な海産物であり、また「貝は潮水の中で育ち、強い生命 力があるものと大昔の人々は考えたらしい。そしてアワビはその姿形から他の 生物より長命であろうと思ったにちがいない。そこで貝類を生命を蘇生復活さ せる呪具や薬とした」71と論じている。アワビに蘇生復活の能力があると見な されるから、貴重な献上品とされると思われる。

この点について、第二節ですでに論じたように、人魚にも似たようなイメー ジがある。『弓張月』にも、「傳聞く、倘人ありて、人魚の肉を一トたび噉へば、

その人の壽命疆りなしとなん」(『弓張月(下)』)、「世俗の稱するごとく、人魚 を噉ひて長壽なるよしは、見る所なし実に不老の仙丹なり」(『弓張月(下)』)

など記述があり、人魚の肉が長生不老の効能があると強調している。

人魚の肉の持つ不老不死の効能が、馬琴が人魚を献上品として選択した理由 の一つと考えられる。しかし、アワビと違って、人魚の出現が常に大事件を伴 うというイメージも馬琴が人魚にしたもう一つの理由と考えられる。『日本書 紀』の記述によると、菟道稚郎子は死を選び、最後は大鷦鷯尊(仁徳天皇)が

70 矢野憲一『鮑』(ものと人間の文化史 62、法政大学出版局、1989.06)96-97 頁

71 同前掲注 70、49-50 頁

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王位を継承することになった。『弓張月』も同じように、人魚を献上すること を契機として、最後琉球王国の王位の継承者が決められた。しかし、菟道稚郎 子も大鷦鷯尊も応神天皇の子で、血筋上同じ出身である。それに対して、『弓 張月』の継承パターンは一見してめでたいことであるが、王位の継承者である 舜天丸は元々琉球王室の人ではない。つまり舜天丸が王位を継承したことによ って、元の琉球王国の王室が持つ権力もなくなって、琉球王国を治めるのは新 しい皇統になると思われる。

また、人魚のような不思議なものの出現について、馬琴は自らの随筆『燕石 雑志』に、

古人今俗奇を好ざるもの稀なり。しかれど北越の七奇異、南海の平家蟹、

西海の不知火、關東の冨士の農男などは、常に見も熟れ聞きも熟れし故、

奇なりと知りつゝ奇なりとせず。狗の長鳴、鶏の宵鳴、鳥のしばなくを聞 けば、驚き怪みて不祥とし、衣に飛鳥の糞を被けられ、帯のおのづから結 ばる事あれば、これを祝して吉祥とす。その不祥ならざるも悪みて不祥と する故に、遂に凶事を招き、その吉祥ならざるも祝して吉祥とする故に、

終に吉事なし。予をもてこれを辨ずるときは怪はときあつて吉、時あつて 凶、また吉もなく凶もなき事おほかり。72

と述べている。馬琴はさらに例を挙げ、

平相國清盛安藝の守たりしとき、伊勢の國安能の津より艤して熊野權現 へ詣づるをりから、白魚躍りてその舟に入れり。この瑞周の武王の故事 に合へりとて、清盛手づから調味して、われも食ひ郎等にも食したるよ し、平家物語、源平盛衰記等に見え、亦新田左中将義貞朝臣、越前の國 金が崎の城に蟄りしころ、延元元年十月二十日の曙に、江雪霽れて城中 無事なりければ、東宮尊良親王を慰めまゐらせんとて、舟を金が崎に泛 べて、義貞、義助、實世、維頼等萬壽を奏すれば、白魚跳つてその舟に 入れり。亦是周武の故事に稱はせ給へりとて、義貞これを調さしめ、そ の胙を東宮に進れるよし、太平記に見えたり。かくは白魚の瑞ありて武

72 三浦理編『骨董集』(有朋堂書店、1915.08)550 頁

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王は殷に勝ち、紂を滅して周八百年の基をひらき、又清盛は為義義朝を 伐ちて官爵人臣のうへを極めたるに、などて南朝の君臣のみ幸なくて、

いく程なく金が崎の城を攻落され、東宮は自殺し給ひ、義貞も足羽にて はかなく討死し給ひけん。か々れば白魚の舟に入りしも、周武と平氏の 為には吉祥なれども、南朝には悪兆なり。73

と述べている。白魚の出現は周の武王と平家にとっていい兆しであるのに対 して、南朝にとってはよい兆候ではない。このような不思議なものの出現に ついて、具体的に吉凶が定まるわけではないが、必ず何かの事件の予兆だと 馬琴は捉えていると思われる。

『弓張月』続篇巻之一第三十一回では、為朝一行はかつて海難にあって、

船が覆ろうとするその時、白縫は海神の怒りを鎮めるべく、

傳聞景行天皇の四十年、日本武尊、東夷征伐の折から、相模より船出し て、上総へとて赴き給ふに、暴風忽地に起りて、皇子の船漂蕩し、既に 傾覆らんとしたりしかば、その妃弟橘姫命、皇子に代り、入水してうせ 給へり。さるによつて、風波立地に軟ぎて、御船恙なく岸に着くことを 得たりとぞ。君が武勇、日本武尊に劣り給はず。妾が心操、弟橘姫に及 ずとも、此身を犠として、海神へ献らは、風の止ざる事やはある。(『弓 張月(上)』)

と言って海へ身投げする。ここで白縫の言及した、弟橘姫が入水する話は

『日本書紀』に記述があり、以下のように示している。

是歳、日本武尊、初至駿河。(中略)亦進相模、欲上総。望

海高言曰、是小海耳。可立跳渡。乃至于海中、暴風忽起、王船漂 蕩、而不渡。時有王之妾。曰弟橘媛。穂積氏忍山宿禰之女 也。啓王曰、今風起波沁、王船欲没。是必海神之心也。願賤妾之身、

海高言曰、是小海耳。可立跳渡。乃至于海中、暴風忽起、王船漂 蕩、而不渡。時有王之妾。曰弟橘媛。穂積氏忍山宿禰之女 也。啓王曰、今風起波沁、王船欲没。是必海神之心也。願賤妾之身、