• 沒有找到結果。

『椿説弓張月』における琉球王国

第二章 史料の中の琉球

第二節 『椿説弓張月』における琉球王国

立 政 治 大 學

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

19

志』にこの伝説を載せたと考えられる。例え白石が琉球独自の文化を認めよう としても、皇統の血筋上から考えれば、白石は日本と琉球とは深い関係がある と認めていると思われる。

羽地は琉球の政治家で、立場上では白石と信友とは違うが、琉球に対する認 識はほぼ同じで、琉球の先祖は日本であると認識している。また、こうした認 識を形成する原因はやはり当時の琉球は日本に支配されながらも中国との朝 貢関係も続けている微妙な立場に置かれていたことにあると考えられる。日本 側にとって、血の繋がりにより自分の支配が正当化できる。一方、日本に敗れ、

さらに支配された琉球側にとって、この繋がりは日本との不必要な争いから避 けることができると考えられる。

第二節 『椿説弓張月』における琉球王国

『弓張月』の前篇巻之二で、為朝は琉球に渡った鶴を捜すため、琉球に渡ろ うとする。琉球について、為朝は「琉球は薩摩潟を去こと大洋三百七十里を隔 たるに、いかにして渡ゆかん。殊に地理をしらず、言葉を觧せず。」(『弓張月

(上)』)と言う。琉球の言葉について、馬琴は『弓張月』續篇巻之一の「拾遺 考證」に『千載集』、『和漢三才図会』、『中山伝信録』を参考し、

千載集に、おぼつかなうるまの嶋の人なれやわが言の葉をしらずかほなる

/いにしへは言語も通ぜざりしにや。和漢三才図會に、琉球語を些許載た り。所謂、日をおでた、月をおつきかなし、火をおまつ、水をおへい、と いふ類、注釋なくては通じがたし。亦中山傳信録に載たる、琉球語を閲れ ば、天は町、日は飛、月は子急と注して、およそは此方の言語に違ず。お もふに、和漢三才図會に載たる琉球語は彼国の古言なるべし。彼処の土人、

下郷に居るものは、今もわが邦の古言を稱るもあるにや。中山傳信録云、

「琉球土人、居下郷者、不自稱琉球國、自呼其地曰屋其惹、葢其舊土名也。」

といへり。屋其惹はこの方の古言にて、いにしへ琉球を呼て、於幾乃志麻 ともいへり。(『弓張月(上)』)

‧ 國

立 政 治 大 學

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

20

と述べ、琉球の古来の言葉は日本と違うが、現在使う言葉は日本のと似ている。

これに先んじて、前篇巻之二で為朝の従者である紀平治は、

それがしが祖父は元琉球國の人なるをもて、彼國の事をば、父もをさをさ しりて、生平にかたり聞せ候ひき。まづその槩略を申候べし。(中略)この 國東北はこれ日本、西南は福建の梅花所にして、大洋七日にして到るべし といふ。徃昔神功皇后、三韓征伐のとき、琉虬怕れて夥の貢を献る。しか りしより以降、彼洲人、我白石硫黄島に来り、白石硫黄嶋人も、又をりを り彼國に到りて交易せり。今はその事絶たりといへどもなほ十二の嶋人は をりをり渡海するもありとぞ。君もし琉球へ到らんとならば、それがし御 案内いたすべし。(『弓張月(上)』)

と言って、彼らにとって琉球は昔から日本との交易があったが見知らぬ異国で あろう。日本と琉球は別々の国に見えるが、馬琴は琉球について考察し、『弓 張月』續篇巻之一の「拾遺考證」に、

神代紀に、「海宮、海郷」とあるは、琉球の事なるべきよし(中略)愚按ず るに、龍宮は琉球也。本朝怪談故事に云、「琉球神道記に云、琉球國の王宮 に榜するに、龍宮城と書。袋中の曰、是を見るときは、琉球とは龍宮の義 なり。音通ずるゆゑ歟。この國東南に在て、水府の内の極深の底なれば、

龍宮となすも故ある哉。天龍地龍の社あり。是を天妃といふ。今異國人の 菩薩と稱ふるは是也」といへり。今試に、これを据するときは、神代紀に、

所謂海宮は、琉球の事也、といはんも、亦誣たりとせず。(『弓張月(上)』)

と述べ、『日本書紀』の中の「海宮(龍宮)」は琉球であると主張している。『日 本書紀』に、彦火火出見尊と豊玉姫の伝説について、以下のように示している。

彦火火出見尊因娶海神女豊玉姫。(中略)豊玉姫謂天孫曰、妾已娠矣。

産不久。妾必以風濤急峻之日、出到海浜。請為我作産室相待 矣。(中略)後豊玉姫、果如前期、将其女弟玉依姫、直冒風波到 海辺。逮臨産時、請曰、妾産時、幸勿以看之。天孫猶不忍、窃

‧ 國

立 政 治 大 學

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

21

往覘之。豊玉姫方産化為竜。而甚慙之曰、如有我者、則使海陸 相通、永無隔絶。今既辱之。将何以結親昵之情乎、乃以草裏児棄

之海辺、閉海途而径去矣。故因以名児、曰彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊

。(『日本書紀(上)』、167-169 頁)

馬琴は引き続き、上述した『日本書紀』の彦火火出見尊と豊玉姫の伝説と琉 球の開闢伝説を結び付け、以下のように示している。

この國開けそめしとき、一男一女化出たる、その男の神はわれなれば、わ れに三男二女ありけり。彦火火出見尊、鈎を求めて、この國へ來ませしと き、長女君々は、尊におもはれたてまつり、豊玉姫と召れつゝ、遂に孕る ことありて、鸕鷀艸葺不合尊を産奉るとき、ふかく羞ることありて、日本 より脱て歸りしかば二女祝ゝを進らして、皇子を養育奉れば、玉依姫と召 れたり。この因縁にわが嫡男に、天孫の姓を賜り、世に天孫氏と稱せらる。

さればわが流求は、神の御代より大八洲の属國として種嶋と、唱るよしは 彦火火出見の尊の胤をわが女児の、腹に宿せし故に名とす。(『弓張月(下)』)

馬琴は日本書紀で彦火火出見尊がたどり着いた海宮は琉球で、彦火火出見尊 と結婚した豊玉姫は君々で、豊玉姫の妹である玉依姫は祝々としている。さら に、

彦火火出見尊、海神の女、豊玉姫を娶て、海宮に留り住給ふこと三年、そ のゝち豊玉姫、女弟玉依姫を將、風波を冒して海邊に来到、方産に、化し て龍となる條下を考合するに、傳信録に、中山世鑑を引て、琉球開闢の祖 を、阿摩美久といふ。三男二女を生む。長女を君々、二女を祝〃といふ。

一人は天神となり、一人は海神となる、といふを脗合するときは、神代紀 にいふ海神は阿摩美久、豊玉姫は君〃、玉依姫は祝〃なりといはんも、そ の義遠からず。且豊玉姫は、龍と化し、海途を閉で去り、玉依姫は留りて、

児、鸕鷀草葺不合尊を養育まゐらせし事、一人は天神玉依姫歟となり、一 人は海神豊玉姫歟となるとある、中山世鑑の趣によくあへり。(『弓張月

(上)』)

‧ 國

立 政 治 大 學

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

22

とあるように、馬琴は『中山世鑑』に記される伝説に基づいて、さらに日本の 伝説と結び付けているのである。琉球の開闢伝説と日本の伝説を結び付けるこ とにより、馬琴は日本と琉球の関係を深めようとしていると考えられる。『弓 張月』で、馬琴も「南倭」という言葉を使っている。拾遺巻の目録に、「琉球 開闢南倭と稱して、原来日本の部内たりし舊説、舜天丸その名を尊敦と称して、

文治三年、終に琉球王となり給ふ」(『弓張月(下)』)と記し、また残篇巻之五 第六十七回に、

さてもわが琉求は、神代に海宮と唱へ、人の世となりての後は、これを南 倭と唱へたり。されば唐山の史などに、倭と稱すれども大日本の、國史に あはざることあるは、みなこれ南倭のことにして、わが琉求を斥れいふの み。又多褹國とも、多尼島とも、掖玖とも奇界とも唱し也。奇界乃奇怪に て、この國奇怪の事多かり。後に鬼界と書によりて、鬼が嶋とも唱ふめり。

みな南嶋の総名にて、今なべていふ琉球なり。(『弓張月(下)』)

とあるように述べている。後藤氏は大系の頭注に、「琉球を南倭と唱えた点、

中国の史籍に倭と称することが国史に一致しないのは実は南倭のことである 点は、南島志総序に同説があり、馬琴はそれによって、こう書いた。」(『弓張 月(下)』)と述べ、馬琴が「南倭」という言葉を使うのは白石の『南島志』に よる影響と指摘している。ここは後藤説に從ってよいだろう。また、 琉球の 別名について、同じ『南島志』総序に、

推古天皇二十四年掖玖人来南嶋朝獻蓋自此始是歳實隋大業十二年也曰

邪久掖玖益久夜句益救東方古音皆通此云掖玖隋書 以為邪久即是琉求也又曰天武天皇二十一年秋所遣多禰嶋使人等貢多 禰國圖其國去京五千餘里居筑紫南海中謂多禰國亦是琉求也當是 之時南海諸夷地名未詳故因其路所一レ由而名多禰嶋即路之所由而後 隷大隅國一作多褹唐書亦作多尼(『新井白石全集3』、690 頁)

と示しているように、琉球は「邪久」、「掖玖」、「益久」、「夜句」、「益救」、「多

‧ 國

立 政 治 大 學

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

23

禰」、「多褹」など多様な別名を持っている。馬琴は南倭だけではなく、琉球の 別名の概念についても『南島志』に影響されたと考えられる。

上述の考察により、『弓張月』で馬琴の琉球認識は少なくとも羽地の『中山

上述の考察により、『弓張月』で馬琴の琉球認識は少なくとも羽地の『中山