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第四章 『椿説弓張月』における王位継承

第三節 舜天丸

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たいと表明し、武士としての忠義の精神を貫こうとするのである。

実際に、為朝は琉球に渡る前に一度讃岐に行って、崇徳院の墓の前で切腹 を試みたことがあった。その時、崇徳院と為朝の父為義の亡霊が現われ、院 は「しかる為朝、世を恨み身をはかなみ、自殺して失せんといたす事、究て しかるべからず。今茲冬の半に至て、肥後國に赴かば、はからずして故にあ ひ」(『弓張月(上)』)などと予言していた。そこで為朝は暫く自害すること をあきらめ、肥後国に行くと、そこで白縫や紀平治と再会した。為朝は主君 である崇徳院や父親に逆らうことなく、ずっと「忠」に基づいて行動してい ると考えられる。また、為朝が琉球に渡る理由の一つは「寧王女の舊恩を、

報んとおもふ」(『弓張月(下)』)からであり、これは「義」に基づいた行動 と言えよう。

なお、当初為朝は新院の墓に行く前に、兄義朝の舅である熱田大宮司藤季 範に「元を喪ふ事を忘れざるは勇士の本意なり。われ誰が為に命を惜て、其 許を煩すべき。(中略)この処に自殺して、わが平生の志をしらし給ひな ん。」(『弓張月(上)』)と言っている。『葉隠』は江戸時代に、山本常朝の武 士としての武士道思想を記録した書物である。その『葉隠』には「武士道と 云は、死ぬ事と見付たり」76という思想があって、為朝の武士道思想は『葉 隠』の武士道思想とは共通点があろう。死の覚悟をしている武士は、主君の ため殉死するのもおかしくないことである。奉公すべき主君はもう亡くなっ て、また寧王女の恩にも報いて琉球の内乱を治めた今、もし王位を継承して 生きながらえたら、武士にとってこれは主君を裏切る行為に違いない。武士 の道義に背くまいと考える為朝は、琉球王国の王位を継承しようとしないの も当然であろう。

第三節 舜天丸

為朝が王位を継承しないことを表明した後、有望視されている次の候補者 は舜天丸である。実際に為朝は讃岐に赴いて、新院の亡霊に会った時、新院 も「為朝が未生の末子をもて、某の國の君となさん。これ朕が贔屓の制度に

76 相良亨ほか校注『三河物語 葉隠』(日本思想大系 26、岩波書店、1974.06)220 頁

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あらず。為朝夫婦、家隷等が忠義の善報、その餘慶、子孫に及ぶものにし て、自然の理なり」(『弓張月(上)』)と、為朝のまだ生まれていない子(舜 天丸)がある国(琉球王国)の王になることを予言し、またこれは「自然の 理」であることを強調し、舜天丸が琉球の王になるのは必然なことであると 宣告する。

舜天丸もまた、琉球王国の動乱を平定の過程で大活躍して、曚雲との最後 の戦いに、

曚雲猛に風を起し、雲を呼びて空中へ、登らんとする処を、舜天丸は姑 巴嶋にて、三所の神に斉祀りし桃の箭に、義家と識たる、黄金牌をとり そえつゝ、弓を満月のごとく彎固めて、且く祈念し給へば、忽然として 白鳩両翼、旗竿の上に翔とゞまり、何処とはなく空中に、鶴の鳴声聞え しかば、念願成就とたのもしく、弦音高く兵と射る。その箭流るゝ星の ごとく、曚雲が吭碎て、箆ぶかにぐさと射込たまへば、しばしも堪ず馬 上より、仰さまに摚と墮。(『弓張月(下)』)

とあるように、曚雲が空へ飛ぼうとするとき、曚雲を阻止して射て落す人は まさに舜天丸であって、顕著な功績を挙げた。

残篇巻之四第六十六回に、為朝が王位を辞退した後、周りの人が為朝の道 義心に感服しつつも、「八郎按司は謙徳の君子也。父の功をもてその子に譲 る、例は和漢に多かるべし。加之曚雲を射ておとし給ひしは、舜天丸君の大 功なり。臣等この君を立て國王と仰奉るべし。」(『弓張月(下)』)と、曚雲と の戦いで功績を立てた舜天丸に王位を継ぐことを勧めることになる。舜天丸 は為朝の息子で、同じ清和源氏の末裔であり、継承資格は前節で論じたよう に、清和天皇の子孫である舜天丸の継承は合理的な支配であろう。

しかし舜天丸は「こはこゝろ得ぬ事をいはるゝよ。わが父母上に在す。子 として親を踰るの礼なし。夫孝は國の本也。われもし位を親に踰て、不孝の 子とならんには、何をもてか民に教ん。こは慢也。」(『弓張月(下)』)と、自 分の上にはまだ両親がまだいて、両親を踰えて王位を継承したら自分が不孝 な人になり、決して継承してはいけないと辞退した。つまり舜天丸の判断は

「孝」を考慮した上で決めたのであろう。しかしながら、その後人魚の出現

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をきっかけにして、寧王女の体に白縫の魂が憑いていることを暴かれ、白縫 の魂も天に帰った。為朝も同様、仙人に会ったあと、讃岐院たちが「おん 迎」に来て、昇天した。白縫の魂の帰天と為朝の昇天と共に、舜天丸が王位 を拒否する理由もなくなった。

また、寧王女が自分の正体を暴露する前、「やよ丸よ、舜天丸。賢き王の跡 とめて、徳を脩め、士をやしなひ、父祖の武徳を輝し、世〃の亀鑑となりた まへ」(『弓張月(下)』)と言い、即位を勧めている。さらに為朝が昇天した あと、仙人も舜天丸に「舜天丸ふかくな歎き給ひそ。孝子は哀めども、生を 滅せず。名をあげ、親を顕すは、即孝の終りなり」(『弓張月(下)』)と告 げ、王位を継承するように説得する。ここで馬琴は『孝経』の「開宗明義 章」の「身體髪膚、之を父母に受く。敢て毀傷せざるは、孝の始めなり。身 を立て道を行ひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕はすは、孝の終りなり。」77 を加味し、自分の名を後世に揚げることにより親を顕すことこそ、孝の成就 であると主張する。

また、曚雲との戦いの後、舜天丸は「浦添の按司として、源尊敦と名告ら し給ふべきよし」(『弓張月(下)』)というように、琉球王国の役職に就い た。この点については、三宅氏は戦う時にもし舜天丸がすでに役職に就いて いたら、たとえ王である人が暴君だとしても、舜天丸は謀反人となってしま うと論じている。78なお、曚雲と戦っている時点では舜天丸の父である為朝 はもう琉球王国の役職に就いていた。三宅氏の論点に従えば、為朝は謀反人 となってしまう。そうしたら、為朝の軍勢に加えた舜天丸も謀反人の一員と 言えるであろう。むしろ役職に就くことによって、外来者である為朝と舜天 丸はただの外来者でなくなり、琉球王国の一員になる。こうして、為朝と舜 天丸は琉球王国との繋がりも深くなり、琉球王国での立場も固くなったと思 われる。

国に王がなければ、国民が苦しむ。舜天丸は清和天皇の後胤で、また戦で 功績を挙げた人で、琉球王国の王になるにはふさわしい者であろう。舜天丸 は「孝」を理由に王位を継承することを断ったが、寧王女と為朝がもういな い今、もし舜天丸はまだ王位を拒否するなら、それこそ不孝なことであろ

77 栗原圭介『孝経』(新訳漢文大系 35、明治書院、1986.06)78-81 頁

78 同前掲注 18、71 頁

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う。人民のため、また「孝」のため、舜天丸は琉球王国の王として即位しな ければならなかったのである。

第四節 まとめ

琉球王国の正統な継承者である寧王女がすでに亡くなった以上、ほかの人 に王位を継承させなければならない。しかし、次の王位候補者とされる為朝 もついに昇天し、最後に王位を継承したのは舜天丸である。琉球王国の人々 にとって、為朝も舜天丸も外来者のはずであるが、馬琴は日本の伝説と琉球 の伝説を結合させ、さらに日本と琉球との宗属関係を繰り返し強調して、琉 球は元々日本の支配下の国であることから、清和天皇の後胤である舜天丸の 支配に正統性があると主張することによって、琉球王国の王位継承の問題を 解決することにした。馬琴は単なる舜天丸の継承資格の問題を解決だけでは なく、さらに「孝」という概念を投げ出して、王位を継承しなければならな い理由を舜天丸に与えた。また、こうした王権問題の操作を通じて、馬琴は 自分の琉球観、すなわち琉球を日本の属国と見なすという主張を打ち出して いるのである。

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