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朗唱的樣貌─以台灣原住民泰雅族為中心

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(1)朗唱の位相―台湾原住民・タイヤル(泰雅)族を中心に― 伊藤順子 日本大学大学院総合社会情報研究科 博士課程 【要旨】 口承文化は、大別して「うた」と「かたり」の二つの領域に分けられる。 しかし「うた」には唄、唱、詩、嘔、吟、謌、謡、謳、詠など様々な様式・ 形態があり、また「かたり」も読む、詠む、諳んじる、宣る、話すなど多く の内容を含んでいる。発表者は「うた」と「かたり」を口承文化の座標軸の 両極とし、その間の、はっきりとした節のあるものとそうでないものや、高 らかに口上を述べるものと淡々と語り続けるものなど、多様な中間的性格の ものを包括的に「朗唱」とした。文字を持たない民族にとって、口承は身体 表現・図像表現と共に最も重要な表現手段である。台湾原住民・タイヤル(泰 雅)族は文字を持たない民族であり、彼らには口頭で伝承する朗唱の文化が ある。発表者はタイヤル族の朗唱を中心に、朗唱の主体者、目的、内容など の位相を探っていく中で、朗唱という口承文化がタイヤル族の精神性や生活 文化全体にどのような影響を与えているかを考察したい。. 133.

(2) 朗唱的樣貌─以台灣原住民泰雅族為中心 伊藤順子 日本大学大学院総合社会情報研究科 博士課程 【摘要】 口傳文化大致上可分為「uta(唱)」與「katari(說) 」兩個領域。然而, 「uta」 又有唄、唱、詩、嘔、吟、謌、謡、謳、詠等等各式各樣的形態;「katari」又 有讀、詠、諳(背誦)、宣(宣告)、話等富含著許多的內容。發表人以「uta」 與「katari」做為口傳文化座標軸的兩極,兩者之間有可清楚畫分以及無法畫分 的形式,也有高聲闊語和細聲絮語的等等,多種中間形式的都概括稱為「朗唱」 。 對於沒有文字的民族而言,口傳是和肢體表達、圖像表達同樣為最重要的表現 手法。台灣原住民泰雅族是沒有文字的民族,他們有用口頭傳承的朗唱文化。 發表人以泰雅族的朗唱為中心,從探討朗唱的主體、目的、內容等樣貌的當中, 考察 朗唱這種口傳文化對於泰雅族人的精神層面以及生活文化整體帶來什麼樣 的影響? (譯者:陳文玲). 134.

(3) 1. はじめに 人は文字を用いて伝達、記録を行うはるか以前から、口承でそれらを行う 文化を持っていた。人々は口承で、彼らの歴史や、規律や、神話など様々な ものを連綿と伝えてきた。即ち声という道具を使いありとあらゆる事柄を 様々な方法で伝達するのである。口承文化は、大別して「うた」と「かたり」 の二つの領域に分けられる。しかし「うた」には唄、唱、詩、嘔、吟、謌、 謡、謳、詠など様々な様式・形態があり、また「かたり」も読む、詠む、諳 んじる、宣る、話すなど多くの内容を含んでいる。発表者は「うた」と「か たり」を口承文化の座標軸の両極とし、それぞれの集合の重なり合う部分、 つまり「うた」の中でも、ある一定の節はあるが音楽的な曲調や旋律はそれ ほど伴わないものや、 「かたり」の中でも、ある節にのせて高らかに口上を述 べるもの、また微妙な声の高低で淡々と語り続けるものなど、多様な中間的 性格のものを包括的に「朗唱」とした。(図1)「朗唱」は「たからかに歌う こと」「声高によみあげること」 (『広辞苑 第五版』 )、「単純な旋律によって 歌った奏法。ミサ、典礼などで、典礼文を読むように、ふしをつけないでと なえること」(『日本国語大辞典 第二版』)などの意味を広く持つ。 図1:口承文化の領域 口承文化. 文字を持たない民族にとって、口頭伝承は身体表現や図像表現と共に最も 重要な表現方法である。台湾原住民・タイヤル(泰雅)族は文字を持たない 135.

(4) 民族であり、彼らには現代にいたるまで口頭で伝承する朗唱の文化がある。 それは烏来泰雅民族博物館の資料に「吟唱朗頌歌謠時、音調因無固定旋律、 由一個或幾個樂句反複組成、不時作自由的變化發出高低音」 (歌謡を吟唱した り朗唱したりするとき、その音調は固定した旋律がないため、一つまたは複 数の楽句の反復によって構成され、時には自由に変化させたり、高いまたは 低い声を出している。発表者訳)とあるように、うたい手がある一定の節に、 その場に合った様々な詞を自由に作りながら即興的に朗唱することを意味す る。移動・分岐を繰り返しながら南部から北部西部東部へと広く分布してい ったタイヤル族が、朗唱という風習を同様に持つ。彼らの朗唱による口承は、 単なる日常的な伝達行為を表すものではない。そこにはタイヤル族の人々の 深い想いや祈り、情熱に支えられた歴史や生活・文化の原点がある。 タイヤル族を事例に挙げるのは、以下の三つの理由による。第一に、そも そも台湾原住民は日本統治時代まで、共通語をもたない多言語の民族であっ た。その原住民の中でも特にタイヤル族のように高山深山に居住する民族は、 他民族との交流も少なく、彼ら固有の文化を継承することが出来た。第二に、 タイヤル族はもともと文字を持たないので、現代にまで至るまでの口承文化 の伝統があり、あらゆる伝達はすべて口頭によってきた。第三に、タイヤル 族の伝統古謡に Lmuhuw という朗唱方式が伝わっている。これら 3 つの要 素が口承文化の基本構造をよく表すと考えたからである。 発表者は、朗唱の主体者や内容などの位相を、タイヤル族というミクロ的 な観点とマクロ的には朗唱の共時性とを比較検討しながら探っていく中で、 朗唱という口承文化がタイヤル族の生活文化全体の中でどのような連関をも つのかを考察したい。 なお本文中に使用している原住民、部落、部落民の語句に関して、いずれ も日本においては差別的なニュアンスがあるとして、その使用は控えられて いるが、台湾では原住民研究の用語として広く認められている語句であり、 日本で通常使われる先住民や村民に置き換えるとかえって意味の混乱を招く ので、あえて現地の慣用に従っていることを補足する。. 2.朗唱の主体者. ―. 専門家、頭目及び部落民. 朗唱を誰が行うかという視点は、それを行う地域性との関連から考察され なければならない。始まりは特定の誰かではなく、うたの上手な人や好きな 人が労働をしながら口ずさんだり、自分の楽しみのためにうたっていただけ のものが、やがて「うたう人」と「聞く人」に分化していく場合を考えるこ とができる。その分化の方向性は、それぞれの地域性と深く関わっている。 すなわち、人々が定住しており、その土地が経済的に発展し、都市としての 136.

(5) 様々な機能を持つとき、うたう人の中でも特に上手い人や記憶力の優れた人 は、商業的な意味を持つようになっていく。経済や都市の発達は社会の階層 化を生み、その結果聞く人が市井の公衆から王侯貴族などの権力者までと多 様になることにより、うたう専門家としての知識や技量が問われ、磨かれる ようになる。様々な立場の聞く人の存在がうたう人を専門分化し、より職業 的な朗唱の主体者へと変容させていくのである。日本の琵琶法師や奄美諸島 のユタ、ヨーロッパにみられる、バルド(ケルト系) 、ジョングルール(フラ ンス、ドイツ、イングランド)、トゥルバドゥール・トルヴェール(フランス)、 ミンストレル、ゴリアールなどがこれにあたる。 対して、タイヤル族のようにその地域が定住化都市化せず、小さな単位で の移動分散を繰り返している場合、うたう人と聞く人との分化は大きく異な る。その地域は市場化することはないので、経済的な発展や都市化への変容 もない。ただシンプルな部族による共同狩猟・生産と消費があるだけである。 このような小規模なバンド社会においてうたう人への専門的職業的分化は意 味をなさないことから、タイヤル族での朗唱の主体者は職業的な「うたう人」 ではありえないことが窺える。では誰がタイヤル族の朗唱の主体者なのか。 彼らのような文字を持たない人々にとっては、口承が全ての情報源である ことから、その部族の移動変遷の歴史や祖先からの知恵や教訓、祭辞など多 くの事柄を記憶していることは、リーダー(頭目)としての必須条件であっ た。特に部族の出自を伝えることは近親相姦を避けるためには、絶対の要件 であった。そしてそれらの情報を皆に伝達する際、単に棒読みのように伝え るのではなく、ある種の韻律に乗せて伝えていく。その場合、声が良く通り、 言葉とリズムの調和が上手に取れていれば聞きやすく、そうでなければ聞き 取りにくい。したがって、頭目は記憶力に優れ、朗唱に長けた人が選ばれる のである。彼らにとっての朗唱の知識や技量は、商業的なものとは全く関係 なく、彼らの部族をより良く統率し、教育し、調和を保つための重要な要件 なのである。 一方、発表者がフィールドワークで訪れたタイヤル族の村々では、頭目で はない普通の部落民の方々が歓迎の朗唱を行ってくださったことがあった。 それは女性の場合も男性の場合もあった。古訓など、朗唱によっては男性し か行ってはならないものもあるようだが、友人間のものや子供に対するもの などは自由に行われているようだ。これらの日常的な朗唱は深く、生活文化 と関わっている。. 137.

(6) 3.朗唱の目的. ―. 娯楽、儀式・伝承、占い・民間療法. 図2に示すように、誰が朗唱を行うかによって、朗唱の目的は異なる。朗 唱の目的は、その場と主体者により様々な位相がある。朗唱が行われる場が 都市として発達を遂げている場合、経済の発展に伴い人びとの間には貧富の 差が生じる。そこにはモノを売る人と買う人の立場の差異があり、売るモノ がある人はモノを売り生計をたてる。リュートやキタラ(竪琴)を演奏しな がら朗唱するという特殊な技能は、十分に商品価値があり、彼らは専門家と して朗唱を行う。娯楽などはそうない時代である。彼らの朗唱は一般の人々 から王侯貴族にいたるまで、多くの需要を得ていた。庶民にとっては、世俗 的な歌謡や英雄譚・武勲詩などの物語・伝説が人気を博していたことであろ う。一方、王侯貴族の宮廷などでは、英雄譚や武勲詩は別の重要な意味を持 っていた。それは、そこに語られる英雄や武将達は王侯貴族自身の系譜であ り、その朗唱を聞くことにより彼らの出自を確認し、また祖先の活躍を自身 の誇りとするとともに、子孫へ伝えるという教育的な目的があったというこ とである。 図2. 朗唱の主体者. タイヤル族ではその任は、頭目が負う。朗唱が上手く、記憶力が優れてい ることが頭目の重要な要件であることはすでに述べた。頭目は様々な場にお いて、朗唱を行うが、祭祀、調停、見合いがその主なものである。頭目は行 事の際にはそれらの会や儀式を円滑に進行するために朗唱する。また様々な 機会に「史詩」や「古訓」を通して部落民への教育的見地から朗唱を行う。 他方、一般の部落民にとっての朗唱とは、もっと自由自然で会話の延長のよ 138.

(7) うなものである。したがってその目的は日常的であり、子供のためのもの、 相聞的なもの、友好のためのものなど多種多様である。 朗唱が呪詞に使われる場合もある。一定の節にのせて言葉を自在に操る、 奄美のシャーマン(ユタ)に関する仔細な観察が、山下欣一( 「奄美のユタの クチ(呪詞)」『口頭伝承の比較研究3』、1986 年)によってなされている。 この場合は占いや民間療法がその目的となる。 このように朗唱とは、それを行う者とそれが行われる場によって、多様な 位相をもつ口承文化であるということが出来る。次章では、朗唱の多様な内 容について考察する。. 4.朗唱の内容 朗唱は、主体者が即興的に言葉を編んでいくという様式を考えれば、無限 の内容を包含しているといえよう。記譜法がない故に、一定の旋律の型を必 要なだけ連続して反復し、どのような叙事詩、伝説、物語でも朗唱すること ができる。2 章で触れたように、朗唱の主体者が、専門分化している場合、 聴衆の需要に応える必要があるので、12 世紀に記譜法が生まれる前、ヨーロ ッパでは「ローランの歌」と「アーサー王伝説」の口承伝承が大衆にはもっ ともポピュラーであった1。記譜や記録がないということは、以前の朗唱の状 態を考える必要がないので、言葉も旋律も自由に選べるということである。 伝承によって伝説が少しずつ異なるのはこのためである。 12 世紀以降、記譜法の発達によりヨーロッパでは朗唱はより複雑に進化し ていく一方、タイヤル族においては現代にいたるまで、伝統的な朗唱のスタ イルが保たれている。頭目や長老などによる、正式な場合の朗唱を Qwas-Lmuhuw 、誰でもが行う日常的な朗唱を Qwas-Mzjui という2。 4-1. Qwas-Lmuhuw. Qwas-Lmuhuw には 3 章でも触れたが、目的に応じて大きく 4 つの内容 がある。以下に、賴靈恩(「泰雅 Lmuhuw 歌謡之研究」國立台灣師範大學碩 士論文、2002 年)や鄭光博(「Sm’inu puqing kinhulan na Tayal(懐念、遥 想泰雅故郷的根源)」國立政治大學民族學研究所碩士論文、2006 年)らによ る先行研究を参照しながら、その4つの内容をまとめる。 4-1-1. 見合い. 伝統的なタイヤル族の社会において、見合い(提親)は大変重要なことで ある。徳が高く人望も厚く知恵の豊かな長老が、お見合いの話のある女性の 家へ出向き、誠意を持って丁寧に慎重に朗唱で、その内容を告げる。 139.

(8) 4-1-2. 会・祭祀. 会における開会や閉会の辞は朗唱で行われる。祭祀(特に祖霊祭)におけ る祭辞も朗唱で行われる。祖霊祭では霊界にいる祖霊に直接朗唱を行うこと が特出している点である。 ―祖霊祭― 祖霊祭における朗唱の内容について、論者が 2008 年 8 月に行ったフィー ルドワークとすでに報告されている調査例をもとに述べる。 ―テキスト1―. Lmuhuw 歌謡(溪口台部落). Ox nuway sasumubil cikay pinaquyu, mtoyu maku niyux maubah cinaruyan na wagi, niyux ta minahuyay mbhuyaw mamuqyanux laqi ta kinubahan. Ox maki qutux riyax ma guwah, siy tatuliq kmaButa Kakurahu ma guwah. ox ulaqi mkyala saku cikay ulaqi. Ox siy ta kaki b’nux Sasubayan qani ga laqi ta kinubahan ga musa psaquli wagiq haziy guwah. Ox aki hahumswa, musa simu tatubah hmkani pkzikan mamu una zik na balung, musa tatubah hmakani ‘tukan tnga na pazih . o wayal si kusa kakumayal kmaButa kakurahu ma guwah. Ox kya babulequn msapapiray kumingulung Cibula ma guwah, o swa ini kakubalay kwara walsu sa kayal kmaButa kakurahu. Nway kmaButa tatulamay maku hahumuluy aurqyas na aulaqi, o hala sami mt’atu atu na agiq. Ox hala sami sumikusa inwahan la lyus lalaw sal kmaButa, o wayal si kusa Cibula ma guwah. Ox sa siy pasasiyaq kmaButa ma guwah, oa nanu yasa lbalaq , ox niyux mamu baqun osa mslabang ‘urqiyas na aulaqi.. 140.

(9) Ox nuway ma Cibula ‘rasay simu sumigagay sasumatu quri Sasuqabu, o wayal si kusa kmaButa ma guwah. Matuliq kmaButa kmaAyan kmaYabuh ma guwah, mtatubalung turu niya kwara aulaqi ma guwah, minahuyay mbiyaq quri Sasuqabu ma guwah. Mblaq mthzyu kmglahuy quri Sasuqaba, musa papuaras mumu sinurhgan, kmaButa kakurahu ma guwah. 譲我這將要日落的年歳、 傳述一下、後代子孫能夠繁衍興盛至今的史源。 據説有一天、始祖摩武達起身說:孩子們、 容許我說件事。 如果我們一直在這發源地(斯巴楊)、繼續生活繁衍、那麽後代的子孫們、 勢必將要看著天生活了(挨餓)。 是否你們能夠在去另外尋找一塊可以穿梭其間的森林卽可耕鋤之地。 摩武達如此面辭(告訴子孫)。 齊布拉經過周密、反覆地思量摩武達所說的話。 好吧!齊布拉對摩武達說:我試著帶領孩子們去尋找新地、直到山林的盡頭。 我們必循著你(摩武達)刀砍過的足跡尋找、齊布拉做這様的承諾。 摩武達很欣慰地說:這様很好。你們都知道、這是爲了我們孩子們來著想、 才能繼續發展繁盛。 齊布拉就答應著。摩武達說:我將送你們到思源啞口、再與你們分手。 摩武達、摩阿彦、摩雅伯三位帶領者就起身、 成群的子孫就跟隨著他們直到別之地─思源啞口。 大家聚集在思源啞口、離別時、留給子孫們殷切的訓誡與叮嚀。 (賴靈恩『泰雅 Lmuhuw 歌謡之研究-以大漢溪流域泰雅社群爲例』國 立台灣師範大學碩士論文、2002 年、pp.6-9). 141.

(10) Lmuhuw 歌謡 私は日が沈もうとしている年齢になっているので、 後世の子孫が繁栄し続けていけるよう、今に至るまでの歴史の源を伝えさ せてくれ。 ある日のことだった、始祖 kmaButa が立ち上がって話すには:子供達よ、 一つ話させてくれ。 もし我々がこの発祥の地、Sasubayan で生き続け栄えていくならば、後 世の子孫達は必ずや餓えてしまうに違いない。 あなた達が、その間をしきりに行き来できるような森を別に探すことがで きれば、そこが耕作の地となるだろう。 kmaButa はこのように子孫に告げた。 Cibula は何度も考え抜いて kmaButa に語った話である。 わかりました!Cibula は kmaButa に言った:私は子供達を連れて、新 地を探し求めて、すぐに山林の果てまで試しに行こう。 私達は、あなた(kmaButa)が刀で切り開いた足跡に従って探そう、と Cibula は承諾した。 kmaButa はとても喜んで言った:それはとても良いことだ。私達は分か っている、私達の子供達のためを思うことで、初めて繁栄し続けることが できるのだ。 Cibula はすぐに応じた。kmaButa は言った:私は Sasuqabu,まであなた 達を送ったら、またあなた達と分かれよう。 kmaButa 、kmaAyan 、kmaYabuh の 3 人の指導者が立ちあがった、 彼らに大勢の子孫達が彼らに付き従い新しい土地―Sasuqabu―に到った。 皆が Sasuqabu のもとに集まって、別れの時、子孫に懇切に教訓を諭し言 い含めた。 (筆者訳). 142.

(11) 収穫されたばかりの小米で作った小米酒を飲みながら、長老達の朗唱を聞 く祖霊祭の前夜祭は延々と夜更けまで続く。このような場で、部落の人々は 祖先の艱難辛苦の歴史を学び、自分達の出自を知る。また、先祖からの教え を聞き、現実的な生活における様々な規範を次の世代へと伝えていくのだ。 この朗唱による伝承こそ、タイヤル族が祖先から連綿と受け継いだ心性その ものということができるであろう。 祖霊祭は夜明け前に始まる。儀式は日の出前に終わらなければならないか らだ。5時ごろから部落の人々が集まり始め、5時半には墓地へ向けて出発 する。狩猟採集のため移動を繰り返してきたタイヤル族も、定住化が進んで からは、墓地という概念が生まれた(移住の時代には、遺体は住居の下に埋 葬していた)。頭目を先頭に山に踏み入る。歩きながら頭目の朗唱が始まる。 前夜の語りかけるような朗唱とは全く趣を異にしたものだ。自然に溶け込ん で眼には見えない祖霊達に、声を限りに呼びかける。. ―テキスト2―. 祭辞. Hehe haze owa maneku shino qikire rahan rake menibco mugaga ga muben mahoneku meku qijiyohu Peimokan Nanoyasaqe miso hanega kabarai gagaa kujin kabaraigagaa Murata samega meku kuwara kanohu makoma samega baraku tarakeshi baraku pagai oze kiya koto koto kawasu manebo rake anamowa atoga Baraku marahan rake rahan hotskera mosa mugaga samega meku mokan. 速に來りて此肉や餅を食し召せ、冀くは子孫を守護して病はしむ勿く、首 狩に赴けば魔の術の如く神速に多數の支那人の首級を我手に授けさせ給 へ。 汝よ 私は此處に太古の慣例に依りて祭祀を行ふ、斯るが故に私等が狩獵 すれば多數の鹿を授け給へ、私等が畑を耕耘すれば良き粟や籾を豐饒なら しめ給へ、此先の一年間に於て我社に病魔を來らしめず眞實子孫を守護し て死せしむ勿らむことを、我等が首狩に行けば支那人の首級を獲させ給へ。 (森丑之助編『臺灣蕃族志 第一巻』臨時臺灣舊慣調査會、1918 年、pp.245-247). 143.

(12) 墓地に着くと、各々の墓石の前でそれぞれの氏の長老が静かに祖霊に語り かける。ここは一族の者以外は立ち入れないので、聞き取りは困難であった が、後で大意を聞くことが出来た。 「亡くなった父母、祖父母、土にいる祖霊達、どうか私達を祝福してくだ さい。これからの一年、食べ物を与えてください。豊作にしてください。い つもあなた達の子孫を見守っていてください。永遠に私たちはあなた方の子 孫なのですから。」(永安部落、Mayngus Yukih、男、57 歳) 墓地での全ての儀式が終わると、部落の人々は一旦帰宅し、各家で祖霊祭 のご馳走を食べる。米の餅が用意され、本当に日本の正月のようである。そ の後、頭目の家の庭先や広場などに再び集まり、共食・共飲となる。これが、 祖霊祭における最後の朗唱の場となる。前夜から準備された小米酒が誰にで もふんだんに振る舞われる。豚が丸ごと一頭解体される。中央では餅つきが 行われる。タイヤルの民族衣装に身を包んだ人々もいる。にぎやかな楽しい ひと時に、皆が輪になって踊りながら唄う歌があった。. ―テキスト3―. 泰雅傳統歌舞. Qutux tayal na insuna kmal sin sin Qutux tayal na insuna kmal lokoy syo Sin tatar tomila lokoy syo Uwah uwah sami musa Sami musa nway mu insuna la! 一個泰雅的祖靈說 sin sin 一個泰雅的祖靈說 lokoy syo 祖靈們 lokoy syo 來 來 我們去 我們去迎接祖靈吧! 一人のタイヤルの祖霊が言った sin sin 144.

(13) 一人のタイヤルの祖霊が言った lokoy syo 祖霊達よ lokoy syo 来たれ 来たれ 私達は行こう 私達は祖霊を迎えに行こう! (筆者訳。2008 年 8 月 10 日祖霊祭での筆者の聞き取りによる。 インフォーマントは参加の部落民). 祖霊信仰の核をなす祭祀であるこの祖霊祭に、祖霊と生者との密接な関係 から生まれるタイヤル族の精神性の源流を見出すことができる。そして、祖 霊祭はその始まりから終わりに至るまで全てが朗唱により進行している。祭 祀の中で、祖霊祭のみに「泰雅族傳統古調誦唱方式」はみられるようである3。 様々な役割の朗唱が祭祀のその時その時の場を作り、またそれらの場が朗唱 の意味を増幅させ、その場に参加している部落の人々の心を高揚させる。朗 唱が行われる場は、原点である発祥地や移動の歴史から彼らが自分は何者で あるかを学び、祖先の教えから如何に生きるべきかを再確認し、それをまた 次の世代へと継承していく場となっている。この祭祀という場と朗唱の間に、 深く祖霊と結びついたタイヤル族のアイデンティティとの連関を考えること ができる。 4-1-3. 調停. 紛争が起きた時の調停に朗唱を行う。朗唱によって討論をして賠償や和解 へと進行していくのである。 4-1-4 史詩 頭目は様々な機会を通じて、部落の起原や移動の変遷、伝説、英雄譚、古 訓(祖先からの教訓)などを朗唱する。これらの内容を包括的に「史詩」4と している。史詩には、当時の哲学、宗教、社会状況、思想文化、生活、風俗 習慣などが反映しているため、彼ら自身のアイデンティティと深く関わって いることが考えられる。 以上見てきたように Qwas-Lmuhuw は、行事やあらゆる機会を通じて、 頭目や長老たちが部落民へ、また次世代へ伝統を伝承するための朗唱という ことができる。内容は様々であるが、その根底にはタイヤル族の精神的支柱 である祖霊信仰がある。最重要な、宇宙を司る万能の祖霊 utux に背くこと なく、彼らの生活や道徳の規範である gaga に則り生きていくことを教えて 145.

(14) いる。文字から学ぶことのない無文字の社会においては、口承が全ての教育、 情報伝達の方途であることから、タイヤル族の歴史性精神性を伝承する朗唱 は、タイヤル族の民族同一性を形成する重要な要素であるといえる。 4-2. Qwas-Mzjui. Qwas-Mzjui は「娯楽、休閒的歌舞音楽包括曲調式與朗誦式」 (陳鄭港「泰 雅族音樂文化之流變―以大此嵙崁群爲中心」國立政治大學民族研究所碩士論 文、1995 年)「娯楽やレジャーを楽しむための歌舞や音楽で、はっきりとし た旋律をもったものと朗誦の様式を持ったものの双方を含む。(発表者訳)」 と規定されている。内容に関しては、日常の生活全般に亘る広範なものが考 えられる。先行研究によると、生活歌、飲酒歌、 (愛)情歌、親情歌、兒歌(呂 炳川(『臺灣土著族音樂』1982 年、許常惠『民族音樂論述稿』1992 年―高理 忠「民族音樂敎育對泰雅文化復振影響之研究-以復興郷爲例」による、田哲 益( 『台灣原住民歌謠與舞蹈』2002 年、林道生『花蓮原住民音樂三泰雅族篇』 2003 年)などに分類されている。本稿では発表者が採取した兒歌を例として 1 つ挙げる。 2008 年 8 月 4 日 於桃園 インフォーマント:黄榮泉 Masa Tohui 1932 年 10 月 17 日生 日本名:原 正次郎. 76 歳. Mnwah Saku mnaras ku na yaya mu mnwah ku mkai yaki yutas cyux maki suruw rgyax yaba yayana yaba maku stapak saku nahikil mama maku ro yata mu stahuk saku nya layan minanyak saku kuniy uji cbakan saku nya yaki a’son nanu manuka soqon maku qotux B’kuy mqas balay yaki maku お母さんが私を連れていった それはおじいさんとおばあさんに会いに行くために あの山の向こうにいるのです 私のおじいさんとおばあさんは餅を作ってくれました 私のおじいさんとおばあさんは小豆の汁粉を炊いてくれました 146.

(15) そしてバナナの餅を食べました おばあさんは私に教えてくれました 糸を紡ぐことを 私は1つ作り上げました おばあさんは大そう喜びました (黄榮泉さん自身の訳による) 5.結語 朗唱の位相を、ミクロ的にはタイヤル族の朗唱を、マクロ的には共時的に ヨーロッパを含めて俯瞰してきた。これらの比較は、比較を以前のように相 互の影響関係としてのみ捉えるのではなく、パターンや構造の観点から比較 できると考えたからである。実際ヨーロッパにおいて記譜法が発達するまで は、両者には共通性があった。しかし、都市や経済が発展し、社会の階層化 が生まれ、更には記譜による文字化が始まったヨーロッパでは、朗唱は西洋 の音楽体系の中へと組み込まれていった。 一方、小さな部族単位で移動変遷を繰り返してきたタイヤル族は、朗唱の 伝統を綿々と継承してきた。正式な会や祭祀で行われる他、紛争の調停やお 見合いといった人生における重要な局面でも行われる。あるいは、自部族の 歴史や祖先からの教えを伝えるためにも行われる。また、より身近な生活に 即した日常の中にも朗唱が生きている。gaga という太い精神的な根っこに 支えられたタイヤル族の朗唱は、あたかも養分のようにその大樹の隅々にま でいきわたり、大いなるタイヤル族のアイデンティティの葉を茂らすのだ。. 1. 2. 3. 4. 樺山紘一「西洋中世の口誦者をめぐってーヨーロッパ」(川田順造・野村純一編『口頭伝 承の比較研究4』)弘文堂、1988 年、p.23。 陳鄭港「泰雅族音樂文化之流變―以大嵙崁群爲中心」國立政治大學民族研究所碩士論文、 1995 年、p.72。 高理忠「民族音樂敎育對泰雅文化復振影響之研究-以復興郷爲例」國立政治大學民族學系 碩士班碩士論文、2008 年、p.19。 賴靈恩「泰雅 Lmuhuw 歌謡之研究-以大漢溪流域泰雅社群爲例」國立台灣師範大學碩士 論文、2002 年、p.22。. 147.

(16) 参考文献 森丑之助編『臺灣蕃族志 第一巻』臨時臺灣舊慣調査會、1918 年 川田順造・徳丸吉彦編『口頭伝承の比較研究1』弘文堂、1984 年。 川田順造・柘植元一編『口頭伝承の比較研究2』弘文堂、1985 年。 川田順造・山本吉左右編『口頭伝承の比較研究3』弘文堂、1986 年。 川田順造・野村純一編『口頭伝承の比較研究4』弘文堂、1988 年。 川田順造『口頭伝承論』河出書房新社、1992 年。 岡本太郎『沖縄文化論』中央公論新社、2002 年。 小川学夫『奄美民謡誌』法政大学出版局、1979 年。 小川学夫『民謡の島の生活誌』PHP 研究所、1984 年。 石井宏監修『西洋音楽史大系1』学習研究社、1998 年。 音楽之友社編『中世・ルネサンス・バロック音楽集成』ポリグラム、1998 年。 皆川達夫「中世、ルネサンス、バロックの音楽」(『中世、ルネサンス、バロ ックの音楽大系』ポリドール、1988 年。) 陳鄭港「泰雅族音樂文化之流變―以大嵙崁群爲中心」國立政治大學民族研究 所碩士論文、1995 年。 賴靈恩「泰雅 Lmuhuw 歌謡之研究-以大漢溪流域泰雅社群爲例」國立台灣師範 大學碩士論文、2002 年。 高理忠「民族音樂敎育對泰雅文化復振影響之研究-以復興郷爲例」國立政治 大學民族學系碩士班碩士論文、2008 年。 田哲益『台灣原住民歌謠與舞蹈』武陵出版有限公司、2002 年。 林道生『花蓮原住民音樂三泰雅族篇』花蓮縣文化局、2003 年。 呂炳川『臺灣土著族音樂』1982 年。 許常惠『民族音樂論述稿』1992 年。. 148.

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參考文獻

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