• 沒有找到結果。

シーボルトの見た日本の医療

第四章 シーボルトとポンペの見た日本の疾病と医療

第二節 シーボルトの見た日本の医療

立立 政 治 大

㈻㊫學

•‧

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

55

(前略)患者のうちには痼疾となっていた梅毒の非常に痛ましい幾つかの 例があった。私は日本でこんなに深く根を下ろしているこの病気の種々の 型や、水銀剤の適正な用法について短い説明を行った。この薬剤は日本で は病気を治すどころか、むしろ悪くしている。そこでこの国における病気 の治療法について手短かに意見を述べた。122

シーボルトは梅毒を当時の日本で大変根を下ろした病気だと指摘した。また、

彼は日本人が水銀療法の誤用を指摘した。水銀剤とは水銀の殺菌作用を利用し た薬剤である。江戸時代に、水銀を使用して病気を治そうとしていたが、日本 人はこの水銀剤を間違って使用し、病気が悪くなるとシーボルトは批判した。  

第二節 シーボルトの見た日本の医療 4- 2- 1 薬草の使用

シーボルトが来日した頃は、ちょうど古医方123が隆盛している時期である。

そのため、彼が見た日本の用薬状態は対症療法124である。また、シーボルトは 出島で薬草の植物園を作った。これによって、植物の観察と研究は便利になっ てきた。『シーボルトの日本報告』によれば、シーボルトは薬草の学者を育成 するために、植物園の設立は必要だと幕府に要請した。

 

1823 年(文政六)長崎  

薬草学自体の観点から、またとくに日本人が医療においても手工業におい ても薬草を多く利用しているという観点から、今後薬草学の学問的調査が 約束する大きな利益、また注目すべき植物の精密な研究と実験のために必 要とされる植物学者自身の目による観察と育成、こうしたことが出島に植 物園の設立と整備を絶対に必要としております。125  

 

122 シーボルト著、斉藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣、1997 年)P50。

123 本論第二章第三節、「古医方が、十八世紀の日本でしだいに勢力を伸ばしてきた。後世派医 学(李朱医学)の観念論的方法論にあきたらない革新的な医家たちは、「実証主義」に基づい た中国の古代医学、とくに『傷寒論』の方法論を臨床的に試してみた。そしてしだいに独自の 経験を積み上げて、新しい体系を組織することに成功した。この学派を後世派に対して「古医 方派」と呼ぶ」。

124 本論第二章第三節、「古医方は「対症療法」を主とした治療の技術であった。すなわち、病 症に対してどのような薬方が効くかを経験的に知って治療行為を行った。古医方の特徴は『傷 寒論』のようにいくつかの生薬を組み合わせて複合処方を用いていろいろな病症に対応する薬 物治療という「親試実験主義」である。ようするに病症と薬方との対応関係を経験的に取って 治療にあたる」。

125栗原福也編訳『シーボルトの日本報告』(平凡社、2009 年)P32。

•‧

•‧

たオランダ語でVrugmaakiendemiddle? と書いてある万天油 Man  Ten  In などのうち種類かを買いもとめた。とくに胃痛や頭痛などに用いるこの有

•‧

立立 政 治 大

㈻㊫學

•‧

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

58

また、シーボルトは京都に滞在している時にも、薬屋に行っている。彼の見 た薬は以下のように考えてあった。

<六月>六日(中略)薬種屋の前にはちょうどたくさんの薬が乾してあり、

その中にはシカの胎児139がたくさんあり、中国からここへ持って来たもの であった(薬に関する)140。  

3、4 月のころ、シカのさごは、ネズミよりもおおきく成長し、その皮膚に は鹿の子(かのこ。皮膚の斑点)があらわれ時期である。 このころに採りだ し、黒焼きなどにし、薬用とする。

日本の薬屋には、日本独自の薬剤、中国、朝鮮から輸入された漢方薬がたく さんあった。この点については、シーボルトも気がついた。さらに、蘭学が盛 んなこの時代では、ヨーロッパの薬剤も貿易商品として日本に輸入された。日 本にある薬剤は多様であったのである。シーボルトたちは、患者を治療する時、

外科においては彼らの専門技術、外科手術をした。内科の面では、西洋の薬を 使用するだけでなく、日本の漢方薬も使用した。

日本の古医が流行しているこの頃(李朱医学と並存する)、蘭方医学は古医 方の対症療法の概念と類似していると言えよう。

4- 2- 2 シーボルトの見た日本の治療法-鍼-

 

灸はつぼに温熱刺激を与えることによって生理状態を変化させ、疾病を治癒 すると考えられている伝統的な代替医療、民間療法である。灸は古代中国に発 明されたものである。日本に伝来するのは遣隋使や遣唐使などによって輸入さ れた。灸については、シーボルトの『日本』に記されている。

 

私個人の観察によると、日本ではこの方法が一般に用いられている。それ は専門家、つまり多くは盲人によって行われている。  

 

鍼を刺す人は「鍼打」であり、その技法は「鍼療」と呼ばれている。鍼療 には非常な器用さと大変繊細な感情が必要である。また鍼を人体に入れる ことは、非常な注意を要する。したがって、ヨーロッパの外科医によって 重んじられる手術の速さは適用されない。141

日本では、灸治がよく使われる医療方法であった。灸を行う人は専門家(盲

139 「漢方では、シカの効能は補腎陽、益精血、強筋骨がある」(『神農本草経』)。

140 シーボルト著、斉藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣、1997 年) P137。

141 シーボルト著、中井 晶夫、斉藤信ほか訳『日本』(雄松堂出版、1966 年)P377。

•‧

立立 政 治 大

㈻㊫學

•‧

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

59

人)である。灸治を行う時、非常に注意を払っていたという。シーボルトはこ の原因として、人体にはつぼがたくさんあり、もし油断したら、違うつぼに刺 すと危険があるからと考えていた。灸治はヨーロッパの外科と違い、灸治の効 果はヨーロッパの外科手術より遅い。ようするに、灸治は西洋療法の「対症療 法」のように効用が速く見ない。灸治はむしろ李朱医学の「養生」を重視する ものと言えるだろう。  

さらに、シーボルトは灸治を次のように観察する。  

 

鍼の病の有機体への作用については、私の研究(動物の血液循環について)

によれば、それは各々の局部的な刺激と同じであるとしか言えない。烙針 法を行うと、血が鍼の行われた身体の個所へ向かって流れることによって、

血液循環の変化が生じる。  

それは鍼を刺すことによって、最も繊細な個所に突きあてられて生じる神 経の一連の作用である。  

注記 鶏の胎生中における冠状動脈の破損について、私はデリンガンー

(ミュンヘンの上級医事顧問官)とともに研究し、顕微鏡でこのような変 化を明らかに認識させられた。  

暑い気候のもとで行われた私の観察もまた、私を納得させてくれた。その 観察は次のようなものである。そこで生じる病の多くは、血液が病に見舞 われた器官に一杯になり、そこから同じ重さだけ持ってくるという点で、

似たような異常なふるまいを血液が示すことに帰せられる。142

灸をすえると、血液循環が生じる。体内の血液が体の個所へ向かって流れる。

シーボルトは鶏で実験し、顕微鏡で灸より行った一連の神経作用を発見した。

さらに、多くの病気は血液の観察によって見られた。すなわち、血液の状況が 人体の健康状況を示すことができるとシーボルトは判断したのである。  

4- 2- 3 シーボルトの見た日本の治療法- 湯治

温泉は予防医学という概念があり、日本のいたる所にある。日本の温泉は入 浴を主な目的として発展した。温泉に入るのは当時には医療行為として認めら れていた。シーボルトは日本に滞在してから、温泉にかなり興味をもった。

〔覚書〕日本の婦人

女性はここでは非常に早く年をとる。結婚した婦人は、わが国よりも十か ら十五歳老けて見える。二十五歳ともなると、彼女らはすでに盛りを過ぎ て、四十歳くらいに見える。何度も熱い湯〔風呂〕に入ることが、このこ

142 シーボルト著、中井 晶夫、斉藤信ほか訳『日本』(雄松堂出版、1966 年) P378。

•‧

立立 政 治 大

㈻㊫學

•‧

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

60

とと大に関係があるこもしれない。143  

シーボルトにとって、日本の女はヨーロッパより早く老け、しかも実際の年 齢よりもっと年をとる感じがある。要するに、シーボルトにとって、温泉で使 われた熱いお湯は人体の皮膚に悪影響を及ぼすと考えられていた。

また、彼は温泉に含まる鉱物質を分析することもあった。

われわれは嬉野で昼食をとり、同地の温泉を訪ねた。(中略)水質の分析、

硫酸塩と塩酸塩との化合が顕著である。144

嬉野温泉は佐賀県南西部、嬉野市にある温泉。泉質はナトリウム炭酸水素 塩・塩化物泉。主な効能は慢性皮膚病・疱瘡・麻疹・運動器官の麻痺・痛風・

リュウマチ145などがあり、療養泉として古くから知られた。