• 沒有找到結果。

祈祷から医療への転換期

第三章 フロイスとケンペルの見た日本の疾病と医療

第四節 祈祷から医療への転換期

立立 政 治 大

㈻㊫學

•‧

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

47

第四節 祈祷から医療への転換期

3- 4- 1 江戸参府におけるケンペル、将軍、侍医との交流

元禄五年(1692)ケンペルははじめて将軍を拝謁した。その時、将軍綱吉は 医師ケンペルが学識豊かな人だと思っていた。医学の治療方法について、様々 な質問をケンペルに聞いた。さらに、癌の治療法についても質問をケンペルに 投げかけた。すなわち、当時は、癌の治療は深刻な問題であったようである。

癌の問題は、江戸時代の人々に悩ませただけでなく、現代の人々も同じだろう。

当時将軍は、ヨーロッパに長生きの薬があるかどうかということに関心を持っ ていた。謁見した時、ケンペルは将軍から以下の質問を受けた。

私は、「内科と外科の病気のうちで、何が一番重く危険だと思っているか」

「癌とか体内の潰瘍に其方はいかに対処しているか」「支那の医師が数百 年来行って来たように、其方もまた長寿の薬を探し求めているのではない か。あるいは他のヨーロッパの医師がすでにそうした薬を発見したのでは ないか」という質問を受け、「どうすれば人間は高齢になるまで己の健康 を保てるか、という密法を発見しよと、われわれ医者は毎日研究しており ます」と私は答えた。さらに「そのためには何が一番良いか」と問いに対 して、答え「経験が他のものを教えるまでは、最新のものが最上のもので あります」。問い「一体どれが最新のものか」。答え「一種の酒精で、適度 に用いれば、水気を流動に保ち、そして活力を旺盛にします」。問い「そ れは何という名か」。(中略)その薬は次の年にそういう名前で届けられた が、それは実際には、丁子を加えて浸出した好ましくないアンモニア精に 他ならなかった。100

ケンペルは長生きの薬があるかどうかについて質問され、彼がいきなり長い ラテン語の名前を口にした。薬品にはラテン語の名前が多かったからである。

だがそれに続いて、その薬を調合することはできるか、という質問が下された。

ケンペルは、医師として弱みを見せたくなかった。そこでケンペルは、薬の調 合法は存じておりますが、日本では材料がありませんとスムーズに答えた。す るとオランダ人一行に対して、海外で薬の材料を調達するように、と依頼され たのである。

また、第二回参府で将軍と謁見し、将軍は彼の外科医の二人をケンペルに診 療を受けさせた。

100『江戸参府旅行日記』P196。

•‧

立立 政 治 大

㈻㊫學

•‧

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

48

(前略)私が彼らの脈をみると、二人共、大体健康な人たちであるとわかっ た。けれども最初の人は冷たい体質で、血液の循環をよくするために、時 にはブランデーを一杯やる必要があるかもしれない。これに対してもう一 人の方は、非常に熱っぽい体質で、よく注意してみたところ、頭が弱いよ うであった。二人のうち上位の者が私に向かって、膿瘍はいつ危険なので すか、いつまた、どんな病気の時にわれわれ医師は瀉血をすればよいので すかと尋ねた。ヨーロッパの膏薬について彼は若干の知識を得たがってい た。101

将軍が自分の侍医が二名を呼び出し、二人は、例えば膿瘍はどの段階に至る と危険なのか、あるいは西洋ではどのような時に血液を取り除くのか、という ことを知りたがった。そして、ケンペルが二人の脈を見ると、二人とも健康な 人であると判断した。しかし、最初の人は冷たい体質で、血液の循環をよくす るため、時にはブランデーを一杯飲むことが必要である。もう一人は熱っぽい 体質で、頭が痛いようであった。要するに、ケンペルはオランダ医だが、漢方 の医術(脈をとること)も習った。また、体質について重視するケンペルには、

やはり李朱医学102のほうに重視していたようである。

3- 4- 2 ケンペルの見た日本人の迷信

ケンペルが旅行中で見た日本人の建築にはさまざまな形がある。例えば、信 仰と深い関係がある鳥居、神社や仏像などがある。彼の日記に記されてある。

従って、一般庶民の家の外見から見ると、日本人の迷信は多少見られる。例え ば、『江戸参府日記』によると、

一般の家の戸口や柱には、至るところ半紙に印刷した、家を守護するいろ いろな神仏の粗末な画像が見られる。(身分の高い人々はこうしたものを 貼り付けるることを好む)。この黒い色の祇園は牛頭天王とも呼ばれ、最 もありきたりのものである。これは牛の頭をした天の王者ということで、

そう名付けられている。人々はこの神が家人を病気から、特にこのこの国 では非常にたちの悪い天然痘から子供を守ってくれると信じていた。103 百姓たちの家のドアや柱には、紙が貼っている。それは家を守る神物の画像 である。人々は牛頭天王という神が家族の病気を避け、子供が天然痘に罹らな

101『江戸参府旅行日記』P286。

102 参照本論の第二章第二節李朱医学。

103 『江戸参府旅行日記』P34 。

•‧

立立 政 治 大

㈻㊫學

•‧

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

49

いように守ってくれると信じていた。また、多くの村では、不幸なことを近づ かないように、鍾馗の画像をドアに貼り付けた。人々はこのような一本の剣を 両手に持っていて、家族の健康や安全を守ってもらった。

また、百姓たちが疫病を退散させるために、「百万遍念仏」という活動があ り、ケンペルの記録によれば、以下のように考えられていた。

この日から六月十六日まで、人間をいっぱい詰め込んだ一艘の舟が港を漕 ぎ回った。人々はただひたすら念仏、つまり「なんまんだあ」を唱えてい た。こういう舟は狂暴なペストが猛威をふるいはじめた町や入江で仕立て られ、そして人々は念仏を叫ぶように唱えて、不幸の元凶たる悪霊、普通 には疾癘と呼ばれるものを払い除けることができると信じられていた。こ れは百万遍といい、108個の大きな丸い玉をつないで作った、とてつも なく大きな数珠の珠を、老いも若きも握って坐り、輪を作って皆の手から 手へとまわし、一回まわるごとに「なんまんだあ」と大声で叫ぶのである。

百万遍は、このような状況下に、病魔を鎮める意図でなされ、猛威をふる う悪病が蔓延する時には、こういう儀式は寺院でも行われた。104

六月十四日から十六日まで、百姓たちは念仏「なんまんだあ」を叫ぶことに より、不幸の元凶である悪霊や疫病などを除けると信じという。これは、百万 遍といい、参加者が108 個の丸い玉を繋いで作り、若いと老い人々が輪を作り、

手から手へまわして、一回回ると「なんまんだあ」と大きい声で叫んだという。

この行為より、病魔を鎮めると望み、とくに疫病が流行している時、寺院でも このような儀式が行われたという。

さらに、六月二十四日にも、一日中百万遍の儀式が行われた。

六月二十四日、一日中百万遍が行われた。出島近くの町では、はげしい熱 病者にかかった者の家々に、文字を書いた紙を掛け、百万遍の儀式が行わ れるが、その場所は日光がささないようにしてあった。民衆のあばれ騒ぐ 様子は筆舌に尽し難く、どうみても祈祷に打込んでいるとは思われない。

各人はただ勝手に叫んでいるようである。105

引用史料によると、出島に近い町で激しい熱病に罹った人の家には、文字を 書いた紙をドアに掛け、百万遍の儀式が行われたという。しかし、その場所が 暗くて、ケンペルが人々の騒ぐ様子をよく見られず、記録することは難しかっ たようであった。しかし、ケンペルにとって、人々が祈祷に打ち込んでいるよ うにはうつらず、ただ別々で勝手に叫んだだけのようにうつったようである。

104『江戸参府旅行日記』P319。

105 前掲、P319 。

•‧

何人も自由になることができた」(服部敏良著『日本史小百科20-医学-』近藤出版、1985 年)P42。

107 山田重正『典医の歴史』(思文閣、1980 年)P240。

108 「啓蒙とは、人間の未成熟状態からの脱却、迷信あるいは偏見一般からの解放である。啓 蒙主義は思想の特殊領域において、理神論、無神論、経験主義、合理主義などを持つ現象する ものとされる」(『世界歴史事典』6、民族文化出版、1984 年)P180。

109 「十七世紀は近代科学確立期であり、科学者は実証的精神を持ち、観察、実験、計算とい う近代科学を特性づける三位一体的方法の具体的かた意識実践は、十七世紀に入って開始され た。」(『世界歴史事典』1、民族文化出版、1984 年)P3。

•‧

立立 政 治 大

㈻㊫學

•‧

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

51

ると、治療を神の力とする記述は見られない。彼は呪いより、むしろ科学を信 じたのである。

第四章 シーボルトとポンペの見た日本の医療 第一節 シーボルトの見た日本の疾病

4- 1- 1 シーボルトの来日

1822 オランダ東インド会社の医師として来日

1822 オランダ東インド会社の医師として来日