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ポンペの見た日本の疾病

第四章 シーボルトとポンペの見た日本の疾病と医療

第三節 ポンペの見た日本の疾病

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とと大に関係があるこもしれない。143  

シーボルトにとって、日本の女はヨーロッパより早く老け、しかも実際の年 齢よりもっと年をとる感じがある。要するに、シーボルトにとって、温泉で使 われた熱いお湯は人体の皮膚に悪影響を及ぼすと考えられていた。

また、彼は温泉に含まる鉱物質を分析することもあった。

われわれは嬉野で昼食をとり、同地の温泉を訪ねた。(中略)水質の分析、

硫酸塩と塩酸塩との化合が顕著である。144

嬉野温泉は佐賀県南西部、嬉野市にある温泉。泉質はナトリウム炭酸水素 塩・塩化物泉。主な効能は慢性皮膚病・疱瘡・麻疹・運動器官の麻痺・痛風・

リュウマチ145などがあり、療養泉として古くから知られた。

第三節 ポンペの見た日本の疾病

4- 3- 1 ポンペの来日

ポンペが日本で最初の近代的な西洋式の医学教育を開始した。彼が行った医 学教育は5 年間であった。ポンペは軍医学校で習った外科のカリキュラムを日 本に取り入れ、内科と融合して教え始めていた。ポンペが日本に来た原因は以 下のように説明されている。

すでに多年の間、出島駐在のオランダ医官は日本の医師たちの先生であっ た。フォン・シーボルト氏、モーニッヶ氏、それにファン・ブルック氏ら はすべてに大変な努力をして、彼らを何かと教育した。いつもその際に日 本の鎖国主義がこれら外人教師の大きな障害となった。(中略)彼らの知 識が実際他の日本医師より優れていることをよく示していたという事実 は、幕府にとって見過しておくことのできぬことであった。特にこの事実 が、日本が今日オランダ政府に対していっそう組織的にまた規則的に、ま た政府の協力下に教育を行うために軍医の派遣を申請した理由でもあっ た。146

143 石山禎一、牧幸一訳『シーボルト日記-再来日時の幕末見聞記』(八坂書房、2006 年)P148。

144 シーボルト著、斉藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣、1997 年)P10 。

145 関節・骨・筋肉のこわばり・腫( は) れ・痛みなどの症状を呈する病気の称。古くは悪い液 が身体各部を流れていって起こると考えられ、名は流れる意のギリシャ語に由来。現在は主に 慢性関節リウマチをいう。リューマチ。ロイマチス(『大辞泉』より)。

146 ポンペ 著, 沼田 次郎、荒瀬 進 共訳『日本滞在見聞記―日本における五年間 ( 新異国叢 書〈10〉) 』(雄松堂書店、1968 年)、P274 。

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ポンペの前に来日したオランダ医師たちの医術は、日本人の医師より優れて いたが、鎖国日本における医療行為を行うに際し、様々な問題を起こし、幕府 から信用を失っていたこれらの外人が、外国の医師たちが医療を施すことは困 難な状態にあった。しかし、幕末に幕府は西洋の強い武力に脅かされ、西洋文 明を取り入れようとし、ポンペたちの軍医を招聘し、西洋医学の規則的な医術 を日本人に教えることを希望した。

だが、それにしても日本の医師たちが基本的な医学の知識に乏しいことにポ ンペは述べていた。

私はそのときすでに、学生たちの理論的知識はゼロに等しいことに気がつ いたし、またオランダの医学書からただ単にきわめて簡単な概念を得てい るにすぎないことも気がついた。147

日本では医師の初歩的な教育がないとも言える。原則的な理論を理解してお らず、基礎的なことも全く知らない。彼ら(蘭方医)は単にオランダの医書か ら簡単な概念しか知っていない。ようするに、ポンペには日本人の医学は非常 に時代遅れに映ったのである。

4- 3- 2 ポンペの行った医療教育

【講義内容】 ポンペは長崎で5 年間に医学全般を一人で力を入れ、日本人 の学生を教えた。

私は一連の講義課程を定めた。そしてその際、つぎつぎと順番に下の課目 を取り扱うことに決めた。すなわち物理学、化学、繃帯学、健康人体の理 学総論及び各論(生理学)、病理学総論と内科学、薬理学、外科学理論及 び外科手術学、眼科学である。そしてまたもし時間が余れば、法医学と医 事政策までも講義することとした。148

すなわち、ポンペが医学校で教えた医学の範囲がかなり広く、一人で全般の 授業を担当した。この面から見ると、ポンペは医学の全般に通じていたと言え るだろう。そのカリキュラムはポンペ自身が受けたユトレヒト陸軍軍医学校に 類似し、手抜きする事なく基礎から日本人を教えた。

147 前掲、P274。

148 前掲、P276。

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【医徳149の概念】ポンペは病人を診査するとき、彼のところに来た患者はほ とんど身分高い人であった。「(前略)早くも私の救いを求める病人がたくさん 現われたが、それは必ず身分の高い役人ばかりで、貧困階級からのものは一名 もなかった」。

すべて社会の上層に属する私の学生に特に江戸から留学している学生た ちに、医師にとってはなんら階級の差別などないこと、貧富、上下の差別 はなく、ただ病人があるだけだということを納得させようとしたが、彼ら は同意することはできなかった。彼らの返事は、「ヨーロッパではさよう かもしれないが、日本ではそうではない。そうでなければ、なぜ医師の中 にいろいろの階級と位級があるのでしょうか?」というのであった。150 ポンペは医師として、病人の身分に拘らず皆平等で治療を受けるべきと主張 した。ポンペは日本の社会階級にも指摘し、診療を求める患者は上階層の人の みに限られることを批判した。彼は「私はどんな病人でも上下の差別なく無料 で救助することを決めた」 と述べている。すなわち、ポンペは日本の医師た ちに「医術」を教えるだけでなく、医師としての「医徳」も教えようとした。

ポンペは自分の学生たちの上層、下層関係の偏見を改正しようと思っていた。

【医学改革の壁】ポンペは日本の医療に大変貢献があった。例えば、一般国 民の診療の手続きを改善すること、人体解剖学の実施、養生所151の建設などが ある。しかし、彼が提出した提案は幕府に受け入れられることは少なかった。

例えば、解剖学を広めるために、実際の人体を解剖し、学生たちに見せながら 教えることの必要性を感じていた。

内外科の医師をつくるには理論的教育だけでは不十分であった。もっとも っとたくさんのことが必要である。そこで私はだんだん幕府に対して新し い対策を請求するため何度も交渉に行かねばならなくなった。私は、幕府 が協力を惜しまないといった約束に忠実であったこと、またできるだけ私 を支持してくれたことを認めねばならぬ。152

すなわち、ポンペは日本の要請で日本に来て西洋医学を教えるから、幕府か

149 医徳:医者の品格。

150 前掲、P286。

151「安政四年(1857)にポンペによる講義を拡充して西洋式病院、すなわち養生所が開設され、

幕府直参のみならず、諸藩より派遣された伝習生に理化学、解剖学、生理学、病理学、薬物学、

内科学、外科学の医学七科、および数学、化学などの予備教科を教授した」。(海原徹『日本史 小百科15 学校』近藤出版、1979 年)、P59。

152 前掲、P279 。

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らいろいろな協力してくれることは当然なことであると思っていた。ポンペ は努力して幕府の許可を得られようとした。「解剖学実習のための屍体の提 供とか、人体模型とか病院の新築等々を要求した。これらの要求がすぐには 承認されないとしても、私は別に驚きはしない」。153幕府は簡単にポンペの 要求を応じることは無理だろうとポンペが事前に予想した。

また、江戸時代における、日本人とヨーロッパ人の学術交流が頻繁だったが、

日本側は常に彼らを「外来者」として扱った。幕府はこれらの「外来者」に強 い警戒心を持った。だが、内憂外患に脅え、幕府はポンペから提出した様々な

「改革」を提供しなければならなかった。

4- 3- 3 日本人の生活習慣と疾病

ポンペは日本人の習慣や風土により、風土病154に罹る人が多いとみていた。

例えば、日本人はなぜか胸部疾患、気管支疾患、及び心臓病の患者が多いのか、

彼は以下のように述べている。

首や胸を露出した不合理な衣服がこのような胸部疾患の多い原因である。

遺伝因子も大き役割を演じている。(中略)日本に心臓疾患がきわめて多 い理由は主に何でも過度に濫用するからである。特に強い酒の飲みすぎが 原因であり、またたびたび熱湯に入りすぎること、さらにまた法外な遊蕩 に耽ることがその主な原因であると思う。規則正しい生活をしていれば、

日本の気候はオランダよりも心臓病にとって非常によくないということ は決してない。155

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