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第二章 日本の医療の概観

第四節 西洋医学の伝来

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以て、予謂らく、養生は自然を貴ぶ。48

ある健康な人は、常に六味丸と補中益気湯を服用し、しかもよく歩いた。そ して脾気をめぐらし、森林に入り精神を盛んにしたが、結局、足は湿気を受け、

膝のところには腫れが出、毒も生じ、遂に、水腫になってしまった。この病症 に対して、白朮、人参等湿を乾燥させる薬を使用した。名古屋玄医は補剤の使 用に飽き、養生に最も大切なのは自然の治癒力であると主張した。

以上の幾つの例から見ると、古医方は効果が激しい薬剤を用い、病人の病症 により薬剤を与えた。古医方は使用する薬の中には、李朱医学を奉じる医家た ちが使用しない薬もあった。

第四節 西洋医学の伝来

2- 4- 1 西洋医学受容の思想的背景-儒学折衷学派の出現

十八世紀になると、江戸の儒家井上金峨が出て、徂徠の古学を排斥した。こ れは医学のほうにも影響を与えた。いわゆる折衷学であり、古医方と李朱医学 の折衷である。井上金峨の主張が『匡正録』に書かれている。

文公家礼齊家宝要等ノ書ハ、皆己レノ意ヲ以テ古礼ヲ斟酌シ、又之ヲ時宜 ニ稽テ其ノ説ヲ立ツ。古ニ合ハズト曰フト雖ドモ亦止ムヲ得ザルノ情ニ出 ヅル也。49

『文公家礼』(宋・朱熹著)、『齊家宝要』(清・張仲嘉著)等の書は、みんな 自分の意思により、古礼や時宜を考慮し、説を立てた。もし古礼に合致しなく ても、人情にかなうものであればこれを採用した。つまり時宜に応じた治療を 行うという意味で、井上金峨は復古にとらわれない創造の立場を主張した。

また、井上金峨は訓詰を漢・唐にとり、「義礼は宋明ノ諸家ヲ磅礴」という 義理を宋・明に選び、衆説を折衷すると唱えた。

井上金峨が著した『病間長語』巻三には、古医方についてことが書かれてい る。

今はいかなる末伎の徒も、復古二字を口にせさるなし、その内に医家の復 古はかりは、古に期する所なく、みな創造の言なれば、古に復すと云にて はあるまし(中略)今の復古家は師資あるにも非すして、創業したるもの なれとも、一は漢儒元気の説に拠り、一は周礼の説に拠り、根柢する所あ

48『日本科学古典全書』八巻、(朝日新聞社、1948 年)P18。

49 衣笠安喜『近世儒学思想史の研究』(法政大学、1976 年)P155。

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れば、その自ら復古と称するも宜なり。50

今はどんなつまらない学問をしているものでさえ、復古の二字を口にしない ものはいない。その内で医家の復古だけは古の言葉を追い求めているのではな く、全て創造したものであるから、「古に復す」というものでは決してない。

だが一方で、今の復古家(=古医方の医家)の説は先生から受け継いだもので なく、創業したものであるけれども、一つには漢儒の「元気」の説を根拠とし、

また一つには『周礼』の説を根拠としているのであるから、しっかりした根拠 はあるので、それを復古と自称しているのも納得できる。すなわち、井上金峨 はただ古を信じるだけであることに反対したが、現実(=時宜人情)に合致し たものであるならば、かまわらないと主張した。

このように儒学における、折衷の姿勢は、医学のほうへも影響した。すなわ ち、これが後の蘭方医受容の思想的基盤になったといえよう。後述するように、

杉田玄白は腑分けの実見により、漢方医学の説より蘭方医の説の方が現実に近 いと考え、『解体新書』の翻訳を決意したのである。

2- 4- 2 西洋医学の伝来

日本では、西洋の影響から実証主義が重視されるようになったと言われる。

新井白石(1657~1725 年の『西洋紀聞』51『采覧異言』52などは、世界の事 情を日本人に知らせたものとして、重要な意味を持っている。

西洋医学が始めて日本に伝わってきたのは室町時代の末、織田、豊臣二氏時 代には南蛮外科である。徳川氏初めの頃にはオランダ流の外科である。当時の 日本人はオランダ医術を習う状況については、『大槻磐水集-蘭説辨惑-』に 記されている。

50 衣笠安喜『近世儒学思想史の研究』(法政大学、1976 年)P155。

51「『西洋紀聞』は享保九年(1724)頃成、三巻。上巻には、白石がシドッチ取調べの経過だ けでなく、獄中で牢番を感化し入信させたこと、牢番やシドッチの死まで述べた。下巻では、

ローマ法王やカトリックだけでなく、オランダのルーテル派、英国国教と法王破門に触れ、日 本とスペインやポルトガルの関係、ザビエルの不朽死体、殉教者マルセロなどに及ぶ」。(『洋 学史辞典』雄松堂、1984 年)P388 。

52 「『采覧異言』は新井白石の著した日本最初の系統立った世界地理書。書名は古代中国で毎 年勅使を派遣して異言を集めた故事に由来し、万国の異聞を採った見通すの意。白石はシドッ チG. B.Si dot t i 尋問から得た世界地理の知識を、江戸参府のオランダ商館長らに質問補正し、

マテオ・リッチ『坤輿万国全図』を軸とした著述で、リッチ図の説明文の順に、天動書を説く 総論の後、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、南北アメリカの順に解説した」。『洋学史辞典』雄 松堂、1984 年)P289。

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(前略)外科乗り来りて種種奇術を施せしを、時の通詞これを見習ひ外科を 始めたるが根本にて、いつしか一家をなし其人に従ひ聞傳ひ次第ゝに盛ん なる事になり、長崎こそ外科の本元のやうに成りたると見えけれ、其頃彼 国の書を直に讀む事の出来ぬ時なれば只其術の妙なる事のみ見覚えて、

(後略)53

西洋の医方は患者を治療する時、通詞がそばで見て翻訳し、その技術を次々 と伝えていった。しかし当時は通詞が通訳したといえども、オランダ語の書を 読み、ただ医人者の行為を傍観し、その話を聴いて、医術を覚えるだけであっ た。その故に、治方は傅膏、塗薬、以って僅かに金創、療傷等を治療し、手術 としてはただ小截開を施すにすぎなかった。

オランダ医学の伝来時期については、石田純郎氏の『オランダにおける蘭学 医医書の形成』54によって、日本の西洋医学の導入時期が3 期に分けられてい る。第一期は『解体新書』の刊行された安永2 年(1774)に始まる。第二期は 有力な蘭学私塾の創設が相次いた安永9 年(1780)である。そして第三期は安 政4 年(1858 年)に来日したオランダ軍医ポンペである。

2- 4- 3 蘭学の勃興

蘭学が始まるのは、江戸で『解体新書』が作られた時である。明和八年(1771)

三月四日、江戸北郊の小塚原場で、青茶婆とあだ名された女の刑死体の解剖が 行われた。玄白たちは小塚原に腑分けで、実際に自分の目で見る人体内部の様 子が、オランダ書の図と一致することに深い感動を受けた。漢方の医書に説か れている五臓六腑十二経絡は誤まりが多くて、実際の医学に役立たないことを 痛感した。

苟くも医の業を以て互ひに主君主君に仕ふる身にして、その術の基本とす べき吾人の形態の真態をも知らず、今まで一日一日とこの業を勤め来りし は面目もなき次第なり。55

その日の帰り途で玄白と良沢と中川順庵の三人が話し合って、そのターヘ ル・アナトミアの翻訳をする決心をなした。玄白が著して、『解体新書』と名 づけられた。この解体新書』の出現によって、西洋の学術はかなりの勢いで日 本人の間に広まり始めた。医学と天文学を先頭に様々な分野の学問が伝わって きた。

53『大槻磐水集-蘭説辨惑-』P403 年。

54 石田純郎『オランダにおける蘭学医医書の形成』(思文閣、2007 年)。

55 杉田玄白 芳賀徹 緒方富雄『蘭学事始』(中央公論社、2004 年)。

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2- 4- 4 蘭医の治療方法

一般的には、オランダ医の治療方法はほとんど外科に属すると言える。ただ しその方法は、膏薬を用いたり、針で膿をだしたり、焼いた鉄で血止をしたり という程度のものであった。56では、外科の治療方法だけで十分ではない場合。

どうすればよいのか。蘭医の杉田玄白と建部清庵二人の往復書簡で編集された

『医事問答』によれば、以下のように述べた。

風寒暑湿並婦人小児之病、皆膏薬・油薬計にても無之、内薬を専ら相用申 候。(中略)、三等開塞法と申事に御座候。其内下剤を用候所へ、「スポイ ト」と申水銃器にて、肛門より薬水を入候法御座候。其術を「キリステル」

と申候。是唐にていたし候蜜導法に似候得共、其法甚簡便にて、其功揺に 勝り申候。57

婦人や子供の病気には、膏薬で治すだけでなく、その専用の薬がある。また、

肛門より薬水を入れる治療方法もある。オランダ医学は中国の灸のような、刺 絡という治療方法があり、それは『蘭学事始』には、以下のように記されてい る。

日々彼客屋(長崎屋)へ通ひたり。一日右の「バブル」、川原元伯といへ る医生の舌疽を診ひて療治し、且刺絡の術を施せしを見たり。扨々手に入

日々彼客屋(長崎屋)へ通ひたり。一日右の「バブル」、川原元伯といへ る医生の舌疽を診ひて療治し、且刺絡の術を施せしを見たり。扨々手に入