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歐洲人所見的日本疾病與醫療 - 政大學術集成

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(1)国立政治大学日本語文学系 碩士論文. 指導教授: 于乃明 博士. ヨーロッパ人の見た日本の疾病と医療 政 治. 大. 立立. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. n. er. io. sit. y. Nat al. Ch. n engchi U. iv. 研究生:李明芬 撰 中華民國一百年六月.

(2) 歐洲人所見的日本疾病與醫療 中文摘要. 日本的醫療深受朝鮮、中國所影響,也可說支撐日本從桃山時代到江戶時代時 代的醫療是中國的漢醫學。然而漢醫學又可分為李朱醫學、古醫方兩派別。李朱 醫學講究「養生」,用藥方面採用溫補慢慢調養的方式。而古醫方著重「對症下 藥」 ,針對病人的症狀,採用適合的藥方。李朱醫學約盛行於 17 世紀,而後約於 18 世紀古醫方抬頭。但李朱醫學並未因此而消失,兩種醫學學派呈現並存而行 的樣貌。隨後西方醫學的導入,西方醫學在 16 世紀隨葡萄牙人的到來傳入南蠻 醫學,但大都為切開傷口及包紮患部的簡單小手術。而後鎖國體制下的江戶時 代,由荷蘭人導入的蘭醫學也為日本人所受容。直到 19 世紀明治維新期西方挾 船堅砲利來到日本,幕府大量攝入西方醫學及文明,也因此漢方醫學逐漸被西方 醫學所取代。日本文化特色就是大量吸收外來知識然後內化為自己獨特的文化。. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 這樣的文化精神在醫學上也可見其蹤跡。 本論文以來日的四位歐洲人為中心,依序為 政 治 15大世紀路易斯·弗洛伊斯(葡萄牙 立立 語:Luís Fróis)、17 世紀的檢夫爾(Kaempfer) 、18 世紀的菲利普·弗蘭茲·馮·西 博爾德(Philipp Franz von Siebold)以及 19 世紀的龐貝(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort) ,由於這四人來日本的時間可劃分日本的醫療變遷,從 弗洛伊斯開始的咒術及祈禱方式的治病方式開始,檢夫爾來日看見日本的李朱醫 學,西博爾德來日看見的古醫方以及幕末來日的龐貝,他們所見到的日本醫療狀 況大不相同。其中,他們對於日本的針灸、溫泉療法及精神療法(如向神明祈禱 al 以達到治病的效果)各持有不同的態度。藉由他們的出身背景、因應當時的國際 v ni Ch U engchi 情勢以及西方思想的變遷來分析他們對於日本醫療的看法,不僅可達到理解當時 的日本醫療觀,亦可了解當時社會風俗的樣貌。. n. er. io. sit. y. Nat. 【關鍵字】:疾病、醫療、咒術、祈禱 1.

(3) ヨーロッパ人の見た日本の疾病と医療 日本語要旨. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 日本の医学は隣にある中国と朝鮮に強く影響を受けた。日本の桃山時代から 江戸時代まで、医療を支えていた大きな力は中国系の医学であった。その漢方 医には「養生」を重視する李朱医学と「対症療法」を重視する古医方があった。 李朱医学は日本化されて「道三流」となった。これが桃山時代から江戸時代前 期にかけての日本の医学の主流であった。 しかし、これに対して思弁的傾向が強いという批判が現れ、唐以前の古典、 例えば『傷寒論』などの実証主義を重んじることを主張する名古屋玄医と後藤 艮山らの古方派が台頭してきた。古医方は「対症療法」を主とした治療の技術 であった。すなわち、病症に対してどのような薬方が効くかを経験的に調べて、 治療行為を行った。また、西洋医学が始めて日本に伝わってきたのは室町時代 の末、織田、豊臣二氏時代には南蛮外科である。徳川氏の初めの頃にはオラン 政 治 大 ダ流の外科である。南蛮流外科の治方は瘡傷と金創の二つに対する膏薬を施す 立立 もので、手術をしても簡単なものであった。幕末期は医学にとっても東洋医学 中心から西洋医学一本へと切り替わる極めて重要な時期であった。幕府は西洋 医学を公認し、急速な、西欧文明を受容し、極めて関心を持った。 本論文は、来日ヨーロッパ人の四人を取り上げ、ルイス・フロイス、ケンペ ル、シーボルトとポンペを中心にして、彼らの目を通して日本の医学の変遷を どのように見て、そして彼たちが見た日本の呪術、湯治、灸治などをどのよう al に評価したのか。彼らの身分の違い、加えて当時の国際情勢を踏まえて、さま v ni Ch U engchi ざまな意見が出された。彼らの日本医療観から、当時の日本社会の風俗と習慣 を理解することができる。 . n. er. io. sit. y. Nat. 【キーワード】:疾病、医療、病気、呪い、祈祷 2.

(4) The Cognition of Disease and Medical Treatment in Japan for Europeans Abstract Japanese medical treatment has been influenced by Korea and China, that is to say, the medical treatment in Japan has adopted kampo(漢方) since Azuchi-Momoyama period(安土桃山時代) to the Edo period(江戶時代). Kampo(漢方) divided into Risyu medical(李朱医学) and Koihou (古医方). The emphasis of the Risyu medical(李朱医学) was regimen, prescribing temperate medicine and convalescing step by step. On the other hand, Koihou(古医方) emphasized on suiting the medicine to the illness, prescribing definite medicine for patients’ illness. Lisyu medical (李朱医学)was popular in 17 century, and later the koihou (古医方) 治 (李朱医学) has not fallen away; 政 medical became the main stream. However, Lisyu 大 立立 simultaneously. The western medicine called the two medical sects has developed. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. Nanban medical(南蛮医学) was introduced by Portuguese around 16 century. Nanban medical(南蛮医学) focused on an minor surgery, such as wound incision and wound dressing . During Edo period under the locked-country policy, Japanese also accepted. er. io. sit. y. Nat. Ranbouigaku(蘭方医学) which was introduced by Dutchmen. Until 19th, Westerns came to Japan with large armaments. In order to resist the threat from the colonial. n. v acquired the civilization, powers of the day, Bakufu(幕府)awith l C great deal of effort ni U h i e n g c hthereafter culture and medical technology from Westerns, Kampo(漢方) was replaced by the western medicine. The character of Japanese culture is to absorb external knowledge and then transform it into their own unique culture. The spirit can also be seen in their medical area. This thesis put emphasis on 4 Europeans, Luis Frois, Kaempfer, Siebold and pompe,. According to time sequence, they will be introduced in the thesis respectively 15, 17, 18, 19 century, which also represents the change of Japanese medical treatment. Starting from the incantation and prayers for the sick from Frois, Kaempfer’s adoption of Risyu medical(李朱医学), Siebold’s seeings of the Koihou(古医方) to Pompe’s seeing of the medical treatment in Bakumatsu (幕末) period, all of them experienced the different situations of Japanese medical treatment. They held distinct point of view on acupuncture and moxibustion therapy, hydrotherapy and psychotherapy (such as praying to Gods for the recovery). Based on their backgrounds, the international situation at that time and the change of the 3.

(5) western thinking, analyzing their views towards Japanese medical treatment not only realizes Japanese medical situation but also the custom and tradition at that time.. 立立. 政 治 大. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. n. er. io. sit. y. Nat al. Ch. n engchi U. iv. 【key word】disease, medical treatment, incantation, prayer 4.

(6) 目次 6 6 8 9. 第一章 序論……………………………………………………………………… 第一節 研究動機と目的…………………………………………………… 第二節 先行研究…………………………………………………………… 第三節 研究方法と使用する史料………………………………………… . 10 10 17 19 26 30. 第三章 フロイスとケンペルの見た日本の疾病と医療……………………… 政 治 大 第一節 ポルトガル人が行った医療……………………………………… 立立 第二節 精神療法-祈祷と呪術-………………………………………… 第三節 ケンペルの見た日本の伝統療法………………………………… 第四節 祈祷から医療への転換期…………………………………………. 34 34 36 41 47. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 第二章 日本の医療の概観……………………………………………………… 第一節 宗教と医療………………………………………………………… 第二節 李朱医学の伝来 ………………………………………………… 第三節 元禄期の新しい漢方医学-古医方-…………………………… 第四節 西洋医学の伝来…………………………………………………… 第五節 幕末の医学の普及状況……………………………………………. n. er. io. sit. y. Nat. 第四章 シーボルトとポンペの見た日本の疾病と医療……………………… 第一節 シーボルトの見た日本の疾病…………………………………… al 第二節 シーボルトの見た日本の医療…………………………………… v ni Ch U engchi 第三節 ポンペの見た日本の疾病………………………………………… 第四節 ポンペの見た日本の医療…………………………………………. 51 51 55 60 65. 第五章 結論……………………………………………………………………… 69 参考文献…………………………………………………………………………… 72. 5.

(7) 第一章 序論 第一節 研究動機と目的 まず、日本の医療史の概略から考えはじめたい。. 立立. 政 治 大. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學 y. sit. io. n. 1. er. Nat. 飛鳥時代の仏教は「西から来た神」として一括してとらえられるだけで、諸 尊の利益の特徴や相違は意識されておらず、経典などに説く利益に応じて祈祷 al する呪術1宗教としては、いまだ極めて未熟であったといえよう。しかし時代 v ni Ch U engchi が下るにつれ、この異なる多様な呪術的効験が、日本人の間でも、次第に理解 されるようになってきた。中でも特に注目されたのは、治病の効験である2。 奈良時代も後期になると、仏教自身にも含まれていた呪術的な作法、祈祷の 方法が重んじ伝えられるようになった。また中国、朝鮮を通じて仏教というよ りは道教や陰陽道のほうに近いような方術も、これまた一応知識人の側から摂 取され、やがて広く知られるようになった3。 飛鳥、白鳳時代以来、1875 年( 明治 8) に医師の資格試験が西洋学のみに限ら. 呪術について『歴史学事典 第 11 巻 宗教と学問』には「日本古代において、僧尼令の第 2 条で、僧尼が吉凶を卜相したり、小道( 道教的な呪術) や巫術により病気治しを行えば、還俗さ せられたが、仏呪によって病気治しをすることは認められていた。奈良時代には、雑密が行わ れていたが、平安時代に入って最澄、空海により密教が伝えられ、天台宗・真言宗が成立した。 密教、とりわけ真言宗では、病気や災難を除くため、印を結び陀羅尼を唱えて加持を行った。 安産祈願のための牛黄加持や、病を除き死者の罪を消滅する土砂加持などであり、仏教的な呪 術と言うことができる。」とある。( 『歴史学事典 第 11 巻 宗教と学問』弘文堂、2004 年、 P322) 。 2 速水侑『呪術宗教の世界』(塙新書、1987 年)P29。 3 和歌森太郎『三伏』(中公新書、1965 年)P39。 6.

(8) sit. io. n. er. Nat. y. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. れるまでのおよそ 1500 年間、日本の医療を支えていた大きな力は、中国系の 医学であった。はじめ朝鮮を経由して伝えられた古代中国医学は、それまでの 日本固有の経験医術を踏み込んで、仏教教義に基づく医療精神、隋唐医学の模 倣をして古代日本の医学が始まった4。 室町時代には、元の李朱医学が日本に伝えられ、さらに日本化された。明に 留学した何人らかの医家が正しい方法論を身に付けて帰り5、当時伝えられて ヨーロッパ系のキリシタン医学の流行とともに、複雑な様相を呈した。 元禄時代( 1688~1740 年) に入り、古医方と呼ばれる中国後漢時代の『傷寒 論』に基づいて対症療法を重視する新しい医学が始まった。続いて享保時代 (1716~1736 年)以降になると、オランダ語の学習と西洋医学の摂取が開始 され、蘭学・蘭方医学が生まれた。 明治維新以後、日本は西洋の医学を受け入れることになった。その際日本人 は、江戸時代を遅れた時代だと考えた。つまり、江戸時代を否定することが新 しい時代をつくるための第一歩だとしたのである6。 以上は日本医療事情の歴史である。この日本の医学の変遷をヨーロッパ人は 政 治 大 どのように見、評価していたか、近世に来日した四人のヨーロッパ人の目を通 立立 して検討したい。 本稿で、取り上げた来日ヨーロッパ人たちについて簡単に述べておきたい。 ルイス・フロイス( Luí s Fr ói s 、1532~1597 年) は永禄五年( 1562) 宣教師とし て来日した。はじめ北九州地方で伝道したが、永禄七年( 1564) 命を受けて京都 に上り、その地方で布教活動を行った。そのころ書いた報告には、近畿地方の 文化や風俗についての記述が詳しい。 al 次は、十七世紀にオランダ東インド会社長崎支店(出島)の駐在医師として v ni Ch U e n g c h i ber t Kaempf er 、1651~1716 年) 日本に来たエンゲルベルト・ケンペル(Engel である。彼はオランダ人ではなくドイツ人である。鎖国の日本に来るために、 オランダ東インド会社で働いてい、彼は医者として来日し、二回の江戸参府の 間に日本について研究し、帰国後『日本誌』を著した。さらに参府旅行につい て『江戸参府旅行日記』を書き、参府道中で見たものについて記録を残してい る。 それから、十九世紀に来日したフィリップ・フランツ・バルタザール・フォ ン・シーボルト(Phi l i pp Fr anz Bal t has ar von Si ebol d、1796~1866 年)で あり、医学分野で活躍した人物である。1822 年( 文政五) にオランダ国王ウィ レム一世の侍医であったハ-ルウェルの推薦により外科軍医少佐に任せられ、 日本の国民、産物などを研究するために日本に向かった。 最後は、幕末に来日し、オランダ医学を伝えたオランダ海軍の軍医のヨハネ 4. 石原 明『漢方』(中公新書、1906 年)P123。. 5. 例えば、田代三喜( 1465~1537 年). 6. 田中圭一『病いの世相史-江戸の医療事情-』(ちくま新書、2003 年) 7.

(9) ス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト (J ohannes Li j di us Cat har i nus Pompe van Meer der voor t 、1829~1908 年) である。長崎海軍伝習所の第 2 代指揮官であったカッテンディーケに選任され、 医学教授として日本で雇用された。長崎に、日本で最初の西洋式病院である「小 島養生所」を設立し、計 15, 000 人の診療を行ったと言われる。 本論は来日した四人のヨーロッパ人をとりあげ、彼らの残した記録から、当 時どのような思想が流行っていたのか、そして当時の国際情勢はどうのように 発展していたのか、彼らの日本に対する医療観を中心に検討していきたい。 第二節 先行研究. sit. io. n. er. Nat. y. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 日本の医学史についての研究は、富士川游『日本医学史綱要Ⅰ、Ⅱ』7・日 本学士院編『明治前日本医学史』8がある。これらは、日本古代から江戸幕府 時代の末まで医学の学派などを詳しく記述している。 中国の医学に関する研究は、石原明氏著した『漢方』9と山田慶兒『中国医 治 政 『漢方』には中国の殷王朝より以前、 学はいかにつくられたか』10などがある。 大 立立 先史伝説時代の人類の素朴な幻術的な世界観と自然崇拝についてのことが書 かれており、戦国時代の雑多な民間の巫系医学や、元代の「李朱医学」なども 詳しく記されている。また、『中国医学はいかにつくられたか』については、 中国医学の誕生と成立、古代の甲骨文にみる病と医療などの記述がある。 日本の疾病について研究した立川昭二『日本人の病歴』11は奈良時代に大陸 から侵入してきた疱瘡、文政五年( 1822) 日本にコレラが最初に侵入したことが、 al 記るされてうる。田中圭一の『病の世相史』には、江戸時代の民衆ははたして v ni Ch U engchi どのような医療を受けていたのか、そして健康に関心を持つ百姓たちが、薬草 や温泉、護摩壇に焚く香料、呪いの力をどうのように活用していたのか、につ いて書かれている。 次に来日した四人のヨーロッパ人についての研究は、宮崎克則・福岡アーカ イブ研究会編『ケンペルやシーボルトたちが見た九州、そしてニッポン』12が ある。ここには、ケンペルやシーボルトたちの江戸参府について記述されてい る。さらに、ヨーロッパ人が見た日本の文化や宗教などに関する記載もある。 大島明秀は『「鎖国」という言説』13でケンペルの生涯について概観し、また、 7. 富士川游『日本医学史綱要Ⅰ、Ⅱ』、(平凡社、2003 年)。 日本学術振興会『明治前日本医学史』(日本学士院日本科学史刊行会編、1955 年)。 9 石原 明『漢方』(中公新書、1906 年)。 10 山田慶兒『中国医学はいかにつくられたか』(岩波新書、1999 年)。 8. 11. 立川昭二『日本人の病歴』(中央公論社、1977 年)。. 12. 宮崎克則・福岡アーカイブ研究会編『ケンペルやシーボルトたちが見た九州、そしてニッ ポン』(海鳥社、2009 年)。. 13. 大島明秀『「鎖国」という言説』(ミネルヴァ書房、2009 年)。 8.

(10) ケンペルの論文には、以前のヨーロッパ人著者による日本の対外政策に関する 描写についての分析が書かれている。『ケンペルと徳川綱吉』には、2年間の 日本滞在中、ケンペルが2度にわたって五代将軍綱吉に謁見した際に抱いた感 想について分析し、そこで感じたことを分析し、綱吉の政治をどう見るべきな のかを議論する。加えて徳川将軍が外国人たちをどう扱っていたかをも書いて いる。川崎桃太『フロイスの見た戦国日本』14、宮崎道生『シーボルトと鎖国・ 開国日本』15、宮永孝『ポンペ-日本近代医学の父-』16などがある。まず、 『シ ーボルトと鎖国・開国日本』は二部構成である。第一部は鎖国日本におけるシ ーボルト来日の経過と目的、そして医師、博物学者として日本で行われた活動 などが書かれている。第二部は開国後、シーボルトの再来日と外交的活動など が記述されている。 従来の研究は中国の医療がどうのように日本に影響を与えたのかについて 多くの関心があり、来日したヨーロッパ人の見た日本の医療についてはあまり 注意を払っていない。本論はヨーロッパ人の日本の医療観から日本の風俗につ いて一考えを加えるものである。. 政 治 大. n. 16. sit. io. 15. er. Nat. 14. y. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 立立 第三節 研究方法と使用する史料 フロイスの『日欧文化比較』は、ヨーロッパ人と日本人を比較した書物とし て最も古いものの一つである。『日欧文化比較』は、ヨーロッパ人の好奇的な 目になるものとして読み捨てるべきものではなく、その一行一行が、安土、桃 山時代の社会、生活、風俗の歴史を明らかにするための重要な史料と思うべき al である。その中には、日本の医療と疾病についても少なからず記されている。 v ni Ch U engchi 次に、1690 年に蘭館医として来日したケンペルは日本についての史料を残 した。それは『日本誌』と『江戸参府旅行日記』であり、前者は灸治について 扱うだけでなく、日本人の習慣の中で何の病を生じたかについても記述してい る。後者は、ケンペルが 1691 年、1692 年二回で江戸参府に随行した時、街道 の状況、街道の見聞、街道で生活している人々の様子などを描写している。そ の中には、江戸時代の日本人の祈祷や薬草、病などのことも多少書いてある。 次にシーボルトの『日本』には、日本の鍼術( 烙針法) と艾の効用についてが 書かれている。しかも、シーボルト以前のヨーロッパ人が日本の医療を研究し ていた部分も書いてある。 最後にポンペの『日本滞在見聞記』の中には、医学校で日本人の学生たちと の間で行われた医学授業、科目、臨床試験などについて記されている。さらに、 日本人の医学と医療を指摘し、幕府との間に医療政策を実施しようとして行っ 川崎桃太『フロイスの見た戦国日本』(中央公論新社、2003 年)。 宮崎道生『シーボルトと鎖国・開国日本』(思文閣、1997 年)。 宮永孝『ポンペ-日本近代医学の父-』(筑摩書房、1985 年)。 9.

(11) たさまざまな交渉についても詳しく書いている。 本論では、フロイスの『日本史』と『ヨーロッパ文化と日本文化』、ケンペ ルの『日本誌』及び『江戸参府旅行日記』、シーボルトの『日本』、ポンペの『日 本滞在見聞記』から彼らの日本における疾病と医療に対する見方の相違点を見 つけようと思う。 フロイスの『日本史』と『日欧文化比較論』の原典はポルトガル語で書かれ、 ケンペルの『日本誌』の原典はドイツ語であり、シーボルトが書いた『日本』 はオランダ語であり、ポンペの『日本滞在見聞記』の原典はオランダ語である。 本論では、松田毅一・川崎桃太訳のフロイスの『日本史』全十二巻( 中央公論 社出版、1977 年) 、岡田章雄訳の『ヨーロッパ文化と日本文化』( 岩波文庫、 1991 年) を使う。また、坪井信良訳『検夫爾日本誌上・中・下』、( 霞々関出版、 1999 年) 、中井晶夫訳のシーボルト『日本』全六巻付たり図録三巻( 雄松堂書 店出版、1977 年) 、沼田次郎と荒瀬進訳ポンペの『日本滞在見聞記』( 雄松堂 書店、1968 年) などの日本語訳を使用する。 第二章 日本の医療の概観. 立立. y. Nat. sit. 2- 1- 1 呪術、祈祷と伝統的医療. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 第一節 宗教と医療. 政 治 大. n. er. io. 日本においては、病気の人は穢れた状態と考えたから、その穢れを祓うた 17 18 al めに、儀礼が治療行為として行われていた 。また、疫神と化した死霊 、 iv n Ch U engchi 悪霊の崇りとする疾病観も根強かったから、荒魂や怨魂を鎮めるため、鎮魂 祭、御霊会19、祈祷や呪術などが行われていた。祈祷については、 『甲子夜話』 には、以下のように記されている。 <七> 長崎の人云ふ。彼地に一老婆の祈祷に妙あるありて、人々病悩、或は事故 皆其験あり。 (後略)20. 17. 奥沢康正『京の民間医療信仰』(思文閣、1991 年)P2。 「死霊の観念は、霊魂は誕生とともに肉体に宿り死によって肉体から離れても、永続的に存 在するというタマをめぐる日本人の死生観・霊魂観と深く関係がある」(福田アジオ、新谷尚 紀等編『日本民俗大辞典』吉川弘文館、2000 年)P872。 19 「御霊会は疫病退散を願って行われた行事です。古代には、疫病をもたらすのは疫神であっ た訳ですが、平安時代には、政治的に失脚した人間の怨霊によってもたらすと考えられるよう になった。これが御霊信仰と呼ばれるものですが、御霊を祭り鎮めて、疫病を退散させようと する」(奥沢康正『京の民間医療信仰』思文閣、1991 年)P58。 20 松浦静山、中村幸彦、中野三敏校訂『甲子夜話』5(平凡社、P29)。 10 18.

(12) 長崎には、ある老婆が祈祷によって、人の病悩や事故などを解決し、かなり 効果があったという伝説があった。昔の人にとって、祈祷は単に宗教行為とい うだけでなく、医療行為として見られていた。昔には、僧侶=医療者というよ うな考え方があった。例えば僧侶たちは「祓い」で、神仏に祈り、災いを除こ うとする儀式を行った。 「不安」や「おそれ」など、 「気の病」には、護符やお 守りを焼いて飲むという方法もあった。 宗教と医療はどのように繋がっているのだろうか。古代の呪術師には陰陽師 と、修験僧=山伏21らが「護法22」を行った。護法によって、修験僧の呪力を 形象化した。古代の呪術的世界の中で修験道23の占める位置は大きかった。 2- 1- 2 人形と疫病の神 神仏や霊に依るさまざまな方法で病気を治すことは今でもよく見られる。例 えば、疫病を除けるため、神が描かれた絵を使用し、ドアや家などのどこかに 貼ることや、。また、さまざまな地域に流行神が現れ、それが治療と結びつい 政 治 ていたことなどはつとに知られているところである。. 大. 立立. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. n. er. io. sit. y. Nat al. 21. Ch. n engchi U. iv. 「山伏は山野に伏して修行することに因むう名称である。修験は当初は密教の験者が山岳 で修行して加持祈祷に効験をもたらす験力を修めたことをさす語だった。のちには修験道の宗 教的指導者を修験者と呼び山伏・山伏を同義とされた」(福田アジオ、新谷尚紀等編『日本民 俗大辞典』吉川弘文館、2000 年)P749。 22 「唯識十大論師の一人。南インド出身で、ナーランダー寺の学頭として多くの弟子を育成 した。29 歳でブッダガヤーの菩提樹辺に隠棲し、32 歳で世を去ったといわれる。その唯識説 は弟子の戒賢を介して玄奘に伝えられ、さらに玄奘よりこの教理を受けた慈恩大師基が中国法 相宗を開くことになる」(『岩波仏教辞典』岩波書店、1989 年)P280。 23 「修験道は日本古来の山岳信仰、なかんずく山人の信仰が、外来の仏教、道教、儒教、シ ャーマニズム神道の影響のもとに平安時代末頃にまとまった宗教形態をとったもの、山岳で修 行することによって、超自然的な力を獲得し、其の力を用いて呪術、宗教的な活動を行う。 」(『岩波仏教辞典』岩波書店、1989 年)P406。 11.

(13) 24. . (深圳八幡の地蔵) (本郷大円寺の疱烙地蔵) (神楽坂昆沙門堂の浄行菩薩). ( 笹間良彦『復元 江戸生活図鑑』). 立立. 政 治 大. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. n. er. io. sit. y. Nat al. 25. Ch. n engchi U. (笹間良彦『復元. iv. 江戸生活図鑑』). その一方、病を起こさないように、悪神を払うための工夫もあった。. 24. 25. 笹間良彦『復元 江戸生活図鑑』(柏書房、1995 年)P180。 笹間良彦『復元 江戸生活図鑑』(柏書房、1995 年)。 12.

(14) 26. (笹間良彦『復元 江戸生活図鑑』). 家の中へ疫病者が入らないよう、門口に弓矢や刀を携えた藁人形や赤紙に書 政 治 かれた為朝を置いたり、鬼の顔を書いた絵をつけたりしたのである。. 大. 立立. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. n. er. io. sit. y. Nat al. Ch. n engchi U. iv. (笹間良彦『復元 江戸生活図鑑』) 江戸時代には、悪い病気がはやるたびに、怪しげな疫病神が現れて、さまざ まな事情を語ったとされる。かつては、疱瘡というのが、もっとも恐ろしい病 であったために、疱瘡神のことが、きわめて多く伝えられている。『譚海』五 巻には以下のように記されている。 小川与右衛門船にて約束の事書き、出はいりのも門、又は戸ある口々に貼 り付け置くときは、その家の小児疱瘡軽くするといへたり。これは前年疱 瘡神関東へ下向ありし時に、条名がへらんとせしを、与右衛門といふ船頭、 守護して救ひたりしかば、疱瘡神喜びて、此の謝礼にはその方の名書きて 26. 前掲、P180。 13.

(15) あらん家の小児は、必ず疱瘡軽くすべきと約束ありし故かく書付くる事と いへり。27. 28. . ( 笹間良彦『復元 江戸生活図鑑』). 江戸時代に人々は疱瘡をかかった子供が癒せる願いを書付けて、門に貼り、 疱瘡神に願をかけると元気になると信じらえていた。このような行為は、現代 でも、似た作法がある。例えば、絵馬に願いを書き、神に伝えようとする行為 政 治 である。また、疱瘡除けのお守りもある。 『思出草紙』巻四には、以下のよう 大 立立 な記述がある。. •‧ 國. ㈻㊫學. sit. io. er. Nat. y. •‧. (前略)江戸巣鴨砂利場といふ所に、国府安平といへる御家人あり。この者 家内肉縁の者に、疱瘡を煩ふ事壱人もなし。また守りを借し遣はす所、そ の守りを借受るもの、いかなる悪き疱瘡たりとも死する事なし。29. n. al すなわち、江戸時代の人々は守りを借り使って、疱瘡が除けるという概念が v ni Ch U engchi あった。ただし、このような病気を避けるために、お守り、札などを使用する 行為は現代の人々の間にも残っている。 2- 1- 3 民間療法と迷信 「民間療法は医療の専門家のいないのところで、庶民自ら生を全うさせる過 程で生み出された知恵である」。30例えば、病人に神水、護符を与え、祈祷や呪 符などのものを用いることや、修験者を招いて無病息災を祈り、寺社の札を家 に貼るなどのことは民間療法の重要な一角を占めている。 民間療法とは、古くから民間で見出され伝承されてきた方法によって行う治 療のことである。主に経験則に基づいた医療(もしくは医療の類似行為)であ る。以下、いくつかの民間療法の例をあげてみよう。まず、疱瘡に対する民間 27. 28 29 30. 鈴木棠三著編『随筆辞典 3 風土民俗編』(東京堂出版、1960 年)P393。 笹間良彦『復元 江戸生活図鑑』(柏書房、1995 年) 柴田宵曲編『随筆辞典 4 奇談異聞編』(東京堂出版、1961 年)P400。 福田アジオ他編『日本民俗大辞典』下(吉川弘文館、2000 年)P634。 14.

(16) の薬を取り上げる。 疱瘡之呪薬法 一、 辰砂 水飛壱匆 一、 麝香 五りん 一、 蓖麻子 三拾六粒 とうごま、皮を去り白実を用、明け六時のかしらに薬こしらへ致候故、前 夜にひましの皮をとり得てよし。明六時過てはよろしからず。 右三色、五月五日の朝六ツ時のかしら、しゃうじゃうなる板にて、ひまし を竹べらにてのりのごとくに押し、三色を一つに合せ、きれい成うつわ物 へ入置、同日午の刻に、小児の身の内、此図の通り十三ヶ所にぬる。尤新 筆を用。九時過候てはよろしからず。. 立立. 政 治 大. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. n. er. io. sit. y. Nat al. Ch. n engchi U. iv. 辰砂、麝香と蓖麻子は、一つに合せて、午の時小児の体に図のような 13 ヶ 所ところに塗るという呪術であった。 舌に腫れ物ができた場合、『耳嚢』に記述されている。 昆布を煎じて口中を洗、西瓜の上の皮を黒焼にして附れば、奇々妙々に治 す、舌疽を愁し人に施せしに、立所に治せしと、官位長島某密に傳之。31 昆布を煎じで口を洗い、西瓜の皮を黒く焼いて附ければ治せる。さらに、鼻 血が出る場合、『耳嚢』には以下のように記されている。 鼻血を止る妙呪の事 31. 池田四郎、浜野知三郎、三村清三郎編『日本藝林叢書』十(鳳出版、1972 年)P28 。 15.

(17) 鼻血出る人、左より出れば、已が左りの睾丸を握り、右なれば右の睾丸を 握り、両様なれば両睾を握れば、感通して、立所に止る由、呪ふ人女なれ ば、乳を握りて呪に、妙なるよし。32 鼻血が出る時、左から出る場合左の睾丸を握り、右なら右の睾丸を握る。女 だったら、乳房を握る。もう一つの例がある。『甲子夜話』五十九にも記述さ れている。 <二十>(前略)鼻衄の止らざるを速に止るには、糊入或は半紙にても四 つに折り、水に浸し、その額の真中に当て、その上より、熨斗にても薬灌 の尻にても火気を透せば、衄忽止ると。33. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 糊入や、折った紙四つを水に浸させ、それを額の真中に当てて、熨斗や薬灌 の尻で火気を透せば、鼻血が止められるという民間療法があった。 (表一)34から見ると、近世における人々の民間療法が祈願により疾病を避け 政 治 大 るという迷信であったことがわかる。医学の歴史では、初めは呪術を中心とす 立立 る魔法医術であった。しかし時代 (表一)御利益の内容 を経て、医療と宗教はそれぞれ体 凍風 1 疱瘡 10 系と位置がづけられたのであっ 2 諸病 6 たが、宗教の特色を持つ医療行為 瘡 1 諸願 8 は、多くの人々に対して医療とし 月代 1 厄除 5 ての機能を果たしていた。高度な 中風 al 火災・盗難除 歯痛 6 医療技術と科学を持つ現代にな iv 1 n Ch 1 五痔 5 っても、連綿と受け継がれ、人々 e子授・避妊 ngchi U 裁縫上達 1 安産 5 の間に民間医療信仰として生き 歯ぎしり 1 開運・福徳 3 続けている。. n. er. io. sit. y. Nat. 32 33 34. 積衆. 1. 下の病. 3. 狐つき. 1. 頭痛. 3. 子児の病気. 2. 梅毒. 1. 腫物. 1. 足の病. 2. 複数にまたがる場合は全て. 授乳. 2. 数に入れた。お札、加持、. 眼病. 1. 祈祷の場合も数えて列挙し. 労痎. 1. た。. 酒断. 1. 難病. 1. 前掲、P11。 松浦静山著、中村幸彦、中野三敏校訂『甲子夜話』巻五(平凡社、1977 年)P202。 宮田登・塚本学編『民間信仰と民衆宗教』(吉川弘文館、1994 年) 16.

(18) 第二節 李朱医学の伝来 2- 2- 1 李朱医学の成立とその特色. Nat. sit. 2- 2- 2 李朱医学の輸入 . y. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 日本の南北朝の頃( 14 世紀) は、中国では元が亡びて明が興る時代であった が、元には李杲、朱震亨などの医家がいた。朱震亨は李杲の説を進展させた。 陰不足説を唱えて、陰を潤し陽火を降すことを治療のコツとした。具体的には、 脾胃を補なって元気を上昇させるという方針であった。李杲と朱震亨を代表と する学派は李朱医学といい、室町時代から安土桃山時代を経て江戸時代までの 日本に最も大きい影響力をもった。 その病理学は、外感と内傷を区別する。外感は風、寒、暑、湿のために起こ るといい、その一方、内傷は飲食、起居等の不摂生より起こるという。外感の 説は後漢の張仲景が『傷寒論』で主張したものであり、風寒を主とし、「万病 は風寒より起こる」と信じていた。内傷の説は李杲が『内外傷弁惑論』で詳ら かにして、脾胃の傷むに由り万病の生ずるを説くのはこの時に始まった。 政 治 大 朱震亨の学問上の主要な見解は「陽は余りがあり、陰は不足している」とい 立立 うもので、陰分の保養を重要視し、臨床治療では、滋陰・降火の剤を用いるこ とを主張した。このため、「養陰(滋陰)派」と言われた。. n. 35. er. io. 李、朱の医学はすなわち金元医学35であって、1498 年田代三喜( 1465~1537 al 年) が明から帰り、李朱医学を唱えたことに始まる。しかし、三喜は関東の僻 v ni Ch U engchi 地にいたので、ついにその学を天下に広めることができなかった。彼の後、曲 直瀬道三が出て三喜の学を伝え、京都に帰り著述を公にした。しかも治療を施 すために、李朱医学を始めて日本で行った。多くの医者たちがその説に従って、 ついに道三流の一派が形成され発展していった。. 金元医学とは「中国の金元時代に隆盛した医学の流派。中国医学は後漢末までにほぼ基礎. が確立され、六朝隋唐の間には道教、仏教の影響を受けて多様化し、五代を経て、北宋の時代 には朝廷の手厚い保護を受けて、それまでの医学の集大成が行われた。金元四大家、劉元素、 張従正、李杲、朱震亨らは医学改革を完成した。劉元素は疾病の原因を五運六気の化に帰し、 治療には好んで寒涼の薬剤を用いた。張従正は、医の本義を儒学に求め、治療には汗吐下の三 方を好んで用いた。この二人は攻撃剤を用いた点で共通しているので、その学派を劉張学派と 呼んでいる。一方、李杲は諸病の原因は脾胃の不調にありとして「中を補い気を益する」こと を治療の原則とした。また、朱震亨は病気の原因に「陽が余り、陰が不足する」ことを挙げ、 養陰を以て治療原理とした。この二人は温補剤を用いた点で共通していたので、其の学派は李 朱学派と呼ばれていた」(『国史大辞典』四、吉川弘文館、2011 年)。 17.

(19) 2- 2- 3 江戸時代李朱医学の継承者. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 道三流学派は李朱医学の概念に基づくが、李朱医学だけに拘ることがなく、 諸家諸説の長所を採用していた。日本においては、主として金・元の医学を奉 じる人々を「後世派括」と称し、戦国時代の田代三喜及びその門人曲直瀬道三、 曲直瀬玄朔の親子を祖としていた。江戸時代には岡本玄治・長沢道寿・饗庭東 庵・香月牛山・岡本一抱・堀元厚らの名医が現れた。 曲直瀬道三(1507~1594 年)は『啓迪集』を著わした。この書には、劉完 素、李杲、朱震亨三氏の説を主とし、その他、金、元医家の説を引き、疾病の 発生の部位により内病と外病の二つがあると考えた。内病は内臓の鬱より発し、 外病は経絡より感じて入ると説。また、疾病の原因には、気、血、痰、鬱の四 症があり、その気、血、痰の三症は病になる源であり、気、血、痰三病は久し くして鬱を兼ね、あるいは痰が久しくして気、血、鬱三病が生じると論じた。 曲直瀬道三の医学はかくの如く李朱医学を祖述し、その医術は診断を重視し、 病因を察し、疾病の経過を詳らかにし、その急性のものと慢性のものとを区別 政 治 大 した。風土、男女、老若、貴賤等により疾病の症状も差異がある、従ってこれ 立立 を治す方法は異なる。また病状などによって摂取してよい食物と禁じられる食 物を論じた。 江戸時代の医学は中国に強く影響を受けた。曲直瀬道三は李朱学派の本質を 三喜から受けていて、そして多年の臨床経験を通し、宋、金、元の医学体系を 整理し、仏教的な要素を全く排した新形式の医書『啓迪集』を著した。こうし て、李朱医学は日本化されて「道三流」となった。道三流は、桃山時代から江 al 戸時代前期にかけての日本の医学の主流であった。 v ni Ch U engchi しかし、この道三流に対して思弁的傾向が強いという批判が現れ、唐以前の 古典、例えば『傷寒論』などの実証主義を重んじることを主張する名古屋玄医 と後藤艮山らの古方派が台頭してきた。. n. er. io. sit. y. Nat. 18.

(20) 政 治 第三節 元禄期の新しい漢方医学-古医方-. 立立. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 2- 3- 1 古医方の成立と隆盛 . 大. y. sit. io. er. Nat. 寛文(1661~1672 年)のはじめに、伊藤仁斎が出て古学を唱えた。彼が著 した『易経古義』には次のように記述されている。. n. al 周易為ト筮而發。故假象以明之。蓋以象能通眾義也。蓋事變之來。千頭萬 v ni Ch U engchi 緒。固非一辭之所能該。占事知來。亦非常辭之所能達。故其言多奇僻。故 諸易家索隱釣奇。紛紛藉藉。不堪其異説。或至於佛老之徒。假易以售己術。 悲哉。然而其言皆不過就陰陽剛柔性來順逆。而繫之辭焉。則其詞雖頗可怪。 然理本平正。無甚異矣。學者求之於言詞之表可矣。36 ようするに彼は易が占いのもので、易で全ての物事を解説するのは不可能と 主張した。しかも、易家がおかしい言葉で易を解説するのは異説であり、易は 単に仏老を信ずる者たちを用いて世人を騙すものにすぎないと考え、朱子学の 陰陽五行説の理論を否定した。この古義学の考え方が医学にも影響を与え、陰 陽五行説に立脚した李宗医学が排斥されるようになった。これに代わって、古 方医学が生まれた。古医方は対症療法を重視した『傷寒論』に復古しようとし た。 『傷寒論』には、 「随証治之」という考え方があり、証というのは病症を詳 しく診断し、そして効果がある薬方を研究して治療にあたることとされた。37 36 37. 『日本儒林叢書』五巻(風出版、1978 年)P7。 小曽戸洋『中国医学古典と日本-書誌と伝承-』(塙書房 1996 年)P270。 19.

(21) 古医方は、十八世紀の日本でしだいに勢力を伸ばした。後世派医学(李朱医 学)の観念論的方法論にあきたらない革新的な医家たちは、「実証主義」に基 づいた中国の古代医学、とくに『傷寒論』の方法論を臨床的に試みた。そして 次第に独自の経験を積み上げて、新しい体系を組織することに成功した。この 学派を後世派に対して「古医方派」と呼ぶ。 はじめて古医方を唱えた人は名古屋玄医(1628~1696 年)であった。 『丹水 子』には、彼が行った医療行為についてを書いている。 苟誤り治すること有るときは、即ち歳中肯て人を治せず。退いて書を読み て倍々工夫を加ふ。辱きは天を減すより大なる莫し。死せざるの人を殺す は是天を減すなり(中略)、治を為すの道ヲ知りて病論に精しく方意を辨 へ薬性を明らかにして、又、恒ある可し。此の五つのものを備えて以て人 を療するときは、則ち信ぜざるの人莫く、瘥えざるの理莫し。然りと雖も、 嘻乎、沈痾は治すること莫く、壊羸は起き難し。不幸にして、壊羸起き難 きの症に値はば、即ち能く病情を審かにし、方薬を擇んで之を投じて功無 政 治 大 くんば、退いて萬變思慮し、實に此の治に窮まることを知つて固く守る時 38 立立 は、即ち命縷の一線存する者は久しくして得ること有らん。. •‧ 國. ㈻㊫學. . sit. io. n. er. Nat. y. •‧. すなわち、名古屋玄医は医療行為を行う時、病症が判断できないとその病人 を治療せずに、本を読み自分の能力を上げようとする。すなわち、治療を誤っ て死ななくでもいい人を死なせてしまうのは犯罪である。また、病状をよく診 査した上で、薬の用法も正確に理解した後治療すべきと主張した。治療ができ al てこそ、医術であって、対症療法が必須であると考えた。別の新しい体系に整 v ni Ch U engchi 理構築するためには、それにふさわしい思惟方法が必要とされたのである。古 医方への復帰を説いた。また、吉益東洞は陰陽五行の説を非難した。『薬徴』 の自序に以下のように記されている。 蓋し今の医たるものの薬を論ずるや、陰陽五行を以ってす。疾医の薬を論 ずるや、唯その功に在るのみ。故に異ならざるは即ち異ならず、異なるは 即ち異なりとするなり。39 東洞は医学における陰陽五行説を無用の空論であると指摘した。薬の効果が あるかどうかこそが重要なのであると主張した。 また、香川修徳は儒学を伊藤仁斎に学び、後藤艮山に医学を学んでいた。遂 に儒医一本論を唱えて、 「聖道と医術は、基本を一にし、二無し」40と説き、よ. 38 39 40. 『日本科学古典全書』八巻(朝日新聞社、1948 年)P67。 『近世科学思想史下 日本思想大糸』(岩波書店、1971 年)P225 。 安西安周『日本儒医研究』(青史社、1981 年)P49。 20.

(22) うするに儒学と医術は一つのものと考えた。すなわち、朱子学を学んだ人は李 朱医学であり、古学を学んだ人は古医方であるこのように、漢方医学は二つに 大きく分かれた。さらに、儒学における折衷学が登場すると、医学においても 李朱医学と古医方の折衷を主張する儒医も現れた。 2- 3- 2 古医方の治療方法 古医方は「対症療法」を主とした治療の技術であった。すなわち、病症に対 してどのような薬方が効くかを経験的に知って治療行為を行った。古医方の特 徴は『傷寒論』のようにいくつかの生薬を組み合わせて複合処方を用いていろ いろな病症に対応する薬物治療という「親試実験主義」である。ようするに病 症と薬方との対応関係を経験的に明らかにし治療にあたるのである。 17 世紀、病気が原因によって引き起こされるものだという認識があり、地 域特有の病、地域特有の薬種もあった。18 世紀に入ると、呪術にかわって薬 を用いて病を治させることができると考えるようになり、薬草に対する関心が 政 治 大 高まってきた。日本人は実験をもとに植物を薬種として利用した。例えば、後 立立 藤艮三が著した『師説筆記』に以下のように記載がある。. •‧ 國. ㈻㊫學. •‧. 一病夫アリ、狂ノ下地ニテ妄ニ恐懼シ、人ヲ見コトヲ悪ミ、陋室ニ引籠ナ ドシテ半年モ如茲。其後、其気味漸クヤミテ手足拘攣シ、舌本コハリテ言 語難渋ス。此時京ニ来テ師ニ診ヲ請フ。其心下板ノ如ク、積気ノ勢甚シ、 乃脊際ニ灸セシメ熊胆ヲ用ユ。此ニヨリテ其証ヨホド緩クナリタリ。41. er. io. sit. y. Nat. al. n. v ni U engchi ある病人が室に引籠もりした半年後、手足が拘攣し、話すのも困難になって Ch. しまった。後藤艮三は灸を病人にさし、熊胆を病人を与えた。結局その病人の 病症が改善した。要するに後藤艮三は灸と熊胆を医療用として使用したのであ る。また、番椒や山野の植物を使用することもあった。 熊の胆については、『本朝食鑑』獣畜部42に書かれている。 〔主治〕心を清にし、肝の働きを正常にし、熱をとり、痛みを止め、目を明 らかにし、瘡を収め、虫を殺し、虫牙、痔瘡および小児の驚癇を癒す。そ の他については『本草綱目』に詳しい。 〔発明〕今我が国では、諸痛、疝積、小児の驚癇を治療するに返魂丹を用い 41. 『近世科学思想史下 日本思想大糸』(岩波書店、1971 年)P386。 人見必大著、島田勇雄訳注『本朝食鑑』五(平凡社東洋文庫、1981 年)P283。人見必大は 江戸前期の本草学者であり、彼の父は 幕府の侍医であった。彼が著した『本朝食鑑』は 12 巻があり、 『本草綱目』に参考し検討を加えた。 『本朝食鑑』の編集目的は庶民の日常生活で用 いる食物を医学的な視点からを解説することである。本書の内容については、12 巻中の 8 巻 は動物性食品であり、魚貝類について詳しく述べている。さらに、食膳に重点を置いている。 21. 42.

(23) る。その処方には熊胆を主に用いる。又癖塊、諸痛、急症を治療するのに熊 の胆、麝香、沈香、人参、金箔を用いて、これを奇応丸(未詳)と名づけて いる。最も験がある。 〔附方〕天行赤眼。及び風眼、翳障には、大豆粒ほどの熊の胆を水の半分入 った盞に入れ、指で頻々と泮し、別に竜脳、雄黄、辰砂少々、生姜の自然汁 一滴を和せ匀えて、石菖根で点眼すれば、絶奇験を見る。初生目閉『本草綱 目』に詳述している。十年の痔瘡。上に同じ。 熊胆の効用は精神を爽快にさせ肝臓に働きを正常にするといい、また、痔瘡 や小児の驚癇などの病を癒すという。返魂丹と奇応丸の原料にも熊胆を用いる。 すなわち、後藤艮三は鬱病患者に精神を爽快にさせる効果のある熊の胆を対症 療法の薬として用いたと言えよう。 また『師説筆記』にも民間療法について記している。. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 全身冷頭汗出脈微ナルガ如きハ、是積気経ヲ経ヲ閉塞シテ陽気ノメグリヲ 政 治 大 達セザル故ナリ。(中略)温泉ハ大概灸治ト同意ナリ。其ウチニウチツケ 立立 湯治ノ証ト云ハ多ハナシ。故ニ凡ソ部分ノ太陽凝リ、皮膚関節疼痛痿痺等 ノ証、ウチツケテ湯治ノ証ナリ。其ホカ彼沈塞痼冷ノ症ノ者、数万壮ノ灸 ヲ施スコトナリガタキモノ、センカタなく湯治ナリ、故ニ数万壮ノ灸ニカ ヘルコトナレバ、久シク入ザレバ効ナシ。久ク入テ腹肉和ラギ、積気モク ツロギテ食ス。ミ出レバ治ルナリ。然ドモ灸ニハ劣リ、カやフノ湯治ハ泣 テ呉ニシテアワスノ手段ナリ。43. er. io. sit. y. Nat. al. n. v ni U engchi 彼は「一気留滞説」を主張した。体が冷えるのと脈が弱くなる原因は気が閉 Ch. 塞し、陽気に達しない故である。灸は留気を発散させるのに最適な方法と考え、 それですべての病気に灸を用いた。さらに、艮三は温泉が灸治とだいたい同じ 効果があると主張した。例えば、皮膚関節の疼痛の病症は灸治をせずに、湯治 を与えてみると、留まっている気がなくなると考えた。 また、艮三の弟子香川修徳も薬草を用い、治療行為を行った。彼はそれまで の本草家の説を顧慮せず、実際の効き目だけを自らの経験により調べて病症に 適応する薬方の研究にもっぱら従事した。 名古屋玄医は病気を治療する時に、温熱の剤を使用することは衛気を助ける と唱えた。 衛気微く衰ふるときは即ち百病生ず。故に薬は必ず衛気を助くるを以て主 と為す。(中略)但審に衛気は百病の母たることを察するの一句なり。此. 43. 『近世科学思想史下 日本思想大糸』(岩波書店、1971 年)P402 。 22.

(24) 即ち病を療するの要、養生の本にして、医門の一貫なり。44 玄医は病気が起こる原因は衛気が弱くなるからだと主張した。衛気が衰える ので、薬は必ず衛気を助けるものを用いるべしと主張した。 古医方の大成者吉益東洞は病気の診断には脈診を軽く見、腹診に重きを置い た。実証主義の立場が、体内の毒は眼で見、手で触れなければならないとして、 「其善悪を正さんと思わば、事実をもって見るべし」(『医事問答』)と述べて 「事実」から経験的に学ぶことを主張した。その時、よく使う方法は腹診であ った。そして治療のほうは「万病一毒、衆薬皆毒物。毒を以て毒を攻む。毒去 って体佳なり」と主張した。すなわち万病はただ一毒なので、これを治療しよ うとすれば毒を去ることが必要である。薬もまた毒であり、毒を以って毒を攻 める。毒を去れば病気が治る。彼が著した『薬徴』には「攻撃性の薬を用いて 毒の排出」をはかったことが知られる。. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 余嘗て青山侯の臣、蜂大夫の病を治す。(中略)但その胸を診するに、微 政 治 大 しく煩悶の状あるを覚ゆ。乃ち石膏黄連甘草湯を作りれ之を与ふ。一剤の 立立 重さ三十五銭、水一盞六分を以つて煮て六分を取り頓服し、暮より暁に至 って、三剤を尽さしむ。通計一百有五銭、暁に及んで、その証猶ほ夢のご とくにして頓に覚む。45. al. er. io. sit. y. Nat. 東洞は病人の胸を診察し、石膏黄連甘草湯という激薬を与えた。『薬徴』の 中では、李朱医学の薬の使い方の誤りも指摘した。. n. v ni U engchi 東垣李氏曰く、張仲景云ふ、病人、汗して後、身熱、亡血、脈沈遅の者、 Ch. 下利、身涼、脈微血虚の者、並びに人参を加ふるなり。古人、血脱の者を 治するに、気を益す。血は自ら生ぜず。須らく陽気を生ずべし。蓋し陽気 生ずれば、即ち陰長じて血乃ち旺なると。今傷寒論中を歴考するに、利止 み、亡血するや、四逆加人参湯之れを主ると曰ふ。李氏は、それ此の言に 拠るか。然れども人参を加ふるもの、僅々一両なり。四逆加人参湯に更に 茯苓を加へ、此れを茯苓四逆湯となす。しかして血証を挙げず。則ち人参 の亡血のためにあらざるや、以つて見るべきのみ。且つや、仲景、吐血、 衂血、産後の亡血を治する方中、人参あることなし。則ち益証するに足る なり。李氏の説、妄なるかな。自後、苟くも血脱の者あらば、則ちその証 を審にせずして、概して人参を用ふ。亦益妄なるかな。46. 44. 『日本科学古典全書-「丹水子」』(朝日新聞社、1948 年)P67。 前掲、P228。 46 前掲、P241。 23 45.

(25) 東洞は李東垣の次のような学説を批判している。李東垣は身熱、亡血、脈沈 遅の者や下利、身涼、脈微血虚の者には人参を与えるという張仲景の説を踏ま え、陰陽の気を盛んにすれば貧血を治療できる、そのために、まず陽気を盛ん にする人参を与えればよいと主張していた。これに対して東洞は『傷寒論』を 論拠として、四逆加人参湯に用いられている人参の量は僅かであり、茯苓を加 た茯苓四逆湯というものが主に用いられているのであるから、人参の亡血治療 の効果は疑問があると述べ、また、張仲景も吐血・衂血・産後の亡血などに人 参を用いていない。これから、陰陽五行説に基づいて説明する李東垣の説には 論拠がないと、「李氏の説、妄なるかな。」と痛烈に批判している。 学者. 学説. 療法. 名古屋玄医. 寒気論. 薬草. 後藤艮三. 一気留滞説. 灸、温泉、薬草. 香川修徳. 儒医一本論. 吉益東洞. 万病一毒論. 山脇東洋. 立立. 脈診、薬草. 政 治 大 解剖学. ㈻㊫學. •‧. •‧ 國. 以上からわかるように、この時代の医者が病を診療する時、脈診や腹診をし、 治療方法はほとんど薬草、温泉、灸などの医療行為が採用された。また、古医 派の医者にとって「病症と薬方との対応関係」を経験的に明らかにすることは 一番の関心な事であった。. n. al. er. io. sit. y. Nat. 2- 3- 3 古医方の薬方. Ch. n engchi U. iv. 李朱医学の温補の説と違って、古医方は温補の説を非難し、大黄、石膏、巴 豆、柴胡などの寒薬を用いた。吉益東洞の『薬徴』には、石膏の薬方で白虎湯 の効用について書かれている。 石膏 煩渇を主治するなり。煩躁、身熱を治す。(中略)名医別録に、石 膏の性を大寒と言ふ。自後医者之れを怖れ、遂に置いて用ひてざるに至る。 仲景氏白虎湯の症を挙げて曰く、大熱なしと、越婢湯の症にも亦言ふ。し かして二方は石膏を主用す。然れば則ち仲景氏の用薬は、その性の寒熱を 以つてせざるや、以つて見るべきのみ。余や篤く信じて古孮を好む。是に おいてか、渇家にして熱孮なき者のために、投ずるに石膏の剤を以つてす るに、病已えて未だその害を見ざるなり。47 石膏を用いて、熱や煩渇などの病症を治療する。しかし、石膏の性質は寒で 47. 前掲、P227 。 24.

(26) あり、李朱医学を奉じている後世家たちはこれを使うことを怖がる。ようする に、李朱医学の医家たちはあまり石膏を使わなかった。石膏を主にする薬方は 白虎湯であり、熱が出ないと越婢湯を使用する。吉益東洞は先述したように、 効果の強い薬剤を使うことが好み、石膏もよく使っていた。 また、『薬徴』中で柴胡というものについては以下のように記されている。 品考 柴胡、胸脇苦満を主治するなり。旁ら寒熱往来、腹中痛、脇下痞鞭 を治す。 考徴 小柴胡湯証に曰く、胸脇苦満、往来寒熱。又云ふ、腹中痛。又云ふ、 脇下痞鞭。柴胡加芒消湯証に曰く、胸脇満。柴胡去半夏瓜蔞湯は証具らざ るなり。柴胡姜桂湯証に曰く、胸脇満、微結。又云ふ、往来寒熱。大柴胡 湯証に曰く、心下急・鬱鬱微煩。又曰く、往来寒熱。又曰く、心下満痛。 以上五方、柴胡皆八両。. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 柴胡を主にして作った薬方には小柴胡湯証、柴胡加芒消湯証、柴胡姜桂湯証、 政 治 大 大柴胡湯証などがある。柴胡は胸悶、腹痛などの病症が癒せるという。 立立 また、後藤艮山の『師説筆記』には、大黄と巴豆というものについてが記さ れている。 薬品ニテモ石膏、芒硝ノ如キハ火ニ沸サレテモ、ソノ寒冷終ニ変ゼズ。大 黄ノ類ハ寒トイへドモ、煎ズレバ温トナル。味ニモ亦変ズルト不変トアリ。 梅ノ酸ノ如キ、イかホド消礫シテも其酸終ニ不変。凡ソ此類ニテ知ベシ。 al 巴豆ハ大熱ナリ。シカルニヨク腹中ヲ瀉下ス。是亦其材ナリ。故ニ用薬ハ v ni Ch U engchi ソノ薬ノ材ノ自然ニ具リタルモノヲ能考テ用ユベキナリ。. n. er. io. sit. y. Nat. 薬品は火で加熱したら、その寒冷性が変わる。例えば、大黄という寒性薬品 は煎ずると温性になる。だが、その薬品の味は変わらない。また、巴豆という 薬品は熱性であるけれども、よく下痢の患者に与える。すなわち、薬を使用す る時、その薬剤に含まれる原来の自然性を考えるようと唱えた。 養生と治療両方を重視した名古屋玄医は『丹水子』に以下のように書いてい る。 一人病無からんとを欲して、常に六味丸、補中益気湯を服して、一日も缺 くこと無し。又歩行を勤めて、以て脾気を運らし、山林に遊んで以て神気 を盛んにす。終に足に湿を受けて、脛に腫毒を生ず。地黄の毒、脾気の気 を壅ぎ、続いて水腫と成る。是に於て、白朮、人参等の湿を燥す補剤を用 ひて、之を治せんと欲すれば、前に己に補剤に飽きて、今之を厭ふ。是を. 25.

(27) 以て、予謂らく、養生は自然を貴ぶ。48 ある健康な人は、常に六味丸と補中益気湯を服用し、しかもよく歩いた。そ して脾気をめぐらし、森林に入り精神を盛んにしたが、結局、足は湿気を受け、 膝のところには腫れが出、毒も生じ、遂に、水腫になってしまった。この病症 に対して、白朮、人参等湿を乾燥させる薬を使用した。名古屋玄医は補剤の使 用に飽き、養生に最も大切なのは自然の治癒力であると主張した。 以上の幾つの例から見ると、古医方は効果が激しい薬剤を用い、病人の病症 により薬剤を与えた。古医方は使用する薬の中には、李朱医学を奉じる医家た ちが使用しない薬もあった。 第四節 西洋医学の伝来 2- 4- 1 西洋医学受容の思想的背景-儒学折衷学派の出現. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 政 治 大 十八世紀になると、江戸の儒家井上金峨が出て、徂徠の古学を排斥した。こ 立立 れは医学のほうにも影響を与えた。いわゆる折衷学であり、古医方と李朱医学 の折衷である。井上金峨の主張が『匡正録』に書かれている。 文公家礼齊家宝要等ノ書ハ、皆己レノ意ヲ以テ古礼ヲ斟酌シ、又之ヲ時宜 ニ稽テ其ノ説ヲ立ツ。古ニ合ハズト曰フト雖ドモ亦止ムヲ得ザルノ情ニ出 ヅル也。49 er. io. sit. y. Nat. al. n. v ni U e n g c(清・張仲嘉著)等の書は、みんな 『文公家礼』 (宋・朱熹著)、 『齊家宝要』 hi Ch. 自分の意思により、古礼や時宜を考慮し、説を立てた。もし古礼に合致しなく ても、人情にかなうものであればこれを採用した。つまり時宜に応じた治療を 行うという意味で、井上金峨は復古にとらわれない創造の立場を主張した。 また、井上金峨は訓詰を漢・唐にとり、「義礼は宋明ノ諸家ヲ磅礴」という 義理を宋・明に選び、衆説を折衷すると唱えた。 井上金峨が著した『病間長語』巻三には、古医方についてことが書かれてい る。 今はいかなる末伎の徒も、復古二字を口にせさるなし、その内に医家の復 古はかりは、古に期する所なく、みな創造の言なれば、古に復すと云にて はあるまし(中略)今の復古家は師資あるにも非すして、創業したるもの なれとも、一は漢儒元気の説に拠り、一は周礼の説に拠り、根柢する所あ 48 49. 『日本科学古典全書』八巻、(朝日新聞社、1948 年)P18。 衣笠安喜『近世儒学思想史の研究』(法政大学、1976 年)P155。 26.

(28) れば、その自ら復古と称するも宜なり。50 今はどんなつまらない学問をしているものでさえ、復古の二字を口にしない ものはいない。その内で医家の復古だけは古の言葉を追い求めているのではな く、全て創造したものであるから、「古に復す」というものでは決してない。 だが一方で、今の復古家(=古医方の医家)の説は先生から受け継いだもので なく、創業したものであるけれども、一つには漢儒の「元気」の説を根拠とし、 また一つには『周礼』の説を根拠としているのであるから、しっかりした根拠 はあるので、それを復古と自称しているのも納得できる。すなわち、井上金峨 はただ古を信じるだけであることに反対したが、現実(=時宜人情)に合致し たものであるならば、かまわらないと主張した。 このように儒学における、折衷の姿勢は、医学のほうへも影響した。すなわ ち、これが後の蘭方医受容の思想的基盤になったといえよう。後述するように、 杉田玄白は腑分けの実見により、漢方医学の説より蘭方医の説の方が現実に近 いと考え、『解体新書』の翻訳を決意したのである。. 立立. 2- 4- 2 西洋医学の伝来. 政 治 大. •‧ 國. ㈻㊫學. •‧. 日本では、西洋の影響から実証主義が重視されるようになったと言われる。 新井白石(1657~1725 年)の『西洋紀聞』51『采覧異言』52などは、世界の事 情を日本人に知らせたものとして、重要な意味を持っている。 西洋医学が始めて日本に伝わってきたのは室町時代の末、織田、豊臣二氏時 al 代には南蛮外科である。徳川氏初めの頃にはオランダ流の外科である。当時の v ni Ch U e n g c h i 『大槻磐水集-蘭説辨惑-』に 日本人はオランダ医術を習う状況については、 記されている。 . n. er. io. sit. y. Nat. 50 51. 衣笠安喜『近世儒学思想史の研究』(法政大学、1976 年)P155。 「『西洋紀聞』は享保九年(1724)頃成、三巻。上巻には、白石がシドッチ取調べの経過だ. けでなく、獄中で牢番を感化し入信させたこと、牢番やシドッチの死まで述べた。下巻では、 ローマ法王やカトリックだけでなく、オランダのルーテル派、英国国教と法王破門に触れ、日 本とスペインやポルトガルの関係、ザビエルの不朽死体、殉教者マルセロなどに及ぶ」。(『洋 学史辞典』雄松堂、1984 年)P388 。 52. 「『采覧異言』は新井白石の著した日本最初の系統立った世界地理書。書名は古代中国で毎. 年勅使を派遣して異言を集めた故事に由来し、万国の異聞を採った見通すの意。白石はシドッ チ G. B.Si dot t i 尋問から得た世界地理の知識を、江戸参府のオランダ商館長らに質問補正し、 マテオ・リッチ『坤輿万国全図』を軸とした著述で、リッチ図の説明文の順に、天動書を説く 総論の後、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、南北アメリカの順に解説した」。 『洋学史辞典』雄 松堂、1984 年)P289。 27.

(29) (前略)外科乗り来りて種種奇術を施せしを、時の通詞これを見習ひ外科を 始めたるが根本にて、いつしか一家をなし其人に従ひ聞傳ひ次第ゝに盛ん なる事になり、長崎こそ外科の本元のやうに成りたると見えけれ、其頃彼 国の書を直に讀む事の出来ぬ時なれば只其術の妙なる事のみ見覚えて、 (後略)53 西洋の医方は患者を治療する時、通詞がそばで見て翻訳し、その技術を次々 と伝えていった。しかし当時は通詞が通訳したといえども、オランダ語の書を 読み、ただ医人者の行為を傍観し、その話を聴いて、医術を覚えるだけであっ た。その故に、治方は傅膏、塗薬、以って僅かに金創、療傷等を治療し、手術 としてはただ小截開を施すにすぎなかった。 オランダ医学の伝来時期については、石田純郎氏の『オランダにおける蘭学 医医書の形成』54によって、日本の西洋医学の導入時期が 3 期に分けられてい る。第一期は『解体新書』の刊行された安永 2 年(1774)に始まる。第二期は 有力な蘭学私塾の創設が相次いた安永 9 年(1780)である。そして第三期は安 政 治 政 4 年(1858 年)に来日したオランダ軍医ポンペである。. 立立. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 2- 4- 3 蘭学の勃興. 大. y. sit. io. n. er. Nat. 蘭学が始まるのは、江戸で『解体新書』が作られた時である。明和八年(1771) 三月四日、江戸北郊の小塚原場で、青茶婆とあだ名された女の刑死体の解剖が 行われた。玄白たちは小塚原に腑分けで、実際に自分の目で見る人体内部の様 al 子が、オランダ書の図と一致することに深い感動を受けた。漢方の医書に説か v ni Ch U e n g c h i 実際の医学に役立たないことを れている五臓六腑十二経絡は誤まりが多くて、 痛感した。 苟くも医の業を以て互ひに主君主君に仕ふる身にして、その術の基本とす べき吾人の形態の真態をも知らず、今まで一日一日とこの業を勤め来りし は面目もなき次第なり。55 その日の帰り途で玄白と良沢と中川順庵の三人が話し合って、そのターヘ ル・アナトミアの翻訳をする決心をなした。玄白が著して、 『解体新書』と名 づけられた。この解体新書』の出現によって、西洋の学術はかなりの勢いで日 本人の間に広まり始めた。医学と天文学を先頭に様々な分野の学問が伝わって きた。 . 53. 『大槻磐水集-蘭説辨惑-』P403 年。 石田純郎『オランダにおける蘭学医医書の形成』(思文閣、2007 年)。 55 杉田玄白 芳賀徹 緒方富雄『蘭学事始』(中央公論社、2004 年)。 28 54.

(30) 2- 4- 4 蘭医の治療方法 一般的には、オランダ医の治療方法はほとんど外科に属すると言える。ただ しその方法は、膏薬を用いたり、針で膿をだしたり、焼いた鉄で血止をしたり という程度のものであった。56では、外科の治療方法だけで十分ではない場合。 どうすればよいのか。蘭医の杉田玄白と建部清庵二人の往復書簡で編集された 『医事問答』によれば、以下のように述べた。 風寒暑湿並婦人小児之病、皆膏薬・油薬計にても無之、内薬を専ら相用申 候。 (中略)、三等開塞法と申事に御座候。其内下剤を用候所へ、「スポイ ト」と申水銃器にて、肛門より薬水を入候法御座候。其術を「キリステル」 と申候。是唐にていたし候蜜導法に似候得共、其法甚簡便にて、其功揺に 勝り申候。57. sit. io. n. er. Nat. y. •‧. •‧ 國. ㈻㊫學. 婦人や子供の病気には、膏薬で治すだけでなく、その専用の薬がある。また、 政 治 大 肛門より薬水を入れる治療方法もある。オランダ医学は中国の灸のような、刺 立立 絡という治療方法があり、それは『蘭学事始』には、以下のように記されてい る。 日々彼客屋(長崎屋)へ通ひたり。一日右の「バブル」、川原元伯といへ る医生の舌疽を診ひて療治し、且刺絡の術を施せしを見たり。扨々手に入 りたるものなき。血の飛び出す程を預め考へ、これを受るの器を余程に引 al はなし置たるに、飛逩の血てうど其内に入りたりき。是れ江戸にて刺絡せ v ni Ch U engchi しの始なり。其頃、翁年若く元気は強し、滞留中は怠慢なく客館へ往来せ しに(後略) 。 患者の舌にある腫れ物を刺絡の術で治療した。刺絡については『図録蘭学事 始』58から、それが治療法の一つであり、静脈を針で刺し悪い血を取る治療法 であることが知られる。古代の日本の漢方医術でも唐代の医方に習い、刺針の 術で血を取る諸病を治療したようである。しかし、いつしか行われなくなり、 江戸時代の中頃になって、オランダ流の外科から新たにこの<刺絡>の術が伝わ り、やがて用いられるようになった。 また、オランダから渡ってきた薬は種々ある。大槻磐水集の『蘭説惑巻』に はそのいくつかの薬が挙げられている。 . 56 57 58. 岡本橋『解剖事始-山脇東洋の人と思想-』(同成社、1988 年)P187。 沼田次郎、松村明、佐藤昌介校注『洋学』上巻(日本思想大糸、1976 年)P199。 杉本つとむ編『図録蘭学事始』(早稲田大学出版、1985 年)P61。 29.

參考文獻

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