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幕末の医学の普及状況

第二章 日本の医療の概観

第五節 幕末の医学の普及状況

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問曰「ビリリ」といふ蛮薬あり味甚苦散薬を固めたる如き者にて従来医家 諸症に與へ功ある者と云ふ是れも如何なる者にや。

答て曰く、(中略)我方諸子の書載せ置ける如く症に応じて甚奇効あるも のなり恨むらくは其物を辨し按ずるに彼邦に雅言にて膽汁を「びりす」

といへば「びりり」は「びりす」の轉聲にて膽汁の事なるか何物かの膽 汁にて本薬を煉り固め其名を「びりす」何々と呼びたる者にや詳かなら ず。59

「ビリリ」という苦い蛮薬があり、従来の医家は諸病を治療する時、よく使 用し、かなり効果があった。「ビリリ」という薬は膽汁で本薬を煉り固めたも のである。また、他の外来薬もあった。

問て曰く近来世間に「ずぼうとふ・ずどうぼふなど稱する者あり是れは如 何なるものにや」。

答て曰これは本名「どろつぷ・すらとほうと」と云ふ又「どろつぷ」との みも云なり「すふとほうと」は甘草の事なり此物甘草を煎じつめて膏とな したる者なり「すうとほうと」を「ずぼふとう」と誤れるなり痰飲諸症す べて胸膈をゆるめる効しあり。60

「すふとほる」という薬は甘草であり、これは甘草を煎じてつめて膏の状態 になるものである。この薬は痰飲や胸膈をゆるめるに効果がある。

以上は蘭方医は日本で治療を施した状態である。しかし、江戸幕府は天保十 一年(1840)、蘭字の使用を禁止し、同十三年(1845)翻訳書の検閲令などの 禁令を出した。蘭学医学と洋学への取り締まりが厳しくなっていた。

第五節 幕末の医学の普及状況 2- 5- 1 ペリー来航後の西洋医学

幕末の医学は即ち西洋医学の日本に導入の第三期である。幕末期は医学にと っても東洋医学中心から西洋医学一本へと切り替わる極めて重要な時期であ った。幕府は西洋医学を公認し、その成果を取り入れようとした。その他にも 洋学伝習、洋式海軍の伝習、語学伝習、医学伝習、人材の海外派遣など活発活 動を行った。日本は急速な、西欧文明の受容、開化の過程でもあり、西洋医学 に極めて関心を持っていた。

59 『大日本思想全集』12 巻(大槻磐水集「蘭説惑巻」大日本思想全集刊行会、1931~1934 年)

P379 。

60 前掲、P381。

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2- 5- 2 様々な病気の治療方

日本人の治療方法には、灸治、漢方薬を飲む、艾などがある。また、のちに 西洋医学(蘭方学)が入ってき、外科手術や手術用の解剖刀なども輸入された。

幕末の時、幕府は積極的に西洋文明を採用し、西洋の兵器、医療、教育などを 取り入れた。このような状況については、幕末の蘭方医坪井信良と彼の兄との 書翰『幕末維新風雲通信-蘭医坪井信良家兄宛書翰集-』に書かれている。

文久三年(1863)

五月(日不明)書翰

(前略)英将曰、近来横浜ニテ旧キ銕砲ヲ買フ者多シ。是ハ戦争之備ニスル 意ナルヨシ、何共気之毒千万之事ナリ。(中略)却説、先頃召連レ候僕利 助、去月十八日江戸上途、又々北地通行ニ付、一書指上、且同人一泊願上 申候。定て月末ニ参上仕候事と存申候。爾後小子医学所出勤、講釈等仕居 申候。閑時翻訳、頃、亜的児ヲ麻酔ニ用ヒル試験説一小冊ヲ訳ス。上木之 筈ナリ。是ハ旧法ニテ、近来ハコロ、ホルメ水ヲ用ユ。外科施術等ニ用ユ ル嗅剤ナリ。至テ面白キ品ナリ。61

横浜にて西洋の鉄砲や兵器などを買う人が多いのは戦争の準備のためであ ると述べた。また、坪井信良は医学所に出勤し、授業の講釈したという。近頃、

日本ではハコロ、ホルメ水を使用するとあるが、これは外科施術等に用する嗅 剤であり、坪井信良

はこれらの物がかなり面白いと思っていた。以上の引用からわかるように、幕 末の時期に、日本は西洋の医療品を頻繁に輸入し、日本人の医者たちも外国の 医療本を訳した。

坪井信良の妻は元治元年(1864 年)に出産した。その時の医療方法につい ては彼の書翰『幕末維新風雲通信-蘭医坪井信良家兄宛書翰集』に書かれてい る。

元治元年(1864)

九月下旬書翰

扨、荊妻事、八月廿四日安産、男子出生、至極達者ニテ両三日ハ悪露も沢 山有之、格別血之気も無之、逐日肥立申候内、第四日頃より不図感冒ト利 状ニテ頻々上圊、尤も産前より少々水腫も有之候故、却て一分利ニも可相 成模様之処、下利漸々頻数ニ相成、昼夜十四五度以上之事三日許、之カ為

61 東京大学明治維新史料研究会宮地正人編『幕末維新風雲通信-蘭医坪井信良家兄宛書翰集

-』(東京大学出版社、1978 年)P176。

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ニ大ニ衰弱虚脱、腹部水気之減退スルト子宮之収縮スルトニ依テ、始テ腹 侯ヲ精察仕候ニ、右之腰側、臍より稍下部ニ凝結有之、之ヲ案スルニ、疼 痛甚敷、且大便中赤色桃色等之一種之敗膿状之者ヲ下シ、旁以腸内掀衝内 瘍状ニ相成申候者歟水□蒸剤水銀膏塗入(後略)。62

彼の妻は1864 年、男子一人を出産した。出産した二、三日後はたくさん悪 露が出て、血の気もなくなっていた。また、水腫の状態は産前より厳しく、そ して下痢もあった。すいぶん衰弱状態になってしまった。その後、腹部の水気 が減退すると詳しく検査をうけさせた。右の腰側は、臍よりちょっと下部に凝 結あり、そこを押すと疼痛と感じた。その上で、糞は赤色であり、膿状が見え る。医者は水銀膏を腸内に塗り入れた。すなわち、当時日本の医者は膏薬を用 い、病症のところに塗るという医術があった。

天然痘対策-種痘-

天然痘はすなわち「痘瘡」である。日本では、ずいぶん昔から天然痘が流行 っていた。医療技術はまだ進歩していなかった江戸時代の時、人々は迷信に基 づき、さまざまな民間療法を行った。例えば、疱瘡神の存在を信じ、疱瘡神を 奉り、神社やお寺に行き、札や護符などをもらって、ドアに貼り付ける。しか し、幕末に西洋医学が到来にすると、こういう迷信がなくなってきた。幕末に おける天然痘が流行っていた状態について、英国の医師が書いた『幕末維新を 駈け抜けた英国人医師-甦るウィリアム・ウィリス文書-』には、以下のよう に記されている。

文久二年(1862)五月十三日条・長崎(英国軍艦レナード号)

私が長崎に着いて以来天然痘が流行っていて(中略)、今日日本人の間に 非常な勢いではしかが蔓延しています。症状は、二、三月体調が崩れる程 度ですが、とにかく発病が突然で、あっという間に広まるので、日本人の 調理人が不足してディナーにありつくことができません。(中略)日本で の症状は軽度のものがほとんどで、この国の生命力は概してよく維持され ています。温帯地ではないし、空気には病原菌や毒素が含まれているわけ ではなく、中国からみれば日本は一種の保養地のようです。63

ここでは、文久二年(1862)の長崎に天然痘が流行り、日本人の間で蔓延し ていたという。天然痘の症状は、突然発病し、体調が崩れて二、三月ほどに続

62 前掲、P233。

63 大山瑞代訳『幕末維新を駈け抜けた英国人医師-甦るウィリアム・ウィリス文書-』(創泉 堂出版、2003 年)P41。

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くが、日本人がそれに罹っても、あまり悪化しないという。なぜなら、日本が 温帯地ではなく、空気に病原菌や毒素が含まれてないからであるとする。

また、前述の『幕末維新風雲通信-蘭医坪井信良家兄宛書翰集-』には、西 洋人よりもたらされた種痘瘡につていて記されている。

四 十二月十六日付書翰

(前略)段々試申候処、痂よりハ膿之方更ニ好敷御座候。尤唯今迄も人痘ヲ 種申候事社中一同数年来相行、天行痘よりハ大ニ軽易ナル事ニ候処、牛痘 ハ又格別之事ニ御座候。其種法ハ彼邦ニても人々説ヲ異仕候得共、当時社 中ニて行候法ハ、大底種痘後八日目九日目位之処、即灌膿之膿未タ稠厚ニ 不成稀薄之時也、俗ニ云水膿ト申時也。扨種痘針ニて其尖ニ彼漿ヲ少許着、

直ニ児之臂ニ刺シ、血之ニジンテ流レサル程ニス。64

種痘後、八日や九日後種痘のところに膿ができ、それは水膿という。種痘は 小児の臂に種痘針で刺し、刺した後血が出てくる程であるとする。

文政六年(1823)には蘭館医シーボルトが、日本の医師に種痘接種手技を教 えた。こうして情報だけは日本に届いたものの、有効なワクチンの日本への到 達は著しく遅れた。嘉永一年(1848)にモーニッケが肥前藩主鍋島閑叟の依頼 により、日本最初の牛痘を成功させた。翌年(1849)に長崎でも成功させた。

これをきっかけとして全国に種痘が急速に普及した。広島の三宅春齢、京都の 日野鼎哉、福井の笠原良策や大坂の緒方洪庵も痘苗を世間に広く普及した。

さらに、江戸の伊東玄朴の元に苗が届き、大槻俊斎と共に種痘所を設立した。

ここは、種痘を行うと同時に西洋医学に志す者達が集まって、学ぶ場所として

ここは、種痘を行うと同時に西洋医学に志す者達が集まって、学ぶ場所として