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4-1、ホンネ・仲間ウチの言葉

日本語の言語構造は座談には向いているが、議論・討論には向い ていないといわれている。

例えば、次の言葉を比較してみよう。

日本語:「好きだよ」

英語;「I Love You」

中国語:「我愛你」

以上から一目瞭然であるが、英語、中国語は主語・目的語を外す ことは原則としてないが、日本語の場合は主語その他を省略する場 合が多い。「僕は君を愛しているよ」は、日本語らしくない。仮に、

彼からこのように言われたら、言われた彼女は、距離感を感じるで あろう。少なくとも「何でそんな他人行儀な言い方をするの?私の ことを本当に愛しているの?」と詰問されるかもしれない。

即ち、日本語では、主語などをはっきり出さない言い方が多い。

否むしろそれが日本語として自然なのである。これは、歴史的にみ てもそうである。

ところで、日本の古典文学での随筆、俳諧の代表的作品といえば、

清少納言の『枕草子』、吉田兼好の『徒然草』、松尾芭蕉の『奥の細 道』等であろう。それぞれ有名な一節・一句は以下であるが、いず

れも主語がないが、違和感は全くなく、逆に自然である。

「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明かりて、

紫だちたる雲の、細くたなびきたる。

夏は、夜。月の頃はさらなり。闇もなほ。蛍の飛び違いたる、また、

ただ一つ二つなど、ほのかにうち光たりて行くも、をかし。雨など 降るもおかし。」

「つれづれなるままに日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよし なし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほし けれ。」

「寂かさや岩に染み入る蝉の声」

このように日本語は優れた文学・詩歌を生み出すのには向いてい るが、主語や目的語が表示されない傾向があるため、論理的でなく、

哲学・論理学また演説等には向いていないといわれている。

歴史的にみて、日本の社会はムラ社会であり、そのムラ社会人間 関係において仲間うちの言葉として成立してきた言語とされる。言 い換えれば、ソトを意識しない言語といえるであろう。

(ムラ社会については、後述)

外山滋比古(1976)37は、次のように述べる。

独白的表現

「日本語は、室内語として洗練され発達してきた言葉である。方 丈の室内でしめやかにもの語りするにはこんなに適したやわら かな言葉はないけれども、公衆を前にして演説をするにはあま り適していない。福沢諭吉は日本語でスピーチ(これを演説と 訳したのもほかならぬ福沢であるというが)することは絶望的 だとすら述懐した。福沢ほどの人でも演説に日本語が不向きで あると断定せざるを得なかった。それほど日本語は部屋の外へ 出ると弱い。こういう日本語に演劇文学が貧困であるのは偶然 ではないかもしれない。すくなくとも、シェイクスピアのよう に、戸外で叫び、わめくタイプの演劇は栄えない。四畳半の部 屋に対座しているのでは、いわゆるドラマテイックな対立は起

こりにくい。

そのかわりかどうかわからないが、独白的表現がよく発達する。

いつまでも独白をつづけるバカはいないから、独白は沈黙へ向 かって昇華する。短ければ短いほど含蓄が大きいように感じら

37 外山滋比古『日本語の個性』中公新書 1976 中央公論社p.44~p46.p.138~p.142

れて、短歌が成り、俳句があらわれたのである。すべて詠嘆の 調子をおびる。日本人が情緒的であるというよりも、むしろ、

日本語の室内語的性格がしからしめたと言うべきであろう。わ れわれは人前でものを言うのに何かためらいを感じる。改まっ た口をきくのが好きでない。ちょっとしたスピーチを頼まれて も、ひどく負担に感じる。ほんとうにたべものの味がわからな くなってしまうこともある。室外語の伝統のある社会だと、会 で話をたのまれることを光栄として喜ぶ。そして、どうしてみ んなを喜ばせてやろうかと工夫をこらす。食事がまずくなる人 間がいるなど理解できないに相違ない。」(p44~p46)

玉虫色の解決

「政治の言葉といえば、人はすぐ、「前向きの姿勢で善処いたしま す」「充分検討いたします」「さっそく調査いたします」などの決 まり文句を思い浮かべるだろう。

これらのことばは文字通りに解釈してはいけない。善処すると 約束してくれても、いつかその結果が出てくるなどと本気に考え るものはない。口で検討すると言っても、ほんとうに検討したり しないし、かりにすこし検討したって、だめという結論になるこ とは、はじめからわかっているのだ。つまり、こういう決まり文 句は、「ご要求に添いかねます」という意味を、やんわり伝える方 法にすぎない。

どうなるかわからぬ将来の問題について、どうするか、と責任 のある人が詰め寄られたら、わからない、と答えるほかなかろう。

わからないでは無責任だと叱られるから、善処、検討、調査、考 慮で逃げる。言質をとられない必要がある。

このごろよく耳にする「玉虫色の解決」というのがある。公的 なことばは、大なり小なりこの玉虫色の性格を持っているものだ。

見方によってまったく違った解釈が成り立つ。政治は公的態度の 表明であるから、飲み友達との雑談のように、思ったことをその まま言うことは許されない。公式発言のルールがある。」(p138~

p140)

内輪のことば

「政治家も国会答弁で、善処、検討したあとで、気心の知れた記 者相手に“ウチウチ”のことばを使って心境をのぞかせる。それ は自由だが、活字になって新聞に報道されると話は別である。

政治のことばは、一般有権者に向かっての公式発言と、仲間や後 援者を相手にする私的発言との両極に二分されている。これまで

日本の政治家は、どちらかというと私的発言う中心に活動してき たと思われる。滋味のある座談のできる政治家は相当たくさんい るのに、ひとたび大向こうを相手にすると味もそっけもない演説 しかできなくて、失望を与えるという例が少なくなかった。」(p 141~p142)

水谷信子(1993)38は、次のように指摘する。

「欧米型の対話は、二人の話し手がそれぞれ自分の発話を完結さ せてから相手の話を聞く形で、聞き手は話し手の文ないし発話 が完結するのを黙って待つのが基本である。それに対して、あ いづちを頻繁に打たせる日本語の話し方は、一方の話の途中に 相手のあいづちが入る。

ひとつの発話を必ずしもひとりの話し手が完結させるのでは なく、話し手と聞き手の二人で作っていくという考え方にもと づいた形である。これは「対話」ではなく、むしろ「共話」と でもよぶべきものではないかと思う。

自分の発話を完結させず、相手の理解にゆだねる形式は、す すんで相手の発話を引きとって完結させることへと自然に繋が っていく。

共話①

―きのうちょっと用があって鎌倉へ・・・

と言いかけた相手の話を引きとって、

―あ、おいでになったんですか。

と言う。

共話②

―このままではまずいと思いまして、少し社内の改革を・・・

まで聞いて、

―しようと考えていらっしゃるわけで・・・

というように、相手の文を完結する。これが適切な形で行わ れた場合は日本人は違和感を持たない。途中まで言って、聞き 手に結末をつけさせる、あるいはその意思を理解させることが できる。できるというより、相手に発話完結の機会を与えるこ とがプラスとされ、すべてを言い尽くす話し方は、むしろ「切 り口上」としてうとまれる。しかし、こうした「共話」的な形 式に対しては外国人の間に、「理解しにくい」「失礼だ」という 否定的な反応が多い。

38 水谷信子「〈共話〉から〈対話〉へ」『日本語学 4 月号』1993VOL.12 明治書院 p.4~p.7

日本人がスピーチがへただと言われることの根底には、「共 話」形式がすっかり身についていて、「対話」形式に対するなじみ のうすいことが大きな要素として存在していると思われる。

「共話」から「対話」へという切り替えは、いわば知っている者同 士の話し合いから知らない同士の話し合いへの切り替えであり、

分かり合っている者同士から、分かり合えるかどうか分からな い者同士へという切り替えである。

日本語の場合、こうした切り替えは家庭から社会へ、あるい は学校から職場へという、場所的な切り替えや人間関係の変化 を平行することが多い。英語の社会ではいわば「共話」から「対 話」への切り替えが、同じ場所同じ人間関係でも、こまめに行わ れているのに対し、日本語では、切り替えが環境や人間関係と 連動している。したがって、切り替えのためには大きなエネル

日本語の場合、こうした切り替えは家庭から社会へ、あるい は学校から職場へという、場所的な切り替えや人間関係の変化 を平行することが多い。英語の社会ではいわば「共話」から「対 話」への切り替えが、同じ場所同じ人間関係でも、こまめに行わ れているのに対し、日本語では、切り替えが環境や人間関係と 連動している。したがって、切り替えのためには大きなエネル