行政院國家科學委員會專題研究計畫 成果報告
日本古代文學與外國思想、文化---『源氏物語』與儒佛道
計畫類別: 個別型計畫 計畫編號: NSC92-2411-H-002-041- 執行期間: 92 年 08 月 01 日至 93 年 07 月 31 日 執行單位: 國立臺灣大學日本語文學系 計畫主持人: 陳明姿 報告類型: 精簡報告 處理方式: 本計畫可公開查詢中 華 民 國 93 年 11 月 3 日
我自 2003 年 8 月至 2004 年 7 月探討源氏物語第一部與儒佛道之關連,於 2004 年 8 月 9 日於台大舉辦之「平安朝物語文學與漢文學」之會議裡口頭發表「源氏 物語與道教、佛教---以第一部為中心」,於 2004 年 9 月 3、4 日於北海道大學發 表「源氏物語與儒家思想---以第一部為中心」(將於 2005 年 3 月初版於石塚晴通 教授退官紀念論文集),請參考附件。 並將摘要整理如下: 一、儒家方面: (一)人物造型: 1. 儒家所強調的「孝」出現在主人翁源氏公子的言行裡,賢木卷裡 桐壺上皇駕崩時,作者再三強調源氏公子哀痛之情,並請高僧為 其父皇誦「法華八經」。又在須磨卷裡,源氏將遠行至須磨時,亦 前往桐壺上皇墳前稟告,處處表現出其對父皇的孝思。又其對皇 兄朱雀帝的恭順友愛之情,也屢屢可由明石卷、須磨卷裡朱雀帝 內心對源氏的思念看出一端。 2. 具儒家理想政治家的影像,在賢木卷裡,當源氏公子才學受眾人 賞識時,他低吟道:「我文王之子、武王之弟」,而且除了源氏公 子自許為周公外,,桐壺帝及朱雀帝亦認為其是最理想的政治家。 桐壺上皇駕崩之前對朱雀帝交代種種國事、政治之時,特別要朱 雀帝須以源氏為輔佐大臣,因其具治國平天下之才能。朱雀帝在 替冷泉帝選攝政大臣之時,亦認為源氏公子是最佳人選。 (二)情節方面: 有兩個部分除大量引用中國典籍之外,亦富濃郁儒家思想色彩。 1. 源氏公子因蒙受不白之冤退居須磨,一年後上天以天變及各種變 異來諭示朱雀帝失道。 2. 冷泉帝登基之後,不知源氏公子是其親生父親,以其為臣下,亦 在薄雲卷發生各種天變。 上天以天變災異來諭示為政者失德失政的設定及描述明顯受了中 國儒家「天人合一」思想的影響。 即,第一部明顯受了儒家「孝悌」及「天人合一」思想的影響。作者在描寫 主人翁源氏時,除了強調主人翁的外貌、才藝之外,又擷取了儒家的「孝悌」美 德,將其刻畫成一理想人物。而作者在將其理想化時,又將源氏舖陳成一帝王型 之人物,作者除在第一卷桐壺卷裡讓高麗相士說出:「這位公子的相貌看起來應 是國之君主位登九五之尊者,然而若果如此,又恐國家會發生便亂而遭逢憂患, 但若是以朝廷之柱石輔佐天下政治,則又與其相貌不合,預告源氏公子乃未來之 帝王。然而,桐壺帝卻擔心其無後盾,招來殺身之禍,將其降為臣籍。之後,桐 壺帝駕崩之後,源氏更被弘徽殿太后一干人陷害退居須磨。在毫無奧援的情況之 下,讀者們亦認為源氏終將無法成為帝王之時,作者卻巧妙的配合情節導入儒家 的天人合一思想,造成兩次天變,改變源氏的境遇,讓其成為准太上天皇。換言
之,深諳中國文化、思想的式部在創造源氏物語之際,除導入「孝悌」的德育, 將源氏的人格加以理想化之外,更擷取天人合一思想,巧妙的實現高麗相士的預 言,讓源氏登上「國之父」的地位。 二、道教方面: 從第一卷裡便出現「まぼろし」一詞,而「まぼろし」正是長恨歌的「臨邛道士」, 除臨邛道士外作品裡一再踏襲道教的神仙故事。如松風卷裡屢次利用桂之地名, 將當地喻為月宮仙境,可見作者將「酉陽雜俎」裡吳剛伐桂的故事巧妙地融入故 事情節,又源氏欲前往桂之大堰會明石夫人時,紫夫人不滿地說道:「你說要去 兩、三天就回來,我看可能會等到斧頭的柄都爛了呢?我不知道要等到何時你才 回來。暗指源氏去後會樂不思蜀之意,這明顯是蹈襲了「王質爛柯」的神仙故事, 只是這裡的仙境也具樂園旨趣,此外源氏與眾人賞月之桂院,亦被比擬為仙境。 而將庭院比擬為仙境描寫地最詳盡的應是六條院,不管是用詞或舖陳都是濃厚的 仙境情趣,因此在春之町泛舟而遊的宮女不由得說出「看到如此美景,真讓人如 入仙境,甚至待到斧頭的柄都爛了也不想回去哪!」「我看不用去蓬萊仙山了, 一直待在這舟上就好了。」被比擬為仙境的六條院可以享受最高級的視、聽、嗅、 觸等感覺方面的享受。可見作者藉由擷取道教神仙故事以提供讀者喜好新奇故事 之需求外,同時亦有將中國的仙境將以凡間化,將其改頭換面成地上最高樂園之 旨趣。但作者亦有將佛道融合成一體之趨勢,如若紫卷裡,源氏因患瘧疾前往北 山治病時,若紫卷的「北山」某寺位於遠離塵世、雲霞環繞之深山裡面,北山裡 面有「不知名的草木花卉,五彩斑斕,形如舖棉,麋鹿出遊,或行或立」及「俗 世所無的果物」及凡世難得一聞的樂聲,其設定及舖陳接富道境仙鄉情趣。但在 高峰矗立,群山環繞的岩洞裡所住的卻是「聖」,這裡的「聖」卻是聖僧之意, 而非神仙,而且傳來佛堂的經懺聲。佛道融合之旨趣甚濃。 會有如此情形出現應是日本當時佛教盛行,尤其是京都有不少寺廟及僧侶, 卻幾乎不見道觀道士,因此他們亦較難相信現實世界有仙境或神仙的存在,為此 文學作品裡神仙傳裡的仙境逐漸轉化成佛教裡的理想世界。 三、佛教方面: 平安時代佛教是主要的信仰,因此《源氏物語》裡不論是出場人物的日常生 活或其思想亦受其影響。 (一)日常生活: 1. 女性們會去靈驗著稱的寺廟參拜,祈求願望達成。玉鬘卷裡便敘 述玉鬘為祈求能與生父順利相見,前去石山寺參拜。又有病痛之 時,更有請得道高僧為其加持之習慣。 2. 為祈求往生者能順利往生淨土,每在親人或所愛之人亡故之時, 請僧侶為其誦經超渡。 可見他們認為佛教不僅可達成今生之願望亦可獲得來世之救贖。 (二)思想方面:特別是因果論及無常觀 作品裡的人物每當出現重大事變時,除了會有深刻的無常觀,嘆「人
生無常、世事多變」外,並認為這是「宿命」,即認為自己的不幸命 運是前世業障使然。 而這正是佛教裡的因果論。 亦因此,激發了他們對自己今生行為的反省。如光源氏在若紫卷的北 山段裡,聽到僧都為自己講述人世無常之道以及來世因果報應之事 後,想到自己對藤壺中宮的戀慕之心,不勝恐懼,覺得自己心中盡想 些卑鄙無聊之事,此生將永遠為此憂愁苦悶,來世更不知會受到何種 因果報應。 源氏一生一直都有出家的念頭,亦是深受佛教果報思想的影響。其他 對自己行為有罪惡意識或醒悟人生無常的作中人物亦常會皈依佛門。 第一部裡富濃烈的佛教因果論及無常觀的旨趣。
附件
『源氏物語』における儒家思想
―第一部を中心にして
一 『源氏物語』と儒『との『連を考える前に、まず「儒」の語源とその意味を 見ておきたい。「儒」という言葉が現れるのは、『周禮』においてである。『周 禮』の「天官、大宰」には「四曰儒、以道得民」とあり、その注には「儒,諸 侯保氏,有六藝以教民者」1とある。又、「地官、大司徒」には「四曰,聯師儒」 とあり、その注には「師儒,鄉里教以六藝者」2とある。それによると、「儒」 とは古代塾でと民に六藝を教える人のことである。そして孔子がさらに古代の 「儒」を「君子儒」と「小人儒」に分類して、弟子達に「君子儒」になるべし と諭した3。孔子は先王の教えを典範として、弟子達に「儒」の道を。いた先 師である。それ故に、孔子を宗とする『は「儒『」と呼ばれるようになる。「儒 『」は即ち「堯舜を祖述し、文武周公を憲章するとともに、五倫五常を主とし て、人間の日常行為につきそのてて的道義の完成に努め、仁を以て諸にを一貫 し、修身齊家より治し平天下を致すを本旨とする」4『。である。つまり、「儒 『」は個人の修身によって社学の倫理秩序を維持し、治し平天下を目的とする ものであり、為政者の民も統治に利する性格を有していた。そのため、漢武帝 以以各時代の皇帝に重視され、太『などの『校で士達に『ばせる『問となる。 そしてその中から成績優秀な者を官吏に拔擢したことから、立身出世の道とな り、儒『り典六り四書とその『連書類は古代の士達にとって必りの書物になっ た。一方、日本では桓武天皇が平安京に遷都して以以、積極的に中しの文化文 文明を文取したため、儒『り典とその思想も日本に伝以し5、その影響は、時 の文『にも及んでいる。たとえば漢詩文集『凌雲集』序文に、魏文帝の「文章 はりしの大業、不朽の盛事なり」という言葉が見えることからもそれを窺うこ とができる。そして『源氏物語』の作者紫式部は周知の通り、中しの文『文文 化などに素養の深い文『者であり、その作品に儒『思想などの中し文化が反映 していることは疑い得ない。そのため、『源氏物語』と儒『とのかかわりにつ 1 周禮天官篇(周禮卷第一天官家宰上)周禮卷第一天官家宰上に「一約牧,以地得民。二曰長, 以貴得民,三曰師,以賢德民,四曰儒,以道得民……」とある。 2 周禮地官篇 周禮卷第三地官司徒上に「以本俗六,安萬民,一曰為官里,二曰族墳蕃,三曰 聯兄弟,四曰聯師儒,……」とある。 3 『論語』「雍也第六」に「子謂子夏曰:『女為君子儒無為小人儒』」とある。 4 参照大漢和参典参(一)「儒『」項目 5 藤原佐世の「日本し見在書目藤」には儒教り典四書、六りの書名も藤藤されている。 (『日本し見在書目藤、り義考補正』 新文豐出版社 1984 年 6 月)いては、古くからい な研究がなされて以ている。しかし、それらの研究の殆 どは、制度や言葉の影響の面から考察を行ったものばかりである。もちろんそ の意義を否定するつもりはないが、ただ、その種の研究は、かならずしも儒『 思想が物語の世界ではたす役割を究明しているとは限らない。本稿は『源氏物 語』と外以思想とのかかわりを探究する一環として、特に、第一部(桐壺の参 ∼藤裏葉の参)に焦~をあて、儒『思想がどういう展開の中でどのように取り 入れられ、どのような機能を与えられているのかを考察し、儒教思想の取り入 れに託された作者の意れを明らかにしようとする試みである。 二 『源氏物語』はその名の通り源氏を主人公とした物語であり、源氏はほかの 古物語の主人公と同いに作者によってことさらに理想化された人物である。最 初はまずその美貌と才芸が強調されている。彼は父母である桐壺帝と更衣の美 しさを受けしぎ、誕生した時から「きよらなる玉」6のような美しい外形を持 っている。その類まれな美しさのため、彼は世の人に「光る君」とっえられる ようになる。また、七つの時、漢籍のりみ方を源氏に授ける儀式を行わせた際 の桐壺帝のい子は次のようにの述されている。 り書始などせさせたまひて、世に知らず聰うかしこくおはすれば あまり 恐ろしきまで御恐ず。 源氏は美貌ばかりでなく、天皇さえ驚かせるほどの源明さを持っていたので ある。さらにその才能は『問にとどまらない。 わざとの御『問はさるものにて、琴笛の音にも雲ゐをひびかし、すべて言 ひつづけば、ことごとしう、うたてぞなりぬべき人の御さまなりける 、時の貴族にとって、不可欠の教養であるり書類の『問や漢詩文の制作は言 うに及ばず、琴笛などでも、人よりうきん出ている。まさに多芸多才な人物と して造型されているのである。 しかし、本論で注目したいのは、源氏の美貌や才芸ではなく、むしろ彼がい わゆる「孝弟」(親に孝をわくし、兄弟に情愛を持つ)という儒家にをも持っ ている~である。源氏が父兄を尊敬し、誇りに思っていることは、彼の口ずさ んだ「文王の子、武王の弟」という言葉からもその一端を窺うことができる。 又、賢木の参においても源氏と兄朱雀帝との睦まじさが語られている。 6 本稿にある本文の引用はすべて『源氏物語』(一)∼(六)に本る。(『日本古典文『全集』 小『館 昭和 45 年∼昭和 56 年 6 月)
まづま裏の御方に参りたまへれば、のどやかにおはしますほどにて、昔今 の御物語聞こえたまふ。御容貌も、院にいとよう似たてまつりたまひて、 いますこしなまめかしきい添ひて、なつかしうなごやかにぞおはします。 かたみにあはれと見たてまつりたまふ。(中略)よろづの御物語、文の道 のおぼつかなく思さるることどもなど、問はせたまひて、またすきずきし き歌語りなども、かたみに聞こえかはさせたまふついでに、かのき宮の下 りたまひし日のこと、容貌のをかしくおはせしなど語らせたまふに、我も うちとけて、野宮のあはれなりし曙も、みな聞こえ出でたまひてけり。 公務以外の私的な場で二人の打ち解けて語り合うさまが描公されている。お 互いに相手に深い情愛を持っていて、たとえ尚侍の君のことがあっても二人の 間に隔たりはない。二人は『問の話から、神を恐れぬ不謹慎な秘事まで打ち明 けられる間柄である。兄の朱雀帝ばかりでなく、源氏は他の兄弟とも親しくし ている。それは源氏が須磨に退去してからも「御兄弟の皇子たち」から「とぶ らひ」の文を送られたりすることからもわかる。もちろん、兄弟ばかりではな い。源氏は、父の桐壺院にいしても並 ならぬ思いを持っていた。式部は特に 彼を孝子とは明言しないが、物語の端 から彼の桐壺院への孝子としての思い が伝わってくる。桐壺院が崩御した時の源氏は次のように描公されている。 中宮、大中殿などは、ましてすぐれてもの思しわかれず。後 の御わざな ど、孝じ仕うまつりたまふさまも、そこらの親王たちの御中にすぐれたま へるを、ことわりながら、いとあはれに、世人も見たてまつる。 宮中の人 は、皆一いに桐壺帝の崩御を悲しむが、藤壺中宮と源氏の悲しみ は誰にもまして深い。そして法事を行う時、源氏は他の親王よりも「すぐれ」 ており、そのことを世人は、然のことと受け止める。というのは、帝は生前、 源氏を他の兄弟よりも寵愛しており、それに源えるように源氏の父帝にいする 思いもどの親王よりも深かったからである。そのため、源氏は桐壺院の死によ る悲嘆からなかなか回復できず、なにかにつけて父帝のことを悲しく思い出す。 藤壺中宮の兄兵部卿宮が、雪に萎れて下葉が枯れているのを見て、「かげ藤み たのみし松や枯れたけん下葉散りゆく年の暮れかな」と詠んだ際、作者が「何 ばかりのことにもあらぬに」と評言を加えているこの歌を聞いてさえも、源氏 は悲しみをまして袖をはでしとどに濡らす。そして、池の面が隙間もなく凍っ ているのを見て「さえわたる池の鏡のさやけきに見なれしかげを見ぬぞかなし き」と詠む。父を亡くした子が悲嘆するのは人情の常であろうが、源氏の桐壺 院への思いは、そうした通常の人情を越えているように思える。 源氏の父院への思いは、源月の流れによっても容易に消えない。弘徽殿大后
に謀反の嫌疑をかけられ、官位をに奪され、須磨に退居しなければならない時 にも、源氏は北山の桐壺院の御陵に参にに行く。 御山に参りたまひて、おはしましし御ありさま、ただ目の前のやうに思し 出でらる。限りなきにても、世は亡くなりぬる人ぞ、言はむ方なく口惜し きわざなりける。よろづのことを泣く泣く申したまひても、そのことわり をあらはにえ承りたまはねば、さばかり思しの玉はせしさまざまの御遺言 は、いづちか消え失せにけん、と言ふかひなし。御墓は道の草しげくなり て、分け入りたまふほどいとど露けきに、月も雲てれて、森の木立木深く 心すごし。心り出でん方もなき心地して、にみたまふに、ありし御面影さ やかに見えたまへる。そぞろ寒きほどなり。 桐壺院が亡くなってから、何年もりつにもかかわらず、源氏は院存命の時と 同いの孝行の念を抱きつつ、これから須磨へ退居することを父院の亡すに報告 する。何年後に須磨から京へすることができるか彼自身にもわからない、よっ て、今までのように、墓参りもできない、そういうことを父院に報告しながら、 何故須磨へ退居しなければならないかについても源氏が。明したことは想像 に難くない。又、源氏は桐壺院が臨終の際に朱雀帝に「はべりつる世ににらず、 大小のことを隔てず、何ごとも御後見と思せ」と言った遺言も思い出す。この 遺言にいして、朱雀帝は決して違えないと繰り返して桐壺院に答えている。源 氏はその場にいたわけではないが、まわりの誰かを通してこのことを聞いてい たであろう。だが、朱雀帝は弘徽殿大后の意向に背くことができず、源氏はつ いに官位をに奪され、須磨退居に追いいまれてしまった。だから、「さばかり 思しのたまはせしさまざまの御遺言は、いづちか消え失せにけん、と言ふかひ なし」なのである。このようなな況にある源氏が「心り出でん方もなき心地し て、に」んでいる時に、源氏の思いに父帝が感源したかのように、「ありし御 面影さやかに見えたまへる」。源氏は思わずこれに寒いを感じているが、孝子 が先祖や神の庇護を蒙る伝。が中しにはたくさんある7。式部は伝入した中し の書物でおそらくそれを知っていたことだろう。つまり、桐壺院が源氏の訴え を聞き入れたことを式部はり者にそれとなく伝え、須磨で桐壺院の亡すと住吉 大神が現れて源氏を危難から救う伏線を張っているのである。 須磨に退居した翌春、三月の上巳の日に、源氏が海巳で禊をしていると、急 に暴風雨となる。その明方、源氏が少しまどろんだ時、誰ともわからない者が 夢に現れて「など、宮より召しあるには参りたまはぬ」と言うのを聞いて、源 7 「晉書王祥伝」には「祥性至孝、母嘗欲生魚、時天寒冰凍、祥解衣剖冰求之、冰忽自解、雙 鯉躍出、母又思黃雀炙、復有黃雀數十、飛入其幙、鄉里驚嘆、以為孝感所致焉。」とある。孝 行のにが神人を感動させ助けてくれる。話は『晉書』のほかにたくさん見られる。『魏書』に もこの項目がある。又、類書にも藤藤されいる。平安時代人である式部もこの類の話を知って いる筈である。
氏はい味氏く思う。が、この正体のわからぬ者はては住吉大神の使者で、源氏 に須磨の海岸が高潮で危ないから、早くそこを去るように指示するために以た のである。そして、その後、桐壺院のすが源氏の夢に現れる。 かたじけなき御座所なれば、ただ寄りゐたまへるに、故院ただおはしまし しさまながら立ちたまひて、院「などかくあやしき所にはものするぞ」と て、御手を取りて引き立てたまふ。院「住吉の神の導きたまふままに、は や舟出してこの浦を去りね」とのたまはす。いとうれしくて、源氏「かし こき御影に別れたてまつりにしこなた、さまざま悲しき事のみ多くはべれ ば、今はこの渚に身をや棄てはべりなまし」と聞こえたまへば、院「いと あるまじきこと。これはただいささかなる物の報いなり。我は位に在りし 時、過つことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を終ふる ほど暇なくて、この世界をかへりみざりつれど、いみじき愁へに沈むを見 るに、たへがたくて、海に入り、渚に上り、いたく困じにたれど、かかる ついでにま裏に奏すべきことあるによりなむ急ぎ上りぬる」とて、立ち去 りたまひぬ。 源氏の墓参りによって、桐壺院の亡すには源氏の境遇がよくわかっている。 だから、生前の罪を償うまでの間はそれにかまう暇がないにもかかわらず、源 氏が「いみじき愁へに沈」んでいるのを見るに見かねて、「海に入り」「渚に 上り」「いたく困じ」てまで、彼を助けに翔けて以たのである。そしてこの父 院の亡すの言葉で、源氏は、前に自分の夢の中に出て以た正体不明の者は住吉 大神の使者だと知り、翌日、すなおに明石入道の迎えを受け入れて、明石へと 移る。父院にいする孝心を持ち移けたがゆえに、源氏は住吉大神と桐壺帝の亡 すの助力を得て、この難『を霊り越えたわけである。 このように見てくれば、作者が主人公を理想化するに際して、儒家の理想的 な人間像を参照し、「孝弟」のにを取り入れたことは明らかであろう。そして、 この源氏のには、自らを窮地から救う最も大きな要因として機能しているので ある。 三 源氏がその孝心によって父院の亡すと住吉大神の助力を得、危機をしのいだ のにいして、父の遺言を守れなかった親不孝の朱雀帝は父院の怒りに触れて、 罰を受けることとなる。桐壺帝の亡すが夢の中で源氏に須磨を去るように指示 した後、さらに「かかるついでにま裏に奏すべきことあるによりなむ急ぎ上り ぬる」と言ったのはこのことを指している。桐壺帝の亡すは朱雀帝の夢の中に も現れるのである。
三月十三日。雷鳴りひらめき雨風三がしき夜、帝の御夢に、院の帝、御前 の御階の下に立たせたまひて、御い色いとあしうて睨みきこえさせたまふ を、かしこまりておはします。聞こえさせたまふことども多かり。源氏の 御ことなりけんかし。いと恐ろしう、いとほしと思して、(後略) 「聞こえさせたまふことども多かり。源氏の御ことなりけんか」とは、いう までもなく源氏を須磨流刑にました件についてのことである。桐壺帝の亡すが 「御い色いとあしうて」であるのもそのためだろう。朱雀帝は夢の中で自分を 睨み付ける桐壺院の亡すと目を合わせたためか、「御目わづらひたまひて」、 耐え難いほどの苦しみを味わうことになる。そればかりではなく、源氏を流罪 にましたために、朱雀帝は天からも警告を受ける。源氏が三月の上巳の日に禊 を行わせて、八百万神に自分の無てを訴える。すると、にわかに暴風雨が起き る。 にはかに風吹き出でて、空もかきくれぬ。御祓もしはてず、立ち三ぎたり。 (中略)よろづ吹き散らし、またなき風なり。浪いといかめしう立ちきて、 人 の足をそらなり。海の面は、衾を張りたらむやうに光りのちて、雷鳴 りひらめく。落ちかる心地して、からうじてたどりきて、供人「かかる目 は、見ずもあるかな」「風などは、吹くも、い色づきてこそあれ。あさま しうめづらかなり」とまどふに、なほやまず鳴りみちて、雨のし、あたる 所徹りぬべく、はらめき落つ。かくて世はわきぬるにやと、心細く思ひま どふに、 何の前兆もないのに、にわかに「世はわきぬるにやと」と思わせるほどの暴 風雨が起きている。最初はこれが源氏の境遇とどのような『わりがあるのかわ からないのだが、朝廷で異にが移かするところまでりむと、この暴風雨がては 天からの朱雀帝への警告だということが分かる。このあたりについて、清水好 子氏は「須磨退居と周公東遷」8で、須磨退居の話には、『尚書』「金縢」の影 が落ちていると指摘している。「金縢」の原文は次のようである。 既克商三年,王有疾,弗豫。二公曰:「我其為王穆卜。」周公曰:「未可以 戚我先王。」公乃自以為功,為三壇同墠。為壇於南方,北面、周公立焉; 植璧秉珪,乃告大王、王季、文王。史乃冊祝曰:「惟爾元孫某,遘厲瘧疾; 若爾三王,是有丕子之責于天,以旦代某隻身。予仁若考,能多材多藝,能 事鬼神;乃元孫不若旦多材多藝,不能事鬼神。乃命于帝庭,敷佑四方,用 能定爾子孫于下地;四方之民,罔不祇畏。嗚呼!無墜天之降寶命,我先王 8 清水好子「須磨退居と周公東遷」(『源氏物語論』塙書房 1966 年)
亦永有依歸。今我即命于元龜,爾之許我,我其以璧與珪。」 乃卜三龜,一習吉。啟籥見書,乃并是吉。公曰:「禮,王其罔害;于小子 新命于三王,惟永終是圖。茲攸矣,能念予一人。」公歸,乃納冊于金縢之 匱中,王翼日乃瘳。武王既喪,管叔及其群弟乃流言於國,曰:「公將不利 於孺子。」周公乃告二公曰:「我之弗辟,我無以告我先王。」周公居東二 年,則罪人斯得。于後,公乃為詩以貽王,命之曰鴟鴞;王亦未敢誚公。 秋,大熟,未獲,天大雷電以風,禾盡偃,大木斯拔;邦人大恐。王與大夫 盡弁,以啟金縢之書,乃得周公所自以為功、代武王之說。二公及王,乃問 諸史與百執事。對曰:「信。噫!公命,我勿敢言。」王執書以泣,曰:「其 勿穆卜。昔公勤勞王家,惟予沖人弗及之;今天動威,以彰周公之德;惟朕 小子其新逆,我國家禮亦宜之。」王出交,天乃雨。反風,禾則盡起,二公 命邦人,凡大木所偃,盡起而築之,遂則大熟。 清水氏は源氏が自か的に須磨へ退居する~と須磨に一年す在した後、天が暴 風雨で帝に源氏の潔白を諭す~は、『尚書』「金縢」における周公のそれと類 似しており、須磨退居の物語には『尚書』「金縢」の影がおとされていると指 摘している。しかし、「金縢」の成王は天にが起きた後、金縢をといて中の文 書をりみ、ようやく自分が周公を誤解したことを知ったのにいして、『源氏物 語』の方では、朱雀帝は最初から源氏の潔白を知っていた。源氏を召還できな いのは母弘徵殿大后の意志に背くことができないためである。だから、『源氏 物語』において暴風雨は、物に主人公の無てを物力者に悟らせるためにあるの ではない。むしろ、天子が失政すると天が異にを起こして警告するという天人 相『思想をそこに見るべきであろう。つまり、 天人相『思想のもとに 暴風 雨という天にによって天子に失政を悟らせているという2~に雨者の類似性 があるのではないか。ただ、そう考えると、『史記』や『漢書』など中しの他 の書物にも天人相『思想の。や例が多く見られ、紫式部が「金縢」のみからこ の思想の影響を受けたとは言いがたい。さらに、『源氏物語』では、天は源氏 を召還させるために暴風雨だけを起こしたのではなく、他の警告も少なくなか ったことが語られている。「その年、朝廷に物のさとししきりて、もの三がし きこと多かり。」とあるように、暴風雨が起きる以前に、既にい な天にが起 きているのである。又、先にも触れたように、桐壺帝の亡すまで登場させて、 朱雀帝を戒めてもいる。 暴風事件や桐壺院亡すが朱雀帝の夢枕に立ったことが起きた後でも、弘徽殿 大后は依然として強硬な態度を示し、源氏はやはり朝廷に召還してもらえない。 その故、天からの罰が次第に、しくなる。まず、朱雀帝の外祖父太政大臣が亡 くなった。太政大臣はすでに高大だから、この件についてはまだ自然のことわ
りだと解りできるが、「次 におのづから三がしき事」がある。疫病流行など のこともか生し、天下はしだいに不安なな態になる。強いな弘徽殿大后まで「そ こはかとなうわづらひたまひ」て、しかも日 に弱くなっていく。朱雀帝は引 きつづ起きた凶兆にすっかり動きした。これはすべて源氏にいして不公平なま 分をしたための天罰だと心得ている。「なほこの源氏の君、まことに犯しなき にてかく沈むならば、必ずこの報いありなんとなむおぼえはべる。今はなほも との位をも賜ひてむ。一日も早く源氏を召還して、元の位を授けるべきだ」と 度 言うが、大后はあくまでも強いの一方である。そのため、性格の弱い朱雀 帝も母后を憚って赦免の宣旨が下らない。朱雀帝が躊躇している間に、大后の 病情がさらに重くなってしまう。 そして、源氏を召還しないため、天からいっそうきびしい罰を受けるように なる。 年かはりぬ、ま裏に御年のことありて、世の中さまざまにののしる。 次の年になって、もっと氏いことが起きた。今度朱雀帝自身まで病いになり、 世間ではいろいろ大三ぎする。朱雀帝はついに退位するに決めた。 何故朱雀帝は退位しなければならないのか。作者はり者に納得させるために さらに去年からの朝廷のい子を次のように。明を加えている。 去年より、后も御物の怪去みたまひ、さまざまの物のさとししきり、三が しきをいみじき御つつしみどもをしたまふしるしにや、よろしうおはしま しける御目の去みさへこのごろ重くならせたまひて、もの心細く思されけ … れば 朱雀帝はずっとたよりにしている母大后の病情が重くなるし、世の中では、 疫病が流行し、異にが移かして、物情三然たるな態になっている。それに天皇 自身の目の病いも氏化した。朱雀帝は心細くなり、すでに今まで通りにしを治 めることもできなくなり、ついに退位することにした。しかし、朱雀帝自分自 身の子供は二才になったばかりで、次の天皇の人選としてはまったく幼すぎる から、今の東宮に帝位をかることにした。そして、文政大臣の人選についてあ れこれ考えめぐらした結果、やはり源氏が一番ふさわしいと考え、朱雀帝はつ いに大后の意向を無視して源氏を召還することにした。 こうして、源氏のての子は天皇に即位し、源氏自身も文政大臣になって、世 の中はすべて源氏の方に有利になるようにかわって以た。しかし、冷泉帝は源 氏がての父であることを知らないがゆえに、源氏を臣下として仕えさせる。こ れは孝を重視する儒家の教化に背くことでもあるし、聖帝のにを損ねる行為に
もなるから、再び天にが起きた。 薄雲の参には次の記事がある。 その年、おほかた世の中三がしくて、公ざまにもののさとししげく、のど かならで、天の空にも、例に違へる月日星の光見え、雲のたたずまひあり とのみ世の人おどろくこと多くて、道 の勘文ども奉れるにも、あやしく 世になべてならぬ事どもまじりたり。ま大臣のみなむ、御心の中にわづら はしく思し知らるることありける。 天はよく天にをもって天子の失政を悟らせることは、人 もよく知っている ことである。ところが、今度の天には一体天皇に何を悟らせようとするのか、 判然としない。源氏一人だけは心、たりがあるが、冷泉帝に言うわけにもいか ない。しかし、冷泉帝が知らなければ改めようもない。そのため、天罰が移く。 軈って、軈 の祈のとき戒を行ったかいもなく、藤壺中宮があっけなく世を去 った。源氏の悲しみはいうに及ばず。冷泉帝もなんとなく心細い。古くから藤 壺に近侍した聖僧は帝が事てを知らずに源氏を臣下として扱い移ければ、天罰 が、しくなる一方で、やがて帝の身にも及ぶのではないかと案じて、あるのか な曉、ついに冷泉帝に出生の秘密を知らせる。 天に頻りにさとし、世の中のかならぬはこのいなり。いときなく、ものの 心知ろしめすまじかりつるほどこそはべりつれ、やうやう御大足りおはし まして、何ごともわきまへさせたまふべき時にいたりて、咎をも示すなり。 よろづの事、親の御世よりはじまるにこそはべるなれ。何の罪とも知ろし めさぬが恐ろしきにより、思ひたまへ消ちてし事を、さらに心より出だし はべりぬること。 僧都は天にが起きたのは、帝がての父源氏を臣のさせたためだと言った。冷 泉帝が幼かった間は物の道理も理解できなかったので、事なきを得たが、今は すでに何事も理解できる年ごろになったから、知るべきことを知らないと、天 に咎められる。 り者達は前からすでにこのことを知っているので、ついに以るべきことが以 たというい持ちでその移きをりんでいく。作者もり者の期待を裏ぎらないよう な書き方をする。冷泉帝は事てを知った以上、勿論このまま源氏を臣下として 扱うことができない。しかし、いきなり子として名霊り出すのもきまりが氏い から冷泉帝は態度で源氏に自分がすでに事てを知ったことを示す。賢明な源氏 も冷泉帝が自分にいする態度がにわかに子の親にいするそれにかわったこと にい付き、もしかすると例の秘密を知ったのではないかと不安に思う。帝はさ らにい な書物を調べ唐土に『史記』の秦始皇と母大后、呂不韋との『係を見
附け出し、源氏にか位することを言い出した。それは源氏にとめられたが、冷 泉帝はやはり源氏を臣下扱いしたくないから、藤裏葉の参で源氏を准太上皇に した。田中隆昭氏に指摘されるように、物語の中での源氏文藤壺文冷泉帝の三 人の『係は確かに『史記』の中の呂不韋文大后文秦の皇帝をもとにしているが 9、秦の始皇帝の母大后にいする孝行は天罰を恐れるために行った行為で、冷 泉帝の源氏にいする孝はま心からかした真情そのものを感じさせる。聖帝冷泉 帝の孝行は暴君秦の始皇帝との孝行とは著しく異なっている。 そして、天に地異で冷泉帝に源氏がての父であることを悟らせることによっ て、源氏も名てともに「しの親」の位にのぼるのである。 紫式部は『源氏物語』の第一部で二回も儒家の天人相『思想を取り入れた。 それぞれは朱雀帝と冷泉帝の時におきたできこと。そして二回とも帝に源氏を 公平に扱わせるために導入したのである。第一回は、源氏が無ての罪で須磨退 居をよぎなくさせられた時である。朱雀帝は源氏の無てを知っていながら、弘 徽殿大后の意向に背くことができないため、源氏を召還できない。すべてが行 き詰まった時、作者が天の力を導入して天に地異を起こさせる。しかし、朱雀 帝は天にの原因を知っていながら、決帝力を出して源氏を赦免できない。その ため、天罰がしだいに、しくなり、ついに帝の身に及び、朱雀帝は心身ともに 移けて政治を行うことができないな態に続ったから、冷泉帝にか位してしかも 源氏を文政大臣として召還した。第一回の天に地異は式部が源氏を中央へ復心 させるために導入したさ置なのである。 その後冷泉帝は天皇に即位したが、出生の秘密を知らなかったため源氏にし かるべき地位を与えていない。そこで、作者はもう一回天にを取り入れて冷泉 帝に源氏がての父であることを悟らせた。そして、冷泉帝が事てを知ったこと によって、源氏も準太上皇の位に上ったのである。 この二回の天人相『思想はいわば源氏を最高地位につかせるために導入した さ置とでも言えよう。 結び 『源氏物語』にはい な儒家思想が取り入れられるが、ここでは特に第一部 と「孝弟」、「天人相『思想」とのかかわり及びその機能を考察してみたが、 残される問題はまだ多くある。しかし、凡そ、次のことは言えよう。 作者は主人公を造型するに際して、儒家の基本的に育も取り入れて源氏を美 貌、才芸ばかりではなく、さらに「孝弟」の美にをも持つ理想的な人として語 り上げる。又、作者は物なる主人公を理想化するだけでなく、彼を帝王になる 人物として設定したのである。早く桐壺の参で、作者はすでに高麗人の相人を して源氏の未以について「しの親となりて、帝王の上なき位に上るべき相おは します人の、そなたにて見れば、しれ憂ふることやあらむ。よほやけのかたみ 9 田中隆昭「源氏物語と史記」(『中古文『と漢文『Ⅱ』汲古書院 昭和 62 年)
となりて天の下を輔弼くる方にて見れば、またその相違うべし」と語られせた。 即ちり者達には首参ですでに源氏が帝王になることが予告されたわけである。 しかし、彼はその後臣籍に下ったし、父帝も母后も亡くなったし、後楯も何も ないから、到底帝王になれるとは思われない。そこで、作者はプロットの進展 に合わせて巧妙に儒家の天人相『思想を取り入れて、二回も天にを起こさせ、 源氏の境遇をにえ、「しの親」の位に就かせたわけである。言い換えると、中 し文化、思想に素養の深い式部は源氏物語を創作するに際して、儒家思想を強 く意識し、「孝弟」というに育を取り入れて、源氏の人格を理想化するのみで なく、さらに天人相『思想を導入して、みごとに高麗相人の予言をて現し、源 氏を「しの親」の位に上らせたとでも言えよう。