論文發表 第 1 場次
春山明哲
「タロコ戦役」研究序説
-軍事・統治政策史の視点から-
「タロコ戦役」研究序説
-軍事・統治政策史の視点から-
春山明哲 早稲田大学 地域・地域間研究機構台湾研究所 客員上級研究員 【要旨】 本稿は、1914(大正 3)年の「タロコ戦役」をめぐって、その軍事的側面、統 治政策の形成、及びそれがもたらした史的影響について考察するものである。 「タロコ戦役」は、第 5 代台湾総督の佐久間左馬太が主導したいわゆる「五 ヵ年計画理蕃事業」における最後のそして最大の戦闘であった。「佐久間の戦 争」とも言えるこの作戦は、総督が軍司令官として出動し、軍・警察協同動作 のもとに作戦を展開するという特徴あるものであり、その軍事史的な観点から の検討は重要である。特に、銃器押収は「討伐作戦」の戦略的目標であるにも かかわらず、原住民側の銃器使用の来歴についてはなお解明されていない点も 少なくない。 また、「理蕃事業」は原住民に対する総合的な統治政策であり、その責任者 (蕃務本署長)であった大津麟平によれば「理蕃事業は一種の政治」であった。 台湾総督府は領台直後から、原住民に対する政策を展開したが、それらは試行 錯誤の連続であった。統治政策の形成という側面から「タロコ戦役」への道を 検討することも重要である。 さらに、この戦役を含め、佐久間の時代の「理蕃事業」がなにをもたらした のか、その影響はなにか、という点の検討も必要である。台中中学創設をめぐ る教育政策、軍事費の財源をめぐる総督府と本国財政当局との関係、「内地延 長主義」への展望などである。 佐久間総督の時期は、日露戦争後の 1906(明治 39)年から 1915(大正 4)年の 第一次大戦までの世界的激動の時代であり、原住民の武力抵抗が全島的に展開 された時期であった。「タロコ戦役」は世界史的視野で見ることができよう。 キーワード:タロコ戦役、五ヵ年計画理蕃事業、佐久間左馬太「太魯閣戰役」研究緒論
-從軍事、統治政策史的觀點-
春山明哲 早稻田大學 地域・地域間研究機構台灣研究所 客員上級研究員 【摘要】 本稿是針對 1914(大正 3)年的「太魯閣戰役」,有關其軍事面向、統治政 策的形成,以及戰役造成的歷史性影響,加以考察的內容。 「太魯閣戰役」是在第 5 代台灣總督佐久間左馬太主導的所謂的「五年理蕃 計畫」當中,最後且最大的戰鬥。也可以叫做「佐久間的戰爭」的此一作戰,它 的特徵是,總督以軍司令官身分親自督陣,且是在軍方、警察共同行動的基礎上 展開的作戰,因而從軍事史觀點的探討很重要。特別是,槍械沒收儘管是「討伐 作戰」的戰略性目標,但關於原住民槍械使用的由來,尚未釐清的點也不少。 又,「理蕃事業」是對原住民的綜合性統治政策,根據其主事者(蕃務本署 長)大津麟平的看法,「理蕃事業是一種政治」。台灣總督府雖然從領台後緊接著 展開對原住民的政策,但這些是一連串的摸索、嘗試失敗。從政策形成的面向, 來探討「太魯閣戰役」的過程也很重要。 更進一步地,包括此次戰役,佐久間任職期間的「理蕃事業」帶來了什麼, 及其影響為何等這些點也有探討的必要。所要討論的內容有關於創設台中中學的 教育政策,涉及軍事費用財源的總督府與日本本國財政機關的關係、走向「內地 延長主義」的展望等。 佐久間總督時期,正是從日俄戰爭的 1906(明治 39)年到第一次大戰 1915 (大正 4)年世界激烈變動的時代,也是原住民展開全島性的武力抵抗時期。我 們希望能以世界史的觀點來看「太魯閣戰役」。 關鍵詞:太魯閣戰役、五年理蕃計畫、佐久間左馬太 (譯者:廖彥琦)はじめに 1914(大正 3)年の「タロコ戦役」は、第 5 代台湾総督の佐久間左馬太が主導 した「五年計画理蕃事業」における最後のそして最大規模の作戦であり、「佐 久間の戦争」とも言うべきものであった。本稿では、まずこの「佐久間の戦争」 の起源について、佐久間と明治天皇の関係にも着眼しながら、その政治史的側 面を一瞥する。タロコ作戦は、総督が軍司令官として出動し、軍・警察協同動 作のもとに作戦を展開するという特徴あるものであり、その軍事史的な観点か らの検討は重要である。特に銃器押収は「討伐作戦」の戦略的目標であるにも かかわらず、原住民側の銃器使用の来歴についてはなお解明されていない点も あり、この問題について検討する。また、「理蕃事業」は原住民に対する総合 的な統治政策であり、その責任者(蕃務本署長)であった大津麟平によれば「理 蕃事業は一種の政治」であった。大津の「理蕃策」という面から「タロコ戦役」 への道を検討する1。 第 1 章 「佐久間の戦争」の起源 1-1 歴代台湾総督の中での佐久間の位置 佐久間は幕末明治維新の動乱の中で、武士・軍人として東奔西走した典型的 な武人であった。と同時に、近代国家の陸軍将官としてのキャリアー形成の観 点からも佐久間という「古武士」の検証が必要である。まず、この視点から歴 代台湾総督の中での佐久間の位置を確認しておこう。 第 1 代 樺山資紀(1895(明治 28) 年 5 月 10 日~ 在職約 9 か月) 薩摩(鹿児島)出身 海軍大将 1837(天保 8)年生まれ 58 歳(就任時) 第 2 代 桂太郎(1896(明治 29)年 6 月 2 日~ 在職約 4 か月) 長州(山口)出身 陸軍中将 1847(弘化 4)年生まれ 49 歳 第 3 代 乃木希典(1896(明治 29(年 10 月 14 日~ 在職約 1 年 5 か月) 長州(山口)出身 陸軍中将 1849(嘉永 2)年生まれ 47 歳 第 4 代 児玉源太郎(1898(明治 31(年 2 月 26 日~ 在職約 8 年 2 か月) 1 なお、「理蕃」、「太魯閣蕃」等を歴史的用語として使用する。
長州(山口)出身 陸軍中将 1852(嘉永 5)年生まれ 47 歳 第 5 代 佐久間左馬太 (1906(明治 39 年(4 月 11 日~1915(大正 4) 年 4 月 30 日 在職約 9 か年) 長州(山口)出身 陸軍大将 1844(弘化元)年生まれ 62 歳 台湾総督の任用資格は、領台当初から 1920 年まで武官に限られ、陸海軍大 将または中将を以って充てることになっていた。しかも、幕末維新を遂行した 薩摩・長州が明治国家の陸海軍を創設したのであるから、陸海の将官クラスの 多くが薩長で占められ、結果、新領土の台湾総督は、樺山を除き長州(山口県) の陸軍大・中将が任官したのは当然かも知れない。しかし、桂・乃木・児玉が いずれも 40 歳代であったのに比較すると、佐久間は総督就任時すでに還暦を 越えており、後に述べるように、陸軍の停年を延長して総督に留任し、佐久間 が総督を辞任したのは 1915 年、当時の数え年で言えば、すでに 72 歳になって いた。 佐久間は児玉のことを語るときには「源太ァが、源太ァが」と呼んでいたそ うである2。佐久間が「蛤御門(禁門)の変」に毛利藩の一員として初めて実 戦に出陣したのは 1864(元治元)年、数えで 21 歳のときである。同じ長州出 身の 8 歳年下の後輩である児玉を、佐久間は「源太」として知っていただろう から、台湾総督を引継いだ時、必ずしも快い人事ではなかったかも知れない。 後藤新平が民政長官から満鉄総裁に就任した後、兼任で佐久間総督の顧問とな ったとき、佐久間は総督府の幹部を集めてこう言ったそうである。 「源太郎の時に必要でなかったものが、なぜワシのときに必要だというの か!ワシは、なるほど一介の武弁、政治とか学問とかいうことは、自分でも元 来縁が遠いのではあるが、しかし、任を受けて台湾総督となった以上、台湾の 統治ぐらい、何も顧問を置かなければならぬほど、無能ではないつもりじゃ。3」 もっとも、こういうことを率直に言うあたりが佐久間らしいところなのかも 知れない。桂、乃木、児玉という長州の綺羅星のような才幹ある人材のあとに、 なぜ俺が、いや俺だって、という感慨は一介の武弁だからこそ、いっそう強か ったかも知れない。「一介の武弁」は単なる自己韜晦ではない。彼の履歴を簡 単に追ってみる。 1-2 佐久間左馬太のプロフィル 2 『佐久間左馬太』台湾救済団、1933(昭和 8)、56 ページ。小森徳治執筆。以下、佐久間の履 歴、エピソードはこの伝記を参照した。 3 鶴見祐輔『正伝 後藤新平 3 台湾時代』藤原書店、2005 年、839 ページ。
佐久間左馬太は 1844(弘化元)年 10 月 10 日、長州大津郡俵山村に毛利藩 士岡村孫七の次男として生れた。1857(安政 4)年佐久間竹之丞の養子となり 佐久間家の家督を相続した。先に述べたように「蛤御門の変」での初陣ののち、 1866(慶応 2)年 6 月の幕府による第二次長州征伐、毛利藩にとっての「四境 戦争」に出陣、「力士隊」の隊長として佐久間は活躍する。1867(慶応 3)年、 長州藩大隊員として萩を出発、京都を経て東海道より江戸に入り、上野戦争を 戦い、ついで奥州白河に転戦、最後は会津落城戦に参加した。新政府の成立後、 1872(明治 5)年鎮台条例が制定されると、熊本鎮台附となり陸軍大尉に任官、 少佐に昇進した後の 1874(明治 7)年 2 月、佐賀に出張し江藤新平の乱を平定、 陸軍中佐となった。 この同じ 1874 年、佐久間は台湾蕃地事務都督参謀として西郷従道都督のも とで台湾遠征に参加、石門、四重渓で戦った。この台湾出兵(牡丹社事件)に 参加したことも、後年彼が台湾総督に起用されたことと関係があるだろう。こ のとき、佐久間とともに参謀として参加したのがほかならぬ樺山資紀陸軍少佐 である。佐久間は牡丹社はじめパイワン族各社の「頭目」を尋問したとのこと であるが、残念ながらその記録は不明である。 ついで、1877(明治 10)年の西南戦争で佐久間は奮戦するが左足に負傷し 入院、戦場を一時離れている。佐久間は生涯に三度大きな怪我をしている。こ の西南戦争時と、1902(明治 35)年中部都督時代の落馬による胸部負傷、そ してタロコ戦役の際の負傷である。落馬のときは 1 年半余り休職となり、日露 戦争に従軍できなかった。 負傷だけではない。日清戦争の際には、「同士討ち問題」が発生した。伝記 作者(小森徳治)によれば、佐久間は「例の勃々たる勇気に駆られ、本営を外 にして独り自ら戦場に馳突し、為に所在不明にして 4」、戦闘開始の時に自分の 部隊に的確に命令を伝達できなかったらしい。このために味方同士が打ち合う という不名誉な事態を招いてしまったという。 佐久間は晩年になるまで、自分は「功級を持たぬ大将だ」と自嘲していたと いう。日清戦争に参加した将官で、金鵄勲章を持たなかったのは佐久間ひとり だったそうである。 以下に、西南戦争以後の佐久間の軍歴を記しておく 5。(履歴は明治元号表記 とする。) 明治 14 年陸軍少将、仙台鎮台司令官。明治 19 年陸軍中将、明治 20 年男爵。 明治 21 年第 2 師団長(仙台)、明治 27 年 11 月仙台発(日清戦争)、明治 28 年 4 前掲『佐久間左馬太』283~284 ページ。 5 同上、853~863 ページ、履歴。
1 月山東省威海衛、同年 8 月子爵、明治 29 年 1 月近衛師団長、同年 10 月中部 都督、明治 31 年陸軍大将。明治 35 年 10 月休職、明治 37 年 5 月復職。東京衛 戍総督。 佐久間は 1881(明治 14)年から 13 年間あまり仙台に勤務した。そのためも あろう、仙台に永住することを決めていて、台湾総督を辞任後、仙台の自宅に 帰っている。また、佐久間が遭遇した大きな事件としては、1905(明治 38) 年 9 月の日露講和条約反対の焼打ち事件がある。このとき佐久間は東京衛戍総 督として戒厳令を布いている。その翌年、1906(明治 39)年 4 月 11 日、佐久 間は東京衛戍総督を免じられ、台湾総督の印綬を帯びたわけである。 1-3 明治天皇と佐久間 現代ではもう分かりにくいことだが、明治の日本人ことに軍人が明治天皇に 抱いた気持ちには随分と格別なものがあった。では明治天皇の側ではどうであ ったのだろうか。佐久間の伝記『佐久間左馬太』には、いくつか興味深い逸話 が載っている。 「佐久間大将に限り、明治天皇に何事かを奏上するにも、奏上というよりは、 寧ろ座談的であったらしい。」(福田雅太郎大将) 「陰明寺副官が、宮中に随行して、陛下に奏上する大将の態度を窺うに、何 んの隔意もなく、恰も慈父に対するが如く、奏上時間実に四十分に及んだのに、 陛下には「ウムウム」とお応答ある御声が、副官の控室にも漏れ聞こえた」(陰 明寺副官) 方々で似たような話を聞いた編者の小森は、これについて徳富蘇峰の意見を 聞くと、「明治天皇には、ああいう型の人物が、お好きでいらした」との答え であったという6。 「古武士の風格、無双の胆勇」というのが佐久間を評した大方の言葉であっ た。そして、佐久間は若い頃から晩年に至るまで「自ら陣頭に立って、敢て敵 弾の目標とならねば気が済まないかのような態度を以て終始した 7」という。 小森は、明治天皇と佐久間の間には「君臣の親しみが厚かった」という。この 君臣は酒豪であるという共通点もあった。もうひとつ、佐久間の部下として長 く参謀を務めた一戸兵衛大将は、率直にこう述べている。 「佐久間大将は、別に戦争が旨いでもなし、学問があるでもない。然し優し 6 前掲『佐久間左馬太』1~2 ページ。 7 同上、11 ページ。
かった。明治天皇は能く見られた。8」 小森は「日清の役にも日露の役にも、之れという功名の格別特記するものは ないにも拘らず、伯爵の栄位に上がり、現役軍人として未曾有の長年月を与え られ、以てその大願たる理蕃の大事業を成就するに至った」のは「陛下の御信 任の特に厚かった結果にあらずして何んであろう」という感想を付記してい る 9。明治天皇の信任を強調する意図ではあろうが、見方によっては随分とあ けすけな無遠慮な評価である。 だが、この明治天皇と佐久間の関係が、台湾統治に重大な影響をもたらすこ とになる。 1-4 「理蕃事業」の裁可 1906(明治 39)年 4 月、佐久間が台湾総督に任命された際、このようなこ とがあったと伝記は記している。 「明治天皇が親しく御下命になられた二大要件があった。一は人口増加に伴 う食糧問題であり、今一つは当の理蕃問題で、我が領土内に一人でも、皇澤に 浴しない所謂化外の民があっては甚だ遺憾である。之は如何にしても整理し綏 撫して立派な皇国の良民と化せねばならぬと御仰せられた。10」 明治天皇がこのように主導したのかという点は疑問があるが、佐久間が元来 農業や植物に関心があり、また、台湾での任務を想像した時に、あの台湾・牡 丹社への遠征の思い出が甦ったかもしれない、とは無理な想定ではないだろう。 そして、佐久間は台湾総督という役割について「総督は常に陛下の御代理であ る、事実副王である、植民上のヴァイスロイ(Viceroy)であることを、如実 に確信して」いたらしい11。 佐久間は台湾に着任するや、総督官邸から「煙霧模糊たる蕃山を望見し」、 「蕃界地方の巡視を行い」、総督府幹部に対して「明治天皇に奏上したる食糧 問題と理蕃問題とを語り」、「理蕃上大いに努力すべき」と委嘱したという 12。 1910(明治 43)年度から開始されたいわゆる「五年計画理蕃事業」の予算 化のプロセスは、明治天皇と佐久間の関係を背景にしてよく理解できる。佐久 間が「五年計画理蕃事業」を持って上京し、政府との予算折衝に臨んだ際にこ ういう経緯があったという。 8 同上、4 ページ。 9 同上。 10 同上、836 ページ。 11 同上、10 ページ。 12 前掲『佐久間左馬太』533 ページ。
「先ず之れを桂首相に図りしに、首相は、今日の場合、到底議会の承認を得 べからざるを語りて、暗に案の撤回を促すところあり、当時逓信大臣たりし後 藤新平氏も亦頗る難色あるものの如く『退いて再考なさるるに如かず』位の応 答であった。13」 そこで佐久間も諦めて台湾に帰る挨拶に参内し、詳しく事情を奏上したとこ ろ、「明治天皇には、御一言『それは面白い案である』との御意味をお漏らし になられたという。」と伝記は述べている。佐久間はこのことの次第を挨拶に 寄った山県有朋に語ったところ、山県は「それは陛下のお思召もあることなれ ば、今一応桂に話しては如何」と言う。佐久間は再び力を得て桂首相に話すと、 桂も「さればと納得」して議会への提案になったという。 前述の明治天皇の「御下命」といい、この「御一言」といい、天皇と佐久間 の「君臣の親しみ」を強調した叙述であるが、幕末の長州戦争以来の山県と佐 久間の関係、桂の台湾総督歴などを考えると、理解できる要素もある。伝記作 者はここでもクールに「五年計画理蕃事業は、総督の衷心をいえば、尠なから ざる苦痛の種であったに相違ない。既に七十歳に垂んとする老体である。而も 之が実行に入るや、全体の遂行までは退任も能きず。所謂字義通りの献身的の 仕事である。14」と書いている。 第 2 章 「銃の問題」-理蕃政策の核心- 2-1 伊能嘉矩の観察 「五年計画理蕃事業」の最大の目的は、銃器の押収であった。『佐久間左馬 太』の「押収銃器表」15には、明治 35(1902)年から昭和 4(1929)年までに 押収された銃器数の統計が掲載されているが、その合計は 2 万 8 千 492 挺に上 っている。五年計画期間の明治 43(1910)年から大正 3(1914)年までに限る と、2 万 2 千 958 挺で、実に全体の 80%余りがこの期間に押収されている。な ぜかくも多量の銃が山地社会に存在したのであろうか。銃はただ銃のみでは役 に立たない。弾薬が必要であり、手入れも欠かせない。寿命もあり、性能の向 上もある。この「山地社会における銃の問題」に焦点を当てて検討してみたい。 伊能嘉矩と粟野伝之丞の共著『台湾蕃人事情』の中では「狩猟」という項目 が設けられ、銃について記述がある。伊能(としてよいだろう)は、「第一 ア タイヤル族」の章の「二、狩猟」で、「台湾の蕃人中狩猟の最も盛んなるは此 族の蕃社なる可し」、「鳥獣を猟取する方法は第一は銃殺すること」として以下 13 同上、525 ページ。 14 同上。 15 同上、811 ページ。
のように観察している。 「銃は前装、後装、連発銃及び火縄銃にして、最も普通に使用せらるゝは前 装銃にして、後装銃並びに連発銃等に至りては僅かに漢人部落に近き処の蕃社 に於て之を見るのみ。而して火縄銃は漢人部落に遠き深山中にある蕃社に専ら 使用せらる。是れ蕃人の銃を得るには漢人の手よりするを以てなり。要するに 此族の蕃人は生存上精鋭なる銃器を得んとするに汲々として之を得るか為め には如何なる財宝をも顧みざるなり。されば蕃丁は概して銃器を有し、若し之 を有せざれば殆んど恥辱の如く思い居るものの如し。16」 これに続けて伊能は「而して銃器の多くは蕃人の手に入りしは明治二十八年 にして、清兵台湾を去る時にありし、と云う。」と書いている。「台湾民主国」 の唐景崧、劉永福が大陸に「去った」時、清国軍も総退去したが、その数万の 規模の兵たちが銃器弾薬を大量に残したというのだろうか。 さて、銃はアタイヤル族ばかりではなく、「ヴォヌム族」、「ツオオ族」、「ツ アリセン族」、「スパヨワン族」、「プユマ族」、「アミス族」でも使用され、「ツ アリセン族」では「蕃丁の数の二倍」を所持しているという。要するに、銃は 山地社会に広く普及していたのである。 2-2 伊能の考察 伊能はまた文献を調査して銃の問題を考察している。『理蕃誌稿』第 2 編の 明治 36 年中の「蕃人の銃に関する沿革」17である。伊能はオランダ、スペイ ン時代の記録、康熙帝 36 年に渡台した郁永河の日記『稗海紀遊』等々を丹念 に調べ、「台湾土蕃が銃器を所有し之を使用するに至りし時期は、乾隆年代の 中葉以後なるべくして、其の伝入者は移植漢人なりとす」とした。同治 13 年、 沈葆禎の報告には「蕃人」が抵抗に使用した武器は「総て銃にして」とあり、 北路提督の羅大春は東部において多数の銃器が使用されている、と報告してい る。そして、ここでも伊能は「彼の台湾割譲の際、敗残の清国兵勇が其携帯せ る銃器弾薬を投じ直接若しくは間接に蕃人に換售したるものありしこと、実に 蕃人をして精鋭なる銃の多数を所有せしむるに至る近因となす」と結論してい る。 では、どんな銃器が使用されたのであろうか。『理蕃誌稿』第 2 編の明治 42 16 伊能嘉矩・粟野伝之丞『台湾蕃人事情』台湾総督府民政部文書課、明治 33 年。復刻版、草 風館、2000 年、23 ページ。なお、引用にあたっては、カタカナを平仮名に改め、適宜句読 点等の表記を改めた。 17 『理蕃誌稿』第 2 編、台湾総督府警察本署、1918(大正 7)年。復刻版、青史社、1989 年、 314~317 ページ。
年の中に「蕃社戸口及び銃器の異同報告方に付き通達」18の項目があり、「蕃 社台帳記載例」(明治 37 年訓令第 73 号)が改正された際の書式が掲載されて いる。その「銃器」の欄には、「元込」として「モーゼル」、「村田」、「レミン トン」、「其他」とあり、「先込」として「管打」、「火縄」が分類されている。 また、弾薬の欄には、「モーゼル」、「村田」、「レミントン」とは別に「雷管」、 「火薬」の欄がある。「村田」とは村田経芳が考案した日本陸軍最初の制式小 銃で、日清戦争では十八年式村田銃が主として使用された。モーゼルはドイツ 製の、レミントンはアメリカ製のライフル銃である。のちに見るように太魯閣 蕃はアメリカ製のウィンチェスターも持っていた。 2-3 「蕃務会議」と大津麟平 「蕃務会議」とは、台湾総督府の理蕃政策を評価・企画する諮問会議で、1903 (明治 36)年児玉総督時代に第 1 回が開催されて以後毎年開催され、1906 年 佐久間が総督就任後も継続し、第 8 回が 1909(明治 42)年に開催されている。 後藤新平民政長官は、1904 年には 7 月に深坑、宜蘭、8~9 月に桃園、新竹、 苗栗、9~10 月に嘉義、恒春と 3 次にわたり精力的に「蕃界巡視」を実施した。 途中、苗栗の「隘丁廟」を参拝、阿里山通事「呉鳳の廟」に属僚を特派、恒春 では 1871(明治 4)年台湾で遭難した「琉球藩民五十四名墓」に参り、琉球人 を助けた楊家等を表彰している。この後藤の巡視について、伊能は「民心の鼓 励に資する所多大なるものありき」と評している。このときのものであろう、 後藤が原住民と肩を組んでいる写真が残されている。理蕃政策の本格的な企画 立案と実施が総督府の課題となりつつあることを、後藤の巡視は示している。 しかし、児玉・後藤は台湾を去り、佐久間がこれを担うことになった。 佐久間の「五年計画理蕃事業」の調査・計画・立案にあたったのが警察本署 長代理に就任した大津麟平である。大津は 1906(明治 39)年 8 月、まず太魯 閣方面の状況を視察した。この年 7 月、花蓮港庁下で樟脳製造をめぐって深刻 な馘首事件(ウィリー事件)が起きた。翌年、海軍は南清艦隊の「浪速」と「秋 津洲」を派遣して、沿岸の太魯閣蕃集落を砲撃した。大津はこの年 1 月には桃 園、新竹、苗栗、台中を、同年 4 月には深坑、宜蘭をというように、精力的に 視察を行なっている。 2-4 大津麟平『理蕃策原議』 佐久間の理蕃事業とりわけ「タロコ戦役」の性格を考える上で参照すべき資 料として、大津麟平の『理蕃策原議』19がある。時間が前後するが、行論の都 18 同上、715~718 ページ。 19 大津麟平『理蕃策原議』1914(大正 3)年。
合上まずこの文書を紹介したい。1913(大正 2)年 6 月 30 日、大津警視総長 は依願免官となり、台湾総督府を辞した。『理蕃策原議』は、大津が内地帰郷 後、同年 8 月 25 日付けのものである。 『理蕃策原議』の目次は以下のようなものであり、最高位の政策立案者が執 筆した体系的かつ理論的な政策文書として興味深い内容を持っている。 第一緒言、第二理蕃事業の沿革、第三理蕃方針の確立、第四蕃界の地勢、第 五蕃人の状況、第六理蕃計画の成立(甲 威圧策 一討伐 二隘勇線設置 三 物品供給制限 四一般警察的取締 乙 懐柔策 一授産 二教育 三布教 四物品交換 五医療 六観光 七一般警察的保護) 第七結論 第八余論 余 論の参照 大津がこの文書を書いた動機は以下にあった。 「豫、台湾に奉職すること十八年、其の間理蕃に従事すること八年、日夜努 力したりと雖も、遂に卑見の容れらるゝに至らず、寸効を致すこと能わず。事 業未だ全く成らずして、病を以て此の職を辞するの已むを得ざるに至れるは、 遺憾に堪えざるなり。20」 まず、「山地における銃の問題」について、大津はどのような認識を持って いたのであろうか。 「清本国に引揚げんとする支那敗兵の携帯せし銃器弾薬を蕃人に投与したる 数は、実に莫大なりしものの如く、理蕃策は之が為に、一層の困難を増加した りと云うべし。21」 「領台の始めに於ては、台湾総督府の理蕃政策は、専ら懐柔主義を取れり。 (略)甚だしきは巨多の銃器弾薬を蕃人に恵与し、又商人に許可を与えて、蕃 地に銃器弾薬供給の貿易店を開かしめたることあり。22」 前に述べた伊能嘉矩の観察とほぼ同様なことを大津は述べている。次に、銃 器の山地社会における役割についてである。 「(一)銃器は、蕃人の生存上必要具なりや、否。現今の蕃人は狩猟時代よ り、既に半ば農業時代に移り居るものにして・・・生存に必要なる食料は、土 地より得る耕作物、又は豚鶏等の家畜に依って充たすを得べし。」(二)銃器は 彼等の快楽を充たし、又習慣より来る儀式上の要件を充たせば足れり。・・・(三) 若干の銃器に弾薬を添えて貸与し、監督を厳にし・・・授受を明確になすとき 20 前掲『理蕃策原議』2 ページ。 21 同上、3 ページ。 22 同上、3~4 ページ。
は、恐らく弊害なきを得べし。23」 このあたりはもっと詳細に検討すべき箇所だが、先を急ぐ。大津は「銃器整 理を以て、理蕃事業第一の段落となさんと断定し」、「明治四十三年より、実行 に着手したる理蕃事業は、此の方針の下に設計したるものなり」と述べて、そ の初年度には「全島蕃族所有の銃器総数約二万七千余挺の内、約九千挺を凡そ 一年度内に押収することを得た」ので、「此の方針の必ず好結果を齎す可きを 確信」したのであった。ところが、明治 44 年度中央より以後、この方針は「総 督の承認を得ること能わず、総督別に計画するところある」を以て、なるべく これに抵触しないように努めた、と大津は書く24。では、大津の政策の眼目は なにか。 「余輩は、常に蕃人に対して之れを教化撫育して、漸次文明の域に接近せし め導きて幸福なる泰平の民たらしむることを以て終局の目的とす。是れ蓋し未 開の人類に対する開明人の天職なるべし。語に曰く仁者は敵なしと。是れ空論 にあらずして政治的実際なり、実利主義なり、暴虐なる殺戮を専とし、人道を 無視したる主義政策は必ず好結果を得ること能わず。25」 以下、大津は授産、教育、布教、物品交換、医療、観光、一般警察的保護の 7 項目の「懐柔策」を具体的に展開する。教育の項では、「彼等固有の蕃語を 文筆に表わし相互通信の便を開く」という提案があり、布教の項では宗教家に 委嘱して「蕃界に布教師を採用」し、教育と宗教とを調和させて「蕃人の品性 陶冶に協力」させるなどという案もある。井上伊之助26をカラパイ蕃地で医療 に従事させたのは大津であり、将来のキリスト教布教への試みであった。禅宗、 浄土真宗等の布教師も「蕃人教化事務嘱託」として 23 名が雇用されたが、大 津の辞職後、すべて罷免されている。 大津の考えでは、銃器の整理は武力のみで可能なのではなく、必ず懐柔策と 併せて実行すべきで、懐柔策の行なわれるべき範囲はむしろ武力を用いる範囲 より遙かに大きいのであった。 「懐柔を用うべき時機は武力を用うべき時機よりはるかに多し、懐柔は根本 なり常道なり武力は臨時なり補助的なり、是れ彼等の状況自ら然るなり、馘首 は彼等の立場よりすれば叛乱的にあらず平常的なり・・・討伐は寧ろ却って動 乱の原因となるもの27」 23 同上、6 ページ。 24 同上、7 ページ。 25 同上、25 ページ。 26 春山明哲「「虹の橋」を渡るキリスト者-井上伊之助の「山地原住民伝道」覚書」、春山『近 代日本と台湾-霧社事件・植民地統治政策の研究-』(藤原書店、2008)所収。 27 前掲『理蕃策原議』、43 ページ。
2-5 「決裂」-五ヵ年計画の開始と大津の辞職- 大津の考え方の真髄は、以下の言葉に端的に表現されている。 「理蕃事業は一種の政治なり、是根本的観念たらざるべからず。軍事にもあ らず又感化事業にもあらず、蕃人なる特別の人類に対する特別の政治なり。28」 佐久間総督は 1909(明治 42)年 10 月、総督府官制の大改革を実施し、理蕃 事業の推進体制を構築した。普通警察から分立させて蕃務本署を新設し、地方 庁を 20 庁から 12 庁に統合し各庁に蕃務課を置いた。また、台東庁を分割し、 花蓮港庁を新設した。これは太魯閣における戦闘に備えるためのものであった。 そして、蕃務総長には大津麟平を任命した。翌 1910(明治 43)年 5 月には訓 令 95 号により、蕃務課に調査課を新設し、蕃地の測量と製図、編修、蕃社台 帳、理蕃調査の事務を行うこととなった。そして、まず桃園庁の大嵙崁渓上流 のガオガン蕃方面に軍隊・警察部隊を出動させた。ガオガン蕃は 19 社、人口 2 千余人、武器弾薬も多く、出動部隊は苦戦し、死傷者総数 465 人の損害を出 したが、1,110 挺の銃器を押収した。ついで、マリコワン蕃との戦闘には佐久 間総督も出陣、大津総長が指揮したが、警部以下 144 名の死傷者を出した。1913 (大正 2)年のキナジー蕃との戦闘では、内田嘉吉民政長官が大津に代わって 蕃務総長事務取扱となり、翌年の太魯閣に次ぐ 2,778 名の軍・警察が出動、245 名の死傷者を出し、1,368 挺の銃と1万 2,469 発の弾薬を押収した。このよう な状況が佐久間の方針を「軍事重点主義」に傾斜させたのであろう。結局、五 年計画理蕃事業に投じられた経費は 1,624 万円の巨額に上った。 大津の指摘によれば、1913(大正 2)年 6 月 8 日、民政部分課規程の改正に より、蕃務本署は「討伐事業」のみを職務とする機関となり、それ以外の蕃務 行政は普通警察の所管に移された。大津によれば「台湾総督府は理蕃事業を以 て蕃人に対する政治となさず、又其の悪習慣を防止矯正するを以て目的とせず して、討伐するを以て目的とするものなり」と言っても過言ではない、「理蕃 事業は即ち討蕃事業なりとの理想を表明したるもの」と言うのである。大津は 蕃務本署における撫蕃機関の全廃と調査課廃止を批判する。 「此の討伐事業を以て直に理蕃事業となす、是れ全局に渉りて蕃族を廓清せ んとする強烈なる忠実なる希求なきか、又は蕃界の真相に通ぜずして徒に独断 的理想に馳するものにあらざるなきを得んや、此の如くにして遂行したる討伐 の結果は果して如何なるべきや、予は蕃界の廓清容易に見る可らずして永く聖 代の汚点を残さんことを憂て止まざるものなり。29」 28 同上、45 ページ。 29 前掲『理蕃策原議』、47 ページ。
理蕃政策立案・実行の高位責任者たる蕃務総長がかくも劇烈なる文章を残し たことに驚くが、同時に五年計画理蕃事業がその最終局面である「太魯閣討伐」 を前にしての辞任というのは尋常ならざる事態というべきではなかろうか 30。 第 3 章 タロコ戦役 3-1 「太魯閣蕃」の調査 「タロコ作戦」を立案するにあたって、佐久間総督のもとにあった情報はき わめて限られたものであった。歴戦の武人たる佐久間にとって、「兵要地誌」 なき戦争は考えられないことであったろう。作戦計画に必要な準備作業が 1913 (大正 2)年に実施され、その結果が関係者に印刷・配布された。その概要は 次のとおりである。 ○『太魯閣蕃調査事項』(大正 3 年 3 月 1 日発行、蕃務本署) 太魯閣番の沿革(上・中・下)、清国時代、領台から明治 41 年まで、明 治 42 年から現在(明治 45 年)まで。附録、太魯閣番第一回探検状況、太魯閣 番々情、太魯閣番社人口戸数。なお、本書では「蕃」ではなく「番」の字が使 用されている。 ○『太魯閣蕃事情』(大正 3 年 4 月 14 日発行、蕃務本署) 凡例によれば、執務参考資料として関係者に配布されたもの。本文は 4 回に亘って実施された「探検復命書」を収録したもの。附録の 7 文書中には、 「太魯閣蕃ノ沿革概要」、「「太魯閣蕃ノ古名ニ就テ」、「太魯閣討伐実見談」、「ウ ィリー蕃害事件」(元蕃務総長大津麟平復命書)などがある。 ○『太魯閣蕃語集』(大正 3 年 4 月発行、蕃務本署) 本書の序と例言によれば、もともとは南投庁トロック社に開設された蕃 語講習所の教科書として作成されたものを、「太魯閣語」の速成用に加工編集 したもので、発音は「トロック語」を主とするとある。「トロック語」と「太 魯閣語」は「東京語」と「上方語」との関係に似ているので、お互いに通用で きる、としている。 これらの資料は「タロコ誌」に関する当時のもっとも詳しい記録であろう。 3-2 「太魯閣蕃」における銃器の来歴 30 国立国会図書館憲政資料室所蔵「岡市之助関係文書」中に、奈良武次宛木下宇三郎書翰(大 正3 年 8 月 14 日)、奈良武次宛陰明寺小次郎書翰(大正 3 年 8 月 15 日)があり、総督府 内の確執を報じている。岡は陸軍大臣、木下は台湾軍司令部参謀長でタロコ作戦の立案者、 陰明寺は佐久間の副官。
一体、太魯閣蕃にはどのようにして銃器が入ってきたのであろうか。花蓮港 庁調査による「太魯閣蕃沿革概要」は、次のような興味深い記述に始まる。 「光緒元年一月台湾東海岸の道路開鑿せられてより以来、漢人種の[き=草 冠+寄] 莱方面に往来する者漸く多きを加え又、其の後劉銘伝の巡撫に任ぜらるるや、 清朝の政令は漸次中央山脈以東に行わるるに至り、此の頃より李阿隆なる者、 該蕃地に入り蕃人と計約して、商船を新城に回航せしめ、銃器弾薬を輸入して、 潜に之を太魯閣蕃人に売却して、暴利を貪り、同時に砂金採取にも、莫大の利 益を壟断し、資産益々増殖し、精力を蕃地に扶植するに至り、太魯閣蕃も亦李 阿隆の力を藉り、銃器弾薬を得るの途開け其強大を致すを得るを以て、頗る之 に信頼し、随って清国官憲の統治は殆ど名ありて実なきに至れり31」 これで見ると李阿隆は冒険的密貿易業者のように見えるが、康熙帝時代から 清朝政府は「通事」を通じて「民蕃貿易」を管理したのであり、「番社ある処 には必ず通事あり」と言われていた。同治 12 年、東部台湾に三条の道路を開 鑿する事業が始まると、李阿隆は太魯閣蕃とともにこれに協力、以後紆余曲折 はあるが清朝地方官憲は李阿隆を使い、また太魯閣蕃は他の南勢蕃などとの複 雑な対抗関係を経ながら、次第に銃器による武装を強化していったもののよう である。日本による領台後、李阿隆は表面日本の威令に従う態度は取りつつも、 総督府当局が直接太魯閣蕃と接触することを妨害し、従来の自分の立場を保持 しようとしたようである。(『太魯閣蕃調査事項』「太魯閣蕃の沿革」による。) 日本側の探知したところでは、花蓮港等には「清国の敗兵及び土匪の徘徊す る者」多く、李阿隆はこれらの者と接触している。また、当時宜蘭から新城方 面に入港する戎克船[ジャンク船]が数多くあり、これによって密輸された銃 器弾薬を李阿隆が太魯閣蕃に売っているとの情報もあった。 1896(明治 29)年 8 月、花蓮港から新城に分遣されていた結城少尉以下の 1 個小隊は、「兵士の蕃女と関係する者ありしに由り、太魯閣蕃の激怒を買い」 包囲攻撃されて殲滅させられた事件があった。総督府はこれに対する討伐の軍 事行動を起こしたが失敗に帰した。伊能は、「蕃人は、弱者といえる意味を以 て、日本兵を呼ぶに「村田銃」といえる呼称を以てし、又時に一般内地人に対 して此の綽名を附するに至れり」と付記している32。 さて、総督府当局は、清朝政府の故事にならい、李阿隆を総通事に任命、太 魯閣蕃の「操縦」を試みた。こうして太魯閣蕃は李阿隆との関係を利用しなが ら、交換所において合法的に銃器弾薬を入手することができたのである。交換 31 『太魯閣蕃事情』、台湾総督府蕃務本署、1914(大正 3)年、75 ページ。 32 前掲『理蕃誌稿』第 1 編、35 ページ、明治 30 年の項。
所では、モーゼル銃、スナイドル銃、シラス銃、フランス国軍銃、米国製 12 連発銃などが出回っていて、連発銃以外は1挺が銀券 20 枚と交換に取引きさ れていたという 33。こうして集積された銃器弾薬は、「探検及び蕃甚り探知し 得たる」ところでは、「太魯閣蕃全体で、銃器が 2,659 挺、弾薬が 16 万 7,869 発、と推定されていた34。 3-3 探検 『太魯閣蕃事情』に掲載された探検隊は、「合歓山方面」「能高山及びき[き =草冠+寄]莱主山方面」、「タッキリ渓及びグウクツ方面」、「バトラン方面」 の四ヶ所である。「合歓山方面」を例として、その一端を紹介しよう。 合歓山方面の探検には、警察から 290 名の探検隊が編成されたほか、軍隊か らも将官と歩兵 1 個中隊約 130 名が参加し、佐久間総督が警視総長、副官、秘 書官、護衛 30 名を率いて参加するという大規模なものであった。この年の春 実施された合歓山方面探検では、天候険悪のため多くの凍死者を出したため、 毛布等の防寒対策に加え、台北測候所から毎日気象通知の電報を受取れるよう に手配している。9 月 19 日台北を出発、埔里を経て、霧社の奥の立高、三角 峰を経由、23 日に桜ケ峰に到着した。桜ケ峰は翌年の作戦の際、糧食等の保 管庫が設置されるなど重要拠点となった。ここから合歓山南方を目指して進む。 「敵蕃に発見せられざるため」濫りに銃を発射したり、大声を出さないように との注意が出た。焚火も物陰で、という按配である。9 月 24 日、合歓山南方 約 3 千メートル、標高 9,520 尺(2,885 メートル)の大森林が飲料水、燃料、 防風などの好条件を備えた土地であることがわかり、宿営の設備に着手した。 探検隊は 9 月 29 日に合歓山の頂上に到達、さらに 10 月 1 日には、北合歓山の 標高 1 万 1,200 尺(3,394 メートル)の山頂に立ち、「久しく疑問なりし」中央 山脈の各峰の関係が始めて分かった、と記されている。しかし、き[き=草冠 +寄]莱主山北峰は全山峻険な岩石を以て成り、渓谷上流は傾斜が急でいたる ところ断崖絶壁があり、歩行も輸送も困難な地形の連続であった。10 月 8 日 帰府。 探検はほとんど登山であり、合歓山、き[き=草冠+寄]莱主山北峰、能高 山、き[き=草冠+寄]莱主山など、主な峰々が登頂された。 「タッキリ渓及びグウクツ方面」の探検は、タッキリ社「総土目」のハロク・ ナウイ、コロ社「土目」のピシャウ・パワン(ハロクの娘婿)と交渉して「蕃 社」内部からの調査であった。ハロクの別邸に至る道には、ウィンチェスター 15 連発銃、モーゼル銃を携帯し、鋭利なる蕃刀を提げたタロコ青年たちが警 33 「太魯閣蕃の沿革」、『太魯閣蕃調査事項』台湾総督府蕃務本署、1914 年、59 ページ。 34 「太魯閣蕃ノ沿革概要」、『太魯閣蕃事情』台湾総督府蕃務本署、1914 年、87 ページ。
戒しつつ出迎えた。さらに行程 2 時間半、ハロクの本宅にも探検隊は赴いてい る。部落内には、「本島人鍛冶職工」の工場があり、海軍が発射した不発弾を 加工する技術に一向は驚いている。この調査で、タロコ蕃の総数は 74 社、1,466 戸、人口 7,254 人、うち壮丁 1,815 人、という数が報告されている。1,815 人が タロコ戦力、と把握されたわけである。 3-4 タロコ戦役 「タロコ戦役」は、佐久間討伐軍司令官にとって「兵要地誌なき戦争」であ った。佐久間の軍隊は、中央山脈の標高 3,300 メートル級の連山を越えて「一 大敵国」たる「タロコ蕃地」に進攻したが、事前の探検により合歓山はじめい くつかの嶺々を登頂してはいたものの、肝心の東側の地形は不明であった。連 山の鞍部を越えた地域は、太平洋に流れ込むタッキリ渓や木瓜渓の源流域であ り、尾根から渓谷へは断崖絶壁が連なっていて、道路の開鑿、吊り橋の設置、 大森林の伐採などの作業は難航を極めた。まして、「太魯閣蕃人」には多くの 性能の良い銃器があり、彼らは歴戦の狙撃の名手が揃っていた。さらに、作戦 が展開された 6 月から 7 月は、しばしば台風が襲来する季節であった。遠征軍 は「内太魯閣蕃・奥蕃」の討伐と銃器の押収を目指した。 一方、太平洋側の花蓮港からは、「太魯閣蕃討伐警察隊」が「タッキリ渓方 面警察隊」と「バトラン方面警察隊」の二手に分かれて、それぞれタッキリ渓 と木瓜渓を遡り、「外太魯閣蕃」の各社を討伐しながら、西側から渓谷沿いに 下ってくる軍隊との合流を目指した。 出動人員は、以下のようであり、東西からそれぞれ 1 万人の部隊が、山砲、 臼砲、機関銃等の火砲を備えて「入蕃」したのである。これに対する太魯閣蕃 (タロコ族)は 97 社、戸数 1,600 余戸、人口 9,000 人余、壮丁約 3,000 人と推 定されていた。 陸軍部隊 3,108 名 人夫 6,800 名 警察部隊 3,127 名(うち隘勇 1,008 名) 人夫 6,100 名 この戦役の結果をまず見てみよう。6 月 1 日の行動開始から佐久間がセラオ カフニの本営を引揚げた 8 月 13 日までの 74 日間の軍警察の死傷者、疾病者数、 及び 5 月 24 日から 8 月 22 日までの押収銃器数は以下のとおりである。 陸軍部隊 戦死 将校 3 下士以下 58 小計 61 名 負傷 将校 6 下士以下 119 小計 125 名 合計 陸軍死傷者 186 名
警察部隊 戦死 15 負傷 4 合計 警察死傷者 19 名 作業中の死者 8 名 負傷 25 名 合計 33 名 赤痢 20(11)[注]( )は死亡者、以下同じ、疑似赤痢 264(24)、 熱帯赤痢 10(1)、腸チフス 3(1)、疑似腸チフス 4(3)、 ツツガムシ病 16(3) 合計患者 317(43) 押収銃器数 外社蕃 788 挺 内社蕃 286 挺 奥蕃 114 挺 合計 1188 挺 大戦争の結果が 1188 挺の銃器押収である。また、陸軍部隊の損害は警察部 隊に較べて非常に多いことが分かる。これに対して、太魯閣蕃側の死傷者は明 らかではない。ここに資料上の問題をひとつ指摘しておきたいのは、『理蕃誌 稿』第 3 編下巻「大正 3 年太魯閣討伐」の部分の記述が、警察部隊に多く充て られていて、陸軍部隊の行動にはわずか 20 ページしかなく、しかも実際の戦 闘に関する記述はきわめて少ないことである。「タロコ戦史」としての『理蕃 誌稿』はまことに中身が薄く、しかも伊能嘉矩のような史眼も感じられないの である35。 タロコ族側の戦いぶりは、それでも警察側の記述で分かるところがある。タ ッキリ社のハロク・ナウイ、コロ社のピシャウ・パワン、バトラン社のカラウ・ ワタンなどに関する記述を見ると、彼等は戦闘と交渉を併用する駆引きを展開 しているように見える。日本軍との戦いにおいて、勝敗の帰趨ははじめから彼 等には見えていたに違いない。一族が全滅するような戦法をとらない。日本軍 を待伏せして狙撃しながら、不利と見ると引揚げるといったゲリラ戦である。 それでも、6 月はじめの深水大隊とサカヘン社(同名二社あり、バトランでは なく内太魯閣に近い社と思われる)、セラオカフニ社、カラバオ社付近の戦闘、 6 月中旬から月末にかけてのクバヤン社、シイパオ社、ムコモヘイ社周辺の戦 闘は激烈なものがあった。これらの戦闘での日本側の戦死者については、『靖 国神社忠魂史』36に氏名、階級、出身地が記載されている。 3-5 セラオカフニ-佐久間の負傷- 「タロコ戦役」が「佐久間の戦争」であったことを象徴するのが、セラオカ フニでの佐久間の負傷である。『佐久間左馬太』はこう記述している。 35 軍隊警察関係の写真帖としては、『大正三年太魯閣蕃討伐軍隊記念』(下田正、下田写真館、 1914)、『大正三年討蕃軍隊記念写真帖』(柴辻誠太郎、遠藤克己、台湾日日新報社・遠藤写 真館、1914)、『大正三年討蕃凱旋記念写真帖』(書誌事項不明)、『討蕃警察隊記念写真帖』 (台湾日日新報社、1915)がある。北村嘉恵北海道大学准教授のご教示に感謝する。 36 『靖国神社忠魂史』第 5 巻、靖国神社社務所、1933(昭和 8)年、57~58 ページ。
「六月二十六日の朝食後七時半頃であった。総督は前進の新道路を巡視のた めに、安井副官、宇野警視、師井警部補、其の他護衛の数名を随えて、司令部 の幕営を出た。(略)辛うじて片足を容るゝに足る如き獣逕に迄も及ばぬ程の 険路である。総督も其の際、一方の足もて僅かに鑿り開かれた岩上を履み、逕 が狭いので蟹の横匍いのようにして通るにあたり、片足を転ずる途端、傍への 岩へ手をかけられて力にすると、図らざりき、其の岩は脆くも崩れて、体重の バランスは失われ、約二十間計りの断崖の下に墜落されたものである37。」 一時は人事不省に陥った佐久間だが、一命を取り留めた。もっとも「何うし ても此処で死ぬ、何うあっても動かぬ帰らぬ」と言い張ったそうである。こう して佐久間は稲垣博士(総督府医院医長)と村上軍医部長の治療を受けながら、 8 月 13 日の撤退までの 49 日間、ここセラオカフニで全軍の指揮をとったので ある。その昔、落馬が原因で休職となり、日露戦争に出征できなかったことを、 あるいは佐久間は思い出しもしたろうか。佐久間負傷のニュースは各方面の憶 測を呼び、29 日からありのままに公表することになったという 38。佐久間の 負傷の少し前 6 月 19 日、若宮侍従武官が軍司令部を訪れ、佐久間総督に対す る聖旨の伝達等を行った。この時期、侍従武官はしばしば台湾にきている。 6 月 30 日、7 月7日と太魯閣地方は猛烈な暴風雨となった。佐久間の営舎を はじめすべての営舎が吹き飛ばされ、炊事もできず絶食となった。道路が崩れ、 鉄線橋が流され、電話線が普通となり、交通・通信が途絶した。遭難者も出た。 従軍記者の楢崎太郎は、佐久間についてこんな観察をしていた。 「毎もながら佐久間総督の精励には実に驚くべきものがある。行軍中も草叢 の深いところに差掛かれば、自からマッチを摺って萱を焼き払う、渓流の渡渉 には股まで浸かる奔流を物ともしないで、いつも先頭に立って進まれる。滞陣 中は毎朝早起きして伐材に、道路偵察に、何に彼に将卒と同じ役務に就く39」 佐久間の負傷は、彼の「性格」が招いた災いだったといえなくもない。1915 (大正 4)年 5 月台湾総督を辞任した佐久間は仙台に帰ったが、その年 8 月 5 日に亡くなった。享年 72 歳。彼と懇意の医師は負傷が原因と見ている。 おわりに 37 前掲『佐久間左馬太』、773~774 ページ。 38 佐久間の負傷と死をめぐっては、原英子「佐久間左馬太台湾総督に関するタロコ族の記憶 と「歴史」の構築」『台湾原住民研究』10 号、2006 年、原英子「タイヤル・セデック・タ ロコをめぐる帰属と名称に関する運動の展開(1)(2)(3)」『台湾原住民研究』2003、2004、2005、 がある。北白川宮能久親王が病死ではなく、殺害であったという説を想起させる。なお、「セ ラオカフニ」を原氏は「シラオカフニ」と表記されている。 39 楢崎冬花(太郎)『太魯閣蕃討伐誌』、1914(大正 3)、232 ページ。
1915 年 5 月 1 日、公立台中中学校が開校した。この学校の設立経過と背景 を考察した若林正丈氏は、その設立にあたって台湾漢族の地主資産階級である 林献堂や辜顕栄の教育要求があり、彼等はこの要求を実現するために、佐久間 総督の理蕃事業への協力を取引条件にしたこと、そのひとつが寄付であり、い まひとつが「保甲」からの人夫徴用であること、そして、佐久間にとって土着 地主資産階級の協力を確保することが必要不可欠であったことを明らかにし た40。その後、前圭一氏は、この保甲人夫徴用の実態を台湾総督府公文類纂の 文書を使って詳細に論じている41。 佐久間が直面したさらに大きな問題は理蕃事業の財源の捻出で、五ヵ年の最 終年度にあたる大正 3 年度予算折衝では、大蔵省との折衝において中央政府予 備金からの補充を拒否されたばかりか、総督府の重要財源である砂糖消費税を 国庫に移譲せざるをえなくなったのである42。ときに政府は「大正政変」で出 現した山本権兵衛内閣であり、内務大臣は原敬、大蔵大臣は高橋是清である。 この措置は言うなれば「財政上の内地延長主義」への道であった。 佐久間の理蕃事業は、台湾統治政策の構造的変化への地殻変動を準備したの である。 40 若林正丈『台湾抗日運動史研究』(増補版)、研文出版、2001 年、所収「総督政治と台湾土 着地主資産階級-公立台中中学校設立問題、1912-1915 年-」、初出は『アジア研究』29 巻4 号(1983 年 1 月)。 41 前圭一「大正三年太魯閣原住民討伐陸軍部隊における保甲人夫徴用(1)(2)」『大阪経済法科 大学論集』93 号(2007 年)、94 号(2008 年)。 42 この折衝について前掲注(39)の若林論文は論及し、その際佐久間総督と内田民政長官の間の 電報について同書375 ページの注(74)で触れている。この資料は、当時戴國煇氏が所蔵し ていたもので、現在は台湾・中央研究院人文社会科学総合図書館・戴國煇文庫に所蔵され ている。