第三章 惣五郎の義民像形成の過程
第二節 佐倉藩主の宗吾廟建立
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は薄い。だが、いずれにせよ、惣五郎の祟で藩主正亮は恐怖になったために百 姓の代表である惣五郎を祀ることも、百姓が惣五郎の対領主に対して強く共感 していたとした。
さらに、惣五郎の戒名に関することを述べる。以下の宗吾霊堂の縁起で、惣 五郎が東勝寺に祀られる理由、及び正亮が戒名を贈ったことが記されている。
……直訴の禁を犯したる罪に問はれ承応二巳年(一六五三)八月三日公 津ケ原に於て父子重刑に処せらる。仍之菩提寺東勝寺住職等其の遺骸を 乞うてこの地に父子を合葬す……因みに宗吾の本名は元惣五郎なりしも 宝暦二年(一七五二年)佐倉領主堀田正亮より宗吾道閑信士と諡号さら 以来宗吾と称するに至れり……(東勝寺過去帳)48
また、児玉幸多は人物叢書『佐倉惣五郎』に、『木内惣五郎実録』49のなか に惣五郎の戒名に関する内容を引用した。この内容は要するに道閑は東勝寺で 葬った時の諡で、宝暦 2 年堀田正亮が百回忌に「宗吾道閑居士」の戒名を与え た。公津村の惣五塚にも石塔を作って、その時に宝珠院が口の明神の別当であ って、惣五郎を導師として供養を営んだ。そこへ東勝寺が意義を申し立て、成 田山新勝寺の仲裁で、その石塔が撤去され改めて「涼風道閑居士」の石塔が建 った。
第二節 佐倉藩主の宗吾廟建立
3.2.1 江戸中期の村落社会
最も注意してしておきたいのは、江戸中期の村社会に階層間の対立が激化 されたことである。前節の述べた強訴・徒党・逃散に対する禁令は徳川幕府が はじめてこういう行為に向けて明確な禁止の意志を表すお触れである。その後 の明和期(1764~1771)に、明和 4 年「徒党逃散之百姓他領江願出候節取計方 御書」・明和 6 年「諸国百姓徒党之儀ニ付御触書」・明和 7 年「徒党強訴逃散訴
48 佐倉市史編さん委員会編『佐倉市史 巻 1』、佐倉市、1971 年、281 頁。
49 児玉幸多『佐倉惣五郎』、 吉川弘文館、1972 年版、167 頁。
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人之儀高札」・明和 8 年「強訴徒党御府内江立入もの御仕置之儀御触」と、一 連の禁令が出される。それが社会の不安定な実態を表す。
十八世紀の初頭に年貢の定量化や固定化の傾向があった。享保の改革の一環 として定免法が導入され、寛延 2 年 5 月全面的に施行する。基本年貢の負担量 の増大はしない。江戸初期の年貢率を減るため訴願を起こる状況とは違う方向 になる。
青木虹二の『百姓一揆総合年表』50所載の百姓一揆の原因や要求項目を中心 として考察すると、百姓の訴願行為の理由に以下の 4 点は多数であることろま とめられる。①凶作のため貢納延期や夫食米を要求、②過重な新税や雑税(小 物成)・加役に対する反対、③藩役人・代官・村役人の不正、④専売及び問屋 の独占、などの理由がある。
①と②には定免法が施行した後、社会に対する影響があったと伺われる。凶 作に伴う各地で百姓一揆が起こった。天明 3(1783)年を例として、当年の 7 月に浅間山の大噴火が発生して、噴火による冷害のため諸国大飢饉になった。
噴火が起こった後、江戸の米価が同 2 年(1782)の一石金 1.14 両から金 1.35 両に成長した。518 月は白河藩、9 月は安中藩、12 月は忍藩・佐倉藩、及び同 4(1784)年 2 月には武蔵国の幕領における百姓が強訴と打ちこわしをおこな った。52また定免法によって年貢率が固定されたが、幕府や藩からの収奪は改 めて新規小物成を増やした。さらに藩の普請の経費が不足であれば百姓に加役 をおこない、すなわち年貢以外の税目が新設した。
③に関して、百姓と藩役人や代官の関係はもとより被支配者と支配者という 対立関係である。だが第二章の述べたとおり、庄屋などの村役人は百姓身分で、
百姓と領主の間のパイプである。過去の研究によって、江戸初期の百姓一揆の 代表的な形態は代表越訴である。庄屋が百姓のために自らを犠牲して領主に訴
50 「江戸幕府年貢収納表」『日本史総覧Ⅳ 近世Ⅰ』、新人物往来社、1984 年、488 頁。
51 「近世米価一覧」『日本史総覧Ⅳ 近世Ⅰ』、新人物往来社、1984 年、602 頁。
52 「百姓一揆一覧」『日本史総覧Ⅳ 近世Ⅰ』、新人物往来社、1984 年、624 頁。
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願を行うのは、史料せ見る限りでは本当に事実かどうかまた疑問があるが、そ れが百姓にとって理想的な村役人像ではないか。深谷克己は『百姓一揆の歴史 的構造』に、宝永 7(1710)年甲州巨摩郡有野村の名主・長百姓らが作った「連 判定書」を提出した。53小百姓が幕府や名主・長百姓と対抗した。その第五条 では「田畑小作等入賄」という対策を約束した。この史料によって、小作問題 が農民内部の対立の原因とみられる。
村請制によると、小百姓が年貢を負担できないまた逃散する場合、普遍的な 状況は庄屋が小百姓のかわりに弁済することになった。また寛永 20(1643)
年の「田畑永代賣御仕置」により、土地の売買は禁止されたが、変わって土地 が村役人に金を貸し与える質地になった。その質地を質流れにさせて村役人の 土地にする場合もすくなくない。こういう状況によって、村役人は借金・質地 関係などの理由で小百姓と対立することになった。また④の場合に、村役人及 び上層百姓らは江戸中期の商業発展の一つの中心である。剰余の土地があった ため、経済作物を植えられる。さらに経済作物の耕作の盛んな処では、上層農 民も問屋制家内工業の問屋商人として活躍している。つまり百姓内部が豪農と 小作人に大きく分かれていく。
諸藩の場合、十七世紀後半で農民が百姓一揆を起こすことによって本途物成 からの収入が劣化され、また江戸在府の費用が藩の財政にとっては重い負担で あり、諸藩は新たな財源を発展しなければならない。専売制度を導入した藩さ えもある。小百姓には強制的に経済作物を栽培させるほか、上層農民もこの機 会を利用して藩と小百姓との間で特権商人グループを組織していた。このよう な背景の下、百姓内部の分裂がさらに激しくなった。もとの上層農民は中立的、
または小百姓のために藩と闘争すると期待されたが、徐々に領主側の立場にな る。この時期以降、村役人も百姓一揆の闘争対象になる事件が多くなった。
53 深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』校倉書房、1979 年、324 頁。
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3.2.2 義民佐倉惣五郎像の確立
伝説と違って、堀田正信が万治 3 年に除封されたのは惣五郎と全く無関係の 事件であった。だが、児玉幸多は東勝寺宗吾霊堂所蔵の「惣五郎分」の名寄帳 を考察し、惣五郎の実存在を確認した。その名寄帳を作った役人の名前と照合 すると、「惣五郎分」の作られた時点およそ承応 3(1654)年に極めて近い時 期である。54「惣五郎分」として田畑合わせて約三町六反・石高廿六石九斗二 升の記載がある。所持分は名主に相応しい、惣五郎という上層農民がいたこと が確認された。
さて、惣五郎が藩の義民として選ばれた原因は何だろうか。藩主側及び百姓 側から別々に論じたい。
まずは藩主堀田正亮の考えを整理しよう。
正亮は堀田家の子孫で、再び佐倉の土地に戻った。第一節に述べた惣五郎伝 説が佐倉に広がることは正亮にはわかっていた。惣五郎の祟で堀田氏が滅亡し たという伝承は当時の領内に一般的に信じられていたのである。「偶像化され た先祖の義民を神に祀ることによって、そこに郷党農民の亀鑑を見いだし、現 在に生きる人びとの意識を高めようとする意図ないしは必要性が、宝暦~明和 期のこの村の農民の間に強く存在したのではないか」と横山十四男が指摘し た。55惣五郎のような人物を義民とすることによって、藩主の器量の大きさが 宣伝効果を得られる。
さらに将門山の惣五郎宮を改めて造営して、口の明神として祭って、諡号ま で贈った、一連の行動は一種の示威行為ではないかと考えられる。伝説では惣 五郎によって前期堀田氏が改易したが、正亮が自らの先祖と対決した惣五郎を 神扱いする。これは自分が神とされる惣五郎より高い権威と大きい権力をもっ ていることを示す。
54 児玉幸多『佐倉惣五郎』、 吉川弘文館、1972 年版、78-92 頁。
55 頼祺一「家中騒動と質地騒動」『日本民衆の歴史 4 百姓一揆と打ちこわし』、三省堂、1974 年、150 頁。
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また、正亮が佐倉に封入した直後、前述の成田筋の強訴が起こった。18 世 紀の半ばに小百姓は支配者に対して不満や衝突が高揚されている。このような 時期に、堀田氏のように領主が義民の代表を祀った。領内の不穏状態と百姓の 対抗意識を緩和させる効果も果たしたと考えられる。
一方、百姓側にとって、惣五郎が藩の義民になる意義は何だろうか。まずは
一方、百姓側にとって、惣五郎が藩の義民になる意義は何だろうか。まずは