第三章 惣五郎の義民像形成の過程
第一節 惣五郎直訴物語の形成
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第三章 惣五郎の義民像形成の過程
第一節 惣五郎直訴物語の形成
3.1.1 後期堀田氏の発展
万治 3(1660)年に正信が除封されたと同時に、同母の弟、堀田家の三男の 正俊は上野安中(今群馬県安中市)に転封された。正俊は寛永 13(1636)年 に将軍徳川家光の命令で春日局の養子になった。正俊と幕府関係は密接であり、
正盛の人脈を受けたとも言えよう。おそらくは正俊が選ばれた理由であろう。
のち正俊が四代将軍綱吉の信頼を得て、天和元(1681)年 12 月には大老に就 任した。貞享元(1684)年に正俊が暗殺されるまでの加増は 13 万石に至って、
正信時期を超えた。
正俊の死後、貞享元年 10 月、子の正仲が遺領のうちの十万石を継承し、弟 の正虎に二万石、俊季(正高)に一万石を分け与えた。元禄 7(1694)年正仲 が亡くなった故で、正虎は養子として入った正仲の弟となり、家を継承した。
正虎は享保 13(1728)年 10 月に大坂城代となり、翌年の 1 月に江戸から大坂 に向かった途中で死去した。
遺領は孫の正春が継いだが、正春は 2 年後の享保 16(1731)年に亡くなっ た。正俊の四男正武の子である正亮は養子に入って家督を継承した。延享元
(1744)年 5 月には大坂城代となった。翌年の 11 月に老中に就任すると、延 享 3 年に松平乗祐と入れ替わって六万石で佐倉に転封した。
江戸中期から、奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、西丸老中などを 経て老中になるコースが成立した。43堀田氏は大老となった正俊以降、正虎も 大坂城代を任じられ、老中への道を歩いていた。また正亮も老中を務めた。の ちの子孫の中で、正篤は天保 9(1838)年に老中となり、正順もこのパターン で京都所司代の高位についたが、病気のためやめた。ここから堀田家が幕末ま
43 『国史大辞典8』、「奏者番」の条。吉川弘文館、544 頁。
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で、将軍家とはかなり親しい関係をもって、幕政にも参加できたようだ。
3.1.2 惣五郎百回忌
出羽山形藩主の堀田正亮は延享 3(1746)年正月に、下総国印旛・千葉・埴 生・海上・匝瑳・香取、上総国山辺・武射・長柄・夷隅・望陀・市原のあわせ て 12 郡の領地に移され、佐倉藩主となった。当時の正亮は老中である。
寛延 3(1750)年 1 月 17 日、成田筋44の 80~90 人の百姓が年貢を減らせと要 求し、佐倉城へ強訴した。この事件の激発で、寒川村(今の千葉市)周辺でも約 三十人の名主が集まったが、代官の説得で退去している。事態が最も激しくな った 20 日には、幕府側から以下の強訴禁止のお触れが出た。
強訴徒党逃散等之儀ニ付御触書
御勘定奉行江 御料所國々百姓共、御取箇并夫食種貸等、其外願筋之儀ニ付、強訴徒党 逃散候儀ハ、堅停止候処、近年御料所之内ニも、右躰之願筋ニ付、御代 官陣屋江大勢相集り、訴訟いたし候儀も有之、不届至極ニ候、自今以後、
厳敷吟味之上、重キ罪科ニ可被行候條、御代官支配限り、百姓共江兼々 急度申付置候様、御代官共江可被申渡候、45
要するに、百姓が年貢と夫食種貸のため起こそうとする強訴、徒党、逃散を 幕府が禁止したのである。この命令発布以前は無罪で、以後は調査して、頭取 の者と共犯者を重罪に処すことにした。
この禁令は佐倉藩で起こった強訴に対して出された。当時老中であった佐倉 藩主の堀田正亮の対応である。46事件は後農民側から町預けとなっていた農民 の赦免を願い出たのに対して、2 月 9 日藩では未納年貢を月末までに納めるよ
44 成田筋:成田方面である。今日の成田市。『佐倉風土記』によって、「成田筋。亘於印、播.埴 生.香取三郡。而埴生居多。印播次之。香取最少。其界西至印播江東涯。東至駒井野。相違二 十四里。北至滑川。而界利根川。南至久能。相違三十里。乾至安食、須賀、矢口。而界利根川。
巽至根木名、畑田。接于上總國。相距三十六里。坤至酒酒井接於佐倉市廛。艮至名木跨于香取 郡。相距四十二里」。
45 法制史学会編、石井良助校訂『徳川禁令考 前聚』二八三三号、創文社、1981 年、196 頁。
46 児玉幸多『佐倉惣五郎』、 吉川弘文館、1972 年版、168 頁。
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う申し渡して農民を赦免した。禁令中の「其近年御料所之内ニも、右躰之願筋 ニ付、御代官陣屋江大勢相集り、訴訟いたし候儀も有之、不届至極ニ候」から して、幕府と藩側はこの事件に関する農民を審判する意図がなかったといえよ う。そこで未納分の年貢を納めると被逮捕者を赦免して事件は終息した。強訴 は終わったが、このような佐倉藩 31 ヶ村に波及した事件の規模は正亮に衝撃 を与えた。
一般的に惣五郎の事件が発生したのは承応 2(1653)年で、宝暦 2(1752)
年はちょうと惣五郎の百年忌である。百年忌の前、惣五郎の物語が佐倉の百姓 の間に普遍的に信じられていた。おそらく正亮はこのような状態を理解するた め、惣五郎を明神として祭って、戒名を贈ることで農民の信頼感を獲得しよう としたようだ。
堀田正亮が口の明神を建立したことに関して、鏑木行廣は『佐倉惣五郎と宗 吾信仰』のなかで、二つの伝説を提出した。47まず十方庵敬順の『遊歴雑記初 編』が記載した内容である。正亮は初めて佐倉に行った日の夜から、磔柱を背 負い左右の脇腹を血に染めた惣五郎が枕元に自分の怨みを正亮に語った。正亮 は恐怖で、身体が弱くなったので、将門山に「宗五明神」を建てて怨霊を鎮め ようとした。また、平野知秋が著した『佐倉藩雜史』にも、正亮が藩主となっ たと佐倉へ行った時惣五郎という老人の霊に出会ったというエピソードが載 せられている。
『遊歴雑記初編』は文化・文政期(1804~1829)に、隠居の僧十方庵敬順が 江戸内外の名所旧跡を訪ねた遊記である。『遊歴雑記初編』が記していた正亮 の伝説は郷里の平野知秋は幕末に佐倉藩主正倫につかえた家老平野縫殿の号 である。縫殿が『佐倉藩雑史』を編纂した時点は明治以降、それに地方の伝説 で編成させた性格が強い。このように正亮の怨霊による口の明神建立説の根拠
47 鏑木行廣『佐倉惣五郎と宗吾信仰』、崙書房、1998 年、160 頁。
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は薄い。だが、いずれにせよ、惣五郎の祟で藩主正亮は恐怖になったために百 姓の代表である惣五郎を祀ることも、百姓が惣五郎の対領主に対して強く共感 していたとした。
さらに、惣五郎の戒名に関することを述べる。以下の宗吾霊堂の縁起で、惣 五郎が東勝寺に祀られる理由、及び正亮が戒名を贈ったことが記されている。
……直訴の禁を犯したる罪に問はれ承応二巳年(一六五三)八月三日公 津ケ原に於て父子重刑に処せらる。仍之菩提寺東勝寺住職等其の遺骸を 乞うてこの地に父子を合葬す……因みに宗吾の本名は元惣五郎なりしも 宝暦二年(一七五二年)佐倉領主堀田正亮より宗吾道閑信士と諡号さら 以来宗吾と称するに至れり……(東勝寺過去帳)48
また、児玉幸多は人物叢書『佐倉惣五郎』に、『木内惣五郎実録』49のなか に惣五郎の戒名に関する内容を引用した。この内容は要するに道閑は東勝寺で 葬った時の諡で、宝暦 2 年堀田正亮が百回忌に「宗吾道閑居士」の戒名を与え た。公津村の惣五塚にも石塔を作って、その時に宝珠院が口の明神の別当であ って、惣五郎を導師として供養を営んだ。そこへ東勝寺が意義を申し立て、成 田山新勝寺の仲裁で、その石塔が撤去され改めて「涼風道閑居士」の石塔が建 った。