第一章 近世前期の農村支配構造
第二節 農村支配の基本的構造
國
立 政 治 大 學
‧
N a tio na
l C h engchi U ni ve rs it y
17
第二節 農村支配の基本的構造
1.2.1 村方三役の成立
幕藩体制の理想では、支配階級である武士階層は村から離れた城下町から村 を支配する。村では農民だけが存在して、よりフラットな社会になった。村で 領主支配の末端として、村の行政を担うのは村役人である。通常は「村方三役」
と呼ばれ、庄屋(地域によって名主・肝煎でも称する)・組頭(年寄)・百姓代 の三つの役職である。老中―遠國奉行、老中―勘定奉行―代官という幕府職制 による地方行政機関は、多く在地の被支配身分による行政実務を支えて、日常 的行政を實行していた。こういう人々は、武士身分を象徴する苗字帯刀の免許 あるいはほかの御用の標識を付与された。幕藩領主が非武士身分の者と協同し て、支配の貫徹を尽くす仕組みと見なされる。
兵農分離の後に確立した村請制度は、村役人が年貢・諸役の収納の責任を取 る制度である。地域において、一定程度の自治・自律が存在しなければ、實行 ができなくなる。けれども、この自律性は幕藩体制にとって、不安定な要素で ある。ここから村役人と幕藩領主の間がいかに結合したかは課題となろう。
豊臣秀吉は太閣検地を施行していくことで、村を行政の基本単位と決めて、
庄屋を村役人であることと確認した。中世史の研究者によって、近世の庄屋が 統一政権によって成立した新しい機構ではなく、大和国には恐らくとも十四世 紀末には年貢公事の納入実務者で惣庄の利害を代弁する「庄屋」が見られた。
戦國期には近畿地方の荘園に広く存在していた。中世においての「庄屋」は村 の代表として領主に対抗する「村請け」「地下請け」11を行い、自治的な性格
11 『国史大辞典 6』吉川弘文館、721 頁。地下請:中世荘園における年貢請負制度の一つ。荘 園年貢の請負には鎌倉時代の地頭請に始まり、守護請・地下請などがあり、こうした荘園年貢 の請負を請所とよんでいる。地下とは本来は宮中で昇殿の勅許を得ない官人をいい、殿上人に 対する呼称であるが、ここでは荘園における在地の名主・百姓をさしている。地下請とはこう した名主・百姓が共同して荘園の年貢・公事を請け負うことをいっている。故に「百姓請」と もいわれ、荘園内の番頭らが請け負った場合には「番頭請」ともよばれた。毎年一定額の年貢 納入を請け負った地頭や守護や地下は、地の支配の全権を委任された。その年貢を請料または 請口といい、豊作・凶作にかかわりなく一定しているのが原則であった。
‧ 國
立 政 治 大 學
‧
N a tio na
l C h engchi U ni ve rs it y
18
を持っている。
近世の領主は在地の有力百姓を庄屋に任命し、その在地の影響力を利用して 支配を浸透させようとした。また庄屋の選出方法は村運営の家格をもついくつ の家の間で、互選によって庄屋を選出して、その結果によって領主の任命を受 けることになった。だが、近世中後期になると、小百姓層の台頭に従って村政 参加の権利を要求し、村のすべての百姓家が選挙権と被選挙権を持てることに なって、次第に家格制が崩壊されていった。
組頭は年寄・長百姓とも呼ばれ、本来は五人組の組頭を示していた。五つの 世帯を一組になして、組員は相互に連帯責任を負わせる監督制度である。最初 はキリシタン禁制や治安維持のために設置したが、のちは年貢・諸役の徴収を 含めて百姓支配の一環として、十七世紀半ばには各地に置かれることになった。
寛政六(1794)年に、高崎藩の郡奉行である大石久敬が藩の命令を受け、当時 の地方制度を記録した『地方凡例録』には、組頭は名主の下役として領主や村 の用事を務めると記している。鈴木ゆり子の研究によれば、近世初期の村にお ける組頭は公に公認された役人ではなく、むしろ領主支配の末端として庄屋の 専断を抑えるため、百姓側から成立した役職ではないだろうかと述べてい る。12
水本邦彦が慶長 13(1608)年摂津柱本村と寛永 15(1638)年和泉日根野村 の史料13を提出して、そこから庄屋と年寄(=組頭)の関係・庄屋と年寄の性 格の差異・年寄の役割を分析した。要するに、庄屋の成立は年寄より遅い、初 期の年寄は系譜的には一般的に中世末惣村段階の地侍に遡りうる。近世初期の 地方支配はまだ未熟で、庄屋が年寄の中から選ばれ、支配の拠点として新たに 貢納夫役の独占的な権限を与えられた。前期村方騒動(寛永末期~慶安期)の 研究では、年寄主が有力百姓の中に主として、反庄屋闘争の担い手であった。
12 藤井譲治編『日本の近世 3 支配のしくみ』中央公論社、1991 年、244 頁。
13 水本邦彦『近世の村社会と国家』東京大学、1987 年、20-21 頁。
‧ 國
立 政 治 大 學
‧
N a tio na
l C h engchi U ni ve rs it y
19
この時期の庄屋と年寄の組成が重なっていて、年寄は近世中・後期の村役人で はなかった。年寄が村役人として確立したのが寛永期に至って、年寄は庄屋と 共に年貢収納など公務を務めることになったことが史料に見える。14
百姓代は村民を代表して、庄屋(名主)・組頭(年寄・長百姓など)による 村政を監査する役を勤めた。『地方凡例録』は百姓代は名主・組頭以外、その 村における大高持ちの百姓で、入札による選出、基本的には無給職で、一つの 村に二三人居ることもある。享保 9(1724)年信濃佐久郡五郎兵衛新田で百姓 代の記載がある。おおむね江戸中期以降村政をめぐる争いをきっかけにして百 姓代は広く出現し、小百姓からの百姓代選出を要求した記載もある
本論では、名主(関東地方の称号、=関西地方の庄屋=東北地方の肝煎)と組 頭(年寄)に関する法律と史料は百姓代より多いので、名主と組頭を主として 論じる。慶安 2(1649)年 2 月 26 日の「諸国郷村江被仰出」に、名主と組頭 について、以下三条の要求あるいは前提がある。
一 公儀諸法度を怠り、地頭代官之事をおろそかに不存、扨又名主組頭を ハ真の親とおもふへき事
一 名主組頭を仕者、地頭代官之事を大切に存、年貢を能濟、公儀御法度 を不背、小百姓身持能仕様に可申渡、扨又手前之身上不成、萬不作法に 候得ハ、小百姓ニ公儀御用之事申付候而も、あなとり不用物に候間、身 持を能致し、不便不仕様に常々心掛可申事、
一 名主心持我と中悪者成共無理成儀を申かけす、又中能者成共依怙贔屓 なく、小百姓を懇にいたし、年貢割役等之割少も無高下ろくに可申渡、
14 水本が提出した史料:
(a)一、御蔵詰米之時者、庄屋年寄行事御蔵へ罷出肝煎詰仕舞可申候、若隠託申義候者可為 曲事(寛永 11・正 平野藤次郎触)(44)
(b)一、小百姓之内我まゝを申、庄屋年寄之申事を不致承引、郷中をさはかし、いわれさる 公事之くわたていたすもの於有之者、頭人ハ不及申す、組之者迄曲事に可申付事(寛永 14・
2・27 曽我古祐定)(45)
(c)一、百姓公事出来及裁許候時ハ、御公役之妨、地下中之痛勿論之条、庄屋年寄并与中以相 談、相宥之可申候(慶安 2・正・11 今井彦右衛門壁書)(46)
水本邦彦『近世の村社会と国家』東京大学、1987 年、20-21 頁。
‧ 國
立 政 治 大 學
‧
N a tio na
l C h engchi U ni ve rs it y
20
扨又小百姓ハ名主組頭之申付候事無違背念を入可申事
百姓は名主と組頭を自分の親のようにみた。また、名主と組頭自身は地頭と 代官の命令に従う、年貢を能濟する、公儀の御法度に違反する情事はないかと 要求される。名主と組頭は小百姓の贔屓になって、百姓側は名主と組頭からの 命令を服従するのが責任となった。
1.2.2 村方三役の機能
近世の村は、城下町に住んでいる武士によって支配され、文書で命令を村に 伝達する。その内容は公的な年貢村役人の機能を主に次の三の部分に分ける。
第一は領主に年貢・諸役を上納する責任を負わせる。年貢の賦課・徴収は村 役人に任されていた。領主は検見15によって、災害などの免除分を村高から差 し引いた「毛付高」に対して何パーセントの割合で年貢高を決めて、代官を通 して、村役人に免札(年貢割付状)を発給した。さらに村役人は百姓一人一人 の持高で年貢率を決めて、それぞれの負担高を確定した。村で割付けた年貢を 百姓たちは皆済期限までに庄屋に納入することになった。村役人のもとで記録 として、「御年貢通帳」が作成される。万一年貢を皆済できない村人がいたら、
多くの場合は庄屋や名主が弁済することになった。ここから、村請制の下では 村役人が弁済に相応する経済力を持たなければならないことになっている。
『徳川禁令考』巻四十三「郊野専耕者諸法度」所載の「五人組帳前書之事」
にこの部分の規定が記してある。16
一 年々御年貢内割仕候節、名主年寄惣百姓寄合、御割付之表を以、勘定
一 年々御年貢内割仕候節、名主年寄惣百姓寄合、御割付之表を以、勘定