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第四章 佐倉惣五郎伝承と変容

第一節 江戸期の佐倉惣五郎像の普及

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第四章 佐倉惣五郎伝承と変容

第一節 江戸期の佐倉惣五郎像の普及

4.1.1 歌舞伎東山桜荘子

安土桃山時代から江戸時代後期の文化文政時代までは、京都・大坂が歌舞伎 の中心だった。それは上方が中心だった人形浄瑠璃から書き換えられた演目の 数からもわかる。 文化文政時代になると、四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪 談』(四谷怪談)や『於染久松色読販』(お染の七役)など、江戸で多くの作品 を創作し、江戸歌舞伎の全盛期に向かう。天保年間になって大南北や人気役者 が次々に死去し、また天保の改革の一貫として堺町・葺屋町・木挽町に散在し ていた江戸三座と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外に移転させら れたり、五代目市川海老蔵が贅沢禁止令違反などの理由で江戸から追放された ため、一時退潮を見せた。しかし江戸三座が浅草の猿若町という芝居町に集約 されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まさ れた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定した。天保 14(1843)

年移転完了以降、明治時代までの二十数年間はいわゆる「猿若三座時代」と呼 ばれ、江戸歌舞伎の一つの区切りをなす。

天保期以降、ほかの庶民芸能も発展してきた。落語、講談といった舌(ゼツ)

工芸に代表される寄席の諸芸が江戸の娯楽として定着した時期であった。講釈 師の間に世話物が流行した。江戸時代に世間で起きた事件を題材にしている。

義理人情を中心に描いたものが数多く上演された。庶民にとっては作品の世界 が自分の生活に近いため、登場人物に同情したり親しみを感じたりできた。

また歌舞伎作品もこういう舌耕芸が世話物を取り上げる潮流に影響された。

四代目市川小団次・二代目河竹新七(黙阿弥)コンビで演じる世話物が流行し、

幕末の狂言作者の三代目桜田治助、三代目瀬川如皐も世話物の脚本を作った。

惣五郎の物語もその流行で歌舞伎の芝居に登場できた。嘉永 4(1851)年に

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三代目瀬川如皐が作った、惣五郎の義民物語を核としての七幕の通し狂言「東 山桜荘子」が江戸中村座で初演された。この年、中村座は四月の芝居「小栗判 官」で失敗、夏の芝居で景気を挽回しようとしていた。如皐はあるきっかけで

『地蔵堂通夜物語』を読んだ。それを材料として、下総佐倉領の義民惣五郎の 物語を脚色した。「東山桜荘子」の標題が示すように、背景を東山時代つまり 室町幕府の頃に直したものである。嘉永期に東山の世界といえば、柳亭種彦の

「田舎源氏」がまず名をあげた。如皐がこの脚本に、二幕ほどその「田舎源氏」

を入れていた。惣五郎を浅倉当吾、堀田上野介を織越大領政知と改名して演じ られた。浅倉当吾役四代市川小団次であった。だが、当吾のことは農民であっ て、木綿の衣裳を着て出ることも当然である。また当時の劇場関係者の間に論 議が生じて、「木綿芝居」と呼ばれた。

場割でいえば、序幕はまず高津八幡の祭礼で、百姓たちが「曾我の対面」の 村芝居をしていると、年貢上納の話があるので、その芝居が中止になる所、次 の仏光寺では代官が宗吾の妹に無体な恋慕をする所、代官役宅で宗吾が村方の 嘆願書を差し出す所、呉竹塚で幻長吉が駕破りをする所。二幕目は人丸堂及び 足利館で「田舎源氏」の筋が入り、返し代官役宅でさあ佐倉藤左衛門の召し捕 え、伏見街道で按摩の辻占という場面があり、三幕目は堀田家門訴の場につい で、足利館裏門から藤の方寝所と、「田舎源氏」の筋になり、織越玄関先で隼 人の諫言を見せ、四幕目が江戸馬喰町旅籠屋の名主の会議から、甚兵衛の渡し、

宗吾宅子別れとなる。五幕目は紅葉の賀の浄瑠璃が入って、そのあと通天橋の 直訴、六幕目が問註所で宗吾の拷問から一門の詮議があり、大詰が領主の病気、

そこへ宗吾一家の怨霊が表れる筋になっていた。61

8 月 4 日初日から、想像以上の当たりをとって、同年の 10 月まで打ち続け た。『武江年表』にも当時の様子を記載する。

61 戸板康二「佐倉義民伝 解説」、『名作歌舞伎全集 第 16 巻 江戸世話狂言集二』、東京創元新 社、1970 年、5 頁。

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秋より、猿若町一丁目中村勘三郎が芝居にて、中古下総国佐倉にて事あ りし佐倉惣五郎が事跡を狂言に取組興行、俳優市川小團次この役をつと める(柳亭翁が作の田舎源氏といふ稗史をつヾり合せたり)、見物の貴賤 山をなし、佐倉の村民も此噂をきゝ、競ふて江戸に来り此芝居を観者せ り(江戸よりも芝居掛りの者、各報賽として彼地の霊社へ詣して香火を さゝげしとぞ)。62

また布袋屋市兵衛という人は芝居に感激していたため、出版物をつくり、江 戸の町で売った。この中には、以下のような記載がある。

佐倉宗吾芝居興行中ニ、見物ニ下総の旅人参り候処ニ、小団次が宗吾の 狂言の仕打を見て感心致し、過し昔を思ひ出し、宗吾、大勢の百姓の為 ニ命を捨るに、我ハ少々の出入ニ来り不埒明、弁々と長逗留致、金を遣 ひ捨候事、余りニふがいなき事なりとて、右狂言ニつまされ候て、宿聖 天町下総屋市兵衛方へ帰り候て、其夜切腹致し死し候よし、是十月中旬 之事也

とあるように、芝居の影響で自分の生き方を悔いて自殺する人もあらわれた。

世間がこの芝居による騒ぎをしたことが見られる。

当時の巷談・街説を集めた『藤岡屋日記』は浅倉当吾役の市川小団次(俳名 子猿)のこの芝居の上演の口上の中で述べていた内容を記した。この中に、次 のような内容がある。

或夜の夢に位冠正敷白髮の老翁立出給ひ、我ハ則平親王将門の霊なり、

我子孫の下総ニ残りし在、是佐倉の宗吾也、二百年以前万民の為ニ命を 捨るといへども、神と祟められし事ハ、今正ニ人の知る処也、是へ詣づ るならバ当り狂言の瑞有らんとおしへ給ふと見れバ、是一睡の霊夢也、

覚て子猿ハ益々信心胆ニ命じ、早速作者瀬川如皐を同道致、下総差て急

62 斎藤月岑編『武江年表』、国書刊行会、1912 年、256 頁。

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ぎけり、斯て漸くさくら成宮居へこそハ着ニけり63

ここでは「平将門の子孫である佐倉宗吾」が出るのは興味深い。第四章の述 べたとおり、将門と惣五郎は怨霊伝承で共通して、惣五郎が祀られる口の明神 は将門山にある。平将門は東国の土着神の代表的な御霊である。反乱者として 殺された将門が江戸の地神として祀られた。高橋敏は「頃は幕末、黒船、悪疫、

飢饉、一揆と世は不安の中にある。人々は、御霊を畏怖する歴史的心理の中に、

はまってしまっていたのである。此の時代の流れを小団次は感じ取っていたの ではないか」と指摘した。将門の信仰によって、惣五郎という人物のイメージ をさらに観客の感覚に深化できた。64

また歌舞伎は当時の庶民芸能で、庶民の思想をよく表現できる。世話物の流 行もこの役割を表した。特に小団次は「白浪役者」と呼ばれ、盗賊の異名であ る「白浪」が彼の代名詞になったところに、彼の作品の特徴を見える。盗賊、

博徒、侠客といった下層の人物を演じて、そこから主人公が町人の身近にいる ようで、観客が自分の感情を投入しやすい。また「東山桜荘子」の場合、幕府 の物語の年代を室町時代に移っても、それは惣五郎物語であることが観客にと っては明らかな事実である。当時堀田家は老中になれる家系で、この「東山桜 荘子」を江戸で公演することは間接的政見への一つ風刺劇である。

翌年の 5(1852)年には、大坂の道頓堀で、佐久間松長軒・登与島玉和軒が 作った、同じく惣五郎物語を基づく『花雲佐倉曙』が上演した。ここでは、東 山桜荘子に比較すると、惣五郎の家柄が違い、また直訴対象は鎌倉の建長寺に 参拝の足利元氏である。「渡し場の段」と「岩橋村の段」では、渡し守甚兵衛 の話が入れられた。

嘉永 6(1853)年その後何度か改作が行なわれる中で「田舎源氏」の筋が取 り除かれた。文久元(1861)年には、江戸の守田座で河竹黙阿弥作の『桜荘子

63 鏑木行廣『佐倉惣五郎と宗吾信仰』、崙書房、1998 年、207 頁。

64 高橋敏、「佐倉義民伝と市川小団次-歌舞伎佐倉義民伝の誕生と背景」『地鳴り 山鳴り-民 衆のたたかい三百年-』、国立歴史民俗博物館、2000 年、106 頁。

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後日談』が上演されている。これが明治三十年代には「佐倉義民伝」として、

現在の筋に定着した。現在の歌舞伎でも上演される。平成 10(1998)年に国 立劇場での上演では、序幕 堀田家門内の場、同門内の場、二幕目 印旛沼渡小 屋の場、三幕目 木内宗吾の場、同裏手の場、四幕目 東叡山直訴の場、五幕目

現在の筋に定着した。現在の歌舞伎でも上演される。平成 10(1998)年に国 立劇場での上演では、序幕 堀田家門内の場、同門内の場、二幕目 印旛沼渡小 屋の場、三幕目 木内宗吾の場、同裏手の場、四幕目 東叡山直訴の場、五幕目