近世日本的百姓一揆研究:以佐倉總五郎為例 - 政大學術集成
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(2) 中文摘要 本論焦點集中在日本近世(17 世紀至 19 世紀)百姓一揆的研究,並以佐倉 惣五郎為例。佐倉惣五郎事件發生於 1653(承應二)年,名主惣五郎代表佐倉 藩的百姓進行越訴,主要訴求為降低過高的賦稅。 1752(寶曆二)年,當時的老中暨佐倉藩統治者堀田正亮,將惣五郎做為藩 公認的義民代表祭祀,並給予諡號。其後藉由話本及 19 世紀被創作為歌舞伎劇 本,惣五郎成為全國性的義民代表「佐倉惣五郎」受到祭祀及崇拜。 事件發生的當時為中近世的轉換期,本文首先藉由對豐臣政權的社會政策及. 政 治 大 至 19 世紀社會發展配合惣五郎義民像的演變,除了觀察各期百姓一揆的行動主 立 江戶初期社會政策的研究,建構出事件發生當時的社會狀況。其後各章藉由 17. ‧. ‧ 國. 學. 體,也反映江戶時期民眾及統治者的社會關係。. n. er. io. sit. y. Nat. al. 關鍵字:佐倉惣五郎. Ch. 代表越訴. engchi. 百姓一揆 1. i n U. 義民代表. v.
(3) 日本語要旨 本論は日本近世(17 世紀から 19 世紀まで)の百姓一揆研究を中心として、 それに佐倉惣五郎を例とする。佐倉惣五郎事件は承応 2(1653)年におこった、 名主の惣五郎は佐倉藩の百姓代表として越訴を行い、主な要求は過酷な税率を 下げようである。 宝暦 2(1752)年に、当時の老中および佐倉藩主堀田正亮は惣五郎を藩公認 の義民として祭って、また諡を与えた。のち、写本を作成し、惣五郎の物語が 19 世紀においてさらに歌舞伎脚本になった。惣五郎は全国的に義民代表「佐. 政 治 大 事件は起こった当時は中近世移行期で、 本文はまず豊臣政権と江戸初期の社 立. 倉惣五郎」として祀られた。. ‧ 國. 學. 会政策の研究によって、その時代の社会実態を明らかにした。その後の各章は 17 世紀から 19 世紀の社会変遷と惣五郎の義民伝承の転換を組み合わせ、各時. ‧. 期の百姓一揆の行動主体を研究して、また江戸時代民衆と政権の社会関係を表. n. al. er. io. sit. y. Nat. 明化させたといえよう。. キーワード:佐倉惣五郎. Ch. engchi. 代表越訴. 百姓一揆 2. i n U. v. 義民代表.
(4) Abstract This research aims to examine Hyakusho ikki (Peasant Revolts) in Japan’s early modern period (17th to 19th century), taking the case of Sakura Sogoro as an example. The incident took place in 1653 (承応 2) when Sogoro, a nanushi in the Sakura Domain, appealed directly to the shogun for the people with a main request to reduce heavy taxation. In 1752 (宝暦 2),Hotta Masasuke, a rojyu and the ruler of the Sakura Domain at that time, worshipped Sogoro as an officially recognized uprising martyr of the domain and gave him a posthumous name. Later, the story of Sogoro appeared in folk tales. 政 治 大 and was also adapted into Kabuki plays in the 19th century. He then became a 立. national figure of uprising martyr, and “Sakura Sogoro” is thus worshipped and. ‧ 國. 學. honored around the country.. ‧. Since the incident took place between the transition of middle and modern periods,. y. Nat. this research will first try to give a picture of the society at that time by studying in. er. io. sit. social policies in the Toyotomi administration and early Edo period. In the following chapters, the focus will be on the social development from 17th to 19th century and. al. n. v i n C hThrough these discussions, the evolution of Sogoro’s portrait. how the participants of engchi U uprisings changed in different periods can be observed, and the social relations between the ruler and the ruled in Edo period is also reflected.. Keywords:Sakura Sogoro Daihyou osso Hyakusho ikki 3. figure of uprising martyr.
(5) 謝辭 回想踏入政大大門的那天,對於未來的期待及不安。如今隨著論文的完成, 回首兩年多來的日子,得到的比自己所能想像的多更多。 首先要感謝這段時間以來培育我成長的師長們。傅琪貽老師在我擔任教學助 理的日子裡,教導我開闊自己的眼界,用長遠的角度去檢視整個世界的整體,老 師更教導我作為一個學者的使命感,使我在未來的路途上可以有一個仰望的對象, 在論文寫作上,老師更鼓勵我從社會的基本面開始紮根,因此真正得窺廣博學問 大海的一角。在碩二下學期必須更換指導教授的時期,傅老師除了推薦我廖敏淑. 政 治 大 對於我的論文還有留學計畫都傾力相助,每個細緻的研究方法及論文撰寫的指導, 立 老師之外,後來更願意成為我的指導教授。而廖敏淑老師在傅老師的邀請之下,. ‧ 國. 學. 都令我在寫作的迷惘中有了方向。此外也感謝兩位口試委員陳慈玉老師及朱德蘭 老師,在兩位的指導之下,讓我可以補足論文中論述的不足之處,並且更進一步. ‧. 地釐清自己未來的研究方向。. sit. y. Nat. 此外,也要感謝小林幸夫老師,教導我史學研究的基礎,老師對於學生的心. al. er. io. 意就算在病榻上仍然不輟,師母小林加代子並且協助在日蒐集資料。外語學院于. v. n. 乃明老師每次見面時給的溫暖關懷,每每都讓我在日常的困境當中能夠有注入力. Ch. engchi. i n U. 量的感覺。永井隆之老師因為研究題目接近,常常表達可以幫忙及討論的心意也 讓我感激在心中。 最要感謝的是我的師父上日下常老法師,讓我對自己生命有了目標,也不再 害怕困難及挫折,更能夠虛心的接受師長的教導,這些在我兩年半的碩士生生涯 中是很大的支柱。 這些日子來支持著我任性的夢想的家人們,一起為了論文奮鬥著的日文所的 學長姐、同學、學弟妹們,每次的彼此鼓勵都是前進的力量。要感謝的人真的很 多很多,無法一一細數,但每個人的面孔都在我心中深深烙印著,寄予無限的感 恩。 4.
(6) 目次 緒論………………………………………………………………………………………………………………………….6 第一章. 近世前期の農村支配構造……………………………………………………………………..12. 第一節. 近世前期の地域支配…………………………………………………….………..…………12. 第二節. 農村支配の基本的構造……………………………………………………………………..17. 第三節. 幕藩体制下の年貢徴収方………………………………………………………………….23. 第一節 第二節 第三節. 佐倉藩主と徳川家の関係………………………………………………………………….27. 政 治 大 名主惣五郎と代表越訴……………………………………………………………………..37 立 佐倉藩の農村支配……………………………………………………………………….......31. 惣五郎の義民像形成の過程..……………………………………………………………….42. 學. 第三章. 佐倉藩政と代表越訴…………………………………………………..………………………..27. ‧ 國. 第二章. 惣五郎直訴物語の形成……………………………………………………………………..42. 第二節. 佐倉藩主の宗吾廟建立……………………………………………………………………..45. 第三節. 義民佐倉惣五郎の伝説….………………………………………………………………….50. sit. y. Nat. al. er. 佐倉惣五郎伝承と変容………………………….…………………………………………….56. io. 第四章. ‧. 第一節. v. 江戸期の佐倉惣五郎像の普及………………………………………………………….56. 第二節. 明治民権運動と佐倉惣五郎像の変容………………………………………………62. n. 第一節. Ch. engchi. i n U. 第五章 結論………………………………………………………………………………………………………….72 參考文獻………………………………………………………………………………………..……………………..75. 表 2-1 承応 2 年までの歴代佐倉藩主一覧…………………………………………………………27 表 4-1 宗吾霊堂一覧表……………………………………………………………………………………….70. 5.
(7) 緒論 0.1.1 研究動機 百姓一揆に関する研究では保坂智の「百姓一揆と暴力」 1と稲葉継陽の「中 世民衆運動から百姓一揆へ」 2の二つの論文は、この問題を研究の対象に選ん だ動機となる。また藤木久志の『豊臣平和と戦国社会』は民衆の自主性が高い 中世から近世への移行期に、惣無事令・喧嘩停止令・刀狩令・海賊停止令、そ の四つの豊臣政権の一連の施策を「豊臣平和令」と総称した。藤木は以前の研 究で、近世農民を自力救済の能力を奪われ武装を剝奪された百姓という、謂わ. 政 治 大. ば近世社会を社会的自律性を喪失した社会と断定する兵農分離論の通説に向 けて疑問を提出した。. 立. ‧ 國. 學. まず保坂の説では、豊臣秀吉の刀狩令による武装解除の結果、農村に武器が 存在しなくなっていたのではなく、百姓一揆の際に武器が持ち出されているこ. ‧. とが史料によって裏付けられた。けれども、武器を持っていても、それを利用. sit. y. Nat. する意思のなかったという一揆衆の意識を理解しなければならない。その現象. al. er. io. は、近世の民衆が近世社会に対応する新たな闘争手段を創設したのであって、. v. n. それが訴願であると指摘した。また幕藩体制下の最終段階である一八六六(慶. Ch. engchi. i n U. 応二)年にあっても、一揆は対人暴力を封印していたのである。 さらに稲葉の論文によって、百姓が中世以来の武器保有を継続しながらも、 その使用を凍結するに至るまでの歴史的経緯をより深く究明する必要性を提 起している。そしてこの経緯を中世・近世民衆運動論の架橋と稲葉氏は論じて いる。中世の民衆運動像がすべて武装闘争としての一揆の枠に嵌め込まれた。 これに比べて、集団的訴願という近世百姓一揆が位置づけられる。中世は自力 救済の時代であったが、統一政権の成立に従って、幕藩制国家から規律化され 1. 保坂智「百姓一揆と暴力」(特集/中近世非暴力運動の可能性)『歴史評論』通号 688、校倉 書房、2007 年、2-12 頁。 2 稲葉継陽「中世民衆運動から百姓一揆へ」(特集/中近世非暴力運動の可能性) 『歴史評論』 通号 688、校倉書房、2007 年、13-25 頁。 6.
(8) た結果で、民衆運動が百姓一揆の形に転換していた。また、村に多くの武器が あることを前提に、抑制・凍結を豊臣政見が百姓に要求した喧嘩停止令が「長 く過酷であった内戦・自力の日々の惨禍」に裏付けられた百姓の自制によって 支えられたとし、百姓一揆の武器制御の作法の背景に「平和に向けた社会の深 い合意」と、稲葉は藤木久志の刀狩り論を読み取った。 保坂と稲葉の説をまとめてみると、百姓一揆は豊臣平和令に基づいて生まれ た武力抜きの民衆運動という位置づけができる。平和の民衆運動は江戸時代に 存在した可能性があるのかどうか、中世の自力的な百姓と異なって、江戸時代. 政 治 大 の研究史は理解している。どのような生活から前述のような平和の民衆運動が 立 の百姓は兵農分離によって封建体制の底部に経済体として支配されたと過去. 成立できたのか、ここから研究の課題が生じた。. ‧ 國. 學. 佐倉惣五郎一揆は承応 2(1653)年に佐倉藩におこった事件である。名主惣. ‧. 五郎を代表として年貢の減免を求めて、将軍まで直訴した。百姓一揆の研究を. y. Nat. 始めて以来、関連のある専門書と論文を数多に読んだ。ここから惣五郎研究は. er. io. sit. 時間的に幅が広い、つまり近世初期代表越訴、幕末世直し思想の研究から明治 初期の自由民権運動まで、かなり影響力があった人物である。. al. n. v i n Ch 日本近世の社会百姓一揆の研究は社会経済史の枠に入るので、まずはその engchi U. 時代の農村社会の様態を理解しなければならない。一揆衆が経済的な共通の要 求を上位者に伝えようとしたのが目的である。そこからは、現存の政権を覆そ うとかまたは改革しようとかの意図は見えない。幕末の世直し一揆でも、徳川 幕府の政権を天皇に移譲する要求にとどまった。だから明治維新を革命と言え るかどうかは問題があろう。結局体制内改革運動のままで終わった。 だが、一揆という民衆の行動にはもう一面に下からの反体制性があったこと に注目すべきであろう。一揆の構成は社会経済の主体である百姓が行う政治的 運動であるが、運動の過程はいつも民衆が政治体制を打破する挑戦的行為を秘 7.
(9) めていた。体制内運動に止まらずに、封建体制を動揺する体制破壊の力がある。 幕府はその危険に対応するのに、社会安定を優先させて、一揆衆の要求を受け、 それで百姓を容易に土地に固定させた。 以上からして、日本の民衆の行動意識が特異であると言えよう。惣五郎一揆 の発生した時点は中近世の移行期で、近世幕藩体制は構築したばかりの時期で ある。戦国末期、農村の状態が一般的には自力的と理解される。豊臣秀吉の一 連の政策によって、中世社会から近世幕藩体制の基礎を作り出した。近世初期 農村社会の秩序のを理解するのに、必ず豊臣秀吉の政策から研究すべきだと考. 政 治 大 さらに、近世領主が中世から残った地方勢力との合意で社会を支配できる。 立. える。ここからまず近世初期の農村像が作られよう。. その地方勢力はどのように自力的な武力の持つ地侍から江戸時代の行政末端. ‧ 國. 學. にある村方三役のなるのか。村方三役の最も重要な任務は年貢を収納すること. ‧. である。惣五郎は名主であり、名主から始まる村役人層は近世村落における役. y. Nat. 割や村役人と百姓・代官・武士・藩・幕府の関係から、惣五郎一揆の実態に迫. er. io. sit. る。また本論では承応期以降、近世中期から近代まで、各時期の百姓一揆や民 衆運動における惣五郎伝説の伝承と受容を明らかにする。. n. al. 0.1.2 先行研究. Ch. engchi. i n U. v. 一揆についての研究成果としては、まず東京大学出版会が出版した『一揆』 全五冊で、中世一揆は社会秩序の解体期の問題に比べて、近世的な一揆の「組 織」と「行動」の成立は社会構造に対応しているという前提で論述を展開して いる。ほかの研究者の論著では、佐々木潤之介編『日本民衆の歴史』全五冊、 松永伍一『一揆論』、黒正巌『百姓一揆の研究』とその續編、芳賀登『百姓一 揆』、保坂智『百姓一揆とその作法』、深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』、勝 俣鎮夫『一揆』などが参考になる。百姓一揆に関する過去の研究史と研究成果 がこれで構築できる。また深谷克己監修の『百姓一揆事典』に年表、研究論文、 8.
(10) 名詞解釈が研究の知識基礎になった。史料の方面では、青木虹二編の『編年百 姓一揆史料集成』を参考にした。 百姓一揆の形態変遷について、最も有名な論述は 1966 年に青木虹二が『百 姓一揆の年次的研究』で提出した四つの類型にまとめられよう。 3 (一)土豪一揆および初期逃散 (二)代表越訴 (三)惣百姓一揆=全藩一揆 (四)幕藩惣百姓一揆. 政 治 大 佐倉惣五郎という呼称は地名の佐倉と人名の惣五郎二つの部分にわける。佐 立 青木の研究において、惣五郎一揆の行動形態は代表越訴である。. 倉地区を代表できる有名な義民である。惣五郎という百姓が起こった一揆事件. ‧ 國. 學. の背景と義民伝説は全国に広がる以前には惣五郎だけを称すべきであろう。た. ‧. だ、18 世紀半ばから 19 世紀に、歌舞伎芝居の影響で惣五郎の義民像の成立に. y. Nat. 従って、「佐倉惣五郎」の呼称を採用する。. er. io. sit. 近世初期近世初期の史料の制限で、惣五郎は実存在の人物かどうか、惣五郎 は従来の研究における評価では近世前期の代表越訴の代表である。惣五郎につ. al. n. v i n Ch いて研究成果は明治以来膨大な成果が存在しているが、 裏づける史料や当時の engchi U 記録類が見つからないことで、歴史的に信用できない伝承と物語によって作成 された内容のものが多かった。ためにそれまでの惣五郎は伝承や物語の人物と して扱われる場合が多かった。 1958 年に刊行された児玉幸多の『佐倉惣五郎』 (吉川弘文館)は惣五郎研究 を改めて展開した。 4児玉の研究では、成田山新勝寺(宗吾霊堂)所蔵の土地 台帳の名寄帳に惣五郎の名前を見だして前期堀田氏時代のものと確認し、年貢 割付状の裏書に幕府代官が佐倉藩の年貢が高いので減免すると書いてあるこ. 3 4. 青木虹二『百姓一揆の年次的研究』新生社、1966 年、148 頁。 本論が採用するのは 1972 版。 9.
(11) とを指摘した。惣五郎はこの研究によって実在の人物となった。 さらに、1998 年発行された鏑木行廣の『佐倉惣五郎と宗吾信仰』(崙書房) は惣五郎研究を集大成した作品で、幅広く関連した史料調査を行った。とくに 年貢と各地に根付いている宗吾信仰を重点とした。鏑木は佐倉地方史の学者で、 佐倉藩における政権・経済・信仰の史料について確実に把握する。前後期堀田 氏の統治もすでに整理した。宗吾信仰の普及は惣五郎に対する最大の評価であ ると述べて、義民としての惣五郎に関する史料や民間の記録をできるだけ引用 して、現代まで存在している宗吾霊堂のなかの十五社に現地考察を行った。. 政 治 大 本論に採用するのは文献分析法である。第一部分は社会経済史の方法論であ 立. 0.1.3 研究方法. る。まず惣五郎一揆は近世初期に発生した事件で、当時残した史料はわずかし. ‧ 國. 學. かない。また事件に対する記録は伝説や物語の他がないので、事件発生当時の. ‧. 農村像を作るため、幕府の法令や近い地区の名寄帳、及び『徳川実紀』『寛政. io. er. の分析によると事件の実態が復元できよう。. sit. y. Nat. 重修諸家譜』などの正史の記載からできるだけ事実に近づけたい。以上の史料. されに、第二部分は社会思想史の方法論で、江戸中期から明治期の記録と公. al. n. v i n Ch 文書による惣五郎に対して民衆の意識の変遷を明らかにする。また、宗吾霊堂 engchi U に関する前人が考察した現地の記載を利用して、宗吾信仰は長い時間範囲でい かに形成したのか、この問題点を明確してみたい。 0.1.4 論文構造 本論は 16 世紀後半から 20 世紀のはじめまで、惣五郎伝承の成立と広がるこ とについて通史的に論じる。 第一章に、16 世紀後半から 17 世紀初期、豊臣政権の社会政策より中近世移 行期における幕藩体制の基礎の作った背景を法令の研究から整理した。それに、 近世の農村支配構造のなかに、村方三役(名主、組頭、百姓代)の役割や位置 10.
(12) づけと年貢政策にわけて二つの部分から論じる。 第二章は 17 世紀半ばを中心として、承応 2(1653)年に起こった惣五郎一 揆の背景を整理して、佐倉藩主と幕府・佐倉藩の村支配二つの面からまとめる。 事件発生当時の佐倉藩主であった前期堀田氏は幕府との関係が親しい、そこか ら幕府はこの事件の対応を探る。さらに第二節で惣五郎の直訴状を基に、当時 残った同藩の年貢記録に対照して、前期堀田氏の佐倉藩支配と一揆の発生の原 因を明らかにする。第三節において、惣五郎一揆の背景による 17 世紀、いわ ゆる代表越訴型の一揆形態の真実性を討論する。. 政 治 大 節に藩主である堀田正亮や百姓側はどのように惣五郎を利用しようとしたか 立. 第三章に、18 世紀に佐倉藩における惣五郎に関する発展をまとめた。第二. の考え方が明らかにする。また第三節に宝暦期以前佐倉における惣五郎物語と. ‧ 國. 學. 祭祀の伝承、のちの『地藏堂通夜物語』などの写本の成立背景について説明す. ‧. る。. y. Nat. 第四章に惣五郎物語を脚本として作った歌舞伎作品『東山桜荘子』から、19. n. al. er. io. する。. sit. 世紀の幕末期から戦前まで全国に広がった宗吾信仰のあり方をまとめて説明. Ch. engchi. 11. i n U. v.
(13) 第一章. 近世前期の農村支配構造. 第一節. 近世前期の地域支配. 近世の支配体系は中世惣村の自治の性格を全般的に否定しないまま、中世以 来こういう在地勢力を変えて政権の末端として利用した。そういう変化は戦国 時代に入って、各戦国大名による惣村の自治権が制限され、または奪われた場 合もあった。天正 14(1586)年豊臣秀吉が太政大臣になって、統一政権とし ての豊臣政権が成立した。秀吉の一連の政策によって、近世の封建体制の基礎 が作れられた。中世以来の在地領主制の解体をはかる兵農分離策として、以下、. 政 治 大. 太閣検地・刀狩令と身分統制令を論じてみよう。. 立. 1.1.1 太閣検地. ‧ 國. 學. 豊臣秀吉が検地を行なったのは天正 9(1582)年に遡ることができる。天正 19(1591)年関白の位を豊臣秀次に譲ると「太閣」の称号を使用したが、天正. Nat. y. ‧. 19(1591)年以前の検地も含めて「太閣検地」と呼ぶ。. sit. 室町と戦国時代に一円に支配権と自領の実質総農業生産高を確認するため、. n. al. er. io. 戦國大名らが検地を行って、中世の荘園と 国衙領の枠を超えて、新たに支配. i n U. v. 権を取った地域と課税を記録で確立した 。だがほどんとの戦國大名が領地に. Ch. engchi. 全面的に検地を行うわけではなかった。. 秀吉は全国を武力で征服して、同時に検地を行い、よって征服した土地を把 握した。検地は秀吉の征服範囲に連れて遂行されたが、天正 10(1582)年か ら、1 歩を 6 尺 3 寸四方、300 歩を 1 反、田畑の等級を上・中・下・下々の四 段階と定め、枡を京枡に一定して石高を算定し、耕地 1 筆ごとに耕作者を検地 帳に記載して年貢負担者を確定した。統一する前の検地の不徹底さがあったと 推測すると、全国一致の基準で作った検地帳も近世封建体制の基礎になったと 言えよう。 また全国を統一した豊臣政権は検地を通して、改めて農民を土地に固定させ、 12.
(14) 検地帳で所有関係を確定した。それで、中世の地方支配構造も検地によって解 体し、農民は小農になって、土豪の支配から解放された。村の支配関係は単純 化され、幕府―領主―惣代―庄屋(名主・肝煎)―百姓の構造になった。そこ で問題が生じるのは庄屋層の位置づけとその上下関係である。 1.1.2 刀狩令 天正 16(1588)年七月八日の日付で秀吉の掟書「条々」として刀狩令は発 令された。その内容は次の三ヶ条である。 条々. 政 治 大 堅御停止候、其子細者不入道具を相貯、年貢所當を難渋セし免、一揆を 立. 一 諸国百姓刀、脇指、弓、やり、てつはう、其外武具のたくひ所持候事、. 企て、自然対給人非儀能働奈須族、勿論可有成敗、志カ連ハ其所之田畠. ‧ 國. 學. 令不作、知行費に成候の間、其国主・給人・代官等として右武具取集こ. ‧. とこと具可致進上事、. y. Nat. 一 右取をカるへ幾刀・脇差を費にさせら類遍支儀に是あらす候、今度大. も百姓相助義候事。. al. er. io. sit. 仏建立能釘・かすカい以に可被 仰付候、然者今生之儀者不及申、来世迄. n. v i n Ch 一 百姓者農具さへ持、耕作専に仕候得者子々孫々迄長久候、百姓阿われ engchi U 飛を以て如此被 仰出候、誠に国土安全万民快楽能もと以也、異国ニ而者 唐尭能楚乃カミ天下越奈て守りたまひ、寶剣・利剣を農器に用ると奈り、 此旨を守り各其趣を存知、百姓者農業を可入精事、 右道具急度取集可致進上、不可油断者也、 天正十六年七月八日 5 第一条は武器を所持することを厳禁した。百姓らが武器を持つことで、年貢 と雑税を納めることの難渋、または一揆を企て・田畑の不作などの行為があっ. 5. 「小早川家文書」 『大日本古文書 家わけ. 11』東京帝國大學文學部史料編纂掛編纂、1927 年、480 頁。 13.
(15) たからだ。すなわち、刀狩りは領主側が年貢を順調に取れる基礎になるに行わ れた。第二条で取り集めた武器は京都の方広寺の大仏を建立する釘と鎹になる ことを示して、それによって、秀吉は百姓の来世の幸福も助けたいと伝えた。 第三条は農民の本分は耕作であると明記され、百姓の農業に専念して欲しい。 「百姓者農具さへ持、耕作専に仕候得者子々孫々迄長久候」と政権側が求める 百姓像を明定した。武器を武士に集中して、百姓を守るのは武士の役割であり、 百姓はその庇護のもとで農業を務める。それで子孫が長く続けると説得した。 この条々では政権側が民の現世と来世の利益を守ろうという懐柔策とも言え. 政 治 大 ここに注意したいのは、豊臣政権がまず刀を代表として武力を持つ権利を回 立. る。. 収した。だが、中世の刀は成人になった男性の人格と名誉の表象であって、秀. ‧ 國. 學. 吉の刀狩令はそういう刀の持つ重さを抱え込んで生まれてきたと藤木久志が. y. Nat. ついては以下のようである。. ‧. 指摘した。 6柳田国男は著作『日本農民史』で、百姓にとって刀狩りの意味に. er. io. sit. ……兵器殊に銃砲の村に在る者は取上げられ、刀狩りと称して刀剣類まで も持去られた地方もある。家の名を大切にする人々には、堪え難いことで. al. n. v i n Ch あった…今日の思想では士と農と、もう全然二元のものの如くなってしま engchi U った……最初は百姓は良民又は公民の総称で、武士も亦悉く其中から出た. ものであるが、兵と農と相兼ぬることを得なくなった結果、百姓は武士よ りも低い身分と為った。数百年の由緒を有する農家にとっては、刀をとら れることは忍び難い零落であった…… 7 つまり、当時の農民にとって、刀が取られたことより、名誉が奪われたこと が辛い。刀の持つ権利の有無で、百姓と武士の身分がはっきり分れた。さらに、 「数百年の由緒を有する農家」という在地領主が武力を奪われ、より低い身分. 6 7. 藤木久志、 『刀狩令』、岩波書店、2005 年、4 頁。 同上、29 頁。 14.
(16) の百姓に落ちて、固定化された。豊臣政権は象徴的に在地の武力勢力である地 侍の勢力を制圧していた。 1.1.3 身分統制のはじまり 天正 19 年(1591 年)に豊臣秀吉が以下 3 ヶ条の法令を発した。ここから近 世日本の身分制度が創出された。 定 一. 奉公人、侍、中間、小者、あらし子に至迄、去七月奥州江御出勢よ. り以後、新儀ニ町人百姓ニ成候者在之者、其町中地下人として相改、一切. 政 治 大 在々百姓等、田畠を打捨、或あきない、或賃仕事ニ罷出輩有之者、 立. をくへからす、 若かくし置ニ付てハ、其一町一在所可被加御成敗事、 一. そのものゝ事ハ不及申、地下中可為御成敗、并奉公をも不仕、田畠もつ. ‧ 國. 學. くらさる、代官給人としてかたく相改、をくへからす、若於無其沙汰者、. io. y. sit. 侍小者ニよらす、其主に暇を不乞罷出輩、一切不可拘、能々相改、. er. 一. Nat. ハ、其一郷同一町可為曲言事、. ‧. 給人過怠にハ、其在所めしあけらるへし、為町人百姓かくし置ニおゐて. 請人をたて可置事、但右者主人有之而、於相届者、互事之条、からめ取、. al. n. v i n Ch 前之主の所ヘ可相渡、若此御法度を相背、 自然其ものにバし候ニ付テハ、 engchi U. 其一人の代ニ三人首をきらせ、彼相手之所へわたさせらるへし、三人の 人代不申付ニをいてハ、不被及是非候条、其主人を可被加御成敗事、 右條々、所被定置如件 天正十九年八月廿一日(秀吉朱印) 8. 第一条では奉公人、侍、中間、小者、荒子 9は地下人=百姓になることは禁 止された。第二・三条は百姓の義務は田畑を耕作することであると規定し、商 8. 「小早川家文書」 『大日本古文書 家わけ. 11』東京帝國大學文學部史料編纂掛編纂、1927 年、481 頁。 9 『国史大辞典 1』吉川弘文館、336 頁。荒子:戦国時代ごろ、半端な雑役に扈従する一種の 雑兵の呼称。嵐子とも書く。もとこの語にはある種の労役奉仕の意があり、荒仕事の意ともい われるが、実態は詳らかでない。 15.
(17) 人や職人になるのはいけない。また農民は田畑から、侍・小者などの下層武士 はその主の処から逃げることがあったら、処罰を受ける。その内容によると、 近世の社会関係の基本が領主と百姓の年貢賦課と徴収にあること、兵農・商 農・職農の分離を通して、社会の安定のためにその秩序を守べきという原則が 明らかにされた。 この定から、秀吉は近世百姓を明確に位置づけた。「百姓」の社会的役割が 年貢米の生産と納入することである。統一政権である豊臣政権は理想な百姓像 を作って、百姓とは農耕を従事して年貢を納入する階層であると決めた。在村. 政 治 大 士は勿論村から退去したが、商人と職人はこういう身分制度の中で無視され、 立 には武士を住ませない、農耕を業とする者だけを住まわせるの施策である。武. 百姓として被せられた。ここから在村の居住者は農民しか居ないという勘違い. ‧ 國. 學. が生じた。. ‧. 秀吉が前述の刀狩令・検地・身分統制によって、中世からの在地勢力の終結. y. Nat. を得た。それが表面的に村を最小単位として、農民は年貢によって領主と結び、. er. io. sit. 近世の地域社会を構成した。だが、統治の末端において在村の秩序維持は庄屋 をはじめ村役人に任せることで、村役人は村の中の高持百姓を担った。. al. n. v i n Ch 従来の研究史では、近世前期の村役人は中世から土豪的系譜を持つ、検地に engchi U. よって百姓身分に固定され、村の中において旧来の支配権を行使できる特別な 存在でもあったと提出した。10つまり、近世前期社会の在地支配を支えたのは、 中世から残った在地勢力である。この在地勢力は政権との間に、どのような妥 協や合意が存在したのか、それが元来の有力者が統一政権の末端機構に位置付 けるべきと判断しているがどうだろうか。この疑問は本章の第二節で明らかに する。. 10. 渡辺忠司『近世社会と百姓成立―構造論的研究―』思文閣、2007 年、104 頁。 16.
(18) 第二節. 農村支配の基本的構造. 1.2.1 村方三役の成立 幕藩体制の理想では、支配階級である武士階層は村から離れた城下町から村 を支配する。村では農民だけが存在して、よりフラットな社会になった。村で 領主支配の末端として、村の行政を担うのは村役人である。通常は「村方三役」 と呼ばれ、庄屋(地域によって名主・肝煎でも称する) ・組頭(年寄) ・百姓代 の三つの役職である。老中―遠國奉行、老中―勘定奉行―代官という幕府職制 による地方行政機関は、多く在地の被支配身分による行政実務を支えて、日常. 政 治 大 あるいはほかの御用の標識を付与された。 幕藩領主が非武士身分の者と協同し 立 的行政を實行していた。こういう人々は、武士身分を象徴する苗字帯刀の免許. ‧ 國. 學. て、支配の貫徹を尽くす仕組みと見なされる。. 兵農分離の後に確立した村請制度は、村役人が年貢・諸役の収納の責任を取. ‧. る制度である。地域において、一定程度の自治・自律が存在しなければ、實行. sit. y. Nat. ができなくなる。けれども、この自律性は幕藩体制にとって、不安定な要素で. al. er. io. ある。ここから村役人と幕藩領主の間がいかに結合したかは課題となろう。. v. n. 豊臣秀吉は太閣検地を施行していくことで、村を行政の基本単位と決めて、. Ch. engchi. i n U. 庄屋を村役人であることと確認した。中世史の研究者によって、近世の庄屋が 統一政権によって成立した新しい機構ではなく、大和国には恐らくとも十四世 紀末には年貢公事の納入実務者で惣庄の利害を代弁する「庄屋」が見られた。 戦國期には近畿地方の荘園に広く存在していた。中世においての「庄屋」は村 の代表として領主に対抗する「村請け」「地下請け」 11を行い、自治的な性格 11. 『国史大辞典 6』吉川弘文館、721 頁。地下請:中世荘園における年貢請負制度の一つ。荘 園年貢の請負には鎌倉時代の地頭請に始まり、守護請・地下請などがあり、こうした荘園年貢 の請負を請所とよんでいる。地下とは本来は宮中で昇殿の勅許を得ない官人をいい、殿上人に 対する呼称であるが、ここでは荘園における在地の名主・百姓をさしている。地下請とはこう した名主・百姓が共同して荘園の年貢・公事を請け負うことをいっている。故に「百姓請」と もいわれ、荘園内の番頭らが請け負った場合には「番頭請」ともよばれた。毎年一定額の年貢 納入を請け負った地頭や守護や地下は、地の支配の全権を委任された。その年貢を請料または 請口といい、豊作・凶作にかかわりなく一定しているのが原則であった。 17.
(19) を持っている。 近世の領主は在地の有力百姓を庄屋に任命し、その在地の影響力を利用して 支配を浸透させようとした。また庄屋の選出方法は村運営の家格をもついくつ の家の間で、互選によって庄屋を選出して、その結果によって領主の任命を受 けることになった。だが、近世中後期になると、小百姓層の台頭に従って村政 参加の権利を要求し、村のすべての百姓家が選挙権と被選挙権を持てることに なって、次第に家格制が崩壊されていった。 組頭は年寄・長百姓とも呼ばれ、本来は五人組の組頭を示していた。五つの. 政 治 大 はキリシタン禁制や治安維持のために設置したが、のちは年貢・諸役の徴収を 立 世帯を一組になして、組員は相互に連帯責任を負わせる監督制度である。最初. 含めて百姓支配の一環として、十七世紀半ばには各地に置かれることになった。. ‧ 國. 學. 寛政六(1794)年に、高崎藩の郡奉行である大石久敬が藩の命令を受け、当時. ‧. の地方制度を記録した『地方凡例録』には、組頭は名主の下役として領主や村. y. Nat. の用事を務めると記している。鈴木ゆり子の研究によれば、近世初期の村にお. er. io. sit. ける組頭は公に公認された役人ではなく、むしろ領主支配の末端として庄屋の 専断を抑えるため、百姓側から成立した役職ではないだろうかと述べてい. al. n. る。. 12. Ch. engchi. i n U. v. 水本邦彦が慶長 13(1608)年摂津柱本村と寛永 15(1638)年和泉日根野村 の史料 13を提出して、そこから庄屋と年寄(=組頭)の関係・庄屋と年寄の性 格の差異・年寄の役割を分析した。要するに、庄屋の成立は年寄より遅い、初 期の年寄は系譜的には一般的に中世末惣村段階の地侍に遡りうる。近世初期の 地方支配はまだ未熟で、庄屋が年寄の中から選ばれ、支配の拠点として新たに 貢納夫役の独占的な権限を与えられた。前期村方騒動(寛永末期~慶安期)の 研究では、年寄主が有力百姓の中に主として、反庄屋闘争の担い手であった。. 12 13. 藤井譲治編『日本の近世 3 支配のしくみ』中央公論社、1991 年、244 頁。 水本邦彦『近世の村社会と国家』東京大学、1987 年、20-21 頁。 18.
(20) この時期の庄屋と年寄の組成が重なっていて、年寄は近世中・後期の村役人で はなかった。年寄が村役人として確立したのが寛永期に至って、年寄は庄屋と 共に年貢収納など公務を務めることになったことが史料に見える。 14 百姓代は村民を代表して、庄屋(名主)・組頭(年寄・長百姓など)による 村政を監査する役を勤めた。『地方凡例録』は百姓代は名主・組頭以外、その 村における大高持ちの百姓で、入札による選出、基本的には無給職で、一つの 村に二三人居ることもある。享保 9(1724)年信濃佐久郡五郎兵衛新田で百姓 代の記載がある。おおむね江戸中期以降村政をめぐる争いをきっかけにして百. 政 治 大 本論では、名主(関東地方の称号、=関西地方の庄屋=東北地方の肝煎)と組 立. 姓代は広く出現し、小百姓からの百姓代選出を要求した記載もある. 頭(年寄)に関する法律と史料は百姓代より多いので、名主と組頭を主として. ‧ 國. 學. 論じる。慶安 2(1649)年 2 月 26 日の「諸国郷村江被仰出」に、名主と組頭. ‧. について、以下三条の要求あるいは前提がある。. io. er. ハ真の親とおもふへき事. sit. y. Nat. 一 公儀諸法度を怠り、地頭代官之事をおろそかに不存、扨又名主組頭を. 一 名主組頭を仕者、地頭代官之事を大切に存、年貢を能濟、公儀御法度. al. n. v i n Ch を不背、小百姓身持能仕様に可申渡、扨又手前之身上不成、萬不作法に engchi U 候得ハ、小百姓ニ公儀御用之事申付候而も、あなとり不用物に候間、身 持を能致し、不便不仕様に常々心掛可申事、. 一 名主心持我と中悪者成共無理成儀を申かけす、又中能者成共依怙贔屓 なく、小百姓を懇にいたし、年貢割役等之割少も無高下ろくに可申渡、 14. 水本が提出した史料: (a)一、御蔵詰米之時者、庄屋年寄行事御蔵へ罷出肝煎詰仕舞可申候、若隠託申義候者可為 曲事(寛永 11・正 平野藤次郎触)(44) (b)一、小百姓之内我まゝを申、庄屋年寄之申事を不致承引、郷中をさはかし、いわれさる 公事之くわたていたすもの於有之者、頭人ハ不及申す、組之者迄曲事に可申付事(寛永 14・ 2・27 曽我古祐定)(45) (c)一、百姓公事出来及裁許候時ハ、御公役之妨、地下中之痛勿論之条、庄屋年寄并与中以相 談、相宥之可申候(慶安 2・正・11 今井彦右衛門壁書)(46) 水本邦彦『近世の村社会と国家』東京大学、1987 年、20-21 頁。 19.
(21) 扨又小百姓ハ名主組頭之申付候事無違背念を入可申事 百姓は名主と組頭を自分の親のようにみた。また、名主と組頭自身は地頭と 代官の命令に従う、年貢を能濟する、公儀の御法度に違反する情事はないかと 要求される。名主と組頭は小百姓の贔屓になって、百姓側は名主と組頭からの 命令を服従するのが責任となった。 1.2.2 村方三役の機能 近世の村は、城下町に住んでいる武士によって支配され、文書で命令を村に 伝達する。その内容は公的な年貢村役人の機能を主に次の三の部分に分ける。. 政 治 大 役人に任されていた。領主は検見 によって、災害などの免除分を村高から差 立. 第一は領主に年貢・諸役を上納する責任を負わせる。年貢の賦課・徴収は村 15. し引いた「毛付高」に対して何パーセントの割合で年貢高を決めて、代官を通. ‧ 國. 學. して、村役人に免札(年貢割付状)を発給した。さらに村役人は百姓一人一人. ‧. の持高で年貢率を決めて、それぞれの負担高を確定した。村で割付けた年貢を. y. Nat. 百姓たちは皆済期限までに庄屋に納入することになった。村役人のもとで記録. er. io. sit. として、 「御年貢通帳」が作成される。万一年貢を皆済できない村人がいたら、 多くの場合は庄屋や名主が弁済することになった。ここから、村請制の下では. al. n. v i n Ch 村役人が弁済に相応する経済力を持たなければならないことになっている。 engchi U. 『徳川禁令考』巻四十三「郊野専耕者諸法度」所載の「五人組帳前書之事」. にこの部分の規定が記してある。 16 一 年々御年貢内割仕候節、名主年寄惣百姓寄合、御割付之表を以、勘定 相違無之様ニ割合を致シ、勿論反歩米永之員数委細ニ記之、名主より皆. 15. 『国史大辞典 6』吉川弘文館、721 頁。「検見取法」の条より。検見:本来の検見は毛見と 称されたように田畑農作物の出来具合=立毛を見分することを意味した。 16 法制史学会編、石井良助校訂『徳川禁令考 前聚 二七七二号』創文社、1981 年、140 頁。 一時一地の法令ではなく、編者がこう記する。 「今按ニ、地方凡例録ニ載スル者五十四条、地 方聞書ニ六十四条、大成令、教令類纂並ニ七十条アリ、此外尚ホ諸書ニ載スル者アル可シ、所 謂文言違ヒアリテ区々ナル者ナリ、今大成令ニ載スル者ヲ抄出シテ左ニ全録ス、蓋歴世ノ法令 ヲ包括シテ許裏ニ在リ、郷村農民ノ一目シテ了然者ナリ、其他諸書ニ載スル者今悉記ニ遑アラ ス」と江戸全期の法令が包括する。 20.
(22) 済手形押切判形致、百姓方江銘々相渡可申候事 第二は村の治安と秩序を維持し、村の経済的機能を正常化していく任務を与 えたことがわかる。また領主からの法度を周知して、犯罪などを領主に報告す ることである。村は農民の生産と生活を維持するために、村掟が存在していた。 その村掟は村役人によって決定したものを村人に通達して、村掟の末尾には村 人全員の署判が捺され、村掟に対する村人が認めて機能をつけることを示して いる。一般的に村掟は幕府の触・領主の法度と村掟が混在している。また村で おこった争論に関して、多くの場合は領主に報告しなくてよくて、村役人は調. 政 治 大. 停者の役割を負っていた。もう一つは村人を代表して領主に要求をだすことで ある。. 立. 折衝をすることになっている。. ‧. 1.2.3 村方三役の特権. 學. ‧ 國. 第三は他領・他郡・他村との争論である用水・地境・入会に関して、名主が. y. Nat. 村役人の給与は米で支給され、近世初期は領主から支給されていたが、十七. er. io. sit. 世紀後半は村入用として村人に徴収された。十九世紀後半に『地方凡例録』が 記されたのは、村高一〇〇~一五〇石の村は庄屋の給米二俵、二〇〇~三〇〇. al. n. v i n Ch 石は四俵、四〇〇~六〇〇石は五俵、七〇〇~一〇〇〇石は八俵、一二〇〇~ engchi U. 一五〇〇石は一〇俵 17、基準は村高であることが知られる。名主・庄屋の家は 役宅と呼ばれて村政に関する事務を取り扱い、または村役人の集会の場所であ る。よって、一般村民の家屋より大きい。また名主の石高は二十石と制限して、 百姓は十石である。名主の所持高はほかの百姓より多い、高持百姓の中から名 主を選び出すことは原因であろう。 刀狩令が施行された後、江戸幕府も従って庶民の帯刀を禁止したとするのは 通説であるが、むしろ身分表象に関わる刀の規制は浸透していく。百姓と町人. 17. 大石久敬『地方凡例録』日本経済叢書刊行会、1916 年。 21.
(23) の帯刀は旅行・火事・婚礼・葬式・神事など非日常な場合では許されていたが、 刀は柄の長さ・鞘の色などが詳しく規定されていた。だが、名主・庄屋は領主 に対する貢献度や村内治政の成績によって、苗字帯刀を許されたこともあった。 江戸時代には百姓町人は私的には苗字を名乗ることもあったが、公的文書には 許されなかった。帯刀も道中差などの脇差は旅行時には許されたが、大刀は許 されなかった。村役人などで特別の業績を挙げた者、孝行とか学術修行などで 奇特な行為のあった者、または多額の御用金を提供した者などが、幕府や藩か ら顕彰さらる場合に、その資格が与えられた。苗字と帯刀は一体ではなく、苗. 政 治 大 その許可には、一代限りとか孫までとかに限定される場合と、永代にわたって 立. 字のみを許される場合もあったが、帯刀はそれのみを許されることはなかった。. 許可される場合とがあった。 18. ‧ 國. 學. 例えば享保 14(1729)年奥州信夫伊達両郡に百姓の強訴事件が起こった。. ‧. その中の伊達郡青木村の名主仁左衛門は百姓を制圧するのに成功した。よって、. y. Nat. 青木村の百姓らは一人も今度の強訴を参加しなかった。このために、仁左衛門. er. io. sit. は「其身一代刀帯之名字名乗可申候但名字ハ子孫迄相續名乗可申候」という奨 励を受けた。帯刀は一代のみだが、苗字 は子孫に相続される。 19. al. n. v i n Ch また名主の服装の場合、江戸時代は百姓に対して厳しい衣類制限を實行して engchi U. いる。前述の「五人組帳前書之事」から見える。. 一 百姓町人衣服絹紬木綿麻布、此内を分分限に応し、妻子共に着用、此 外無用ニ可仕旨被仰渡、奉畏候事、 20 一般の百姓と町人の衣服の材質は絹・紬・木綿・麻布に限られる。だが名主 が特権を持つことは寛永 19 年の「郷村諸法度」に、 一 男女衣類之事、此已前より如御法度、庄屋ハ絹紬木綿麻布を着すへし、 18. 『国史大辞典 13』吉川弘文館、521 頁。苗字帯刀:苗字を名乗り帯刀することができる資 格。 19 司法省庶務課編『徳川禁令考 後聚巻十三 行刑条例』 、吉川弘文館、1931-1932 年、321-328 頁。 20 15 に同じ、二七七二号、頁 140。 22.
(24) 脇百姓ハ布もめんたるへし、 右之外ハ、ゑり帯にても仕間敷事、 21 という規定がある。ここでは、庄屋(名主)だけは絹・紬・木綿・麻布を着 用できる。ほかの脇百姓は木綿だけ使えることである。 徳川幕府は名主が主である村役人たちに上述の特権を与え、これより村役人 層は政権と協力関係を維持する。ところで、江戸中期以降、特権と経済的利益 によって、村役人層は遂に政権に近付く。よって、前述の村方三役に対する幕 府の情感的な前提も失って、江戸幕府の村落支配体制もこのために崩れていく. 政 治 大 幕藩体制下の年貢徴収方 立. のである。. 第三節. ‧ 國. 學. 1.3.1 検見取法と定免法. 封建体制において、政権と百姓の関係は土地の所有と年貢・諸役の納入で結. ‧. ばれる。江戸幕府の年貢政策は太閣検地の成果に基づいて発展した。一般に太. sit. y. Nat. 閣検地は課税の方法を示すものとして理解されるように、名寄帳で耕地の等. al. er. io. 級・面積・石盛を表わして、名請人の所持分で年貢律を決めることになった。. v. n. また村請制度を採用して、村単位で年貢を収納する。領主は村役人に徴税令書. Ch. engchi. i n U. である年貢割付状を発し、庄屋などの村役人は責任者として、村内から年貢を 徴収し、領主に上納した。年貢が納入されると領主は村落に対して領収書であ る年貢皆済目録を発行する。 一 御年貢御割付、惣百姓寄合拝見仕、其年々之損毛引方共ニ明鏡ニ割を 致、則御割付之裏、惣百姓判形可仕候、自然名主壹人ニ而割を致候ハゝ、 當座可申上候事 以上の法令によると、惣百姓は名主が分けた分を同意すると判形でこの年貢 率の受け入れることを表す。. 21. 15 に同じ、二七八一号、頁 153。 23.
(25) 徴税の比率は『地方凡例録』によると、「……又豊臣時代天下一統に成ての 法ハ地頭三分一百姓三分二とあれバ是も大抵四分六分より年貢少し弱レ… …」 22という。豊臣政権のもとで、「四公六民」つまり領主四・百姓六の分配 率であった。また徳川の世において、「検見の法に五公五民と云ことは其年の 出来米を地頭へ半分百姓作徳半分と取を云籾は五合摺の積りに付有籾を四に 除バ則ち取箇辻に成る仮令バ籾十石あり五合摺にして米五石此半分弐石五斗 ハ地主作徳になる 23」と、五公五民のは理想的な税率であるとしている。家康 の「諸国郷村掟」において、「免相之事、近郷之取を以可相計之」 24という原. 政 治 大 と、百姓一揆などの反抗行為で隣接しあう地域の負担を平準化できることにな 立. 則で、社会の年貢負担の近似性を得る。百姓は近い他領・他国との比較による. った。. ‧ 國. 學. 近世前期年貢の徴租税法は検見取法といい、毎年の収穫高に応じて貢租を賦. ‧. 課する方法である。畝引検見制は近世社会の石高制においては実際生産量を把. y. Nat. 握して、貢租量の決定になった徴租法である。『地方凡例録』では、畝引検見. er. io. sit. 制は「畝引検見之事」と記載している。根取米と籾量と比較すると、実際の籾 量との関係で検見不足の有無を確認する方法が示されている。. al. n. v i n Ch 畝引検見は古法にて、田方上中下とも村々根取米の極りあり、仮令バ上田 engchi U は壱反に取米七斗五升、中ハ六斗五升、下は五斗五升などゝ記す、石盛に 幾箇取として、壱反歩より納る取米の定りありて、之を根取と云、右上田 の根取米七斗五升に、五合摺五公五民の法四を掛て、籾に直し三石と成る、 壱反の坪数三百歩にて割れバ、壱步の籾壱升に当る、中田は八合六勺六才 六、是根取の当り合なり、右の籾丈あれば検見不足なき処、損毛にて壱歩 に籾平均八合あり、上田の根取に弐合不足し、中下とも夫々検見歩苅いた し、何れも不足ならば、総勘定にて取米何拾何石の不足に成に付、右不足. 22 23 24. 大石久敬『改正補訂地方凡例録 巻の三』出版者不明、1871 年、16 頁。 21 に同じ、15 頁。 法制史学会編、石井良助校訂『徳川禁令考 前聚』二七七五号、創文社、1981 年、150 頁。 24.
(26) 丈け反別に直し、親反別の内より検見引と記して之を引、残り反別に根取 米の反当りを掛て、取米を仕出す、之を畝引検見、又ハ反取検見と歌ふ、25 検見取法により幕藩領主は農民から全剰余労働部分の収奪を実現できるこ とになった。だが、村において、検見のために村に来る役人への接待の費用・ 作物の評価に対する役人側と農村側の相違・贈収賄が起こることなど弊害が生 じていた。このほか、稲作の品種が異なることによって検見の行いが困難にな ることなど、前述のような問題がある。 享保の改革の一環として定免法が導入された。幕領では享保 3(1718)年に. 政 治 大 去五年とか十年の間の収穫高の平均値を取り、年貢高は当年度の豊凶にかかわ 立 定免法の実施を準備しはじめ、享保 7(1722)年実際に行われた。定免法は過. らず、一定の年貢を納入することになった。だが大きな凶作であれば、破免と. ‧ 國. 學. して、その年だけが検見を行うことになる。定免法の實行は幕府にとっては財. ‧. 務の安定化すること、また検見を行わないことで行政費用が減るのは利点であ. io. er. する、両極化した結果が生じる。. sit. y. Nat. る。百姓は剰余生産の分で生活が豊かになるのもあったが、凶作の年には逃散. 刀狩令に、「百姓者農具さへ持、耕作専に仕候得者子々孫々迄長久候」とい. al. n. v i n Ch う、農業に専念し、年貢を納入するのは近世百姓である。また耕作をしなかっ engchi U た場合には、以下の法令によって処罰をうけることになる。 一. 耕作常々出精し、作之間ハ男女共ニ相応之挊いたし可申候、若作ニ. 不精ニ而、徒ニ暮候者於有之ハ、五人組之内ニ而致吟味、異見可申候、 不用もの有之候ハゝ、名主江早々相断、弥名主為申聞、其上ニ而も承引 不致候ハゝ、御役所江可申上候、若隠置候ハゝ、名主年寄五人組共ニ曲 事可被仰付候事、 耕作をしない人は徒然に暮らしていると見られる。そうなれば、名主がこ. 25. 、大石久敬『改正補訂地方凡例録 巻の三』出版者不明、1871 年、16 頁。 25.
(27) の人を処罰をして、または耕作を強制させることもある。もしこの情事を隠せ ば、名主と年寄五人組も同じく処罰をうける。ここから江戸幕府が五人組を通 じて連座法で社会支配をする方法も見える。百姓は農耕を勤める人々であると 定義された。ここでは百姓はただの経済体とみなされる。 年貢を負担するのは本百姓 26である。それが検地帳に記載さらた名請人・高 持百姓である。同じ高持百姓であっても、庄屋以外の高持百姓・惣百姓がいて、 庄屋が領主の村落支配の担い手という役割を付与されると同時に、ほかの本百 姓との間に年貢米の割付などの公的事務から生じる矛盾が存在することにな. 政 治 大 合がもっとも多かった。騒動の要求は上層農民の権益に限らず、一定程度小百 立 った。初期村方騒動は庄屋の年貢分配の不正や夫役の私用によって起こった場. 姓の要求も含んだ。だが寛永期以降、村における有力百姓である庄屋と年寄の. ‧ 國. 學. 役人化によって、村役人に対する闘争の担い手は本百姓層になった。. ‧. 無高の水呑百姓は年貢・諸役を負担しない代わりに、村での身分的に従属は. y. Nat. 認めなかった。よって、権利と地位のなかった彼らは契約に基づく小作農業・. n. er. io. al. 26. sit. 農業以外の商業や職人になった者もいる。. Ch. engchi. i n U. v. 『国史大辞典 11』吉川弘文館、本百姓:江戸時代の農民のうち、領主から本百姓身分・百 姓株を認められたものをいう。 26.
(28) 第二章. 佐倉藩政と代表越訴. 第一節. 佐倉藩主と徳川家の関係. 2.1.1 前期堀田家と幕府の関係 江戸時代に入ってから堀田正信が佐倉を除封されたまでも間に、佐倉藩を支 配していた大名に関してまず見てみよう。将軍の御恩で領地が大名に給付され るのは幕藩関係の中心にある。転封と改易で大名の力を削弱する以外、徳川幕 府の初期、親藩・譜代大名で外様大名の力を制御するのも一種の方法である。 佐倉が江戸より距離が近い、ここの土地を家臣に分与する方が良いという徳川 幕府の考え方がある。. 政 治 大. 立. 學. ‧ 國. 以下の表を見ると、佐倉藩主になれたのは、すべて当時の将軍に信頼された 徳川家の息子や徳川家に親しい関係を持つ家臣である。. io. 文禄元(1592). の石高. 5 万石. 松平(徳川)忠輝. Ch. 慶長 7(1602). e n g5 万石 chi. y. 承した時点の石高. n. al. 転封した時点. sit. Nat 武田信吉. 封入及び家督を継. 15 万石. er. 封入時間. ‧. 藩主の名前. i n U. v. 12 万石. 徳川家との関 係 徳川家康の五 男 徳川家康の六 男. 小笠原吉次. 慶長 12(1607). 2.8 万石. 3 万石. 家康の家臣. 土井利勝. 慶長 15(1610). 3.24 万石. 16 万石. 家康の信頼を 受けていた。 家康の落胤の 説でもある。. 石川忠総. 寛永 10(1633). 7 万石. 27. 7 万石. 家康と秀忠か.
(29) ら大いに信任 を受けた 松平(形原)家信. 寛永 12(1635). 4 万石. 天正 10(1582) 年早くから徳 川家康に仕え た. 松平康信. 寛永 15(1638). 3.6 万石(弟氏信・. 3.6 万石. 信忠に 2000 石ず. 堀田正盛. 父・家信の死 去により家督. つ分与) 政 治 大 寛永 19(1642) 11 万石 立. を継いた。 継母の春日局 が乳母を務め. ‧. ‧ 國. 學. 3 代将軍とな ると近習に取. n. al. er. io. sit. y. Nat 堀田正信. た徳川家光が. Ch. 慶安 4(1651). engchi U 9.2 万石(弟正俊. v ni. り立てられ、 その後も家光 に深く信頼さ れた。. 除封. 父・正盛の死. に新田 1 万石、弟. 去により家督. 正英に新田 5 千. を継いた。. 石、弟勝直に新田 3 千石分与) 27. 27. 『新訂 寛政重修諸家譜』に参考して作成した。 28.
(30) 堀田正信が除封されるまでの堀田家は前期堀田家と呼ばれ、江戸時代におい て主に正盛と正信を中心として、紀氏と称し、武内宿禰を祖としている。堀田 正盛は慶長 13(1608)年に江戸で生まれた。正盛の母が稲葉正成の娘で、稲 葉正成の継室は春日局である。その故に、元和 6(1620)年に三代将軍徳川家 光に拝謁し、家光の近習として短い間に出世していった。 正盛は元和 9(1623)年、相模国内に 700 石をあたえられ、12 月には従五位 下出羽守になって、その後加賀守に任じられた。寛永 2 年の加増による、相模 国恩田と常陸国北条に合わせて 5000 石を知行した。寛永 3(1626)年には小. 政 治 大 万石の譜代大名となった。同 10(1633)年 3 月 23 日に松平信綱・阿部忠秋・ 立 姓組の番頭となる。この年に上野国内群馬郡内に新恩 5000 石を与えられ、一. 三浦正次・太田資宗・阿部重次らと共に「六人衆」と呼ばれる、のちの若年寄. ‧ 國. 學. の起源となる。5 月には松平信綱と宿老(老中)並の扱いをうけて、幕閣での. ‧. 地位を確立した。12 月には、甲斐国内に 5000 石を加増されて 1 万 5000 石と. y. Nat. なった。寛永 12 年には 2 万石の加増で 3 万 5000 石で、封地が武蔵国川越に移. er. io. sit. されて、はじめて城主となった。同年に老中に就任した。. さらに寛永 15(1638)年に 10 万石となって信濃松本藩に転封され、老中の. al. n. v i n Ch 職務を免ぜられるが、 『寛政重修諸家譜』 によって、 「職をゆるさるといへども、 engchi U. 天下の大事政務の枢要にをいては、正盛評定所に候すべきむね仰下さる」 28と いう。評定所というのは三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)が合議によっ て事件を裁決し、かつ老中の司法上の諮問に答える幕府の最高司法機関であり、 よって正盛が幕政の参画をし続けた。寛永 19(1642)年、1 万石の加増をうけ て下総佐倉藩に転封された。 正盛は慶安 4(1651)年、46 歳で家光に殉死した。堀田正信が遺領を継承し て佐倉藩主となり、弟の正俊に 1 万石、正英に 5000 石、勝直に 3000 石を分け. 28. 『新訂 寛政重修諸家譜 第十』續群書類從完成会、1984 年、堀田正信の条。 29.
(31) 与えた。 堀田正盛が家光の信頼を受け、前述のとおり異常な速さで、老中も務めて、 江戸の周辺に領地持ち 11 万石の有力大名となる。それに正盛が家光に殉死し ただけではなくて、正盛の父正吉はあまり徳川家より重用はうけなかったが、 二代将軍の秀忠に殉死した。堀田家が幕府、及び徳川家と深く繋がりのある家 柄である。 2.1.2 正信の除封 堀田正信が万治 3(1660)年に無断帰国のゆえに除封された。 『紀氏雑録』29. 政 治 大 あると期待していた。正信は寛永 8(1631)年に生まれた。祖父の酒井忠勝・ 立 によって父の正盛が亡くなった後の正信が何かの役職に用いられる可能性が. 祖母の弟の稲葉正勝、父の正盛は老中である。忠勝がのち大老になって、将軍. ‧ 國. 學. 家を仕えた家系である。正信がこのような特別な家柄の持ち主で、役職を期待. y. Nat. った。. ‧. するのも当然のことであろう。だが正信は幕政に参加する機会に与えられなか. er. io. sit. 『徳川実紀』に万治 3 年 10 月 9 日の条 30に、正信が老中の保科正之と阿部 忠秋に宛てた書状を差さいて、無断で佐倉に帰ったと記している。正信が幕閣. al. n. v i n Ch を批判し、困窮な旗本の救済を理由として領地を返上するという行動になった。 engchi U その書状の要旨は以下のようである。. 当代御幼稚の昔より、代をしろしめす事既に十年、輔導の人其道を得ず、 天下の人民ことごとく疲弊し、幕下の諸士悉く貧困す、すべからく早く恩 恵をほどこし、窮愁を慰っせらるべし、もづ正信が父より傳へ給はる禄を もつて、御家人に充賜べき料とせらるべきなり、よて正信が所領の城地こ とごとくかへし奉るとの旨なりしとぞ 万治 3 年の当時、老中には保科と阿部のほか、松平信綱がいった。この書状. 29 30. 児玉幸多『佐倉惣五郎』吉川弘文館、1972 年版、142 頁 『徳川実紀』第三冊、経済雑誌社、1904-1907 年、厳有院殿御実紀巻廿、万治三年十月。 30.
(32) の宛名に松平信綱が見えない故に、『徳川実紀』にも「此封事のさすところ、 ひとへに松平伊豆守信綱を誹譏するにいたる事多く書載せ」と評価された。 その正信の行動の取り扱いについて、幕府内では評議を開いた。保科正之は 正信が「己が身をも家をもすてて諫を申」という行動に関してそれほど悪くは なかったと力説した。ほかの評議を参与するひとが保科正之の論説を同意した が、松平信綱だけが正信の行為を狂気と評価した。 そこで正之は正信が正盛の嫡子であると強調した。国のため身を擲って諫言 したことで何故に狂気と信綱に言われるのか、と正之は尋ねた。信綱は諫言が. 政 治 大 にも及べるといった。正盛の嫡子であるからこそ、狂気という理由で、その罪 立 無罪であっても、無断帰国のは反逆と同じで、正信自身だけではなく「罪三族」. が宥められることになる。. ‧ 國. 學. 結局、信綱の意見を採用して、正信が狂気であるとの理由で、次の取り扱い. ‧. をした。同年の 11 月 3 日に、正信の領地が没収され、彼自身が弟の信濃国飯. y. Nat. 田藩主脇坂安政に預けられることになった。息子の正休は稟米一万俵で上野吉. er. io. sit. 井に堀田家の存続を認められた。またこの年の年貢はすでに上納してしまった ため、11 月 15 日までに収納した分が正休に与えられた。. n. al. 第二節. Ch 佐倉藩の農村支配 e. ngchi. i n U. v. 『佐倉風土記』の記載によって、佐倉は「……地多曠原。高下不齊。而無山 嶽。其曰山者。或斷隴之餘。而有林薄耳。地多墳壤。未嘗有石。木宜杉松。不 宜於檜栢櫲章。多出巨竹。但身薄節脆不甚堅勁。寒暑大率無異武江」、この地 域は大体丘の多い平原で、大きい山岳がない。江戸よりの距離は 79 里で、約 現代の 50.575km、 距離が近いと気候も異なってない。行政地域で、佐倉は下 総国における、印旛郡、千葉郡、埴生郡、香取郡四つの郡がある。惣五郎一揆 が発生する時点に於いて、埴生郡は香取郡に属し、実際に三つの郡がある 31。. 31. 磯邊昌言『佐倉風土記』 、 房總文庫刊行會、1930 年、2 頁。 『佐倉風土記』は享保 7(1722) 31.
(33) また江戸時代に地勢によって「筋」という行政区画があって、南は寒川筋、北 は印西筋、東方面は成田筋である。惣五郎が住む公津村は印旛郡にあって、そ こは成田筋である。物産のほうは、柿・栗・筍などの植物以外、川は多いので 水産の鯉・鰻・蛤も特産である。また佐倉に「鹿兎駒」という馬がいて、「曠 原縱衡各三四十里、風牧於所所、官籍其牝牡消息之數、皆有厲禁、歲之六月、 吏來取之」、毎年の六月にこの馬の徴収を行う。ここから佐倉の地理条件を分 析すると、江戸より近いので、馬も出産し、交通の便は佐倉の開発に対する一 番重要な利点にある。また、徳川家は老中の封地を江戸の近くに入封する慣習. 政 治 大. があるので、佐倉藩の藩主もこの理由で、堀田正亮を入封させる以前に老中の 更迭に従って頻繁に変わる。. 立. 青木虹二編『編年百姓一揆史料集成』の第一冊 32には、承応 2(1653)年 12. ‧ 國. 學. 月 「佐倉惣五郎一揆」の史料として 、明治 32 年 8 月 14 日第 6672 号「新潟新. ‧. 聞」に掲載された「乍恐奉奏上御訴訟之事」以下のように直訴状を揚げている。. y. Nat. 堀田上野介領分下総国印旛郡佐倉組合八十四ヶ村名主、百姓、同国千葉郡. 射郡、山辺郡)七十ヶ村、組合村数二百四箇村. er. io. sit. 組合七十四ヶ村、同国相馬郡(布佐、守谷)組合三十九ヶ村、上総国(武. n. al. Ch. 右村々総代. engchi. i n U. v. 印旛郡公津村. 過免御取箇御免之訴訟. 名主. 宗五郎 外に六名 名 前 印. この直訴状から判明できるのは、堀田家に所属する領地は下総国の印旛郡・ 千葉郡・相馬郡と上総国の武射郡・山辺郡、5 つある。同文書では堀田正信の 年に成立した佐倉地志である。作者の磯邊昌言(1669-1738)は江戸初期~中期の儒者である。 江戸で越後高田藩主稲葉正通につかえ,元禄 14(1701)年下総佐倉藩主に転じた正通に従う。 主命をうけて『総葉概録』 『佐倉風土記』をあらわす。 32 青木虹二『編年百姓一揆史料集成』第 1 巻、三一書房、1979 年。「佐倉宗五郎一揆」の条、 245-246 頁。 32.
(34) 領地にある五つの郡の村々の名主、年寄、百姓たちが惣五郎を総代として、最 後のところに「承応二癸巳年十二月 当将軍尊君様」家綱将軍に願書を提出し たと記している。惣五郎の身分は名主で、藩の在村支配を行う役人である。 前述の史料は次に佐倉藩の由緒と直訴の起こった理由を述べる。 慶長十四年土井大炊守様御領分に罷成、御年貢御取箇並夫役其外等有来候 通御上納候、勿論村々永荒永引無高地高御慈悲を以て御憐愍被下、百姓共 農業出精仕り、親養育罷在、偏に難有奉存候、其後堀田加賀守様は信州松 本より寛永十九年壬午年佐倉へ御所替遊され、慶安三庚寅年前々御取箇に. 政 治 大 存候、然る処、翌年辛卯四月廿二日加賀守様御逝去後、御家督上野介様御 立. 准し、過分之増免と申儀は無之、夫役小物成等に至迄同断之儀にて難有奉. 付一斗二升宛増免御座候、. 學. ‧ 國. 代に成り、其年の秋御割付御免定より過分の増免御取箇御座候、高一石に. ‧. 慶長 14(1609)年土井利勝が佐倉藩に転封され、年貢は従来の税率ではら. y. Nat. てもらって、荒地と永引など耕作しにくい土地もあるとの理解で、年貢が免除. er. io. sit. されたと百姓たちが述べた。土井の政策によって、百姓の生活が安定できる。 その後寛永 19(1642)年に、堀田正盛が松本から封入、慶安 3(1650)年まで. al. n. v i n Ch も同様、税率が上がらない、また雑税も土井時代のままで上納させた。だが、 engchi U 慶安 4(1610)年正盛の死で、息子の正信が家督を相続して、同年の秋から税 率を 12%増した。 土井利勝と堀田正盛の間に三人の領主があるが、統治期間は短かかったので、 あまりにもその統治と年貢の収奪がどんな状況だったか判断しにくい。鏑木行 廣が『佐倉惣五郎と宗吾信仰』に前期堀田氏、つまり正盛と正信の統治時期の 年貢の特徴を概観していた。 33同じ佐倉藩領であった埴生郡佐野村・上福田 村・長沼村の本田年貢量と年貢率を例として考察した。前期堀田氏は検見取法. 33. 鏑木行廣『佐倉惣五郎と宗吾信仰』崙書房出版、1998 年、62-66 頁。年貢と年貢率が頁 63 の 表を参考した。 33.
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