第二章 佐倉藩政と代表越訴
第二節 佐倉藩の農村支配
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の宛名に松平信綱が見えない故に、『徳川実紀』にも「此封事のさすところ、
ひとへに松平伊豆守信綱を誹譏するにいたる事多く書載せ」と評価された。
その正信の行動の取り扱いについて、幕府内では評議を開いた。保科正之は 正信が「己が身をも家をもすてて諫を申」という行動に関してそれほど悪くは なかったと力説した。ほかの評議を参与するひとが保科正之の論説を同意した が、松平信綱だけが正信の行為を狂気と評価した。
そこで正之は正信が正盛の嫡子であると強調した。国のため身を擲って諫言 したことで何故に狂気と信綱に言われるのか、と正之は尋ねた。信綱は諫言が 無罪であっても、無断帰国のは反逆と同じで、正信自身だけではなく「罪三族」
にも及べるといった。正盛の嫡子であるからこそ、狂気という理由で、その罪 が宥められることになる。
結局、信綱の意見を採用して、正信が狂気であるとの理由で、次の取り扱い をした。同年の 11 月 3 日に、正信の領地が没収され、彼自身が弟の信濃国飯 田藩主脇坂安政に預けられることになった。息子の正休は稟米一万俵で上野吉 井に堀田家の存続を認められた。またこの年の年貢はすでに上納してしまった ため、11 月 15 日までに収納した分が正休に与えられた。
第二節 佐倉藩の農村支配
『佐倉風土記』の記載によって、佐倉は「……地多曠原。高下不齊。而無山 嶽。其曰山者。或斷隴之餘。而有林薄耳。地多墳壤。未嘗有石。木宜杉松。不 宜於檜栢櫲章。多出巨竹。但身薄節脆不甚堅勁。寒暑大率無異武江」、この地 域は大体丘の多い平原で、大きい山岳がない。江戸よりの距離は 79 里で、約 現代の 50.575km、 距離が近いと気候も異なってない。行政地域で、佐倉は下 総国における、印旛郡、千葉郡、埴生郡、香取郡四つの郡がある。惣五郎一揆 が発生する時点に於いて、埴生郡は香取郡に属し、実際に三つの郡がある31。
31 磯邊昌言『佐倉風土記』、 房總文庫刊行會、1930 年、2 頁。『佐倉風土記』は享保 7(1722)
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また江戸時代に地勢によって「筋」という行政区画があって、南は寒川筋、北 は印西筋、東方面は成田筋である。惣五郎が住む公津村は印旛郡にあって、そ こは成田筋である。物産のほうは、柿・栗・筍などの植物以外、川は多いので 水産の鯉・鰻・蛤も特産である。また佐倉に「鹿兎駒」という馬がいて、「曠 原縱衡各三四十里、風牧於所所、官籍其牝牡消息之數、皆有厲禁、歲之六月、
吏來取之」、毎年の六月にこの馬の徴収を行う。ここから佐倉の地理条件を分 析すると、江戸より近いので、馬も出産し、交通の便は佐倉の開発に対する一 番重要な利点にある。また、徳川家は老中の封地を江戸の近くに入封する慣習 があるので、佐倉藩の藩主もこの理由で、堀田正亮を入封させる以前に老中の 更迭に従って頻繁に変わる。
青木虹二編『編年百姓一揆史料集成』の第一冊32には、承応 2(1653)年 12 月 「佐倉惣五郎一揆」の史料として 、明治 32 年 8 月 14 日第 6672 号「新潟新 聞」に掲載された「乍恐奉奏上御訴訟之事」以下のように直訴状を揚げている。
堀田上野介領分下総国印旛郡佐倉組合八十四ヶ村名主、百姓、同国千葉郡 組合七十四ヶ村、同国相馬郡(布佐、守谷)組合三十九ヶ村、上総国(武 射郡、山辺郡)七十ヶ村、組合村数二百四箇村
右村々総代
印旛郡公津村
過免御取箇御免之訴訟 名主 宗五郎 外に六名 名 前 印
この直訴状から判明できるのは、堀田家に所属する領地は下総国の印旛郡・
千葉郡・相馬郡と上総国の武射郡・山辺郡、5 つある。同文書では堀田正信の
年に成立した佐倉地志である。作者の磯邊昌言(1669-1738)は江戸初期~中期の儒者である。
江戸で越後高田藩主稲葉正通につかえ,元禄 14(1701)年下総佐倉藩主に転じた正通に従う。
主命をうけて『総葉概録』『佐倉風土記』をあらわす。
32 青木虹二『編年百姓一揆史料集成』第 1 巻、三一書房、1979 年。「佐倉宗五郎一揆」の条、
245-246 頁。
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領地にある五つの郡の村々の名主、年寄、百姓たちが惣五郎を総代として、最 後のところに「承応二癸巳年十二月 当将軍尊君様」家綱将軍に願書を提出し たと記している。惣五郎の身分は名主で、藩の在村支配を行う役人である。
前述の史料は次に佐倉藩の由緒と直訴の起こった理由を述べる。
慶長十四年土井大炊守様御領分に罷成、御年貢御取箇並夫役其外等有来候 通御上納候、勿論村々永荒永引無高地高御慈悲を以て御憐愍被下、百姓共 農業出精仕り、親養育罷在、偏に難有奉存候、其後堀田加賀守様は信州松 本より寛永十九年壬午年佐倉へ御所替遊され、慶安三庚寅年前々御取箇に 准し、過分之増免と申儀は無之、夫役小物成等に至迄同断之儀にて難有奉 存候、然る処、翌年辛卯四月廿二日加賀守様御逝去後、御家督上野介様御 代に成り、其年の秋御割付御免定より過分の増免御取箇御座候、高一石に 付一斗二升宛増免御座候、
慶長 14(1609)年土井利勝が佐倉藩に転封され、年貢は従来の税率ではら てもらって、荒地と永引など耕作しにくい土地もあるとの理解で、年貢が免除 されたと百姓たちが述べた。土井の政策によって、百姓の生活が安定できる。
その後寛永 19(1642)年に、堀田正盛が松本から封入、慶安 3(1650)年まで も同様、税率が上がらない、また雑税も土井時代のままで上納させた。だが、
慶安 4(1610)年正盛の死で、息子の正信が家督を相続して、同年の秋から税 率を 12%増した。
土井利勝と堀田正盛の間に三人の領主があるが、統治期間は短かかったので、
あまりにもその統治と年貢の収奪がどんな状況だったか判断しにくい。鏑木行 廣が『佐倉惣五郎と宗吾信仰』に前期堀田氏、つまり正盛と正信の統治時期の 年貢の特徴を概観していた。33同じ佐倉藩領であった埴生郡佐野村・上福田 村・長沼村の本田年貢量と年貢率を例として考察した。前期堀田氏は検見取法
33 鏑木行廣『佐倉惣五郎と宗吾信仰』崙書房出版、1998 年、62-66 頁。年貢と年貢率が頁 63 の 表を参考した。
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を採用した。鏑木行広の研究では、正盛時代の寛永 19(1642)年から慶安 3
(1650)年の間の年貢記録を調べると、高年貢率が実際に維持されていた。前 述の直訴状が記した正盛時代には年貢の増税がなかったが、この三つの村の正 盛時代の年貢を見ると、実際には増税になっている。
だが、正信時代である慶安 4 年から万治 3(1660)年までの十年間、高い年 貢収奪がさらに強化されていた。慶安 4 年から承応 3 年、四年の間に年貢率が 正盛時代より高くなって、三つの村の年貢率の最高記録がこの時期に発生した。
直訴状が記した「高一石に付一斗二升宛増免」のような厳酷な年貢収奪が示さ れていた。
また、この直訴状によって惣五郎は公津村に住んでいた。公津村は承応 2
(1653)年に五つの村に分かれて、下総国東勝寺宗吾霊堂所蔵の名寄帳「惣五 郎分」によれば、佐倉惣五郎は台方村の百姓である。年貢記録34では、承応元
(1652)年公津村の年貢率は 67.5%、総年貢量は 751.219 石であった。翌年 五つの村に分かれたとき、各村の年貢率は加減があったが、総計では 772.064 石に増加した。分村以後に年貢が増加した事実からして、百姓の負担が増加さ れた。これが「惣五郎一揆」の最大の理由であろう。
一連の直訴の原因は経済的な理由である。次の内容で百姓たちの厳しい生活 様態が詳しく描かれている。
一 小物成大豆、小豆、胡麻、糠、藁縄等前々の通是あり、雑穀之品は代 米を下し置れ候処、書上之通り過納仕、勿論代米は一切不被下候事、
これまで大豆・小豆・胡麻・糠・藁などの小物成を納めた時に代米がくださ れたが、いま前述の通り不合理な年貢を払う以外、代米も一切くだされない。
一 御年貢米上納之儀、過分増米外役代米下し量れず候に付、百姓共自然 と困窮相募り、御皆済にも延引に相成、奉公人に差出給金又は竹木を伐取
34 『千葉県印旛郡誌』崙書房、1975 年。
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御国許同様之御扱にて御取用無御座、依之久世大和守様御駕籠に付訴訟仕 候得共、角兎国許へ御願可申出仰渡され候得共、国屋敷にて一向御取用ひ 無御座候、増免過役等一ヶ年上納仕候得共、所持田畑村方へ差出し、其身 他国他領へ離散仕り、人数凡そ七百三十人、此家数百八十軒并寺院十一ヶ 寺無住に相成、当時持来の田畑取賄ひ行届かず甚難儀仕候、
このような訳で、百姓が藩当局から再度の請願を無視されたため直訴にいた った経過が読み取れる。惣五郎たちは其の願書を国中の役人、江戸の堀田家の 屋敷、久世大和守のところに差し出したが、誰にも受け取ってもらえなかった。
このような訳で、百姓が藩当局から再度の請願を無視されたため直訴にいた った経過が読み取れる。惣五郎たちは其の願書を国中の役人、江戸の堀田家の 屋敷、久世大和守のところに差し出したが、誰にも受け取ってもらえなかった。