第一章 近世前期の農村支配構造
第一節 近世前期の地域支配
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第一章 近世前期の農村支配構造
第一節 近世前期の地域支配
近世の支配体系は中世惣村の自治の性格を全般的に否定しないまま、中世以 来こういう在地勢力を変えて政権の末端として利用した。そういう変化は戦国 時代に入って、各戦国大名による惣村の自治権が制限され、または奪われた場 合もあった。天正 14(1586)年豊臣秀吉が太政大臣になって、統一政権とし ての豊臣政権が成立した。秀吉の一連の政策によって、近世の封建体制の基礎 が作れられた。中世以来の在地領主制の解体をはかる兵農分離策として、以下、
太閣検地・刀狩令と身分統制令を論じてみよう。
1.1.1 太閣検地
豊臣秀吉が検地を行なったのは天正 9(1582)年に遡ることができる。天正 19(1591)年関白の位を豊臣秀次に譲ると「太閣」の称号を使用したが、天正 19(1591)年以前の検地も含めて「太閣検地」と呼ぶ。
室町と戦国時代に一円に支配権と自領の実質総農業生産高を確認するため、
戦國大名らが検地を行って、中世の荘園と 国衙領の枠を超えて、新たに支配 権を取った地域と課税を記録で確立した 。だがほどんとの戦國大名が領地に 全面的に検地を行うわけではなかった。
秀吉は全国を武力で征服して、同時に検地を行い、よって征服した土地を把 握した。検地は秀吉の征服範囲に連れて遂行されたが、天正 10(1582)年か ら、1 歩を 6 尺 3 寸四方、300 歩を 1 反、田畑の等級を上・中・下・下々の四 段階と定め、枡を京枡に一定して石高を算定し、耕地 1 筆ごとに耕作者を検地 帳に記載して年貢負担者を確定した。統一する前の検地の不徹底さがあったと 推測すると、全国一致の基準で作った検地帳も近世封建体制の基礎になったと 言えよう。
また全国を統一した豊臣政権は検地を通して、改めて農民を土地に固定させ、
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検地帳で所有関係を確定した。それで、中世の地方支配構造も検地によって解 体し、農民は小農になって、土豪の支配から解放された。村の支配関係は単純 化され、幕府―領主―惣代―庄屋(名主・肝煎)―百姓の構造になった。そこ で問題が生じるのは庄屋層の位置づけとその上下関係である。
1.1.2 刀狩令
天正 16(1588)年七月八日の日付で秀吉の掟書「条々」として刀狩令は発 令された。その内容は次の三ヶ条である。
条々
一 諸国百姓刀、脇指、弓、やり、てつはう、其外武具のたくひ所持候事、
堅御停止候、其子細者不入道具を相貯、年貢所當を難渋セし免、一揆を 企て、自然対給人非儀能働奈須族、勿論可有成敗、志カ連ハ其所之田畠 令不作、知行費に成候の間、其国主・給人・代官等として右武具取集こ とこと具可致進上事、
一 右取をカるへ幾刀・脇差を費にさせら類遍支儀に是あらす候、今度大 仏建立能釘・かすカい以に可被 仰付候、然者今生之儀者不及申、来世迄 も百姓相助義候事。
一 百姓者農具さへ持、耕作専に仕候得者子々孫々迄長久候、百姓阿われ 飛を以て如此被 仰出候、誠に国土安全万民快楽能もと以也、異国ニ而者 唐尭能楚乃カミ天下越奈て守りたまひ、寶剣・利剣を農器に用ると奈り、
此旨を守り各其趣を存知、百姓者農業を可入精事、
右道具急度取集可致進上、不可油断者也、
天正十六年七月八日5
第一条は武器を所持することを厳禁した。百姓らが武器を持つことで、年貢 と雑税を納めることの難渋、または一揆を企て・田畑の不作などの行為があっ
5 「小早川家文書」『大日本古文書 家わけ. 11』東京帝國大學文學部史料編纂掛編纂、1927 年、480 頁。
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たからだ。すなわち、刀狩りは領主側が年貢を順調に取れる基礎になるに行わ れた。第二条で取り集めた武器は京都の方広寺の大仏を建立する釘と鎹になる ことを示して、それによって、秀吉は百姓の来世の幸福も助けたいと伝えた。
第三条は農民の本分は耕作であると明記され、百姓の農業に専念して欲しい。
「百姓者農具さへ持、耕作専に仕候得者子々孫々迄長久候」と政権側が求める 百姓像を明定した。武器を武士に集中して、百姓を守るのは武士の役割であり、
百姓はその庇護のもとで農業を務める。それで子孫が長く続けると説得した。
この条々では政権側が民の現世と来世の利益を守ろうという懐柔策とも言え る。
ここに注意したいのは、豊臣政権がまず刀を代表として武力を持つ権利を回 収した。だが、中世の刀は成人になった男性の人格と名誉の表象であって、秀 吉の刀狩令はそういう刀の持つ重さを抱え込んで生まれてきたと藤木久志が 指摘した。6柳田国男は著作『日本農民史』で、百姓にとって刀狩りの意味に ついては以下のようである。
……兵器殊に銃砲の村に在る者は取上げられ、刀狩りと称して刀剣類まで も持去られた地方もある。家の名を大切にする人々には、堪え難いことで あった…今日の思想では士と農と、もう全然二元のものの如くなってしま った……最初は百姓は良民又は公民の総称で、武士も亦悉く其中から出た ものであるが、兵と農と相兼ぬることを得なくなった結果、百姓は武士よ りも低い身分と為った。数百年の由緒を有する農家にとっては、刀をとら れることは忍び難い零落であった……7
つまり、当時の農民にとって、刀が取られたことより、名誉が奪われたこと が辛い。刀の持つ権利の有無で、百姓と武士の身分がはっきり分れた。さらに、
「数百年の由緒を有する農家」という在地領主が武力を奪われ、より低い身分
6 藤木久志、『刀狩令』、岩波書店、2005 年、4 頁。
7 同上、29 頁。
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の百姓に落ちて、固定化された。豊臣政権は象徴的に在地の武力勢力である地 侍の勢力を制圧していた。
1.1.3 身分統制のはじまり
天正 19 年(1591 年)に豊臣秀吉が以下 3 ヶ条の法令を発した。ここから近 世日本の身分制度が創出された。
定
一 奉公人、侍、中間、小者、あらし子に至迄、去七月奥州江御出勢よ り以後、新儀ニ町人百姓ニ成候者在之者、其町中地下人として相改、一切 をくへからす、 若かくし置ニ付てハ、其一町一在所可被加御成敗事、
一 在々百姓等、田畠を打捨、或あきない、或賃仕事ニ罷出輩有之者、
そのものゝ事ハ不及申、地下中可為御成敗、并奉公をも不仕、田畠もつ くらさる、代官給人としてかたく相改、をくへからす、若於無其沙汰者、
給人過怠にハ、其在所めしあけらるへし、為町人百姓かくし置ニおゐて ハ、其一郷同一町可為曲言事、
一 侍小者ニよらす、其主に暇を不乞罷出輩、一切不可拘、能々相改、
請人をたて可置事、但右者主人有之而、於相届者、互事之条、からめ取、
前之主の所ヘ可相渡、若此御法度を相背、自然其ものにバし候ニ付テハ、
其一人の代ニ三人首をきらせ、彼相手之所へわたさせらるへし、三人の 人代不申付ニをいてハ、不被及是非候条、其主人を可被加御成敗事、
右條々、所被定置如件
天正十九年八月廿一日(秀吉朱印)8
第一条では奉公人、侍、中間、小者、荒子9は地下人=百姓になることは禁 止された。第二・三条は百姓の義務は田畑を耕作することであると規定し、商
8 「小早川家文書」『大日本古文書 家わけ. 11』東京帝國大學文學部史料編纂掛編纂、1927 年、481 頁。
9 『国史大辞典 1』吉川弘文館、336 頁。荒子:戦国時代ごろ、半端な雑役に扈従する一種の 雑兵の呼称。嵐子とも書く。もとこの語にはある種の労役奉仕の意があり、荒仕事の意ともい われるが、実態は詳らかでない。
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人や職人になるのはいけない。また農民は田畑から、侍・小者などの下層武士 はその主の処から逃げることがあったら、処罰を受ける。その内容によると、
近世の社会関係の基本が領主と百姓の年貢賦課と徴収にあること、兵農・商 農・職農の分離を通して、社会の安定のためにその秩序を守べきという原則が 明らかにされた。
この定から、秀吉は近世百姓を明確に位置づけた。「百姓」の社会的役割が 年貢米の生産と納入することである。統一政権である豊臣政権は理想な百姓像 を作って、百姓とは農耕を従事して年貢を納入する階層であると決めた。在村 には武士を住ませない、農耕を業とする者だけを住まわせるの施策である。武 士は勿論村から退去したが、商人と職人はこういう身分制度の中で無視され、
百姓として被せられた。ここから在村の居住者は農民しか居ないという勘違い が生じた。
秀吉が前述の刀狩令・検地・身分統制によって、中世からの在地勢力の終結 を得た。それが表面的に村を最小単位として、農民は年貢によって領主と結び、
秀吉が前述の刀狩令・検地・身分統制によって、中世からの在地勢力の終結 を得た。それが表面的に村を最小単位として、農民は年貢によって領主と結び、