第二章 佐倉藩政と代表越訴
第三節 名主惣五郎と代表越訴
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成)の金納化に反対するため、越訴を起こった。事件の領導は下総印旛郡公津 村の百姓佐倉惣五郎である。だがここの記載は後の直訴状本文と比較すると、
二つの違う点がある。第一点は増米の比率で、第二点は一揆を行った時間であ る。以上のような直訴状は幾つの写があって、大体のあらすじが変わらない。
第三節 名主惣五郎と代表越訴
2.3.1 江戸幕府の直目安と逃散に対するの態度
幕府の直目安(越訴)と逃散についてのお触れと掟から、慶長 8(1603)年 12 月 6 日に発令された諸国郷村掟をまず見てみよう。
覚
一 御料并私領百姓之事、其代官領主依有非分、所を立退候付而ハ、縱其 主より相届候とても、猥に不可歸付事、
一 年貢未進等有之者、隣郷之取を以、於奉行所互ニ出入令勘定、相済候 上、何方に成共可住居事、
一 地頭之儀申上候事、其郷中を可立退覚悟ニて可申上之、尤も無くして 地頭の身上、直目安を以申上儀御停止事、
一 免相之事、近郷之取を以可相計之、附、年貢高下之儀、直ニ目安上候 儀、曲事思召事、
一 惣別目安之事、直ニ差上儀堅御法度たり、但、人質を取られ、せんか たなきに付ては、不及是非、先御代官を以可申上之、并奉行所へ差上之、
無承引付而ハ、其上目安を以可申上、不相届して於申上之ハ、可為御成敗 事
一 御代官衆之儀、非分於有之ハ、届なしニ直目安可申上事、
一 百姓をむさと殺候事御停止たり、縱雖有科、搦捕之、於奉行所対決之 上可申付事、
右の條々、依仰執達如件、
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慶長八年三月廿七日
内藤修理亮 青山常陸介38
この掟が逃散と直目安について全部含めて規定した。ここで逃散について、
第一条では、代官・領主が不法行為をした理由で、百姓が逃散しても、領主が 百姓を引き戻すのを禁止していた。また第二条では、年貢が未納のまま、「隣 郷之取」を納めば、逃散その行為が黙認される。
逃散は中世からの残留された作法で、農民が計画的に、村落単位で領主から 領主の力の及ばない山野などに逃げ去るやりかたで、領主に談判を挑む作法で ある。領主は領地の耕作を望むため、農民側の要求を受け入れる。さらに、封 建体制の基礎は土地を媒介として、幕府―大名―武士―百姓という身分階級を 作った。もし封建体制の底にいる百姓が土地から離れて、百姓は生産力の主体 で、経済体としての機能もなくなった状態では、封建体制の危機になると幕府 が意識して、百姓らの要求を受け入れる対応をした。封建制度の安定を図るた めである。
第三条では、地頭つまり当地を支配する旗本は「郷中を可立退覚悟」をもつ ほうがよいという幕府の覚書である。この三条から幕府が逃散に対する態度は 否定的ではなかったようだ。
中世において、百姓は居留の自由を持つ。保坂智が『百姓一揆とその作法』
に、鎌倉幕府は関東御成敗において、年貢皆済後の百姓の逃散が認められるこ とで、江戸幕府がその規定を踏襲していたと提出した。39だが、中世百姓の自 力的な性格とは違い、江戸幕府は重層的な構造によって社会支配を尽くすのを 目標とする。逃散に対する放任な態度から、幕府の社会支配の不充分を表す。
次の第四条で、年貢は「近郷の取」で計るべきと規定された。よって地域の
38 法制史学会編、石井良助校訂『徳川禁令考 前聚』二七七三号、創文社、1981 年、149 頁。
39 保坂智『百姓一揆とその作法』吉川弘文館、2003 年、72 頁。
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年貢収納が平均になる。または年貢のために直目安を行うのは原則的に違法行 為と記す。だが、第五・六条において、人質を取られる場合や代官に非分のこ とがあったら、直目安を認める。幕府が直目安と逃散を前提とした場合、認め るのは 17 世紀と変わらない。
同じ保坂智の論説で、幕府による直目安を受容するのは、「公儀」として大 名と大名の間・大名と百姓・村と村の間で起こる紛争を調停・裁許しなければ ならないと述べる。幕府への直目安を認めなかったら、国家公権としての幕府 の役割は果たせない。また直訴権を含めた民衆の訴訟権を認めなければ、強固 な支配体制が確立できない、と保坂は指摘した。40
だが、近世初期において、幕府の支配力がどれほど村落をコントロールした かに疑問を持つ。直目安と逃散を認める事によって、百姓との間についに信頼 関係が構築する。もしくは藩・村役人が百姓らの行動を制圧しようとすると、
藩と村役人への処罰によって、新しい統一政権である幕府が自らの権威を維持 する。そこから近世初期、さらに幕府は村落への支配力の不足を示していると いえよう。
2.3.2 代表越訴の合理性
保坂智は『百姓一揆とその作法』で、『徳川実紀』に百姓が将軍へ直訴した 五件の事例を研究した。一般的に、惣五郎の直訴は不敬きわまりない行為とし て磔に処せられると理解された。しかし、『徳川実紀』という幕府の正史に記 録したものは将軍直訴という行為そのものでは逮捕・処罰されなかった。また 武士・商人・僧侶らの直目安も『徳川実紀』に散見する。慶安元年に、家光は 直目安が将軍の参宮の間に禁止されるという御触れを発令し、裏を返せば参宮 期間以外は許可される、と保坂が指摘した。またこの御触れには「於江戸御評 所え罷出、御訴訟可申事」という幕府へ直接訴願を提出する行為をすべき行為
40 保坂智『百姓一揆とその作法』吉川弘文館、2003 年、76-78 頁。
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として提示した。保坂は幕府が訴状内容の理非に従って裁許したと理解した。
処罰は直目安をしたからなのではない。惣五郎は身を捨てる、百姓たちの困窮 を将軍に報告した。直目安が成功したが、惣五郎とこの家族が処刑された。だ が、惣五郎一揆が発生した時点の 17 世紀の半ばで、このような直目安は基本 的に許される。41
児玉幸多氏が東勝寺宗吾霊堂所蔵の「惣五郎分」の名寄帳を考察してから、
惣五郎の実存在が確認された。その名寄帳を作った役人の名前と照合すると、
「惣五郎分」の作られた時点は大体承応 3(1654)年で極めて近い時期である。
惣五郎は名付主で、中世後期の身分制度で分ければ、「地侍」であり、すなわ ち上層の農民であったと考えられる。42
従来の百姓一揆研究において、惣五郎が「代表越訴型一揆」の典型と理解さ れている。だが、代表越訴という行為の合理性はどうなるのか。前述の直訴状 から、惣五郎は名主である。第二章で江戸時代の名主が政権の末端であること がわかった。地方支配を強化するため、近世の領主は在地の有力百姓を名主に 任命し、その在地の影響力を利用して、よって支配が貫徹できる。本来の地方 勢力である名主はいかに幕府と藩の力になるのか。百姓身分であるが、名主は ほかの百姓より服装と違い・苗字帯刀などの特権を持っている。さらに、名主 に給与が与られた。通説ではなかったが、惣五郎の苗字は一部の研究において、
「木内」と記された。苗字の持つことから見て、惣五郎はかなり治政のいい名 主である。前期堀田氏が佐倉藩における統治は確かに非道で年貢も非常に高か ったことから、地方のよく管理できる名主である惣五郎を処刑する理由はなん だったのか。
当時の佐倉藩における本百姓層と小前百姓のあいだに大きな矛盾がなかっ たらしい。ここで惣五郎が名主という役職を正常に行っているという前提で、
41 40 に同じ、51-57 頁。
42 児玉幸多『佐倉惣五郎』吉川弘文館、1972 年版、95-105 頁。
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彼の仕事は村の秩序を維持すること、または代官と百姓の間のパイプである。
前述の直訴状が述べるように、過酷な年貢収奪によって、佐倉藩の百姓たち が困窮になって、村から出て、逃散の道路を選んだ。農民が土地に緊縛される のは近世兵農分離社会の底盤で、こういう行為が封建体系を崩壊に導く。その 結果を予見した惣五郎は名主の職責を果たすため、領主・老中の久世大和守・
または頂上にいる将軍に報告するつもりである。それが代表越訴と言えること であろうか。土豪の性格をもつ惣五郎のように土地を持つ上層の農民が、村落 から他領地に逃散する農民が 730 人 180 軒も出たことを報告している。その行 動を代表越訴とはいえな。、名主が封建領主に対して、地域支配を尽くすため の警報を発したからだ。
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