第三章 惣五郎の義民像形成の過程
第三節 義民佐倉惣五郎の伝説 …
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る。その祠は現在にも存在している。56
当時の佐倉の百姓らは惣五郎の事蹟によって領主の非道な政治が改められ ると信じていたらしい。領主である正亮が惣五郎を認めて、さらに義民として 祀ることによって、被支配者の気持ちがこのことに通して鼓舞されたのではな いだろうか。宝暦 3(1753)年 1 月、百回忌後五ヶ月にして、公津地区の五つの 村から年貢の減免願いが出た。藩主が惣五郎を義民として認めたことは、出願 の機会としては最適である。この事件は百姓が惣五郎を利用して自分の利益を 得る実例である。
第三節 義民佐倉惣五郎の伝説
3.3.1 宗吾廟が作られた前の惣五郎伝説
『佐倉風土記』に神社の項で「将門大明神社」の条、以下の記載がある。
紀正信建石鳥居、有銘刻曰、奉寄進將門山大明神、石華表右柱承應三甲午 天、十一月日、總州印播郡佐倉城主從五位下堀田上總介紀朝臣正信左柱或 謂此為祭總五靈者非也、聞之故老、正信城主時、神津村老農總五有罪被 磔、渠自冤之、為祟不已、建小祠於山下以鎮之、其祠廢已久矣、濱宿與 神津之際、疇上有小石龕、此其址也云、57
将門大明神社において正信時代で建てられた石の鳥居がある。鳥居の建立し た時間は承応 3(1654)年である。『佐倉風土記』の作者磯部正言は当時の故 老を尋ねたと、この鳥居が建立した契機は「自冤」の「神津村老農總五」を祀 るためである。事跡から神津村は公津村、總五は宗吾である。
同じ作者の磯部正言が作った『総葉概録』に、惣五郎の怨霊に関する以下の 記載がある。
堀田氏の城主たりし時、公津村の民総五罪ありて戮せられしが、自ら冤 と称し、城主を罵りて死し、時々祟を現し遂に堀田氏を滅す。因て其の
56 鏑木行廣『佐倉惣五郎と宗吾信仰』、崙書房、1998 年、220-221 頁。
57 磯邊昌言『佐倉風土記』、房總文庫刊行會、1930 年、39 頁。
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霊を祭り、一祠を建て総五宮と称すと。
以上の記載では、堀田氏が城主であった時に、公津村の百姓総五は罪で処刑 された。総五は自分が冤罪である理由で城主を罵って死んだ。総五の霊が時々 祟をなして、堀田氏は遂に滅した。その霊を祀るために「総五宮」を建てた。
総五は惣五郎の別称である。以上は惣五郎伝説のパターンである。磯部正言は 当時仕えた藩主稲葉氏の命令で『総葉概録』と『佐倉風土記』を作成した。『総 葉概録』が作成した年は正徳 5(1715)年、『佐倉風土記』は享保 7(1722)年 である。惣五郎事件の発生した時点から約 60 年過ぎている。つまり、藩の義 民として祀られる前に、惣五郎の伝説は既に佐倉の百姓の間に広がった。
では、なぜ総五は「将門大明神社」として祭られたのか。将門とは平将門で ある。将門は承平 5(935)年に常陸の国司であった伯父の平国香を殺して兵 をあげ、関東の大半が彼の勢力範囲になった。後将門は自らを親皇と自称した。
同じ時期に、瀬戸内で藤原純友が乱を起こしており、二つの乱は承平・天慶の 乱と呼ばれる。将門は天慶 3 年に殺された。将門の怨霊が祟を現す伝説がよく 知られているため、将門を祀る神社も地方に数多くある。総五を「将門大明神 社」に祭ったのは将門の怨霊伝承と結びつけるためである。そのために、正信 が鳥居をここに寄進した。
また、磯部昌言と同じく稲葉氏を仕えていた渡辺善右衛門が著した『佐倉古 今真佐子』に次のような将門山にかかわる記載がある。
人行といつかたへか隠れ一人もをらず平親王の社也、此少先に又石の鳥井 ある、はいでん宮も右の趣にてかわる事なし、そうず大明神の社也、此宮 は堀田上野介殿こんりう、百姓そうず云者ありしか城主の上野介殿とくし を仕、そうずかちくす成るを、ひになしをもき仕置せしゆへ、此霊魂たゝ りをなしし故、神にまつり宮を建る、それよりしづかにしてたゝりなし、
此霊ゆへ上野殿つぶるゝ也
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石の鳥居は「平親王の社」の少し先にあって、「堀田上野介殿」が建立した ことを比較すると、渡辺が書いている「そうず大明神」が惣五郎であることが 明らかだ。三ツの例から、事実とは相応しくないところも大分あるが、佐倉地 方において惣五郎伝説の伝承が伺える。また、『下総国旧事考』に「木内宗五 郎」の条にもその墓の記載がある。
墓在公津臺方。今稱口社。惣五記。宗五墓碣。古老話。菱川左門秦嶺文集 卷二)云。正信公襲封。私有志願。崇某氏之靈。建祠將門山口而祀之。實 承應三年冬十一月也。士庶進香。崇敬甚篤。稱曰。區智明神。國人讀口為 區。大佐倉寶珠院。世為別當。春秋二仲。為賽會期據之土人以為祀宗五者 似是。58
以上の史料により、一般的に正信が口の明神を建立するのは江戸中後期の佐 倉藩と信じられている。
3.3.2『地蔵堂通夜物語』『佐倉義民伝』『堀田騒動記』
18 世紀中期から流伝したの惣五郎伝説については、『地蔵堂通夜物語』『佐 倉義民伝』『堀田騒動記』という 3 つの系統がある。伝説は物語のかたちを整 理してきた。時間については、通説は宝暦 2(1752)年と一般的に信じられる。
つまり惣五郎の百回忌以後のことである。現在確認できる十数種の写本の中で、
もっとも古いものが安永 2(1773)年である。59それぞれの内容は若干の相違 点があるが、物語の流れがほぼ以下のような内容である。
下総國印旛郡佐倉の城主堀田加賀守正盛は慶安 4(1651)年に三代将軍徳川 家光に殉死した。嫡子の上野介正信が家督を相続することになった。正信が領 内の百姓の年貢・諸役を増やす、収奪を強化した。大小の百姓はそれによって 困窮して、祖先伝来の田畑や山林・家財を売り払い、他領に奉公に出たりして なんとか年貢を上納していたが、生活が苦しくなった。そこで佐倉の名主らは
58 清宮秀堅『下総国旧事考』、崙書房、1971 年、671-672 頁。
59 深谷克己『百姓一揆事典』民衆社、2004 年、 29 頁。
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相談の上、代官に賄賂を送って年貢・諸役を軽減してもらいたいが、効果がな かった。さらに郡奉行・勘定頭・家老へと順次に訴えたが、まったく受け取ら れなかった。そこで領内の名主三百余人が堀田家の江戸屋敷願いに出ることに なった。ところが名主らが船橋の宿に集合した時に、公津村の名主惣五郎が来 ないので、名主中の二人は公津村に戻って惣五郎の家を尋ねると、急病が起き たので、遅くなったが必ず行くと惣五郎は伝えた。
堀田家への嘆願が聞き取れなかったので、惣五郎の意見で六人の名主が代表 となって老中久世大和守に駕籠訴を決行し、惣五郎が願書を上げると、とにか くそれを受理してくれた。六人が喜んでいたが、しばらくして願書が下げ戻さ れた。そこで六人の代表は将軍への直訴を計画し、四代将軍家綱が上野寛永寺 へ参詣するときを狙って、惣五郎がひとりで村々の総代として訴状を差出し、
将軍に渡して越訴が成功した。将軍は帰城後、願書を井上河内守に渡したので、
殿中で評議の上、願書を堀田上野介に下げ渡した。上野介は面目を失い領内の 租税の減免を命じ、責任者を処分しようとしたが、結局家臣が惣五郎一人に罪 を着せ、その妻子まで死罪に処せられることになった。幼い男子がまず討ち首 になり、夫婦は磔刑になった。四人の子どもが眼の前で死んだことを見て惣五 郎夫婦は、自分は万人のかわりに命を捨てるのであるから本望ではあるが、子 どもさえ殺すのは非道の至りである。やがて堀田家の家は子孫まで安穏にして おかぬと宣言した。その後上野介の妻が懐胎中に病死するが、惣五郎の祟によ るものだとされている。上野介は惣五郎の霊を祭ったが、乱心してついに城地 を没収される。
前に挙げた惣五郎の直訴物語のうち最もよく知られているのは『地蔵堂通夜 物語』である。印旛郡佐倉勝胤寺の地蔵堂において、同堂の庵主あるいは惣五 郎夫婦の亡霊である夫婦は、諸国巡礼の六十六部(行脚の巡礼者)である永西 のため、将門山にある口の明神の由緒を六部に物語るという形式でえ綴られて
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いる。『地蔵堂通夜物語』では、直訴が承応 3(1754)年のこととして、惣五 郎が処刑されたのは翌年の明暦元年の 2 月 21 日である。惣五郎の先祖が千葉 氏の家臣で、土民と素性が違っているという記述もある。
第二の形式は『堀田騒動記』である。これも『佐倉騒動記』『宗五郎由来』
『佐倉宗五郎物語』『百姓徒党強訴之始末書』『百姓訴訟物語』『宗郷記』など と異なる題名がつけられている。直訴の時間を正保元(1644)年 12 月、処刑 を同 2 年 2 月 11 日とする。正保年間の佐倉藩主は正盛であったが、『堀田騒動
『佐倉宗五郎物語』『百姓徒党強訴之始末書』『百姓訴訟物語』『宗郷記』など と異なる題名がつけられている。直訴の時間を正保元(1644)年 12 月、処刑 を同 2 年 2 月 11 日とする。正保年間の佐倉藩主は正盛であったが、『堀田騒動