第二章 佐倉藩政と代表越訴
第一節 佐倉藩主と徳川家の関係
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第二章 佐倉藩政と代表越訴
第一節 佐倉藩主と徳川家の関係
2.1.1 前期堀田家と幕府の関係
江戸時代に入ってから堀田正信が佐倉を除封されたまでも間に、佐倉藩を支 配していた大名に関してまず見てみよう。将軍の御恩で領地が大名に給付され るのは幕藩関係の中心にある。転封と改易で大名の力を削弱する以外、徳川幕 府の初期、親藩・譜代大名で外様大名の力を制御するのも一種の方法である。
佐倉が江戸より距離が近い、ここの土地を家臣に分与する方が良いという徳川 幕府の考え方がある。
以下の表を見ると、佐倉藩主になれたのは、すべて当時の将軍に信頼された 徳川家の息子や徳川家に親しい関係を持つ家臣である。
藩主の名前 封入時間 封入及び家督を継 承した時点の石高
転封した時点 の石高
徳川家との関 係 武田信吉 文禄元(1592) 5 万石 15 万石 徳川家康の五
男 松平(徳川)忠輝 慶長 7(1602) 5 万石 12 万石 徳川家康の六
男 小笠原吉次 慶長 12(1607) 2.8 万石 3 万石 家康の家臣
土井利勝 慶長 15(1610) 3.24 万石 16 万石 家康の信頼を 受けていた。
家康の落胤の 説でもある。
石川忠総 寛永 10(1633) 7 万石 7 万石 家康と秀忠か
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堀田正信が除封されるまでの堀田家は前期堀田家と呼ばれ、江戸時代におい て主に正盛と正信を中心として、紀氏と称し、武内宿禰を祖としている。堀田 正盛は慶長 13(1608)年に江戸で生まれた。正盛の母が稲葉正成の娘で、稲 葉正成の継室は春日局である。その故に、元和 6(1620)年に三代将軍徳川家 光に拝謁し、家光の近習として短い間に出世していった。
正盛は元和 9(1623)年、相模国内に 700 石をあたえられ、12 月には従五位 下出羽守になって、その後加賀守に任じられた。寛永 2 年の加増による、相模 国恩田と常陸国北条に合わせて 5000 石を知行した。寛永 3(1626)年には小 姓組の番頭となる。この年に上野国内群馬郡内に新恩 5000 石を与えられ、一 万石の譜代大名となった。同 10(1633)年 3 月 23 日に松平信綱・阿部忠秋・
三浦正次・太田資宗・阿部重次らと共に「六人衆」と呼ばれる、のちの若年寄 の起源となる。5 月には松平信綱と宿老(老中)並の扱いをうけて、幕閣での 地位を確立した。12 月には、甲斐国内に 5000 石を加増されて 1 万 5000 石と なった。寛永 12 年には 2 万石の加増で 3 万 5000 石で、封地が武蔵国川越に移 されて、はじめて城主となった。同年に老中に就任した。
さらに寛永 15(1638)年に 10 万石となって信濃松本藩に転封され、老中の 職務を免ぜられるが、『寛政重修諸家譜』によって、「職をゆるさるといへども、
天下の大事政務の枢要にをいては、正盛評定所に候すべきむね仰下さる」28と いう。評定所というのは三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)が合議によっ て事件を裁決し、かつ老中の司法上の諮問に答える幕府の最高司法機関であり、
よって正盛が幕政の参画をし続けた。寛永 19(1642)年、1 万石の加増をうけ て下総佐倉藩に転封された。
正盛は慶安 4(1651)年、46 歳で家光に殉死した。堀田正信が遺領を継承し て佐倉藩主となり、弟の正俊に 1 万石、正英に 5000 石、勝直に 3000 石を分け
28『新訂 寛政重修諸家譜 第十』續群書類從完成会、1984 年、堀田正信の条。
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与えた。
堀田正盛が家光の信頼を受け、前述のとおり異常な速さで、老中も務めて、
江戸の周辺に領地持ち 11 万石の有力大名となる。それに正盛が家光に殉死し ただけではなくて、正盛の父正吉はあまり徳川家より重用はうけなかったが、
二代将軍の秀忠に殉死した。堀田家が幕府、及び徳川家と深く繋がりのある家 柄である。
2.1.2 正信の除封
堀田正信が万治 3(1660)年に無断帰国のゆえに除封された。『紀氏雑録』29 によって父の正盛が亡くなった後の正信が何かの役職に用いられる可能性が あると期待していた。正信は寛永 8(1631)年に生まれた。祖父の酒井忠勝・
祖母の弟の稲葉正勝、父の正盛は老中である。忠勝がのち大老になって、将軍 家を仕えた家系である。正信がこのような特別な家柄の持ち主で、役職を期待 するのも当然のことであろう。だが正信は幕政に参加する機会に与えられなか った。
『徳川実紀』に万治 3 年 10 月 9 日の条30に、正信が老中の保科正之と阿部 忠秋に宛てた書状を差さいて、無断で佐倉に帰ったと記している。正信が幕閣 を批判し、困窮な旗本の救済を理由として領地を返上するという行動になった。
その書状の要旨は以下のようである。
当代御幼稚の昔より、代をしろしめす事既に十年、輔導の人其道を得ず、
天下の人民ことごとく疲弊し、幕下の諸士悉く貧困す、すべからく早く恩 恵をほどこし、窮愁を慰っせらるべし、もづ正信が父より傳へ給はる禄を もつて、御家人に充賜べき料とせらるべきなり、よて正信が所領の城地こ とごとくかへし奉るとの旨なりしとぞ
万治 3 年の当時、老中には保科と阿部のほか、松平信綱がいった。この書状
29 児玉幸多『佐倉惣五郎』吉川弘文館、1972 年版、142 頁
30 『徳川実紀』第三冊、経済雑誌社、1904-1907 年、厳有院殿御実紀巻廿、万治三年十月。
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の宛名に松平信綱が見えない故に、『徳川実紀』にも「此封事のさすところ、
ひとへに松平伊豆守信綱を誹譏するにいたる事多く書載せ」と評価された。
その正信の行動の取り扱いについて、幕府内では評議を開いた。保科正之は 正信が「己が身をも家をもすてて諫を申」という行動に関してそれほど悪くは なかったと力説した。ほかの評議を参与するひとが保科正之の論説を同意した が、松平信綱だけが正信の行為を狂気と評価した。
そこで正之は正信が正盛の嫡子であると強調した。国のため身を擲って諫言 したことで何故に狂気と信綱に言われるのか、と正之は尋ねた。信綱は諫言が 無罪であっても、無断帰国のは反逆と同じで、正信自身だけではなく「罪三族」
にも及べるといった。正盛の嫡子であるからこそ、狂気という理由で、その罪 が宥められることになる。
結局、信綱の意見を採用して、正信が狂気であるとの理由で、次の取り扱い をした。同年の 11 月 3 日に、正信の領地が没収され、彼自身が弟の信濃国飯 田藩主脇坂安政に預けられることになった。息子の正休は稟米一万俵で上野吉 井に堀田家の存続を認められた。またこの年の年貢はすでに上納してしまった ため、11 月 15 日までに収納した分が正休に与えられた。