2. 吉川英治『三国志』の創作
2.2. 吉川英治『三国志』の人物像
2.2.2. 軍師たち
2.2.2.1. 司馬懿
2.2.2.1.2. 司馬懿像に対する加筆
『三国志演義』の前半には、司馬懿が基本的に登場していなかったが、曹操・
劉備の死後、魏の兵権を握る重要人物として登場した。吉川『三国志』「五丈 原の巻」から諸葛亮の侵攻を防ぐ有能な軍師として重要な役割を果たした。そ の時、誰かいま国を救う者はなきや、と憂いにみちて云った魏帝曹叡に勧めら れた人物として登場したのは司馬懿である。「五丈原の巻」では、この司馬懿 と諸葛亮の互角をテーマにしている。「李卓吾本」第九十五回「司馬懿計取街 亭」では、諸葛亮の戦略を推測している司馬懿が以下のように描かれた。
於是司馬懿引二十萬軍出關下寨,請先鋒張郃至帳下曰:「吾平生素知汝 忠勇,故在天子前保舉,以退蜀兵,非同小可。諸葛亮乃當世之英雄,用兵 如神,天下之人無不畏之。見屯兵於祁山,聲勢甚大,不作準備者,欺曹子
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丹無謀也。他不知吾來。吾今先算下地理有十餘處,皆峻險僻靜之路。諸葛 亮平素謹慎仔細,不肯造次行事,他卻不知吾境內地理;若是吾用兵,先從 子午谷逕取長安,早得多時矣。他非無謀,但怕有失,不肯弄險,必然軍出 斜谷,來取郿城也;若取郿城,必分兵兩路,一軍取箕谷矣。此二處,吾發 檄文令子丹拒守郿城,若兵來不可出戰;令孫禮、辛毗截治箕穀道口,若兵 來則出奇兵擊之。此萬全之計也。」
また、『通俗三国志』六編巻之九「仲達計取街亭」の中では、「数度す との 戦たたかひに打勝うちかつ
て。諸軍しょぐんの心みな驕おごり 怠おこたり。 却かえつてわがめし返かへされて。 向むかふことしらず。」とい う一句が加筆された。吉川『三国志』では、この句を引用しなかったが、基本 的に『通俗三国志』をありのままに引き継いだ。しかしここには氏の創意がい くつか見られる。
その張郃を、帷幕へ招いて、仲達は、
「いたずらに敵をたたえるわけではないが、この仲達の観るかぎりにおい て、孔明はたしかに蓋世がいせいの英雄、当今の第一人者、これを破るは 実に容易でない」
と、今次の大戦を前に、心からそう語って、さてそのあとで云った。
「――もし自分が孔明の立場にあって、魏へ攻め入るとすれば、この地方 は山谷険難さんこくけんなん、それを縫う十余条の道あるのみゆえ、まず子午谷し ご こ くから長安へ 入る作戦をとるであろう。――だがじゃ、孔明はおそらく、それを為すま い。なぜならば従来の戦争ぶりを見ると、彼の用兵は実に慎みぶかい。い かなる場合も、絶対に負けない不敗の地をとって戦っておる」
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彼の言は、孔明の心を、 掌てのひらにのせて解説するようだった。英雄、英雄 を知るものかと、張郃は聞き恍ほれていた。(「高楼弾琴」「五丈原の巻」)
まず、好敵手としての司馬懿と諸葛亮をわざと張郃の考えを通じて強調した。
また、「用兵如神,天下之人無不畏之」という諸葛亮に対する賞賛が消され、
「これを破るは実に容易でない」という諸葛亮に匹敵できる司馬懿の発言に変 えられた。また、「~じゃ」という、老人としての言葉遣いがわざと使われる。
これは多分司馬懿には老練なイメージが付きまとっているからのであろう。実 際司馬懿は諸葛亮より二歳年長だけであった。
また、「李卓吾本」第九十七回「孔明再上出師表」では、以下のエピソード があり、
須臾,司馬懿引兵而還,眾將接入,問曰:「曹都督兵敗,即元帥之干係,
何故急回耶?」懿曰:「吾料諸葛亮知吾兵敗,必乘虛來取長安也。倘隴西 緊急,何人救之?吾故回耳。」眾皆以為怯懼,哂笑而退。
これは『通俗三国志』六編巻之十「孔明再上出師表」では、「われ 量はかるに味方み か た。 呉ごの勢せいに破やぶられぬときこへば。孔明こうめいかならず虚きよにのつて。 長 安ちやうあんへ攻来せめきたらん。」
と司馬懿の発言に対して少し解釈を加えた。吉川『三国志』でも、『通俗三国 志』のこの解釈を引き継いだ。さらに聞くものの笑いに対して気にしない司馬 懿として描かれた。
しかしこういう毀誉褒貶き よ ほ う へ ん
を気にかける司馬懿でもない。彼は彼として深 く信ずるものあるが如く、折々、悠々と朝に上り、また洛内らくない(らくない)
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に自適していた。(「二次出師表」「五丈原の巻」)
この自適している司馬懿の描写は吉川『三国志』にしかないものであり、吉 川氏独特な創意である。さらに以下のように、自適している司馬懿の姿勢を褒 める章段さえも吉川氏が作った。
呉の境から退いて、司馬懿し ば いが洛陽らくように留っているのを、時の魏人は、こ の時勢に閑を偸ぬすむものなりと非難していたが、ここ数日にわたってまた、
(孔明がふたたび祁山き ざ んに出てきた。ために、魏の先鋒の大将は幾人も戦死 した)
という情報が、旋風のように聞えてくると、仲達への非難はぴったりや んでしまった。やはり司馬懿仲達は凡眼でないと、謂いわず語らず、その先見 にみな服したかたちであった。
どんな時にも、何かに対して、誹謗ひ ぼ うやあげつらいの目標を持たなければ 淋しいような一種の知識人や門外政客が洛陽にもたくさんいる。(「食」「五 丈原の巻」)
ここでは、周囲に常に疑われてしまう司馬懿が組織の中で自己の意志をどう貫 くかという問題に対する吉川氏自身の解釈であった。
また、自適のほかに、吉川氏が常に戒める司馬懿像を強化した。例えば、「李 卓吾本」第百三回「孔明火燒木柵寨」では、「卻說司馬懿逃回本寨,心中甚惱。
忽使命齎詔至,言東吳三路入寇,令懿等堅守勿失。懿受命已畢,深溝高壘,堅 守不出」とあったところを、吉川『三国志』では以下のように書き換えられた。
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さて、司馬懿は、日頃、ふかく 戒いましめながら、またも孔明の策略にかか って、おびただしい損傷を自軍にうけたが、
「これは、よくよく考えると、孔明の計に乗るというよりは、毎度、自分 の心に惑って、自ら計を作っては、その計に乗っているようなものだ。孔 明に致されまいとするなら、まず自分の心に変化や惑いを生じないように 努めるに限る」と、まった
く自戒の内に閉とじ籠こもって、ひたすら守勢を取り、鉄壁に鉄壁をかさねて、
攻勢主義の敵に、手も足も出せないような策を立てた。(「ネジ」「五丈原 の巻」)
なお、『晋書』では、司馬懿のことを「內忌而外寬。猜忌多權變(心の内で は嫌っていても、外面は寛大な様子で、猜疑心が強く、いろいろな手段を使い まくる)66」と評した。それゆえ、『晋書』では司馬懿には「狼顧ろ う この相そう」があ るという。狼顧とは、狼が頭を背中のほうに向けられることを指している。ま た、狼が常に背後を警戒していることの形容でもあり、司馬懿はいつも用心深 く周囲を警戒していることを暗示している。それを受け継ぎ、『三国志演義』
では「鷹視狼顧(鷹のような眼差し、狼のような用心深さ)」となった。しか し、吉川『三国志』では誹謗に気にせず、戦いに対しては用心深い人に書き換 えられ、この描写から吉川氏は司馬懿を底本より高く評価しているとも見える。
また、吉川『三国志』では、諸葛亮の死を予測した司馬懿がそういう戒めな 態度と正反対に、興奮的に出兵をしようとした。
人々は急に息をひそめた。敵ながらその人亡なしと聞くと何か大きな空う
66 渡辺精一『三国志人物鑑定事典』東京:学習研究社、1998 年、157
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つろを抱かせられたのである。仲達もまさにその一人だったが、老来いよ いよ健けんなるその五体に多年の目的を思い起すや、勃然ぼつぜんと剣を叩いて、
「蜀軍に全滅を加えるは今だ。――準備を伝えろ。総攻撃を開始する」
司馬師、司馬昭の二子は、父の異常な昂奮に、 却かえって二の足をふんだ。
「ま。お待ちなされませ」
「なぜ止めるか」
「この前の例もあります。孔明は八門遁甲とんこうの法を得て、六 丁ちょう六甲こうの神しんを つかいます。或いは、天象に奇変を現わすことだってできない限りもあり ません」(「死せる孔明、生ける仲達を走らす」「五丈原の巻」)
このエピソードは底本の「李卓吾本」第一百四回「死諸葛走生仲達」や『通俗 三国志』七編巻之五「死孔明走生仲達」では、
卻說司馬懿知孔明身死,急起大兵追之。方出寨門,忽然自省,乃與二子曰:
「孔明善會六丁六甲遁法,今見吾久不出戰,故以此術詐死,誘我追之。今 若追趕,必中計矣!」
というように、自分で出兵を戒める司馬懿として描かれたが、吉川『三国志』
では却って二人の子が老父を止めたことになっている。この描写によって、諸 葛亮の死が司馬懿の精神をどれくらい興奮させたかを読者に伝わり、一種のド ラマ的な緊張感を作り上げた。
2.2.2.1.3. 司馬懿像が持つ意義
2.2.2.1.3. 司馬懿像が持つ意義