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2. 吉川英治『三国志』の創作

2.2. 吉川英治『三国志』の人物像

2.2.2. 軍師たち

2.2.2.3. 周瑜

2.2.2.3.2. 周瑜の死の描写

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周瑜の死の描写に関しても、底本では、

周瑜覽畢,長嘆一聲,喚左右取紙筆,作書上吳侯。乃聚眾將曰:「吾非不 欲盡忠報國,奈何天命絕矣。汝等善事吳候,共成大事。」言訖,昏絕。徐徐又 醒,仰天大嘆曰:「既生瑜,而何生亮!」連叫數聲而亡。壽三十六歲。時建安 十五年冬十二月初三日也。

というように、嘆き叫ぶ周瑜を一見感嘆的に描いたが、他の将にくらべて、

わりと多くの紙幅を使って描写した。また、周瑜を賞賛する七つの評論を彼の 死の描写の後ろに並べてた。『通俗三国志』四編巻之六「孔明三気死周瑜」で はさらに周瑜が「恨気こ ん きむねに 塞ふさが」った様子が描かれた。吉川『三国志』では、

この「恨気胸に塞」ったイメージから、周瑜の死ぬ時に狼狽えている姿を生き 生きと加筆した。

読み下してゆくうちに、周瑜は恨気こ ん き胸にふさがり、手はわななき、顔色も 壁土のようになってしまった。

「ううむっ……」と、太く、苦しげに、長嘆一声すると、急に、

「筆、筆、筆。……紙を。 硯すずりを」

と、さけび、引ったくるように持つと、必死の形相をしながら、なにか 懸命に書き出した。文字はみだれ、墨は散り、文は綿々と長かったが、遂 に書き終るや否、筆を投げて、

「ああ、無念っ……無情や人生。皮肉なることよ宿命……。天すでに、この 周瑜を地上に生ませ給いながら、何故また、孔明を地に生じ給えるや!」

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云い終ると、昏絶して、一たん眼を閉じたが、ふたたびくわっと見ひら いて、

「諸君。不忠、周瑜はここに終ったが、呉侯を頼む。忠節を尽して……」

忽然、うす黒い瞼を落し、まだ三十六歳の若い寿としに終りを告げた。時、

建安十五年の冬十二月三日であったという。(「荊州往来」「望蜀の巻」)

これと対照に、諸葛亮が周瑜の死を知った反応として、「李卓吾本」では「卻 說孔明未知瑜喪於巴丘,夜觀天文,見將星墜地,乃笑曰:『周瑜死矣。』」とし て描き、『通俗三国志』四編巻之六「孔明三気死周瑜」でも、「すなはち大に笑わら

ひ。周瑜いま死せりとて」としていたが、吉川『三国志』ではこの描写が消さ れた。吉川氏が諸葛亮にとって悪いイメージと思しき描写を消した氏の意図が 伺える。また、この大笑いの描写がなくなることにより、後に諸葛亮が泣くこ の底本にもある文章が却って諸葛亮の懇意につながり、諸葛亮の悲しみを演技 ではなく、心からの悲しみとして捉えることができる。

(弔文を)読み終ると、孔明は、ふたたび地に伏して大いに哭き、哀慟あいどう の真情、見るも傷ましいばかりだったので、並びいる呉の将士もことごと く貰い泣きして、心ひそかに、皆こう思った。

(周瑜と孔明とは、たがいに仲が悪く、周瑜はつねに孔明を亡き者にしよ うとし、孔明もまた周瑜に害意をふくんでいると聞いていたが、……この 容子ではまるで骨肉の者と別れたような嘆き方だ。察するところ、周瑜の 死は、まったく孔明のためではなく、むしろ周瑜自身の狭量が、みずから 求めて死を取ったものだろう。どうもそれでは致し方もない……)(「鳳雛 去る」「望蜀の巻」)

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周瑜の死は、吉川『三国志』で却って道化的な役割を果たさせた感がある。