2. 吉川英治『三国志』の創作
2.1. 吉川英治『三国志』の成立と時代背景
2.1.2. 時代背景
2.1.2.5. 吉川英治の戦争思想と『三国志』創作
なお、吉川氏は『三国志』を通じて天意と王覇の思想を語った。王道とは、
儒道を理想とした政治思想で、有徳の君主が仁徳をもって國を治める政道をさ し、その反対として、武力・権謀を用いて国を治める政道としての覇道が存在 する。
そして、天意とは、天の意志や、自然の摂理というものであり、吉川氏の天 意観念に関して、松本昭(1987)は以下のように述べた。
この悠久の黄河から、さらにまた悠久のこの民族から、英治は何を学ん だのであろうか。そこには、かつての英治の中にはなかった思想が、随所 に描かれている。「天の意」ということである。(中略)「天の意」、つまり 自然の理という思想は、悠久の中国民族の育んだ生活哲学であった。(中 略)この「天の意」という宇宙の真理、自然の摂理に順応して、悠々と生 きてゆこうとする。これは一つの運命的人生観かもしれないが、悠久な中
52 たとえば、「洛陽千万戸、紫瑠璃黄玉の城楼宮門の址も、今は何処い?」(「改元」)のよ うな表現から伺える。
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国の天地の産物であった。そして、英治は、治乱興亡の『三国志』の中に、
それを見ていた。
「天の意」・「天命」・「天時」・「天の与え」・「天の賜物(たまもの)」など、
作品の中には天の摂理と関わっていることばが多く用いられたが、それはもと より『三国志演義』に満ちた思想で、吉川氏独特の発想でもない。蜀は「天意」
で滅ぶという思想ももとより『三国志演義』にあった。諸葛亮が提出した総戦 略と歴史との矛盾53を解決するために存在する観念であるともいえよう。その 観念を踏まえ、吉川氏がこう述べた。
魏国の国運というものや、仲達個人の運勢も強かったことは、このとき の一事を見ても、何となく卜ぼくし得るものがあった。それにひきかえて、蜀
の運気はとかく揮ふるわず、孔明の神謀も、必殺の作戦も、些細なことからい つも喰いちがって、大概の功は収め得ても、決定的な致命を魏に与え得な かったというのは、何としても、すでに人智人力以外の、何ものかの運行 に依るものであるとしか考えられない。(「ネジ」「五丈原の巻」)
このように、『三国志演義』の中に既にあった「天意」の思想を吉川氏がう まく吸収し、この「天意」の趨きで歴史が決まると観念していた。
では、天意は完全に把握できないものなのだろうか。ところがそうでもない。
『三国志演義』の中では、「天意」がよく「徳」とセットで物語の中に出る。
「李卓吾本」では「天數有變,神器更易,歸於有德之人,此定然之理也」(第 九三回「孔明祁山破曹真」)と書いてあるところも、吉川氏もそのまま「天数
53 余洪江「試論『三國演義』中的陸遜形象」『三國演義學刊』(二) 成都 : 四川省社會科學院 出版、1986 年
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は変あり、徳ある人に帰す」と引いた。このように「天意」は「徳ある人」、
すなわち「王道」を歩む側に帰すのが物語の基調になっている。
それでは「王道」を始終歩んできたはずの蜀の國はどうして最後に滅ぶかと いうと、吉川氏が『三国志演義』から一歩進んで解釈していた。
蜀軍がついに勝てなかった原因として、劉備以来、蜀軍の戦争目的とし て唱えてきた「漢室復興」という旗印が、はたして適当であったか、また、
中国億民に、いわゆる大義名分として、受け入れられるに足るものであっ たか、について疑問を示す。
なぜならば、中国の帝室や王室は、王道を理想とするが、歴史の示すよ うに、常に覇道と覇道のせめぎ合いによって、交代が繰り返されているも のなので、後漢末には漢室の信望は全く地に堕ちて、民心は完全に漢朝か ら離れさっていたため、ひとたび漢朝から離れた民心は、いかに呼べと叫 べど「覆水ふたたび盆に返らず」の観があった。孔明の理想がついに未完 に終わった根本の原因も、蜀の人材難もみなこれに由来するというのであ る。54
「後漢末には漢室の信望は全く地に堕ちて、民心は完全に漢朝から離れさっ ていた」ため、諸葛亮がどんなに頑張っても仕方がないという氏が提示した新 たな史観であった。
また、従来にはなかった「天意」・「王道」に関する新しい観念が吉川『三国 志』の中で提示されている。敵軍の惨死を見て悲しむ諸葛亮を描写する場面で、
従来の底本になかった趙雲の回答が書かれた。
54 雑喉潤『三国志と日本人』東京:講談社、2002 年、152-153
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「 社 稷しゃしょくの為には、多少の功はあろうが、自分は必ず寿命を損ずるであ ろう。いかにとはいえ、かくまで、殺戮さつりくをなしては」
聞く者みな哀れを催したが、ひとり趙雲は、然らずと、かえってそれを 孔明の小乗観であると難じた。
「生々流相せ い せ い る そ う
、命々転相めいめいてんそう。 象かたちをなしては亡ほろび、亡びては象をむすぶ。数 万年来変りなき大生命のすがたではありませんか。黄河の水ひとたび溢る れば、何万人の人命は消えますが、蒼落そうらくとしてまた穂ほは実みのり人は増してゆ く。黄河の狂水には天意あるのみで人意の徳はありませんが、あなたの大 業には王化の使命があるのではありませんか。蛮民百万を亡ぼすも、蛮土 千載の徳を植えのこしておかれれば、これしきの殺業何ものでもございま すまい」
「ああ。……よく云って下すった」
孔明は趙雲の掌てを 額ひたいにいただいてさらに落涙数行すうこうした。(「戦車と地雷」
「出師の巻」)
趙雲の話の中では、「天意」・「人意の徳」・「王化」という三つの言葉が一緒 に並べられた。そして、一部の人の戦死を悲しむ諸葛亮の観念が、「小乗」と 見なされた。「小乗」とは、自己の解脱だけを目的とする教えのことで、すべ ての人間の平等な救済と成仏を説く「大乗」側からの貶称である。趙雲の話を 聞き、諸葛亮が突然悟ったこの描写は氏の思想を伺える一側面として極めて重 要な場面だと思う。
なぜならば、この叙述は、吉川氏がその序文の中で言及した「興亜」・そし て氏が日本を東亜の盟主とした氏が持っているアジア主義の観念を想起させ るのではないか。「王道」のためであれば、一部の殺戮は許されるという戦時
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中において書かれる文章であるから、趙雲のこの話の背後にある真意も疑わし くなってきた。やはり氏が意識的にか、無意識的にか、彼当時の戦争に対する 思想を『三国志』に埋め込んだのではないか。