• 沒有找到結果。

2. 吉川英治『三国志』の創作

2.2. 吉川英治『三国志』の人物像

2.2.1. 主君たち

2.2.1.3. 孫権

2.2.1.3.2. 孫権像に対する加筆

『三国志演義』の中では、孫権が張遼の挑戦で怒って戦場を駆け、結局敗戦 を喫した場面がある。その時、「李卓吾本」第五十三回「孫仲謀大戰合肥」で は以下のように描写した。

程普保孫權歸大寨,敗軍陸續回營。孫權因見折了宋謙,放聲大哭。長史張 紘諫曰:「主公恃盛壯之氣,忽強暴之勇,三軍之眾,莫不寒心。即使斬將 搴旗,威振敵場,此乃偏將之任,非主將之宜也。願抑賁、育之勇,懷王霸

57

之計。且今日宋謙死於鋒鏑之下,皆主公輕敵之故。今後切宜保重。」權曰:

「是孤之過也。從今當改之。」

吉川『三国志』でも、張紘の言葉をこのまま受け継ぎ、以下のように描写し た。

長史 張 紘ちょうこうは、よい時と考えて、

「こういう失敗は、良き教訓です。君はいま御年も 壮さかんなために、ともす れば血気強暴にはやり給い、呉の諸君は、為にみな、しばしば、心を寒う しています。どうか匹夫ひ っ ぷの勇は抑えて、王覇お う はの大計にお心を用いて下さい」

と、諫めた。(「針鼠」「望蜀の巻」)

この「血気強暴」のイメージは吉川氏が孫権を描写するときに主に用いる言 葉になった。たとえば、「李卓吾本」の第六十八回「甘寧百騎劫曹營」に当た る文章が、吉川氏によって加筆され、

曹操は百戦練磨の人。孫権は体験少なく、ややもすれば、血気に 陥おちいる。

いまや、濡須じゅしゅの流域をさかいとして、魏の四十万、呉の六十万、ひとり も戦わざるなく、全面的な大激戦を現出したが、この、天候が呉に利さな かったといえ、呉は主将孫権の軽忽けいこつなうごきによって、その軸枢じくすうをまず見 失い、彼自身もまた、まんまと 張 遼ちょうりょう、徐晃じょこうの二軍に待たれて、その包囲 鉄環のうちに捉とらわれてしまった。(「休戦」「図南の巻」)

58

「血気強暴」の故、敗戦した孫権を描いた。そして、この「血気強暴」のイメ ージをもとに、年をとるに連れて、穏やかになるという『三国志演義』にはな かった新たな孫権像を作り上げた。例えば、孫権がおびただしい土産ものを山 と積んで魏に送らせた時、「李卓吾本」の第八十二回「吳臣趙咨說曹丕」では 以下のように描写した。

張昭諫曰。貢獻之物。莫非人情。權笑曰。利足以結人心。今貢獻之物。皆 瓦石之類耳。何足惜哉。眾官嘆服。

『通俗三国志』六編巻之壱「趙咨入魏説曹丕」もそのまま日本語に翻訳しただ けであったが、吉川『三国志』になって、

呉三代の主君に仕えてきた宿老として、とかく幼稚に思われてならなかっ た孫権がいつのまにかかくの如き大腹中の人となってきたことが、涙のこ ぼれるほど有難かったに違いない。

並居るほかの臣下も皆、孫権の深慮に嘆服した。

と、わざわざ性格の成熟さを描いた。

この他、母親の言葉に従う子としての孫権以外に、吉川氏の孫権に対する加 筆が見えなかったが、「李卓吾本」の第八十二回「吳臣趙咨說曹丕」(『通俗三 国志』六編巻之壱「趙咨入魏説曹丕」に当たる部分)では、

咨曰。納魯肅於凡品。是其聰也。拔呂蒙於行陣。是其明也;獲于禁而不害。

是其仁也。取荊州兵不血刃。是其智也。據三江虎視于天下。是其雄也。屈 身於陛下。是其畧也。以此論之。豈不為聰明仁智雄畧之主也。丕又問曰。

59

吳王頗知學乎。咨曰。吳王浮江萬艘。帶甲百萬。任賢使能。志存經畧。少 有餘閑。博覽經傳歷代史籍。乃豐采奇異之人。不效書生尋章摘句而已。

趙咨が孫権のことを「聰明仁智雄畧之主」として賞賛した。また、趙咨が孫 権の学問に対する回答が吉川『三国志』では省略され、以下の句に変え、物語 に緊張感を与えた。

曹丕はくわっと眼をこらして彼を見くだしていた。大魏皇帝たる威厳を侵おか されたように感じたものとみえる。(「呉の外交」「出師の巻」)

この省略からも、他の人物に比べて吉川氏が孫権に対する無関心が伺える。