國立臺灣大學日本語文學系 碩士論文
Department of Japanese Language and Literature College of Liberal Arts
National Taiwan University Master Thesis
吉川英治『三国志』とその底本の比較研究
――人物像を中心に――
The Comparison of Eiji Yoshikawa’s Sangokushi and the Original Books
――Focusing on its Characters――
楊妮潔 Ni-Chieh Yang
指導教授:陳明姿 博士 Advisor:Ming-tsu Chen, Ph.D.
中華民國 103 年 6 月
June 2014
ii
前書き
大学院に入った時から、日中比較文学の研究を志してきた。日中の文学を 比較してその差異を見出し、日中民族の精神までその差異が出る原因を突っ込 んでいくのがとても面白いことであり、また二つの言語ができる私たちのみ得 られる快楽だと思うから。しかし、勉強不足のため、「吉川英治『三国志』と その底本の比較研究―人物像を中心に―」というテーマを深く探求することは できず、実に残念に思う。それでも、吉川英治『三国志』の研究にほんの少し のヒントになれるなら、なりよりの光栄だと思う。この論文が完成できたのは、
たくさんの人に協力を頂いたので、この場で感謝の意を表したい。
まず、指導教官の陳明姿先生に深くお礼を申し上げたい。大学院に入ってか らは、ずっと先生にいろいろお世話になってきた。いつもドジを踏んでいる私 のような学生は、先生にとってもとても大変だと思うが、先生はいつも微笑み ながら私に優しく接してくれた。また、交換留学の際にも、先生が相談に乗っ てくださったり、推薦状を書いてくださったりしてくれた。本当に、先生が大 好きです。
そして、修士論文の審査にあたり、快く引き受けてくださった川合康三先 生と輔仁大学の黄翠娥先生に、感謝の意を申し上げたい。川合先生から論文の 方向性など示唆に富んだご意見をいろいろくださったこと、黄先生に論文構成 の細かいところまで注意していただいたことで、論文を順調に書くことができ た。
また、東京大学の齋藤希史先生と台湾大学日本語学科の先生たちに研究方法 を基礎から教わり、学問の奥深さを知ることができた。この方々にも深謝を申 し上げたい。
iii
ほかに、そばにいてくれた友達に感謝したい。論文について助言してくれた 花ちゃん、最後の院生生活をともに過ごした朱ちゃん、未来への勇気をつけて くれたキミ、ほかに名前をいちいち挙げるのはできないが、あなたたちが応援 してくれたおかげで、私は今日まで頑張ることができた。
最後に、この論文を私の人生の一つののマイルストーンとして、私をいつも 見守ってくれた親愛なる家族に差し上げたい。これからは一社会人として頑張 っていくから、どうかこんな不器用な私をずっと応援してください。
2014 年 8 月
楊妮潔
iv
日本語要旨
吉川英治『三国志』とその底本の比較研究
――人物像を中心に――
日本人にとって、「三国志といえば吉川英治」と言えるほど人気を得た吉 川英治『三国志』(以下、「吉川『三国志』」と呼称)であるが、それは中国の『三 国志演義』をそのまま翻訳したものではない。吉川氏がその序文においても述 べているように、彼は中国の古典を一般人でも楽しめるように長編化し、その 中に登場する人物も原作のままではなく、私的な発想による新しい解釈を加え たものとなっている。特に、日本に曹操ファンが多いのも本作の影響が大きい 言われているからこそ、吉川『三国志』が掲示した人物像に対する理解を深め なけらばならない。実際、吉川氏は中国の『三国志演義』をそのまま底本にし たのではなく、日本語に訳されたものを読んでから吉川『三国志』を創作した ため、本論文ではこの介在されている底本を吉川氏が人物像を作り上げる時の 要因として取り扱ってみた。それを前提として、底本との比較を通じて、吉川
『三国志』の人物像と新しい人物像が持つ意義について考え直した。
第一章では、吉川『三国志』の創作の際に使う底本について考察した結果、
『李卓吾先生批評三国志』(以下、「李卓吾本」と呼称)・湖南文山の『通俗三 国志』・吉川『三国志』を本論文で取り扱う材料にしていた。
第二章では、「成立と時代背景」と「人物像」という二つの部分からて吉川
『三国志』の創作について考察していた。「成立と時代背景」では吉川氏の歴 史小説の創作態度と、氏の中国渡航経験と戦争思想について考察してきた。「人
v
物像」の部分では、魏・蜀・呉から代表的な主君と軍師を一人ずつ選んび、底 本との比較を通じて吉川『三国志』の人物描写を分析した。
結論として、『通俗三国志』の介在は氏の人物造形に大きな影響を与えていな かったことがわかった。しかし、中立的に人物を取り扱っている「李卓吾本」
を受け継いだ『通俗三国志』を底本にしていたから、氏は特定人物の両面性を 読み取る事ができ、独特な人物像を創作することに到達した。
キーワード:日中戦争、中国体験、『李卓吾先生批評三国志』、『通俗三国志』、
戦争思想、歴史小説、読者意識
vi
中国語要旨
吉川英治『三國志』及其底本的比較研究
――以人物形像為中心――
對日本人來說,「說到三國演義就是吉川英治」般的人氣作品――吉川英治『三 國志』(以下,簡稱為「吉川『三國志』」),其實並非直譯中國的『三國演義』。
如同吉川英治在序文裡所言,他將中國古典改編成一般人也能欣賞的長篇作品,
其中的登場人物也並非無異於原作,而是以個人的構思加以新的解釋。特別是如 同雜喉潤(2002)所指出,日本之所以有為數眾多的曹操迷也是起因於本作品;所 以我們有必要增加對吉川『三國志』人物形象的理解。又,吉川英治並非直接以 中國的『三國演義』為底本,而是閱讀日文譯本後才進行吉川『三國志』的創作,
因此本論文也將該日文譯本視為吉川英治人物形象創作時的一大因素。以此為前 提,藉由與底本較為詳細的比較,重新思考吉川『三國志』的人物形象及其意義。
在第一章,考察了吉川『三國志』創作時所用的底本,決定以『李卓吾先生批 評三國志』、湖南文山的『通俗三國志』、吉川『三國志』作為本論文處理的材料。
在第二章,從「成立與時代背景」與「人物形像」兩部分來分析吉川『三國志』
的創作。在「成立與時代背景」,探討了吉川英治的歷史小說創作態度、與其中 國經驗及戰爭思想。在「人物形像」的部分,分別從魏、蜀、吳中各選出一位主 君與軍師,藉由與底本的比較分析吉川『三國志』的人物描寫。
本論文發現,使用『通俗三國志』為底本並未給吉川英治的人物造型上造成重 大影響。但是,因為『通俗三國志』繼承了『李卓吾先生批評三國志』相對中立 地對待人物的態度,所以吉川英治能看透特定人物的兩面性,從而創作出獨特的 人物形象。
vii
關鍵字:中日戰爭、中國體驗、『李卓吾先生批評三國志』、『通俗三國志』、戰爭 思想、歷史小說、讀者意識
viii
英語要旨
The Comparison of Eiji Yoshikawa’s Sangokushi and the Original Books
――Focusing on its Characters――
Abstract
In Japan, Eiji Yoshikawa’s Sangokushi (Yoshikawa Sangokushi) is such a popular work that when we think of Sangokushi and it comes to Eiji Yoshikawa. However,
Yoshikawa Sangokushi is not a word-for-word translation of the Chinese classical
literature, Romance of the Three Kingdoms. According to the preface, he adapted this Chinese classical literature into a full-length novel that makes everyone appreciate it easily, and those characters are not just the original ones but interpreted with his own ideas. Meanwhile, it is said that because of this work, there are so many fans of SOUSO in Japan. Thus make it necessary for us to enhance our understanding toward the characters in Yoshikawa Sangokushi. However, instead of using the Chinese version of Romance of the Three Kingdoms as the original book, he used the Japanese translation version to conduct his work. Therefore, this thesis compared Yoshikawa
Sangokushi with the Chinese version and the Japanese version.
Chapter 1 investigated the original books, and determined to use The Criticism of
Romance of Three Kingdoms by Li Zhuowu and Bunzan Konan’s Tsuzokusangokushi
as the subjects of this thesis. Chapter 2 analyzed the creation of YoshikawaSangokushi from two parts. The first part, the situation and back ground of the
ix
composition, examined Eiji Yoshikawa’s attitude toward the creation of historical novels, his experiences in Chinese and his thoughts on Second Sino-Japanese War.
The second part, the images of characters, analyzed images of six characters by comparing them with those in the original books.
In conclusion, this thesis found out that using Tsuzokusangokushi as the original book didn’t affect Eiji Yoshikawa’s creation of characters. However,
Tuszokusangokushi took over the relatively neutral attitude of The Criticism of
Romance of Three Kingdoms by Li Zhuowu toward characters, which made Eiji
Yoshikawa look through the two sides of specific characters and create unique images of those characters.
Key words:
Awareness of readers, Chinese experiences, historical novels, Second Sino-Japanese War, The Criticism of Romance of Three Kingdoms, thoughts on wars,
Tsuzokusangokushi
x
目次
論文口試委員審定書... i
前書き... ii
日本語要旨... iv
中国語要旨... vi
英語要旨... viii
目次... x
凡例... xii
序論... 1
1. 研究動機... 1
2. 先行研究... 3
2.1. 曹操に対して... 3
2.2. 劉備に対して... 4
2.3. 関羽に対して... 4
2.4. 諸葛亮に対して... 5
3. 研究目的... 6
本論... 7
1. 吉川英治『三国志』とその各底本の概説... 7
1.1. 吉川英治『三国志』... 7
1.2. 湖南文山の『通俗三国志』... 9
1.3. 久保天随の『新訳三国志』... 10
1.4. 吉川英治『三国志』創作において使う底本... 11
2. 吉川英治『三国志』の創作... 13
2.1. 吉川英治『三国志』の成立と時代背景... 13
2.1.1. 吉川英治『三国志』の成立... 13
2.1.1.1. 読者意識 ... 13
2.1.1.2. 歴史小説としての成立 ... 14
2.1.2. 時代背景... 22
2.1.2.1. 日中戦争期で書かれた吉川『三国志』 ... 22
2.1.2.2. 書き換えられた吉川『三国志』の序文 ... 24
2.1.2.3. 吉川英治の戦争思想 ... 25
2.1.2.4. 吉川英治の中国体験と『三国志』創作 ... 28
2.1.2.5. 吉川英治の戦争思想と『三国志』創作 ... 30
2.2. 吉川英治『三国志』の人物像... 34
2.2.1. 主君たち... 34
xi
2.2.1.1. 曹操 ... 34
2.2.1.1.1. 曹操の初登場と容貌描写 ... 34
2.2.1.1.2. 曹操の死の描写 ... 38
2.2.1.1.3. 曹操像に対する加筆 ... 40
2.2.1.1.4. 曹操像が持つ意義 ... 44
2.2.1.2. 劉備 ... 46
2.2.1.2.1. 劉備の初登場と容貌描写 ... 46
2.2.1.2.2. 劉備の死の描写 ... 48
2.2.1.2.3. 劉備像に対する加筆 ... 50
2.2.1.2.4. 劉備像が持つ意義 ... 53
2.2.1.3. 孫権 ... 54
2.2.1.3.1. 孫権の初登場と容貌描写 ... 54
2.2.1.3.2. 孫権像に対する加筆 ... 56
2.2.1.3.3. 孫権像が持つ意義 ... 59
2.2.2. 軍師たち... 60
2.2.2.1. 司馬懿 ... 60
2.2.2.1.1. 司馬懿の初登場と容貌描写 ... 60
2.2.2.1.2. 司馬懿像に対する加筆 ... 62
2.2.2.1.3. 司馬懿像が持つ意義 ... 67
2.2.2.2. 諸葛亮 ... 69
2.2.2.2.1. 諸葛亮の初登場と容貌描写 ... 69
2.2.2.2.2. 諸葛亮の死の描写 ... 71
2.2.2.2.3. 諸葛亮像に対する加筆 ... 72
2.2.2.2.4. 諸葛亮像が持つ意義 ... 75
2.2.2.3. 周瑜 ... 78
2.2.2.3.1. 周瑜の初登場と容貌描写 ... 78
2.2.2.3.2. 周瑜の死の描写 ... 78
2.2.2.3.3. 周瑜像に対する加筆 ... 81
2.2.2.3.4. 周瑜像が持つ意義 ... 82
結論... 84
参考文献... 88
xii
凡例
本論文で扱うテキストは、以下の通りである。引用時も以下のテキストを用い る。
国立政治大学古典小説研究中心編『李卓吾先生批評三国志』(1)~(20)(台 北:天一出版社、1985 年 10 月)
大橋新太郎編『校訂通俗三国志』(上)(下)(東京:博聞館、1910 年 2 月、13 版)
吉川英治『三国志』(一)~(五)(東京:講談社、2008 年 10 月、新装版):
吉川英治歴史時代文庫 36『三国志(四)』・37『三国志(五)』(1989 年 4 月刊)
を底本とした。
また、吉川英治『三国志』の「序文」と「篇外余録」は、以下のテキストを用 いる。
吉川英治歴史時代文庫『三国志(一)』(東京:講談社、1989 年 4 月)
吉川英治歴史時代文庫『三国志(八)』(東京:講談社、1989 年 5 月)
なお、本論文では、附言なく『三国志演義』と書く場合、羅貫中の『三国志通 俗演義』を指す
1
序論
1. 研究動機
中国明初の羅貫中の編である『三国志演義』は、中国文学史上初めての長編 小説であり、四大奇書の一つとして広く愛読されている。歴史書の『三国志』
やその他民間伝承を基とし、唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国 の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として成立した。波乱万丈のス トーリーと英雄豪傑の描写に成功したため、時代と国境を越え、多方面にわた ってその影響力は及んでいる。日本においての『三国志演義』は江戸時代から 人気を呼び始め、現在でも異なるメディアによって作品の世界に触れることが できる。特に、第二次世界大戦後の日本では「三国志」ブームが何度も訪れた。
その中で、昭和後期以降でのメディア作品では、吉川英治の小説『三国志』
(以下、「吉川『三国志』」と呼称)を基調に、大河作品漫画化した横山光輝『三 国志』や NHK で放送された人形劇『人形劇三国志』などが高い評価を受けた ため、吉川『三国志』を直接読まなくても、異なるメディアで間接的に吉川『三 国志』を接しているのが実相となっている。
しかし、この吉川『三国志』は『三国志演義』をそのまま翻訳したものでは ない。吉川がその序文においても述べているように、彼は中国の古典を一般人 でも楽しめるように長編化し、その中に登場する人物も原作のままではなく、
私的な発想による新しい解釈を加えたものとなっている。
「三国志といえば吉川英治」と言われているほど人気を得た吉川『三国志』
であるからこそ、我々はこの作品の重要性を重視しなければならないと思う。
特に、「とりわけ曹操ファンを飛躍的に増やしたのは、吉川三国志である」1と
1 雑喉潤『三国志と日本人』東京:講談社、2002 年、53-154
2
雑喉潤(2002)が言っていることから、吉川『三国志』が掲示した人物像に対 する理解を深めなければならないと思い、本論文を書こうとした。
3
2. 先行研究
吉川『三国志』に対する研究は多いとは言えない。以下、吉川英治『三国志』
の登場人物についての先行研究を整理してみる。
2.1. 曹操に対して
雑喉潤(2002)2は、吉川氏がほかの人物より曹操に対する人間分析が作品 の中に最も多く現れると述べ、吉川氏の曹操への恋にさらに着目した。その現 れとして、優秀な人材、例えば関羽や趙雲への切なる思いが挙げられた。従っ て曹操の死ぬ場面にも、多くの紙数を割いているという。
邱岭、呉芳齢(2006)3は、吉川氏が作中人物の口を借りずに、吉川氏が 叙述者としてそのまま曹操に対する評論を述べた点と、さらに、社会・政治と いう視点から離れ、一人間として曹操を理解してきた点に注目した。
箱崎緑(2010)4は、戦後のほかの三国志の再話と比べ、以下の結論に到達 した。弓館版・岡本版『三国志演義』の「語り手が『三国志』演義を自由に語 る中で、当時の価値観に基づいて気侭に筆を走らせた結果、曹操に対する高評 価と劉備への批判が生まれているようだ。」また、「意識的に曹操の描き方を変 えたように読め、再話世界を豊かにしたという点で、確かに吉川版に多大な功 績があると言えるだろう。」
江尚軍(2013)5は、吉川氏が描く曹操を性格・戦争・精神面から分析、吉 川氏の曹操謳歌に気づいた。また、曹操の性格を「素朴な曹操」と、「温雅典
2 雑喉潤『三国志と日本人』東京:講談社、2002 年
3 邱岭、呉芳齢『三國演義在日本』銀川:寧夏人民出版社、2006 年
4 箱崎緑『日中戦争期における「三国志」ブームー中国は如何に語られたかー』東京:東京大 学修士学位論文、2010 年
5 江尚軍「吉川英治『三國志』と『三國志演義』の比較——曹操像を中心に」『西江月』2013:2、
重慶:重慶大學外國語學院、2013 年
4
麗な曹操」という二つの場面から探求した。
2.2. 劉備に対して
劉備の人物像は他の人物と比べて蒼白に見えるが、吉川は細部の描写によりそ の人物像を豊かにしたと王米娜(2013)6が述べた。劉備の地味な家、優しい 母親、母親との対話から、哀れな雰囲気を醸し出し、いつか王になるイメージ を作り出した。これは日本武士の「悲情美」にふさわしく、日本読者から見れ ばより一層受け入れられやすいように加筆したものである。また、吉川は鴻芙 蓉という原作にない女性との恋愛により、劉備に風雅のイメージをつけた。こ れは平安時代からの恋愛描写を引き継ぎ、劉備を日本の読者に魅力的に見せる ためである。総合的に言えば、吉川は劉備を非常に肯定的に捉えていると王氏 が述べた。
2.3. 関羽に対して
雑喉潤(2002)7は吉川『三国志』が関羽に冷たいと評した。しかし、桃園 に義を結ぶ三人を主人公中の主人公にしたい吉川氏の思い入れがうかがわれ る指摘した。(それにしても、曹操への思い入れと比べたら薄く感じると雑喉 氏も述べた)
邱岭(2006)8は吉川氏が仁、智、勇の三徳をそれぞれ劉、関、張に与え、
ひとつの理想的な集団として描いたと述べた。しかし、諸葛亮の智と違い、関 羽の智は修養、人徳などの精神面に見られる。その儒者としての智を強調する
6 王米娜(2013)「談吉川英治「三國志」中的劉備形象」黑龍江:『北方文學』
7 雑喉潤『三国志と日本人』東京:講談社、2002 年
8 邱岭「試論日本文學對《三國演義》的接受――以吉川英治《三國志》中的關羽形象為例」福 建師範大學學報 2006-3、2006 年
5
ために、関羽は武夫から塾の先生になり、作品の中随所にその博識を示した。
また、吉川氏が関羽の死から日本民族の審美観に応じるものも発見した。そ れは、関羽の最後の旅が無情の感に満ち、その死も格別に哀愁を誘うものであ る。この貴種流離のような日本伝統的な審美観を作品の中に導入するには、劉、
関、張の出身を貴人にしなければならないと邱氏は考える。
2.4. 諸葛亮に対して
謝立群・張永(2011)9は吉川氏が描いた諸葛亮を「神格化されていない諸 葛亮」――超自然の力を頼らず、自分の智慧に努力を以て敵に勝った者、「よ り人間らしい諸葛亮」――人間味のある行動をとるものという二つの面から見 てきた。
9 謝立群・張永「『三国志』對『三国演義』中人物形象的塑造」『北京第二外國語學院學報』2011:12 、 北京: 北京第二外國語學院學報、2011 年
6
3. 研究目的
今までの研究では、吉川『三国志』を取り上げてその人物像が加筆された意 義について考えてきたが、羅貫中『三国志演義』や吉川が使った底本との比較 は行われていない。従って、介在されている底本が吉川の人物像作りに影響を 与えた可能性もすべての研究から排除された。よって、本論文ではあえてこの 介在されている底本を吉川が人物像を作り上げる時の要因として取り扱って みる。それを前提として、底本とのより詳しい比較を通じて、吉川『三国志』
の人物像と新しい人物像が持つ意義を考え直そうとする。
本論文では主に以下の二点を問題として取り扱う。
一、吉川『三国志』と吉川が使った底本との比較を通じて、吉川が『三国志』
においてどのような工夫によって、吉川独特の人物像を作り上げたかに ついて分析する。
二、吉川『三国志』と吉川が使った底本で現した人物像の差異は日本人と中 国人の文化思想に関係するのか、あるいは何に影響されたのか。また、
この新しい人物像はどのような意義を持っているかについて考察する。
7
本論
1. 吉川英治『三国志』とその各底本の概説 1.1. 吉川英治『三国志』
吉川英治『三国志』は、新聞連載小説として中外商業新報(現・日本経済新 聞)などで昭和 14 年(1939)8 月 26 日付にスタートした。連載中、日中戦争 が勃発したが、連載は続けられ、吉川氏は連載中の昭和 17 年(1942)には三 度目の訪中で華南地方を旅行していた。そして、昭和 18 年(1943)9 月 5 日 付で連載が終了した。連載終了後、『三国志』は複数の出版社から単行本とし て刊行された。最初の単行本(全一四冊)の刊行は大日本雄弁会講談社(現講 談社)より昭和 15 年(1940)5 月から昭和 21 年(1946)9 月にかけて行われ ている。それから様々な版本が出版されたが、管見の限り序文にしか大きな変 更は行われていなかった。
吉川英治は、『三国志』の序で以下のように述べている。
原本には「通俗三国志」「三国志演義」その他数種あるが、私はそのい ずれの直訳にもよらないで、随時、長所を択と(と)って、わたくし流に書 いた。これを書きながら思い出されるのは、少年の頃、久保天随氏の演義 三国志を熱読して、三更こう四更こうまで燈下にしがみついていては、父に寝ろ寝 ろといって叱られたことである。(「序」)
従来の研究によると、この「通俗三国志」は湖南文山の『通俗三国志』を指 し、「三国志演義」は久保天随の『新訳演義三国志』を指している。また、「そ
8
のほか数種」と書いてあるが、これらは特定し難いものになっている。底本の 先行研究に関しては、後の 1-4.「吉川英治『三国志』の底本に関する先行研究」
でまた説明する。なお、湖南文山の『通俗三国志』と久保天随の『新訳演義三 国志』に関しては 1-2、1-3 で説明する。
雑喉潤(2002)10は、吉川『三国志』の特徴について、吉川氏の独自な創意
――桃園に義を結ぶ三人に対する加筆、すぐれた人間分析、曹操と諸葛亮の重 視、「怪力乱神」をかたらぬ点、吉川の史観とその時代性を述べた。
箱崎緑(2010)11は、今まで(2010 年時点)吉川『三国志』が評価されてき た特徴を六点にまとめ、戦時体制下の他の三国志の再話との違いを探求した。
吉川『三国志』の独自性として、語りものとしての性格、特に丁寧でありなが ら平易な語り口から読者を啓蒙する点が挙げられ、共通点として、「合理化」、
「簡略化」、「中国理解言説の反映」、「時局の反映」12が挙げられた。また、箱 崎氏は格別に「曹操の造形」を独立して分析した。
邱岭、呉芳齢(2006)13は、吉川『三国志』の特徴を、「真実性の発展」、「社 会性の除外」、「叙情性の増補」という三つの方面から探求した。「叙情性の増 補」においては人物に対する吉川氏の加筆から日本文学の「悲美」の伝統がい かに吉川『三国志』の中に用いられたかについて説明した。
童華仁(2011)14は、中国描写と、他の比喩と視点から原著を解釈という二 点から吉川『三国志』の特徴を捉えた。前者に関しては、「中国多元民族に対
10 雑喉潤『三国志と日本人』東京:講談社、2002 年
11 箱崎緑『日中戦争期における「三国志」ブームー中国は如何に語られたかー』東京:東京 大学修士学位論文、2010 年
12 「時局を反映したと思われる似たような表現が複数の再話に見られる場合もある。吉川版、
岡本版共に、南蛮に対する諸葛亮の姿勢を称賛しているが、多民族と協調しようという大東亜 共栄圏の思想と相通じる点があるためだと考えられる」。また、「吉川版は、日本の精神が価格 力と融合し力を発揮するという考え方を示しており、科学力と同時に、機械を扱う人間の精神 を重視しているようだ」と述べ、『三国志』からそれを反映する例文を引いた。以上を踏まえ たうえに、「加えて吉川版は、連載小説という性格から、本文の流れに時局を映していたと考 えられている」と箱崎緑が評価した。
13 邱岭、呉芳齢『三國演義在日本』銀川:寧夏人民出版社、2006 年
14 童華仁『從歷史教訓到文化消費ーー在日本「三國志」文本中變遷的中國』高雄: 国立中山 大学修士学位論文、2011 年
9
する描写」、「中国歴史に対する描写」、「中国地理に対する描写」、「中国文化に 対する描写」、後者に関しては、「人物に対する評価」、「故事の説明や日本の故 事で解釈」、「現代的な角度から解釈」、「一般大衆の角度から解釈」の増補が挙 げられた。
1.2. 湖南文山の『通俗三国志』
『通俗三国志』に関しては未解明の点が多々残される。成立は元禄二(一六 八九)年から五(一六九二)年であり、訳者は湖南文山とされるが、この人物 の正体に関しては未だ不明である。吉川英治記念館には、吉川氏が使う東京・
博聞館が刊行した帝国文庫版『通俗三国志 上・下巻』(明 26-27)(しかし、作 者は高井蘭山と誤植された)が所蔵されている。
『通俗三国志』の底本は、『三国志演義』の数ある版本の内、『李卓吾先生批 評三国志』(以下、「李卓吾本」と呼称)と称される系統のものである。これは久 保天随の『新訳演義三国志』の序文と、幸田露伴校『通俗三国志』の「解題」
でも言及されている。また、「李卓吾本」が『通俗三国志』の底本である根拠 として、小川環樹(1968)15は三国志演義の版本を三種類にまとめて、關索説 話の挿入・「關索荊州認父」の一段16の欠如・標題の類似性・さらに文山訳は 李卓吾本の誤字17をそのまま引き継ぐ点から、文山訳のよりどころとなったの は李卓吾本であると定めた。一方、立間祥介(2001)18は、湖南文山の『通俗 三国志』が「嘉靖本」系のテキストを底本としたものであると指摘したが、そ
15 小川環樹「文山訳の原本」『中國小說史の硏究』東京:岩波書店、1968 年
16 關索は『三国志演義』の中に関羽の次男として現れた人物であり、この人物が出てくるか どうか、どのように登場したかは版本によって違うので、版本研究の端緒となった。
17 小川環樹は『三国志演義』の異同を調べた結果、文山訳の「頭に日月の狼とう(「髟」の下 に「頭」)帽」で「とう(「髟」の下に「頭」)」という漢字を使ったが、この漢字を使ったのは 李卓吾本だけで、ほかの各版本では「鬚」という漢字を使った。
18 立間祥介「吉川『三国志』の魅力」『国文学 : 解釈と鑑賞』66:10、東京:至文堂、2001 年
10
の拠り所が明示されていない。また、「嘉靖本」には關索説話が挿入されてい ないことから、「嘉靖本」の底本は『通俗三国志』であるとは言い難い。
なお、『通俗三国志』の翻訳について、基本的には原文に対して忠実してい るが、純然たる翻訳作品ではない。「『通俗三国志』の翻訳態度が逐語訳とは到 底言えぬ、随意に補足・省略を含む自在なものであることは了解されるであろ う。また、原文中の語彙が、いかなる形で訳されているのか確認し辛い場合も ある」と指摘されている19。それで、長尾直茂(1997)20は、『太平記』などの 軍記物に影響をうけた修辞が多用されているとも指摘した。また、田中尚子
(2007)21は、「軍記に見られる表現の利用」「区切れの位置の移動」「話末評 の増加」という三つの面からその翻案手法を検討する。
1.3. 久保天随の『新訳三国志』
この久保天随の『新訳三国志』とは、東京・至誠堂が刊行した新編漢文書第 十二・十三編『新訳三国志上・下』(上は明治四十五年六月初版。下は大正元 年十月初版)で、久保天随の序によると、清の毛声山が子の毛宗崗の名で刊行 した『毛宗崗本』を底本としたものである。
そして、『毛宗崗本』の凡例には、「俗本謬託李卓吾先生批閱,而究竟不知出 自何人之手,……」と書いてあることから、『毛宗崗本』は『李卓吾先生批評三 国志』を底本にしたと推測された22。また、「物語の洗練を目指す明確な意図 のもとに、底本を積極的に改めたことこそ、毛本独自の特徴なの」23であり、
19 長尾直茂「江戸時代元禄期における『三国志演義』翻訳の一様相――『通俗三国志』の俗 語翻訳を中心として――」『国語国文』66:8、京都:中央図書出版社、1997 年
20 長尾直茂「江戸時代元禄期における『三国志演義』翻訳の一様相・続稿」『国語国文』66:
8、京都:中央図書出版社、1997 年
21 田中尚子「通俗三国志試論」『三国志享受史論考』東京:汲古書院子、2007 年 1 月
22 中川諭『『三國志演義』版本の硏究』東京:汲古書院、1998 年
23 竹内真彦「泣かずに魏延を焼き殺す--吉川英治の読んだ三国志」『アジア遊学』105 東京:
勤勉出版 2007 年、16
11
文学作品としての完成度が高く、現在『三国志演義』の翻訳として販売されて いるもののほとんどは毛宗崗本を底本としている。
1.4. 吉川英治『三国志』創作において使う底本
吉川英治自身は、「少年の頃、久保天随氏の演義三国志を熱読」すると述べ ているが、従来の研究によると、吉川英治が主に用いる底本は、湖南文山の『通 俗三国志』である。
これに関して、竹内正彦(2007)24は、
その(『通俗三国志』の)刊行から吉川『三国志』が現れるまで、日本 人にとって三国志とは『通俗三国志』であった。これは、吉川英治にとっ ても同様であり、彼が『三国志』を書く際に依拠してのもこの『通俗三国 志』であったことは疑いない。
と述べ、さらに孔明が魏延を焼き殺そうとする挿話が吉川『三国志』、湖南 文山の『通俗三国志』、『三国志演義』の「李卓吾本」という三つの説話にとも にあるが、毛宗崗本には収録されていないことを述べた。すなわち、吉川『三 国志』、湖南文山の『通俗三国志』、『三国志演義』の「李卓吾本」が一脈相通 じていることが推測できるのである。
また、立間祥介(2001)25は吉川『三国志』の「蒼天已に死す、黄夫当に立 つべし」が『通俗三国志』の「黄夫」26という誤記を踏襲した点から、吉川『三 国志』は湖南文山の『通俗三国志』を底本として用いることについて説明する。
24 竹内真彦「泣かずに魏延を焼き殺す--吉川英治の読んだ三国志」『アジア遊学』105、東京:
勤勉出版、2007 年、15
25 立間祥介「吉川『三国志』の魅力」『国文学 : 解釈と鑑賞』66:10、東京:至文堂、2001 年、東京:至文堂
26 李卓吾本では「黄天」と記する。
12
本論文は、先行研究に従い、「李卓吾本」―『通俗三国志』―吉川『三国志』
という関連性を踏まえた上、第二章で三作品の描写を取り上げ、その相互関係 を具体的に探求してみたいと思う。
13
2. 吉川英治『三国志』の創作
2.1. 吉川英治『三国志』の成立と時代背景 2.1.1. 吉川英治『三国志』の成立
2.1.1.1. 読者意識
吉川『三国志』は「新聞小説」という形で発表された作品であり、いわゆる
「大衆文学」である。日本の大衆文学とは、「昭和十年代にマス・メディアの 成熟を基礎に成立した文学であり、厳密には歴史的用語であること、近世以来 の話芸伝統を継承するが、現れとしてはマスコミ的性格を持ち、その対応のう ちに推移した」。「基本的には、大量生産、大量伝達、大量消費を踏まえたマス コミ文学」27である。日本でマス・メディアが成熟するのは、関東大震災(大 正 12 年(1923))の一、二年後である。大正 13 年(1924)1 月の大阪毎日、
大阪朝日両紙の百万部突破、翌年1月刊の大衆娯楽誌『キング』(講談社)の 創刊は、当時のメディアの状況を反映している。
ちょうど大正 10 年(1921 年)に東京毎夕新聞社に入った吉川英治は、関東 大震災による東京毎夕新聞社の解散をきっかけに、作品を講談社に送り作家と して独立した。大正 14 年(1925 年)より創刊された『キング』誌に連載し、
初めて吉川英治の筆名を使った「剣難女難」で人気を得た。キング誌は講談社 が社運をかけた雑誌であり、新鋭作家吉川英治はまさに期待の星になり、多大 な読者を獲得した。吉川氏が戦前も戦後も膨大な「読者」を獲得し続ける原因 は、常に「読者」を意識しながら書き続けてきたことであろう。
「日刊紙が百万部の大台を越え、月刊誌が七十五万部も売れる状態となれば、
どうしても文学的洗練を経ない読者の興味に対応した文学的創造が必要とな る。彼らは文学的な洗練度においては未熟かもしれないが、人生的経験は豊富
27尾崎秀樹「大衆文学の魅力」『国文学:解釈と鑑賞』昭和 59 年 12 月号、1984 年、7-8
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な受け手なのである。その知的興味を満足させるためには、従来の身辺雑事的 私小説では充分でない。人間社会の諸側面を映したロマンが求められる。その 期待の応えて登場したのが、新興文学としての大衆文学だった」28と言われて いるように、マスコミを通じて発表する文学作品を書くなら、読者を満足しな ければならないのである。
吉川氏の読者群を分析してみれば、以下の二つのグループに分けることがで きる。一つは都市部を中心とした新中間層であり、彼らは「この小説は面白い か、面白くないか、標題で、書出しの数行で、或ひは、挿絵や、ずつと見たペ ージの字感(――こんな熟語はないが)で、もうおよそ知ってゐる。知識的に も、大衆の読者が育つて来たことは確かだが、さういふ感覚の特に、鋭敏にな つたことは、何と言つても、出版の氾濫からであらう。」29と吉川氏自身が述 べている。また、もう一つは、大衆社会状況以前の「庶民」というのは職人・
実社会人・勤労青年などであり、今日の大衆というものをイコールと考えては ならない。今の大衆とは大組織の中の人々であるから。しかし、吉川自身の経 歴や、たびたび都市の享楽階層に嫌悪を示していることなどから考えれば、後 者の「読者」の方に、より親近感があつただろうと想像される。30また、庶民 的なキャリアを持っている氏こそ、読者と多くの感覚を共有することができた。
2.1.1.2. 歴史小説としての成立
歴史小説を考えるとき、森鴎外が提出した歴史小説論が常に言及される。森 氏によれば、歴史小説には歴史其儘と歴史離れという二つの創作法がある。前 者とは、「資料に残され記録されている史実をそのままに小説として描く」。後
28 尾崎秀樹「大衆文学の魅力」『国文学解釈と鑑賞』昭和 59 年 12 月号、1984 年、7-8
29 吉川英治「歩く構想」『草思堂随筆』東京:新英社、1935 年
30 丸山浩「吉川英治と小林秀雄―「読者」「大衆」をめぐって―」山陽女子短期大学研究紀要 27、2005 年
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者とは、歴史から離れ、「作者の自由奔放な〈といっても時代背景そのものや、
史上人物を登場させた場合には、あまりにも実像と異なる人物解釈はできない はずだ〉イメージのままに新解釈のもとに小説として描く」という。しかし森 鴎外自身は「歴史の小説の面白さというのは、やはり、歴史そのままでは生ま れない」31と感じた。
「七実三虚」と言われているように、『三国志演義』は、歴史そのままと歴 史離れという二つの創作法をうまく駆使したからこそ、読者を三国時代の中に 引っ張ることに成功した。では吉川『三国志』はどうかというと、まず、氏の 史実と物語創作について論じる「小説と史実」32から見てみよう。
しかし小説を書く場合事実を拾い上げるに、もし事実というものの価値 を非常に極端に考え過ぎたらば、所謂いい小説は書けない。そうかという て事実を軽蔑したら絶対にいけない。どんな空想にしても、それは正確に 事実は事実として究明して、そうしてあらゆるものから推理的に突き進ん でいく。つまり事実でなければならないという把握がなくちゃならないと 思う。
その基準は、要するに小説というものは、読んでいる読者の心理がこれ は嘘だということが頭にぴんと来たらその小説は失敗と思う。だから作者 がどんな空想を書いても、読者の頭の中には、どうあってもこれは事実で あるという感じを持たすことが、小説というものの一つの使命というてよ いと思う。
つまり、史実に捉われてはいけないが、史実を把握してから推理し、史実で あるように読者に信じさせられる物語を作っていくという氏の歴史小説の創
31 武蔵野次郎「歴史・時代小説の魅力」『国文学:解釈と鑑賞』第 44 巻 3 号、1979 年、8
32 吉川英治「小説と史実」『折々の記』一家言叢書、全國書房、1942 年
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作態度は羅貫中に近いと思う。吉川『三国志』を見渡して、歴史書を参考にし たところもあり、どの本にも書かれていない、氏の空想をさんざん生かすとこ ろもある。それは氏の言葉でいうと、「歴史の余白」というものに繋がってい る。
(歴史の)要所要所の余白に対して、僕等は必ず零細な埋もれたものを 拾い上げて、ここに僕等だけの世界を作り上げて行くのである
吉川氏が長けている創作テクニックを用いてこの「歴史の余白」を最大に生 かした。それは例えば、「歴史の中で偶像化された存在が、ひとりの矛盾に満 ちた人間、血肉の通った人間として読者の前に連れ出される」33という吉川氏 が『私本太平記』で使った技法のように、吉川氏が『三国志』においても、こ の創作テクニックを駆使したので、作中に登場する英雄たちには人間的な弱さ が持たされた。たとえば、沮喪の劉備は、
彼は、女々め めしく郷里の母を想い出し、また、思うともなくい鴻芙蓉こ う ふ よ うの麗 しい眉や眼などを、人知れず胸の奥所お く がに描いたりして、なんとなく士気の 沮喪そ そ うした軍旅の虚無き ょ むと不平をなぐさめていた。(「檻車」「桃園の巻」)
という感情を抱き、また、死に追い込まれる曹操が、
驕慢児きょうまんじの眼にも、真実の涙が光った。 脆もろい一個の人間に返った彼は、急
33 石川巧「権力の機構――『私本太平記』論」『国文学:解釈と鑑賞』66:10、東京:至文堂、
2001 年
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に五体のつかれを思い、喉の渇かつに責められた。(「生死一川」「群星の巻」)
というように、英雄のイメージと異なる人間の弱さを現した。
「歴史の余白」にて物語世界を作り上げる手法として、人物の骨肉愛と恋を 描くというのも挙げられる。鈴木貞美(2001)は、
彼は、歴史家の「余白」に関心に注ぎ、史書の記述や「史実」を相対化 し、国際的な視野を取り入れたり、女性の役割を重視し、生活や文化史を 重んじる態度を持ち合わせていた。それは「大衆小説」の戦略として、大 衆を目覚めさせような歴史上の人物を呼び返し、読者に史実らしく感じさ せように叙述を工夫していったことと密接に関係している。34
というように、吉川作品の中に活躍している女性の描写を「大衆小説」の戦略 と結びつけた。たとえば、吉川文学では、母と子との関係がいつも濃く描かれ ている。この濃密な母子関係描写は実際に吉川氏の人生反映ではないか。
吉川氏は昭和 32 年(1957)に、自叙傳『忘れ残りの記』を刊行した。そし てこの自叙伝について、傳馬義澄(2001)は以下のように語った。
この自叙伝で語られているもうひとつの真実、それは幼年から青年に至 る吉川英治とその母いくとの、ある濃い、粘着性の高い情緒である。それ はほとんど肉感的なほど密接な関係であるという点において、きわめて日 本的な母子関係であるといってもいい。(中略)吉川英治は、儒教的家族 主義や儒教的良妻賢母主義を根幹とする女子教育観が時代を支配してい た「明治の子」であり、藩士の末裔である両親もまた封建の遺風を生き、
34 鈴木貞美「吉川英治の歴史観」『国文学:解釈と鑑賞』66:10、東京:至文堂、2001 年、148
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家族には封建的にしつけてきた(下略)35。
『忘れ残りの記』を見てみると、
母の闘いはもう十年になる。一家中心をしなかったのは不思議である。
その点、母は全く強かった。だがその強さは冬柳のようなものだった。た だ忍受であった。子や良人へするように運命にも抵抗を知らなかった。無 知といえば可憐なる無知の人であり、愛の一型とみれば、ただ子の涙を以 て洗うしかない「家」なるものの犠牲碑だった。36
と書いてある。吉川氏は家を出ようとしたかった度に、母を思い出すと諦めた。
このような骨肉愛は鈴木貞美(2001)に「英治の人と文学の原点」と評された。
37
このような辛抱強い母親のイメージは、吉川『三国志』の中で、完全に虚構 された劉備の母になり、
廊へ出てみると、そこの仕事場にだけ、うす暗い灯影がたった一つかか げてあった。その灯の下に、白髪の母の影が後ろ向きに腰かけていた。た だ一人で、星の下に、蓆を織っているのだった。
母は、彼が帰ってきたのも気がついていないらしかった。劉備がすがり つかんばかり馳け寄って、
「今、帰りました」
と顔を見せると、母は、びっくりしたように起ってよろめきながら、
「おお、阿備か、阿備か」
35 傳馬義澄「吉川英治の女性観」『国文学:解釈と鑑賞』66:10、東京:至文堂、2001 年、156
36 吉川英治『忘れ残りの記』東京:文藝春秋新社、1957 年
37 松本昭「吉川英治の魅力」『国文学:解釈と鑑賞』66:10、東京:至文堂、2001 年、11-12
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乳呑み児でも抱きしめるようにして、何を問うよりも先に、うれし涙を 眼にいっぱいためたまま、しばしは、母は子の肌を、子は母親のふところ を、相擁して温ぬくめ合うのみであった。(「桑の家」「桃園の巻」)
また、時には厳しく劉備に叱り、
「わたしは、そんな教育を、お前にした覚えはない。揺籃ゆりかごに入れて、子 守唄をうとうて聞かせた頃から――また、この母が膝に抱いて眠らせた頃 から――おまえの耳へ母はご先祖のお心を血の中へおしえこんだつもり です。――時の来ぬうちはぜひもないが、時節が来たら、世のために、ま た、漢の正統を再興するために、剣をとって、草廬そ う ろから起たねばならぬぞ と」
やはり劉備の母の造形には、母親に独特な感情を持っている吉川氏の成長の 背景が影響を与えているのであろう。吉川氏に対する母親の重要性は、「故園」
という劉備の母を描写する一章を吉川氏がわざと虚構した点からも見えるだ ろう。
また、先に言及した、歴史小説を書くときには「読者には嘘だと感じさせな い」という工夫は、吉川『三国志』においては、「合理化」という手法として 現した。
『三国志演義』にしばしば現れる妖術・魔術などの超人的な描写は排除しな いと、現代読者は受け入れられない可能性がある。たとえば、三国志最大の見 せ場となる赤壁の戦いの「東南の風」も、原作では孔明が道士服を着て祈るこ とで吹くことになっているが、本作では毎年この季節に 1、2 日だけ吹く貿易
20
風の存在を孔明が予測していたとしている。それは以下の章段である
「むかし、若年の頃、異人に会うて、八門遁甲もんとんこうの天書てんしょで伝授されました。
それには風伯雨師ふ う は く う し
を祈る秘法が書いてある。もしいま都督が東南の風をお のぞみならば、わたくしが畢生ひっせいの心血をそそいで、その天書に依って風を 祈ってみますが――」と。
だが、これは孔明の心中に、べつな自信のあることだった。毎年冬十一 月ともなれば、潮流と南国の気温の関係から、季節はずれな南風が吹いて、
一日二日のあいだ冬を忘れることがある。その変調を後世の天文学語で 貿易風
ぼうえきふう
という。(「孔明・風を祈いのる」「赤壁の巻」)
無論、これは諸葛亮の道教との関わりを無くした読み方であるが、現代の 日本読者にはこのような解釈が施されると、わりと抵抗感がなくなる。
また、日本人には理解しがたそうな箇所があったら、吉川氏もちゃんと氏な りに説明した。たとえば、劉安が自分の妻を殺して、劉備に肉を提供したエピ ソードについて、物語の中に「読者へ」という欄を設け、「削除しようとも考 えたが、あえて彼我の民情の相違を読み知ることができ、日本における鉢木の 佐野源左衛門と最明寺時頼のエピソードと同様である」と解説した。現在の観 念では受け入れられないエピソードがあっても、吉川氏はあえてそれを否定し ない。手を加えて合理化するか、物語から出て解釈するかといういずれの手段 によってこういうエピソードを削除せずにすむことができた。
なお、小説には、作者の道徳観・価値体系を持ち込むことが可能である。吉 川文学の特色として、大衆性(庶民性)・教訓性・時代感覚が挙げられ、大衆 性と時代感覚がなくなった現在までも吉川文学が読まれ続けてきたのは教訓
21
性そのものであろう。吉川文学に教訓性があるのは氏の明白な意図からのであ る。吉川氏は「大衆といふもの」で歴史物語を以て呼び水をさしたいと彼の創 作意図を述べた。
その大衆の中には、つまりこの國の民衆には、自然長い歴史と文化の うちに育まれてきたいいものが多分にある。それを私は小説のうちにも見 出すのでありまして、何も、高踏的に讀者に與へるとか、民衆をひきあげ るとかいふほどのものではありませんし、氣概をもつてもをりません。い はばひとつの“呼び水”であります。
呼び水といえばロマンな情調でも、人間感情の憎惡や批判でも、文學 や詩はすべて呼び水作用のものでありますが、私もその方法をとつてすで に大衆の中にあるものへ、歴史物語をもつて呼び水をさしてゐるにすぎな いのであります。38
作者が教訓を垂れる際には、作者の価値観がその中心に働いてる。たとえば、
『三国志演義』では「義」・「忠」・「仁徳」・「統一」の価値が称えられていると 言われている39。では、吉川氏が重視している価値は何かというと、「忠」と
「孝」が挙げられるのであろう。氏は彼の価値観に関して以下のように述べた。
又、私は決して、思想運動家でもないし、教育者でもない。飽まで單な る一文人にすぎないのであるが、國民的詩人はいつも時代の先驅者である。
國民の先に立つて道をさけんでゐた。文人が文に立つて道を語ること必ず しも異端ではあるまい。
38 吉川英治「大衆といふもの」『折々の記』東京:六興出版、1953 年
39 劍鋒「論『三國演義』藝術的道德美」『三國演義學刊』(一) 、成都: 四川省社會科學院出 版、1985 年・余洪江「試論『三國演義』中的陸遜形象」『三國演義學刊』(二) 、成都市: 四 川省社會科學院出版、1986 年
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忠
の道に對して。又、餘りに舊道徳のうちに定義づけられてあるために却 つて現代人のうちには顧慮されてゐない。
孝
の問題。40
「忠」も、「孝」も清新溌剌な將來への精神文化の信念でなくてはならない というのが氏の考えである。「孝」は前述通り、母子の感情を描写することで 氏がいつも作品の中で賛美している。また、「忠」は『三国志演義』において 異なる側面から見ると異なる定義を持っているが、吉川『三国志』においては この「忠」の価値を、死を以て蜀に尽くす諸葛亮で最大化にした。
2.1.2. 時代背景
2.1.2.1. 日中戦争期で書かれた吉川『三国志』
前にも言った通り、吉川『三国志』は今からおよそ 70 年前、昭和 14 年(1939)
から昭和 18 年(1943)にかけて新聞連載のかたちで発表された。この時代は、
1937(昭和 12)年を端緒とする日中戦争および太平洋戦争の真っ只中であっ た。わかりやすくするために、まず吉川氏の年譜41から、日中戦争とわりと関 係あることを以下の年表にして並べてみる。また、年表に入っていなかったが、
昭和 13 年(1938)の国家総動員法の成立や「東亜新秩序」の発表も作品の背 景として含めて考えるべきであろう。
年代 事件
40 吉川英治「はしがき」『折々の記』一家言叢書、全國書房、1942 年
41 松本昭『人間 吉川英治』東京:六興出版、1987 年、318-320
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昭和 12 年(1937) 日支事変起る。7 月、毎日新聞の特派員として天津・
北京に行く約束を引き受ける。出発、即日の急なり。
一ヶ月余にて帰国。
昭和 13 年(1938) 9 月、菊池寛、佐藤春夫、小島政二郎氏ら十数名と 共に、ペンの部隊として南京、漢口方面に従軍。
昭和 14 年(1939) 『三国志』の執筆開始、土曜会各紙へ載る。
昭和 17 年(1942) 10 月海軍軍令部戦史部嘱託として、海軍機にて南方 を一巡、12 月初旬帰る。朝日紙上に「南方紀行」を 載す。
昭和 19 年(1944) 海軍戦史部より戦史執筆の依嘱あるも刊行企画の 内示あるのみにて終わる。
昭和 20 年(1945) 終戦とともに一時執筆活動を休止。
昭和 22 年(1947) 執筆再開。
吉川氏は、昭和 12 年(1937)7 月に毎日新聞社特派員として天津・北京へ、
翌年 9 月に、ペン部隊の従軍部隊の一員として漢口・南京方面と、二度中国を 訪れた。特に、昭和 13 年(1938)の渡航に関して以下の資料が見られる。
(8 月 23 日)内閣情報部から文芸家協会についての相談があり、吉川 英治もその懇談会に招かれて出席した。人選は文芸家協会の会長である菊 池寛があたり、……二十二人が選ばれた。……作者を動員した意図は、漢口 作戦に従軍させることで銃後文学の発展に寄与させようというねらいだ ったが、それほど強い要請ではなく、作家たちも比較的気軽に出かけた模 様だ。42
42 尾崎秀樹『伝記 吉川英治』東京:講談社、1970 年
24
また、
昭和一三年八月に内閣情報部は文学者と懇談会を開き、漢口攻略戦への 文学者の従軍を要請、それを受けて同年九月に陸海二班に分かれて二十数 名に上る文学者が現地へと出発した。43
吉川氏と文芸家協会会長の菊池寛は親友の間柄であることから、吉川が「ペ ン部隊」の中心的に位置にいたことが推測できるだろう。
2.1.2.2. 書き換えられた吉川『三国志』の序文
現在の読者に読まれている吉川『三国志』の「序」は、初収本が刊行された 昭和 15 年(1940 年)当時に書かれたものであったが、言葉遣いや、本作の執 筆動機などに関して、再版時に変更された内容もあった。
言葉遣いとして、初収本では「支那」、「民族」と書かれているところは、改 訂版では「中国」、「民俗」となり、「皇紀八百年頃」も「西暦百六十八年頃」
となった。また、「この紙不足の折ながら」という言葉から、当時の社会状況 も伺える。
吉川『三国志』の執筆動機に関して、現在我々が読んでいる序文では以下の ように書かれている。
三国志は、いうまでもなく、今から約千八百年前の古典であるが、三国 志の中に活躍している登場人物は、現在でも中国大陸の至る所にそのまま
43 長谷川泉『日本文学新史〈現代〉』東京:至文堂、1991 年
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居るような気がする。――中国大陸へ行って、そこの雑多な庶民や要人な どに接し、特に親しんでみると、三国志の中に出て来る人物の誰かしらと きっと似ている。或いは、共通したものを感じる場合がしばしばある。
だから、現代の中国大陸には、三国志時代の治乱興亡ちらんこうぼうが そのままあるし、作中の人物も、文化や姿こそ変っているが、なお、今日 にも生きているといっても過言でない。
ところが、現在の「序」では削られたのは、
従軍二囘、北支中支の黄土を踏んでから、私は、少年時代にも耽讀した 三國志演義を、もういつぺん讀み返してみた。そして、再讀して得た大き な意義と新しい興味を覺えて、遽にこの執筆を思ひついた。
というところと、文の最後に、
多少なり興亞の大業の途にある現下の讀物として、役だつ所があれば望 外の倖せである。
という二箇所が削られたのがとても目立っている。このことから、「三国志 すきだった」がため、三国志そのものを取り組むだけではなく、日中戦争と中 国に対する関心の高揚の結果として、吉川『三国志』の執筆の念を固めたこと と、日中戦争を背景にした吉川『三国志』の出版意図という二点が押さえられ る。
2.1.2.3. 吉川英治の戦争思想
26
昭和 10 年(1935)に吉川氏が『草思堂随筆』の中に「真ン中」の思想を提 出した。
私は、左翼でもない、右翼でもない。といって、改めて、ファッショだ という、宣言する必要も持たない。
私は、由来、私だ。
×
思想的に、ずいぶん、動揺をもった、現代の日本人には、およそ、同感 な人が多かろうと思う。
左でもない、右にも、うなずけない。強いていえば、真ン中だ。
真ン中は、日本思想の、余白である。そして、この余白が、いちばん、
ひろい。
私は、思う。――将来の、思想、文学、すべての芽が、ここにもりあが って来なければ、嘘だと。44
氏の「真ン中」の思想は、氏を研究するときに、いつも持ち出される問題で あるが、しかし、彼の真ん中には、実際には落とし穴が開いているのではない かと疑問を抱いた学者もいた45。
竹内好も批判しているように、「菊池寛、大佛次郎というブルジョア作家は 消極的に批判しつつ、結局屈伏して行ったけれども、吉川英治は積極的にファ シズムに加担した」という。昭和 12 年(1937)12 月に吉川氏が書いた「南京 陥落に寄る」という一文の中で以下のように述べた。
同時に支那の民衆に知らしめたい。抗日支那の態形の崩潰に、徒らに感
44 吉川英治「ゴシップ」『草思堂随筆』東京:新英社、1935 年
45 新保祐司・冨岡幸一郎「対談吉川英治と大佛次郎―歴史小説家と歴史家―」『国文学:解釈 と鑑賞』66:10、東京:至文堂、2001 年、27
27
傷になるなかれと。それは支那そのものではない、僞瞞僞裝せる一政權と、
前科者の植民國との野合が作つた偉大なるトリツクでしかなかつたのだ。
支那の民衆は、一日もはやく、抗日職業者と戰禍をふりすてて、樂土の建 設に、東洋の盟主の力を求むべきである。その賢明は、やがて支那國民の、
最も正しい面子(メンツ)とならう。46
この南京陥落の後に書かれた文の中で、氏は中国に「東洋の盟主」の日本に 抵抗するのをやめようと中国人に声かけた。つまり、昭和 13 年(1938)に東 亜新秩序―〈帝国指導の下に日満支三国の提携共助〉の実現が斎藤実内閣によ つて決定されたことを背景とし、南京陥落の際に氏にはすでに日本を盟主とし たアジアの新秩序という理想があった。また、氏が中国に渡航した後の昭和 12 年(1937)9 月も、「この自然の民を良牧する者は、日本以外にはあり得ぬ ものであるといふ、大きな東亜の宿命を、再び確信したことであった」47と述 べ、日本は東亜盟主であるべきという観念を変えなかった。
「大衆」の抑圧感覚に照応する吉川の内部にあった抑圧感覚を吸い上げ ることによって推進された日本ファシズムに、吉川英治はごく自然に加担 し得たし、ある部分ファシズムを領導し得たのである。
と丸山浩(2005)48が述べているように、「事変後、毎朝部屋にこもって新 聞を読み耽っていた」49という当時の一般大衆と同様に戦争熱の最中にあった 吉川氏の姿は想像しがたくない。
46 吉川英治「南京陥落に寄る」『窓辺雑草』東京:育生社、1938 年、93
47 吉川英治「黄河の水――支那なるものの民族性――」『窓辺雑草』東京:育生社、1938 年、
131
48 丸山浩「吉川英治と小林秀雄 : 「読者」「大衆」をめぐって」山陽女子短期大学研究紀要 27, 2005 年
49 丸山浩「吉川英治と小林秀雄 : 「読者」「大衆」をめぐって」山陽女子短期大学研究紀要 27, 2005 年
28
2.1.2.4. 吉川英治の中国体験と『三国志』創作
実際、吉川英治が中国体験を通じて感じたものをどのように吉川『三国志』
の中に持ち込まれたかについて、考えてみよう。
はじめての渡航に関して、松本昭(1987)は以下のように述べた。
英治がそこ(北京の南口鎮)で見たものは、激しい抗日戦線の姿だった。
しかも戦場と化したこの地にあって、常に変わらぬ表情で暮らしている中 国人の姿――。悠久の天地と共にあるその強さに、「いわば日本的感覚で、
事態を解決するのは誤っており、中国人の多角的で複雑な性格――、この 天地と共にあった民族が長い興亡の歴史を通してもつに到った性格を、理 解せねばならぬ」と、しみじみ思ったというのだ。50
このように、戦火の下に頑張って生きようとする中国民族にたいする感心は、
吉川『三国志』にもところどころ書かれ、三国時代の難民描写の底調になる。
戦乱があれば、戦乱のない地方へ、洪水や飢饉があれば、災害のなかっ た地方へ――大陸の広さにまかせて、大陸の民は、流 離 漂 泊りゅうりひょうはく(「諸葛氏一 家」「孔明の巻」)
または、
旅は苦しい。つらい。
50 松本昭「戦う日々」『人間 吉川英治』東京:六興出版、1987 年