オランダ東インド会社が平戸で商館を開いた翌年、1610年のオランダ船が中国と日 本の茶を集めてヨーロッパに伝えたのは茶が最初ヨーロッパに伝わった記録とされる77
。中国と日本からの茶が、いつ最初にヨーロッパに伝えられたかについての記録が残さ れていないが、オランダ東インド会社が平戸で商館を開いた次の年という記録から、日 本の茶をヨーロッパに伝えた可能性がある。
イギリス平戸商館長のR・L・ウィッカムが、1615年にマカオ駐在する同じ会社の代 理者イートンに対し「私のために最良種のチャウ(chaw)一壺を買ってもらいたい」
と依頼した。 ウィッカムは日本の茶を求めないで中国の茶を求めることから、日本茶78 より中国茶の方に興味があることを示した。これは単にウィッカムの興味本位にすぎな いという可能性もあるが、1616年12月6日のイギリス商館長日記では、茶に触れる記述 もみられる。
私はチャイナ・キャプテンの弟にケレモン一著と鮭二尾を、そして同じ品を彼自身 にも、そして、セイヤー君、ニールソン君、オスターウィック君、ロウ君、トット
75村上直次郎訳『イエズス会日本年報』(上)(雄松堂、1969)111~112頁。
76 前掲、210頁。
77 春山行夫『紅茶の文化史』(平凡社、1992)10頁。アラン・マクファーレン、アイリス・マクファーレ ン『茶の帝国』(知泉書館、2007)76頁。
78春山行夫『紅茶の文化史』(平凡社、1992)41頁。
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ン君、シナ人ニクヮン、及びマティ〔ンガ〕の父に、それぞれケレモン一著を、ま たウィルモット君にも一著を、さらにイートン君、セイヤー君、ネルソン君、オス ターウィック君、及びマティ〔ンガ〕に仕える仕女たちにも帯や履物のミアンガス を、さらにキャプテン・チャイナの妻には銀製のチャウ(茶)を入れる急須一箇と 扇一本を、また彼の娘にはタビ一足に絲と扇一本を添えて與えた。 79
平戸イギリス商館長のリチャード・コックスが中国人の貿易商人の李旦の妻と女に物を 贈る内容である。贈り物に中国の急須があることから、コックスが中国の「泡茶」によ る喫茶風習を知っていることがわかる。前述したように、この頃の日本は中国と違う飲 み方をしているが、おそらく後に平戸に移住した李旦が、コックスに中国の喫茶習慣を 紹介したのではないかと思われる。中国茶の喫茶方が当時のヨーロッパ人に影響を与え ているといえよう。
17世紀に入ると、日本茶に関する記録が、1630年バタヴィアにいるスペクス総督が 平戸商館長ナイエンローデ宛の書簡によれば、
出来るだけ上質の銀、銅、その他希望された帰り荷を積み、タイオワン(台湾)と バタヴィアに送る様に。(中略)特に貴下が、都合がつき次第、日本の茶30斤を全 部壷に入れてここに送る様すすめる。重役会は試みにこれを祖国に送る様提案して いるからである。彼等はこれを幾分か知り、評価しているので、三種類の、値段の 違うものをそれぞれ10斤宛壷と箱に入れ、長い航海で壊れない様配慮してほしい。
80
と記されている。記録を見ると、日本の茶は貴重な飲料として扱われていたことが伺わ れる。種類に分けてそれぞれ箱に入れることから、サンプル品として扱われていたので はないかと思われる。まだ贅沢品の茶に触れる機会がある重役会のような上流階層の ヨーロッパ人は日本茶を評価していたことがわかる。
しかし1640年~1648年のオランダ商館日記によれば、中国から大量の茶を買い入れ
79 『イギリス商館長日記 訳文編之上』(自元和元年五月至元和三年六月)(東京大学史料編纂所、1979
)596頁。
80 『平戸オランダ商館の日記』Vol.1(1627〜1630)(岩波書店、1969)444頁。
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た記録が見られる。1640年11月18日、19日の日記で、日本の長崎の市場にもたされた 中国商品の売上げ一覧によれば、「古い石の壷 260個 日本の茶を入れるのに適した もの。一個に付、100、80、50、30、20、5テールに売れた」 と記されている。オラ81 ンダ東インド会社の商人が、中国船から運ばれた茶道具をヨーロッパに送らないで日本 市場に出したことがわかる。さらに1640年以降に茶の仕入れについて、長崎市場に 持って来た貨物の覚書によれば、
1641年6月 茶の壷 47個、茶碗 1400個 同7月 茶の壷 1277個、磁器の茶碗 5000個 同10月 支那茶 50斤 茶の壷 70個
1642年10月 茶の壷 1301個 茶道具(数量不明) 82
記録を見ると、1641年7月にジャンク船から平戸に運ばれた茶道具の数量が一気に増え た。1644年の支那船および輸入品売上高一覧によれば、茶の壷は1628個、「茶 6230 斤」が売れたという記録も記されている。 支那船の輸入品なので中国茶であったと思83 われるが、中国茶が日本市場で6230斤も売れたことから、中国茶および茶道具が日本 では売れる商品であったことがうかがわれる。さらに、1646年と1648年の日記によれ ば、合計4630斤の支那茶も長崎市場に出した。 ヨーロッパではまだ喫茶の習慣がな84 かったとはいえ、オランダの商人はすでに茶に関するものを商品として見ていた。
日本茶の買い入れに関する記録は平戸商館日記に限るならば1630年の平戸商館長宛 の書簡しか見られない。しかし行武氏の研究によれば、1642年のオランダ船の輸出品 として、2壺入りの計5.5斤の日本茶を仕入れてバタビアへ向かった記録が見られるが85
、中国茶の仕入れの数量に比べてかなり少ない。17世紀半ば頃以前のオランダ東イン ド会社にとっての日本茶、中国茶のように商品として見ていなかったといえよう。
しかし、1643年のオランダ商館長日記では、
81 『平戸オランダ商館の日記』Vol.4(1637〜1641)(岩波書店、1969)435頁。
82 『長崎オランダ商館の日記』Vol.1(1641〜1654)(岩波書店、1956)50頁、53頁、56~57頁、64頁、
197頁。
83 『長崎オランダ商館の日記』Vol.1(1641〜1654)(岩波書店、1956)375頁。
84 『長崎オランダ商館の日記』Vol.2(1641〜1654)(岩波書店、1956)106頁、227頁。
85 行武和博「近世日蘭貿易史料に関する数量的研究」『史学雑誌』(東京大学史料編纂所、2007)53~54 頁。
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皇帝のために求められている様々な果実の苗や種は、入手するのが困難に違いな く、またこの好奇心の強い国民がそれを何のために求めるのかは大いに疑問を持た れています。しかし、中国人もこの注文を充たすためには我々同様多くの障害があ る筈だと思います。〔今回〕送るものとこれから期待できるもの、そして入手でき ないものは、貴下の役に立つようにそれぞれ別々の覚書に記され、説明されます。
この国民は、日本ではあらゆるものが育つ筈だと思っているようですが、香料やそ の他については、寒冷な冬を考えると、そこでは〔栽培〕成功しないに違いありま せん。 86
とある入手困難の果実の種苗の件が記されている。一体何の果実の種苗であったかにつ いて確認できないが、香料類は日本の気候に適していないことから、この頃、植物や香 料の移植栽培によって更に利益を上げることをオランダ東インド会社が考えているので はないかと思われる。これは、後のシーボルトの日本茶の茶種移植の行動と関連してい ると考えるのが妥当であろう。
1660年から80年まで、喫茶の風俗はオランダ国内に普及し、富裕な家には「お茶の 部屋」がつくられ、市民階級の人々、とくに女性は、男性の向うを張って、市中のビ ア・ホールに集まってお茶のクラブをつくった。飲み方として、初期には茶は中国の茶 碗に似た碗で飲まれていたが、洋風のcup and dishで飲まれるようになった時代には、
茶碗から受け皿に茶を注ぎ、女主人に「おいしい茶」をほめ、香りをかぎながら音をだ してすするのが、教養のある人々のエチケットであったという。 オランダ商人の転売87 貿易によって茶がもたされ、茶に触れる機会も増えたが、茶の普及によって茶をめぐる 論争も起こった。オランダ人医者コルネリス・ボンテクーの、茶、コーヒー、ココアの 卓越性についての『小論』が1679年出版された。ボンクテーは中国の緑茶武夷茶を非 常に賞賛し、100杯までの茶を飲むのが良いと推奨した。 フランスでアレクサンド88 ル・デ・ロードという神父が1653年にオランダ人は中国では駄目になった茶を高く売 りつけていると批判したが、パリの医科大学のピエール・クレシイの茶の論文と茶の痛
86 『日本関係海外史料 オランダ商館長日記 篇之八』(上)(東京大学史料編纂所、1977)182頁。
87 前掲、26頁。
88 アラン・マクファーレン、アイリス・マクファーレン『茶の帝国』(知泉書館、2007)79頁。
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風に対する研究が好評を得て、医学者たちによる医学的賛否論が収まった。 イギリス89 では、東洋における貿易がオランダに独占され、中国と日本の茶を直接入手するチャン スを失った。1657年まではイギリスはオランダから茶を購入したが、この頃の茶はま だ宮廷の御用達品で値段がまだ高かった。以上から見ると、茶に触れるのにかなり遅れ
風に対する研究が好評を得て、医学者たちによる医学的賛否論が収まった。 イギリス89 では、東洋における貿易がオランダに独占され、中国と日本の茶を直接入手するチャン スを失った。1657年まではイギリスはオランダから茶を購入したが、この頃の茶はま だ宮廷の御用達品で値段がまだ高かった。以上から見ると、茶に触れるのにかなり遅れ