以上述べたように、茶は、日本に伝わってからも作り方と飲み方について中国の影響 を受けていた。日本では、宋代の「点茶」=抹茶の飲み方が日本禅宗の精神と結びつい て抹茶による茶道文化へと発展した。江戸時代に入ると、明代の「泡茶」による喫茶法 が文人の間で流行し、さらに製茶技術の改良により、良質の蒸し製日本煎茶が急速に普 及した。蒸し製の特性から、中国茶と違い熱湯でなくやや温めの湯で注いで飲む入れ方 が見られるようになった。この頃の中国では、従来の蒸し製法をやめ、釜炒り製法が主 流となって、急須に熱湯で注いで出し汁を飲む「泡茶」の飲み方が見られたが、日本で は、本論の第二章の第一、二節で述べたように、一部の地域を除いて蒸し製法が主流で あり、蒸し製抹茶と煎茶を飲んでいた。飲み方に関して、中国の影響を受けながらも、
日本茶独自の飲み方が存在している。保存においても、釜炒り製中国茶と違い、蒸し製 日本茶の乾燥が充分ではない特性から、長期間の保存に耐えない特徴があった。
茶がヨーロッパに伝わった頃に、珍しい飲料として貴族の間で流行した。最初にヨー ロッパ人が受け入れたのが中国緑茶と中国式の喫茶法を受け入れた。本論の第三章の第 一節で論じたように、16世紀に来日したイエズス会士が触れた日本抹茶の飲み方は、
すでに中国で廃された飲み方であったが、ヨーロッパ人にとっては初めて体験する見た 飲み方であった。様々な高価な茶道具を用いて飲む日本の茶が彼らにとって「新しい飲 み物」であった。ヨーロッパ人がさらに茶を求めるようになり、中国茶だけでなく日本 の茶に注目したのも自然の成り行きであった。オランダ平戸商館日記の記録が示してい るように、1630年にオランダ東インド会社の総督が30斤の日本茶を本国に送るよう指 示する記録が残されている。177しかし、ケンペルの来日以前、茶についての情報がま だ十分でなかった頃に、中国茶のように壺に日本茶を入れるという保存法が確立してい ない段階で、ヨーロッパに着く前に航海の途中で変質してしまう可能性が容易に考えら れる。さらに、ケンペルが、「シナ式の注湯法は、シナからわれわれ西洋諸国へ伝わ
177 『平戸オランダ商館の日記』Vol1(1627〜1630)(岩波書店、1969)444頁。
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り、ヨーロッパの一般大衆も知っている」178と述べているように、中国式の淹れ方に る。たとえば、前述したペリー提督に随行した秘書ポルディング(J. W. Spalding)が 自らの著書で日本茶について、「日本の茶はある作家たちによると中国の茶より優れて いるといわれるが、もてなしを受けた時にみたところでは、カセイ183のものとは全く 比較にならなかった。」184とあるように、来日以前に中国で滞在し、中国茶に馴染ん
178 エンゲルベルト・ケンペル著、今井正訳『日本誌』(下巻)(霞ヶ関出版、1996)508頁。
179 『長崎オランダ商館の日記』Vol.1(1641〜1654)(岩波書店、1956年)375頁。
180エンゲルベルト・ケンペル著、今井正訳『日本誌』(下巻)(霞ヶ関出版、1996)503~504頁。
181 前掲、505頁。
182 岡倉覚三著、村岡博訳『茶の本』(岩波書店、1929)39頁。
183 13世紀ごろからヨーロッパ・西アジアで中国をさした呼称。
184W. スポルディング著、 島田孝右訳『スポルディング日本遠征記/オズボーン日本への航海 (新異国叢書 第III輯)』(雄松堂、2002)202頁。
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だポルディングが日本茶をあまり評価していない理由も容易に考えられる。
つまり、ヨーロッパ人が中国茶の保存を日本茶にしたことと、ケンペルが九州地方で 行われた中国式の茶製法を日本茶全体の製法と考えていたことも、明代以降の中国茶へ の認識を、まだ宋代の製茶法と喫茶法を維持していた日本茶に当てはめたことによっ て、淹れ方の誤用と製茶法の混用が生じるのである。これは、シーボルトの日本茶レ ポートでも、蒸し製法で用いられる焙炉を釜炒り製法で使う用具として記録しているこ と、釜炒り製法と蒸し製法の混用が見られる点で同じである。しかし、シーボルトの場 合、単に植物である日本茶の情報をヨーロッパに紹介するのでなく、日本茶移植栽培の 可能性について日本茶を見ていたことは注目に値する。シーボルトは次のように述べて いる。
私はこの成果について、ここで明記しておく義務があると感じている。それは1823 年にバタビア政府から私に与えられた日本における自然界の探求の任務のうち、な お得られると思われる種々の成果の中でも、中国および日本以外の地における茶栽 培の成功は、今日でもなおひどくむずかしいものと思われているからである。この ような状況にあるので、このジャワへの茶樹の移植がまったく黙殺されてしまうこ とがないように、ここで明らかにしなくてはならないと考えている。185
日本茶を徹底的に研究してレポートを残したことは、植物に対しての研究熱心のほか に、茶の需要が大きい日本茶種子の移植による茶栽培計画を成功させたいという意図も 含まれている。しかしシーボルトの茶栽培事業が、気候の変化や環境の異変などを全く 考慮していないため、最終的に失敗に終わった。ケンペルと違い、シーボルトの日本茶 研究は明らかに日本の茶樹・土壌・栽培に重点を置き、日本の飲み方について一切記録 していない。しかし、シーボルトの『江戸参府旅行日記』では、「年老いた似而非オラ ンダ人のフォン・ギュルペンもここに来ていて、古くからの茶人として、とうに約束し ておいた碾茶の正式な飲み方についての論文を持って来てくれた。」186と、抹茶の飲 み方に関する論文を依頼した記述が見られ、抹茶の飲み方について、シーボルトが興味
185フィリップ・フランツ・ヴァン・シーボルト著、中井晶夫訳『日本』(雄松堂、2003)付録所収、163
~164頁。
186フィリップ・フランツ・ヴァン・ジーボルト著、斉藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣、
1997)134~135頁。
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を示している。しかし、実際に抹茶を飲んだあとに、シーボルトが「すべてが非常に堅 苦しい」187という感想を残した。これは、茶の需要が大きい19世紀に「泡茶」による 簡易な飲み方がすでに定着していて、シーボルトの江戸参府旅行日記での抹茶について の記述を見ると、シーボルトにとっての抹茶が、日本の「緑茶」の特殊な飲み方にすぎ ないのではないかと思われる。
横浜開港となってから、一時的に日本茶輸出が盛んになったが、明治20年代以降に また急速に減少していった。日本茶輸出の不況について、角山栄がヨーロッパ人の見た 日本茶についてこう分析している。
ヨーロッパ人が東洋とはじめて接触し、東洋の茶とりわけ日本の茶を知ったとき、
彼らにとって茶は高尚な文化であった。摂取し模倣に値する文化として、茶の輸入 に努めたのであった。ところが日本が開港によって再び世界と接したとき、茶はか つてのような文化ではなかった。茶はいまや文化から切り離された資本主義的商品 でしかなかった。188
角山栄の見方からすると、日本が開港以前にヨーロッパ人にとって日本の茶は高尚な文 化であって、茶の輸入に努めたと述べているが、開港以前のヨーロッパ人が日本の茶に ついて「文化」と認識しているのでなく、第三章第二節で論じたように、17世紀のオ ランダ商館日記の記録によれば、中国茶と日本茶の仕入れた量の差や、日本から買った 茶をサンプル品程度としか認識していなかったことから、この頃のオランダ商人がすで に茶をひとつの「商品」として扱っている傾向がある。ケンペルが、『日本誌』で日本 抹茶の儀式と作法について詳しく記録しているが、工業革命を経て、茶が贅沢品から必 需品に転じた19世紀を生きている、日本を愛好する有名なシーボルトにとって、彼の 日本茶のレポートや江戸参府旅行日記の記録をみる限り、彼が認識した日本茶は茶で あって、「文化」として追求するものとは言いがたい。日本を訪れたヨーロッパ人の博 物学者のケンペルとシーボルトは日本茶を研究し、日本茶をヨーロッパにもっと多くの 人に紹介しようとしている。しかし、日本緑茶の特性と保存技術、さらに間違った情報 によって、日本以外の地で美味しく飲めず、中国茶のように多くのヨーロッパ人を魅了
187 前掲、115頁。
188 角山栄『茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会』(中央公論新社、1980)130頁。
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させることができなかった。横浜開港となってから、茶の再製工場が設立され、中国茶 と同じように日本茶をさらに乾燥させ、外国人の嗜好に合わせて着色し、茶箱のラベル
させることができなかった。横浜開港となってから、茶の再製工場が設立され、中国茶 と同じように日本茶をさらに乾燥させ、外国人の嗜好に合わせて着色し、茶箱のラベル