17世紀に入って清教徒革命を経たイギリスは、オランダの中継貿易を絶やすため に、1651年にイギリスの植民地に寄航する船はイギリス人に限定するという法令に よって、オランダの貿易に打撃を与えた。1650年代から4回にわたっての蘭英戦争に よって、オランダの国力を大きく消耗し、オランダ東 インド会社が財政難に陥る一方 であった。1711年、イギリスが広東に商館を設立し、中国との直接貿易によって中国 から茶を輸入するようになり、18世紀末にはヨーロッパ全体の茶の輸入量の五分の四 をイギリスが占めるようになった104。茶の輸入がイギリスとオランダの東インド会社 の独占によって、イギリスとオランダだけでは日常に茶を飲む習慣が定着した。イタリ
103守屋毅『茶の文化 その総合的研究』第一部(淡交社、1981)219頁。
104 宮崎克則、 福岡アーカイブ研究会『ケンペルやシーボルトたちが見た九州、そしてニッポン』(海鳥 社、2009)104頁。
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アやフランスではコーヒーとココアの方が流行っていたため、茶が定着していなかっ
106春山行夫『紅茶の文化史』(平凡社、1992)94頁。
107春山行夫『紅茶の文化史』(平凡社、1992)112頁。
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55.4%対45.3%であったのに対して、1731~40年は45.1%対53.95%と、紅茶の輸入が 増えてきた。108ちょうどこの頃、イギリス人もオランダから始まった茶に砂糖を入れ るという飲み方をしていたため、緑茶より紅茶の方が砂糖に合うことから考えると、紅 茶と砂糖の相性が紅茶の需要が増えた一因といえよう。さらに、紅茶の価格が緑茶より 低い場合であれば、紅茶の輸入が伸びたのも自然な流れであろう。とはいえ、緑茶も大 量に輸入されていたことから、緑茶がまだイギリス国内に需要があることがわかる。前 述した緑茶と紅茶は違う種という認識が一般的であれば、まだ紅茶を生産していない日 本から茶を輸入することより、緑茶と紅茶を両方も生産している中国と茶貿易をする方 が利益を上げると、当時のイギリス東インド会社が考えていたのではないかと思われ る。
一方オランダ東インド会社が中国と直接貿易ができるようになったのは1749年であ り、イギリスより30年も遅れている。18世紀に入ると、日本は以前のように金銀銅が 産出することなく、日蘭貿易の継続問題に迫られていたが、中国との直接貿易によって 中国茶をヨーロッパに運ぶことで利益を上げた。茶市場においてオランダが中国茶を売 れる商品として視していたことがうかがわれる。しかし日本との貿易事情が金銀輸出の 制限によりいちじるしく衰え、バタビアではふたたび出島商館の引き揚げが論議された と、シーボルトが自らの著書『日本』で、「当初から現在までの日本におけるオランダ 人の貿易」の章で述べている。109さらに、イギリスと中国の茶貿易によって、日蘭貿 易にも打撃を与えたとのこと。シーボルトは以下のように述べている。
1797年以降、東インド会社から多く借り入れたアメリカ船が貿易のために来航し た。(中略)このころ、日本人は、中国人からオランダ人の品物を受け入れようと して交渉している。中国のジャンク船は、この当時少なくとも多数のヨーロッパ製 品とインドの産物をもたらした。とくに前者は広東でイギリス人やアメリカ人と安 く茶と交換したため、オランダ人より安く供給できた。日本におけるオランダ貿易 は、このような事情により、以来、非常な損失を受けた。110
108 角山栄『茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会』(中央公論新社、1980)51頁。
109フィリップ・フランツ・ヴァン・シーボルト著、中井晶夫訳『日本』(第四巻)(雄松堂、2003)197~
212頁。
110フィリップ・フランツ・ヴァン・シーボルト著、中井晶夫訳『日本』(第四巻)(雄松堂、2003)204 頁。
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イギリスと中国の茶貿易はオランダのヨーロッパの茶市場においての競争だけでなく、
日蘭貿易にも影響を与えたことがわかる。中国茶でヨーロッパ製品と交換できるのが西 洋人がいかに中国茶に魅了されていたこともうかがわれる。これは、17世紀から18世 紀まで、ヨーロッパに大量の中国茶が輸入されたことと関係しているのであろう。ケン ペルの茶論でも、ヨーロッパで一番よく皆に知られている飲み方は中国式の「泡茶」と いうことから、中国式の飲み方がすでにヨーロッパでは定着していたことがわかる。
こうして茶が贅沢品から商品に転じて、茶がヨーロッパで定着していったが、この時 のヨーロッパ人が日本茶をどう見ていたか、植物学者ツンベルクの『日本紀行』には日 本茶についての記録が記されている。ツンベルクがケンペルの後に、1775年にオラン ダ商館付医師として出島に赴任した。彼の『日本紀行』では、日本茶についての記述が ケンペルの日本茶研究と一致している。ツンベルクが「茶」の項では、「個人の家又旅 宿にいつも釜一杯に湯が沸かしてあるのである。この湯のうちに搗いた茶を入れる。こ の煎じたものは誰れが飲んでもいい」111と述べ、当時の一般庶民が飲んでいる「番 茶」を記している。これは、前述したケンペルの番茶についての考察と一致し、誰でも 飲めるもっとも一般的な茶であったことがわかる。さらに「濃茶」の項では、抹茶こと 緑茶の飲み方も紹介し、こういった茶を「高位の人が来訪の人に出すのは緑茶に限られ る」112と、一般庶民が飲んでいる茶と区別している。ツンベルクが実際に抹茶を飲ん だかどうか記されていないが、出島オランダ商館長のヤン・コック・ブロムホムの 1822年1月12日の日記でも、抹茶についての記述が見られる。
(前略)一時半頃に(江戸参府警固検使・下検使の)閣下たちは、時計師とともに 私の住居〔かぴたん部屋〕を訪れたが、その時にも私は彼らをふたたび、堅苦しい 挨拶が済んだ後で、二種類の蜜漬と二種類のリキュール酒で、接待した。その上に 私は緑色の抹茶と日本料理でもてなしたが、その時には、先ずもって振り子時計が もう一度検査され、試され、そして彼らの立ち会いのもとで、時計師によって包装 され、それをするように命じられた人々によって荷造りされた。113
111 山田珠樹訳『ツンベルグ日本紀行』(雄松堂、2005)346~347頁。
112 前掲、347頁。
113 『長崎オランダ商館日記Vol.9(1820~1822)(雄松堂、1998)246頁。
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と記されている。13日奉行たちに謁見の日記にも、「日本の食事と酒、そのあとで緑 茶と菓子が供された」という記述があり、抹茶は正式の場で出された茶であったことが わかる。これら江戸期在日ヨーロッパ人が残した記録から見れば、抹茶が出された時の 様子が記されているものの、抹茶を飲んだ後の感想や茶の風味に関する記述が見られな い。この頃、すでにケンペルの日本茶レポートが収録されている『日本誌』が出版され ていたのにもかかわらず、ケンペルみたいに自ら積極的に色々な日本茶を体験して飲む 記録がみられない。
一方この頃、1803年8月30日W・B・スチュワートから日本の商館長ワルデナールお よびドゥフ閣下への書簡を見ると、中国茶を求めている様子が記されている、
(前略)この積荷の大部分は、私が知っている限りでは、日本の高官と住民が望み 求めているものであることは確かなので、閣下らは彼らに特別な好意をあらわし、
大なる恩恵を与えることになりましょう。この積荷の金額を、それと同等の茶、鱶 のひら、いりこ、鮑、昆布、ところてんぐさ、漆器、絹織物、醤油、酒などと交換 するため、閣下らと契約したいと思います。114
積荷の内容に「中国茶、一級品 10箱」と「中国磁器、一級品 150箱」 と記されて115 いることから、スチュワートは日本人が一級品の中国茶と中国磁器を希望していること を把握している。恐らく、日本の事情をよく熟知している上で契約しに来たのであろ う。中国茶の一級品を同等の日本茶と交換したいことから、さらに1803年10月27日の 日記では、
(前略)助左得衛門はまた私に次のように言った。すなわち、(ロシアの)大使は 茶と煙草をすこし手に入れることができればと要望した、しかし、奉行はそれを彼 に与えることはできないと言った、と。そこで私は、彼が奉行に、私がそうするこ とを許されるように願い出て欲しい、と要望した。116
114『長崎オランダ商館日記』Vol.4(1800~1810)(雄松堂、1994)93~94頁。
115前掲、97頁。
116前掲、142頁。
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と記されているが、翌日の日記では奉行が茶と煙草を大使に送ることを許したと書かれ ている。ロシアは18世紀になると中国からの茶の輸入量が拡大し、茶が一般的な飲み 物となったことから117、日本に訪れたロシアの大使は恐らく日本の茶についてある程
と記されているが、翌日の日記では奉行が茶と煙草を大使に送ることを許したと書かれ ている。ロシアは18世紀になると中国からの茶の輸入量が拡大し、茶が一般的な飲み 物となったことから117、日本に訪れたロシアの大使は恐らく日本の茶についてある程