5.開港期横浜における日本茶情報
5.3 横浜港における日本茶情報
日本茶輸出の盛況は、当時の新聞記事、広告や絵画などにもその様子が描かれてい る。日本茶は外国人にとって何だったのか、これらの情報を中心に日本茶の位置づけを 考えたい。横浜開港以降、情報伝達の手段としては新聞であった。貿易の活発につれ、
163 『第一次輸出需要品要覧』(農商務省農務局、1896)27~28頁。
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多くの新聞が創刊された。1861年11月、 横浜の最初の本格的な新聞は『ジャパン・
ヘラルド』である。当初は4ページ、毎土曜日夕方発行、公使や領事の公告と商社の広 告、海外や日本・横浜ニュース、市況と出入船港に関する情報によって紙面が構成され ている。発行者のハンサードは、ニュージーランドで不動産業を営んでいたが、来日し た後、『ノース・チャイナ・ヘラルド』紙に、『ナガサキ・シッピング・リスト・アン ド・アドヴァタイザー』などの刊行物を発行した。1863年10月、広告が主体とする日 刊朝刊紙、『ディリー・ジャパン・ヘラルド』が創刊され、日本最初の日刊新聞である という。164
居留地の英字新聞として、リッカビーが、休刊していた『コマーシャル・ニュース』
を買収し、1865年9月に『ジャパン・タイムズ』(THE JAPAN TIMES)を創刊した。
当初は毎週金曜発行、のち土曜に変更される。『ガゼット50年史』の回顧談による と、タイムズ社の社員の大半は、英軍第20連隊の兵隊であった。その後、経営難に陥 り、1870年、ハウェルとレイに売却され、『メイル』紙に変わる。 明治30年3月に創165 刊された『ジャパン・タイムズ』は、メイル社で翻訳係をしていた頭本元貞の発案を政
164 『横浜もののはじめ考』第3版(横浜開港資料館、2010)66~67頁。
165 前掲、68頁。
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財界バックアップして、日本人の手になる最初の本格的な英字新聞日刊新聞として刊行 されたものである。図1は創刊されたばかりの1897年3月『ジャパン・タイムズ』の茶 の広告である。この時期、日本茶輸出の全盛期であったが、外国人向けの新聞広告には 日本茶の広告がなく、質が良いジャワ茶の広告しか載っていない。この頃ジャワでの茶 生産の様子について、『米欧回覧実記』では「茶ハ近年蕃殖シ、九十一万六千七百六十 七キログラムを出セリ」166と、主に欧州の市場に輸出したことを記録している。相当 の量を産出していたことがわかる。さらに図2の1900年10月『ジャパン・タイムズ』の 茶広告を見ると、一番上質の中国寧州茶の広告が掲載されている。日本茶輸出が急速に 成長し始めたこの時期でもあるが、日本茶輸出が増えたものの、居留地外国人向けのこ の英字新聞には日本茶以外の茶広告を掲載していることが興味深い。
また、『横浜毎日新聞』にも日本茶に関する記事が載っている。明治3年12月8日、
横浜活版社から創刊された『横浜毎日新聞』は、日本初の日刊邦字新聞である。鉛活字 を使用し、洋紙両面刷りの画期的なものであった。創刊号冒頭に「此新聞紙の儀ハ商家 の便利を第一と致候」とあり、経済情報第一主義の方針を明確している新聞である。こ
166 久米邦武編、田中彰校注『米欧回覧実記』(第三巻)(岩波文庫、1999)240頁。
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こで茶の情報を確認できる記事は明治5年2月26日『横浜毎日新聞』(図3、4参照)
で、「商館賣買」の項では「 茶八十斤二十ドル七十二番上正」と記されている。167 商館賣買とは、居留地の外国商館と日本商人との取引をいうもので、茶八十斤二十ドル 七十二番上正とあるのは、日本の売り込み商人が茶を80斤(1斤600グラム)を、
20ドルで、居留地72番の商会に売り込んだという意味である。ちょうどこの頃、明治8 年(1875年)は、日本茶輸出が伸びた時期でもあり、 「皇国製茶図会」の第十六号 の「商館売込の図」168にも、茶の取引の様子が描かれている(図5参照)。絵には、製 茶者と会話している中国の服を着た、16番商館の主と思われる男がいる。当時中国茶 がヨーロッパ諸国に盛んに輸出されている時代で、商館の主と思われる中国服を着た男 が、日本茶を買い取った構図から、日本茶輸出の盛んになる様子が伺われる。 また、
第十八号「商館再焙の図」169には、茶の再製作業を行っている女工がいる。この再製 作業は前述した日本茶を輸出するために乾燥する作業であろう。絵画からの様子見る と、かなり労働を要する作業であることがわかる。
図 5皇国製茶図会第十六号 商館売込の図(明治18年) 図6皇国製茶図会第十八号 商館再焙の図(明治18年)
明治9年(1876年)1月22日の『横浜毎日新聞』にも、日本茶輸出の盛況を以下のよ うに記されている。
167 『横浜毎日新聞』第三百七十八号(1872年2月26日)。
168 皇国製茶図会第十六号「商館売込の図」国文学資料館「日本実業史博物館コレクションデータベース」
史料群番号37TAにより参照。
169皇国製茶図会第十八号「商館再焙の図」国文学研究資料館「日本実業史博物館コレクションデータベー ス」史料群番号37TAにより参照。
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諸国と交易が始てから品物の中て一番声誉のあるは生糸と茶の二品なり去年の一月 より十月迄英国倫敦へ送た茶の高を計算すると百五十兆(兆は十億なり)九十九万 五千二百八十一磅なり倫敦より賣出之高は百五十兆三十七万五千六百九十磅なり
(中略)是は支那の茶が六七分で日本と印度の茶が三四分なり茶の一品とても英国 交易の盛んなる事が知れます。170
前述したイギリス領事報告では「1870年には日本茶の比重はさらに低下し、全茶輸入 量一億4000万ポンドのうち39万7000ポンドにすぎなかった」と記されているが、明治 9年(1876年)『横浜毎日新聞』の記事によると、1875年に日本茶が150兆375690ポ ンド売れたという。表6のアメリカにおける日本茶輸入量を合わせて見ると、確かに 1875年以降にアメリカにおいても日本茶の輸入が大きく増えたが、『横浜毎日新聞』
の記事に載っている数字が事実であれば、アメリカだけでなくイギリスにおいても日本 茶の輸入も増えたことがわかる。しかし、果たして150兆の日本茶が売れたかどうかに ついて疑問がある。イギリス領事報告で記されているように、イギリス人が紅茶の方が 好むと記されているが、おそらくイギリスに輸出された日本茶がイギリスの商人によっ てさらにアメリカに輸出された可能性がある。当時ロンドンに輸出された日本茶につい て、『横浜毎日新聞』のほかに更なる史料で確認する必要があろう。
横浜の開港につれ、輸出品に貼られるラベルも注目したい茶が当時では生糸の次に重 要な輸出品になってから、箱に貼られるラベルの仕様も様々である。これら日本茶のラ ベルを、国文学研究資料館の協力を頂き、日本実業史博物館コレクションデータベース にてラベルのデータ画像で確認することができた。これを機に、当時輸出用で使われた ラベルをいくつかを紹介したい。
170 『横浜毎日新聞』第千五百七十八号(1876年3月2日)。
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↑図7日本茶ラベル171 図8輸出茶箱のラベル→
これらのラベルには、日本茶をアピールす る英語表記の文字が大きく印刷されているこ
とが特徴である。ラベルに日本を代表する模様が描かれているものがあり、明らかに外 国の趣向に合わせた挿絵が描かれているものも沢山ある。図8も当時輸出用の日本茶茶 箱のラベルであり、『横浜史料―開港七十年記念』の注釈によると、「明治三十三年頃 まで、茶は本港の主要輸出品であった。其茶箱には種々多様の票箋が貼られて、外国人 の趣向に適ふ様に定めたものである」172とあるように、輸出用の茶箱のラベルのデザ インと挿絵について、外国人の趣向に合わせて工夫をしていたことがわかる。とくに図 8のラベルには、和服を着た人物が描かれているが、足の方にスリッパのようなものを 履いているところが興味深い。和風と洋風の要素を取り入れたラベルの挿絵も和洋折衷 の一種であるのではないかと思われる。
しかし一時的需要が高い日本茶であったが、明治27年から輸出が急激に減少してい る。明治20年頃以降の横浜港輸出の推移状況について以下の表1のように示している。
表1横浜港における重要輸出品輸出額 173
年次 生糸 茶 羽二重
実数 % 実数 % 実数 %
171国文学研究資料館「日本実業史博物館コレクションデータベース」史料群番号37TIにより参照。
172 『横浜史料―開港七十年記念』(世界聖典刊行協会、1978)149頁。
173 『横浜港史―資料篇』(横浜港史刊行委員会、1991)439頁。
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明治20 19,278 57.1 4,625 13.7 21 25,900 63.6 3,630 8.9 22 26,333 62.9 3,616 8.6 23 13,687 42.3 3,606 11.2 24 29,168 58.9 4,305 8.7
25 36,270 58.9 4,528 7.4 4,028 6.5 26 28,147 51.1 4,821 8.8 3,551 6.5 27 39,267 53.8 4,944 6.8 7,248 9.9 28 47,866 56.5 5,237 6.2 8,301 9.8 29 28,830 46.7 4,072 6.6 6,663 10.8 30 55,630 61.3 5,050 5.6 8,972 9.9 31 42,047 52.4 5,389 6.7 11,652 14.5 32 62,618 57.8 5,407 5.0 15,188 14.0 33 44,627 46.9 5,362 5.6 17,232 18.1 34 74,637 55.8 5,098 3.8 23,772 17.8 35 76,769 55.2 6,223 4.5 24,564 17.7 36 74,328 50.7 9,051 6.2 27,429 18.7 37 88,741 52.1 8,198 4.8 37,410 22.0 38 71,840 49.3 6,693 4.6 27,962 19.2 39 110,
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55.0 5,582 2.8 32,627 16.2
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40 116, イロン茶を合わせて194008492ポンド もあったことから、イギリスでは一時的日本175 茶を輸入したものの中国茶やインド茶への需要の方が遥かに大きかったことがわかる。
アメリカで日本緑茶の需要が停滞したことについて、明治32年の『大日本農会報
アメリカで日本緑茶の需要が停滞したことについて、明治32年の『大日本農会報