ヨーロッパに伝った茶が中国茶なのか日本茶なのか記録上で残されていないが、
1615年にオランダ東インド会社によってオランダ本国に持たされた。さらにフランス へ、また1664年にイギリスへそれぞれ茶を始めていった。のちに茶の消費量が一番大 きいイギリスは、ヨーロッパの中では茶との接触が遅い方である。なぜオランダ東イン ド会社が一番始めに茶に触れる機会があったか、まずオランダ東インド会社の設立と貿 易の仕組みを簡単に説明したい。
オランダ東インド会社の設立は、東インドにおける香料の獲得であった。本来、イン ド洋圏における貿易の中継は回教徒商人によって行われていたが、彼らは胡椒・香辛料 とひきかえに、ヨーロッパの銀を受け取り、インドに運んだ。銀はインドで木綿と交換 され、つづいてインド木綿はインドネシアにある香料諸島に運ばれて胡椒・香辛料と交 換され、最後にこれらは西方に持ち帰られて銀と交換され、再び同じルートで当方に運 ばれた。ポルトガル人がこの中継貿易の利益を知り、三角貿易を武力で奪った。 これ70 に対して1602年にオランダ政府が独占事業の東インド会社を設立し、ポルトガルと香 料貿易の利益において競争した。極東における利益を拡大するため、1609年に家康か ら通商の許可を得て平戸で商館を開いた。オランダ東インド会社が中国から来たジャン ク船で運ばれた商品を仕入れて日本の市場に売り出すことによって日本の銀を獲得する のである。
70 川勝平太『日本文明と近代西洋』(日本放送出版協会、1991)37~38頁。
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日本の銀を獲得するほか、さたに日本市場に日本の特産品を仕入れてタイオワン、
シャム、バタビアなど各地の商館へ運んで売り出すことによって利益を得る。松井洋子 氏の研究によれば、1619年オランダ本国宛の書簡で総督のクーン(Jan Pieterszoon Coen)が船と資金を投入し、商品を中継転売することで利益を上げることと東アジア における貿易方針を明言している。日本商館長のカムプスの報告書でも日本側に対して 海賊ではな商品をもたらし商売をする姿勢を見せ、日本銀の獲得の重要さを主張してい る。 こうしてオランダの東洋進出に対抗して、イギリスも1600年にイギリス東インド71 会社を成立し、インドに本拠をおいて日本の平戸で商館を開いてオランダ東インド会社 と貿易の利を争ったが、利益が上がらなかったため、平戸イギリス商館を閉じ、貿易拠 点をインドに移した。こうして、東洋における貿易権をほぼ掌握したオランダ東会社 が、転売貿易によって、利益が高い香料のほかに、当時としてまだ贅沢品であったが中 国茶だけでなく、日本の茶にも触れる機会が多くなり、イギリスより早い段階で茶貿易 を始めた。
ヨーロッパ人が見た中国茶の記録として、1559年ジョヴァンバティスタ・ラムージ オが古今の航海記や発見談を集めた『航海と旅行』の第二巻が最初で、中国の茶につい ての情報が入っている。中国の茶について、熱病や頭痛によく効くと記されている。72
71 松井洋子「1622年における日蘭貿易の展望―商館長カムプスの報告書をめぐって―」(『東京大学史料 編纂所研究紀要』第13号所収、2003)。
72春山行夫『紅茶の文化史』(平凡社、1992)12~13頁。
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ヨーロッパ人が見た日本茶の記録として、16世紀に来日したイエズス会士による『イ エズス会日本年報』では、日本茶に関する記録が残されている。1548年1月6日付、
パードレ・ロレソン・メシャがマカオよりコインブラのコレジョの院長パードレ・ミゲ ル・デ・ソウザに送る書簡によれば、
日本人は一般に甚だ健康であるが、気候の温和で健康に適したためと、多く食はず また多くの病の原因となる冷水を飲まぬためであろう。而して病むことがあっても ほとんど薬を用ひず、短期間に健康を回復する。(中略)彼等は多く眠らず、眠甚 だ軽く、これがため茶を飲む。このこと多く食はぬことよりよき判断と工夫が生る る。我等の文字は二ヵ月で覚える。彼等は甚だよき記憶を有し、少年は皆いかに複 雑な使の口上も、彼等に言ったとほり正確に伝え、大人達はキリシタンとなって一 年に達せぬ者も生まれた時よりキリシタンであったものの如くわが教を説く。 73
当時のイエズス会士が見た日本の茶は、記憶と判断力によく効く飲み物であったことが わかる。イエズス会士が自ら茶を体験したかどうかについての記録が残されていない が、茶の人体への効用を理解していることがわかる。
また、1582年11月5日付の、パードレ・ルイス・フロイスが信長の死につきイエズス 会総会長に贈ったものの内容では、
(前略)信長の大なる名を遺すに足るべき物が一つ存してゐた。それは茶の湯 Chanoyuの道具であって、日本人の言ふところによれば、その価は数ふることので きないものであった。(中略)それで彼が茶の湯道具60以上を所有してゐたことは 確かである。日本人イルマン・ビセンテは茶の湯のことをよく承知してゐるが、そ の内二つのみで三万五千クルサド以上の価値があると予に語った。 74
と茶の湯の道具の値段が記されている。1585年10月1日付の書簡で秀吉の大阪城につい ても、
73 村上直次郎訳『イエズス会日本年報』(下)(雄松堂、1969)97~98頁。
74村上直次郎訳『イエズス会日本年報』(上)(雄松堂、1969)231~232頁。
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(前略)この新城の中庭Pateoに一つの庭Niuaがある。我等の庭園に相当し、その 構造は巧妙で、天然石、四季の緑樹、その他多くの自然物を備へてゐる。また甚だ よい位置に数箇の座敷Zaxiquisがあり、料理場の用をする。また茶の湯Chanoiuの 美しい家があり、これに接して庭園があり、その緑をもって美観を添へる。 75
新城に美しい茶室が設けられている様子が記されている。他にも茶を招待された記述が あるが、 この頃のイエズス会士が茶の湯を実際に体験したことがわかる。しかし、茶76 の湯とは具体的にどんなものかについて一切記録されていないのである。この頃のヨー ロッパ人にとっての日本茶は、庭園の見えるある空間で高価な道具を用いながら飲むも のであり、儀式だけの茶を見ていたのではないかと思われる。