17世紀-19世紀歐洲人的日本茶觀 ―以檢夫爾與西博爾德為代表― - 政大學術集成
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(2) 17世紀-19世紀歐洲人的日本茶觀 ―以檢夫爾與西博爾德為代表―. 中文摘要. 16世紀中葉至17世紀,源自於中國的茶傳入歐洲後,因為其稀有的價值而受到貴族 的喜愛,喝茶的習慣蔚為風氣。當時輸入歐洲的茶,全部來自於中國的釜炒技術所製成的 綠茶,因此歐洲人普遍的喝茶方式也以中國明、清時代的「泡茶」為主流,直至19世 紀。. 政 治 大. 日本開國後,日本茶的銷售並不順利。日本茶雖然一度成為重要的輸出品銷往海外,. 立. 但最終銷量仍不如預期,以失敗告終。但現今,綠色的日本茶儼然成為代表日本文化的象. ‧ 國. 學. 徵之一。本稿想要探討的是,當茶在歐洲從奢侈品轉變為日常生活飲品的過程中,歐洲人 對於日本茶的觀察與認識,以及日本茶在當時無法成為優勢的原因為何。本稿以江戶時代. ‧. 造訪於日本的兩位歐洲人—17世紀的檢夫爾(Kaempfer)、以及18世紀的菲利普‧弗蘭 茲‧馮‧西博爾德(Philipp Frenz von Siebold)所留下的日本茶研究報告為中心做探討。. Nat. sit. y. 檢夫爾與西博爾德分別受雇於荷蘭東印度公司,兩人皆有醫學及博物學的專業背景,且兩. io. er. 人訪日的時間正好代表了茶在歐洲從奢侈飲品轉變為生活必需飲品的過程。本稿以兩人所 留下的日本茶報告為中心,結合其他歐洲人對於日本茶的認識,釐清當時的歐洲人對於日. n. al. Ch. i n U. v. 本茶的認識是如何的變化,以及日本茶在當時無法成為優勢的關鍵為何,在本稿中筆者將 加以闡述。. engchi. 研究方法,首先釐清中國與日本每個時代飲茶文化定型的過程,並且分析中國茶與日 本茶製作方式的不同對於風味的保存有何影響。接著,以檢夫爾和西博爾德的日本茶報告 為中心,再配合耶穌會傳教士所留下的年報、荷蘭商館長的日記、最後以橫濱開港後發行 的英文報紙與新聞中所記載關於日本茶的紀錄分析,17至19世紀的歐洲人對於日本茶的 認識與變化的過程。 【關鍵字】:茶、荷蘭東印度公司、檢夫爾、西博爾德. 1.
(3) 17世紀-19世紀におけるヨーロッパ人の日本茶観 ―ケンペルとシーボルトを代表に― 日本語要旨. 16世紀中頃から17世紀はじめにかけて、ヨーロッパに伝った茶は、珍しい飲み物と して受け入れられ、ヨーロッパの貴族の間で喫茶の風習が広まっていった。当時ヨー ロッパに輸入された茶のほとんどが中国の緑茶であったため、明・清時代の「泡茶」に よる飲み方が主流であった。しかし、中国式の飲み方をしていたヨーロッパ人が日本茶. 政 治 大 ヨーロッパに伝わった17世紀から19世紀におけるヨーロッパ人がどのように日本茶を 立 見ていたかを検討したいと思う。. を受け入れるには少なからざる難点があったと思われる。私はこの考えをふまえ、茶が. ‧ 國. 學. 日本茶は今ではコーヒーと同様、日本を代表する人気の飲み物であるが、横浜開港期 における日本茶輸出の記録を見ると、当時の日本茶が今のように売れていなかった。中. ‧. 国式の喫茶法の影響を受けて中国式の飲み方をしていたヨーロッパ人が、中国茶と違っ. y. Nat. た飲み方で飲まれていた日本茶を、どのように日本茶を見ていたか、日本茶を十分に理. sit. 解できていたかについて疑問がある。本稿では、18世紀に来日したケンペルと、19世. er. io. 紀に来日したシーボルトが残した日本茶に関するレポートを中心に、ヨーロッパ人が日. al. n. iv n C できるような商品になれなかったか、日本茶輸出の不況の原因を究明したい。 hengchi U. 本茶への認識をどのように変化させていったのか、さらに、なぜ日本茶は中国茶と対抗. 研究方法として、まず中国と日本おける喫茶風習の変遷と定着した過程をまず明らか. にし、さらに中国と日本の製造方の違いにより茶の保存にどんな影響を与えたかについ て分析する。次に、イエズス会士による日本年報、オランダ東インド会社とイギリス東 インド会社が残された商館日記、さらにケンペルとシーボルトが残した日本茶に関する レポート分析し、ヨーロッパ人の日本茶観がどのように変化していったのかを考察した い。最後に、開港期横浜港における新聞、茶広告とラベルの中にある日本茶に関する情 報を分析しながら、実際にヨーロッパ人が日本茶の利用の実態を考察する。以上の方法 から得た情報を通じて、17世紀から19世紀におけるヨーロッパ人の日本茶観を明らか にしたい。 2.
(4) 【キーワード】:茶、オランダ東インド会社、ケンペル、シーボルト. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. 3. i n U. v.
(5) 謝辭 每每去日本當地,種類豐富的茶飲料一直深深吸引著我。從抹茶衍生出來的商品更 是不盡其數,甜點裡只要加了那抹綠色就足以說明了它屬於日本風味,人們甚至能從這抹 綠色直接連結它的風味和口感。這讓我對於早期的日本茶產生了好奇,毅然決然撰寫這篇 論文。從來沒寫過論文的我,不得要領,一路跌跌撞撞,每每遇到瓶頸,覺得滯礙難行之 時,多虧身旁老師、家人及同學的協助與支持,讓我能堅持到最後一刻完成它。 首先,我要感謝小林幸夫老師,從尋找題目到下定題目,再到史料的搜尋及整理,給 了我莫大的支持和幫助,讓我能順利完成這篇論文。尤其小林老師的實事求是,運用科學. 政 治 大 後面對其他事物的依據和準則,讓我在日後遇到的各種挑戰和問題裡,找到冷靜判斷的方 立 實證的態度與精神,深深影響了我的價值觀。直至今日,小林老師的這份堅持變成了我日. ‧ 國. 學. 法。感謝小林老師直到離開前,始終沒有放棄並且願意指導我這樣的學生到最後。再來我 要感謝永井隆之老師,在小林老師離開後,讓我能順利完成論文的最後階段,並且適時調 整文章,修改文法讓論文能更容易閱讀並充滿說服力,使之更加精采。如果沒有這兩位老. ‧. 師的幫忙與支持,我一定無法完成這篇論文到最後。另外我要感謝徐翔生老師,在我遭受. sit. y. Nat. 到打擊與挫折時,給予我最大的鼓勵與溫暖,讓我能堅持到最後一刻不放棄。此外,我要. io. 實。. n. al. er. 再次感謝撥空前來擔任口試委員的太田登老師,提供寶貴的意見,讓這篇論文更加完整充. i n U. v. 接著,我要感謝一起在研究所的前輩、同學以及學妹們,儘管撰寫論文的過程辛苦,. Ch. engchi. 回到研究室後看到你們笑容後,彷彿就能忘記那份苦,你們帶來的歡笑是我繼續寫下去的 動力。能夠在人生的道路上與你們相遇,真是太好了。另外,感謝來自關西學院的矢吹同 學給了我非常多關於論文上的寶貴意見,還提供自己的經驗與看法,這些意見給了我莫大 的鼓勵,至今仍然受用無窮。最後,我要感謝我最深愛的家人,在我最沮喪、最難過的時 候給我最大的包容和支持,讓容易陷入悲觀與負面思考的我,始終能充滿積極正面的能量 面對各種挑戰。這段日子因為有你們的陪伴,讓我能繼續咬緊牙關撐下去。我也很高興自 己能堅持到最後,完成這篇論文。在政大日研所奮鬥的這些日子,老師和同學們的教誨與 鼓勵,今後也是讓我繼續往前的動力。感謝在這條人生道路上,與你們相遇的每一個日 子。. 4.
(6) 目次. 5. 1. 序論. 6. 1.1 研究動機と目的. 6. 1.2先行研究. 7. 1.3研究方法. 8. 2. 東アジアにおける茶文化. 10. 2.0中国における喫茶風習の変遷. 10. 2.1日本における中国からの茶の受容. 16. 2.2近世煎茶の流行 2.3中国と日本の茶の違い. 立. 政 治 大. 24. ‧ 國. 學. 3. 17世紀のヨーロッパ人が見た日本茶. 18. 3.1 ヨーロッパに伝わった茶. ‧. 3.2オランダ東インド会社商館日記にみられる日本茶 3.3ケンペル著『日本誌』における日本茶研究. 29 32 36. sit. y. Nat. n. al. er. io. 4. 18世紀以降ヨーロッパ人が見た日本茶 4.1ヨーロッパで定着した茶. 29. n U i e 4.3ケンペルとシーボルトが見た日本茶 n g c h. Ch. 4.2シーボルト著『日本』における日本茶研究. iv. 43 43 49 60. 5. 開港期横浜における日本茶情報. 63. 5.1ホームズ船長が見た日本茶. 63. 5.2開港後横浜の貿易状況. 67. 5.3横浜港における日本茶情報. 77. 6. 結論. 86. 7. 参考文献. 91. 5.
(7) 17世紀-19世紀におけるヨーロッパ人の日本茶観 ―ケンペルとシーボルトを代表に―. 1.序論 1.1研究動機と目的 中国に由来した茶は、宋代に流行した抹茶の飲み方を僧侶の栄西が日本に伝えてか ら、16世紀に千利休が飲茶の作法に「禅」の精神を取り入れ、日本独自の茶の湯の文 化へと発展した。江戸時代以前、茶の湯はまだ武士などの上層階層に行われていたが、. 政 治 大. 江戸時代に入ると一般の人たちにも飲まれるようになり、中国明代に始まる「煎茶」1 も、江戸時代中期以降、社会に浸透し広く飲まれ、日常茶飯事といわれるほど庶民の生. 立. 活に深く溶け込んでいった。江戸時代半ばから明治にかけて、煎茶は抹茶以上に日本の. ‧ 國. 學. 茶文化の重要な要素となった。. 16世紀中頃から17世紀はじめにかけて、ヨーロッパに伝った茶は、珍しい飲み物と. ‧. して受け入れられ、貴族の間で喫茶の風習が広まっていった。当時ヨーロッパに輸入さ れた茶のほとんどが中国の緑茶であったため、明・清時代の「泡茶」と呼ばれる飲み方. Nat. sit. y. が主流であった。しかし、1630年バタヴィアにいるオランダ東インド会社のスペクス. io. er. 総督が平戸商館長ナイエンローデ宛の書簡によれば、「都合がつき次第、日本の茶30 斤を全部壷に入れてここに送る様すすめる。重役会は試みにこれを祖国に送る様提案し. n. al. Ch. i n U. v. ているからである。彼等はこれを幾分か知り、評価している」2 と、日本茶を評価し、. engchi. 日本からヨーロッパに茶を輸入するようという依頼の記録が残されている。あまり多い 量とは言えないが、ヨーロッパ人が日本茶を賞賛していることが確認できる。のちにオ ランダ東インド会社の随行医師として来日したケンペルとシーボルトも、それぞれヨー ロッパに向けて日本茶のレポートを残している。ケンペルの『日本誌』に収録されてい る日本茶のレポートは、日本茶の製法、飲み方や効用などについて、シーボルトの『日 本』に収録されている日本茶のレポートでは、日本の茶樹、日本茶園の土壌分析、茶の 製法と茶栽培について書かれている。この二人の日本茶に関するレポートは、ヨーロッ 1. ここで指す「煎茶」は涼炉と呼ばれる、形のいい素焼きのコンロに炭火をおこし、ボーフラと呼ぶ湯瓶で 湯を沸騰させ、そしてその細い口から湯気が勢いよく飛び出してくるころ、涼炉からボ-フラを静かにおろ し、その湯を、茶葉の入った愛用の、急須に注意深くそそぎ入れる。 2 『平戸オランダ商館の日記』Vol.1(1627〜1630)(岩波書店、1969)444頁。. 6.
(8) パにおける茶についての認識に影響を与えた。 横浜開港となってから、輸出された日本茶の記録をみると、1875年前後において一 時的に日本茶の輸出が盛んになったが、明治20年ごろ以降は茶の輸出が急激に低下 し、明治後期から大正初期にかけて、わずか1%台にすぎなかった。3 この頃の日本茶 は、今のように世界中で人気が高く、日本を代表する飲み物ではなかったのである。特 に、独特のさっぱりとした味で好まれている。ケンペルとシーボルトが日本茶をヨー ロッパに紹介して日本茶に関するレポートを残したにかかわらず、当時の日本茶が今の ように売れていなかったことについて疑問がある。さらに、中国茶の影響を受けながら も独自の作り方と飲み方へと発展した日本茶を、中国式の喫茶法の影響を受けて中国式. 治 政 十分に理解できていたのかについても、疑問がある。そこで、本稿では、茶がヨーロッ 大 立 パに伝わった17世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパ人がどのように日本茶を認識し の飲み方をしていたヨーロッパ人が、どのように日本茶を見ていたか、日本茶の本質を. ‧ 國. 學. ていたか、そして、ヨーロッパ人が日本茶への認識をどのように変化させていったのか を検討したい。オランダ東インド会社が残した日記、ケンペルとのシーボルトが残した. ‧. 日本茶に関するレポート、さらに幕末期から明治初期にかけて在日英字新聞に現れた日 本茶に関する情報を分析しながら、17世紀から19世紀までのヨーロッパ人の日本茶観. Nat. sit er. io. 1.2先行研究. y. について考察したい。. al. n. iv n C 茶に関する研究は数多いが、主に日本とヨーロッパの茶文化の違い、あるいは中国と hengchi U 日本の茶文化の変革、比較文化が中心となる論著が多い。それらの中では、シーボルト について、先に来日したケンペルのように博物学者として日本の植物考察において高く 評価したという位置づけにとどまるものが多いが、ヨーロッパ人が見た日本の茶につい て触れている論考もある。川勝平太の「茶の文化と文明」では、ケンペルの日本茶の認 識について触れている。「(ケンペルにとって)日常茶飯事になった茶の文化は暮らし かたであり、彼が目にした茶の文化の物産複合の中から取り出したのは植物であり、茶 であり、庭である」と述べている。4 なお、今井正訳の『日本誌』には、ケンペルが茶 の木を日本からヨーロッパへ移植しようとしたが失敗したとする興味深い記述のほか、 3 4. 『横浜港史―資料篇』(横浜港史刊行委員会、1991)420~422頁。 川勝平太「茶の文化と文明」『茶道文化論』(第一巻)(淡交社、1999)117頁。. 7.
(9) 「茶の若木の根を馬糞に包んで年々運んで試した熱心な人もいる」との記事を紹介して いる5 。呉秀三の『シーボルト先生』では、シーボルトが東インド政庁の製茶事業との 関わりについて、「シーボルト先生が日本よりジャワに送りたる茶樹は、東印度政府の 報告によれば、紅茶と同様に緑茶を製造して品質よきものとして売り出したりといふ」 と述べている。6 以上のように、ヨーロッパ人の日本茶に対する態度が窺われるが、な ぜ日本茶は中国茶と対抗できるような商品になれなかったかについて、角山栄氏の「茶 の世界史」では、この原因について、インドでの紅茶の大量生産や、日本の緑茶がイギ リス人の嗜好に適しないことを指摘している7 。しかし角山氏は、16世紀中頃から17世 紀はじめにかけて、ヨーロッパ人が日本茶を高尚な「文化」と位置づけていたとしてい. 治 政 に、角山栄氏は、初代駐日公使オールコックが見ていた日本茶について「彼が言及して 大 立 いるのは、輸出品としての日本茶のことであり、それもわずかに1860年代初め、中国 るが8 、日本茶=文化という意識が当時のヨーロッパ人にはあったのだろうか。さら. ‧ 國. 學. 緑茶の不足を補うために日本茶の需要が大きかったといった関心にすぎなかった」と述 べている。従来の研究を概観して明らかとなったのは、一つは、ケンペルとシーボルト. ‧. が日本茶について詳しい考察を残したにも関わらず、そしてそれ以前のヨーロッパ人も (特にオランダとイギリス国内で)緑茶を飲んでいたという指摘があるものの9 、当時. Nat. sit. y. のヨーロッパ人が実際にどれくらいの日本茶を飲んでいたかについての研究がなされて. al. er. io. いないことである。そして、もう一つは、17世紀から19世紀にかけて、中国明・清時. n. 代の喫茶方法の伝来によって日本の喫茶法が大きく変わったが、中国茶と日本茶の相違. Ch. i n U. v. について、当時のヨーロッパ人がどのように認識していたか、今までの研究ではまだ指 摘されていないことである。. engchi. 以上のように、ヨーロッパ人の茶に対する姿勢、及び開港後、日本人に対する認識が どう変化してきたか、中国茶と日本茶がどう異なっていたのかを比較検討したい。. 1.3研究方法 本稿では、研究方法として、第一に中国おける喫茶風習の変遷と茶が日本伝わってか 5 6 7 8 9. エンゲルベルト・ケンペル著、今井正訳『日本誌』(下巻)(霞ヶ関出版、1996)500頁。 呉秀三『シーボルト先生—その生涯および功業—』(吐鳳堂書店、1926)136頁。 角山栄『茶の世界史—緑茶の文化と紅茶の社会—』(中央公論新社、1980)126~132頁。 前掲、132頁。 春山行夫『紅茶の文化史』(平凡社、1992))24頁。. 8.
(10) ら中国の影響を受けて日本独自の喫茶風習が定着した過程をまず明らかにし、さらに中 国と日本の製造方の違いを比較することを通して茶の保存にどんな影響を与えたかにつ いて分析する。 第二に、茶がヨーロッパに伝わる16世紀から17世紀にかけてイエズス会士による 日本年報、オランダ東インド会社とイギリス東インド会社が残された商館日記と書簡に おける日本茶に関する記録と、さらに1690年に来日してケンペルが執筆した日本茶の レポートから、ヨーロッパ人の見た日本茶を考察する。 そして第三に、喫茶風習がヨーロッパで定着した18世紀以降のオランダ東インド会 社の商館日記や、ペリーに随行した秘書ポルディング(J. W. Spalding)が残した日本. 治 政 ロッパ人の日本茶への認識がどのように変化していったのかを考察したい。 大 立 最後に、開港期横浜港における日本茶輸出の貿易状況を中心に、横浜で刊行された新 茶に関する情報、さらにシーボルトと門人高野長英の日本茶のレポートを分析し、ヨー. ‧ 國. 學. 聞、茶広告とラベルの中にある日本茶に関する情報を分析しながら、実際にヨーロッパ 人が日本茶の利用の実態を考察する。. ‧. 以上の方法から得た情報を通じて、17世紀から19世紀におけるヨーロッパ人の日本 茶観を明らかにしたい。. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. 9. i n U. v.
(11) 2.東アジアにおける茶文化 2.0中国における喫茶風習の変遷 陸羽の『茶経』以前の茶は、『本草綱目』の記載によれば、神農氏が百草を舐めなが ら毒草の毒を消すためのものだった。三国時代の呉になって、茶が解毒の薬用から嗜好 品として用いられ、晋と南北朝時代の流行によって広められた。一般民衆の間に茶が広 く飲まれるようになったのは、唐の陸羽によって『茶経』が書かれてからのことであ る。『茶経』には茶器から飲み方・製茶法・産地まで詳しく記載され、とくにこの時代 の喫茶法は団茶法といわれ、その煮方と道具についても説かれている。飲み方として. 政 治 大 が一般的で、日本に初めて伝えられた喫茶法もこの団茶法である。 立 古では、このような飲み方が今も行われている。. は、団茶(餅茶)10を削って粉末にし、沸騰している湯の中に入れて煎て飲むというの 11. 今のチベットや蒙. ‧ 國. 學. 製造法として、『茶経』の「三之造」の章では、以下のように述べている。. ‧. 茶之牙者,發於叢薄之上,有三枝、四枝、五枝者,選其中枝穎拔者采焉。其日有. sit. y. Nat. 雨不采;晴,采之,蒸之,搗之,拍之,焙之,穿之,封之,茶之干矣。12. n. al. er. io. 日本語訳にすると、「茶採みの日に、雨が降れば採まず、晴れても雲があれば採まな. iv n e」と、団茶を作るのには茶の葉を蒸してから焙 ngchi U. い。よく晴れた日に採み、甑で蒸し、杵臼で搗き、承の上で拍き、焙で焙り、穿しで穿. Ch し、育に封じ、茶は乾いてできあがる で乾燥する製法を述べている。. 13. 宋の時代になると、蔡襄が唐の製茶法と喫茶方法を改善して『茶録』を著した。飲み 方としては湯を茶葉の入っているポットに注ぐことと、茶碗に粉末にした茶を入れ熱湯 で混ぜ合わせて飲むことが行われた。 また、製法としては「粒状」にすること、「砕碾」という碾き方で粉末にすること が、唐代の団茶法との違いである。宋の茶産地について『咸淳臨安志』卷五八<貨之品 10. 茶葉の粉を蒸してから臼を使って茶葉を搗いて固め、それを成型したものの上に麹を植え付けて熟成させ ることによってつくられる。当初は、団子状の形状をしていた。 11 林屋辰三郎「茶書の歴史」『日本の茶書』(平凡社、1971)12頁。 12 陸羽著『茶経』楊東甫、楊驥著『中国古代茶学全書』(出版地:広西、広西師範大学、2011)7頁。 13 陸羽著、布目潮渢訳注『茶経』『中国の茶書』(平凡社、1971)52頁。. 10.
(12) >では、. 毎年朝廷へのご用達の茶について、記録によれば、錢塘寶雲菴で生産された茶は 寶雲茶、下天竺香林洞で生産された茶は香林茶、上天竺白雲峰で生産された茶は 白雲茶であるという。(中略)近頃徑山の僧坊が、穀雨前に茶を採み、小岳で貯 蔵して送っている。14. と書かれている。廖寶秀『宋代喫茶法與茶器之研究』の論考によれば、宋の時代、上下 天竺は仏刹の範囲であったため、禅院の僧侶たちは茶樹の栽培を行って茶園を経営して. 治 政 いる 。この時期から飲茶の風習が宗教に結びつくことによって、茶が日本に伝わった 大 立 後に影響を与えたともいえよう。. いる。寶雲、香林、白雲、垂雲はこれらの茶園で栽培した有名な茶種であると指摘して 15. ‧ 國. 學. 茶の湯の色として、北宋の蔡襄16の『茶録』の色の項によれば、. ‧. 茶色貴白,(中略)既已末之,黃白者受水昏重,青白者受水鮮明,故建安人鬥試 ,以青白勝黃白。17. sit. y. Nat. al. er. io. と述べている。茶の色は白を貴ぶ。(中略)粉末にしてからは、色が黄白のものは水を. n. 受けると昏重(濁って不透明なさま)とし、青白のものは水を受けると鮮白(透明なさ. Ch. i n U. v. ま)になる。だから建安の人たちのでは、青白のものを黄白より勝るとしているとのこ. engchi. と18。つまり、水色がより白く、透明な色になればなるほど貴ばれている。 真っ白な茶の湯は、上流社会の間に理想の茶の湯として追求されたが、南宋の陳鹄の 『耆舊續聞』巻八では、. しかし今、初回分の荷として作られた朝廷ご用達の貢茶以外、その次に作られた 『咸淳臨安志』卷五八<貨之品>(出版地:江蘇、揚州古籍發行、1986)「茶,歲貢,見舊誌:錢塘寶 雲菴產者,名寶雲茶。下天竺香林洞產者,名香林茶。上天竺白雲峰產者,名白雲茶。(中略)近日徑山寺僧 ,採穀雨前者,以小岳貯送。」 15 廖寶秀『宋代喫茶法與茶器之研究』(出版地:台灣、故宮博物院、1996)26頁。 16 中国宋代の書家・文人。福建省出身で茶をよく熟知し、北苑貢茶の製造にも力を入れていた。 17 蔡襄『茶録』楊東甫、楊驥著『中国古代茶学全書』(出版地:広西、広西師範大学、2011)60頁。 18 蔡襄『茶録』中村喬訳注『中国の茶書』(平凡社、1971)177頁。 14. 11.
(13) 茶がほとんど長持ちしない。焙茶の方が真の茶に値する。近頃の士大夫の多くは 安国茶を植え、これを上級茶として朝廷へ献じる。唐の李泌の『茶』詩にも「茶 沫が舞い散って碧玉池のようになる」と、茶の湯の色は緑色が貴ばれた。今頃茶 が生産されている多くのところでは、概して上級茶のほとんどが緑色である。19. つまり、緑色の茶の湯のほうが味がよく、他の茶産地の上等茶さえ白ではなく緑色の茶 であったという。宋の時代、とくに『茶録』以降は、白の茶=上等茶という認識は一般 的であったが、朝廷ご用達の貢茶が色に拘りがある以外、一般社会で、緑色の茶も並行 して飲まれていたことがわかる。. 治 政 の「蒸茶」と「榨茶」の項では、 大. 宋代の茶製法として、『茶経』の記録には、茶の葉を竃の上に甑を載せて蒸すと述べ ているが、趙汝礪の『北苑別録』. 立. 20. ‧ 國. 學. 茶芽再四洗滌,取令潔淨,然後入甑,俟湯沸蒸之。然蒸有過熟之患,有不熟之 患。過熟則色黃而味淡,不熟則色青易沉,而有草木之氣,唯在得中之為當也。茶. ‧. 既熟謂茶黃,須淋洗數過,方入小榨,以去其水,又入大榨出其膏。先是包以布帛 ,束以竹皮,然後入大榨壓之,至中夜取出揉勻,復如前入榨,謂之翻榨。徹曉奮. Nat. sit. y. 擊,必至於乾淨而後已。蓋建茶味遠而力厚,非江茶之比。江茶畏流其膏,建茶唯. n. al. er. io. 恐其膏之不盡。膏不盡,則色味重濁矣。21. Ch. i n U. v. 茶芽は、よくよく水洗いして潔浄にし、それから甑に入れ、湯が沸騰するのを待ってこ. engchi. れを蒸す。しかし蒸すのには、熟えすぎの病と熟え不足の病がある。熟えすぎると色は 黄いろく味は淡くなる。熟えが足らないと色は青く沈殿しやすくて、青臭い。(中略) 茶の熟し上がったものを「茶黄」という。かならず水を淋いで数回を洗う。そうしては じめて小榨に掛け、水分を去るのである。更に大榨に掛けて膏(ねばり)を去るが、そ の前に布帛で包んで竹の皮で縛っておき、それから大榨に掛けて圧える。22建安の茶 19. 『西塘集耆舊續聞』巻八(出版地:上海、上海古籍、1993)「然今自頭綱貢茶之外,次綱者味亦不長, 不若正焙茶之真也,榮徵錄以為佳。近士大夫多重安國茶,以此遺朝貴,而誇茶不為重矣。唐李泌『茶』詩 「旋沫翻成碧玉池」,亦以碧色為貴。今諸郡產茶去處,上品者亦多碧色,又不可以概論。」 20 朝廷ご用達の白茶・団茶を記録した宋代の茶書『宣和北苑貢茶録』の補足として書かれた茶書。作者につ いて諸説がある。 21 『北苑別録』鄭培凱、朱自振主編『中國歷代茶書匯編』(出版地:香港、商務印書館、2007)135頁。 22 『北苑別録』中村喬訳注『中国の茶書』(平凡社、1971)253頁。. 12.
(14) は、味が遠くて力が厚く、江南の茶など比べものにならない。だから江南茶は膏(ねば り)が流失するのを畏れるが、建安茶は膏が出尽くさないことを恐れるのである。膏を 残っていると、色と濁り味は重いとのこと。23中村喬の注釈によれば、ここにいう江南 茶は浙江地方の草茶に当たり、茶そのものがもともと味の淡いものであるから、ねばり を搾り尽くすと味が無くなってしまうので色が真っ白でなくても膏を搾り尽くさないよ うにするのである。24 以上をまとめると、地域によって「榨茶」の工程の中に差異があるが、蒸す際の手加 減は地域と関係なく重要であることがわかる。南宋末から元の初期にかけて、杭州龍井 で生産された茶が、葉茶による「泡茶」の飲み方で飲まれていたという説があるが25、. 治 政 すでに南方では盛んになっていたことが考えられる。 大 また、「過黄」の項では、立. これが事実とすれば、後に主流となった葉茶による「泡茶」の飲み方が、この時期から. ‧ 國. 學. 茶之過黃,初入烈火焙之,次過沸湯爁之,凡如是者三,而後宿一火,至翌日,遂. ‧. 過煙焙焉。26. Nat. sit. y. 茶の過黄(仕上げ)は、初め烈火に入れてこれを焙り、次に沸湯を過らせてこれを浴. er. io. し、およそこうしたことを三度繰り返したのち、一晩火に入れておいて、翌日はじめて 煙焙に過れる27と述べている。宋徽宗の『大観茶論』の「製造」の項でも、. n. al. Ch. engchi. i n U. v. 滌芽惟潔,濯器惟潔,蒸壓惟其宜,研膏惟熱,焙火惟良。(中略)文理燥赤者, 焙火之過熟也。28. 茶の芽を綺麗に洗うこと、蒸すと火に焙る(乾燥)には加減よくすることが大切であ る。茶(固形茶)の文理が燥いて赤ちゃけているのは、火に焙るとき熱すぎたからであ. 23. 『北苑別録』中村喬訳注『中国の茶書』(平凡社、1971)254頁。 前掲、255頁。 25 沈冬梅『宋代茶文化』(出版地:台湾、學海、1999)62頁。 26 鄭培凱、朱自振主編『中國歷代茶書匯編』(出版地:香港、商務印書館、2007)136頁。 27 『北苑別録』中村喬訳注『中国の茶書』(平凡社、1971)257頁。 28 『大観茶論』鄭培凱、朱自振主編『中國歷代茶書匯編』(出版地:香港、商務印書館、2007)104頁。 24. 13.
(15) ると述べている。29要するに、宋代になって、茶の芽を甑に入れて蒸すこと以外に搾り の工程が加えられ、水分を完全に取り去ってから擂り鉢に入れ、すって細かく砕くとい う製造法に変わったということである。しかし、依然として「蒸す」過程は存在した。 明の時代に入ると、洪武帝がこの複雑な手続きで出来上がる固形茶の製造をやめさ せ、茶を搗いて餅にした過程を廃して葉茶そのままとさせたといわれる。30その葉茶が 入った急須に熱湯を注いで飲むという喫茶法は、前述した葉茶による「泡茶」そのもの である。この「泡茶」の飲み方は、明代の張源の著した『茶録』の「泡法」の項目では 以下のように記されている。. 治 政 過中失正。茶重則苦味香沉,水勝則色清氣寡。兩壺後,又用冷水蕩滌,使壺涼 大 立 潔。不則減茶香矣。(中略)稍俟茶水沖和,然後分釃布飲。釃不宜早,飲不宜. 探湯純熟便取起,先注少許壺中,袪蕩冷氣,傾出,然後投茶。茶多寡宜酌,不可. ‧ 國. 學. 遲。31. ‧. 湯が沸騰したところで瓶に入れ、少し冷却したあと湯を出して、茶を入れる。量の加減 もよく注意すること。あまり多いと苦く香りがなくなり、少ないと茶の本来の味も薄く. Nat. sit. y. なる。二杯の後、茶の香りを逃さないために冷たい水で冷却する。(中略)間を置いて. al. er. io. 少しずつ茶碗に入れて飲む。入れる時は焦らず、早いうちに飲むことと記されている。. n. 宋の時代よりさらに簡便になった飲み方と茶製法の改善によって、「泡茶」の喫茶風習. Ch. i n U. v. が広まれ、ヨーロッパにも伝わり、現在に至る。江戸時代、黄檗宗とともに日本に将来. engchi. した「煎茶」は、明の「泡茶」の飲み方そのままである。. また、茶製法も従来の蒸し製法と違い、「炒る」という工程に変わった。その茶製法 の改善として、許次紓の『茶疏』の「古今製法」の項では、. 若漕司所進第一綱名北苑試新者,乃雀舌、冰芽。(中略)然冰芽先以水浸,已失 真味,又和以名香,益奪其氣,不知何以能佳。不若近時製法,旋摘旋焙,香色俱 全,尤蘊真味。32 29. 『大観茶論』宋徽宗著、中村喬訳注『中国の茶書』(平凡社、1971)204頁。 布目潮渢、中村喬編訳『中国の茶書』(平凡社、1971)27頁。 31 『茶録』鄭培凱、朱自振主編『中國歷代茶書匯編』(出版地:香港、商務印書館、2007)253頁。 32 『茶疏』鄭培凱、朱自振主編『中國歷代茶書匯編』(出版地:香港、商務印書館、2007)269頁。 30. 14.
(16) 転運使が進献する第一綱の「北苑試新」と名づける茶などは、雀舌の水芽で造られるも ので、(中略)しかも水芽はまず水に浸して造るので、それだけで真味を失っているの に、そのうえ名香を交ぜるのであるから、ますますその香りは奪われる。これでどうし て良い茶になるのか、理解に苦しむ。近時の製法が、摘んだ順にすぐ焙じていくから、 香りも色もともに完全で、最も真味を保っているのには及ばないと述べている。33宋の 製茶法では茶の真味を失い、明の製茶法の方が茶の味が保っていることがうかがわれ る。製茶法として、宋の製法との違いは釜の中で茶を炒ることによって発酵を止める茶 製法(殺青)が行われるようになり、「炒茶」の項では、. 治 政 生茶初摘,香氣未透,必借火力,以發其香。然其性不耐勞,炒不宜久。(中略) 大 立 炒茶之器,最嫌新鐵,鐵腥一入,不復有香。尤忌脂膩,害甚於鐵,須豫取一鐺, ‧ 國. 學. 專用炊飯,無得別做他用(中略)鐺必磨瑩,旋摘即炒。一鐺之內,僅容四兩,先 用文火焙軟,次加武火催之,手加木指,急急鈔轉,以半熟為度。微俟香發,是其. ‧. 候矣。34. Nat. sit. y. 摘んだばかりの生の茶は、香気がまだ外に出ていないから、かならず火の力を借りてそ. al. er. io. の香りを発揮させなければならない。しかし炒り過ぎると質も落ちる。(中略)。茶を. n. 炒る器具は、新品の鉄製のものはよろしからず、鉄の成分によって茶の本来の香りは消. Ch. i n U. v. える。油なども残ってはいけないので、改めて茶を炒るために専用の釜を用意する。. engchi. (中略)茶は摘んだ順にすぐ炒っていくが、ひと鐺(かま)に入れる量はわずか四両ほ どにする。まず文火で焙じて軟らげ、次いで武火でこれを催す。手に木指35を加え、手 早く掬いあげ反転させるようにしてまぜる。半ば熟したときを目安とし、ちょっと待つ と香りが発てくる36と、釜炒り製法のやりかたを詳しく述べている。この釜炒り製法に 対して、「岕中製法」の項にも、「岕の茶は、炒らずに甑の中で蒸して熟す。それから 乾かす」37と、場合によって蒸し製法で作られる茶もあると述べられている。要する. 『茶疏』中 村喬訳注『中国の茶書』(平凡社、1971)3 39頁。 鄭培凱、朱自振主編『中國歷代茶書匯編』(出版地:香港、商務印書館、2007)270頁。 35 竹の木で作られた指袋。 36 中村喬訳注『中国の茶書』(平凡社、1971)342頁。 37 鄭培凱、朱自振主編『中國歷代茶書匯編』(出版地:香港、商務印書館、2007)「岕之茶不炒,甑中蒸 33 34. 15.
(17) に、釜炒り製法と蒸し製法はいずれも茶の発酵を止めるための製法であるが、明の時代 に入ると釜炒り製法が主流となって現在に至る。. 2.1日本における中国からの茶の受容 茶が日本に導入された時期について確実な記録はないが、『日本後紀』によれば、大 僧都永忠が嵯峨天皇に手自ら茶を煎じて献じたという記録が残されている。最澄の帰朝 に際してもたらされた茶種とは、実は永忠の喫茶の意志にによるものではないかという 指摘もある。38これら入唐帰朝僧によってもたらされた茶が、中国文化に傾倒した嵯峨 天皇を中心に朝廷貴族に愛好されるようになった。彼らが中国の茶に触れ、中国の文人. 治 政 み、さらに茶そのものの希少価値も手伝って上流階級の間に、茶に対する関心を異常な 大 立 までに高めたのである。 中村修也の研究によれば、平安時代の貴族が様々年中行事で 達の茶に託して描いた独特の世界観と陸羽の茶の哲学をそのまま移植して漢詩で茶を詠. 39. ‧ 國. 學. も茶を使用していた記録が残されている。たとえば、大臣大饗の饗膳などで茶を水に代 わる高価な代用品や飾り物として使用していたという。40つまり、平安時代までの喫茶. ‧. 方法は、唐代の「煎茶」の飲み方であった。その喫茶風習が貴族が中心であって茶に触 れられる層がかなり限られ、一般庶民は茶とほぼ無縁であったことがわかる。. Nat. sit. y. しかしこのような状況は栄西によって大きく変わった。前述した『咸淳臨安志』と. al. er. io. 『耆舊續聞』の記録に書かれていたように、中国の宋・元の時代、禅院の僧侶が抹茶の. n. 飲み方をしていた。禅宗活動で入宋した栄西が日本に伝えた茶種と喫茶法から判断すれ. Ch. i n U. v. ば、当時の禅院の僧侶が緑色の茶葉を抹茶にしていたと考えられる。また、彼の著書. engchi. 『喫茶養生記』下巻六条によれば、「宋朝にて茶を焙る様を見るに、即ち朝に採って即 ち蒸し、即ちこれを焙る」と述べていることから、栄西がもたらした茶製法は、宋代の 蒸し製法そのままであったと考えられる。要するに、蒸し製法で茶の発酵を止める工程 としてこの時代から固定されるようになるのであった。また、「若し茶を喫せざる人 は、諸薬の効を失い、痾を治する事を得ず」と述べ、茶を嗜好的な飲料として紹介した ものではなく、将軍実朝にも良薬として茶一盞を勧め、薬用的なものとして考えられて. 熟,然後烘焙」により、270頁。 38 林屋辰三郎,橫井清,楢林忠男編注『日本の茶書』(平凡社、1972)13頁。 39 千宗室 『『茶経』と我が国茶道の歴史的意義』(淡交社、1983)83頁。 40 中村修也「栄西以前の茶」 『茶道の歴史—茶道学大系―』(淡交社、1999)361~365頁。. 16.
(18) いたようである。41さらに、茶の薬用的効果を知る栄西は、中国から持ち帰った茶種を 肥筑の背振山に植え、茶の栽培を行っていた。売茶翁高湯遊外『梅山種茶譜略』では、. 建仁栄西禅師、法の為め再び宋に入りて、建久二年(二九一)東に帰る。茶子を 持し来り、嘉種を得来りと云いて所を指す。先ず筑前州背振山に植ゆ。而して、 茶子を梅尾山明恵上人に奉ず。上人、即ち居る所の地に就いて植え、精製して専 賞す。42. と述べている。鎌倉時代以後、茶が禅宗と結びついて発展し、喫茶風習が僧侶達によっ. 治 政 室町時代になると、喫茶の風習がさらに広まれ、『喫茶養生記』より凡そ一世紀遅れ 大 立 て書かれた『喫茶往来』によれば、室町時代に流行っていた闘茶の様子が詳しく記され て、武士・貴族の間にも広く飲まれるようになり定着していった。. ‧ 國. 學. ている。闘茶とは、抹茶の本茶非茶を飲みわけて競うことであって、抹茶による喫茶風 習がただ飲むだけではなく、競技に発展したことがうかがわれる。『青湾茶話』の「闘. ‧. 茶通例」の項では、「茶盞は、黒色のものを用ゆるべし。この事、『茶録』に載せた り。此の茶色を見わかたせまじきが為なり」43とあるように、中国の影響を受けていた. Nat. sit. n. al. er. io. の「表異」の項では、. y. ことがわかる。また、宋の時代に茶色へのこだわりに対して、上田秋成の『清風瑣言』. Ch. i n U. v. 西土にては、白色の茶を貴む。此の国にてはいまだ見ざる品なり。(中略)宇治. engchi. 人云う、「新芽漸く葉となりて、浅縹なる者間生い出ず。是れを摘むに尤も候あ り。製精しければ絶品となれり」。おもうに、西土の白茶、ここに浅花田なるも のと、気味想近きや。国の大小、土地の厚薄にて、物の性同じからざること常理 なるべし。44. 中国茶と日本茶の色は違うが、上級茶として大差はないと強調している。また、茶栽培 について、『本朝食鑑』の記録によると、「碾末の茶」すなわち抹茶は、城州宇治の茶 41. 楢林忠勇訳注『喫茶養生記』『日本の茶書』に所収(平凡社、1972)103頁。 売茶翁高遊外著、楢林忠男校注『梅山種茶譜略』『日本の茶書』に所収(平凡社、1972)63~64頁。 43 大枝流芳著、楢林忠男校注『青湾茶話』『日本の茶書』に所収(平凡社、1972)143頁。 44 上田秋成著、楢林忠男校注『清風瑣言』『日本の茶書』に所収(平凡社、1972)175頁。 42. 17.
(19) が第一で、県吏上林家および数十家で、茶園を樊い、その茶が公侯諸士の間には好奇の 品として貯蔵し、転輪しているという。45林屋辰三郎氏の「茶匠と茶商」(『近世伝統 文化論』)では、宇治茶の声価によって茶は寺院・農家の副業的地位から企業へと発展 した46と述べ、抹茶用の茶栽培が従来よりかなり進んでいたことがわかる。さらに近世 のころに、茶屋などで客に出す茶も抹茶であり、また、客がつかず、暇のある芸者や遊 女に茶の葉を挽かせられ、抹茶を作るのである。. 2.2近世煎茶の流行 日本の近世に当たる頃の中国では、「泡茶」の飲み方がすでに主流になっているが、. 政 治 大. この頃、抹茶以外に日常として飲んでいた茶が元禄8年の『本朝食鑑』47によると、. 立. このころ、江東(江戸)の俗常に茶を煎ず、朝飯の前まず数椀を飲む、よんで朝. ‧. ‧ 國. 飯を煮る。48. 學. 茶と称す、婦女最も之をなす。京師、海西の俗は然らず、南都の俗煎茶を用いて. ここで指す「煎茶」が、中国唐代の「煎茶」とは違い、『本朝食鑑』によれば「茶の. Nat. sit. y. 新芽の極上のものを『白』といい、(中略)最下品を『煎茶』にする」49といっている. er. io. が、飲み方として煮つめて飲む茶であったことがわかる。しかし、煎茶の産地について 「宇治の煎茶は一番よい」50ということから、抹茶生産ですでに有名な宇治で栽培した. n. al. Ch. i n U. v. 茶樹からとった新芽の最下品でも、やはり他の地方よりかなり良質な茶であることがう. engchi. かがえる。当時の煎茶の様子として、正徳3年の『養生訓』によると、. 茶を煎ずる法。弱い火で炒って、強い火で煎じる。煎じるのに、堅い炭のよく燃 えたものをさかんにおこして煎じる。たぎりあがる時に冷水をさす。このように. 45. 人見必大著、島田勇雄訳注『本朝食鑑』(平凡社、1976)119頁。 林屋辰三郎「茶匠と茶商」『近世伝統文化論』(創元社、1974)133頁。 47 本草書。人見必大著。元禄8年(1695)刊行。日本の食物全般について、その性質、能毒、味、食法ま でを詳しく説明する。著者の人見必大は、江戸前期の本草学者である。その父が徳川幕府に仕えた医者であ り、兄は儒学者としての名声も高い。 48 人見必大著・島田雄勇訳注『本朝食鑑』(平凡社、1976)119頁。 49 前掲、119頁。 50 前掲、119頁。 46. 18.
(20) すると茶の味がよい。強い火で炒ってはいけない。ぬるく、やわらかな火で煎じ てはならない。51. 煎茶を煎ずるには弱い火で炒り、強い火で煎ずる様子を示している。この頃の「煎茶」 は、番茶的な煎茶に近いものであったことがわかる。 煎茶の将来について記録上明確でないが、嘉永2年(1849)、尾張藩の儒者深田精一 の著書『木石居煎茶訣 巻の下』によると、「皇国煎茶の行なわるる煎茶者流みな売茶 翁高遊外をもて、陸羽・盧同に比し、煎茶の鼻祖とす」52という説がある。売茶翁高遊 外が元黄檗宗の僧侶であった。黄檗宗は中国明代の伽藍・法式にかなり影響を受けてお. 政 治 大. り、中国の泡茶や普茶料理を愛好されるようになったのは、このような中国趣味の流行 に関係していたようである。. 立. 売茶翁高遊外の著書『梅山種茶譜略』の中にも、中国文人の姿勢への憧れがうかがえ. ‧ 國. 學. る。. ‧. 爾しより、漸く四方に播して、賞茶の者多し。故に、茶事に於て見るときは、吾が 邦の栄西・明慧あるは、大唐の陸羽・盧同有が如し。(中略)智水内に満ちて、徳. Nat. sit. y. 沢外に溢るるの余り、風雅茶事に及ぶもの歟。今時遊蕩の僧、漫に茶事に倣い、世. n. al. er. io. 塵を逐うを以て古人を見るは、霄壌の隔たりなり。53. Ch. i n U. v. 禅宗と茶の深い結びつきによって形ばかりの茶事への批判と、唐代の陸遊や盧同という. engchi. 詩人の飲茶に対する清風雅趣の姿勢に憧れている売茶翁が、1735年、茶を淹れる道具 を用意して京都で茶店を設け、禅の話を客にしながら茶売りの生活を送っていた。この 頃の茶店で一般庶民が飲んでいた茶は煮て作る番茶がほとんどであるが、売茶翁が茶店 で用いる茶道具は中国式、柳下亭嵐翠の『煎茶早指南』の中で詳しく描いている。(図 1)54. 51. 貝原益軒著、松田道雄譯『養生訓』(中央公論社、1989)107頁。 深田精一著、楢林忠男校注『煎茶訣』『日本の茶書』に所収(平凡社、1972)263頁。 53 売茶翁高遊外著、楢林忠男校注『梅山種茶譜略』『日本の茶書』に所収(平凡社、1972)64~65頁。 54 柳下亭嵐翠、楢林忠男校注『煎茶早指南』『日本の茶書』に所収(平凡社、1972)230~231頁。 52. 19.
(21) 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學 sit. y. Nat. er. io. 図 1.『煎茶早指南』享和二年(1802). al. n. iv n C 風炉を用いていたことからみれば、湯を沸してから茶を飲むことがわかる。さらに、 hengchi U 『蒹葭堂雑録』では売茶翁が茶道具を担いでいる絵が描かれている。(図2)55. 売茶翁が担いでいる急須の形をしている道具が、『蒹葭堂雑録』にも載っている高芙 蓉56が考案した「キビショウ」(急焼)(図3)57と同じような形をしている。『蒹葭堂 雑録』の記述によれば、高芙蓉が考えだしたこの「急焼」は煎茶に用いる茶器であり、 さらに、「宜興鑵」と名付けていることから、中国の明代の紫砂茶具宜興壷の影響を受 けていたと推測される。「急焼」を日本向けの煎茶道具に用いることから、当時中国の. 暁鐘成『蒹葭堂雑録』『日本随筆大成 一期巻二』(吉川弘文館、1993)20頁。 江戸時代中期の篆刻家、画家。芙蓉は皆川淇園や木村蒹葭堂、売茶翁、大典顕常、永田観鵞など多くの文 人墨客と交流したという。 57 暁鐘成『蒹葭堂雑録』『日本随筆大成 一期巻二』(吉川弘文館、1993)23頁。 55 56. 20.
(22) 「泡茶」の飲み方が日本の煎茶に大きな影響を与えたといえよう。 売茶翁の茶店の看板にも「茶銭は黄金百鎰より半文銭まで呉れ次第。ただ飲も勝手、た だよりはまけ申さず」58と書かれていることから、身分を問わず、誰でも気軽に飲める 煎茶を、一般民衆の間に広めようとしていることがわかる。 これまでの茶製法として、蒸してから乾燥させる方法は一般的 で、出来上がった茶葉の色が黒いため「黒製」とよばれるが、 1738年山城国湯屋谷の永谷宗円が『茶疏』の「岕中製法」の「蒸 す」ことによる殺青をベースにし、茶葉を蒸籠にて蒸し、揉んで から乾燥させる風味の良い蒸し製煎茶を考案した。59すなわち、. 政 治 出を容易にした。 大. 「揉み」という工程を加えることによって、茶葉からエキスの抽. 立. さらに茶葉も、硬. ‧ 國. 學. い芽や老葉と取り 除いて新しい芳芽. ‧. をえらんだので、従来 の「黒製」に対して緑. Nat. り高度な技術がいるので、青製煎茶が宇 治を中心に高級煎茶として発売される. n. al. er. io. sit. y. 色をした「青製」煎茶と呼ばれる。かな. Ch. i n U. v. と、次第に都市の町人や文人の間に普及. e n g していき、さらに改良が続けられ、のち chi に輸出品となる。しかし、この蒸し製煎 茶は中国の釜炒り製緑茶と違い、沸騰し た熱湯を注ぐと苦味がでるので、50~60 度60ぐらいのややぬるめのお湯を注ぎ、 色よく出たところで飲むというのが特徴 である。. 58. 司馬江漢『春波楼筆記』『日本随筆大成一期巻二』(吉川弘文館、1993)36頁。 『煎茶全書』(主婦の友社、1973)194頁。 60 前掲、229頁。なお、高級煎茶の玉露では40~50度、番茶では60~70度が最適の温度である。 59. 21.
(23) しかし『青湾茶話』の「淹茶」の項では、. 茶を沸湯の中に入れて火を以て煮ず、香気の発するを待って飲む。世俗に云う、 隠元禅師始めて日本に此の法を伝う、と云えり。本邦の茶は、だし茶によろしか らず。舶来のものをよしとす。武夷山の茶、まれに渡来す。61. と記されている。「淹茶」の「淹」というのは、火から降ろしたお湯で葉茶の入った急 須に注いでお茶を作ることをさすので、すなわち「淹茶」とは「泡茶」のことである。 「火を以て煮ず」というのは唐代の煎茶の飲み方=煮出し茶で、茶の飲み方の理解に混. 治 政 われる彼が、この喫茶法を日本に将来したとすれば、恐らく明代の葉茶による「泡茶」 大 立 であろう。このころの中国での茶製法として、釜炒り製法が一般的で、武夷山の茶は釜 乱がある。隠元は中国明末清初の禅宗の僧であって、日本における黄檗宗の開祖ともい. ‧ 國. 學. 炒り製法で作られ、「だし茶」とは泡茶であると考えられる。上記の史料から、蒸し製 法で作られる日本の茶より、中国茶の方が泡茶に適していることもわかる。要するに、. ‧. 作者が明の泡茶の飲み方は唐の煎茶の飲み方だと誤認したことを指摘したい。. Nat. sit. n. al. er. io. 述べている。. y. 蒸し製と釜炒り製の優劣について、上田秋成の『清風瑣言』の「製造」の項ではこう. Ch. i n U. v. 茶に蒸焙の製あり。鐺炒・日曬の製有り。焙茶は上品、炒茶是に次ぎ、日晒は下. engchi. 品也。宇治・信楽は蒸焙を専らとす。他邦の茶種々なるべし。但し、九州・四国 の製は炒茶のみと聞こゆ。焙茶は烹るに宜しく、炒茶は淹煎(だし茶)に宜し。 焙炒共に葉は青色を貴ぶ。62. 蒸焙とは、「宇治・信楽は蒸焙を専らとす」とあるように、宇治地方で行われている製 茶法であるから、上述した「茶葉を蒸し甑にて蒸し、揉んでから乾燥させる蒸し製煎 茶」の製法を意味していると考えられる。茶を作るには「蒸焙」のほか、「鐺炒」すな わち鍋で炒る方法と、「日曬」すなわち干して乾燥させる方法がある。「蒸焙」の製法 61 62. 大枝流芳著、楢林忠男校注『青湾茶話』『日本の茶書』に所収(平凡社、1972)86~87頁。 上田秋成著、楢林忠男校注『清風瑣言』『日本の茶書』に所収(平凡社、1972)172頁。. 22.
(24) で作られた茶は上級茶であり、次に炒り茶、「日晒」で作られた茶が最下位であると、 茶についての優劣を述べている。「焙茶」の飲み方について「烹る」に適しているとい う記述があるが、「烹る」について「煎方」の項では、「先ず湯の茶を烹るべきを候い て、茶を急に瓶に投れ、即手に火炉を去りて、盆上に置き、一霎時熟するを待ちて飲す べし」63と述べている。この「烹る」という飲み方は唐代の「煎茶」の飲み方であっ て、宇治地方の蒸し製煎茶は唐代の「煎茶」の飲み方に適している記録から、恐らく 「茶経」の中にある「煎茶」の飲み方が近世日本の煎茶と同じものであると上田秋成は 考えていた。また「淹煎」について、. 治 政 外面より熱湯を沃ぎ、温気を内に通ぜしめて後、瓶中に湯を汲み入るる也。 大 立. 淹茶は、鑵に湯を沸らせて、茶瓶を沃盆の上に居えて、茶を先ず瓶に投れ、瓶の 64. ‧ 國. り茶」は「泡茶」の飲み方に適していると指摘している。. 學. とあるように、「淹茶」=「泡茶」の飲み方を述べている。つまり、「炒茶」=「釜炒. ‧. 天保8年(1837年)の『守貞漫稿』の「江戸の茶見世」の項では、「毎客新に茶を煮 るもあれども多くは漉茶と号け小笊の内に茶を納れ沸湯を掛る」と、大部分が「泡茶」. Nat. sit. y. の入れ方=茶漉しに葉茶を入れて湯を注ぐ様子を記していることから、「泡茶」の飲み. al. n. 以上の中国と日本の喫茶事情を表にすると、. 表1喫茶法の変遷. Ch. engchi. er. io. 方が主流となっていることがわかる。65. i n U. v. 中国. 日本. 【唐代】団茶. 【平安期】団茶. 団茶(餅茶)66を削って粉末にし、. 一部の上流階層の間では団茶が流行っ. 沸騰している湯の中に入れて煎て飲 ていたが、喫茶の風習が定着していな む. い. 63. 前掲、180頁。 前掲、180頁。 65 喜田川守貞『近世風俗志』(岩波文庫、2001)215頁。 66 茶葉の粉を蒸してから臼を使って茶葉を搗いて固め、それを成型したものの上に麹を植え付けて熟成させ ることによってつくられる。当初は、団子状の形状をしていた。 64. 23.
(25) 【宋代】点茶. 【鎌倉期】抹茶. 湯を茶葉の入っている釜に注ぐこと 蒸した葉を揉まないで乾燥した碾茶を と、茶碗に粉末にした茶を入れ熱湯 茶臼で挽いて粉状にしてお湯を注いで で混ぜ合わせて飲む. 飲む. 【明代以降】泡茶. 【江戸期】抹茶と日本煎茶. 茶葉を急須に入れてお湯で注いでだ 日本煎茶は茶漉しに葉茶を入れてお湯 し汁を飲む. を注いで飲む. 表2 製茶法: . 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. n. al. er. io. sit. y. Nat. 67. Ch. i n U. v. 表1と表2のように、中国と日本の喫茶風習の流れと変遷をまとめてみた。日本の抹. engchi. 茶と煎茶には中国からの影響を受けている面がみられるが、いずれも日本独自の茶文化 へと発展した。しかし、茶の味と香りを左右するのは飲み方だけでなく、茶製法の違い によって保存期間と風味も変わっていく。これについて今までの研究上にまだ明らかに していない部分があるため、以下の節で究明していきたい。. 2.3中国と日本の茶の違い 一般の研究史では、中国と日本の喫茶文化の変遷にとどまるのが多いが、製茶方につ いて研究がまだ少ない。ここでの中国と日本の製茶の違いについてさらに追求していき 碾茶とは、よしず棚など茶園を覆い、直射日光を避けて栽培し、うま味を増やし苦味を抑えて育てた高級 茶。蒸した葉を揉まないで乾燥したもの。 67. 24.
(26) たいと思う。 中国の釜炒り茶と日本の蒸し製煎茶が「泡茶」の飲む方式に適しているが、製茶法の 違いによって茶の風味も大きく左右される。現在中国の茶製法として、すべて釜炒り茶 であるが、前述したように各時代の製茶法には違いがある。唐の時代の餅茶と宋の抹茶 は蒸し製法が一般的であったが、宋代半ばごろから釜炒り製法に変わっていき、明の時 代になると、釜炒り製法が主流になって普及していった。釜炒り製法は、茶の葉を釜で 炒ってから、釜から取り出さず手で揉んで三回ほど繰り返して、最後に釜で炒り、乾燥 させる製法である。製造時間が長くかかるが、茶の味が長持ちすることが釜炒り茶製法 の優れた点である。68ここで、小林幸夫先生から中国茶と日本茶のサンプルを頂き、こ. 治 政 で9年経った包種茶と対比してみよう。 大 立. れを機に中国茶と日本茶の相違を究明したい。まず、中国緑茶の包種茶新品と開封済み. ‧. ‧ 國. 學. n. al. er. io. sit. y. Nat. . . Ch. engchi. i n U. v. 外観として、図1の包種茶新品の色はまだ濃いめの緑色で、香りも強く、これに対して 図2の包種茶は新品より緑色が薄くなり黄色みを帯びた茶色になってしまい、茶の葉自 体も縮んで香りも新品ほどに強くはないが、それぞれ熱湯で注いで飲んでみると、. 68. 『煎茶全書』(主婦の友社、1976)193~198頁。. 25.
(27) 図3 包種茶新品. 図4 九年経った包種茶. 治 政 大 は熱湯を注いだあと、図3の新品と違って茶色になってしまったが、包種茶独特の甘み 立 は9年経っても劣ることはない。同じく釜炒り製法で作られた烏龍茶新品(図5)は、 包種茶新品は熱湯を入れても茶の湯が依然として緑色で甘みがあり、古くなった包種茶. ‧ 國. 學. 外観として包種茶新品と同じく濃いめの緑色で香りも強い。熱湯を注ぐと(図6)、味 として甘みがあり、水色は黄白色である。. ‧. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. i n U. v. 図5烏龍茶新品 図6お湯を注いだ状態. しかし開封してかか3年が経った烏龍茶(図7)と比べてみると、. 26.
(28) . 図8 お熱を注いだ状態の烏龍茶. 図7 開封済で3年が経った烏龍茶. 治 政 大 ように、釜炒りによる殺青は、茶の品質の劣化を緩やかにするができるといえよう。 立 これに対して、鎌倉時代以降の日本抹茶と近世煎茶はいずれも蒸し製法が主流であ. 3年経った烏龍茶でも香りが依然として強いが、味として少々苦みが出ている。以上の. ‧ 國. 學. る。商品として出回っている現代の日本煎茶は、前述した「揉み」という工程の上に宇 治製法を導入して出来上がったものである。69ここで蒸し製法で作られた日本煎茶新品. ‧. (図9)と未開封で10年が経った煎茶(図10)を対比してみよう。. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. i n U. v. 図9 日本煎茶新品. 図10 未開封で10年が経った日本煎茶. 煎茶が開封されて10年が経ったら色が褪せ、香りとして海苔に似た匂いが一段と濃く なる。それぞれ沸騰したお湯で入れて飲んでみると、. 69. 中村羊一郎『茶の民俗学』(名著出版、1992)203頁。. 27.
(29) 図11 お湯で注いだ状態の日本煎茶新品 . 図12 未開封で10年経った日本煎茶のお湯を注いだ状態. 治 政 大 しまい、沸騰したお湯で注いだため、味としてはいずれも苦い味がする。ちなみに、開 立 封してわずか一年が経った日本煎茶(図13)でも、新品と違ってすでに緑色でなくな 水色として、新品は鮮やかな緑色で10年が経った煎茶が黄色みを帯びた緑色になって. ‧ 國. 學. り、同じく沸騰した熱湯で入れたため、苦みが残る味である。. ‧. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. i n U. v. . 図13 開封されて一年が経った日本煎茶 図14中国茶と日本茶の比較. 包種茶と煎茶をあわせて比較してみると(図14)、製法の違いによって、品質の劣化 に関わっている。日本では、茶の発酵を止めるために蒸すことで茶の本来の緑色を維持 することができる反面、保存期間が短縮され品質の劣化を加速するのである。中国明・ 清以降の茶は、釜炒り製法によって黄色みを帯びた茶色で、新鮮さとしては緑色の日本 茶に劣るが、品質として日本茶より長持ちであるのが利点である。また、淹れ方によっ て茶の味も大きく左右する。蒸し製煎茶は中国の釜炒り緑茶と違い、70度のやや温め 28.
(30) の湯を注ぎ飲むことが特徴である。特にレベルの高い抹茶と煎茶には、日本人が好む茶 の風味を維持するために蒸す工程は必要不可欠である。釜炒り製の中国茶は熱湯で淹れ るのが一般的であるが、中国茶と同じ温度のお湯を日本茶に注ぐと苦みが一層強くなっ てしまう。中国茶と日本茶にはそれぞれの異なる淹れ方が存在していることを、当時の ヨーロッパ人が知っているか。続いて茶がヨーロッパに伝わってから、日本茶をどのよ うに認識しているかを中心に究明したい。. 3.17世紀のヨーロッパ人が見た日本茶 3.1ヨーロッパに伝わった茶. 政 治 大 1615年にオランダ東インド会社によってオランダ本国に持たされた。さらにフランス 立 へ、また1664年にイギリスへそれぞれ茶を始めていった。のちに茶の消費量が一番大 ヨーロッパに伝った茶が中国茶なのか日本茶なのか記録上で残されていないが、. ‧ 國. 學. きいイギリスは、ヨーロッパの中では茶との接触が遅い方である。なぜオランダ東イン ド会社が一番始めに茶に触れる機会があったか、まずオランダ東インド会社の設立と貿. ‧. 易の仕組みを簡単に説明したい。. オランダ東インド会社の設立は、東インドにおける香料の獲得であった。本来、イン. y. Nat. sit. ド洋圏における貿易の中継は回教徒商人によって行われていたが、彼らは胡椒・香辛料. er. io. とひきかえに、ヨーロッパの銀を受け取り、インドに運んだ。銀はインドで木綿と交換. al. iv n C 換され、最後にこれらは西方に持ち帰られて銀と交換され、再び同じルートで当方に運 hengchi U ばれた。ポルトガル人がこの中継貿易の利益を知り、三角貿易を武力で奪った。 これ n. され、つづいてインド木綿はインドネシアにある香料諸島に運ばれて胡椒・香辛料と交. 70. に対して1602年にオランダ政府が独占事業の東インド会社を設立し、ポルトガルと香 料貿易の利益において競争した。極東における利益を拡大するため、1609年に家康か ら通商の許可を得て平戸で商館を開いた。オランダ東インド会社が中国から来たジャン ク船で運ばれた商品を仕入れて日本の市場に売り出すことによって日本の銀を獲得する のである。. 70. 川勝平太『日本文明と近代西洋』(日本放送出版協会、1991)37~38頁。. 29.
(31) 立. 政 治 大. 日本の銀を獲得するほか、さたに日本市場に日本の特産品を仕入れてタイオワン、. ‧ 國. 學. シャム、バタビアなど各地の商館へ運んで売り出すことによって利益を得る。松井洋子 氏の研究によれば、1619年オランダ本国宛の書簡で総督のクーン(Jan Pieterszoon. ‧. Coen)が船と資金を投入し、商品を中継転売することで利益を上げることと東アジア における貿易方針を明言している。日本商館長のカムプスの報告書でも日本側に対して. Nat. sit. y. 海賊ではな商品をもたらし商売をする姿勢を見せ、日本銀の獲得の重要さを主張してい. al. er. io. る。71こうしてオランダの東洋進出に対抗して、イギリスも1600年にイギリス東インド. n. 会社を成立し、インドに本拠をおいて日本の平戸で商館を開いてオランダ東インド会社. Ch. i n U. v. と貿易の利を争ったが、利益が上がらなかったため、平戸イギリス商館を閉じ、貿易拠. engchi. 点をインドに移した。こうして、東洋における貿易権をほぼ掌握したオランダ東会社 が、転売貿易によって、利益が高い香料のほかに、当時としてまだ贅沢品であったが中 国茶だけでなく、日本の茶にも触れる機会が多くなり、イギリスより早い段階で茶貿易 を始めた。 ヨーロッパ人が見た中国茶の記録として、1559年ジョヴァンバティスタ・ラムージ オが古今の航海記や発見談を集めた『航海と旅行』の第二巻が最初で、中国の茶につい ての情報が入っている。中国の茶について、熱病や頭痛によく効くと記されている。72. 71. 松井洋子「1622年における日蘭貿易の展望―商館長カムプスの報告書をめぐって―」(『東京大学史料 編纂所研究紀要』第13号所収、2003)。 72 春山行夫『紅茶の文化史』(平凡社、1992)12~13頁。. 30.
(32) ヨーロッパ人が見た日本茶の記録として、16世紀に来日したイエズス会士による『イ エズス会日本年報』では、日本茶に関する記録が残されている。1548年1月6日付、 パードレ・ロレソン・メシャがマカオよりコインブラのコレジョの院長パードレ・ミゲ ル・デ・ソウザに送る書簡によれば、 日本人は一般に甚だ健康であるが、気候の温和で健康に適したためと、多く食はず また多くの病の原因となる冷水を飲まぬためであろう。而して病むことがあっても ほとんど薬を用ひず、短期間に健康を回復する。(中略)彼等は多く眠らず、眠甚 だ軽く、これがため茶を飲む。このこと多く食はぬことよりよき判断と工夫が生る. 治 政 雑な使の口上も、彼等に言ったとほり正確に伝え、大人達はキリシタンとなって一 大 立 年に達せぬ者も生まれた時よりキリシタンであったものの如くわが教を説く。 る。我等の文字は二ヵ月で覚える。彼等は甚だよき記憶を有し、少年は皆いかに複. 73. ‧ 國. 學. 当時のイエズス会士が見た日本の茶は、記憶と判断力によく効く飲み物であったことが. ‧. わかる。イエズス会士が自ら茶を体験したかどうかについての記録が残されていない が、茶の人体への効用を理解していることがわかる。. Nat. sit. y. また、1582年11月5日付の、パードレ・ルイス・フロイスが信長の死につきイエズス. n. al. er. io. 会総会長に贈ったものの内容では、. Ch. i n U. v. (前略)信長の大なる名を遺すに足るべき物が一つ存してゐた。それは茶の湯. engchi. Chanoyuの道具であって、日本人の言ふところによれば、その価は数ふることので きないものであった。(中略)それで彼が茶の湯道具60以上を所有してゐたことは 確かである。日本人イルマン・ビセンテは茶の湯のことをよく承知してゐるが、そ の内二つのみで三万五千クルサド以上の価値があると予に語った。74. と茶の湯の道具の値段が記されている。1585年10月1日付の書簡で秀吉の大阪城につい ても、. 73 74. 村上直次郎訳『イエズス会日本年報』(下)(雄松堂、1969)97~98頁。 村上直次郎訳『イエズス会日本年報』(上)(雄松堂、1969)231~232頁。. 31.
(33) (前略)この新城の中庭Pateoに一つの庭Niuaがある。我等の庭園に相当し、その 構造は巧妙で、天然石、四季の緑樹、その他多くの自然物を備へてゐる。また甚だ よい位置に数箇の座敷Zaxiquisがあり、料理場の用をする。また茶の湯Chanoiuの 美しい家があり、これに接して庭園があり、その緑をもって美観を添へる。75. 新城に美しい茶室が設けられている様子が記されている。他にも茶を招待された記述が あるが、76この頃のイエズス会士が茶の湯を実際に体験したことがわかる。しかし、茶 の湯とは具体的にどんなものかについて一切記録されていないのである。この頃のヨー ロッパ人にとっての日本茶は、庭園の見えるある空間で高価な道具を用いながら飲むも. 政 治 大. のであり、儀式だけの茶を見ていたのではないかと思われる。. 立. 3.2オランダ東インド会社商館日記にみえる日本茶. ‧ 國. 學. オランダ東インド会社が平戸で商館を開いた翌年、1610年のオランダ船が中国と日 本の茶を集めてヨーロッパに伝えたのは茶が最初ヨーロッパに伝わった記録とされる77. ‧. 。中国と日本からの茶が、いつ最初にヨーロッパに伝えられたかについての記録が残さ れていないが、オランダ東インド会社が平戸で商館を開いた次の年という記録から、日. Nat. sit. y. 本の茶をヨーロッパに伝えた可能性がある。. al. er. io. イギリス平戸商館長のR・L・ウィッカムが、1615年にマカオ駐在する同じ会社の代. n. 理者イートンに対し「私のために最良種のチャウ(chaw)一壺を買ってもらいたい」 78. Ch. i n U. v. と依頼した。 ウィッカムは日本の茶を求めないで中国の茶を求めることから、日本茶. engchi. より中国茶の方に興味があることを示した。これは単にウィッカムの興味本位にすぎな いという可能性もあるが、1616年12月6日のイギリス商館長日記では、茶に触れる記述 もみられる。. 私はチャイナ・キャプテンの弟にケレモン一著と鮭二尾を、そして同じ品を彼自身 にも、そして、セイヤー君、ニールソン君、オスターウィック君、ロウ君、トット. 75. 村上直次郎訳『イエズス会日本年報』(上)(雄松堂、1969)111~112頁。 前掲、210頁。 77 春山行夫『紅茶の文化史』(平凡社、1992)10頁。アラン・マクファーレン、アイリス・マクファーレ ン『茶の帝国』(知泉書館、2007)76頁。 78 春山行夫『紅茶の文化史』(平凡社、1992)41頁。 76. 32.
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