(一)植民地統治の目的
フィリピンは1521 年マゼランにより発見された。1565 年レガスピー探検隊はセブ 島にスペイン最初の植民地を設置することに成功した。1571 年レガスピーは自らスペ イン兵及びピサヤ兵を率いてマニラに侵攻、マニラ市を創設、首都とした。111
フィリピンを植民地にしたスペインの初期の目的は、香料諸島のような新しい富を 見つけだし、中国人にキリスト教を布教するための布石を置くことであった。しかし、
フィリピンには輸出向けの香料はなく、中国人をキリスト教に改宗させるに至っては ますます不可能であった。もう一つの理由は、フィリピンが中国との貿易に必要な天 然の良港になると考えられたからであった。広大で魅力的な中国市場が存在したため、
中国のジャンク船(木帆船)が貿易品を運搬することの便宜上から、マニラは中国と スペイン植民地の新世界(アメリカ大陸)との中継基地となった。初期には、大量の 中国製絹織物がマニラで積み替えられてメキシコに運ばれた。そのためスペインの絹 商人はマドリッドの政府にガレオン貿易の価格と積載量を厳しく制限するように求 めたほどであった。約250 年間続いたガレオン貿易は、植民地を機能させるために十 分な利益を生んだが、フィリピンの発展に貢献しなかった。なぜなら植民地はそれに 全面的に依存し、ガレオン船112は利用できるすべての資本を吸い上げたからである。
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また、スペインは農業には興味を示さず、フィリピン農業に対する貢献は少なかっ たと言われる。しかしスペイン統治初期、あらゆる困難に耐え、未開の地に踏み入り、
布教に努めた神父達は、一面農業技師であり、農業土木技術者であった。彼らにより もたらされた物は、甘蔗(サトウキビ)・玉蜀黍(トウモロコシ)・コーヒーや各種果樹等の重要 作物や、牛・ロバ等の畜産物等今日のフィリピン産物の基礎となる物であった。114
111杉本幹夫(2005)『データから見た 日本統治下の台湾、朝鮮プラスフィリピン』
龍溪書舎、p.26
11216-17 世紀にかけて西欧で発達した大型帆船。3-4 本のマストと、高い船尾甲板 をもち、大洋航海にすぐれている。軍船・貿易船に用いられた。ガレオン船。
『デジタル大辞泉』小学館、「ガレオン」
113デイビット・J.スタインバーグ著、堀芳枝、石井正子、辰巳頼子訳(2000)
『フィリピンの歴史・文化・社会――単一にして多様な国家』明石書店、pp.103-105
114同上掲注、杉本幹夫(2005)、p.57
(二)植民地統治の構図
制度上では、フィリピン総督は、東南アジアのなかでも最も力のある支配者であっ た。彼は最高指揮官であり、国王の代理人であり、ローマカトリック教会の保護者で もあった。しかし、実際にはフィリピンとスペインの連絡はメキシコを経由していた ので、総督は時間的にも空間的にも本国から隔絶されていた。威厳に満ち、民事・軍 事・教会の三権を有していたにもかかわらず、総督の実質的権限は限られていた。115 その理由は第一に、総督の任期が、王の意向によって左右された。総督は、王の後 援者のような地位にあった。従って、王は職務に忠実な人よりも、友人や支持者を恣 意的に任命した。あまり行き過ぎない程度であれば、私腹を肥やすための地位でもあ った。第二に、地方の末端官吏に至るまでもが財産を築くことを目的にフィリピン諸 島にやってきていたため、マニラからの勅名に注意を払う者は少なかった。特に地方 の州知事は、ほぼ自治的な領地を築いていた。第三に、スペインの主な関心はガレオ ン貿易に注がれていた。マニラはまるで寄生虫のようであった。つまり、必要な物は 内部から取出していたが、基本的にフィリピン諸島自体を発展させることには何の関 心もなかった。そして当時スペインまたはマニラで決定された政策を翻訳し、伝達し たのは修道士であった。マニラの少数外国人と農民大衆を実際につないでいたのは教 会であり、総督は統治に関して最終的に修道士に依存せざるを得なかった。修道士を 介さずにはフィリピンを統治することができない状態であった。116
先スペイン時代には土着の社会階層があり、フィリピンに点在していた小さな首長 は、〈ダトゥ〉として知られる階層を形成していた。スペイン人はこれらの世襲制の 首長を村長とし、彼らの政治的地位を保持すると同時に、その特権を拡大し、彼らの 忠誠を取り込もうとした。村長は、長老または有力な家系(貴族)から選び出された。
そして、現地の首長を通じた間接統治によって、スペイン人はその勢力をフィリピン 全体に広げていった。117
村長や町長を務めるようになった世襲エリートである有力な家系は、階層に由来す る伝統的な権力を使って土地を基盤とする経済力を入手し、地主となり、その後長年 にわたり多くの富を蓄えた。19 世紀にはメスティーソ(混血)と地主が婚姻関係を持 った。その結果、メスティーソは土着化して勢力を広げ、現地の貴族には新しい血筋・
思想・価値観が導入された。そして、その子孫はマニラや外国で高等教育を受けて成
115同上掲注、デイビッド・J.スタインバーグ著、堀芳枝等訳(2000)、p.105-106
116同上掲注、デイビッド・J.スタインバーグ著、堀芳枝等訳(2000)、pp.106-107・142
117同上掲注、デイビッド・J.スタインバーグ著、堀芳枝等訳(2000)、p.91
長した。この階級は「イルストラド(啓蒙された人)」と呼ばれた。また彼らは、国 家の思想形成に大きな影響を与え、彼らの考え方は保守的であった。118
(三)修道会の布教方法
スペインは自らをローマカトリック教会の世俗的な兵士であるとみなしていた。当 時スペイン帝国はヨーロッパからラテンアメリカ経由で世界を半周し、フィリピンに までその勢力を拡大していった。数え切れない人々がスペイン支配下に置かれていた。
そして、ローマカトリック教に改宗することが社会経済的にスペイン帝国の一員にな る条件でとされていた。黒人を除いてすべてのスペイン帝国の人々は聖体を授かり、
救済されると信じられていた。フィリピンはスペイン布教の恰好の地となった。その 結果、現在ではアジアで最大のローマカトリック社会となり、世界でも屈指のカトリ ック教国でもある。119
また、1580 年代のマニラ司教会議で、アウグスティノ会・ドミニコ会・イエズス会・
その他いくつかの修道会がフィリピンを分割して布教すること、スペイン語ではなく 地方語によって改宗させることが決定された。そのため、大多数のフィリピン人はス ペイン語をほとんど習ったことがなく、修道士から教育や宗教についての知識を地方 語で得た。よってラテンアメリカのほとんどの地域とは対照的に、スペイン支配が終 わる1898(明治三一)年、フィリピン人のなかでスペイン語を話すことができたのは ごく少数であった。120
スペイン統治時代の原住民統治に関する変遷をまとめると、下記の[図 1-7]のよ うになる。また、原住民に対する布教が地方語であったため、スペイン語を理解しな い原住民の統治に対し、修道会のスペイン植民地当局への影響力も大きなものであっ たことが窺える。
118同上掲注、デイビッド・J.スタインバーグ著、堀芳枝等訳(2000)、pp.91-93
119同上掲注、デイビッド・J.スタインバーグ著、堀芳枝等訳(2000)、p.85
120同上掲注、デイビッド・J.スタインバーグ著、堀芳枝等訳(2000)、p.141
図1-7 スペイン直民地当局の間接統治の変遷
121Emilio Aguinaldo (1869-1964)。フィリピン独立運動の指導者。スペイン支配に抵抗し、1899 年、共和 国大統領となる。植民地化をめざすアメリカと対立して失敗。1901 年、政界から引退。小学館『デ ジタル大辞泉』「アギナルド」