• 沒有找到結果。

二、第一次世界大戦から世界恐慌

(一)第一次世界大戦

日露戦争後十年をへて、大正三(1914)年 7 月から大正七(1918)年 11 月にかけ、

日本にとって犠牲は少なく利益の非常に多かった第一次世界大戦が起こった。そして この戦争は四年三ヶ月にわたる長期にして大規模な、いわば外の戦争であった。当初 は日本の政府も民間経済界も見通しがはっきりとつかず、非常にショックを受けて、

むしろ沈滞の状況であった。しかし、やがて外から海外市場が自然に、しかも膨大に 開けてきたわけであって、日本企業界はまったく未曾有の勃興時代を迎えた。第一次 世界大戦中および後の六年間は、日本資本主義は未曾有の好況時代であった。この時 代は日本国民をして夢見るように浮かれさせ、有頂天にならしめたほどの大好況時代 であった。149

第一次世界大戦とともに、物価騰貴が起こるなかで、米価は、大正三(1914)年以 来の連続豊作で、大正六(1917)年春頃までは、大戦開始前の水準(1 石 20 円前後)

を下回っていたが、その後上昇が目立ちはじめた。大正七(1918)年 7 月に 1 石 30 円台になった米価は、シベリア出兵が宣言された同年 8 月には 39 円以上に暴騰した

(深川正米相場)。同年7 月 23 日の富山県魚津町の漁民妻女の米穀の県外船積み中止 要求にはじまる米騒動が、同年8 月中旬をピークに、全国的に発生した。米騒動の結 果、寺内内閣が倒れ、大正七(1918)年 9 月に原啓政友会内閣が成立し、大正デモク ラシーと呼ばれる時代が開かれた。150

(二)1920 年代

大正九(1920)年頃の産業別人口構成を見ると、資本主義諸国のなかで、日本は際 立って第一次産業就業者の比率が高い。日本は農業国的な色彩を強く残しながら、帝 国主義列強の仲間入りをした。151

148同上掲注、土屋喬雄(1968)、pp.177-178

149同上掲注、土屋喬雄(1968)、pp.180-181

150同上掲注、三和良一(2008)、pp.93-94

151産業別人口構成の国際比較(1920 年)より

第一次産業、日本:55%、アメリカ:27%、イギリス:7%、ドイツ:30%、

フランス:29%

同上掲注、三和良一(2008)、pp.97-98

三和良一(2008)は、日本人の消費生活について、幕末開港以来西欧文明の影響を 受けて、変化し始めた。しかし、明治期には、上流階層など一部をのぞくと、庶民レ ベルでは、消費量の増加はあったものの、なお江戸時代からの伝統的な衣食住パター ンが持続していたように思われる。この消費習慣が変容し始めたのが、1920 年代(大 正九~昭和四年)ではなかろうか。衣生活では洋服、食生活ではパン・洋菓子(キャ ラメル・チョコレート・ビスケットの類)・ハム・ソーセージ・コーヒー・洋食(コ ロッケ・豚カツ・カレーライスの類)、住生活では立ち働き向き台所(伝統的な日本 の台所は座って働く様式)・郊外文化住宅(畳敷き和室のほかに板の間の洋室を持つ 住宅)・コンクリート集合住宅などが、都市庶民層に受容され始めたのである。1920 年代から日本において、西洋化の方向での消費習慣の変化を伴いながら、大衆消費社 会への胎動がはじまり、日本経済は、第一次大戦を画期に、一段高い水準の経済規模 に移行した、と指摘している。152

1920 年代、熟練労働者を企業内で育成し保持するために、養成工制度、年功序列型 賃金体系も、大企業で採用されるようになり、産業間・企業間労働力移動の部分制約 や大企業・中小企業間の賃金格差など、労働力市場の「二重構造」も発生するにいた った。153

1920 年代、日本でも階級間の融和政策が展開されはじめ、大正十四(1925)年の普 通選挙法154の制定も、労働者・農民に体制内における政治参加を承認し、社会体制の 安定度を高める措置であった。155

大正十(1921)年には、政府が米穀の売買・貯蔵を行って供給を調整し、米価を安 定させる措置を規定した米価法が制定された。また、大正十五(1926)年には、自作 農創設維持補助規則が公布され、小規模ながら、小作地の自作地化促進政策が開始さ れた。このように1920 年代の経済政策には、20 世紀資本主義的な新しい特徴が現れ たと、三和良一(2008)は指摘する。156

152同上掲注、三和良一(2008)、pp.101-102

153同上掲注、三和良一(2008)、p.106

154法律四七号「衆議院議員選挙法改正」第二章、第五条「帝国臣民タル男子ニシ テ年齢二十五年以上ノ者ハ選挙權ヲ有ス、帝国臣民タル男子ニシテ年齢三十年 以上ノ者ハ被選挙權ヲ有ス」

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03021545200《内閣》<御署名原本・大正 十四年・法律第四七号・衆議員議員選挙法改正> (国立公文書館)

http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M200609041853 1369432

155同上掲注、三和良一(2008)、p.110

156同上掲注、三和良一(2008)、p.110

(三)世界恐慌

昭和四(1929)年 10 月 24 日(暗黒の木曜日と呼ばれた)のニューヨーク株式市場 の暴落は、アメリカ恐慌の口火となり、1920 年代の再建金本位制を支えたドルの崩壊 は、世界恐慌を発生させた。157

日本における恐慌は、昭和五(1930)年 3 月の株価崩落以降、恐慌相場となり、商 品市場もこれに続いた。輸出(価格)は、昭和七(1932)年まで現象を続け、個人消 費をはじめとする国内市場も大きく縮小した。民間工場労働者数は、昭和六(1931)

年には、昭和四(1929)年より 18%も減少し、労働者の実収賃金も低下した。158 農村の恐慌はより厳しかった。昭和五(1930)年度の農村の収入はすべての農産物 が急に下落したために一六億円以上も減少したといわれる。農民の収入減があったの に、農民が購入する商品の価格の低落と農産物価格の低落との間には開きがあった。

農村需要工産品の下落率は四年平均に対し27.5%、農産物のそれは 47.2%で、その開 きは 19.7%であった。また、農民の公租公課は商工業者のそれに比べて何倍か重い、

副業の労賃は激落し、昭和五(1930)年度に百数十万といたわれた失業者は帰農して 農村の過剰人口はいっそう増え、そのため農村恐慌は実に深刻極まるものがあった。

商工業界は、昭和六(1931)年 9 月に起こった満州事変、同年 12 月行われた金輸出 再禁止のため、昭和七(1932)年から活況を呈しはじめたが、農村恐慌は、昭和十二

(1937)年日華事変勃発まで続いた。159

世界恐慌局面を国際的に比較すると、日本の場合は、物価下落が急激であり、また 大幅であるのに、鉱工業生産の縮小は小さいという特徴が見出せる。これは日本の産 業が、製品単価下落を販売量増加でカバーしようとする傾向(輸出の場合は、飢餓輸 出・ダンピング輸出)を持ったこと、そして、製品単価下落を生産費の引下げ(原材 料価格・労賃価格の引下げ、生産性の上昇)である程度カバーできたことを示してい る。160

日本経済は、ほぼ昭和六(1931)年を恐慌の底として、1932 年以降、景気は回復に 向かい、1933 年上期には、製造業利潤率が 1929 年上期の水準にまで回復した。161

157同上掲注、三和良一(2008)、p.119

158同上掲注、三和良一(2008)、p.120

159同上掲注、土屋喬雄(1968)、pp.193-194

160同上掲注、三和良一(2008)、p.121

161同上掲注、三和良一(2008)、p.132